・(読者投稿)新しいミサの式次第の祈りの言葉に思う

 日本のカトリック教会では、新しい年の始まりである待降節第1主日(11月27日)から、新しい式次第によるミサが始まった。

 2021年10月に中央協議会から発行された冊子『新しい「ミサ式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』を読むと、ローマ規範版第3版に基づく今回の日本語版ミサ典礼書の改訂作業は、20年越しの作業であったようだ。

 多くは、翻訳上の言葉の見直しであるが、典礼なればこそ、使う言葉の重要性は計り知れない。そんな中で、単に言葉づかいではなく、内容に関わる極めて重大な変更があった。それは、聖体拝領の直前、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」という司祭の言葉に続いて、司祭が会衆とともに唱える言葉である。これは、日本では従来から「拝領前の信仰告白」と呼ばれている。

 これまでは、日本のための適応として日本固有の式文「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」が使われていた。今回の改訂で、ローマ規範版にある「主よ、わたしはあなたを迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」が導入され、従来の式文とどちらかを選択することとなった。

 ローマ規範版は世界標準であり、こちらを歓迎する向きもあろうが、よく見るとこの二つは内容的にまるで異なっていて、「どちらでもよい」と言えるようなものではない。主日、祭日のミサでは言葉の典礼の終わりに信仰宣言があり、信条を唱える。したがって、聖体拝領直前のこの信仰告白は、まさに、これから拝領しようとする聖体に対する、信仰を表明するものだ。

 このことを念頭に置いて、キリスト信者として、イエス・キリストご自身を前にどのような言葉で信仰を告白するのがふさわしいか、熟慮したうえで式文を選択すべきであろう。私は、「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」という名のブログサイトを開設しているが、先日寄稿された記事は、このテーマを取り扱っている。趣旨はおおむね以下のとおりである。

 ローマ規範版の式文は、子(僕)の病気の癒しをイエスに願った百人隊長の言葉から取られている。それは、イエスが「私が行って癒してあげよう」と自ら申し出たにもかかわらず、それを謙遜ゆえに断った言葉である。百人隊長のこの謙遜な態度から、彼が、「人の真の親である神を知らなかった」ことが分かる。

 人の思いのすべてを知っていたイエスは、謙遜であるがゆえにイエスの申し出を断わる言葉を聞いて、彼にはこの場面にふさわしい信仰がある、とみなした。しかしこの百人隊長の言葉は、神を「天の父」と呼ぶキリスト信者にはふさわしくない。イエスが、最期の夕食の席で、跪いて弟子たちの足を洗い、神の謙遜の極みを見せて教えたからである。

 ここでペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ福音書13章8節)と答えた。神の謙遜を前にしての人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになる。実際に百人隊長の謙遜は、彼の子(僕)や家族がイエスに出会う機会を奪うことになった。

 さらに、ご聖体を拝領することを望んでいるにもかかわらず、百人隊長の謙遜に倣って、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えるなら、そこには自ずと矛盾が生じる。

 ある時イエスは、弟子たちに尋ねた。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)。これに続けたイエスの言葉は、御父を敬う御子の喜びで満ちている。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(同17節)。

 天の父が現し、イエスによって幸いとされたペトロのこの言葉は、神の小羊の食卓に招かれた幸いな人が唱える真実の言葉になる(ヨハネの黙示録19章9節参照)。これこそが、ご聖体を前にして信者が唱える言葉だ。

 以上が記事の内容である。この記事は、今回の典礼式文変更を直接取り扱っているわけではないので、私たちがこれまで唱えてきた日本固有の式文そのものには言及していないが、その前半部分、すなわち、マタイ福音書の16章から取られた「主よ、あなたは神の子キリスト」について、それが、キリストのからだを拝領するカトリック信者にとって、必須の信仰告白であることを明確に説明している。

 一方、日本固有式文の後半「永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」は、ヨハネ6章68節のペトロの信仰告白から取られている。それは、「わたしは天から降って来たパンである」、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と語るイエスの話しを聞いて、弟子たちの多くが離れ去り、使徒たちだけが残った時、「あなたがたも離れて行きたいか」と問うイエスにペトロが答えたものである。これこそキリスト者が彼に倣って答えるべき言葉ではないだろうか。

 こうしてみると、日本固有の式文が、聖体に対する信仰を告白するのに、いかにふさわしく作られているかが良くわかる。聖体拝領前に司式者と会衆がともに唱えるこの式文は、ヨーロッパをはじめ日本以外の諸外国においては、伝統的に百人隊長の言葉から取った式文を使ってきた。

 これに対して、ペトロの信仰告白から取られた独自の式文を使ってきた日本が、今回の見直しによって、あらためてこの問題を考える機会を得たのは、特別な恵みであり、また、だからこそ、そのような機会を持ってこなかった他の国々に対して、明確な答えを提示する責任がある、とも言えるのではないだろうか。

 米国の著名な世論調査機関であるPEWリサーチセンターが2019年に米国のカトリック信者を対象に意識調査を行った結果は、当時の米国カトリック界を震撼させた。カトリック信者のほぼ7割が、「聖体がイエス・キリストの体と血であることを信じていない」という結果だったからだ。

 しかしよく考えてみると、カテキズムでは教わっていたにしても、毎回のミサで、これから拝領する方は誰なのか信仰告白したことが一度もないとしたら、このような結果になったとしても驚くに当たらない。

 日本が今後このようなことにならないように、式文を選択する教導職の責任は極めて重い。

(横浜教区のある信徒)

2022年12月30日

・「私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください」菊地大司教、日本聖書協会のクリスマス礼拝で

(菊地功・大司教の日記より)

2022年12月14日 (水)日本聖書協会クリスマス礼拝@銀座教会

Photo_20221214153901   一般財団法人日本聖書協会(JBS)は、聖書協会世界連盟(UBS)に所属している140を超える聖書普及のための団体の一つで、「聖書翻訳、出版、頒布、支援を主な活動として全世界の聖書普及に努めて」ている組織で(ホームページから)、基本的にはプロテスタント諸教派が中心になって運営されています。

   もちろん聖書の普及は福音宣教に欠かせない重要な役割であり、カトリック教会の体力がある国では、カトリック教会としても聖書の翻訳や普及活動に携わっていますが、日本を含めた宣教地では、カトリック教会も聖書協会の活動に協力しながら、一緒になって聖書の普及に努めてきました。

  特に、現在カトリックの典礼などを活用させていただいている新共同訳の事業を通じて、現在の聖書協会共同訳に至るまで、その関りは深くなっています。

Photo_20221214154001  昔、私自身もガーナで働いていたときに、首都アクラにあるガーナ聖書協会に、しばしば聖書の買い付けに出掛けたことを懐かしく思い出します。

 私が働いていた部族の言葉そのものの翻訳はありませんでしたが、それと同じ系統の言葉での翻訳が新約聖書にあり、それを大量に買っては、訪れる村で信徒の方に配布していました。(なお旧約は、英語の聖書から、その場でカテキスタが翻訳してました)

 そういった協力関係もあり、日本聖書協会の理事会には司教団から代表が一人理事として加わっていますが、ありがたいことに司教団の代表の理事は、聖書協会の副理事長を任ぜられています。現在は私が司教団を代表して理事として加わり、副理事長を拝命しています。

 そのような関係から、先日、12月8日の午後、聖書協会の主催になるクリスマス礼拝で、はじめて説教をさせていただきました。礼拝は数寄屋橋の近くにある日本基督教団銀座教会。ここは有楽町の駅の近くの表通りに面したビルの中にあり、正面に立派なパイプオルガンがある教会です。

 感染対策のため、入場制限がありましたが、多くの方が集まってくださり、その中にはカトリックの方も多くお見えでした。

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 以下、当日の説教の原稿です。

 

日本聖書協会クリスマス礼拝 銀座教会 2022年12月8日15時 
「光は暗闇に輝いているのか」 ルカ福音2章8節から12節

世界はあたかも暴力に支配されているかのようであります。この数年、私たちはただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面し続けています。この状況から抜け出すためにありとあらゆる努力が必要なときに、あろうことか、神からの賜物である人間のいのちに暴力的に襲いかかる理不尽な事件が続発しています。

例えば2021年2月に発生したクーデター後、ミャンマーでは政治的に不安定な状況が継続し、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、義のために声を上げる宗教者への暴力も頻発しています。2022年2月末には、大国であるロシアによるウクライナ侵攻が発生し、いまに至るまで平和的解決は実現せず、戦争に翻弄されいのちの危機に多くの人が直面しています。

