・愛ある船旅への幻想曲 ⑳”教会だけでしか通用しない常識”を守り続けるのも限界に…

 日本には、独自の仏教行事である『お彼岸さん』が春と秋にある。聖徳太子の時代からの風習らしい。“春分の日”と“秋分の日”には、ご先祖様に感謝して供養をし、お墓参りをすることが一般的な習わしだ。この日の墓地は澄み渡る空気と喜びの歓迎を感じる。月命日には見えない情景がその日その場所にある。

 ”しらけ世代”の成人洗礼の私は、日本の文化を悩むことなく受け入れている。しかし、私と同世代の幼児洗礼の方々や、75歳以上の成人洗礼の方々の中には、「神社仏閣への参拝はしてはならない」と教えられたことで、心に葛藤が生じ、悩んだ人もいる

 旧統一教会と政治の問題が大きくクローズアップされ、宗教の闇が毎日のように報道されている。

 「日本人は多くが無宗教」と言われるが、実際はどうだろう。私が思うに、相対的に宗教を信仰している人は、以前より多い気がしている。その宗教の在り方を考え直す時期が来ているのかもしれない。少なくとも、自分が持つ宗教の歴史を振り返り、良いことも悪いことも納得の上で信仰生活を歩むべきだろう。

 カトリック教会には膨大な数の憲章、教令、宣言等があるが、教えの任にあたる人たちと、それを受ける信徒の間に確かな一致がもたらされているのだろうか。

 深く読み、学ばなければならない聖書に関しても課題は多い。神様から、計り知れない、尊い賜物をいただいていることさえ気付かず、素通りしている人もいるかもしれない。私は聖書100週間を数人の司祭から学ばせて頂いたが、どのくらい理解できているだろうか。もちろん、聖書講座を受けた回数が多ければ立派な信徒だというわけにはいかない。私がそれを実証している。

 全ての信者が御言葉を正しく学び、キリストに似る者になっていくなら、共同体として集まる教会は楽園になるだろう。

 私は過去に、二つの宗教団体からお声がかかり、”本業”の指導のために出向いたことがある。当然ながら、私がカトリック信徒だということを承知の上でお呼びいただいたのだが、集まった方々から笑顔で歓迎され、「こんなに喜んでくれるんだ」と有頂天になり、こちらも笑顔を返したものだ。だが、落ち着いてみると、その場所は、確かに参加者の皆さんにとって”楽園”のように見えるが、外の社会とは別人になっているようにも感じられ、部外者の私には違和感があり、終始落ち着かない楽園ではあった。

 「宗教は、批判の視点を持っていないと自分の中で深化していかない。そこに宗教に生きる難しさがある」という話を聞いたことがある。人として成熟するためにも、必要なことだろう。

 宗教に限らず社会で生きるためにも、批判の視点は必要であり、その経験から人格は形成されていく、と感じている。私の友人で行政のトップ集団で今も働く2人に、それぞれ久しぶりに話すチャンスがあった。長いことご無沙汰であっても話はスムーズに進む。短時間に互いの近況報告を交えながら、色々な話題からの問題も笑いながら解決できる。気心が知れているというのは、ありがたい。会話後の私の気持ちも爽やかである。彼らは、県民の声に真摯に対応し、対策を考えてきた。だから、今の地位と人格がある。リーダーとして、それぞれ県民、しいては県のために、まだまだ頑張ってもらいたい。

 教会では、どうだろう。教会運営に参加する信徒は、多くが時間に余裕のある人たちのようだ。それは、ありがたいことだが、私の身の回りの経験から感じるのは、その人の力量に見合わない重い役職を任されたことで”勘違い”が生じ、結果として信仰心が損なわれていくことにも、気を付ける必要があるということだ。

 このような事態を招いた責任は本人だけでなく、教会にもある。宗教という枠内での改革すべき問題は提起されても、真剣に取り上げられないまま、消え去ることが多いように思う。「教会だけでしか通用しない常識」というものが存在するようだが、それを守り続けるのも、そろそろ限界だ。教皇フランシスコが真剣に取り組まれているカトリック教会の刷新が、世界、そして日本の教会の隅々まで行きわたり、良識と価値ある宗教、“社会に開かれた教会”になることを、改めて願いたい。

 私にとっての宗教は、人間に真の癒しと愛をもたらす芸術同様の美的概念を高め、深め導いてもらうためにある。だから、カトリックの信仰を選んだ。誰かと共に、愛ある船旅ができますように、と。

 「神を愛することなく、隣人を愛している気でいるのは、見せかけです。隣人を愛することなく、神を愛しているというのも、また見せかけです」。

 (教皇フランシスコの「お告げの祈り」での言葉、愛の掟より抜粋=2018年)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年10月6日