☩「日々の暮らしの中に神がおられることを自覚できるように」-待降節第一主日・正午の祈り

(2022.11.27 Vatican News  Thaddeus Jones)

 待降節の第一主日を迎えた27日の正午の祈りの説教で、教皇は、私たちに「うたた寝から目覚め、いつも神がおられることを意識し、日々の暮らしに喜んでお迎えするように」と呼びかけられた。.

   この日のミサで読まれたマタイ福音書24章37‐44節を題材にとられた教皇はまず、「今日の福音は、主が私たちと共に来られ、『私たちの希望の土台』を示し、人生の最も困難な時期にさえも慰めを与えてくださることを思い起こさせます」と語られた。

 

*主は私たちのそばにおられる

 そして、「主が私たちの日々の暮らしの中にいつもおいでになります。ご自身を私たちの近くに置かれ、時の終わりにお戻りになり、私たちを抱いて歓迎してくださいます」とされたうえで、「では、主は、どのようにして私たちを訪ねて来られるのでしょうか」「私たちは、どのように主を認識し、喜んでお迎えするのでしょうか」と問いかけられた。

 問いかけの一つ目「主は、どのようにして私たちを訪ねて来られるのか」について、教皇は、「主が私たちの旅に同行され、私たちの日々の暮らしの中におられる、ということは、よく耳にしますが、このことはよく考えねばなりません」と注意され、なぜなら、私たちは、日々の暮らしでさまざまな具体的な事柄に気を散らし、主がおられることを、しばしば忘れてしまうからだ、と指摘された。

 そして、今日の福音で、イエスは弟子たちに、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだ」と語られているように、私たちが思いもかけない時に、普通の日々の暮らしの中に、主がおいでになることに、私たちの注意を向けられている、と説かれた。

 

*私たちの日々の暮らしの中に

 続けて教皇は、「神は、私たちの日々の、もっともありふれた暮らしの中に、隠れておられるのです… ”異常な出来事”を待つのではなく、助けを必要とする人に出会った時、偶然の出会いの時、あるいは日々の暮らしの静かで退屈な時など、日々の暮らしの現実を、いつも意識している必要がある。そこに、私たちを呼び求め、語りかけ、私たちを行動に奮い立たせる主がおられるのです」と強調された。

 

*主を認め、喜んで受け入れる

 また、二つ目の問いかけ「私たちは、どのように主を認識し、喜んでお迎えするか」には、「『目を覚まし、警戒し、用心深くなければらない』と、イエスは私たちに警告しておられます」とされ、「イエスがおいでになっていることに気づかず、準備ができていない、という危険があります。聖アウグスティヌスはこのように言っています―『私は通り過ぎる主を恐れる』…つまり、私たちは、主が通り過ぎることを恐れているのに、その主を認識できないのです!」と注意された。

 そして、イエスがノアの時代の人々についてどのように語られたかを思い起され、「彼らは洪水に流されるまで、食べたり飲んだりの、いつもと変わらない暮らしに気を取られ、洪水が迫っているのに気がつきませんでした。私たちは日々の暮らしの中で常に神の臨在を識別し、見逃すことのないようにする必要があります」と強調された。

 

*用心深く、警戒を怠るな

 最後に教皇は、「待降節は、私たちが無気力から揺り動かされ、眠りから覚め、常に警戒する時です。油断なく、用心深く、日々の暮らしの中に神がおられることを認識しているか自問する時です。もし今日、その現実に気づかないなら、神が世の終わりに来られた時、私たちは備えができていないことになります」と改めて注意を呼びかけられ、次の祈りで説教を締めくくられた。

 「マリアは、慎み深く、隠れたナザレでの暮らしの中に神が通って来られるのを知る方法を知り、ご自分の胎に喜びをもって受け入れました。聖母マリアが私たちに助けをくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」)南條俊二)

2022年11月27日

☩ロシアの軍事侵攻開始から9か月「あなたがたの痛みは、私の痛み」と教皇がウクライナの人々に書簡

Pope Francis in prayerPope Francis in prayer 

(2022.11.25 VaticanNews   Salvatore Cernuzio)

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻の開始から 9 か月がたち、教皇フランシスコが、ウクライナの人たちに、悲しみの共有と、「殉教」した気高い犠牲者への哀悼を改めて示す書簡を送られた。

 書簡は、「破壊と痛み、飢え、渇き、寒さ」によって傷ついている人々を目の当たりにする司牧者としての痛みの表明と共に、「子供たちと悲しみをともにする父親」としての愛を込めて書かれている。

 ロシアの軍事侵攻という「戦争の愚かな狂気」が解き放たれてからちょうど 9 か月、教皇は、ウクライナという「殉教した」国のために 100 を超える声を上げておられるー女性、暴力の犠牲者、または戦争の未亡人たちへ、前線に派遣された若者たちへ、取り残された老人たちへ、難民あるいは避難民となっている人たちへ。ボランティアと司祭、国の当局者へ…。

 教皇は、苦難と試練の時代に勇気を失わないように、との心からの願いを彼ら全員に伝え、彼らが「強い人たち」であり、「苦しみ、祈り、叫び、もがき、抵抗し、希望する、高貴で殉教した人たち」であることを称賛されている。

(バチカン放送)

書簡で、教皇は、この9カ月の間、「吹き荒れる戦争の狂気の中、町は爆撃で破壊され、ミサイルの雨が死と破壊、苦しみ、飢え渇き、寒さをもたらし、多くの人は家や愛する人たちを置いて逃げざるを得ず、そこには毎日血と涙の川が流れている」と悲しみを表され、ご自身の涙をウクライナの人々の涙と重ねるとともに、「祈りの中で皆さんを心に浮かべ、近くにいなかった日は一日たりともありません。皆さんの痛みは、私の痛みです」と述べた。

そして、「イエスの十字架の中に、攻撃の恐怖に苦しむ人々を見、拷問の痕を残した遺体や共同墓地などの多くの残忍な現実の上にイエスを苦しめた十字架がよみがえります」とされたうえで、「いったい、どうしたら人間が、他の人間をこのように扱うことができるのでしょう」と問いかけ、「殺された、あるいは怪我を負わされた子どもたち、孤児たち。そうした子どもたち一人ひとりの中に、全人類の敗北があります」と指摘。

同時に、「未来への夢の代わりに武器を取った若者たち、夫を失いながらも尊厳のうちに子どもたちのためにすべてを尽くす妻たち、あるべき平穏な老後から戦争の闇に突き落とされたお年寄りたち、暴力を受け心と体に重い傷を負った女性たち、多大な試練に立ち向かうすべての人たち」に、ご自身の寄り添いと愛情、敬意を示された。また、家を離れ、遠くにいる難民と国内避難民はもとより、危険を冒して人々に奉仕するボランティアや司牧者にも、思いを向けられた。

そして、教皇は、このような悲劇的な時に国を治め、「平和と発展のために先見的な決断の義務を負う当局者たち」のために祈られた。

さらに、「このすべての悪と苦しみが、ホロドモールによる虐殺から90年を背景に起きていること」に言及され「大きな悲劇を前に、決してくじけないウクライナの民に、心と、祈り、人道的配慮をもって、これからも寄り添いたい」と願われた。困難な状況をさらに難しくする、厳しい冬の寒さを生きる人たちに、全ての教会の愛と祈りを伝えられた。

