・「私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください」菊地大司教、日本聖書協会のクリスマス礼拝で

(菊地功・大司教の日記より)

2022年12月14日 (水)日本聖書協会クリスマス礼拝@銀座教会

Photo_20221214153901   一般財団法人日本聖書協会(JBS)は、聖書協会世界連盟(UBS)に所属している140を超える聖書普及のための団体の一つで、「聖書翻訳、出版、頒布、支援を主な活動として全世界の聖書普及に努めて」ている組織で(ホームページから)、基本的にはプロテスタント諸教派が中心になって運営されています。

   もちろん聖書の普及は福音宣教に欠かせない重要な役割であり、カトリック教会の体力がある国では、カトリック教会としても聖書の翻訳や普及活動に携わっていますが、日本を含めた宣教地では、カトリック教会も聖書協会の活動に協力しながら、一緒になって聖書の普及に努めてきました。

  特に、現在カトリックの典礼などを活用させていただいている新共同訳の事業を通じて、現在の聖書協会共同訳に至るまで、その関りは深くなっています。

Photo_20221214154001  昔、私自身もガーナで働いていたときに、首都アクラにあるガーナ聖書協会に、しばしば聖書の買い付けに出掛けたことを懐かしく思い出します。

 私が働いていた部族の言葉そのものの翻訳はありませんでしたが、それと同じ系統の言葉での翻訳が新約聖書にあり、それを大量に買っては、訪れる村で信徒の方に配布していました。(なお旧約は、英語の聖書から、その場でカテキスタが翻訳してました)

 そういった協力関係もあり、日本聖書協会の理事会には司教団から代表が一人理事として加わっていますが、ありがたいことに司教団の代表の理事は、聖書協会の副理事長を任ぜられています。現在は私が司教団を代表して理事として加わり、副理事長を拝命しています。

 そのような関係から、先日、12月8日の午後、聖書協会の主催になるクリスマス礼拝で、はじめて説教をさせていただきました。礼拝は数寄屋橋の近くにある日本基督教団銀座教会。ここは有楽町の駅の近くの表通りに面したビルの中にあり、正面に立派なパイプオルガンがある教会です。

 感染対策のため、入場制限がありましたが、多くの方が集まってくださり、その中にはカトリックの方も多くお見えでした。

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 以下、当日の説教の原稿です。

 

日本聖書協会クリスマス礼拝 銀座教会 2022年12月8日15時 
「光は暗闇に輝いているのか」 ルカ福音2章8節から12節

世界はあたかも暴力に支配されているかのようであります。この数年、私たちはただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面し続けています。この状況から抜け出すためにありとあらゆる努力が必要なときに、あろうことか、神からの賜物である人間のいのちに暴力的に襲いかかる理不尽な事件が続発しています。

例えば2021年2月に発生したクーデター後、ミャンマーでは政治的に不安定な状況が継続し、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、義のために声を上げる宗教者への暴力も頻発しています。2022年2月末には、大国であるロシアによるウクライナ侵攻が発生し、いまに至るまで平和的解決は実現せず、戦争に翻弄されいのちの危機に多くの人が直面しています。

この状況の中で、戦いに巻き込まれたり、兵士として戦場に駆り出されたりして、いのちの危機に直面する多くの人たち。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われている多くの人たち。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける人たち。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得る事すら難しい状況に置かれ、困窮している多くの人たち。世界中の様々な現実の中で、今、危機に直面している多くの命に思いを馳せたいと思います。尊い命はなぜこうも、力ある者たちによって弄ばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにする時、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、それに対する明確な答えを見出すことができずにいます。同時に、苦しみの暗闇のただ中に取り残され彷徨っているからこそ、希望の光を必要としています。その光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。

2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神の命の希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さな命は希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。

この2年半の間、様々な命の危機に直面する中で、カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、互いに連帯することの重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日、感染症対策のため一時中断していたバチカンにおける一般謁見を再開した日には、集まった人たちにこう話されています。

「このパンデミックは、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。私 たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。私たち人間の限界です。

調和を求めるがあまりに、皆が同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。「様々な人がいて当然だから」と多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、今、私たちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。暴力が世界を支配するかのような現実を目の当たりにし、多くの命が直面する悲劇を耳にするとき、暴力を止めるためには暴力を使うことを肯定してしまうような気持ちへと引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり、神の否定です。私たちは命を生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、命の創造主である神への挑戦です。

