・(読者投稿)新しいミサの式次第の祈りの言葉に思う

 日本のカトリック教会では、新しい年の始まりである待降節第1主日(11月27日)から、新しい式次第によるミサが始まった。

 2021年10月に中央協議会から発行された冊子『新しい「ミサ式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所』を読むと、ローマ規範版第3版に基づく今回の日本語版ミサ典礼書の改訂作業は、20年越しの作業であったようだ。

 多くは、翻訳上の言葉の見直しであるが、典礼なればこそ、使う言葉の重要性は計り知れない。そんな中で、単に言葉づかいではなく、内容に関わる極めて重大な変更があった。それは、聖体拝領の直前、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」という司祭の言葉に続いて、司祭が会衆とともに唱える言葉である。これは、日本では従来から「拝領前の信仰告白」と呼ばれている。

 これまでは、日本のための適応として日本固有の式文「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」が使われていた。今回の改訂で、ローマ規範版にある「主よ、わたしはあなたを迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」が導入され、従来の式文とどちらかを選択することとなった。

 ローマ規範版は世界標準であり、こちらを歓迎する向きもあろうが、よく見るとこの二つは内容的にまるで異なっていて、「どちらでもよい」と言えるようなものではない。主日、祭日のミサでは言葉の典礼の終わりに信仰宣言があり、信条を唱える。したがって、聖体拝領直前のこの信仰告白は、まさに、これから拝領しようとする聖体に対する、信仰を表明するものだ。

 このことを念頭に置いて、キリスト信者として、イエス・キリストご自身を前にどのような言葉で信仰を告白するのがふさわしいか、熟慮したうえで式文を選択すべきであろう。私は、「イエス・キリストの世界観とヨハネの黙示」という名のブログサイトを開設しているが、先日寄稿された記事は、このテーマを取り扱っている。趣旨はおおむね以下のとおりである。

 ローマ規範版の式文は、子(僕)の病気の癒しをイエスに願った百人隊長の言葉から取られている。それは、イエスが「私が行って癒してあげよう」と自ら申し出たにもかかわらず、それを謙遜ゆえに断った言葉である。百人隊長のこの謙遜な態度から、彼が、「人の真の親である神を知らなかった」ことが分かる。

 人の思いのすべてを知っていたイエスは、謙遜であるがゆえにイエスの申し出を断わる言葉を聞いて、彼にはこの場面にふさわしい信仰がある、とみなした。しかしこの百人隊長の言葉は、神を「天の父」と呼ぶキリスト信者にはふさわしくない。イエスが、最期の夕食の席で、跪いて弟子たちの足を洗い、神の謙遜の極みを見せて教えたからである。

 ここでペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ福音書13章8節)と答えた。神の謙遜を前にしての人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになる。実際に百人隊長の謙遜は、彼の子(僕)や家族がイエスに出会う機会を奪うことになった。

 さらに、ご聖体を拝領することを望んでいるにもかかわらず、百人隊長の謙遜に倣って、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えるなら、そこには自ずと矛盾が生じる。

 ある時イエスは、弟子たちに尋ねた。「あなたがたは私を何者だと言うのか」。シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)。これに続けたイエスの言葉は、御父を敬う御子の喜びで満ちている。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(同17節)。

 天の父が現し、イエスによって幸いとされたペトロのこの言葉は、神の小羊の食卓に招かれた幸いな人が唱える真実の言葉になる(ヨハネの黙示録19章9節参照)。これこそが、ご聖体を前にして信者が唱える言葉だ。

 以上が記事の内容である。この記事は、今回の典礼式文変更を直接取り扱っているわけではないので、私たちがこれまで唱えてきた日本固有の式文そのものには言及していないが、その前半部分、すなわち、マタイ福音書の16章から取られた「主よ、あなたは神の子キリスト」について、それが、キリストのからだを拝領するカトリック信者にとって、必須の信仰告白であることを明確に説明している。

 一方、日本固有式文の後半「永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」は、ヨハネ6章68節のペトロの信仰告白から取られている。それは、「わたしは天から降って来たパンである」、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と語るイエスの話しを聞いて、弟子たちの多くが離れ去り、使徒たちだけが残った時、「あなたがたも離れて行きたいか」と問うイエスにペトロが答えたものである。これこそキリスト者が彼に倣って答えるべき言葉ではないだろうか。

 こうしてみると、日本固有の式文が、聖体に対する信仰を告白するのに、いかにふさわしく作られているかが良くわかる。聖体拝領前に司式者と会衆がともに唱えるこの式文は、ヨーロッパをはじめ日本以外の諸外国においては、伝統的に百人隊長の言葉から取った式文を使ってきた。

 これに対して、ペトロの信仰告白から取られた独自の式文を使ってきた日本が、今回の見直しによって、あらためてこの問題を考える機会を得たのは、特別な恵みであり、また、だからこそ、そのような機会を持ってこなかった他の国々に対して、明確な答えを提示する責任がある、とも言えるのではないだろうか。

 米国の著名な世論調査機関であるPEWリサーチセンターが2019年に米国のカトリック信者を対象に意識調査を行った結果は、当時の米国カトリック界を震撼させた。カトリック信者のほぼ7割が、「聖体がイエス・キリストの体と血であることを信じていない」という結果だったからだ。

 しかしよく考えてみると、カテキズムでは教わっていたにしても、毎回のミサで、これから拝領する方は誰なのか信仰告白したことが一度もないとしたら、このような結果になったとしても驚くに当たらない。

 日本が今後このようなことにならないように、式文を選択する教導職の責任は極めて重い。

(横浜教区のある信徒)

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2022年12月30日