また、教会が待降節に入り、「降誕祭が近づく中で、皆さんの苦しみは、いっそう軋みを感じさせるかもしれません」と懸念されつつ、「ベツレヘムの聖家族の試練を思い起こしてください」と語られた。そして、「寒さと闇しかないように思われたあの夜、光が現れた。それは人々からではなく、神からの、地上ではなく、天からの光でした」と励まされた。

そして、「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章37節)という確信のもとに、「熱望する平和の賜物を疲れることなく願いましょう」と呼びかけつつ、ウクライナの人たちの苦しみと涙を、聖母マリアの汚れなきみ心に託して祈られた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年11月26日

◎教皇連続講話「識別について」⑨「慰め」は霊的生活へのとてつもなく大きな賜物

(2022.11.23 Vatican News  Christopher Wells)

 教皇フランシスコは23日の水曜恒例の一般謁見で「識別について」の講話を続けられ、「霊的な慰め」とは、すべての中に神の臨在を見ることによる「内なる喜びの深遠な体験」である、と強調された。

 教皇の講話の要旨は次のとおり。(バチカン放送)

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 「識別について」の連続講話では、前回、「魂の闇」ー「悲嘆」について考察しましたが、今日は、「魂の光」とも言える「慰め」について考えたいと思います。「慰め」もまた識別における重要な一つの要素なのです。

 魂の慰めとは何でしょう。それは内的喜びの体験です。そこではあらゆることに神の現存を見ることを可能とし、信仰と希望、善を行う力を強めることができます。慰めを体験する人は、困難を前に諦めるということがありません。なぜなら試練よりもさらに強い平和を経験するからです。慰めは霊的生活への、また人生そのものへの大きな恵みです。

 慰めは、私たち自身の奥深くに触れる内的な働きです。それは海綿に落ちる一滴の水のように、目立たないが、甘美で繊細なもの(聖イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』335項参照)。慰めを体験する人は、神の存在に包まれるように感じます。それは私たちの意志に力を加えるものでも、過ぎ去りやすい歓喜でもありません。それとは反対に、たとえば自身の罪など、時には苦悩さえも、慰めのきっかけとなり得ます。

 聖アウグスティヌスや、アッシジの聖フランシスコ、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、十字架の聖テレサ・ベネディクタ(エディット・シュタイン)など聖人の経験を考えてみましょう。聖人たちが偉大なことを行うことができたのは、彼らが自分の才能を信じていたからではなく、神の平安をもたらす甘美な愛に捉えられたからでした。

 慰めは希望とつながります。慰めは未来に向かって人を歩ませ、エディット・シュタインの洗礼のように、その時まで後回しにしてきた計画を実行させるのです。

 慰めが与える平安は、「座ったまま、それを味わう」ことをさせず、人を主にいっそう引きつけ、「良いことを行うために歩ませる」のです。私たちが「慰め」を体験した時、善を行いたい気持ちがいつも起こります。それに対して、悲嘆の中にある時は、自分の中に閉じこもり、何をする気も起きません。「慰め」は人を他者への奉仕のために進ませます。

 霊的な「慰め」は、自分の思い通りに得ることはできません。それは聖霊の賜物だからです。「慰め」は、神との親しさを可能にし、神との距離をなくします。

 幼きイエスの聖テレーズは、14歳の時、ローマを訪れ、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会(エルサレムの聖十字架教会)で、イエスが十字架につけられた時の釘の聖遺物に指で触れました。その時、テレーズはこの大胆さを、愛と信頼に満たされたものと感じていました。

 テレーズはこう記していますー「私は本当に、あまりにも大胆でした。それでも、心の奥をご覧になる神さまは、私の意図が純粋であったことをご存知です… 何もかも赦されていると思い込み、父の宝を自分のものとみなす子どものように、私は神さまに対し振る舞っていました」(自叙伝)。

 14歳のテレーズは、私たちに霊的慰めをめぐる素晴らしい叙述を与えてくれました。神に対する愛情に気づき、「神に受け入れられ、愛され、元気づけられている」と感じることで、神ご自身の命にあずかり、「神のお気に召すことをしたい」と大胆になり、困難を前にも、くじけなくなる…。実際、テレーズは同じ大胆さをもって、まだ若すぎたにもかかわらず、教皇にカルメル会への入会を願い、やがてその願いはかないました。

 神から来る「霊的慰め」に対し、人間が作り出す「偽の慰め」もあることに注意しなければなりません。神からの慰めは静かで非常に内面的なものですが、「偽の慰め」は騒がしく、目立ち、情熱的です。そして燃える藁のように、最後には虚しさだけを残します。

 ですから、慰めを感じた時にも「識別」が必要なのです。なぜなら、偽の慰めは、「主を忘れ、自分のためだけにそれを追求するようになる」という意味で、危険だからです。子供っぽい仕方で生きる危険、それを消費する対象にしてしまい、最も美しい贈り物である神自身を失う危険を冒していることに注意が必要です。

 私たちは、慰めと世の罪による悲嘆の間を生きていきますが、神からの慰めを見分けることができるなら、それは魂の奥底まで深い平和をもたらすに違いありません。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月24日

☩ 教皇「インドネシア・ジャワ島の地震犠牲者のために祈ります」水曜の一般謁見で

インドネシア・西ジャワ州チアンジュール県で 2022年11月23日インドネシア・西ジャワ州チアンジュール県で(2022年11月23日 )

(2022.11.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコは23日の水曜恒例の一般謁見で、インドネシアのジャワ島で起きた地震の犠牲者と負傷者のために祈られた。

 ジャワ島西部で21日発生したこの地震で、これまで271人の犠牲者と約150人の行方不明者、2千人以上の負傷者が報告されている。

教皇は、愛するインドネシアの人々に精神的な寄り添いを述べられるとともに、地震の犠牲者と負傷者のために祈られた。

 一方、現地の宣教師マーチン・シュミット神父は、「地震の発生時刻が日中だったため、学校にいた多くの子どもたちが犠牲になった」と説明。被災者たちのために真に連帯が必要な状況だと訴えた。

 また、「死者数は増え続けており、救助隊は様々な方法で震源地に近い地域に到達する努力をしているが、多くの村で道が分断されており、救命・支援活動が難航している」と語った。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月24日

☩「十字架上の『王』をただ見ているか否か、選択は私たちに」ーアスティで「王であるキリスト」の祝日ミサ

(2022.11.20 バチカン放送)

 教会の典礼暦で「王であるキリスト」を祝った20日、教皇フランシスコは訪問先のイタリア北部アスティのカテドラルでミサを捧げられた。

 このミサには、地元ピエモンテ州はもとより、リグーリア州など、北イタリア各地から信者らが訪れ、会場の司教座聖堂の内外をいっぱいにした。

 教皇はミサの説教の冒頭で、祭壇奉仕者への任命を受ける一人の青年を紹介しながら、「将来的に司祭を目指しているこの青年のために、またアスティの教会に司祭への召し出しが欠けることのないように、祈ってほしい」と願われた。

 「大地の豊かな実りと働き者の人々で知られ、ご自分の家族と縁のある土地を訪れ、自らのルーツを再び見出した思いがします」と述べられたうえで、この日の福音朗読(ルカ福音書23章35-43節)は、「カルワリオという荒地に天国への種をまき、十字架の木によって救いの実をもたらしたイエス」の受難の一場面を通して、私たちに「信仰のルーツ」を示してくれる、と話された。