この状況の中で、戦いに巻き込まれたり、兵士として戦場に駆り出されたりして、いのちの危機に直面する多くの人たち。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われている多くの人たち。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける人たち。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得る事すら難しい状況に置かれ、困窮している多くの人たち。世界中の様々な現実の中で、今、危機に直面している多くの命に思いを馳せたいと思います。尊い命はなぜこうも、力ある者たちによって弄ばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにする時、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、それに対する明確な答えを見出すことができずにいます。同時に、苦しみの暗闇のただ中に取り残され彷徨っているからこそ、希望の光を必要としています。その光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。

2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神の命の希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さな命は希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。

この2年半の間、様々な命の危機に直面する中で、カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、互いに連帯することの重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日、感染症対策のため一時中断していたバチカンにおける一般謁見を再開した日には、集まった人たちにこう話されています。

「このパンデミックは、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。私 たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。私たち人間の限界です。

調和を求めるがあまりに、皆が同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。「様々な人がいて当然だから」と多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、今、私たちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。暴力が世界を支配するかのような現実を目の当たりにし、多くの命が直面する悲劇を耳にするとき、暴力を止めるためには暴力を使うことを肯定してしまうような気持ちへと引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり、神の否定です。私たちは命を生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、命の創造主である神への挑戦です。

ローマ教皇就任直後の2013年7月に、地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島を訪れ、アフリカから流れ着いた難民たちとともにミサを捧げたとき、教皇は次のように説教で語りました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、「自分の安心や反映ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄に溺れているだけであり、その他者に対する無関心が、多くの命を奪っている」と指摘し続けてきました。

2019年11月に日本を訪れた時には、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で『復興』できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べて、連帯こそが希望と展望を生み出す、と強調されました。

私は、1995年に初めてルワンダ難民キャンプに出掛けて以来、昨年まで、カトリック教会の海外援助人道支援団体であるカリタスに、様々な立場で関わってきました。その中で、一つの出会いを忘れることができません。

2009年に、カリタスジャパンが支援をしていたバングラデシュに出掛けました。土地を持たない先住民族の子どもたちへの教育支援を行っていました。その支援先の一つであるラシャヒと言う町で、息子さんが教育支援を受けて高校に通っている家族を訪ねました。不安定な先住民族の立場でありとあらゆる困難に直面しながらも、その家族のお父さんは、私が見たこともないような笑顔で、息子さんの将来への明るい希望を語ってくれました。

その飛び抜けて明るい笑顔に接しながら、95年にルワンダ難民キャンプで、「自分たちは世界から忘れ去られた」と訴えてきた難民のリーダーの悲しい表情を思い出していました。

人が生きる希望は、「自分に心をかけてくれる人がいる」という確信から、「支えてくれる人がいる」という確信から湧き上がってくるのだ、と言うことを、その出会いから学びました。

「命」の危機に直面する人たちに関心を寄せ、寄り添い、歩みを共にするとき、そこに初めて希望が生まれます。衣食住が整うことは不可欠ですが、それに加えて、生きる希望が生み出されることが不可欠です。衣食住は第三者が外から提供できるものですが、希望は他の人が外から提供できるものではありません。希望は、それを必要とする人の心から生み出されるものであり、そのためには人と人との交わりが不可欠です。

まさしくこの数年間、感染症による先の見えない暗闇がもたらす不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。この現実の中では、「調和、多様性、連帯」は意味を失い、命が危機にさらされ続けています。

この世界に必要なのは、「互いの違いを受け入れ、支え合い、励まし合い、連帯して共に歩むこと」です。そのために、神の愛を身に受けている私たちは、他者のために自らの利益を後回しにしてでさえ、受けた神の愛を、多くの人たちと分かちあう生き方が必要です。人と人との交わりを通じて、支え合いを通じて、初めて命を生きる希望が心に生み出され、その希望が未来に向けての展望につながります。

暗闇の中に誕生した幼子こそは、神の言葉の受肉であり、神の愛と慈しみそのものであります。そのあふれんばかりの愛を、自らの言葉と行いで、すべての人のために分かち合おうとする神ご自身です。私たちはその神ご自身の出向いていく愛の行動力に倣いたいと思います。

命の尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、命を賜物として与えられた、私たちの使命です。

今、この国で宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて、自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は、尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(「カトリック教会のカテキズム」要約373項参照)。

宗教は、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、命を奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、命の希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

私たちはどうでしょう。キリストは命を生かす希望の光であり、私たちはそもそもこの命を、互いに助け合うものとなるように、と与えられています。私たちはすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、命を生かす希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

神の言葉である御子イエスが誕生した時、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。天使は、あまりの出来事に恐れをなす羊飼いたちに、この輝く光こそが、暗闇から抜け出すための希望の光であると告げています。

私たち、イエスをキリストと信じるものは、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたい、と思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、命を生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたい、と思います。輝く光であることを、自らの言葉と行いをもって証しするものでありたい、と思います。

祈ります。命の与え主である天の父よ。暗闇の中で小さな希望の光を輝かせたイエスの誕生に思いを馳せなが、私たちが暗闇を歩む現代世界にあって、互いに支え合い、連帯し、歩みをともにすることで、あなたが与えてくださった賜物である命を、喜びと希望を持って生きることができますように。私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください。

 (ビデオは日本聖書協会のYoutube チャンネルに掲載されています)

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年12月17日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉒見せかけの”謙遜”では「良き知らせ」は伝わらない

 紅葉に囲まれた観光スポット、風情ある温泉宿で開催された高校の同窓会に久しぶりに出席した。私たちの学年は妙に仲良く、女子会も含め幹事役に恵まれている。(次回の、鎌倉での開催には私も借り出されそうだ。旗振りだけならOKである)。それぞれが自分の力量を知り、準備から当日の役目まで、できる人がスムーズにこなし、決して足を引っ張ったり、出しゃばる人はいない。

 今回は、82歳の恩師も出席され、教え子たちへの心温まる言葉から謙遜をも感じ、改めて良き指導者との再会に感謝した。そして「ご出席の皆様の仲良きこと、一仕事終えられた皆さんのくつろぎと、女性の皆様の活動的な御姿、さすが○高で自由闊達に学ばれました方々だ、と感服致しました」と後日の手紙に書かれていた。当時も今も、女性パワー全開の私たち世代である。

 宴もたけなわ、一人ひとりのスピーチで、天理教の熱心な信者が二人いた。一人は、家が代々、天理教の信者で、もう一人は長い間、天理市でそのための仕事に従事していた、という。二人共、高校時代から性格が穏やかで、今も嫌味のない良い笑顔である。

 以前、英会話の男の先生が、ユタ州出身のモルモン教徒だった。彼は当時、「日本人が持つ宗教は天理教」と思い込んでいた。私がカトリック信徒であることを知って、とても驚いていた。外国で想像される日本の国や人の様子は千差万別であり、それを聞く私たちも驚くことが多い。彼は大きな身体であったが、控えめで優しい人柄に温かい目が印象的だった。ただ、モルモン教は飲み物に制限が多く、ティータイムに困った記憶がある。

 中年のアメリカ人の女の先生は「古着を恵まれない人たちに送る」と言い、私も協力はしたが、実際にどこへ送ったのかは分からない。彼女には心からの笑顔はなく、いつも寂しそうな目をしていた。

 「イギリス英語を習いたい」と、イギリス人の若い先生にも教えてもらった。彼女は「英会話教師を辞めて、マザー・テレサのそばでボランティアをする」と言って、暫くして日本を離れた。とても活発でしっかりした女性だったが、いつも忙しそうで、笑顔でも、目は笑っていなかった。

 このような出会いで、どこの国の人であれ、何の宗教であれ、その人の「一瞬の笑顔」から受ける印象は、私にとって貴重な思い出である。そして、考える。私の笑顔は、人にどんな印象を与えているのだろうか。それよりも、人に心からの笑顔で接しているだろうか。

 “目は口ほどに物を言う”との諺がある。人の目はその人の心の裡や本性をそのままに表す、ということだ。

箴言6章16-19

 主の憎むものが六つ

 心からいとうものが七つある。

 高ぶる目

 偽りを語る舌

 無実の人の血を流す手

 悪だくみを耕す心

 急いで悪に走る足

 虚偽を語る偽りの証人

 兄弟の間に争いを引き起こす者

 カトリック教会ではよく、”謙遜”が説かれる。しかし、説く人が、見せかけの”謙遜”の人であれば、心の目は高慢で、聞き手に「良き知らせ」は伝わらない。そして、自分を誤魔化すための笑顔から自分の功績を吹聴し、悦に入り、自分自身の”謙遜”の深さを神妙に説く。自分が認められたい一心での言葉選びと所作は、本人を知る聞き手にとっては、終始、滑稽でしかない。まさしく”謙遜”に見せかける「高慢」である。

