☩「典礼に関する論争を克服し、その素晴らしさを再発見しよう」教皇がミサ典礼で新使徒的書簡を発出

File photo of Pope Francis presiding at Holy MassFile photo of Pope Francis presiding at Holy Mass  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは28日、ミサ典礼に関する使徒的書簡「Desideriodesideravi」を発出され、カトリック教徒たちに対して、外見だけの形式やうわべの感情に走る、”耽美主義”の典礼の傾きを克服するよう求め、「福音を伝えないミサ典礼は、本物ではありません」と強調された。

 使徒的書簡の狙いは、ミサ典礼の深い意味を思い起こし、典礼の形成を奨励すること。2019年2月の典礼秘跡省の全体会議の結果を詳しく説明し、自発教令「Traditionis custodes」に続くものだ。

 使徒的書簡は、第二バチカン公会議を受けた典礼改革から生まれた儀式を軸にした聖体祭儀の重要性を再確認。具体的な規範を含む新規の訓令あるいは指示ではなく、典礼祭儀の素晴らしさと福音宣教における役割を理解する瞑想の機会となることを目指している。

 書簡の終わりを、教皇は、「聖霊が教会の語っていることを共に聴くために、論争を捨てよう。私たちの聖体祭儀を守ろう。典礼の素晴らしさに感動し続けよう」(65項)と締めくくっておられる。

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*キリストとの出会い

 教皇は「キリスト教の信仰は、生きているイエスとの出会いか、そうでないかのどちらかです」とされ、 「典礼は私たちに、イエスとの出会いの可能性を保証します。 私たちにとって、最後の晩餐の漠然とした”記憶”は役に立ちません。 その夕食に、実際に立ち会う必要があるのです」 と強調。典礼の神学的理解の再発見につながった第二バチカン公会議の「典礼憲章」の重要性を思い起こされ、「 その価値についての表面的で短縮された理解によって、あるいはさらに悪いことに、それがどんな色合いであろうと、何らかのイデオロギー的ビジョンの奉仕に利用されることによって、台無しにされます」(16項)と書いておられる。

 さらに、”霊的世俗”と、それを煽るグノーシス主義と新ペラギウス主義に対して警告された後、教皇は次のように説かれているー「 ミサ典礼で犠牲を捧げることに参加することは、私たち自身の成果ではありません。神の前で、私たちの兄弟姉妹の前で誇るようなものではありません… 典礼は、禁欲的な道徳主義とは何の関係もない。従順さをもって受け入れ、私たちの人生を新しくする『主の過ぎ越しの神秘』の賜物なのです。私たちと共に過ぎ越しの食事をとりたい、という主の熱意に惹かれた力を通さない限り、キリストが最後の晩餐をされた高間には入れません」(20項)。

 また、私たちが霊的な世俗から癒されるために、典礼の素晴らしさを再発見する必要があるが、この再発見は「典礼の外側を慎重に守ることで、あるいは典礼執行既定を厳格に守ることによって満足させられる”典礼祭儀の美学”の探求ではない。私がここではっきりと言明しているのは、単純・実直さと、軽率な陳腐さを混同したり、無知な軽薄さ、あるいは苛立たしい実践的機能主義を典礼の挙行の堅固さと混同するような態度には、どのような形であろうと賛同することを望まない、ということです」(22項)と言明されている。

 さらに教皇は、「典礼祭儀のあらゆる側面(空間、時間、身振り、言葉、物、祭服、歌、音楽など)に深く注意を払わねばならず、すべての典礼法規を守らねばならない」と述べ、そのような注意は、集会から、それが負っているものが奪われないようするのに十分だろう。つまり、教会が定めた規定に従った祝われた過ぎ越しの神秘。しかし、祭儀の質と適切な祝われ方が保証されたとしても、それだけでは私たちの参加を完全なものとするには、十分ではない」とされた。

 実際に、「聖体祭儀のしるしの具体性の中に過ぎ越しの神秘が存在するという事実への大きな驚きが、私たちに、すべての祭儀に溢れる恵みの海をものともしなくなる危険を本当に冒させることになる」(24)。

   この大きな驚きは、教皇が明らかにしているように、「典礼改革に対する主たる告発とみなされるものの中に時としてある、神秘を理解する力の漠然とした表現とは関係がない」。教皇が語られる大きな驚きは、「はっきりとしない現実や謎めいた祭儀を前にした一種の当惑」ではなく、「『神の救いの計画が、イエスの過ぎ越しの行為の中に明らかにされた』という事実への驚嘆」(25項)なのだ。

 

*典礼を最大限に生かす

 それでは、どのようにすれば、私たちは、典礼の活動を十分に実践することができるのだろうか?超近代、個人主義、主観主義、そして抽象的な心霊主義に当惑する中で、教皇は私たちに、相互に関連性を持つ第二バチカン公会議の諸憲章に戻るよう促され、次のようにこの書簡で書いておられる。