 そして、「王であるキリスト」の祭日に、「玉座に着いた力強い荘厳な王のイメージとは真逆の、十字架という王座からすべての人に両腕を広げる私たちの王、キリスト」を観想され、「その抱擁の中に入ってこそ、私たちの苦しみや、悲しみ、弱さ、貧しさ、孤独、尊厳のない状態に寄り添うために、僕となり、ののしられ、嘲笑され、衣を取られ、受難に向かわれた神の、十字架の逆説的な意味を理解することができます」と説かれた。

 さらに、「今日、私たちの王は、十字架の上から両腕を広げ、私たちを見つめておられます… その王を、ただ見ているのか、それとも関わっていくのか。その選択は私たちに委ねられているのです」と強調された。

 続けて教皇は、「信仰の危機や信者の減少を前に、批判や議論だけに留まりますか。それとも危機を自覚して積極的に祈りや奉仕に取り組んでいきますか。十字架上で釘打たれたキリストの手を見ても、手をポケットに突っ込んだままですか。それとも社会や世界、教会のために何か努力しますか」と問いかけられ、「十字架上のキリストを見つめることで、自分自身を見つめる勇気を得て、神への信頼と奉仕の道を歩むことができますように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月22日

☩「世界は平和に飢えている… 急いで出て行こう!」イタリア北部アスティ正午の祈りで若者たちに

教皇フランシスコ イタリア北部アスティからお告げの祈り 2022年11月20日教皇フランシスコ イタリア北部アスティから正午の祈り(2022年11月20日 =Vatican Media)

(2022.11.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは「王であるキリスト」の祝日の20日、訪問先のイタリア北部アスティのカテドラルでミサを捧げられたのに続いて、正午の祈りをなさった。

 祈りに先立って、教皇はアスティ教区と地元自治体、そしてすべての人々の温かいもてなしに心からの感謝を表された後、教区レベルの「世界青年の日」を記念したこの日、特に若い信者たちに語りかけた。

 教皇は、この日の「世界青年の日」と来年夏にポルトガルで開かれる「世界青年の日・リスボン大会」の共通テーマ、「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカ福音書1章39節)という言葉の観想へと招かれた。

 そして、エリザベトを訪問した時のマリアの若さを指摘。「出かける」「向かう」という2つの動詞を「若さの秘訣」として示され、「マリアは出かけて、向かいました。自分のことだけを考えず、天の高きを見つめ、自分の恐れから抜け出し、助けを必要とする人に手を差し出すために歩き始めたのです」と語られた。

 さらに、「今日、私たちは、”順応主義者”や”携帯電話の奴隷”ではない、マリアのように”世界を変える若者たち”を必要としています…マリアのように、人々にイエスをもたらし、他者をいたわり、兄弟愛に満ちた社会と平和の夢を実現してください」と若者たちに希望され、「世界は平和に飢えています… ウクライナをはじめ戦争に苦しむ世界各地を心に留めつつ、平和のために祈り続けましょう」と呼びかけられた。

 また、教皇は数日前にパレスチナ自治区ガザの難民キャンプで発生した大規模火災で亡くなった子どもたちを含む、犠牲となった多くの人々とその遺族に思いを向け、犠牲者の冥福とともに、長い紛争に苦しむ人々への慰めを、神に祈り求められ、「平和の元后マリア」に捧げたこのカテドラルで、すべての家族や病者をはじめ、すべての人々を聖母の保護に託して祈られた。

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 教皇フランシスコは19、20の両日、イタリア北部ピエモンテ州アスティ県を訪問された。アスティ地方に住む教皇の親類の女性の90歳の誕生日を機会にご自身の家族のルーツを訪ねると共に、同地方の信者らを励ますことが目的。19日は親類の人々と私的な時間を持たれていた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月21日

☩「ウクライナへのこれ以上の攻撃拡大が無いように、イスタンブールのテロ犠牲者を忘れぬように」一般謁見で

Attack overnight on Kiev and other areas of UkraineAttack overnight on Kiev and other areas of Ukraine  (ANSA)
2022年11月16日

◎教皇連続講話「識別について」⑧私たちが成長するために”寂寞”と”健全な悲哀”が必要」

Pope Francis greets the faithful during his weekly General AudiencePope Francis greets the faithful during his weekly General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

バチカン放送による要旨は次のとおり。

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  これまでの連続講話では、その時々の感情に駆られて拙速に判断を下すことのないよう、自分の心の動きを読み取ることの大切さを見てきました。

 その意味で、私たちが「 desolation(寂寞)」と呼んでいる精神的状態も、成長の機会になり得ます。実際、多少の不満や、悲しみ、孤独に慣れる力、逃げずに自分と向き合う能力がなければ、いつも物事の表面だけに留まり、自己存在の中心と回路をつなぐことができないからです。

 悲しみは、私たちの「魂を揺さぶり」、目覚めた、謙虚な状態にし、気まぐれな傾向から守ってくれます。それは、人生、そして霊的生活における成長に欠かせない状態です。

 悲しみは、感情上の慰めを期待して行動しないための、無償性への招きでもあります。打ち砕かれた状態は、人を成長させ、与える・受け取るといった単なる交換関係ではない、主との、親しい人々との、より成熟した素晴らしい関係を始めることを助けてくれます。

 小さな子どもは、親にいろいろなもの要求します。最も大きな贈り物は、親たちの存在そのものですが、それを理解するのは、成長の過程においてです。

 私たちの祈りも、こうした関係にやや似ています。私たちは祈りの中で主にいろいろなことを願いますが、主そのものに対しては、関心が欠け落ちていることがあります。

 福音書の中で、イエスはしばしば多くの人に囲まれています。しかし、それは人々が癒しや、物的助けを求めたからで、単に「イエスと一緒にいたいから」ではありません。イエスは群衆に揉まれていたにもかかわらず、人きりでした。ある聖人たち、また芸術家たちも、イエスと同じこの状況を観想しています。

 主に「お元気ですか」と尋ねるのは、おかしなことに思われるかもしれません。ですが、それは、イエスの人間性とその苦しみ、孤独と共に、真の誠実な関係に入るための、非常に素晴らしい方法なのです。イエスはご自身の命を私たちと徹底的に分かち合うことを望んでおられます。

 他の目的なしに、イエスと共にいることを学ぶのは、とてもよいことです。それは私たちが愛する人たちに対して望むこと、と同じです。私たちは愛する人々のことをもっとよく知りたいと願いますが、それは一緒にいることが素晴らしいからです。

 「霊的生活」は、私たちに計画可能な「内的幸福」のテクニックではありません。もし、それが私たちに計画できるものなら、そこに寂寞はなく、判で押したように、いつも幸福で満足しているでしょう。霊的生活、それは生きたキリストとの関係です。

 祈る者は、祈りの結果を予想できません。聖書を読むことが、いつもなら心を燃やすのに、今日は、なぜか何も感じない、ということもあれば、できれば避けたいと思っていた経験や出会い-たとえば十字架的な体験-などが、思いがけない平和をもたらすこともあります。

 ですから、困難に直面しても意気消沈せず、神の恵みの助けをもって、その試練と向き合うことが大切なのです。心の中に、私たちを祈りから引き離す声が聞こえたら、それは誘惑者の声です。このような時は、その声が命じることと反対のことをしましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年11月16日

☩「起き上がり、急いで出かけよ!」ー11月20日「世界青年の日」教皇メッセージ

(2022.11.15 カトリック・あい)

