・竹内神父の午後の散歩道 ㉒神の御子が与えられ

聖霊であり(1章35節)、イエスが洗礼のときに受けた聖霊にほかなりません(3章21-22

 待降節を迎えました。教会の暦では、新しい年の始まりですが、世間では年の瀬を迎えて慌ただしい時節かと思います。十二月は師走とも言われ、文字どおり、お坊さんも走るほど忙しい頃。そのような中で、私たちは、主の降誕を迎えます。

 「私は光として世に来た」(ヨハネによる福音書12章46節)と語られます。しかし、人々は、この光の輝きも、温かさも、理解することができませんでした(同1章9-11節参照)。暦の上では、私たちは、ちょうど冬至を迎える季節です。それは、一年の中で最も夜の長い時。最も光に憧れる時かもしれません。そのような時にあって、私たちは、どのように主の降誕を迎えましょうか。

*待つということ

 ヨシュア記には、次のような言葉がありますー「あなたがたは身を清めなさい。主が明日、あなたがたの中で驚くべき業を行われるからだ」(3章5節)。主の降誕は、確かに、人間の理解を遥かに超えた出来事です。しかし同時にまた、私たちの信仰は、この出来事へと深く結ばれています。それゆえ、毎年、この神秘を思い起こすことによって、その信仰は受け継がれ深められます。

 ご存知のように、待降節(アドベント:到来)は、二つの意味で「待つ」ということがテーマとされます。一つは、この世への救い主の到来(キリストの誕生)を待つこと、もう一つは、そのキリストの再臨を待ち望むということです。

 しかし実は、もう一つの到来を考えることができます。それは、この二つの到来の間にあって、日々、主は私たちを訪れてくださるということです。なぜなら、主の名前は「インマヌエル」(マタイによる福音書1章23節)と呼ばれるからです。「インマヌエル」とは、「神は私たちと共におられる」ということ。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)ーこれは、主イエス・キリストの約束です。

 

*永遠なるもの

 御子の誕生は、有限な歴史の中に永遠が一つの形をとった出来事です。それは、他に類を見ない決定的な出来事です。それについて、パウロは、次のように語りますー「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)。

 「時が満ちる」とは、まさに、満を持して神の救いの営みが、まったく新たな段階に入ったということです。神の独り子が、一人の人間として私たちに与えられた。しかも、自分では何もすることのできない幼子として与えられました。これは、実に驚くべきことです。

 この幼子の先駆者として、一人の人が神から遣わされましたー洗礼者ヨハネ。彼について、ザカリアは、次のように謳い上げますー「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く」(ルカによる福音書1章76-79節)。

 彼がこのように喜びを吐露することができたのは、聖霊に満たされたからです(同1章67節)。この聖霊は、まさに、マリアの胎に降った聖霊であり(1章35節)、イエスが洗礼の時に受けた聖霊に、ほかなりません(3章21-22節)。

 冬至までひと日ひと日の日暮かな   草間時彦

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年12月2日