 よく教会では、「人を見てはいけない」と言われる。「カトリック教会の中心はイエスであり、ミサである」と。しかし、なぜ今、教会のミサに与る日本人が減っているのか。コロナの影響だけではなさそうだ。

 先日の久しぶりの教区の集まりは、若者の居ない不自然な『敬老会』と言っても過言ではなかった。教会の未来にビジョンを持って活動されていた先輩信徒方の姿さえ無かった。「これが教区の守りたい姿なのか」と寂しくなった。

 「カトリック教会は、信徒が○○に関与してはならない。信徒は意見してもならず、カトリック教会はそれを聞かない。これがカトリック教会」と言い切った今のトップ集団の思い通りの教会の姿。この状態に疑問を持つ信徒との話し合いの場では、真摯な問いかけに、「そう言ったかもしれないが忘れた」と、どこかの政治家のような発言。

 私たち女性に対する最大のパワハラは、カトリック教会だから、ということで許されるのか。「どうしてあなたは聖職者になろうとしたのですか?」との問いに「〇〇さんも、なったらいいでしょう。あっ、女は聖職者になれなかったね」と人を不快にさせる無神経な言葉しか返ってこなかった。

 私は決して聖職者になりたいとは思っていない。思ったこともない。私の質問の意味さえこの人は、分からないのだろうか。いや、初めから用意していた言葉なのか。女性蔑視と受け取れる彼の返答で女性たちの思いは一つになったー「少なくとも、この教区では、”シノドスの道”に希望はない」と。そして、何よりも、このような某聖職者の振る舞いを通して、「カトリックの聖職者には簡単になれる」ことを証明してしまった司教の責任は重い。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年12月5日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉒神の御子が与えられ

聖霊であり(1章35節)、イエスが洗礼のときに受けた聖霊にほかなりません(3章21-22

 待降節を迎えました。教会の暦では、新しい年の始まりですが、世間では年の瀬を迎えて慌ただしい時節かと思います。十二月は師走とも言われ、文字どおり、お坊さんも走るほど忙しい頃。そのような中で、私たちは、主の降誕を迎えます。

 「私は光として世に来た」(ヨハネによる福音書12章46節)と語られます。しかし、人々は、この光の輝きも、温かさも、理解することができませんでした(同1章9-11節参照)。暦の上では、私たちは、ちょうど冬至を迎える季節です。それは、一年の中で最も夜の長い時。最も光に憧れる時かもしれません。そのような時にあって、私たちは、どのように主の降誕を迎えましょうか。

*待つということ

 ヨシュア記には、次のような言葉がありますー「あなたがたは身を清めなさい。主が明日、あなたがたの中で驚くべき業を行われるからだ」(3章5節)。主の降誕は、確かに、人間の理解を遥かに超えた出来事です。しかし同時にまた、私たちの信仰は、この出来事へと深く結ばれています。それゆえ、毎年、この神秘を思い起こすことによって、その信仰は受け継がれ深められます。

 ご存知のように、待降節(アドベント:到来)は、二つの意味で「待つ」ということがテーマとされます。一つは、この世への救い主の到来(キリストの誕生)を待つこと、もう一つは、そのキリストの再臨を待ち望むということです。

 しかし実は、もう一つの到来を考えることができます。それは、この二つの到来の間にあって、日々、主は私たちを訪れてくださるということです。なぜなら、主の名前は「インマヌエル」(マタイによる福音書1章23節)と呼ばれるからです。「インマヌエル」とは、「神は私たちと共におられる」ということ。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)ーこれは、主イエス・キリストの約束です。

 

*永遠なるもの

 御子の誕生は、有限な歴史の中に永遠が一つの形をとった出来事です。それは、他に類を見ない決定的な出来事です。それについて、パウロは、次のように語りますー「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)。

 「時が満ちる」とは、まさに、満を持して神の救いの営みが、まったく新たな段階に入ったということです。神の独り子が、一人の人間として私たちに与えられた。しかも、自分では何もすることのできない幼子として与えられました。これは、実に驚くべきことです。

 この幼子の先駆者として、一人の人が神から遣わされましたー洗礼者ヨハネ。彼について、ザカリアは、次のように謳い上げますー「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く」(ルカによる福音書1章76-79節)。

 彼がこのように喜びを吐露することができたのは、聖霊に満たされたからです(同1章67節)。この聖霊は、まさに、マリアの胎に降った聖霊であり(1章35節)、イエスが洗礼の時に受けた聖霊に、ほかなりません(3章21-22節)。

 冬至までひと日ひと日の日暮かな   草間時彦

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2022年12月2日

・Sr.阿部のバンコク通信 (72)仏教国タイもクリスマス!前国王の誕生日に続いて主のご降誕を…

 待降節に入り、4本のローソクが聖堂に用意されました。毎年工夫して飾られるすてきな雰囲気、主の降誕に心を備えさせてくれます

 タイ国は人口の94%が仏教徒。それも名ばかりではありませ。お寺参り、お布施、施し、善行、奉納、祈り…に励みます。見せびらかすわけではなく、平素、ちまたの私の身近かにその様な市民の姿があり、気持ちが和み嬉しく感じます。

 教会界隈もクリスマスが近づくと、にわかに聖歌の練習や馬小屋造り、と何ともいそいそした雰囲気。私も、主に喜ばれる善行に励み、祈りを捧げて、抜かりなくご降誕の準備をしたいです。

 ここ数年はコロナ禍で、残念ながら取りやめになっていますが、前もって申し込まれた家々に、神父様と青年、子供たち、信徒たちが連れだって、ギターを抱え、幼きイエス様を籠に入れて家庭訪問。聖歌と詩篇を歌い、お祈りを捧げるのです。最後に、神父様から、幼きイエス様の祝福をいただき、家人が用意しているご馳走を一緒に楽しむのです。大勢であるほど家人はうれしく、祝福に満たされます。

 玄関入り口は、靴やスリッパがいっぱい。私の子供の頃の、懐かしい我が家や教会を思い出します。

 12月5日はプーミポン前国王様の誕生日。街中がすてきに飾り付けられ夜は、見事なイルミネーションで賑わいます。亡くなられた後も愛する国王様を偲んで続けられています。

 そして、そのままクリスマスの飾り付けが加わり、仏教国が、キリスト教国に負けぬ盛大なムード… 主のご降誕がとにかく祝われるのですから、うれしいことで、全ての人々の心に救い主の恵の訪れるよう、切に祈ります。

 合掌する手に、心からの願いか込められ、思わず力が籠もるこの頃ですね。馬槽 ( うまぶね )にお生まれになった救い主、イエス様に祈ります。

 愛と赦し、希望と喜びの光を、この世界の隅々に人々の心に灯し給え。アーメン。

 愛読者の皆さま、良き主のご降誕祭をお迎えください。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2022年12月2日

・菊地大司教の日記・死者の月に合同追悼ミサ「懸命に生きたその報いが永遠の命に必ずつながる」

2022年11月 9日 (水)東京教区合同追悼ミサ@東京カテドラル

313203986_3326093184338324_5907348289016 11月は死者の月です。亡くなられた方々の永遠の安息のために、特に祈りを捧げる月であり、地上の教会と天上の教会の交わりを再確認するときでもあります。

 「カトリック教会のカテキズム」には、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

 「私たちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957項)」

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 また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

 「…死者のための私たちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者が私たちのために執り成すのを有効にすることができるのです(958項)」

 教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

 東京教区では、11月の最初の日曜日に、合同追悼ミサを捧げてきました。ミサはカテドラルと、府中墓地と、五日市霊園で捧げられています。この数年はコロナ禍のため中止せざるを得ませんでしたが,今年は三カ所でミサを捧げることが可能となりました。私は東京カテドラルで、11月6日(日)の午後2時から150名ほどの方々とミサを捧げ、先に亡くなられた兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りました。

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 以下、当日のミサの説教の原稿です。

【東京教区合同追悼ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年11月6日】

 イエスはキリストです。私たちはそう信じています。ですから私たちは、神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

 葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

 同時に私たちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。慈しみ深い神は、その深い愛をもって、すべての人を永遠の命のうちに生きるよう、招かれています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約には記されています(119項)。