  11月20日、世界の教会は第37回の「世界青年の日」を迎える。同日に向けた教皇メッセージは以下の通り。

2022-23年第37回「世界青年の日」教皇メッセージ 「マリアは出かけて、急いで……行った」(ルカ福音書1章39節)

 親愛なる若者の皆さん

 ワールドユースデー(WYD)パナマ大会のテーマは、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)でした。この大会を終え、私たちは新たな目的地である2023年リスボン大会への道を歩み始めており、神からの緊急の呼びかけを心に響かせているところですー起き上がれ。2020年は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(ルカ7章14節)というイエスの言葉を味わいました。昨年は、復活した主から次のように言葉をかけられた使徒パウロの姿を手掛かりとしました。「起き上がれ。…私があなたに現れたのは… あなたが私を見たこと、これから私が示そうとすることについて…あなたを証人にするためである」(使徒言行録26章16節節参照)。

 リスボンにたどり着くまでの最後の段階に寄り添ってくださるのは、お告げを受けた直後に、いとこのエリサベトのもとへと「出掛けて(訳注:「出掛ける」と訳されているのは、他で「起き上がる」と訳されているものと同じ語)、急いで…行き」(ルカ1章39節)助けようとしたナザレの乙女です。この三つのテーマに共通する動詞は「起き上がる」です。この言葉には「再び起きる」、「命がよみがえる」という意味もあることは、覚えておいてほしいと思います。

 新型コロナウイルスの世界的大感染によって受けた傷に苦しめられていた人類が、戦争の悲劇によって、ずたずたにされる、そのあまりに辛いこの時に、マリアはすべての人のために、とりわけあなたがた、マリアと同じく若い皆さんのために、近しさと出会いの道を再び開いてくださいます。私は、来年8月にリスボンで多くのかたが経験することが、若者の皆さんにとって、そして皆さんとともに、全人類にとって新たな出発点となるよう希望し、またそうなることを固く信じています。

*マリアは出かけて

 お告げを受けた後ですから、マリアは新たな事態による心配事や不安の中、自分のことで頭がいっぱいになっていてもおかしくありません。ところがそうではなく、マリアは神を信頼しきっておられます。さらには、エリサベトのことを案じています。マリアは起き上がり(出かけて)、活力と動きとがある、陽の光のもとへと、飛び出していきました。衝撃的な天使のお告げは、彼女の人生の計画に「地震」をもたらしましたが、この少女は立ち尽くしはしません。その胎にイエスが、復活の力であるかたがおられるからです。

 マリアはすでに、ほふられた小羊でありながら永遠に生きておられる方を宿しておられるのです。彼女が起き上がって動き出せたのは、神の計画こそが、自分の人生の最高の青写真だという確信があったからです。マリアは神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっています。

 人生において、復活したキリストの現存を体験すること、「生きておられる」この方と出会うことは、最高の霊的喜びであり、誰にも「抑える」ことのできない光の大爆発です。これによって私たちは、直ちに突き動かされ、この知らせを他の人々に伝えるよう、この出会いの喜びを証しするよう駆り立てられるのです。復活後の日々で最初の弟子たちを駆り立てたものは、まさしくこの出会いです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28章8節)。

 復活の物語には、「目覚める」と「起き上がる」という二つの動詞が頻出します。この二つの言葉で、主は私たちに、光の中に出て行きなさい、自分の閉じた扉のすべての敷居をまたいで出て行くよう主に導いていただきなさい、そう促しておられます。「それは、教会にとって深い意味をもった姿です。わたしたちもまた、主の弟子として、またキリスト者の共同体として、復活のダイナミズムに加われるよう、そして主が示そうとしておられる道に導いていただけるよう、急いで身を起こす(出かける)ことが求められています」(「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教(2022年6月29日)」。

 主の母は、活動する若者の模範であって、鏡の前で自分ばかり見て、動かずにいる人や、ネットに「がんじがらめになっている人たち」とは違います。マリアは完全に外を向いています。このかたは自分の外に出ていき、偉大な相手である方、神のもとへ、また他の人々、兄弟姉妹のもとへ、とりわけ、いとこエリサベトのように、とても困っている人のもとへ向かう、常に脱出状態のパスカ(過越/復活)の女性なのです。

 

*急いで…行った

 ミラノの聖アンブロジオは『ルカ福音書註解』の中で、マリアが急いで山里に向かった理由について、次のように書いています。

 「希望で胸躍り、奥から湧き出る喜びで、奉仕に献身したいと熱望したからです。今や、神に満たされたマリアが、はやる思いで向かう場所は、高いところ(訳注:エリサベトのもとに行くには山を越えなければならない)の他にあったでしょうか。聖霊の恵みは、悠長にはさせません」。マリアが急ぐのは、奉仕に、喜びを告げることに、聖霊の恵みに即、応えることに急いでいるからです。

 マリアは、年老いた、いとこの困り事に応えようとしています。尻込みしたり、無関心でいたりはしませんでした。自分のことよりも他者のことを思っていました。だから彼女の人生には、躍動感と熱意が生まれるのです。

 皆さん一人ひとりが考えてみてください。身の周りで誰かの困り事に気づいたとき、自分はそれにどう応えるのか。すぐさま、関わらないことの言い訳を考えるのか、それとも関心をもって自分自身を用立てるのか。もちろん、世界中の問題をすべて解決できるわけはありません。それでも、身近な人の困り事から、自分の住んでいる地域の問題から、始めることは、できるはずです。かつてマザー・テレサは、「あなたのしていることは、大海の一滴にすぎない」と言われたことがあります。彼女はそれに、「でも私がしなければ、海は一滴分、減ってしまいますから」と答えました。

 具体的で緊急のニーズがあれば、すぐに行動しなければなりません。世界には、心配して世話をしてくれる人が来てくれるのを待つ人が大勢います。どれほどの高齢者が、病者が、収監者が、難民が、自分と同じく心を痛める私たちのまなざしを、私たちの訪問を、無関心の壁を乗り越えてくれる兄弟を、姉妹を、必要としていることでしょう。

 どのような「緊急性」が、愛する若者の皆さんを動かすのでしょうか。じっとしていられないほどに、皆さんを動かそうとするものは何でしょうか。新型コロナの世界的大感染、戦争、強制移住、貧困、暴力、気候変動、といった現実に苦しむ多くの人には、問いが生まれます。「どうして私にこんなことが起こるのか。なぜ私なのか。なぜ今なのか」。まさにそこに、私たちの存在の中心的な問いがあるのですー「私は誰のためにあるのか」(使徒的勧告『キリストは生きている』286項参照)。

 ナザレの少女が急いだことは、主から受け取った途方もない贈り物を分かち合わずにはいられない人、経験した深い恵みがあふれ出てしまう人の、それと同じです。自分のことよりも他者の困り事を優先できる人の機敏さです。マリアは、他人からの注目や承認を求めて時間を無駄にするーSNSの「いいね」に取りつかれると、そうなりますーのではなく、出会い、分かち合い、愛と奉仕から生まれる、本物のつながりを求めて行動する、若者の模範となる人物です。

