☩「神は世界のすべての家族を祝福し、守ってくださる」世界家庭大会ミサで

(2022.6.25 Vatican News  Linda Bordoni)

Holy Mass for the WMOF2022

 22日から始まった第10回世界家庭大会は、25日夕(日本時間26日未明)、バチカンで、教皇フランシスコが出席され、ケビン・ファレル枢機卿が司式するミサで大詰めを迎えた。

 ミサ中の説教で教皇は、「家庭は、私たちが互いを愛することを学ぶ第一の場所です」とされて家庭の価値を改めて重視するとともに、 利己主義、個人中心主義、無関心と浪費の文化によって毒された世界で、「私たちは、従来以上に家庭を守ることを強いられていると感じています」と語られた。

(2022.6,25 バチカン放送)

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)ーこのミサで読まれた第二朗読の中で、使徒聖パウロは、キリスト者にとっての自由を神の賜物としてこのように強調しています。

 私たちは皆、内的、外的に多くの条件を持って生まれますが、自分を中心に据え、自身の利益のために動くエゴイズムの傾向を持っています。キリストはこの隷属の状態から私たちを解放されたのです。

 ここで聖パウロは誤解を避けるために、神から与えられた自由は「肉を満足させる機会」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)とするための「偽りで虚しい、この世の自由ではない」と注意しています。キリストがご自分の血の代価をもって、私たちのために得てくださった「自由」は、「愛によって互いに仕えなさい」(同)と使徒パウロが言うように、すべて愛へと向かうものなのです。

 自分の自由を自分自身のために使わず、神が私たちの隣に置いてくださった人々を愛するために使いましょう。「島」のように孤立して生きるのではなく、「互いに仕える」ために私たちは召されています。「家庭において自由を生きる」とはこういうことです。惑星や衛星のようにそれぞれの軌道を回るのではなく、「家庭」とは、出会い、分かち合い、受け入れ、寄り添い合う場所です。そして、何よりも「愛することを学ぶ第一の場所」なのです。

 家庭の素晴らしさを確認する一方で、私たちは家庭を守らねばなりません。家庭がエゴイズムや個人主義、無関心や切り捨ての文化に毒され、受け入れと奉仕のそのDNAを失わないように守る必要があります。

 第一朗読「列王記上」に書かれたエリヤとエリシャの関係は、「世代間の関係」を思い起こさせます。

 親たちは「子供たちが複雑で混乱した世の中で道を見失うのではないか」と心配しています。そうした不安を抱える親たちの中には、世に新たな命を送り出す気持ちを失う人々もいます。

 エリヤとエリシャの関係を考えてみましょう。エリヤは試練に遭い、未来が危ぶまれた時に、後継者としてのエリシャに油を注ぐよう、神から命じられました。神はエリヤに、「この世は彼の代で終わらない」ことを理解させ、彼の使命を他の者に受け継がせるように、命じたのです。

 エリヤが自分の外套をエリシャに投げかけると、その時からエリシャは、イスラエルにおける預言者の使命を、師であるエリヤから受け継ぐ者となります。そうして、神は若きエリシャへの信頼を示されたのでした。

 世の親たちが、こうした神のなさり方を観想することは、どれほと大切なことでしょう。神は若者たちを愛されますが、だからといって彼らをあらゆるリスクや試練、苦しみから遠ざけることはなさいません。神は心配性でも過保護でもなく、若者たちを信頼し、それぞれに合った生き方や使命へと招かれます。

 今日の福音朗読、「ルカによる福音」では、「イエスの弟子となるための覚悟」が、どういうものかが記されています。「イエスにどこでも従います」と言う人に対し、イエスは「人の子には枕する所もない」(ルカ9章58節)と答えられました。「イエスに従う」ということは、イエスと共に人生の様々な出来事を体験しながら、常に「旅の状態にある」ということです。

 結婚した皆さんにとって、それはいかに真実であるか。皆さんは、結婚して家庭を築くという召命に応えて、自分の「巣」を後に、旅に出ました。その歩みは、新しい出来事や、予期しない状況に次々と出会いながら、とどまるということがありません。「主と共に歩む」ということは、そういうことです。ダイナミックで予見しがたく、常に素晴らしい発見に満ちています。イエスの弟子にとっての休息は、日々、神の御旨を果たすことの中にあることを忘れてはならなりません。

 別の人は、イエスに従うにあたって、「まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのに対して、イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と答えられます(ルカ9章59-60節参照)ー。これは十戒の「あなたの父母を敬え」という掟を軽視しているのではなく、「私のほかに神があってはならない」という最初の掟、「何にもまして神を愛せよ」という招きに、まず従順でありなさい、ということなのです。

 もう一人の「私に家の者たちに別れを告げることを許してください」と言った人に対しても、イエスは、「たとえ家族に別れを告げたいと思っても、イエスに召された者は『後ろを振り返ること」があってはならない、と答えています(ルカ9章61-62節)。

 イエスは、結婚と家庭の召命に呼ばれた皆さんにも、後ろを振り返らず、前を見て進むように、と願われています。そして、イエスはその歩みと愛と奉仕において、いつも皆さんの前を歩み、導いておられます。ですから、イエスに従う者は決して失望することがないのです。

 皆さんが、家庭の愛の道を決意のうちに歩み、すべての家族のメンバーとこの召命の喜びを分かち合うことができますように。皆さんが生きる愛が、常に開かれたものとなり、人生で出会う最も弱い立場の人々、傷ついた人々に触れることができますように。

 教会は、皆さんと共に、いや、そう言うよりも、教会は皆さんの中にあります。教会は、ナザレの一つの家庭から生まれ、家族を成しています。神が愛であり、いのちの交わりであることをすべての人に示しながら、皆さんがいつも一致と平和と喜びのうちに生きることができるよう、主の助けを祈りましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=文中で引用された聖書の日本語訳は、聖書の原点にかえって、現在日本語に相応しい言葉使いで翻訳された「聖書協会・共同訳を使用しています)

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2022年6月26日