・Sr.岡のマリアの風  (78)福者ヨハネ・パウロ一世教皇のように、「ほほ笑む教会」になりたい

 アルビーノ・ルチアーニ、教皇ヨハネ・パウロ一世が、2022年9月4日、福者として宣言された。

 バチカンのジャーナリスト、アンドレア・トルニエッリ氏は、9月3日付『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』で、「福音の本質を私たちに呼び起こす、教皇になった一人のキリスト者」というタイトルで記事を書いている。

 「一人のキリスト者」ートルニエッリ氏は記事の中で、この言葉を繰り返している。実際、「列福されるのは、教皇でも、その教皇職でもなく、自分自身を『塵』と認識しながら全身全霊で福音に従った一人のキリスト者」である、と語りながら。

 私たちは、福者ヨハネ・パウロ一世について、わずか34日間の教皇在位以前のことはあまり知らない。トルニエッリ氏は、アルビーノ・ルチアーノが、1970年2月8日、サン・マルコ大聖堂でのヴェネチア総大司教としての最初の説教の中で、「11年前、ヴィットリオ・ヴェネトの司教になったばかりの時、信徒たちに言った言葉を繰り返したこと」を思い起こしている。

 「神は、ある偉大なことを、ブロンズや大理石の上ではなく、塵の上に書くことを好まれます。というのも、書かれたものが、ばらばらになったり、風で散らされたりせず、残っているなら、その功績はすべて、ただ神のものであることが明らかになるからです。この塵は私です。総主教の職務と、ヴェネチアの大司教区は、塵に結ばれた偉大なことです。この結合から、何か善いものが生まれるとすれば、すべて主の慈しみのおかげであることは明らかです」。

 神は、この「塵」の上に、「最も美しいページを書き記した」とトルニエッリ氏は指摘する。それは、今日、あらゆる時代にも増して必要とされている、と。

 アルビーノ・ルチアーノは、「あらゆる主人公主義(protagonismo)から無縁で、目立った地位を望んだこともなく、コンクラーベでほぼ満場一致で選出される前は、ヴェネチア司教を引退する年齢に達したら、宣教者としてアフリカに出発することを考えていた」。

 彼は日々、「主よ、私をありのままに取り、私を、あなたの望まれるようにしてください」と祈っていたキリスト者である。福者ヨハネ・パウロ一世が証しした教会について、トルニエッリ氏は語っている。

 「日常性の中で福音を生きる教会、その存在を見せるた めに花火を必要としない教会。近しさ、慰め、希望を、最も小さい人々、最も貧しい人々、排斥されている人々、表に出て来ない人々から始めて、すべての人に運ぶことができる教会」。

 教会の、私たちの使命は、人となられた神の御子、イエス・キリストから託された使命である。つまり、人々に、世界に、慈しみ深い父である神のみ顔を現わすこと。神のやり方、「近しさ、慈しみ、やさしさ」を、言葉や行いよりも先に、生き方をもって証しすること。

 神が、塵の上に書かれた美しい物語(ストーリー)。父と子と聖霊の、永遠の命の交わりに招かれていることを知っている謙虚な者たちの日々によって織りなされる、神と人との共働の物語。

 教皇フランシスコは、列福式のミサを、次の言葉で締めくくっている。

 「教皇ルチアーニは、ほほえみをもって、主の善(慈しみ)を伝えることができました。喜びに満ちた顔、穏やかな顔、ほほえみの顔をもつ教会は、何と美しいことでしょう。それは、決して扉を閉めず、いらだたない教会、不平不満を言わず、恨みを抱かず、怒らず、短気ではない教会、不愛想な姿を見せず、後戻り主義(indietrismo)に陥って過去へのノスタルジー(郷愁)に苦しむことのない教会…」。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2022年9月5日