・愛ある船旅への幻想曲 ㉑教皇が”2セッション”で示された本気度、”諦め”は禁物!

 子供達に、「秋と言えば、何?」と聞くと「ハロウィン!」と、小学二年生の女の子が元気よく答えた。いつの間にか子供から大人までハロウィンの深い意味も知らずに仮装をしたり、お菓子をあげたりもらったりすることが日本でも欠かせないイベントになっているようだ。今の社会では、秋と言えば「ハロウィン」。先日の韓国の悲劇の犠牲者に哀悼の意を捧げるとともに、また一つ賢くなった私だ。

 私にとっては、美術館に行き静かな空間で神聖な芸術作品に一対一で向き合う秋。ラグビー観戦で選手たちのベストパフォーマンスに感動し、敵味方区別のない歓声で包まれたスタジアムで渾然一体となる喜びを感じる秋(コロナ禍では、思い通りの秋を過ごせなかったが)。私は芸術とスポーツから美的感性を得ている。感性が研ぎ澄まされている“物”や“者”には、神と霊の香りが漂う本物の美しさがある。本物は、私にとって、真実を知るために欠かせない心の糧である。

 本物を追求する私ではあるが、今夏は人との関わりから「理解できない」という諦めと「仕方ない」で終える“成熟”を受け入れる術を知った。心の葛藤は永遠に続くのだろうが「今はそういう時代だからね」の一言で片付けられる世の中を私たちは生きているようだ。

 そんな時、世界代表司教会議(シノドス)総会が2023年10月、2024年11月という異例の2セッション開催が報じられた。このことから、教皇フランシスコの教会改革への本気度を感じ取ることができ、瞬時に私の心に光がさした。シノドスの道がこれからのカトリック教会の明暗を分けることになる、と私は思っているからだ。ここでの”諦め”と”仕方ない”は、まだ受け入れるわけにはいかない。

 日本における旧統一教会の実態が日に日に暴かれる中で、カトリック教会にも共通点があるのでは?と感じている人がいることは否めない事実である。「それは違う」と確信を持って言えるだろうか。旧統一教会内で疑問を持った信者たちの声が今まで明らかにならなかったことは、全て人間が原因だ。組織を牛耳るトップ集団が救いを求める信者に圧力をかけ、組織を守るために隠蔽を繰り返し、カルト的な教会組織の活動を、そうした組織の人間を、のさばらせてきたことは、日本社会の問題でもある。

 カトリック教会は、どうだろうか。度重なる種々の隠蔽問題が明るみになり、近年におけるカトリック教会に大きなダメージを与えているのではないか。「ひとつの“事象”(?)でしょう」と軽視したり、訴える側に責任を押し付けたり、果ては、だんまりを決め込んで逃げようとしたりする、聖職者や教会関係者一人ひとりに、イエスの教えをどう受け止めておられるのか、伺いたい。

 アジア司教協議会連盟50周年総会が今開催され、日本のある代表者の発表をほんの少し拝見した。その発表部分からは目新しいことはなく、分かりきった内容を流暢に述べられただけ、との印象を受けた。プレゼンテーターと受け手が理解する教会に温度差を感じさせないためにも、双方のベクトルを変えるべき内容が欲しかった私である。

 だが、教会の信徒と聖職者が十分コミュニケーションが取れているのか、と問われれば、どうだろう。ここ数年、刻一刻と社会は移り変わり、年齢に関係なく時代の流れについていく人と、ついていけない人がいる。しかし、教会には大きな変化がないため、古き良き時代を知る信者さんたちのグループが中心となり、あらゆる奉仕に貢献されている。ある意味では、聖職者はじめ他の信者にとって”有難い状態”である。

 ただ、そこにコミュニケーションはない。カトリック教会を正しく次世代に伝えるためには、社会のニーズの移り変わりに対応すべき大きなエネルギーが必要だ。今までのように問題解決にならない解決、その場しのぎの解決では“真の教会”への徹底的究明にならず、問題さえ認識できていないことになってしまう。今の教会にとってデリケートな問題ではあるが「時のしるし」を見極めることも大切だ。そのためにもシノドスの道を再度、真摯に受け止め、ポーズだけで終わらない本気の取り組みを心から願っている。

 真の福音宣教、新しい教会活動への挑戦ができますように。

 「 奉仕者たちも、気品があり、二枚舌を使わず、酒に溺れず、恥ずべき利益を貪らず、清い良心をもって信仰の秘義を保っている人でなければなりません」(テモテへの手紙1・3章8-9節=「聖書協会・共同訳」より)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年11月4日