 神がご自分が創造されたすべての命が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべての命を愛おしく思われる神は、その救いがすべての人に及ぶことを望まれています。

 イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠の命に招かれる救い主です。イエスをキリストと信じる私たちには、すべての人がその救いに与ることができるように、その愛と慈しみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命が与えられています。

 この数年、ただでさえ感染症の拡大の中で命の危機に直面しているのですが、賜物である人間の命を、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。クーデター後の不安定な状況に置かれているミャンマーや、戦争に翻弄され、命の危機に今も直面しているウクライナの人々。戦争に駆り出され、命の危機に直面するロシアの人々。尊い命がなぜこうも、権力者によってもてあそばれるのでしょうか。

 理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、私たちは、それに対する明確な答えが存在しないことも知っています。同時に、苦しみの暗闇にあって、希望の光を輝かせ、命を生きる希望を生み出すことに意味があることも知っています。

 この2年半の間、様々な命の危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日の一般謁見で、すでにこう話されています。

 「この新型コロナの世界的大感染は、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません」

 教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべての命がその尊厳を守られるように、と働きかけてこられましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

 2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。「一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 暗闇に輝く希望の光は、出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。互いに支え合い、助ける者となることの必要性を、教皇様は強調されてきました。しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しく進み、この歴史に残る困難の中で、暴力が命を危機にさらしています。

 今、私たちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

 私たちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、命を生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。

 私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。

 カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

 ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、今、生きている祈りであります。

 私たちの人生には時間という限りがあり、長寿になった、と言っても、それは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。

 人生には順調に進む時もあれば、困難のうちに苦しむ時もあります。喜びの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちの命が、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

 しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠の命一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」などと、あきらめてしまうことはありません。永遠の命の流れを見据えながら、私たちは常により良く生きるように努力を積み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠の命に必ずやつながっていくことを信じています。

 互いに支え合いましょう。連帯のうちにともに歩んで参りましょう。愛と慈しみのうちに、すべての人を永遠の命へと招いてくださる主の憐れみに信頼し、支え合って歩み続けましょう。すべての人との連帯のうちに、希望の光を輝かせましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月9日

・Sr.岡のマリアの風 (79)「待望」と「驚き」ー 教皇が2日「死者の日」のミサで語られたこと

 教皇フランシスコは2日の「死者の日」、今年帰天した枢機卿、司教たちを記念するミサ中の説教で、マタイ福音書の25章を取り上げ、二つのキーワード、「待望(attesa)」と「驚き(サプライズ)」を中心に話された。

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 一つ目のキーワード、「待望」、待ち望むこと。マタイ福音書25章は、私たちキリスト者が何を待ち望んでいるのかを思い起こし、「天(国)」への待望を、日々、培うよう招いている、と教皇は次のように語られる。

 「私たちは皆、いつか、『さあ、私の父に祝福された人たち…」(マタイ福音25章34節)というイエスの言葉を聞くことを待ち望んで生きている。
私たちは、天に入るため、預言者イザヤが語る「すべての民のための祝宴」(イザヤ書25章6節参照)にあずかるために、この世の待合室にいるのです。
主は私たちの心を温める言葉を語られます。私たち自身の最も大きな期待を成就なさるからです」。

 主は、「死を永久に呑み込んでくださる」、「すべての顔から涙をぬぐい その民の恥をすべての地から消し去ってくださる」(同8節)。

 

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 教皇は、「天」への期待、楽園への渇望を育てるよう招く一方、自身に問いかけるべきだ、と言われる。「私たちの願望は、『天』と関係しているだろうか」と。

 「私たちは、過ぎ去るものに絶えず憧れ、渇望と欲望(欲求)を混同し、神への待望よりも、この世のさまざまな期待を優先させる危険があるからです…
風を追いかけるために、大切なものを見失うことは、人生の最大の過ちです… 私たちは『上(天)』に向かう歩みの中にあるのですから、上を見つめましょう」

 

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 「下にあるもの」、地上に属するものは、上(天)には行かない。最高のキャリア、最大の成功、最も名誉ある肩書や称賛、蓄積された富、地上のもうけ、すべては一瞬のうちに消え去ります。そして、それらの中に託した期待は、永遠に裏切られるのです」

 

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 どのように「上にあるもの」「天」を待ち望むかは、福音書(マタイ25章31-46節)が教えていて、そこに二つ目のキーワード、「驚き(サプライズ)」がある、と教皇は言われる。「いったい、いつ(そんなことを私がしましたか)?」という驚き。

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 「いったい、いつ?」という問いかけ。そこに「サプライズ」がある。「神の法廷」における裁きの基準は、貧しい人、見捨てられた人に対するいつくしみであるから。

 イエスご自身、言われるように。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(同40節)。

 「いと高き方」が、最も小さい人々の中におられます。天に住んでおられる方が、世にとって最も取るに足りない人々の中に住んでおられます。何という驚き!けれど、裁きはこのように行われます。なぜなら、判決を下すのはイエスだからです。イエスは、へりくだる愛の神であり、貧しく生まれ、貧しく死に、しもべとして生きました。イエスの尺度は、私たちの尺度を超えた愛であり、イエスの裁きの基準は無償性にあります」

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 主が急に来られたとき、準備が出来ていなくて慌てることがないように、また、「福音の味を甘くしないように(和らげないように)(non addolcire il sapore delVangelo)」警戒していましょう、と教皇は招かれる。

 「なぜなら、私たちはしばしば、自分の都合や快適さのために、イエスのメッセージを『軽減(緩和)』し、イエスの言葉を和らげる(水で薄める)傾向があるからです。 私たちは認めるべきです。福音に対して『妥協』することが得意なことを」。

 福音に対する「妥協」。「ここまでは、あそこまでは」いいけれど、それ以上は…という妥協。教皇の言葉は具体的です。

 「『そうだ』、貧しい人々を助けるべきだ。『でも』、不正にはそれなりに取り組まなければならないから、もう少し待った方がいいだろう。自らコミットしてしまうと、つねに邪魔が入り、もっとうまくできたはずだと気付く可能性があるから。 『そうだ』、病人や牢屋にいる人の近くにいるべきだ。『でも』、新聞やソーシャルメディアの一面には、もっと差し迫った問題がある。なんで私が、彼らのことを気にかけなければならないのか。『そうだ』、移民を受け入れるべきだ。「でも」、それは一般的に複雑な問題で、政治に関わってくる。私はそのようなことに首を突っ込みたくない…」

 このように私たちは、いつも妥協する。『そうだ、もちろんだ』と言いながら、結局は、『ノー』と言う。それが、私たちが福音に対してする「妥協」であり、私たちは、「そうだ…でも…」と、「Yes」で始まり「No」で終わる人になってしまう、と教皇は言われる。

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 そうして私たちは、「先生(Maestro)」であるイエスの、単純な弟子であることから、複雑な先生たち(maestri)に成り下がってしまう。

 「たくさん議論して、何もしない。答えを、十字架像の前ではなく、コンピューターの前で探す。答えを、兄弟姉妹たちの眼差しの中にではなく、インターネットの中に探す。解説し、議論し、理論を披露しても、貧しい人の名前さえ知らず、何カ月も病人を見舞うことなく、誰かに食べるものや着るものを与えたこともなく、助けを必要としている人と親しくなったことも、ない」

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 教皇ベネディクト十六世は、最初の回勅『神は愛』(2005年)31項で明確に書いている。

 「キリスト教の愛のわざは、何よりもまず、よいサマリア人のたとえに示された模範に従いながら、具体的な状況の中ですぐに必要とされていることに単純に答えます… 人は、今ここで人間らしく行動することを拒絶しながら、世界をよりよいものにすることは、できません。世界をよりよくすることに貢献したいなら、まず、今、自分自身で善を行わなければなりません。それも、全身全霊をもって、可能な限りいつでも、しかし、党派的な戦略や計画とは無 関係に、それを行わなければなりません。

 「キリスト信者の計画」は、「よいサマリア人の計画、イエスの計画」でもあり、「見ることのできる心」だ、とベネディクト十六世は言われる。そして、「どこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心」である(同31項)。

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 「いったい、いつ?」、と、「その日」、正しい人も、不正を行う人も、驚いて問いかける。そして、答えはただ一つだ、と教皇は言われる。

 「『いつ』は『今』です。このミサ聖祭から出て行く時です。今、今日。それは私たちの手の中に、私たちの慈しみの業の中にあります。問題の明確化や、洗練された分析の中にでも、個人や社会の正当化の中にでもなく、私たちの手の中にあります。私たちは責任があるのです」

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 「その日、その時は、誰も知らない」とイエスは言われる(マタイ24章36節参照)。その「待望」をどう生きるか。それは福音が説明している。

 「人は、愛することによって、神のところへ行きます。神は、愛だからです」。

 今、今日、この世の貧しい人、傷ついた人の間で、神は私たちを待っておられる。そして、その人々は、私たちのすぐ近くにいる。「見ることのできる心」を祈り求めたい。「どこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心」を。後で、明日、誰か他の人が…と言い訳し、気づかぬうちに、主が通り過ぎてしまわないように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)=聖書の引用は「聖書協会・共同訳)によります(「カトリック・あい」)

2022年11月4日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉑教皇が”2セッション”で示された本気度、”諦め”は禁物!

