キリストの聖体の主日です。
昔ガーナにいた頃は、キリストの聖体の主日には、聖体行列をして村の中を回りました。村の方の半分ほどが信徒だからこそ意味がありました。村の四カ所にステーションを設け、祈りを捧げ、その地域にご聖体を持って祝福をして回りました。もちろん聖歌隊と多くの方が、一緒に行列を作って回りました。
ご聖体における主の現存を確信し、その愛と慈しみに感謝するとともに、一つの体へと集められた一致の秘跡の絆のうちに、互いに信仰者が結ばれていることを確認し、確信するためにも、そういった村での聖体行列には大きな意味がありました。
私たちも、ご聖体のうちに現存される主が、教会共同体とともに歩んでくださることを、この日、再確認したいと思います。
以下、本日午後6時配信の週刊大司教第128回、キリストの聖体のメッセージ原稿です。
【キリストの聖体の主日A 2023年6月11日】
ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえと共に自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11項)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、私たちと共に常におられます。
ご聖体の秘跡は、「私と主との交わり」という意味で極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。私たちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。
ですからたとえ司祭がひとりでミサを捧げたとしても、それは司祭の個人的信心のためではなく、共同体の交わりのうちにあって、司祭はミサを捧げます。
教皇ヨハネパウロ二世の「教会に命を与える聖体」には、次のように記されています。
「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31項)
パウロはコリントの教会への手紙で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。
私たちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。
私たちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、命を分かち合い、愛を共有するという「交わり」の中で、生きている信仰です。
ご聖体をいただく私たちは、一つのキリストの体に与り、キリストの体をともに形作るものとして、キリストにおける一致を証しするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、共にいてくださることをたたえるのみならず、ご聖体をいただく私たちが交わりのうちに一致していることを積極的に証しする決意を新たにする時でもあります。
(菊地功=きくち・いさお=日本カトリック司教協議会会長、東京大司教)
(編集「カトリック・あい」)