 お告げを受けて以降、いとこを訪ねて初めて出掛けて行った時から、マリアは、時と空間を超えて、思いやりあるご自分の助けを必要とする子らのもとへ向かうことをやめません。私たちの旅路は、そこに神が住まわれておられるなら、私たちをまっすぐ、兄弟姉妹一人ひとりの心へと導く道となります。イエスの母であり、私たちの母であるマリアの「訪れ」を受けた人々の証しは、どれほど多いことでしょう。マリアは、何世紀もの間、地上のあちらこちらで、出現や特別な恵みをもって、ご自分の民のもとをどれほど訪れてきたことでしょう。

 実際、この方が訪れていない場所は、この地上にどこにもありません。神の母は人々の間を歩んでおられ、愛に満ちた優しさから心動かされ、苦悩や人生の浮き沈みをその身に引き受けておられます。ですからマリアにささげられた聖地、教会、礼拝堂がある場所には、その子らが大勢集まるのです。マリアにささげる民間信心業はたくさんあります。巡礼地、祝祭日、嘆願の祈り、家々を巡回するマリア像、そのほかにも多数ありますが、これらは、相互に訪ね合う中の、主の母とその民との血の通った関係の具体例です。

 

*”よい急ぎ”は常に、私たちを高みへと、他者の元へとせきたてるもの

 ”よい急ぎ”は、必ず私たちを、高みへと、他者の元へと駆り立てます。その逆の、”悪い急ぎ”というのもあります。たとえば、懸命さや真剣さがなく、関わっていることに本気で取り組むことなく、表面的にやり過ごすようになる、何でも軽く捉えてしまう性急さです。少しも真剣に考えず、心もそっちのけで、生活し、学び、働き、人と交際している時の、せわしなさです。人間関係の中でそうなることもあります。

 家庭でいえば、相手の話にろくに耳を傾けず、一緒に過ごすことのない関係、また交友関係でいえば、友だちには楽しませてもらい、自分の欲求を満たしてくれるよう期待する一方、友が窮地に陥り、自分を必要としている、と分かれば、すぐに避けて、別の人の元に去っていくような関係であれば、そうなります。さらに恋人同士の情熱的な関係でも、互いを深く知り、理解するための忍耐力のある人は少ないのです。

 そうした態度を、学校や職場、それ以外の日常生活でも取ってしまうことがあります。いずれにしても、そうした性急さを持って生きているうちは、実を結ぶことは難しいでしょう。不毛なままとなる恐れがあります。箴言にあるとおりです。「勤勉な人の計画は利益をもたらし、慌てて事を行うと損失を招く」(21章5節)。

 マリアがやっとのことでザカリアとエリサベトの家にたどり着くと、すばらしい出会いがあります。エリサベトは、老齢の彼女に子を授けてくださった神の、奇跡の業をその身に味わっていたのです。エリサベトは、まず自分の話をしたくなるのが当然のはずなのに、自分のことに夢中にならずに、駆け寄って、若いいとことその胎に宿った子を歓迎したのです。マリアのあいさつを聞いた途端、エリサベトは聖霊に満たされます。こうした、不意に聖霊に満たされる感じは、私たちが心から人をもてなすとき、つまり、自分ではなく、客人をいちばんに考えるときにもたらされます。

 これは、ザアカイの物語にも見られます。ルカ福音書19章5−6節では次のように語られています。「イエスはその場所(ザアカイのいるところ)に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 私たちの多くは、思いも寄らない時に、イエスが会いに来てくださる、という経験をしています。その時、私たちは初めて、イエスにおいて、親しみ、大切に思うまなざし、偏見と糾弾のない姿、慈しみのまなざし、他の人からは決して得られなかったもの、を味わうのです。そればかりか、イエスは私たちを遠くから眺めるだけでは満足なさらず、私たちと一緒にいたい、ご自分の命を分かち合いたい、そう望んでおられることも感じ取ったはずです。

 この体験がもたらす喜びによって、早く主を迎え入れたい、すぐに主とともにあって、主をもっとよく知りたい、との思いに駆られたのです。エリサベトとザカリアは、マリアとイエスを歓待しました。この年配の二人から、歓待の意味を学びましょう。ご両親やおじい様おばあ様に、また共同体のお年寄りに、神を歓待する、他者を歓待するとはどういうことか、尋ねてみてください。先人たちの経験を聞くことは、皆さんにとってよい経験となるでしょう。

 親愛なる若者の皆さん。今こそ、具体的な出会いを目指し、すなわち、若いマリアと高齢のエリサベトの間にあったような、自分とは異なる人を本当の意味で迎え入れることを目指して、急いで再出発しなければなりません。そのような出会いだけが、世代間、社会階層間、民族間、あらゆるたぐいの集団や職業間の隔たりを乗り越え、戦争にさえも打ち勝たせてくれるのです。ばらばらに分断された人類に新たな一致をもたらす希望の星は、いつだって若者たちです。

 ですがそれは、彼らが過去についての記憶をもっていればこそであり、老人たちの語る悲劇や夢に耳を傾けていればこそ、のことなのです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(「第2回祖父母と高齢者のための世界祈願日の教皇メッセージ」)。歴史の教訓を忘れずに、この時代の二極化や過激主義を克服するには、若者と高齢者の連携が必要なのです。

 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように告げました。

 「以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し……ました」(2章13−14節)。

 イエスは、あらゆる時代において、人類の抱える課題に対しての神からの返答です。そしてこの返答であるかたを、マリアはエリサベトに会いに行くときに、身に宿して運び届けたのです。マリアが高齢の親族に差し出した最高の贈り物、それはイエスを連れて来たことです。

 もちろん具体的な助けも、とても大切です。ですが、生ける神の幕屋となった聖母の胎におられるイエス以上に、ザカリアの家を大いなる喜びと意義で満たすものはなかったはずです。その山里で、イエスは一言も発することなく、その存在だけで、ご自身にとって最初の「山上の説教」を語られます。つまり、神の慈しみに身を委ねる、小さな者たちやへりくだる者たちの幸いを、沈黙のうちに告げ知らせておられるのです。

 若者の皆さんへの私からのメッセージ、教会が伝えるべき、もっとも重要なメッセージ、それはイエスです。そうです。主その方を、私たち一人ひとりへのその無限の愛を、その救いを、与えてくださった新たな命を伝えたいのです。そして、マリアが手本となります。マリアは、この計り知れない贈り物を、私たちの人生にどのように迎え入れ、その方をどのように他の人々に伝えていくか、を教えてくださり、次には私たちを、キリストを運び届ける者、キリストの慈しみに満ちた愛を運び届ける者、苦しむ人類へのイエスの惜しみない奉仕を運び届ける者にしてくださいます。

*皆でそろって、リスボンへ

マリアは、皆さんとそう変わらない一人の若者でした。マリアも私たちと同じです。イタリア人のトニーノ・ベッロ司教は、マリアについて次のように書いています。

 「聖マリア… あなたは絶海へ漕ぎ出す運命にあったことを、私たちは、よくよく分かっています。ですが私たちが、あなたに岸辺を進むよう強いているのなら、それはあなたを、私たちのような沿岸航海のレベルに引き戻そうとして、ではありません。私たちのいる失意の岸辺のすぐそばにあなたがおられるのを見て、私たちもまた、あなたのように自由の大海原を冒険するよう召されているのだ、という自覚に目覚めるからなのです」(Maria, donna dei nostri giorni, Cinisello Balsamo, 2012, 12-13)。

