☩「典礼に関する論争を克服し、その素晴らしさを再発見しよう」教皇がミサ典礼で新使徒的書簡を発出

File photo of Pope Francis presiding at Holy MassFile photo of Pope Francis presiding at Holy Mass  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは28日、ミサ典礼に関する使徒的書簡「Desideriodesideravi」を発出され、カトリック教徒たちに対して、外見だけの形式やうわべの感情に走る、”耽美主義”の典礼の傾きを克服するよう求め、「福音を伝えないミサ典礼は、本物ではありません」と強調された。

 使徒的書簡の狙いは、ミサ典礼の深い意味を思い起こし、典礼の形成を奨励すること。2019年2月の典礼秘跡省の全体会議の結果を詳しく説明し、自発教令「Traditionis custodes」に続くものだ。

 使徒的書簡は、第二バチカン公会議を受けた典礼改革から生まれた儀式を軸にした聖体祭儀の重要性を再確認。具体的な規範を含む新規の訓令あるいは指示ではなく、典礼祭儀の素晴らしさと福音宣教における役割を理解する瞑想の機会となることを目指している。

 書簡の終わりを、教皇は、「聖霊が教会の語っていることを共に聴くために、論争を捨てよう。私たちの聖体祭儀を守ろう。典礼の素晴らしさに感動し続けよう」(65項)と締めくくっておられる。

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*キリストとの出会い

 教皇は「キリスト教の信仰は、生きているイエスとの出会いか、そうでないかのどちらかです」とされ、 「典礼は私たちに、イエスとの出会いの可能性を保証します。 私たちにとって、最後の晩餐の漠然とした”記憶”は役に立ちません。 その夕食に、実際に立ち会う必要があるのです」 と強調。典礼の神学的理解の再発見につながった第二バチカン公会議の「典礼憲章」の重要性を思い起こされ、「 その価値についての表面的で短縮された理解によって、あるいはさらに悪いことに、それがどんな色合いであろうと、何らかのイデオロギー的ビジョンの奉仕に利用されることによって、台無しにされます」(16項)と書いておられる。

 さらに、”霊的世俗”と、それを煽るグノーシス主義と新ペラギウス主義に対して警告された後、教皇は次のように説かれているー「 ミサ典礼で犠牲を捧げることに参加することは、私たち自身の成果ではありません。神の前で、私たちの兄弟姉妹の前で誇るようなものではありません… 典礼は、禁欲的な道徳主義とは何の関係もない。従順さをもって受け入れ、私たちの人生を新しくする『主の過ぎ越しの神秘』の賜物なのです。私たちと共に過ぎ越しの食事をとりたい、という主の熱意に惹かれた力を通さない限り、キリストが最後の晩餐をされた高間には入れません」(20項)。

 また、私たちが霊的な世俗から癒されるために、典礼の素晴らしさを再発見する必要があるが、この再発見は「典礼の外側を慎重に守ることで、あるいは典礼執行既定を厳格に守ることによって満足させられる”典礼祭儀の美学”の探求ではない。私がここではっきりと言明しているのは、単純・実直さと、軽率な陳腐さを混同したり、無知な軽薄さ、あるいは苛立たしい実践的機能主義を典礼の挙行の堅固さと混同するような態度には、どのような形であろうと賛同することを望まない、ということです」(22項)と言明されている。

 さらに教皇は、「典礼祭儀のあらゆる側面(空間、時間、身振り、言葉、物、祭服、歌、音楽など)に深く注意を払わねばならず、すべての典礼法規を守らねばならない」と述べ、そのような注意は、集会から、それが負っているものが奪われないようするのに十分だろう。つまり、教会が定めた規定に従った祝われた過ぎ越しの神秘。しかし、祭儀の質と適切な祝われ方が保証されたとしても、それだけでは私たちの参加を完全なものとするには、十分ではない」とされた。

 実際に、「聖体祭儀のしるしの具体性の中に過ぎ越しの神秘が存在するという事実への大きな驚きが、私たちに、すべての祭儀に溢れる恵みの海をものともしなくなる危険を本当に冒させることになる」(24)。

   この大きな驚きは、教皇が明らかにしているように、「典礼改革に対する主たる告発とみなされるものの中に時としてある、神秘を理解する力の漠然とした表現とは関係がない」。教皇が語られる大きな驚きは、「はっきりとしない現実や謎めいた祭儀を前にした一種の当惑」ではなく、「『神の救いの計画が、イエスの過ぎ越しの行為の中に明らかにされた』という事実への驚嘆」(25項)なのだ。

 

*典礼を最大限に生かす

 それでは、どのようにすれば、私たちは、典礼の活動を十分に実践することができるのだろうか?超近代、個人主義、主観主義、そして抽象的な心霊主義に当惑する中で、教皇は私たちに、相互に関連性を持つ第二バチカン公会議の諸憲章に戻るよう促され、次のようにこの書簡で書いておられる。

 「典礼祭儀に関して不幸にして存在する緊張を、特定の儀式の形に関するさまざまな嗜好の単純な相違と解釈するのは、たいしたことではない。問題は主として、教会論的なところにある」(31項)。

 儀式をめぐる戦いの背後には、一言で言えば、教会についての異なる受け止め方がある。教皇は、「人が第二バチカン公会議の正当性を認識していると述べながら、典礼憲章から生まれた典礼改革を受け入れない、と言うことが、どうして可能なのか、私には分からない」とされ、神学者のロマーノ・グアルディーニの言葉を引用して、「典礼の改革がされなければ、儀式と典礼文の改革もあまり役に立たない」(34項)と言明されている。

 また教皇は、何よりも、神学校における形成の重要性を指摘され、「神学校の神学的形成における研究の典礼と知恵の計画は。確かに司牧的活動にプラス効果をもたらすでしょう。 典礼における頂点と源泉を見つけることのない教会生活の側面はない。入念なプログラムの結果である以上に、包括的で有機的で統合された司牧的実践は、聖体祭儀の基礎である主日のミサ聖祭を教会共同体の生活の中心に置いた結果です。 典礼の神学的理解は、これらの言葉がすべてを崇拝の面に還元することを意味すると理解されることを決して認めない。福音宣教をしない典礼祭儀は、祭儀の中で復活された主と出会うことのない信仰宣言と同じように、本物ではありません。 そして、慈善の証明を欠いたこれら二つは、騒々しい音を立てる銅鑼やシンバルのようなものです」(37)。

 さらに教皇は、現代人にとってますます困難になっている”シンボル”についての理解を深める教育する必要性を強調しておられる。そのための1つの方法は、”祝祭のアート”をたいせつにすること。これは、「典礼既定の仕組みだけに還元されるものではなく、『ルールを欠いた想像力に富んだ、時にはワイルドな創造性』と考えるべきでもない。典礼祭儀はそれ自体が規範だ。規範自体がなくなることは決してないが、聖体祭儀が守る、より高い現実に常に役立つものだ」 (48項)。

 そして、”祝祭のアート”は「人前で話すことや、意思疎通の説得力のあるテクニックについてのコースを頻繁に受講することで、学ぶことはできない。求められるのは、祝祭への献身に精励し、祝祭そのもので私たちに”アート”を伝えるようにすることです」(52 項)。