 「典礼祭儀に関して不幸にして存在する緊張を、特定の儀式の形に関するさまざまな嗜好の単純な相違と解釈するのは、たいしたことではない。問題は主として、教会論的なところにある」(31項)。

 儀式をめぐる戦いの背後には、一言で言えば、教会についての異なる受け止め方がある。教皇は、「人が第二バチカン公会議の正当性を認識していると述べながら、典礼憲章から生まれた典礼改革を受け入れない、と言うことが、どうして可能なのか、私には分からない」とされ、神学者のロマーノ・グアルディーニの言葉を引用して、「典礼の改革がされなければ、儀式と典礼文の改革もあまり役に立たない」(34項)と言明されている。

 また教皇は、何よりも、神学校における形成の重要性を指摘され、「神学校の神学的形成における研究の典礼と知恵の計画は。確かに司牧的活動にプラス効果をもたらすでしょう。 典礼における頂点と源泉を見つけることのない教会生活の側面はない。入念なプログラムの結果である以上に、包括的で有機的で統合された司牧的実践は、聖体祭儀の基礎である主日のミサ聖祭を教会共同体の生活の中心に置いた結果です。 典礼の神学的理解は、これらの言葉がすべてを崇拝の面に還元することを意味すると理解されることを決して認めない。福音宣教をしない典礼祭儀は、祭儀の中で復活された主と出会うことのない信仰宣言と同じように、本物ではありません。 そして、慈善の証明を欠いたこれら二つは、騒々しい音を立てる銅鑼やシンバルのようなものです」(37)。

 さらに教皇は、現代人にとってますます困難になっている”シンボル”についての理解を深める教育する必要性を強調しておられる。そのための1つの方法は、”祝祭のアート”をたいせつにすること。これは、「典礼既定の仕組みだけに還元されるものではなく、『ルールを欠いた想像力に富んだ、時にはワイルドな創造性』と考えるべきでもない。典礼祭儀はそれ自体が規範だ。規範自体がなくなることは決してないが、聖体祭儀が守る、より高い現実に常に役立つものだ」 (48項)。

 そして、”祝祭のアート”は「人前で話すことや、意思疎通の説得力のあるテクニックについてのコースを頻繁に受講することで、学ぶことはできない。求められるのは、祝祭への献身に精励し、祝祭そのもので私たちに”アート”を伝えるようにすることです」(52 項)。

 また、「集会全体に属する典礼祭儀において、沈黙は絶対的に重要な場を占めます」。それは「罪を犯したことへの後悔と回心への強い願いに移っていきます。御言葉を聴く準備に目覚めさせ、祈りに目覚めさせます。そして私たちに、キリストの体と血を崇敬する気を起こさせるのです」(52項)。

への悲しみと回心への欲求に移ります。それはみことばを聞く準備を目覚めさせ、祈りを目覚めさせます。それは私たちを崇拝する気にさせます。キリストの体と血」(52)。

 

*司式司祭ではなく、キリストを中心に置く典礼

 さらに教皇は、キリスト教共同体において、祝祭のやり方は、「良かれ悪しかれ、司祭が集まりにおいて主宰し、不十分な執行の”モデル”をいくつか列挙する、そのやり方によって条件づけられます… 対照的な特徴ー堅固な厳格さと人を苛立たせるような創造性、霊的な神秘主義と実践的な機能主義、せっかちな熱心さと行き過ぎた遅さ、杜撰な不用意と過度の気まぐれ、有り余るほどの友好さと聖職者的な無感覚ーがあるにもかかわらず、です」と述べ、「すべてのモデルには単一のルーツがあり、それは、祝祭のスタイルが持つ、高められた人格主義であり、時として、注目の中心となるための、不十分に封じ込まれた熱狂の表明」(54 項)となり、祝祭がオンラインで広められる時、さらに増幅される。

 にもかかわらず、「聖体祭儀を主宰することは、神の愛の炉に飛び込ませること。この現実を理解することに、あるいは単にそれを直感的に理解することに没頭するとき、適切な行動を課すような礼拝規則はもはや必要なくなる」(57項)。

 書簡の最後に、教皇は、世界のすべての司教、司祭、助祭、神学校の養成担当者、神学部と神学学校の指導教官、そして教理を教える人々に対して、「神の聖なる民が、キリスト教徒の霊性の最初の源泉を利用できるように助けるように」、そしてご自分が昨年7月に出された自発教令“Traditionis custodes” で示した内容を再確認することで、「多くの言語の多様性の中で、教会が、一致を表明できる一つの、同じ祈りを高く上げることができるように、と願われた。

 そしてこの一つの祈りがローマ・ラテン典礼、第二バチカン公会議による典礼改革の結果生まれ、パウロ6世とヨハネ・パウロ2世の2人の聖人教皇によって確立されたものであることを強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年6月29日