 3年の準備期間の最初の教皇メッセージで思い起こしたように、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルからは、多くの宣教師を含む大勢の若者たちが、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国民と分かち合うために、見知らぬ土地へと旅立ちました(「2020年世界青年の日の教皇メッセージ」参照)。そして20世紀初頭、マリアはこの地に、特別な訪問をなさりたい、と望まれました。マリアはファティマから、あらゆる世代に向けて、回心へと、真の自由へと招く、神の愛の力強く壮麗なメッセージを送りました。

 皆さん一人ひとりを、あらためて心から招待します。来年8月にリスボンで開催されるWYDで頂点を迎える、国を越えた青年の大巡礼に加わってください。それから、11月20日の王であるキリストの祭日に、世界中に散る部分教会で世界青年の日を祝いますので、そのことも覚えておいてください。これについて、教皇庁「いのち・信徒・家庭省」から先ごろ発表された文書、「部分教会における世界青年の日開催のための司牧指針」は、青年司牧に関わるすべての人にとって、大きな助けとなるはずです。

 親愛なる若者の皆さん。私は皆さんが、世界青年の日(WYD)に、神と出会う喜び、兄弟姉妹と出会う喜びを、もう一度体験できるよう願っています。ソーシャルディスタンスや外出制限を必要とした期間を長らく経て、リスボンでー神の恵みにより!ー皆でそろって、民族や世代を超えて兄弟として抱き合う喜びを再び得られることでしょう。それは、和解と平和の抱擁、宣教する者の新たな友愛による抱擁です。

 聖霊が私たちの心に、「起き上がって、出ていきたい」という情熱と、偽りの国境を捨て、シノドスの道を共にに歩む喜びの火を、かき立ててくださいますように。起き上がる時は、今です。急いで身を起こしなさい。そしてマリアのように、すべての人にイエスを伝えるため、自分のうちにおられるイエスを運んでください。人生の中のこの素晴らしい時期にある皆さんは、聖霊が皆さんの中で進めてくださることを先延ばしにせず、前進し続けてください。皆さんの夢と歩みを、心から祝福いたします。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年8月15日、聖母の被昇天の祭日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は、現代日本語として読みやすく、また原典の表現に近い「聖書協会・共同訳」に修正、また、活字として読みやすく、意味も分かりやすい一般に使われている当用漢字表記に直しました)

2022年11月15日

☩「心の耳を開き、人々の苦しみの声を聴くように」-「貧しい人のための世界祈願日」ミサで

教皇フランシスコ 2022年11月13日「貧しい人のための世界祈願日」のミサ バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコの「貧しい人のための世界祈願日」のミサ(11月13日、バチカン・聖ペトロ大聖堂 =Vatican Media)

(2011.11.13 バチカン放送)

 カトリック教会の「貧しい人のための世界祈願日」の13日、教皇フランシスコがバチカンでミサを捧げられた。

 祈願日は、教皇フランシスコによって創設。毎年、典礼暦の年間第33主日に記念され、今年で第6回目を迎えた。

 バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた貧しい人々のためのミサには、ホームレスの人々や難民・移民などローマ教区のカリタスや諸団体の支援を受けている人々も多数参加した。

  教皇はミサ中の説教で、この日読まれたルカ福音書の一節(21章5-19節)を取り上げられた。この箇所で、イエスは神殿の外見的な美しさに見とれている人々に、その崩壊の時と終末の徴について予告している。

 教皇は、「この世のすべてのものと同様、人の手で築かれた神殿は滅びるが、重要なのは、今、生きている時のしるしを識別し、歴史上の様々な出来事の中で福音の弟子として留まることです」と語られた。

 そして、時のしるしの識別に役立つものとして、この箇所でイエスが言う「惑わされないように気をつけなさい」(ルカ福音書21章8節)、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(同13節)という2つの言葉を示され、「イエスの言葉は、この世界祈願日において、私たちの塞がれた心の耳を開き、弱い立場にある人々の苦しみの叫びを聞くように、との警告です」と指摘。

 「今日の世界で見られる暴力や、不正義、迫害、また新型コロナの世界的大感染や、気候変動、戦争などの危機、難民や移民、失業者らの苦しみを前に、もし、私たちの心が反応しないなら、人々の苦悩の叫びを聞き、その悲しみを分かち合うことはできないでしょう」と注意された。

 また、イエスが「惑わされないように気をつけなさい」と言われるように、「こうした危機の中で、安易な解決をうたうポピュリズムや、利益の名のもとに一部の人を富ませ、貧しい人たちを隅に押しやる”偽のメシア”に惑わされてはなりません」と強調され、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」というイエスの教えに従い、「闇の中に希望の光を灯すことで、福音の喜びを証しし、兄弟愛に満ちた世界を築いてもらいたい」と信徒たちに願われた。

 教皇はこのミサに続き、日曜正午の祈りの集いを行われ、その後、バチカンのパウロ6世ホールで貧しい人々と昼食を共にされた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月14日

☩「地球を守る勇気と決意をもって前進を」ー教皇、「 Laudato Si’ 」の行動規範と共に、COP27参加者を激励

An Amazonian woman holds up her hand at a demonstration in Sharm El-SheikhAn Amazonian woman holds up her hand at a demonstration in Sharm El-Sheikh  (ANSA)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

環境回勅「Laudato Si’ 」を基にした行動規範(Action Platform)の詳細はAbout – Laudato Si’ Action Platform (laudatosiactionplatform.org)に。

2022年11月13日

☩「”忍耐”とは、善、祈り、そして奉仕を保ち続けること」年間第33主日の正午の祈り

(2022.11.13 Vatican News  Thaddeus Jones)

 教皇フランシスコは13日、年間第33主日、「貧しい人のための世界祈願日」の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたルカ福音書(21章5‐19節)を取り上げ、ここでイエスが「忍耐」という言葉を使って私たちに呼びかけておられるのは、「日々の祈り、善行、他の人への奉仕、そして人生で本当に重要なことに焦点を合わせ続けること」と強調された。

 説教で教皇はまず、この福音書の箇所にあるエルサレムの神殿でのイエスと周りの人々の会話を思い起こされた。目の前の神殿の壮大な建物の素晴らしさに見とれる彼らに、イエスは「一つの石も崩されずに他の上に残ることのない日が来る」と、地上の物事が一時的なものであり、過ぎ去るものだ、ということを分からせようとなさる。

 「このような、人の心を落ち着かせる言葉が、人生の危うさ、移ろいやすさから抜け出る未知がある、という価値ある教えを、私たちにくれます。私たちは、それを神の言葉の中に見出します―『忍耐することで、あなたがたの人生の安全が保障される』。キーワードは『忍耐』ー規律正しく、ネ倍強いことー神が心から願われる、最も重要な行為です」と教皇は強調された。

 さらに、「イエスは、存続し続けるものに注意を集中するように、神殿のようにやがては壊される物を建てることに人生を捧げるようなことをしないように、そして、崩れない物を建てること、主の言葉の上に、愛の上に、善の上に建てるのを忘れることがないように、とおっしゃいます… 神殿を賛美していた人たちのように、私たちの腕前、成功、伝統、そして宗教的、文化的シンボルを優先し、讃えていると、一番重要なことに焦点を合わせられなくなることがよくあります。そうしたことは重要であっても、過ぎ去るものです」と指摘。

 そのうえで、「忍耐に努める」ということは、「日々、善を築くこと… 特に、私たちを取り巻く現実が、そうさせないように私たちに強く働きかけるときに、それでも善にとどまることを意味します。忙しすぎて祈れないと思う時でも、、祈ること、たとえ他の誰もがルールを守ろうとしなくても、守ること、私たちのコミュニティや貧しい人、小教区のために自分の時間を割くこと、を意味します」と説かれた。