 また、「集会全体に属する典礼祭儀において、沈黙は絶対的に重要な場を占めます」。それは「罪を犯したことへの後悔と回心への強い願いに移っていきます。御言葉を聴く準備に目覚めさせ、祈りに目覚めさせます。そして私たちに、キリストの体と血を崇敬する気を起こさせるのです」(52項)。

への悲しみと回心への欲求に移ります。それはみことばを聞く準備を目覚めさせ、祈りを目覚めさせます。それは私たちを崇拝する気にさせます。キリストの体と血」(52)。

 

*司式司祭ではなく、キリストを中心に置く典礼

 さらに教皇は、キリスト教共同体において、祝祭のやり方は、「良かれ悪しかれ、司祭が集まりにおいて主宰し、不十分な執行の”モデル”をいくつか列挙する、そのやり方によって条件づけられます… 対照的な特徴ー堅固な厳格さと人を苛立たせるような創造性、霊的な神秘主義と実践的な機能主義、せっかちな熱心さと行き過ぎた遅さ、杜撰な不用意と過度の気まぐれ、有り余るほどの友好さと聖職者的な無感覚ーがあるにもかかわらず、です」と述べ、「すべてのモデルには単一のルーツがあり、それは、祝祭のスタイルが持つ、高められた人格主義であり、時として、注目の中心となるための、不十分に封じ込まれた熱狂の表明」(54 項)となり、祝祭がオンラインで広められる時、さらに増幅される。

 にもかかわらず、「聖体祭儀を主宰することは、神の愛の炉に飛び込ませること。この現実を理解することに、あるいは単にそれを直感的に理解することに没頭するとき、適切な行動を課すような礼拝規則はもはや必要なくなる」(57項)。

 書簡の最後に、教皇は、世界のすべての司教、司祭、助祭、神学校の養成担当者、神学部と神学学校の指導教官、そして教理を教える人々に対して、「神の聖なる民が、キリスト教徒の霊性の最初の源泉を利用できるように助けるように」、そしてご自分が昨年7月に出された自発教令“Traditionis custodes” で示した内容を再確認することで、「多くの言語の多様性の中で、教会が、一致を表明できる一つの、同じ祈りを高く上げることができるように、と願われた。

 そしてこの一つの祈りがローマ・ラテン典礼、第二バチカン公会議による典礼改革の結果生まれ、パウロ6世とヨハネ・パウロ2世の2人の聖人教皇によって確立されたものであることを強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月29日

☩「悲惨な出来事が繰り返されないように」アフリカのスペイン領と米テキサスでの相次ぐ”移民”大量死に

(2022.6.28 バチカン放送)

 24日にアフリカのスペイン領メリリャ、27日に米テキサスで、国境を越えようとする人々が相次いで大量に死亡する悲劇が起きたが、教皇フランシスコは28日、ご自身のツィートで、深い悲しみを表明するとともに、悲劇が繰り返されないように、主に祈られた。、スペイン領と、米国テキサスで起きた移民の悲劇に苦しみを表された。

 モロッコとスペイン領メリリャの国境で6月24日、国境のフェンスを乗り越えスペイン領内に入ろうとおよそ2000人が殺到し、少なくとも23人が押しつぶされるなどして死亡した。

 また、米国南部テキサスのメキシコとの国境付近では、6月27日、放置されたトレーラーから、不法移民とみられる約100人が発見され、46人が既に死亡、16人が病院に搬送された。

 教皇はこうした出来事を受け、ツィートで、「テキサスとメリリャにおける移民の悲劇のニュースを苦しみをもって受け取りました。より良い生活への希望を求めて亡くなったこれらの兄弟たちのために一緒に祈りましょう。そして、主が私たちの心を広げ、このような悲惨な出来事が繰り返されることがないよう、祈りましょう」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年6月29日

☩「”反対”に出会ったとき、善をなす固い決意をもって応じよ」年間第13主日の正午の祈りで

Pope Francis greets the faithful at the weekly Angelus addressPope Francis greets the faithful at the weekly Angelus address  (Vatican Media)

 イエスはエルサレムに行くという決断は一つの転機だった。教皇は、「なぜなら、それが、拒絶、苦しみ、死に直面することを意味することを、ご存じだったからです」と指摘。

 そして、「私たちもまた、イエスの弟子になりたいのなら、私たちの人生のために確固たる決意を求められているのです」と語られた。

 そのうえで、「今日読まれたルカ福音書の一節は、この決意の意味を理解するのに役立ちます。つまり、私たちは、真の決意をもって、本気で、イエスの弟子にならねばならない。私が以前からよく言う年配の女性のような”バラ香水”(束の間だけ薫り高い)キリスト教徒ではなく、真面目なキリスト教徒であらねばならないのです!」と説かれた。

*自らに反対する振る舞いに直面したとき、神に立ち返る

 この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(9章52-54節)には、こう書かれているーイエスのためにエルサレムに向かう準備をしようと、サマリア人の村に入った時、彼らはイエスを歓迎しなかった。これを見たヤコブとヨハネは、イエスに「お望みなら、天から火を下し、サマリア人たちを焼き滅ぼすように言いましょうか」と提案する。だが、イエスは、その提案を拒否し、2人をお叱りになる。

 教皇は、「それは、イエスが地上にもたらされた”火”が、『父の憐れみ深い愛』だからです。怒りを抑えきれないヤコブとヨハネのように、私たちも、物事が計画通りにいかないと、良い仕事をしている場合でも、怒りが表に出てしまうことがありますが、イエスはこれとは異なる対応をなさいます。怒りとはかけ離れた、確固として決意ー心静かで、忍耐強く、我慢強い、善を成すことに少しのためらいもされません」と説かれた。

*反対する振る舞いに、善を行うことで応じる

 さらに、教皇は「自分に反対する振る舞いに出会ったとき、私たちは、イエスのように、非難で応えるのではなく、別の場所で善を行うようにせねばなりません」とされたうえで、「反対や誤解に直面して、私たちは主に立ち返りますか?主に助けを求めますか?それとも、自分の努力が皆から称賛されないとき、苦いを思いをし、腹を立てますか?」と問いかけられ、「『自分の熱意が、正当な理由をもった正義感によるものだ』と思うことが、私たちにはあります。 しかし実際には、ほとんどの場合、それは、弱さ、敏感さ、そして焦りと結びついた”自尊心”によるものに他なりません」と注意された。

 最後に教皇は、「イエスの強さを私たちにもくださるように、主に願いましょう。私たちが困難に出会う時、善を行っても他の人が理解していない時、確固とした決意をもってイエスに倣い、罪を犯したり、不寛容になったりしないように」と、信徒たちに促された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月26日

☩「神は世界のすべての家族を祝福し、守ってくださる」世界家庭大会ミサで

(2022.6.25 Vatican News  Linda Bordoni)

Holy Mass for the WMOF2022

 22日から始まった第10回世界家庭大会は、25日夕(日本時間26日未明)、バチカンで、教皇フランシスコが出席され、ケビン・ファレル枢機卿が司式するミサで大詰めを迎えた。

