☩「聖体の中に、私たちに与えられた主の命がある」キリストの聖体の主日・正午の祈りで

Pope Francis at AngelusPope Francis at Angelus  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは19日、キリストとの聖体の主日の正午の祈りで、聖体の中におられる主が、私たち1人ひとりを温かく迎え、私たちを見守り、私たちの求めるものー心の栄養、親交、慰安ーをかなえてくださる、と語られた。

   この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(9章11b-17節)に言及された教皇は、「最後の晩餐でイエスが制定されたパンとぶどう酒の祭儀は、イエスがいくつかのしるしーそして何よりもこの箇所で書かれている(5つのパンを5000人分にした)パンの奇跡ーを通してあらかじめ示された旅の目的地のようなものでした」と指摘された。

*誰もが主の愛情深い心配りを体験できる

 教皇は、イエスが、ご自分の話を聴き、様々な悪から解放されるために、後を追ってきた群衆たちに、どのような心配りをされたかに、注意を向けられた。そして「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせ、人々は皆、食べて満腹しました」(9章16-17節参照)とされ、「聖体の祭儀の中で、誰もが、このような主の愛情深く、具体的な心配りを体験することができるのです」と説かれた。

 さらに「信仰をもって、キリストの体と血をいただく人は、単に”食べる”だけでなく、”満たされる”のです。『食べること』と『満たされること』ーこれが、聖体祭儀の中で満たされる二つの基本的であり不可欠のことです」と強調され、「主は私たちに天に国籍をもつよう求められます(フィリピの信徒への手紙3章20節参照)が、同時に、この地上で私たちが向き合わねばならない旅を考慮に入れておられます」と述べられた。

 

*聖体祭儀は、日々の暮らしからかけ離れてはいない

 また教皇は、時として、聖体祭儀を、漠然とした次元ーおそらく輝いていて、薫り高いけれども、日々の暮らしの困難な実情とはかけ離れたものーに押し込めてしまう危険を冒すことがあるが、「実際は、主は、私たちが必要としているすべてのことを心に掛けられ、最も基本的に必要とされることからお始めてくださいます。そして、イエスがなさるように自分の隣の人たちに心配りをするとき、私たちは、聖体礼拝の価値を知ることができるのです」と説かれた。

 さらに、「私たちの周りには食べ物への“飢え”だけでなく、仲間意識、慰め、友情、ユーモア、気遣いへの”飢え”があります。それを満たすものが、聖体のパンの中にあるー私たちの求めに対するキリストの気づきと、私たちの側にいる人たちにそれと同じことをするように、という勧めがあります。私たちは自分が食べるように、他の人たちも食べるようにする必要があるのです」と語られた。

 

*聖体の中に、私たち一人ひとりに与えられた主の命がある

 続けて教皇は、「”食べること”に加えて、”満たされること”を忘れることはできません。私たちは自分を養う必要があるだけでなく、満たされ、養いが愛によって私たちに与えられていることを知る必要があります」とされ、「キリストの体と血の中に、私たちは主の実在、私たち1人ひとりに与えられた主の命を見つけます」と説かれた。

 さらに、「イエスは、私たちに前に進むための助けをくださるだけでなく、私たちにご自身をくださるのですー私たちの旅の同伴者とされ、私たちの日々の出来事に介入され、私たちが孤独な時に訪問され、熱心さを取り戻してくださいます」とし、「それが私たちを”満たす”ことであり、誰もが主の実在を、もっと見つけようとするようにさせてくださるのです。主の実在の温かさゆえに、私たちの人生は変わります。主がおられなければ、すべてはまったくの灰色になってしまうでしょう」と強調された。

 そして最後に、「キリストの体と血を讃え、心を込めて主に願いましょうー『主よ、前に進むために日々のパンをお与えください、そして、あなたの存在で私を満たしてください!』」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年6月19日