 説教の終わりに、教皇は、次のように自分に問いかけることを、信徒たちにお勧めになった。「主の善にとどまり続けるよう忍耐に努めることがどれほど良いことか」「私たちは日々の暮らしの中で、信仰に、正義に、キリストの愛に生きるよう懸命に努力しているか」「祈り、あるいは他者を助けるために自分の時間を割いているか」「私たちを取り巻く環境がそれを難しくするときにも、自分の心をしっかりと神につなぎとめているか?」。

 そして次のように締めくくられた。「もし私たちが忍耐するなら、 イエスは私たちに思い起させてくれますー私たちには、何も恐れることがない。人生で悲しいこと、おぞましいことがあっても、私たちの身の回りで悪を目にすることがあっても。たでず祈ることで、わたしたちの忍耐力が強まります」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年11月13日

☩「”イデオロギーの植民地化”に抗するように」世界カトリック教師連合代表たちに

Pope Francis meeting members of the World Union of Catholic Teachers Pope Francis meeting members of the World Union of Catholic Teachers   (Vatican Media)

(2022.11.12 Vatican News  Lisa Zengarini)

  教皇フランシスコは12日、世界カトリック教師連合 (WUCT)の代表たちとお会いになり、キリスト教教育は「完全に人間的で完全にキリスト教的」でなければならない、と強調され、イデオロギーの植民地化に馴らされないよう注意された。

 WUCTは、教会の教えを学校教育の分野にもたらすための調査研究を協力して進めることを目的に、世界中のカトリック教師の集まりをまとめるネットワークとして1951年から活動している。

*教皇と共に働く者として

 教皇フランシスコはあいさつで、WUCTが今日直面している多くの課題について「前向きな見方をする」よう求め、「教皇と共に働く者」としての連合の使命は、「カトリックの教師が、個人として、または同僚のグループ内で、教育者、信仰の証人としての重要な使命を十分に認識するよう励まし、動機づけることにあります」とされた。

 そして、「そうすることで、皆さんは世界にカトリック教師を支援するという教会の奉仕の在り方を示し、カトリック教師が可能な限り最善の方法で仕事を遂行し、複雑な状況で進行を証しできるようになるのです」と説かれた。

*カトリックの教師には人間的、キリスト教的な完全性が求められる

 さらに教皇は、「学校という社会で、キリスト教徒の教育者の存在は非常に重要。皆さんには、完全に人間的であり、完全にキリスト教的であること、自分のいる時代と文化に根ざし、教え子たちの最も深い要請、疑問、恐れ、夢を理解することができる人であることが求められています」と強調。

 続けて、「カトリックの教師として、若者の”夢の翼”を切り落とし、その願望を台無しにすることなく、キリスト教信仰が人間の経験のすべてを包含することを証しできるようにすることが重要です。実際、教会の伝統において、若者教育は、常にすべての次元において、一人一人の人間の完全な養成を目標としてきました」と指摘された。

 

*時代と世代の変化に適応し、若者の人格形成に果たす重要な責任

 また教皇は、子供、青少年、若者の生活に「良くも悪くも足跡を残す」立場にある教師の「大きな責任」を強調され、 「私たちは皆、個人的な経験から、人格の形成期に優れた教師と賢明な教育者を持つことがいかに重要であるか、を知っています」と述べられた。それゆえ、「教育者が自分の動機と方法を継続的に再評価し、時代と世代の変化に適応する能力も必要。硬直した考えや行為は教育を破壊してしまう。硬直してはなりません」と説かれた。

 WUTC の任務について教皇は、「教師が、若者たちと共に成長したい、という願望を持ち続け、学習の喜びと真実への欲求を彼らに伝達する、最も効果的な方法を見つけるのを助けること。教師が”教育のイデオロギー化”と、若者たちを成長させる”新奇性”を注意深く見分けるの支援すること」である、とされた。

 そして、「今日、顕著になってきている”イデオロギーの植民地化”は、人間の個性を破壊し、それが教育の分野に入ると、災害を引き起こします」と警告された。

*教育分野のグローバル コンパクトの意識を高めて

 あいさつの締めくくりに、教皇WUTC に、教育分野で教皇が提唱される「グローバル コンパクト」についての意識を、カトリック教師たちの間で高める手助けをするよう求められた。

 グローバルコンパクトの起源は、1999年世界経済フォーラムで、当時の国連コフィ・アナン事務総長が企業に対して、人権労働権環境腐敗防止に関する10原則を順守し実践することを求めたことにあるが、教皇は2019年に、これを教育の分野にも適用。教育分野での世界のカトリックの教育関係者たちの協力体制を構築し、質の高い教育に利用可能な最高のリソースを投資し、新しい世代に尊敬、対話、連帯の価値を認識させることを目的としている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年11月13日

☩「イエスはあなたがたのために貧しくなられた」ー11月13日「貧しい人のための世界祈願日」に

(2022.11.11 カトリック・あい)

 13日、年間第33主日は、教皇フランシスコが定められた「貧しい人のための世界祈願日」にあたる。教皇は、この日に向けて以下のメッセージを出されている。(翻訳:カトリック中央協議会)

第6回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ 年間第33主日 2022年11月13日
「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)

1.「イエス・キリストは、……あなたがたのために貧しくなられた」。使徒パウロはこの言葉を、助けを必要としている兄弟姉妹と連帯する責任の根拠として、コリントの初期のキリスト者に伝えました。「貧しい人のための世界祈願日」は、今年もまた、私たちの生活様式や、現代のさまざまな形態の貧困について振り返るための、意義のある機会を提供してくれます。

 数か月前より、世界は新型コロナウイルス感染の嵐から抜け出し始め、経済回復の兆しが表れ、失業によって困窮する何百万もの人も安堵しつつあります。愛する人を亡くした痛みを忘れることなく、ようやく直接に会っての人と人との交流が取り戻され、制限や制約なしでの再会がかなう、平穏な状況がうかがえるようになったところでした。まさにそうした中で、世界に別の筋書きを押しつける新たな大惨事が視界に現れたのです。

 ウクライナでの戦争は、近年、死と破壊を撒き散らし続けている幾多の地域紛争の一つに数えられます。しかしそこでは、民族自決の原則に反する自らの意志を押しつけようとする”超大国”の直接の介入により、事態はさらに複雑になっています。脳裏に焼きつく悲劇的な場面が繰り返され、またしても、一部の権力者が相互に威嚇し合うことで、平和を叫ぶ人類の声を封じ込めてしまうのです。

2.愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人や、いちばん弱い人にとって、打撃となるかが分かります。数えられないほどの人々、とりわけ子どもたちが、根を据えている地から引きはがされ、別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています。エルサレムの崩壊とユダヤの若者の捕囚を目の当たりにした詩編作者の言葉が、今まさに繰り返されています。「バビロンの川のほとり そこに座り、私たちは泣いた。シオンを思い出しながら。そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め 私たちを苦しめる者が慰みに… どうして歌うことができようか 異教の地で主のための歌を」(詩編137章1‐4節)。