 ミサ中の説教で教皇は、「家庭は、私たちが互いを愛することを学ぶ第一の場所です」とされて家庭の価値を改めて重視するとともに、 利己主義、個人中心主義、無関心と浪費の文化によって毒された世界で、「私たちは、従来以上に家庭を守ることを強いられていると感じています」と語られた。

(2022.6,25 バチカン放送)

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)ーこのミサで読まれた第二朗読の中で、使徒聖パウロは、キリスト者にとっての自由を神の賜物としてこのように強調しています。

 私たちは皆、内的、外的に多くの条件を持って生まれますが、自分を中心に据え、自身の利益のために動くエゴイズムの傾向を持っています。キリストはこの隷属の状態から私たちを解放されたのです。

 ここで聖パウロは誤解を避けるために、神から与えられた自由は「肉を満足させる機会」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)とするための「偽りで虚しい、この世の自由ではない」と注意しています。キリストがご自分の血の代価をもって、私たちのために得てくださった「自由」は、「愛によって互いに仕えなさい」(同)と使徒パウロが言うように、すべて愛へと向かうものなのです。

 自分の自由を自分自身のために使わず、神が私たちの隣に置いてくださった人々を愛するために使いましょう。「島」のように孤立して生きるのではなく、「互いに仕える」ために私たちは召されています。「家庭において自由を生きる」とはこういうことです。惑星や衛星のようにそれぞれの軌道を回るのではなく、「家庭」とは、出会い、分かち合い、受け入れ、寄り添い合う場所です。そして、何よりも「愛することを学ぶ第一の場所」なのです。

 家庭の素晴らしさを確認する一方で、私たちは家庭を守らねばなりません。家庭がエゴイズムや個人主義、無関心や切り捨ての文化に毒され、受け入れと奉仕のそのDNAを失わないように守る必要があります。

 第一朗読「列王記上」に書かれたエリヤとエリシャの関係は、「世代間の関係」を思い起こさせます。

 親たちは「子供たちが複雑で混乱した世の中で道を見失うのではないか」と心配しています。そうした不安を抱える親たちの中には、世に新たな命を送り出す気持ちを失う人々もいます。

 エリヤとエリシャの関係を考えてみましょう。エリヤは試練に遭い、未来が危ぶまれた時に、後継者としてのエリシャに油を注ぐよう、神から命じられました。神はエリヤに、「この世は彼の代で終わらない」ことを理解させ、彼の使命を他の者に受け継がせるように、命じたのです。

 エリヤが自分の外套をエリシャに投げかけると、その時からエリシャは、イスラエルにおける預言者の使命を、師であるエリヤから受け継ぐ者となります。そうして、神は若きエリシャへの信頼を示されたのでした。

 世の親たちが、こうした神のなさり方を観想することは、どれほと大切なことでしょう。神は若者たちを愛されますが、だからといって彼らをあらゆるリスクや試練、苦しみから遠ざけることはなさいません。神は心配性でも過保護でもなく、若者たちを信頼し、それぞれに合った生き方や使命へと招かれます。

 今日の福音朗読、「ルカによる福音」では、「イエスの弟子となるための覚悟」が、どういうものかが記されています。「イエスにどこでも従います」と言う人に対し、イエスは「人の子には枕する所もない」(ルカ9章58節)と答えられました。「イエスに従う」ということは、イエスと共に人生の様々な出来事を体験しながら、常に「旅の状態にある」ということです。

 結婚した皆さんにとって、それはいかに真実であるか。皆さんは、結婚して家庭を築くという召命に応えて、自分の「巣」を後に、旅に出ました。その歩みは、新しい出来事や、予期しない状況に次々と出会いながら、とどまるということがありません。「主と共に歩む」ということは、そういうことです。ダイナミックで予見しがたく、常に素晴らしい発見に満ちています。イエスの弟子にとっての休息は、日々、神の御旨を果たすことの中にあることを忘れてはならなりません。

 別の人は、イエスに従うにあたって、「まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのに対して、イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と答えられます(ルカ9章59-60節参照)ー。これは十戒の「あなたの父母を敬え」という掟を軽視しているのではなく、「私のほかに神があってはならない」という最初の掟、「何にもまして神を愛せよ」という招きに、まず従順でありなさい、ということなのです。

 もう一人の「私に家の者たちに別れを告げることを許してください」と言った人に対しても、イエスは、「たとえ家族に別れを告げたいと思っても、イエスに召された者は『後ろを振り返ること」があってはならない、と答えています(ルカ9章61-62節)。

 イエスは、結婚と家庭の召命に呼ばれた皆さんにも、後ろを振り返らず、前を見て進むように、と願われています。そして、イエスはその歩みと愛と奉仕において、いつも皆さんの前を歩み、導いておられます。ですから、イエスに従う者は決して失望することがないのです。

 皆さんが、家庭の愛の道を決意のうちに歩み、すべての家族のメンバーとこの召命の喜びを分かち合うことができますように。皆さんが生きる愛が、常に開かれたものとなり、人生で出会う最も弱い立場の人々、傷ついた人々に触れることができますように。

 教会は、皆さんと共に、いや、そう言うよりも、教会は皆さんの中にあります。教会は、ナザレの一つの家庭から生まれ、家族を成しています。神が愛であり、いのちの交わりであることをすべての人に示しながら、皆さんがいつも一致と平和と喜びのうちに生きることができるよう、主の助けを祈りましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=文中で引用された聖書の日本語訳は、聖書の原点にかえって、現在日本語に相応しい言葉使いで翻訳された「聖書協会・共同訳を使用しています)

2022年6月26日

☩「ウクライナでカインとアベルの悲劇が繰り返されているー祈りと慈愛の業で対抗を」東方教会援助会議参加者に

教皇フランシスコと東方教会援助事業会議の総会参加者との集い 2022年6月23日 バチカン宮殿教皇フランシスコと東方教会援助事業会議の総会参加者との集い 2022年6月23日 バチカン宮殿  (Vatican Media)

(2022.6.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコが23日、教皇庁東方教会援助事業会議の総会参加者とお会いになり、「『善きサマリア人』の姿を思い浮かべつつ、紛争に苦しむ各地の教会と人々に希望を与え続けてください」と願われた。

 ロシアのウクライナ軍事侵攻を取り上げられた教皇は、「そこではカインとアベルの悲劇が繰り返されています」とされたうえで、「そこで起きている暴力行為は命を破壊するもの。この悪魔的な暴力に対し、キリスト者は、武力が対話に場を譲るよう、祈りの力と具体的な慈愛の業をもって対抗しなくてはなりません」と説かれた。

 そして、「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す」という旧約聖書のイザヤ書の一節(2章4節)を引用され、「今の状況はすべて、これとは逆の方向に向かっているように見える。食料はなくなり、武器の騒々しさが増しています」と指摘。