 子供達に、「秋と言えば、何?」と聞くと「ハロウィン!」と、小学二年生の女の子が元気よく答えた。いつの間にか子供から大人までハロウィンの深い意味も知らずに仮装をしたり、お菓子をあげたりもらったりすることが日本でも欠かせないイベントになっているようだ。今の社会では、秋と言えば「ハロウィン」。先日の韓国の悲劇の犠牲者に哀悼の意を捧げるとともに、また一つ賢くなった私だ。

 私にとっては、美術館に行き静かな空間で神聖な芸術作品に一対一で向き合う秋。ラグビー観戦で選手たちのベストパフォーマンスに感動し、敵味方区別のない歓声で包まれたスタジアムで渾然一体となる喜びを感じる秋(コロナ禍では、思い通りの秋を過ごせなかったが)。私は芸術とスポーツから美的感性を得ている。感性が研ぎ澄まされている“物”や“者”には、神と霊の香りが漂う本物の美しさがある。本物は、私にとって、真実を知るために欠かせない心の糧である。

 本物を追求する私ではあるが、今夏は人との関わりから「理解できない」という諦めと「仕方ない」で終える“成熟”を受け入れる術を知った。心の葛藤は永遠に続くのだろうが「今はそういう時代だからね」の一言で片付けられる世の中を私たちは生きているようだ。

 そんな時、世界代表司教会議(シノドス)総会が2023年10月、2024年11月という異例の2セッション開催が報じられた。このことから、教皇フランシスコの教会改革への本気度を感じ取ることができ、瞬時に私の心に光がさした。シノドスの道がこれからのカトリック教会の明暗を分けることになる、と私は思っているからだ。ここでの”諦め”と”仕方ない”は、まだ受け入れるわけにはいかない。

 日本における旧統一教会の実態が日に日に暴かれる中で、カトリック教会にも共通点があるのでは?と感じている人がいることは否めない事実である。「それは違う」と確信を持って言えるだろうか。旧統一教会内で疑問を持った信者たちの声が今まで明らかにならなかったことは、全て人間が原因だ。組織を牛耳るトップ集団が救いを求める信者に圧力をかけ、組織を守るために隠蔽を繰り返し、カルト的な教会組織の活動を、そうした組織の人間を、のさばらせてきたことは、日本社会の問題でもある。

 カトリック教会は、どうだろうか。度重なる種々の隠蔽問題が明るみになり、近年におけるカトリック教会に大きなダメージを与えているのではないか。「ひとつの“事象”(?)でしょう」と軽視したり、訴える側に責任を押し付けたり、果ては、だんまりを決め込んで逃げようとしたりする、聖職者や教会関係者一人ひとりに、イエスの教えをどう受け止めておられるのか、伺いたい。

 アジア司教協議会連盟50周年総会が今開催され、日本のある代表者の発表をほんの少し拝見した。その発表部分からは目新しいことはなく、分かりきった内容を流暢に述べられただけ、との印象を受けた。プレゼンテーターと受け手が理解する教会に温度差を感じさせないためにも、双方のベクトルを変えるべき内容が欲しかった私である。

 だが、教会の信徒と聖職者が十分コミュニケーションが取れているのか、と問われれば、どうだろう。ここ数年、刻一刻と社会は移り変わり、年齢に関係なく時代の流れについていく人と、ついていけない人がいる。しかし、教会には大きな変化がないため、古き良き時代を知る信者さんたちのグループが中心となり、あらゆる奉仕に貢献されている。ある意味では、聖職者はじめ他の信者にとって”有難い状態”である。

 ただ、そこにコミュニケーションはない。カトリック教会を正しく次世代に伝えるためには、社会のニーズの移り変わりに対応すべき大きなエネルギーが必要だ。今までのように問題解決にならない解決、その場しのぎの解決では“真の教会”への徹底的究明にならず、問題さえ認識できていないことになってしまう。今の教会にとってデリケートな問題ではあるが「時のしるし」を見極めることも大切だ。そのためにもシノドスの道を再度、真摯に受け止め、ポーズだけで終わらない本気の取り組みを心から願っている。

 真の福音宣教、新しい教会活動への挑戦ができますように。

 「 奉仕者たちも、気品があり、二枚舌を使わず、酒に溺れず、恥ずべき利益を貪らず、清い良心をもって信仰の秘義を保っている人でなければなりません」(テモテへの手紙1・3章8-9節=「聖書協会・共同訳」より)

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年11月4日

・Sr.阿部のバンコク通信 (71)アジア司教協議会連盟の総会に日本からも…

 「シノダリティ  ロザリオ月のアジアかな」(前田万葉・枢機卿)

 10月12日から30日まで、アジア司教協議会連盟(FABC)創立50周年記念総会がバンコクで開催されました。会長のボー枢機卿は開催にあたって「アジアの全人口のたった2パーセントしかいないカトリック教徒、少数派ですが、私たちの存在を通してイエスの顔がアジアに存在し続けているのです」と強調されました。

 アジアの22ヵ国から、枢機卿司教122名スタッフ70名、信じる師イエスの名の下に一堂に会する、争い混沌分断の世に、正に「奇跡」と言える出来事です。現状、問題、課題を分かち合い語らい検討し合う。イエスの贖いの感謝のミサと祈りに日々集約され、霊に導かれた現代の聖霊降臨、ゾクゾクするうれしさです。

 若者たちもウェブ上のイエスに出会い、”住まい”を変革、変容させるよう促され、ウェブ上の新しいフロンティアを泳ぎ、ナビゲートする教会になるように、と。”デジタル大陸”の危険に打ち勝つ聖霊の導きを確信して臨む総会…。

 多種多様な歴史文化地理背景、言語… 見事に豊かなアジアは、古くからの信仰と多様な文化の生まれ故郷です。「アジアの教会は貧しい人々、若者、対話の教会です」と、ボー枢機卿は語られました。

 今回の総会はタイ外務文化省の多大な協力により実現しました。総会のニュースはトップでタイ全土に報道され、司教団の小麦色の顔ぶれ、たくましく、力強く、タイの小さなカトリックの群れの凄みが知られるところとなりました。乾杯!

 10月23日には、前田枢機卿、アベイヤ司教、勝谷司教、中村司教様方をお招きして、セントルイスの素敵なチャペルで日本語のミサを捧げていただき、タイ人の日本語課の大学教授も、流暢な日本語で共同祈願に加わりました。

 総会のわずかな間の出来事でしたが、赦しの秘蹟、ミサ、古風タイスキ料理店の2階を貸し切った昼食会、子供たちも家族そろって楽しい出会い語らい、言葉が思うようにならない総会の最中、ホットする一期一会のひとときであった様です。

 言葉に不自由しない菊池司教様が大活躍、「今後のFABCの再構築の宿題をいただきました。モンゴルとか普段出会えない方たちとの接点も持て、韓国の司教団と3年ぶりに会い、会合を再開する約束ができた。日本在住のアジア諸国の兄弟たちを受け入れるだけでなく”Journying Together as Peoples of Asia”のテーマに従う今後の課題を考えて行きたい」と話されました。

 アベイヤ司教様の通訳で参加者の司教様方も大変に刺激を受け、示唆され「やはり言葉は大事ですね」、「どの国にどの司教様がいて、アジアの様子を身近に知りました。親しくなりたくても言葉が交わせず、本当に残念でした」と。

 アジア、世界の人口の60%が住み、都市人口上位8位を占める若い大地。小さな群れイエスの教会が愛と平和を掲げ、師イエスの思いを惜しみなく謙虚に捧げる命の麦粒でありますように

