・「神の慈しみ、愛に私たちは信頼を置いている」菊地大司教の年間第20主日メッセージ

2023年8月19日 (土) 週刊大司教第138回:年間第20主日A

2023_05_20

 8月も半ばを過ぎました。今年は荒々しい天候の夏になり、全国的に台風などの影響を大きく受けている地域があります。被害を受けられた多くの皆様に、お見舞い申し上げます。特にこの炎天下で復旧作業にあたられる方々の健康が守られますように、お祈りいたします。

 新潟教区の秋田も洪水の被害を受け、新潟教区の数少ないカトリック学校である秋田市の聖霊高校もあふれた水による被害を大きく受けられました。同じく秋田市郊外にある聖体奉仕会近くでも土砂崩れが発生した、と聞いています。

 9月15日は「秋田聖母の日」で(参加は予約が必要です)、私も巡礼団と一緒に聖体奉仕会を訪れる予定です。今回の災害で、開催も危ぶまれましたが、無事に開催できる見込みです。カトリック新潟教区のホームページには、最新の情報やボランティアの受け付けなどが掲載されていますので、一度ご覧ください⇒秋田豪雨被害と救援活動の状況について(第5報) | カトリック新潟教区 (catholic-niigata.net)

 以下、19日午後6時配信の週刊大司教第138回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

【年間第20主日A   2023年8月20日】

  マタイ福音は、イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時に、カナンの女性が娘の病を癒やしてくれるように求めた話を記しています。

 確かに「イエスの福音はすべての人に告げ知らされなくてはならない」ということを私たちは知っていますが、受難と復活の出来事の前、すなわち旧約の枠組みの中にあっては、救いは選ばれた民にのみ向けられていることは常識でした。

 イエスは、その常識の枠組みを徐々に打ち破られながら、ご自分の受難と復活の後には新しい契約の枠組みの中で、選ばれた一部の民ではなく、すべての人に救いを述べ伝えるように、と弟子たちを導いて行かれます。

 今日の福音には、そのイエスの弟子たちに対する注意深い導きが記されています。すなわち主御自身はどこを見ているのか、その眼差しの向けられる先を教えようとされるイエスの姿です。

 当時の常識の枠を無視しながら、「主よ、私を憐れんでください」と叫び続けるカナンの女性に対し、弟子たちは、「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ますので」とイエスに進言します。

 つまり、常識では対処できない課題に真摯に取り組むのは面倒なので、「厄介払いに、病気でも治してやったらどうでしょう」という進言です。しかし、イエスはその進言に耳を貸しません。イエスが望まれる神の慈しみの業は、厄介払いのために渋々するようなものではないからに他なりません。

 イエスは、まるで挑発するように、「子供たちのパンを取り上げて子犬にやってはいけない」と女性に告げています。そして女性の心の奥が明示される答えを待っていたのでしょう。彼女のイエスに対する信仰は、表面的な病気の癒やしを求めることではなく、もっと深い、心の底からの救い主に対する信頼に基づいた信仰であることを、彼女は、その謙遜さに満ちあふれた答えで証明して見せました。

 イエスが「あなたの信仰は立派だ」とまで認めたその信仰は、どんな困難の中でも、諦めることなく、イエスに対する信頼を深め続ける、神の前での謙遜なその態度に表されていました。

 私たちも、日々の生活の中で様々な困難に直面し、また社会に満ちあふれた暴力や不正義に翻弄され、「主よ、私たちを憐れんでください」と、祈りのうちに声を上げ続けています。時に、状況は全く好転せず、くじけてしまいそうになります。でも、神の力に、その慈しみに、その愛に、私たちは信頼を置きました。その信頼を失うことなく、すべてを治められる御父の前にたたずみ、謙遜にその計らいに身を委ね続けて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年8月19日