「紛争の森に平和の小道を見出せるように、祈り、断食し、助け、働き続けましょう」と和平実現への努力を求められた。

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 東方教会援助事業会議は、バチカンの東方教会省の管轄下の組織で、ローマや世界各地のカトリック東方教会の聖職者や信者を支援している。21日からバチカンで第95回定例総会を開き、特にエルサレム、レバノン、エチオピア、シリア、そしてウクライナの状況についての情報交換と支援のあり方について、現地の教皇大使の報告などをもとに検討された。

(編集「カトリック・あい」)

2022年6月24日

☩「教会が、全ての家族に寄り添う”善きサマリア人”であるように」教皇、世界家庭大会開会式で

(2022.6.22 バチカン放送)

 カトリック教会の「第10回世界家庭大会」が22日に開幕、バチカンで教皇フランシスコが参加された開会の集いが催された。

 イタリア現地時間22日の午後に始まった集いには、世界120か国から2,000人以上の家族が参加。ウクライナのキエフの小教区からの中継や、この大会の保護者である聖クアトロッキ夫妻の孫の挨拶などの後、5つのテーマに沿って5組の夫婦・家族の信仰の体験が発表された。

教皇はこれらの証言の一つひとつに耳を傾けた後、世界の家族に挨拶をおくられ、「それぞれがいる場所、それぞれの家庭が持つ具体的な状況の中で、すべての家族に寄り添います」とされるとともに、それぞれの家族が置かれた現実の中で、配偶者、家族、教会と共に歩む努力をしてください」と励まされた。

また教皇は、「教会は、『善きサマリア人』のように、すべての家族に寄り添い、どのように小さな歩みでも、『もう一歩』が踏み出せるように、助ける存在であって欲しい」と強い希望を述べられた。

そして「もう一歩」の目標として、先の5組の夫婦・家族の体験発表を受ける形で、「結婚へのもう一歩」、「十字架を抱くためのもう一歩」、「赦しへのもう一歩」、「受け入れへのもう一歩」、「兄弟愛へのもう一歩」の5つを挙げられ、「それぞれの家族は、世界において果たすべき使命、世界にもたらすべき証しを持っています」と説かれた。

そして、この集いの終わりに、参加者と世界中の家族に祝福をおくられた。

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 この集いでの5つのテーマに沿った夫婦・家族の体験発表では、まず「結婚への招き」で、若いカップルが「子宝に恵まれながらも、教会から離れ、秘跡としての結婚を諦めていた。だが、コロナ禍での育児の苦労を、キリスト教的価値観を持つある夫婦とソーシャルネットワーク上で分かち合う中で、神への信頼や、信仰に基づいた家庭生活のあり方に目覚め、教会での結婚を望むようになった」と体験を語った。

「聖性への招き」では、2018年に列福調査が始まったキアラ・コルベッラ(1984-2012)の両親が証言。娘のキアラは、妊娠中に発病したが、胎児に影響を与える治療を出産まで行わないことに決め、出産。だが、本人の病は出産後の治療のかいもなく、約1年後に天に召された。そのキアラの信仰と愛を振り返った。

「赦しへの招き」では、結婚して27年、3人の子をもつコンゴ人の夫妻が、結婚生活の起伏を語った。妻は、夫の不誠実を理由に離婚を決意し別居したが、家庭の大切さに気付いた夫の懇請を受けて、教会の家庭司牧のグループのカウンセリングやケアを夫婦で受け、夫を赦し、結婚生活を立て直した体験を話した。

「受容への招き」では、ロシアの軍事侵略で家を追われ、避難して来たウクライナ人母子を受け入れたローマ在住の夫婦が経験を語った。夫婦は6人の子持ちだが、家族で話し合った結果、「いつも教会や周囲から支えられ、受け入れられている、と感謝しており、今度は自分たちが、困っている人を受け入れることを決めた」とし、多くの人と連帯する喜びを説明。

 また、彼らに受け入れたもらったウクライナの母子は、突然始まったロシアの軍事侵攻の恐怖、父や夫との離別の悲しみ、生活の不安を語るとともに、信仰の大切さ、受け入れてくれた家族の温かさ、出会いによる救いに感謝を述べた。

 最後のテーマ、「兄弟愛への招き」では、コンゴ民主共和国駐在のイタリア大使だったルカ・アタナシオ氏の妻、ザキア氏が体験を語った。アタナシオ大使は昨年、同国で武装集団の銃撃により殺害された。モロッコ出身でイスラム教徒であるザキア氏は、イタリア人でカトリック教徒の夫との国籍や宗教を超えた、互いへの尊敬と調和に満ちた家庭生活を振り返った。

 そして、世界食糧計画(WFP)のプロジェクトのために移動中に殺害された夫の人道援助活動を紹介し、「天国の夫に支えられながら、残された娘たちと共に、愛と平和と正義のために努力し、夫が遺したプロジェクトを受け継いでいきたい」と抱負を語った。

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年6月23日

◎教皇連続講話「老年の価値と意味について」⑮「老年期は”弱さの中に強さを見い出す時”」

Pope Francis greets the crowds gathered in St. Peter's SquarePope Francis greets the crowds gathered in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは22日の水曜恒例の一般謁見で、「老年の価値と意味について」の講話をお続けになり、「年配の人たちは、キリストに従い、キリストを証しするために、自分の弱さと無力さを受け入れる必要があります」と語られた。

 この日の連続講話で教皇はまず、ヨハネ福音書の最後の部分にある、復活されたイエスがペㇳロと食事後に交わした会話(21章15-23節)を振り返り、「人は年齢とともに体力を徐々に失っていくが、それがキリストに従う新たな道を歩み始める機会となる」と指摘。

 また、この会話で示されたペトロのイエスとの関係は、「優しく、直接的で、自由で、開かれたものであり、悲しみをもらたすようなものではないー”真実の関係”です」とされた。

 

*真理を甘く包み込む

 イエスはペトロに「私を愛しているか」と聞かれ、「それはあなたがご存じです」と答えたペトロに、「私の羊の世話をしなさい」と言われる。「それでも、二人はいつものように、同じやり取りを繰り返します… イエスと弟子たちとのこのような関係ーとても開放的で、とても率直で、とても直接的で、とても人間的な関係ーを、私たちがもち続けられるでしょうか」と問いかけ、「私たちが陥りやすい傾向は、福音書で明らかにされた真理を”甘く包み込み”、イエスから離れることです」と指摘された。

*虚弱な中での忠実さ

 また、教皇は、「イエスは、ペトロに対して、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行くが、年を取ると、他人に帯を示され…と弱さを伴うようになる、と警告しておられます」いるとされ、「イエスの言葉は、ペㇳロに殉教と死をほのめかすだけでなく、老後に新しいやり方で証しをすることを学ぶように促している、と理解することもできます」と語られた。

 そして、「主に倣う人は、身なりを整え、歩く時でさえも、自分の弱さ、無力、他者への依存によって、導かれ、形作られるのを認めることを学ばねばならない… 老年期に、私たちは、他者に大きく依存する暮らしの中で、着実に証しすることを学ぶのです」と強調。「自分自身の力ではなく、他の人に頼る弱さが顕わになる人生のこの時期の意味を真に理解することのできる霊性が、私たちにあるでしょうか?」と問いかけられた。