 「私は共にいる」ー 師はそう約束してくださいました。

  詳しくは『カトリックあい』総会の模様、総会メッセージなどを是非お読みいただき、生きた信徒の一員として、読者の皆さん、教会を生き生きとさせてください。編集長の南條さんが全力投球し、関連記事を掲載しています。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2022年11月3日

・菊地大司教のバンコクFABC50周年記念総会報告⑴

菊地大司教の「週刊大司教」 2022年10月16日 (日)FABC50周年記念の総会開催中@バンコク

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 アジア司教協議会(FABC)は、1970年に創立され、2年前に50周年を迎えていました。50年の歩みを振り返り、これからの新たな道のりの方向性を定めるために,記念の総会が企画されましたが、コロナ禍のため2年間延期され、現在、10月12日から30日までの日程で、バンコク大司教区の司牧センターであるBaan Phu Waanを会場に開催されています。

*参加者は200人以上、日本から6人の司教参加予定

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 「これまでの振り返りとこれからの方向性を定める」という重要な機会であるため、通常の総会よりも多くの司教が参加しており、日本からも、前田枢機卿、アベイヤ司教、勝谷司教、成井司教、そして私が参加中で、後半では中村大司教も加わる予定です(写真左)。

 今回の総会はテーマを「FABC50周年:アジアの諸民族としてともに旅する…彼らは別の道を通って…行った(マタイ福音書2章12節)」としていますが、このテーマの終わりの部分、すなわち「別の道を通っていった」の意味を、最初の三日間で実感しています。

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 現時点で参加者は、18の司教協議会から22カ国と地域に及んでいます。韓国司教団の到着が遅れているなどもあり、週明けに実際の参加者はもう少し増える予定ですが、現時点では登録上は18名の枢機卿と114名の司教が参加を予定しており、顧問や各団体代表などで招聘されている人たちやスタッフが70名以上おり、さらには会期中にオンラインでの対話に参加する人たちも入れれば、全体では200人を超える人たちが参加する会議となっています。(写真右は,現時点で参加している枢機卿)

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*主催国タイの教会が奮闘、開会式典は一般のテレビ局が全国中継

 バンコク教区の司牧センターは以前から存在しており,カリタスアジアなどでも利用したことがありますが、この総会に備えて全体がリニューアルされており、日本の教会とそれほど変わらない規模のタイの教会ですが、準備にかなりの力を入れたことがわかります。(左の写真は会議ホールの前から見た司牧センター本館。この池も敷地内です)

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 それが顕著に表れたのが,初日に開会ミサ後に行われた開会式典で、これは一般のテレビを通じて全国にライブ放送されたそうですが、タイ政府を代表して文化大臣も参加し、シャルトル(聖パウロ修道女会)のシスターたちが経営する11の学校の生徒さんによる,素晴らしいミュージカルの披露もあり、ちょうど2019年に教皇様がタイを訪問したときのように、きらびやかで荘厳な式が行われました。準備には大変なものがあったと思います。

*三日間の各国報告ーコロナ禍で孤立深まる国、貧富格差拡大の国もー連帯と協力の必要確認

 最初の三日間は,各国の報告です。朝のセッションは,指定された国が作成した15分ほどの朝の祈りのビデオで始まり、各国の報告も、単に話をするのではなく、ビデオやパワーポイントを用意して20分程度とするように指示されており、これまた教会の底力の違いでしょうが、素晴らしく高度な出来上がりのビデオを短時間で用意してきた国がいくつもありました。日本の報告は、私が作ったパワーポイントでした。

 祈りで始まり,祈りの雰囲気の中で会議を続ける、というので、各国の報告の後には必ず2分間の沈黙が設けられています。この沈黙の時間は,正直言って,アジアでの会議では珍しいのですが、良い効果を生んでいると思います。

Img_20221015_161943031 一日の最後は,これらの報告を聞いた上で、20近いグループに分かれて,分かち合いです。私が参加して小グループは、シンガポール、ラオス、マレーシア、インド、ミャンマーの皆さんと一緒のグループでした。このグループでの分かち合いは,その場でサイトに接続されたPCから内容がそれぞれグループごとに打ち込まれ、三日目の終わりには、そのまとめが出来上がって報告されていました。

 多くの国で教会は少数派であり、中には他の宗教との関係で難しい立場にあったり,政治的に難しい立場にあったりする教会も少なくなく、アジア全体を通じた連帯の必要性が強調されました。また多くの国でカリタスの活動が評価され、教会の目に見える愛の活動としてカリタスの重要性が強調されたのはうれしいことでした。

 さらにコロナ禍にあって孤立や孤独が深まった国も少なくなく、経済の悪化で貧富の格差が広がり,社会の中心から排除される人も多くある中で、教会は国を超えて連帯し協力していかなくてはならないことも強調されました。

*各国の現実の違いの大きさ、対話の重要性に改めて気づく

  同時に、各国の報告で、互いの現実があまりに違うことも理解が深まり、その違いを知らない自分たちの無知にも気がつき、互いの対話を深めることの重要性が強調されました。韓国司教団がビデオでの報告で,日韓の司教団が定期的に集まり対話を深めていることを紹介してくださったので、思いの外多くの他の司教たちが、日韓の取り組みを評価してくださいました。

 また最終的には,同じ方向を目指して歩んでいこうとするものの、その現実の違いから、歩む道を異なることにも気がつかされ,テーマの最後の言葉の意味が理解されていきました。皆、別の道を通っていくしかないのです。

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 四日目(開会式も含めると五日目)の日曜、午前中はシンガポールのゴー枢機卿の司式で主日ミサがあり,その後、アジア各地の方々とオンラインで結んでの「トークショー」となりました。様々な分野に関係する17組の方々が、それぞれの分野から司教たちに語りかけました。日本から、聖心会のシスター宇野が,アジアの修道女の思いを司教たちに語ってくださいました。

 明日以降は、さらに多くの方々とオンラインで結んで、様々な角度から,司教たちに語りかけていただくセッションが続きます。

 司教たちが聖霊に導かれ、より正しい道を見いだすことができるよう、お祈りください。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月17日

・愛ある船旅への幻想曲 ⑳”教会だけでしか通用しない常識”を守り続けるのも限界に…

 日本には、独自の仏教行事である『お彼岸さん』が春と秋にある。聖徳太子の時代からの風習らしい。“春分の日”と“秋分の日”には、ご先祖様に感謝して供養をし、お墓参りをすることが一般的な習わしだ。この日の墓地は澄み渡る空気と喜びの歓迎を感じる。月命日には見えない情景がその日その場所にある。

 ”しらけ世代”の成人洗礼の私は、日本の文化を悩むことなく受け入れている。しかし、私と同世代の幼児洗礼の方々や、75歳以上の成人洗礼の方々の中には、「神社仏閣への参拝はしてはならない」と教えられたことで、心に葛藤が生じ、悩んだ人もいる

 旧統一教会と政治の問題が大きくクローズアップされ、宗教の闇が毎日のように報道されている。

 「日本人は多くが無宗教」と言われるが、実際はどうだろう。私が思うに、相対的に宗教を信仰している人は、以前より多い気がしている。その宗教の在り方を考え直す時期が来ているのかもしれない。少なくとも、自分が持つ宗教の歴史を振り返り、良いことも悪いことも納得の上で信仰生活を歩むべきだろう。

 カトリック教会には膨大な数の憲章、教令、宣言等があるが、教えの任にあたる人たちと、それを受ける信徒の間に確かな一致がもたらされているのだろうか。

 深く読み、学ばなければならない聖書に関しても課題は多い。神様から、計り知れない、尊い賜物をいただいていることさえ気付かず、素通りしている人もいるかもしれない。私は聖書100週間を数人の司祭から学ばせて頂いたが、どのくらい理解できているだろうか。もちろん、聖書講座を受けた回数が多ければ立派な信徒だというわけにはいかない。私がそれを実証している。

 全ての信者が御言葉を正しく学び、キリストに似る者になっていくなら、共同体として集まる教会は楽園になるだろう。

 私は過去に、二つの宗教団体からお声がかかり、”本業”の指導のために出向いたことがある。当然ながら、私がカトリック信徒だということを承知の上でお呼びいただいたのだが、集まった方々から笑顔で歓迎され、「こんなに喜んでくれるんだ」と有頂天になり、こちらも笑顔を返したものだ。だが、落ち着いてみると、その場所は、確かに参加者の皆さんにとって”楽園”のように見えるが、外の社会とは別人になっているようにも感じられ、部外者の私には違和感があり、終始落ち着かない楽園ではあった。

