・愛ある船旅への幻想曲 ㉒見せかけの”謙遜”では「良き知らせ」は伝わらない

 紅葉に囲まれた観光スポット、風情ある温泉宿で開催された高校の同窓会に久しぶりに出席した。私たちの学年は妙に仲良く、女子会も含め幹事役に恵まれている。(次回の、鎌倉での開催には私も借り出されそうだ。旗振りだけならOKである)。それぞれが自分の力量を知り、準備から当日の役目まで、できる人がスムーズにこなし、決して足を引っ張ったり、出しゃばる人はいない。

 今回は、82歳の恩師も出席され、教え子たちへの心温まる言葉から謙遜をも感じ、改めて良き指導者との再会に感謝した。そして「ご出席の皆様の仲良きこと、一仕事終えられた皆さんのくつろぎと、女性の皆様の活動的な御姿、さすが○高で自由闊達に学ばれました方々だ、と感服致しました」と後日の手紙に書かれていた。当時も今も、女性パワー全開の私たち世代である。

 宴もたけなわ、一人ひとりのスピーチで、天理教の熱心な信者が二人いた。一人は、家が代々、天理教の信者で、もう一人は長い間、天理市でそのための仕事に従事していた、という。二人共、高校時代から性格が穏やかで、今も嫌味のない良い笑顔である。

 以前、英会話の男の先生が、ユタ州出身のモルモン教徒だった。彼は当時、「日本人が持つ宗教は天理教」と思い込んでいた。私がカトリック信徒であることを知って、とても驚いていた。外国で想像される日本の国や人の様子は千差万別であり、それを聞く私たちも驚くことが多い。彼は大きな身体であったが、控えめで優しい人柄に温かい目が印象的だった。ただ、モルモン教は飲み物に制限が多く、ティータイムに困った記憶がある。

 中年のアメリカ人の女の先生は「古着を恵まれない人たちに送る」と言い、私も協力はしたが、実際にどこへ送ったのかは分からない。彼女には心からの笑顔はなく、いつも寂しそうな目をしていた。

 「イギリス英語を習いたい」と、イギリス人の若い先生にも教えてもらった。彼女は「英会話教師を辞めて、マザー・テレサのそばでボランティアをする」と言って、暫くして日本を離れた。とても活発でしっかりした女性だったが、いつも忙しそうで、笑顔でも、目は笑っていなかった。

 このような出会いで、どこの国の人であれ、何の宗教であれ、その人の「一瞬の笑顔」から受ける印象は、私にとって貴重な思い出である。そして、考える。私の笑顔は、人にどんな印象を与えているのだろうか。それよりも、人に心からの笑顔で接しているだろうか。

 “目は口ほどに物を言う”との諺がある。人の目はその人の心の裡や本性をそのままに表す、ということだ。

箴言6章16-19

 主の憎むものが六つ

 心からいとうものが七つある。

 高ぶる目

 偽りを語る舌

 無実の人の血を流す手

 悪だくみを耕す心

 急いで悪に走る足

 虚偽を語る偽りの証人

 兄弟の間に争いを引き起こす者

 カトリック教会ではよく、”謙遜”が説かれる。しかし、説く人が、見せかけの”謙遜”の人であれば、心の目は高慢で、聞き手に「良き知らせ」は伝わらない。そして、自分を誤魔化すための笑顔から自分の功績を吹聴し、悦に入り、自分自身の”謙遜”の深さを神妙に説く。自分が認められたい一心での言葉選びと所作は、本人を知る聞き手にとっては、終始、滑稽でしかない。まさしく”謙遜”に見せかける「高慢」である。

 よく教会では、「人を見てはいけない」と言われる。「カトリック教会の中心はイエスであり、ミサである」と。しかし、なぜ今、教会のミサに与る日本人が減っているのか。コロナの影響だけではなさそうだ。

 先日の久しぶりの教区の集まりは、若者の居ない不自然な『敬老会』と言っても過言ではなかった。教会の未来にビジョンを持って活動されていた先輩信徒方の姿さえ無かった。「これが教区の守りたい姿なのか」と寂しくなった。

 「カトリック教会は、信徒が○○に関与してはならない。信徒は意見してもならず、カトリック教会はそれを聞かない。これがカトリック教会」と言い切った今のトップ集団の思い通りの教会の姿。この状態に疑問を持つ信徒との話し合いの場では、真摯な問いかけに、「そう言ったかもしれないが忘れた」と、どこかの政治家のような発言。

 私たち女性に対する最大のパワハラは、カトリック教会だから、ということで許されるのか。「どうしてあなたは聖職者になろうとしたのですか?」との問いに「〇〇さんも、なったらいいでしょう。あっ、女は聖職者になれなかったね」と人を不快にさせる無神経な言葉しか返ってこなかった。

 私は決して聖職者になりたいとは思っていない。思ったこともない。私の質問の意味さえこの人は、分からないのだろうか。いや、初めから用意していた言葉なのか。女性蔑視と受け取れる彼の返答で女性たちの思いは一つになったー「少なくとも、この教区では、”シノドスの道”に希望はない」と。そして、何よりも、このような某聖職者の振る舞いを通して、「カトリックの聖職者には簡単になれる」ことを証明してしまった司教の責任は重い。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年12月5日