*試練と証し

 続けて教皇は、「老年期は、確かに試練と誘惑の時。ペテロがイエスの胸元にいる若い弟子を見ながら、『この人はどうなるでしょうか』と問いかけた中に、その真理を示しています… イエスの答えは、率直で、ざらついてさえいましたー『あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい』と」と語られ、「自分よりも長生きする若者を、うらやましく思ってはならなりません」と諭された。

 さらに、「彼らの誓った愛への貞節の名誉、彼らが帰依する信仰に倣うことへの忠誠は、来るべき世代への称賛と感謝の気持ちの称号です。たとえ、人生の別れの時が近づいている場合であっても、です」と念を押された。

*人生の最良の部分

 最後に教皇は、年配者に対し、「主に耳を傾け、主を深く思う、という主に倣う”強制された動きの無い振る舞い”が、あなたがたの人生のもっとも良いもの、となる」と請け合われた。

 

Pope Francis in St. Peter's Square at the weekly General Audience

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月22日

☩「核兵器は”平和”の幻想の中でリスクを増大させる」ー核兵器禁止条約第1回締約国会議へ

教皇フランシスコ 2019年11月19日 広島訪問で2019年11月19日の広島訪問で、祈りを捧げられる教皇フランシスコ  (Vatican Media)

 教皇フランシスコが21日、同日ウィーンで始まった核兵器禁止条約第1回締約国会議にメッセージを送られた。

 メッセージで教皇は、「現在の世界の状況の中で、軍縮について語ること、あるいはそれを支持することは、多くの人には矛盾したものに見えるかも知れません」と前置きし、それにもかかわらず、「国と世界の安全、兵器拡散のリスクをめぐる近視眼的アプローチの危険を自覚する必要」があることを強調された。

 そして、「私たちがが軍縮に取り組まなければ、その代価として支払われるのは、無実の人々の命です」とされ、「すべての武器を収め、精力的な交渉によって紛争の原因を取り除くように」と訴えられた。

 また、教皇は、「ある人たちの安全と平和が、集団の安全や他の人の平和と切り離されたものだ、と考えるのは、錯覚であり、非生産的な考え方です」と指摘。新型コロナウイルスの世界的大感染が私たちに与えた教訓を生かすように求められた。

 さらに、「バチカンは、核兵器のない世界は必要であり可能と確信します」とされ、「核兵器は、重大で危険な責任を人々に負わせ、”一種の平和”の幻想を与えながらリスクを増大させるもの… 核兵器の使用および保有は倫理に反します」と強調された。

 「国際的な軍縮合意や国際法に加わること、それを尊重することは、弱さの表現ではありません… 信頼と安定を育む、強さと責任の源となり、核兵器禁止条約がそうであるように、被害者への援助と環境の修復へ国際的協力を促すものとなります」と訴えられた。

 また教皇は、広島と長崎の原爆の被爆者はもとより、核兵器実験のすべての犠牲者に思いを向けられるとともに、核兵器禁止条約を実効あるものとするための基礎を固め、人間の尊厳と兄弟愛に基づく命の文化と平和への道を着実に歩むよう、会議の参加者はじめ世界の指導者たちに強く促された。

 なお、このメッセージは、この会議の議長、アレクサンダー・クメント・オーストリア外務省軍縮局長あてに出され、会議初日の21日に、バチカンのポール・リチャード・ギャラガー外務局長が代読した。

(編集「カトリック・あい」)

2022年6月22日

☩「ソーシャル・ネットワークは、コロナ禍の教会活動に有効に使われている」

Catholics attending Mass online during the pandemicCatholics attending Mass online during the pandemic 

*コロナ禍の教会

 序文で、教皇はまず、新型コロナの大感染について「教会活動にも深刻な影響をもたらし、ミサ聖祭を共に祝うことも、病気の人たちの側にいることもできなくなり、『構成的な脆弱性』と対峙することを余儀なくされた」と語られた。

 そしてその中で明らかになったのは、この苦難は、私たちが力を合わせれば切り抜けられる、という確信だけでなく、「技術的な手段とソーシャルネットワークがいかに有用であるか」ということだ、と指摘。

 「最新の技術やソーシャルネットワークを使って、信徒たちに神の言葉を伝え、信徒たちがミサにオンラインで参加できるようにするなど、信徒と教会共同体の関係を維持するために数多くの取り組みがされている」、そして、ソーシャルネットワークは「人々が互いに連絡し合い、必要なことを伝え、孤独を感じないようにし、慈善活動を活性化し、再会を待ちわびながらネット上で顔を合わせるのに使われました」とその効用を述べた。

 たしかに、この過程で「間違いや過ちもあったが、重要なのは、「これらの試みが、伝達者の積極支援ではなく、メッセージの伝達に主眼が置かれたときに、とても有用である、ということを私たちは認識せねばなりません」とし、「専門家の見方では、バーチャルな出会いの技術が頻繁に使われることで生まれた変化は、新型コロナウイルスの感染が収まった後も、続いて行く可能性が強い、とされています」と語られた。

 

*デジタル通信に関する教育

 また教皇は、イタリア・ウエブマスター協会 (WECA) が過去二年間、新技術を通して、教会共同体とのつながりを維持し、司牧にデジタルの手段を活用できるように、あらゆる世代の司祭たちを助けてきたことを評価された。

 出版されるこの本は、教会とデジタル・コミュニケーションに関する何十通りものアイデアを提供し、とくに、コロナ禍の緊急時において前向きに自発的な訓練を受ける必要のある司祭たちのために工夫されている。

 「リスクとともにその重要性を認識して、デジタルの通信手段の活用を高めていくために、やるべきことは多い。“聴く”方法を学ぶためにやるべきことはたくさんあります。を利用する際に、これらのツールの使用に伴うリスクだけでなく、重要性を認識して一緒に成長するために、実際にやるべきことが多い。 聞く方法を学ぶために、小教区のウエブサイトを活性化することのできる”デジタル世代”の若者たちの参加を求め、訓練するために、やるべきことはたくさんあります」と教皇は書かれている。

 

*ウェブー出会い、聴くための空間

 その一方で、教皇は「インターネットを通じての”仮想”の出会いは、実際に顔と顔を合わせる出会いの素晴らしさに取って代わることはできず、置き換わることはできない」としたうえで、デジタルの世界には「もっと人との意思疎通を図り、もっと人の話を聴き、分かち合う、新たな社交の形の主役になれるキリスト教徒も住んでいます」。そして、「その世界が、時として、大変な騒ぎ声とフェイク・ニュースによる汚染で覆われてしまっているように見えたとしても、webは”出会い、聴くための空間”にもなり得るのです」と強調された。

 最後に教皇は、「私たちが本当に”ネットワーク”を築けるとしたら、仮想空間が取って代わるのでなく、私たちの生身の社会的関係のweb(くもの巣状に張り巡らされたネットワーク)のウェブを助けるとしたら、web(インターネット上で標準的に用いられている文書の公開・閲覧システム)が、私たちに孤独を感じさせることはないでしょう」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月21日