 「宗教は、批判の視点を持っていないと自分の中で深化していかない。そこに宗教に生きる難しさがある」という話を聞いたことがある。人として成熟するためにも、必要なことだろう。

 宗教に限らず社会で生きるためにも、批判の視点は必要であり、その経験から人格は形成されていく、と感じている。私の友人で行政のトップ集団で今も働く2人に、それぞれ久しぶりに話すチャンスがあった。長いことご無沙汰であっても話はスムーズに進む。短時間に互いの近況報告を交えながら、色々な話題からの問題も笑いながら解決できる。気心が知れているというのは、ありがたい。会話後の私の気持ちも爽やかである。彼らは、県民の声に真摯に対応し、対策を考えてきた。だから、今の地位と人格がある。リーダーとして、それぞれ県民、しいては県のために、まだまだ頑張ってもらいたい。

 教会では、どうだろう。教会運営に参加する信徒は、多くが時間に余裕のある人たちのようだ。それは、ありがたいことだが、私の身の回りの経験から感じるのは、その人の力量に見合わない重い役職を任されたことで”勘違い”が生じ、結果として信仰心が損なわれていくことにも、気を付ける必要があるということだ。

 このような事態を招いた責任は本人だけでなく、教会にもある。宗教という枠内での改革すべき問題は提起されても、真剣に取り上げられないまま、消え去ることが多いように思う。「教会だけでしか通用しない常識」というものが存在するようだが、それを守り続けるのも、そろそろ限界だ。教皇フランシスコが真剣に取り組まれているカトリック教会の刷新が、世界、そして日本の教会の隅々まで行きわたり、良識と価値ある宗教、“社会に開かれた教会”になることを、改めて願いたい。

 私にとっての宗教は、人間に真の癒しと愛をもたらす芸術同様の美的概念を高め、深め導いてもらうためにある。だから、カトリックの信仰を選んだ。誰かと共に、愛ある船旅ができますように、と。

 「神を愛することなく、隣人を愛している気でいるのは、見せかけです。隣人を愛することなく、神を愛しているというのも、また見せかけです」。

 (教皇フランシスコの「お告げの祈り」での言葉、愛の掟より抜粋=2018年)

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年10月6日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉑「だから私も働くのです」

 植物生態学者の宮脇昭さんは、これまで、国内外の1700か所以上で植樹指導をし、4000万本以上もの木を植えてきた、といわれます。植物の多様性が、すべてのいのちを循環させるーそう考える宮脇さんは、混植・密植による植樹によって、自然淘汰されながらも管理を必要としない生きた自然環境を造り出すことができる と語ります。これは、人間の世界においても言えるかもしれません。

神の約束としての福音

「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(マタイによる福音書10章7節)ー十二人の使徒を派遣した時、イエスはこう語ります。イエスの「福音」euaggelion)です。この福音は、同時にまた、神の「約束」(epaggelia)でもあります。イエスのメッセージが、私たちにとって幸せの知らせとなる――それはいったい、どういうことなのでしょうか。

 「天の国」とは、「神の国」(バシレイア)と同じですが、その意味は、神が「王」(バシレウス)として支配すること、と言われます。と言っても、それは、有無を言わせず力で抑えつけるといったことではありません。むしろ、渇いた土地を雨が潤すように、一人ひとりの心に静かに語りかけるようにしてなされます。

受け継がれゆく働き

 イエスは、この世にあって、倦まず弛まず働きました。その働きの根源と目的は、彼を遣わされた父にあります。「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネによる福音書6章38節)。
父と自分は、一つである(17章22節)ーこれは、イエスの確信でした。そして、それは、働くことにおいても変わりません。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5章17節)。

 この働きは、使徒たちにも受け継がれます。その際、イエスは、彼らに汚れた霊に対する権能を授けます(マタイによる福音書10節1節)。それによって、彼らは、あらゆる病気や患いを癒すことができたのでしょう。これもまた、福音の一つの形です。
今、私たちは、いったいどのような病や患いを背負っているのでしょうか。一つひとつは具体的なのに、それらを掴みきれないーそこにまた、私たちの病があるようにも思えます。この国では今でも、毎年、約三万人近くの人が、自らの命を断っています。理由は何であれ、これは決して尋常なことではありません。

聖霊によって

初代教会における重要な人物の一人に、バルナバという人物がいました。バルナバとは「慰めの子」という意味(使徒言行録4章36節)。彼は、聖霊と信仰とに満ちていた、と言われます(11章24節)。十二使徒の一人ではありませんが、「使徒」と呼ばれます(14章14節)。つまり彼もまた、福音宣教のために、イエスから遣わされた人物の一人なのです。

 彼は、タルソスでサウロ(後のパウロ)を探し出し、アンティオキアに連れ帰り、他の使徒たちに紹介します。彼の功績の一つです。ちなみに、アンティオキアにおいて、弟子たちは、初めて〝キリスト者〟と呼ばれるようになります(11章26節)。

 いずれにしても、二人を福音宣教へと駆り立てたのは、同じ聖霊です。それにもかかわらず、彼らは、ある時から袂を分かちます(使徒言行録15章36-41節)。「人間は難しいな」と思います。しかしそれでも、彼らの働きは、やがては一つとなって実りをもたらします。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2022年10月3日

・Sr.阿部のバンコク通信  (70)タイ語訳の日本の漫画が召命に結び付く!

    漫画が大好きなタイの子供たち。カバンの中にはタイ訳の日本漫画本が何冊も… 夢中で読んでいるのには本当に驚きました。

   漫画本との出会いは、タイでの宣教活動に閃きを与えてくれました。女子パウロ発行のタイ語訳コミック版「ベンハー」を1997年6月に出版したのは、奇跡とも言える出来事でしたが、次いで女子パウロの「クォヴァディス」3巻と「白い鳩のように」、サンパウロの「遙かなる風を超えて」3巻と「たとえ話きかせて」、講談社の「漫画聖書物語」5巻と「聖書の中の人々」8巻,「My Super Hero」…と続きます。

 単行本やCD やDVDも出版しました。これらが電波の届かない地域に届けられ、現地の人たちに感動を与えていることに驚き、人間を育てる書物の威力を見直しました。

 ボロボロの「ベンハー」初版本が、神学生を同伴してボランティアに入った山奥のカレン族の村で見つけた時は、「こんな所にまで!」と胸が熱くなりました。

 タイの人々の好む味付けで福音を調理した”ご馳走”を、メディアに乗せて宣教するのが、私たちの使命です。版権使用許可の交渉をしながら、テクニックを学び、コンピュータでの編集作業もゼロから始め、汗と涙と祈りの挑戦… 「主よ、素敵な装丁や制作をお助けください」と十字を切りながら、表紙のデザインに取り組んだことを、懐かしく思い出します。

 タイの若者を女子パウロ会への入会に導いたのは、実にこれらの日本の漫画本でした。漫画をきっかけにした召命です!

 2005年白い鳩のように」で私たちの会を知った山岳民の村に住むアティタヤーが最初の入会者。母親から離れたことのない1人っ子のパリチャートが「ベンハー」を読んで、二人目の入会者となり、二人はその後14年の養成を受けて、2019年に終生誓願に至りました。「遙かなる風を越えて」や「クォヴァディス」を読んで入会を決意したのは、現在の有期誓願中のシスターピンです。

 愛読者の皆さん、コロナ禍で大活躍している通信ツールを使って、美味しい魅力的な福音の”ご馳走”を隣人に届けませんか。今、その時です!