ローマ教皇就任直後の2013年7月に、地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島を訪れ、アフリカから流れ着いた難民たちとともにミサを捧げたとき、教皇は次のように説教で語りました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、「自分の安心や反映ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄に溺れているだけであり、その他者に対する無関心が、多くの命を奪っている」と指摘し続けてきました。

2019年11月に日本を訪れた時には、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で『復興』できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べて、連帯こそが希望と展望を生み出す、と強調されました。

私は、1995年に初めてルワンダ難民キャンプに出掛けて以来、昨年まで、カトリック教会の海外援助人道支援団体であるカリタスに、様々な立場で関わってきました。その中で、一つの出会いを忘れることができません。

2009年に、カリタスジャパンが支援をしていたバングラデシュに出掛けました。土地を持たない先住民族の子どもたちへの教育支援を行っていました。その支援先の一つであるラシャヒと言う町で、息子さんが教育支援を受けて高校に通っている家族を訪ねました。不安定な先住民族の立場でありとあらゆる困難に直面しながらも、その家族のお父さんは、私が見たこともないような笑顔で、息子さんの将来への明るい希望を語ってくれました。

その飛び抜けて明るい笑顔に接しながら、95年にルワンダ難民キャンプで、「自分たちは世界から忘れ去られた」と訴えてきた難民のリーダーの悲しい表情を思い出していました。

人が生きる希望は、「自分に心をかけてくれる人がいる」という確信から、「支えてくれる人がいる」という確信から湧き上がってくるのだ、と言うことを、その出会いから学びました。

「命」の危機に直面する人たちに関心を寄せ、寄り添い、歩みを共にするとき、そこに初めて希望が生まれます。衣食住が整うことは不可欠ですが、それに加えて、生きる希望が生み出されることが不可欠です。衣食住は第三者が外から提供できるものですが、希望は他の人が外から提供できるものではありません。希望は、それを必要とする人の心から生み出されるものであり、そのためには人と人との交わりが不可欠です。

まさしくこの数年間、感染症による先の見えない暗闇がもたらす不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。この現実の中では、「調和、多様性、連帯」は意味を失い、命が危機にさらされ続けています。

この世界に必要なのは、「互いの違いを受け入れ、支え合い、励まし合い、連帯して共に歩むこと」です。そのために、神の愛を身に受けている私たちは、他者のために自らの利益を後回しにしてでさえ、受けた神の愛を、多くの人たちと分かちあう生き方が必要です。人と人との交わりを通じて、支え合いを通じて、初めて命を生きる希望が心に生み出され、その希望が未来に向けての展望につながります。

暗闇の中に誕生した幼子こそは、神の言葉の受肉であり、神の愛と慈しみそのものであります。そのあふれんばかりの愛を、自らの言葉と行いで、すべての人のために分かち合おうとする神ご自身です。私たちはその神ご自身の出向いていく愛の行動力に倣いたいと思います。

命の尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、命を賜物として与えられた、私たちの使命です。

今、この国で宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて、自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は、尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(「カトリック教会のカテキズム」要約373項参照)。

宗教は、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、命を奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、命の希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

私たちはどうでしょう。キリストは命を生かす希望の光であり、私たちはそもそもこの命を、互いに助け合うものとなるように、と与えられています。私たちはすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、命を生かす希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。

神の言葉である御子イエスが誕生した時、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。天使は、あまりの出来事に恐れをなす羊飼いたちに、この輝く光こそが、暗闇から抜け出すための希望の光であると告げています。

私たち、イエスをキリストと信じるものは、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたい、と思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、命を生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたい、と思います。輝く光であることを、自らの言葉と行いをもって証しするものでありたい、と思います。

祈ります。命の与え主である天の父よ。暗闇の中で小さな希望の光を輝かせたイエスの誕生に思いを馳せなが、私たちが暗闇を歩む現代世界にあって、互いに支え合い、連帯し、歩みをともにすることで、あなたが与えてくださった賜物である命を、喜びと希望を持って生きることができますように。私たちに希望の光を掲げる勇気を与えてください。

 (ビデオは日本聖書協会のYoutube チャンネルに掲載されています)

(編集「カトリック・あい」)

 

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2022年12月17日