☩軍事クーデターから1年4か月ー教皇、「苦難続くミャンマーの人たちを忘れないように」と訴え

Karen people crossing the Salween river into Thailand to seek refuge from airstrikes in Myanmar's eastern Karen stateKaren people crossing the Salween river into Thailand to seek refuge from airstrikes in Myanmar’s eastern Karen state 

(2022.6.19 Vatican News  By Linda Bordoni)

    教皇フランシスコは19日の正午の祈りの説教のあと、昨年2月の軍事クーデターから1年4か月たったミャンマー情勢に言及され、「依然として暴力にさらされ続けているミャンマーの多くの人々の苦しみから目をそらさないように」と訴え、世界の指導者や人々、関係機関に行動を起こすよう強く求められた。

 教皇は、「ミャンマーの司教たちは、自分たちの国、人々のことを忘れないように、と訴えています。私もこの訴えに加わります」とされ、世界の指導者や人々、関係機関などに「ミャンマーの人たちの尊厳と生命への権利を尊重し、そして礼拝の場、病院、学校を守ることを忘れないでください」と要請。

 「基本的な人道援助を受けられず、家を焼かれ、暴力から逃れるために故郷を捨てさせられた、極めて多くのミャンマーの人たちの苦痛の叫びが、繰り返し聞こえます」と重ねて訴えられた。

 ミャンマーのカトリック司教協議会はこのほど開いた総会で、自国で続く内戦の矢面に立たされ続けている人々の窮状に対する深い懸念を示す共同声明をまとめ、「あらゆる分野で、人間の命と尊厳が守られるように。人間の尊厳と生存権は決して侵害されてなならない。私たちは命の尊重と礼拝所、病院、学校の神聖さが守られるよう強く求めます」と訴えている。

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 現地の人権団体AAPPによると、昨年2月1日の国軍によるクーデター発生以来、17日現在で1963人が殺害され、1万4156人が逮捕され、うち1万1096人が拘留されている。 国連難民高等弁務官事務所によると、難民は国内だけで80万人以上にのぼっているが、国軍は、依然として、教会や関連施設を標的にし続けていると伝えられている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月20日

☩「聖体の中に、私たちに与えられた主の命がある」キリストの聖体の主日・正午の祈りで

Pope Francis at AngelusPope Francis at Angelus  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは19日、キリストとの聖体の主日の正午の祈りで、聖体の中におられる主が、私たち1人ひとりを温かく迎え、私たちを見守り、私たちの求めるものー心の栄養、親交、慰安ーをかなえてくださる、と語られた。

   この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(9章11b-17節)に言及された教皇は、「最後の晩餐でイエスが制定されたパンとぶどう酒の祭儀は、イエスがいくつかのしるしーそして何よりもこの箇所で書かれている(5つのパンを5000人分にした)パンの奇跡ーを通してあらかじめ示された旅の目的地のようなものでした」と指摘された。

*誰もが主の愛情深い心配りを体験できる

 教皇は、イエスが、ご自分の話を聴き、様々な悪から解放されるために、後を追ってきた群衆たちに、どのような心配りをされたかに、注意を向けられた。そして「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせ、人々は皆、食べて満腹しました」(9章16-17節参照)とされ、「聖体の祭儀の中で、誰もが、このような主の愛情深く、具体的な心配りを体験することができるのです」と説かれた。

 さらに「信仰をもって、キリストの体と血をいただく人は、単に”食べる”だけでなく、”満たされる”のです。『食べること』と『満たされること』ーこれが、聖体祭儀の中で満たされる二つの基本的であり不可欠のことです」と強調され、「主は私たちに天に国籍をもつよう求められます(フィリピの信徒への手紙3章20節参照)が、同時に、この地上で私たちが向き合わねばならない旅を考慮に入れておられます」と述べられた。

 

*聖体祭儀は、日々の暮らしからかけ離れてはいない

 また教皇は、時として、聖体祭儀を、漠然とした次元ーおそらく輝いていて、薫り高いけれども、日々の暮らしの困難な実情とはかけ離れたものーに押し込めてしまう危険を冒すことがあるが、「実際は、主は、私たちが必要としているすべてのことを心に掛けられ、最も基本的に必要とされることからお始めてくださいます。そして、イエスがなさるように自分の隣の人たちに心配りをするとき、私たちは、聖体礼拝の価値を知ることができるのです」と説かれた。

 さらに、「私たちの周りには食べ物への“飢え”だけでなく、仲間意識、慰め、友情、ユーモア、気遣いへの”飢え”があります。それを満たすものが、聖体のパンの中にあるー私たちの求めに対するキリストの気づきと、私たちの側にいる人たちにそれと同じことをするように、という勧めがあります。私たちは自分が食べるように、他の人たちも食べるようにする必要があるのです」と語られた。

 

*聖体の中に、私たち一人ひとりに与えられた主の命がある

 続けて教皇は、「”食べること”に加えて、”満たされること”を忘れることはできません。私たちは自分を養う必要があるだけでなく、満たされ、養いが愛によって私たちに与えられていることを知る必要があります」とされ、「キリストの体と血の中に、私たちは主の実在、私たち1人ひとりに与えられた主の命を見つけます」と説かれた。

 さらに、「イエスは、私たちに前に進むための助けをくださるだけでなく、私たちにご自身をくださるのですー私たちの旅の同伴者とされ、私たちの日々の出来事に介入され、私たちが孤独な時に訪問され、熱心さを取り戻してくださいます」とし、「それが私たちを”満たす”ことであり、誰もが主の実在を、もっと見つけようとするようにさせてくださるのです。主の実在の温かさゆえに、私たちの人生は変わります。主がおられなければ、すべてはまったくの灰色になってしまうでしょう」と強調された。

 そして最後に、「キリストの体と血を讃え、心を込めて主に願いましょうー『主よ、前に進むために日々のパンをお与えください、そして、あなたの存在で私を満たしてください!』」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月19日

◎教皇連続講話「老年の価値と意味について」⑭「主は年配者たちに奉仕する力を取り戻してくださる」

Pope Francis arrives for the weekly General AudiencePope Francis arrives for the weekly General Audience  (AFP or licensors)

(2022.6.15 Vatican News By Benedict Mayaki, SJ)

 教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見で、「老年の価値と意味について」をテーマにした講話をお続けになり、年配の人たちに対して、”自分を脇に追いやる”誘惑に打ち勝つように求め、「主はあなたがたを捨てたりしない。奉仕する力を取り戻させてくださいます」と勇気づけられた。

 この日の講話で、教皇はまず、マルコ福音書に書かれている、イエスが弟子のシモンの姑を癒やされた話(1章30-31節)を取り上げられた。

 そして、「(シモンの姑は熱を出して寝ていた、と書かれているが)彼女の病が軽いものであったかどうか分かりません。しかし、高齢になると、単純な発熱でさえ、危険な場合があります」とされ、「年をとると、体が言うことをきかなくなります。ですから、何をすべきか、何をすべきでないかを選ぶのを学ばねばなりません」と指摘。