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

 

2022年9月5日

・Sr.岡のマリアの風  (78)福者ヨハネ・パウロ一世教皇のように、「ほほ笑む教会」になりたい

 アルビーノ・ルチアーニ、教皇ヨハネ・パウロ一世が、2022年9月4日、福者として宣言された。

 バチカンのジャーナリスト、アンドレア・トルニエッリ氏は、9月3日付『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』で、「福音の本質を私たちに呼び起こす、教皇になった一人のキリスト者」というタイトルで記事を書いている。

 「一人のキリスト者」ートルニエッリ氏は記事の中で、この言葉を繰り返している。実際、「列福されるのは、教皇でも、その教皇職でもなく、自分自身を『塵』と認識しながら全身全霊で福音に従った一人のキリスト者」である、と語りながら。

 私たちは、福者ヨハネ・パウロ一世について、わずか34日間の教皇在位以前のことはあまり知らない。トルニエッリ氏は、アルビーノ・ルチアーノが、1970年2月8日、サン・マルコ大聖堂でのヴェネチア総大司教としての最初の説教の中で、「11年前、ヴィットリオ・ヴェネトの司教になったばかりの時、信徒たちに言った言葉を繰り返したこと」を思い起こしている。

 「神は、ある偉大なことを、ブロンズや大理石の上ではなく、塵の上に書くことを好まれます。というのも、書かれたものが、ばらばらになったり、風で散らされたりせず、残っているなら、その功績はすべて、ただ神のものであることが明らかになるからです。この塵は私です。総主教の職務と、ヴェネチアの大司教区は、塵に結ばれた偉大なことです。この結合から、何か善いものが生まれるとすれば、すべて主の慈しみのおかげであることは明らかです」。

 神は、この「塵」の上に、「最も美しいページを書き記した」とトルニエッリ氏は指摘する。それは、今日、あらゆる時代にも増して必要とされている、と。

 アルビーノ・ルチアーノは、「あらゆる主人公主義(protagonismo)から無縁で、目立った地位を望んだこともなく、コンクラーベでほぼ満場一致で選出される前は、ヴェネチア司教を引退する年齢に達したら、宣教者としてアフリカに出発することを考えていた」。

 彼は日々、「主よ、私をありのままに取り、私を、あなたの望まれるようにしてください」と祈っていたキリスト者である。福者ヨハネ・パウロ一世が証しした教会について、トルニエッリ氏は語っている。

 「日常性の中で福音を生きる教会、その存在を見せるた めに花火を必要としない教会。近しさ、慰め、希望を、最も小さい人々、最も貧しい人々、排斥されている人々、表に出て来ない人々から始めて、すべての人に運ぶことができる教会」。

 教会の、私たちの使命は、人となられた神の御子、イエス・キリストから託された使命である。つまり、人々に、世界に、慈しみ深い父である神のみ顔を現わすこと。神のやり方、「近しさ、慈しみ、やさしさ」を、言葉や行いよりも先に、生き方をもって証しすること。

 神が、塵の上に書かれた美しい物語(ストーリー)。父と子と聖霊の、永遠の命の交わりに招かれていることを知っている謙虚な者たちの日々によって織りなされる、神と人との共働の物語。

 教皇フランシスコは、列福式のミサを、次の言葉で締めくくっている。

 「教皇ルチアーニは、ほほえみをもって、主の善(慈しみ)を伝えることができました。喜びに満ちた顔、穏やかな顔、ほほえみの顔をもつ教会は、何と美しいことでしょう。それは、決して扉を閉めず、いらだたない教会、不平不満を言わず、恨みを抱かず、怒らず、短気ではない教会、不愛想な姿を見せず、後戻り主義(indietrismo)に陥って過去へのノスタルジー(郷愁)に苦しむことのない教会…」。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

2022年9月5日

・愛ある船旅への幻想曲 ⑲日野原・名誉院長は語るー「人が人に与える最高のものは心」

 今夏の日本は、猛暑となり局地的な豪雨が相次ぎ水害・土砂災害が起こっている。地球温暖化やそれに伴う水蒸気量の増加等の世界的な規模の変動が寄与している可能性があるらしい。また、ロシアとウクライナの戦争がもたらす環境破壊や有害物質の排出は今後も世界中に悪影響を及ぼすであろう、と言われている。戦争は人間社会の対立によって生じ、人権と自然をも破壊する。

 

*広島市長の「平和宣言」と小学生代表の「平和への誓い」に感銘を受けた

 小学五年生の男の子が切実に、この戦争からの環境被害を、私に語った。中学一年生の男の子は、優しさについての作文に、ウクライナを支援する国々のことを称賛し、戦争からの環境破壊に繋げる文章を書き上げた、と話してくれた。この二人の母たちは、それぞれカナダ人とスコットランド人だ。日本も子供たちが多文化に触れ、多様性を感じ、互いを尊重することを学び、世界観の広い人間に育つ環境が出来つつある。「人間社会と世界情勢に興味を持ち、各国のニュースにも無関心ではない子供たちがいる限り、世界には明るい未来がある」と希望を持っている私だ。

 8月6日、広島は被曝77年の「原爆の日」を迎えた。この日の広島市長の『平和宣言』と、広島市の小学生代表の『平和への誓い』の言葉には、私が常々思っていることが綴られ、いたく感銘を受けた。

 広島市長「他者を威嚇し、その存在をも否定する、という行動をしてまで、自分中心の考えを貫くことが許されてよいのでしょうか。私たちは、今改めて『戦争と平和』で知られるロシアの文豪トルストイが残した『他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ』という言葉を思い起こす必要がある」

 小学生代表「自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは『強さ』とは言えません。本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすることです。本当の強さを持てば、戦争は起こらないはずです」。

 これらのメッセージは、国と国との戦争だけに述べられたのではない。私たち一人ひとりが今、人間として受け入れなければならないメッセージだ。

 私たちは生きていく上で、大なり小なり他の人との対立が生じ、争いを経験する。どんなに仲良し家族でも、夫婦喧嘩、親子喧嘩、兄弟喧嘩は避けては通れない。私自身、前向きな喧嘩?では、問題解決のために本音を言い合うことを前提に、気分は悪いが相手を受け入れる心構えだけは持つようにしている。家族内での対立は、社会で生きていく為に大きなヒントがあると感じているからだ。

 

*患者をないがしろにし、医師に顔を向ける病院

 社会集団の中では、立場の違いや利害関係からの対立がある。地方でいまだに存在する事例を挙げたい。

 ある人が、重篤な疾患で病院にかかる。一番大切な事はその人(患者)の身体の状態が良くなり治ること、と思うだろう。

 ところが、医者を紹介する病院関係者が不安しかない患者の家族に、「言っておきたいことがあります。この医者は、素晴らしい実績を持ち、○○で一番の有名な医者ですから、あなたからの質問など、とにかく何も言ってはいけません。医者に全て任せて従いなさい。この医者は私たちの病院には、なくてはならない大切な人ですから…」と、その医者を知る自分を誇示し、医者主導の「お任せ医療」を無理強いする。

 「私たちにとっては、病気になった家族(患者)のことが一番大切、大切な人ですから」と、悔しさと悲しさから涙をこらえた家族の訴えを聞いた。

 今の医療現場では、医者の責務として、患者の視点を念頭においたコミュニケーションをとることが求められている。医者が最善の治療をする為にも、患者や家族から過去の病歴を含む正確な情報を得る必要があり、患者や家族には、それを確実に報告する権利と責務がある。患者が良質な医療を受けるためには、医者と対等な立場での情報交換がなされねばならない。これは、双方の権利意識の問題解決にもなるだろう。

 患者の存在を軽視し、思いやりの言葉もなく、ひたすら”医者への尊敬の念”を言葉巧みに熱弁する病院関係者の医者に対する”気遣い”は、すべて病院経営の為だった。経済的利益を求めるために人間の尊厳、そして生命を巧みに利用し、威嚇する言葉は、医療現場で決してあってはならないことだ。カトリックの病院で働くキリスト者なら、なおさらのこと、心せねばならない問題だろう。WMAリスボン宣言『患者の権利』とWMAジュネーブ宣言『医師の誓い』を改めて思い起こし、人権を蹂躙しない心構えを共有せねばならない。

 私が知る医者たちは、日々患者の健康を第一の関心事とし、医者の職業的倫理を真面目に実践している。そして、「我々は、たかが医者だ」と謙虚である。彼らこそ「○○で一番の医者」かも知れない。

 

*教会は『野戦病院』になっているか

 

 教皇フランシスコは、たびたび、「教会は『野戦病院』です」と言われている。だが今、カトリック教会は、本当に『野戦病院』になっているだろうか。病院は今、『パターナリズムからパートナーシップへ、依存から協働作業へ』を推進していると聞く。教会は、どうなのだろうか。

 今進められている“シノドスへの道”の歩みに対する教皇フランシスコの希望は「全信者が共に歩む教会を作っていくこと」だ。「教会がこれまで、『聖職者主義』から脱することができず、信徒一人一人の声に耳を傾けることもできず、『皆で共に歩む教会』になっていなかったことへの反省」がもとになっている。

 聖路加国際病院の日野原重明・名誉院長は語られているー「なんと言っても、人が人に与える最高のものは心である。他者のための“思い”と“行動”に費やした時間、人とともにどれだけの時間を分けあったか、によって、真の人間としての証しがなされる」と。

 100歳を超えても医者として患者のために自分の人生を捧げ「医者としてあるべき姿」を貫き通し、信仰・感謝・実践の喜びに満ちた日野原先生の105年間は、真のクリスチャンとしての証しであろう。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2022年9月3日