・菊地大司教の日記・死者の月に合同追悼ミサ「懸命に生きたその報いが永遠の命に必ずつながる」

2022年11月 9日 (水)東京教区合同追悼ミサ@東京カテドラル

313203986_3326093184338324_5907348289016 11月は死者の月です。亡くなられた方々の永遠の安息のために、特に祈りを捧げる月であり、地上の教会と天上の教会の交わりを再確認するときでもあります。

 「カトリック教会のカテキズム」には、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

 「私たちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957項)」

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 また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

 「…死者のための私たちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者が私たちのために執り成すのを有効にすることができるのです(958項)」

 教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

 東京教区では、11月の最初の日曜日に、合同追悼ミサを捧げてきました。ミサはカテドラルと、府中墓地と、五日市霊園で捧げられています。この数年はコロナ禍のため中止せざるを得ませんでしたが,今年は三カ所でミサを捧げることが可能となりました。私は東京カテドラルで、11月6日(日)の午後2時から150名ほどの方々とミサを捧げ、先に亡くなられた兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りました。

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 以下、当日のミサの説教の原稿です。

【東京教区合同追悼ミサ 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年11月6日】

 イエスはキリストです。私たちはそう信じています。ですから私たちは、神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

 葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

 同時に私たちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。慈しみ深い神は、その深い愛をもって、すべての人を永遠の命のうちに生きるよう、招かれています。

 「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約には記されています(119項)。

 神がご自分が創造されたすべての命が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべての命を愛おしく思われる神は、その救いがすべての人に及ぶことを望まれています。

 イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠の命に招かれる救い主です。イエスをキリストと信じる私たちには、すべての人がその救いに与ることができるように、その愛と慈しみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命が与えられています。

 この数年、ただでさえ感染症の拡大の中で命の危機に直面しているのですが、賜物である人間の命を、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。クーデター後の不安定な状況に置かれているミャンマーや、戦争に翻弄され、命の危機に今も直面しているウクライナの人々。戦争に駆り出され、命の危機に直面するロシアの人々。尊い命がなぜこうも、権力者によってもてあそばれるのでしょうか。

 理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、私たちは、それに対する明確な答えが存在しないことも知っています。同時に、苦しみの暗闇にあって、希望の光を輝かせ、命を生きる希望を生み出すことに意味があることも知っています。

 この2年半の間、様々な命の危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日の一般謁見で、すでにこう話されています。

 「この新型コロナの世界的大感染は、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません」

 教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべての命がその尊厳を守られるように、と働きかけてこられましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

 2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。「一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 暗闇に輝く希望の光は、出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。互いに支え合い、助ける者となることの必要性を、教皇様は強調されてきました。しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しく進み、この歴史に残る困難の中で、暴力が命を危機にさらしています。

 今、私たちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

 私たちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、命を生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。

 私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。

 カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

 ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、今、生きている祈りであります。

 私たちの人生には時間という限りがあり、長寿になった、と言っても、それは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。

 人生には順調に進む時もあれば、困難のうちに苦しむ時もあります。喜びの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちの命が、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

 しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠の命一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」などと、あきらめてしまうことはありません。永遠の命の流れを見据えながら、私たちは常により良く生きるように努力を積み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠の命に必ずやつながっていくことを信じています。

 互いに支え合いましょう。連帯のうちにともに歩んで参りましょう。愛と慈しみのうちに、すべての人を永遠の命へと招いてくださる主の憐れみに信頼し、支え合って歩み続けましょう。すべての人との連帯のうちに、希望の光を輝かせましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」)

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2022年11月9日