 さらに、「年をとると、身体的な活力が衰え、心が求め続けても、あきらめざるを得なくなる。熱望を覚まし、忍耐し、体について、命について問うのを選ぶ ことを学ばねばならなくなるのです」と説かれた。

 

*病いと年配者

  また教皇は、「病気は、青年や壮年の時とは違った新たなやり方で、年配者を圧迫します。高齢になってからの病気は、死期を早め、既に短くなっている”生きる時間”をもっと短くすると見なされ、 多くの年配者に『自分たちの病いは治らないという』という疑いをもたせ、将来への希望を失わせるかも知れません」。

 そのような時、「マルコ福音書の(熱を出したシモンの姑を訪問する)箇所は、私たちに希望を待たせ、教訓を提供します。それは、イエスが病気の女性を、一人ではなく、弟子たちと一緒に見舞われた、ことです」とされ、「同じように、キリスト教信徒の共同体は、高齢の知人や友人の世話をせねばなならない」と語られた。

 

*キリスト教共同体と年配者

 続けて教皇は「特に年配者が増えている今、彼らのところへの訪問を、多くの人が一緒になって、頻繁にする必要があります。孤独でいることの多い年配者を訪ね、祈りで彼らを主に向ける責任を感じるべきでしょう」と話され、「老い、障害や深刻な病気をかかえ、衰えていくときにおいてさえも、大事であるとということを認識するとき、社会は生き生きとしたものになるのです」と強調。

 イエスは、熱を出して寝ているシモンの姑を見舞い、手を取って起こされ、癒された。「この愛の行為をもって、イエスは弟子たちに”最初の教訓”を与えます-『病気の人への気遣いを通して、救いは告げられ、いや伝えられ、そうして、自分に身をかがめて接してくださった神の優しさに対する感謝の気持ちで、彼女の信仰は光輝くのだ』ということを」と教皇は語られた。

 

*高齢者による奉仕

 そして、イエスに癒された彼女は「一同に仕えた」(マルコ福音書1章31節)。このことが、「私たちに与えられた”二つ目の教訓”です。つまり、年配であっても、共同体に奉仕することができるし、そうすべきなのです。奉仕する責任を育み、”自分を脇に追いやる”誘惑を克服すべきなのです。なぜなら、主は、彼らを拒まれないどころか、彼らに奉仕する力を回復させるからです」と強調。

 さらに、「自分たちの兄弟姉妹を癒し、慰め、神に執り成しをしようとする意欲を持ち続ける年配者たちは、おそらく、”信仰を伴う感謝の純粋さ”を示す最高の証人と言えるでしょう」とされ、「年配の人たちが、共同体に拒絶されず、活動から排除されず、皆の集まりの中心に置かれるなら、神への貴重な感謝の行為を彼らに促すことにつながる」と語られた。

 

*女性の奉仕

 続けて教皇は、「イエスが弟子たちに教訓として示された執り成しと奉仕の精神は、女性だけに向けられたものではない。なぜなら、イエスの言葉と行いからは、そうした限定を見て取れないからです。神の優しさに対する福音的な感謝の奉仕は、”主人である男性”と”奉仕する女性”という文脈で書かれているわけではありません」と注意された。

 「だからと言って、女性は、感謝と信仰の優しさについて、男性が理解しにくい、いくつかのことを彼らに教えられる、ということを否定すべきではないでしょう。弟子たちが家に来る前に、ペトロの姑はイエスに従う道を彼らに示しています」と語られた教皇は、シモンの姑の”手を取って起こされる”というイエスの特別な優しさにも注目され、この行為は、「イエスが母から学ばれた、弱者と病人に対する特別な感性を示しています」と説かれた。

 そして最後に、「若者が年配者の知恵を学ぶことができるように、若者と年配者が共に過ごせるように努める」ことを信徒たちに求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月15日

☩11月の 「第6回貧しい人のための世界祈願日」へー教皇がメッセージ

「第6回貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ発表「第6回貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ発表 

(2022.6.14 バチカン放送)

 11月13日のカトリック教会「第6回貧しい人のための世界祈願日」に先立ち、教皇フランシスコが14日、メッセージを発表され、今年度のテーマである聖パウロの言葉ー「主はあなたがたのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)を取り上げ、「私たちを豊かにするキリストの貧しさ」という”信仰の偉大なパラドックス”を強調された。

 ロシアがウクライナ侵攻を始める前、世界は、新型コロナの大感染で多くの人々の命を失った悲しみを抱えながらも、その嵐から抜け出そうとしていた。失業で貧困に陥った人々の苦しみを和らげる経済回復の兆しが見え始め、ようやく青空がのぞこうとした時、ウクライナ侵攻という新たな悲劇が、「世界に別のシナリオを強いることになりました」と教皇は指摘。

 そして、「戦争は多くの死と破壊と貧困をもたらし、暴力が至る所で無防備で弱い立場の人々を襲っている」とし、「不確実と不安の中に置き去りにされた多くの人々の苦しみを和らげ、平和を取り戻すために、どのような答えを出すことができるでしょうか」と世界の人々に 問いかけている。

(使徒パウロは、コリントの信徒たちに対し、「主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした」(コリントの信徒への手紙2・8章9節)と書き送った。そして、この言葉を通して、助けを必要とする兄弟たちへの彼らの慈善の業を、堅固なものにしようとした。

エルサレムを訪問したパウロは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネたちと出会った。彼らは貧しい人々を忘れないようにとパウロに頼んだ。実際、エルサレムの共同体は、飢饉のために重大な困難に直面していた。パウロはすぐに貧しい人々のための募金を計画した。コリントの信徒たちは非常に快くそれに協力した。しかし、次第に彼らの最初の熱意が薄れてきたのを感じたパウロは、「心からそう願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです」(コリントの信徒への手紙2・8章11節)と励ました。)

 教皇は「『連帯』とは、まさに自分が持っているわずかなものを、何も持たない人々と分かち合うことであり、共同体の意識と交わりが育てば育つほど、連帯も成長します」と説かれた。 また、パウロがコリントの信徒たちに慈善の業を強要していない点を指摘された。

 実際、パウロは「こうは言っても、私は命令するのではありません。[…] あなたがたの愛が本物であるか、確かめたいのです」(同8章8節)と、イエスご自身が証しされたように、募金が愛のしるしとして行われることを願っている。

 こうしたことから、教皇は、「貧しい人々を前に、理屈ではなく、自発的に信仰を実践に移すことが大切です」と強調。さらに、「貧しい人々に対して、しばしば心の通わない一方的な支援の態度が見られるが、重要なのは、『誰もが必要なものに欠けることがないように』努力すること、兄弟として貧しい人に寄り添う誠実で寛大な配慮をすること、です」と語られている。

 教皇は「昔も今も、『人を豊かにする貧しさがある』という”パラドックス”を受け入れることは難しい」とされ、「しかし、パウロは、イエスの教えにあるように『虫が食ったり、さび付いたり、盗人が忍び込んで盗み出したりする』(マタイ福音書6章19節)地上に富を積むのではなく、誰も見捨てられたり、疎外されることのない、互いに重荷を背負い合う、相互の愛の中に富を積むように、私たちを促しているのです」と指摘された。

 最後に教皇は、「人を解放する貧しさとは、積み荷を軽くし、本質を見つめるために、私たちに託された責任ある選択のこと」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の日本語訳は原文の意味に近く、日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」に改めてあります)

2022年6月15日

☩「ウクライナにおける悲惨な戦争に、世界の児童労働に、慣れてはならない」教皇、正午の祈りで

A Ukrainian flag held up by the faithful gathered in St. Peter's SquareA Ukrainian flag held up by the faithful gathered in St. Peter’s Square  (Vatican Media)

(2022.6.12 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

   教皇フランシスコは12日、三位一体の主日の正午の祈りの後で、ウクライナで続いている悲惨な戦争に慣れ、関心を失わないように警告された。

 また、この日は国際労働機関(ILO)が提唱する児童労働反対世界デーにあたり、児童労働の「惨劇をなくす」用改めて訴えられた。

 ロシアによる軍事侵略が続くウクライナについて、教皇は、「この悲劇的な現実」に苦しんでいる人たちのために、心の中で、祈り続けることを忘れないように、時とともに慣れてしまわないように、と信徒たちに警告。

 「戦争で苦しみにあえぐウクライナの人たちは、私の心の中にいつも生きています」と語られた。

 また、児童労働反対世界デーのこの日にあたって、児童労働に改めて反対の声を上げるよう訴えられ、「労働で搾取される子供たちは、私たち全員にとっての酷い現実です!」と強調された。

 今年の世界デーのテーマは「児童労働を終わらせるための世界中での社会的保護の実現」。強固な社会的保護の体制を確立し、児童を不当な労働から守る社会的保護システムのための投資拡大を世界各国や国際機関に求めている。

 国連の統計によると、2020年現在、世界の5歳以上の子供たちの10人に1人が労働をさせられている。人数にして推定6300万人の少女と9700万人の少年、合わせて1億6000万人上る計算だ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年6月12日

☩ 「聖三位一体は私たちの生き方に革命的な変化をもたらす」教皇の三位一体の主日・正午の祈り

Pope Francis leads the Regina Coeli prayerPope Francis leads the Regina Coeli prayer  (ANSA)

 

*私たち自身はどうなのか?

 教皇はまた信徒たちに、「自分自身を見つめ、私たちが語り、所有しているものを注意して見るように」と促され、「私たちが語るとき、自分自身について、自分がしていることについて語る傾向があります。他者を告げ知らせる聖霊とは何と異なることでしょう… 私たちは、自分が持っているものを他者と分かち合わず、しっかりと抱えてしまう傾向があります」と嘆かれた。

(以下は英語版原文のまま掲載します)

Living for others, and shown through our actions

The Holy Father stressed that our words must translate into actions.

“This is why,” Pope Francis said, “celebrating the Holy Trinity is not so much a theological exercise, but a revolution in our way of life.”

God, in whom each Person lives for the other, not for himself, provokes us to live with others and for others.

“Today we can ask ourselves if our life reflects the God we believe in: do I, who profess faith in God the Father and the Son and the Holy Spirit, truly believe that in order to live I need others, I need to give myself to others, I need to serve others? Do I affirm this in words or with my life?”

God, One and Triune, the Pope underscored, must be shown with deeds rather than words.

God, the Pope continued, “is transmitted not so much through books, but rather through the witness of life.”

“Think about good, generous, meek people we have met; recalling their way of thinking and acting, we can have a small reflection of God-Love. And what does it mean to love? Not only to wish them well and to do good, but first and foremost, at the root, to welcome others, to make room for others, to give space to others. This is what it means to love…”

We are not islands

The Trinity, the Pope said, teaches us that one can never be without the other.

“We are not islands,” the Holy Father noted, “we are in the world to live in God’s image: open, in need of others and in need of helping others.”

He encouraged the faithful to ask themselves: “In everyday life, am I too a reflection of the Trinity?”

“The Sign of the Cross that I make every day, remains a gesture for its own sake, or does it inspire my way of speaking, of encountering, of responding, of judging, of forgiving?”

Pope Francis concluded, praying: “May Our Lady, daughter of the Father, mother of the Son and bride of the Spirit, help us to welcome and bear witness in life to the mystery of God-Love.”

  (以上翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

バチカン放送日本語課による教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 今日、「三位一体」の祭日、福音の中でイエスは神なる三つのペルソナ(位格)のうちの二つのペルソナ、御父と聖霊について説明されています。

 イエスは聖霊について、「その方は、勝手に語るのではなく[…]私のものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネ福音書16章13-14)節)と言われます。続いてイエスは御父について、「父が持っておられるものはすべて、私のものである」(同16章15節)と言われました。

 ここで分かることは、「聖霊は語られるが、語るのは自分のことではない、聖霊はイエスを告げ、御父を啓示される」ということ、また、「あらゆるものの源である御父はすべてを持っておられ、そのすべてを御子に与えられる」ということです。

 さて、私たち自分を見てみましょう。私たちが話すこと、持っているものについて考えてみましょう。私たちが話す時、自分を良く見せるように話し、時には自分自身や、自分がしていることだけを話そうとする。御自分以外の方を告げ語られる聖霊とは、何と違っていることでしょう。自分が持っているものに対し、私たちは何と用心深く、他者とそれを分け合うことは何と難しいことでしょうか。

 聖三位一体を祝うことは、神学的な行為であるだけでなく、私たちにとっての生き方の革命なのです。それぞれのペルソナが他のペルソナのために生きておられる神は、私たちに他者と共に、他者のために生きるようにと招いておられます。三位一体の神を信じる私は、生きるために他者を必要とすることを本当に信じているでしょうか。他者のために自分を与えることができるでしょうか。それを言葉だけでなく行動で示すことができるでしょうか。自問してみましょう。

 三位一体の神は、言葉より先に、行いで示される。ヨハネ福音記者が書いているように「神は愛」(ヨハネの手紙1・4章16節)です。では、愛するとはどういうことでしょうか。それは、単に相手を大切に思ったり、相手によくすることではありません。それ以前に基礎にあるのは、他者を受け入れ、他者のために心のスペースを割くことです。

 三位一体の神は、それぞれのペルソナの名の中に、他のペルソナの存在を表しています。たとえば、御父は御子なしではありえません。同じように、御子は御父なしで考えることはできません。そして、聖霊は、御父と御子の霊です。三位一体は、他のペルソナの存在なしではありえないことを教えているのです。

 私たちは孤立した存在ではなく、神の似姿を生きるためにこの世にいます。それは、開かれ、他者を必要とし、他者を助けることを必要とする生き方です。

 では、再び自問しましょう。私も毎日、三位一体を反映した生き方をしているでしょうか。毎日の十字のしるしは、単なる動作にすぎないのか。それとも私にとって話すこと、出会うこと、答えること、裁くこと、赦すことに影響を与えているのでしょうか。

 御父の娘にして、御子の母、聖霊の花嫁である聖母が、私たちが愛である神の神秘を受け入れ、それを生活の中で証しできるよう、助けてくださいますように。

 (編集「カトリック・あい」=聖書の引用の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2022年6月12日