 近隣諸国に避難民として逃れ、安全を得るため、何百万もの女性、子ども、老人が、被弾の危険を冒さざるをえないのです。戦闘地域に残る人々は、恐怖に怯えながら、食糧、水、医療、そして何よりも愛の温もりを欠いたまま、毎日を過ごしています。こうした極限の状況下では、理性は失われ、苦しめられるのは多数の一般の人たちであり、すでに増大している貧困層の上に、上乗せされるのです。不透明で不安定な状況に翻弄される多くの人に、安心と平和をもたらすため適切に対応するにはどうしたらよいのでしょうか。

3.あまりに支離滅裂なこの状況の中で、「第6回貧しい人のための世界祈願日」が、使徒パウロの言葉による勧めをもって行われます。イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)。エルサレム滞在中にパウロは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人に会いましたが、彼らはパウロに、貧しい人々のことを忘れないよう求めました。エルサレムの共同体は、国を襲った飢饉による深刻な困難に直面しています。使徒パウロは早速貧しい人々のために大規模な募金を行うよう手配しました。コリントのキリスト者たちは、意識が高く協力的でした。パウロの指示で、週の初めごとに、それぞれがいくらかでも貯めたお金を集め、誰もが、とても寛大でした。

 その時から、時を同じくするように、私たちも毎日曜日に感謝の祭儀の中で、それと同じ行為を続け、共同体が貧しい人々の必要に応えられるようにと、献金を集めてきました。それは、一人の兄弟も一人の姉妹も、必要なものを欠くことがないよう、キリスト者が喜びと責任感をもって常に果たしてきたことのしるしです。これについては、すでに2世紀に、聖ユスティノの文書が言明しています。

 皇帝アントニヌス・ピウスにあてて、キリスト者が主日を祝うことを説明し、次のように書き送っています。「太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。……一人ひとりが感謝された食物の分配を受け、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。次に、生活にゆとりがあって、しかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」(『第1弁明』六七, 3-7[柴田有訳『キリスト教教父著作集 第1巻―ユスティノス』教文館、1992年、85頁])。

4.コリントの共同体に話を戻すと、最初の興奮が収まると、彼らの意欲は徐々に低下し、使徒の提案した取り組みは勢いを失っていきます。だからこそパウロは、募金をもう一度もり立てるために、「今それをやり遂げなさい。心からそう願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです」(コリントの信徒への手紙2・8章11節)と熱い言葉で書きつづったのです。

 近年、中東や中央アフリカの紛争、そして現在のウクライナの戦争から逃れてきた、何千何百万人もの難民を受け入れるために、門を開くよう、住民全体を駆り立てる決意について、私は今、考えています。家庭が、家族単位で避難民を受け入れるために自宅を開放し、地域社会は多くの女性や子どもたちを寛大に受け入れ、人間にふさわしい対応に努めています。しかし、戦闘が長引けば長引くほど、事態は悪化します。受け入れ側では、支援の継続が難しくなり、受け入れ家庭や地域社会は、緊急事態が続く状況に負担を感じ始めています。今こそ、くじけず、最初の意欲を取り戻す時です。やり始めたことは、その責任をもってやり遂げなければなりません。

5.連帯とはまさに、持っているわずかなものを、何も持っていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります。一方、ここ数十年で、多くの家庭に対して手厚い福祉が拡充し、安定した生活状態になった国々があることは、評価しなければなりません。これは、家族支援政策や社会的責任に働きかける具体策と結びつくよう、経済成長を支えてきた、民間の取り組みと法律がもたらした、好ましい結果です。手にした安全と安定の遺産を、今度は、身を守り、生き延びるために家と国を離れざるをえなかった人たちと、共有することができます。市民社会の一員として、自由、責任、友愛、連帯の価値を訴える声を上げ続けましょう。そしてキリスト者として、自らの存在と行動の基盤を、常に、愛と信仰と希望のうちに見い出しましょう。

6.興味深いのは、使徒パウロはキリスト者に愛の業を強いているわけではないことです。実際、こう書かれています。「こうは言っても、私は命令するのではありません」(コリントの信徒への手紙2・8章8節)。むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の「純粋さを確かめ」ようとしています(同参照)。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、彼の意図はそれ以上のものです。献金を、イエスご自身が証ししてきたように、愛のしるしとして行うよう、招いているのです。つまり、貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとされた神の御子の選択にあるのです。

 使徒はまさに、キリストのこの選択、この「放棄」は「恵み」で、これこそ「私たちの主イエス・キリストの恵み」(コリントの信徒への手紙2・8章9節)であり、それを受け入れることによってのみ、私たちは自分の信仰を具体的、かつ裏表なく表現できるのだ、と言い切っています。新約聖書全体の教えは、このテーマについて一貫しており、それは使徒ヤコブの言葉にも反映されています。

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはいけません。御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです」(ヤコブの手紙1章22−25節)。

7.貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接の関わりによって、信仰を実践するのです。ところが、時おり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正すこができずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています。

 お金そのものに問題があるのではないことは分かっています。お金は人々の日常生活と社会的関係の一部であるからです。省みるべきは、私たちにとってお金の価値がどれほどのものであるか、ということです。お金を第一の目的であるかのように、絶対的なものとしてはいけないのです。このような執着は、日常生活を現実的な目で見られなくさせ、目を曇らせ、他者の困窮に気づくことをできなくします。富という偶像に目がくらみ、刹那的で絶望的な人生観に縛られてしまうことほど、キリスト者と共同体に害を及ぼすものはありません。

 大事なのは、よくあるような貧しい人に対する過保護な社会保障を敷くことではありません。必要なものに事欠く人がいないよう努力することが求められているのです。救いとなるのは行動主義ではなく、心からの寛大な気遣いです。その気遣いがあるから、貧しい人に兄弟として近づくことができるのです。貧しい人は、私に手を差し伸べ、陥った無気力から目覚めさせようとしています。ですから「自分の生活における選択のために、他の事柄にもっと注意を払っているので、貧しい人に対しては距離を置いている、などと、誰も言ってはなりません。

 これは、学問、実業、専門職の世界、さらには教会においてさえ頻繁に聞かれる言い訳です。……貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れているような人は、誰一人いません」(使徒的勧告『福音の喜び』201項)。「困窮者に向けて構想されながらも、まったく困窮者側のものではなく、困窮者からのものでもない、ましてや人々を再び一つにする計画に含まれてもいない」(回勅『兄弟の皆さん』169項)社会政策の枠を超えた、新しい方法を見つけることが急務です。むしろ、コリントの信者に「他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです」(コリントの信徒への手紙2・8章13節)と書きつづった、使徒パウロの姿勢を目指さなければなりません。

8.昔も今も、人間の論理とは対照的な、受け入れがたい逆説があります。それは、私たちを豊かにすることができる貧しさの形が存在する、ということです。パウロは、イエス・キリストの「恵み」に言及することで、自らが説いた内容を裏づけようとしています。すなわち、真の豊かさは「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」ような、ため込まれた「地上の富」(マタイ福音書6章19節)にあるのではなく、誰も見捨てられたり排除されたりすることがないよう、互いの重荷を負えるようにする相互愛にあるのです。

 この一、二年に私たちが思い知らされたもろさと限界の経験、そして今世界中に波及している戦争の悲劇は、決定的なことを教えてくれるはずです。私たちは生き残るためにこの世界にいるのではなく、誰もが尊厳ある幸せな人生を送るために存在しているのです。イエスのメッセージは私たちに道を示し、気づかせてくれます。屈辱を与えて殺してしまう貧しさがあり、それとは別の、解放と幸福をもたらす貧しさがあるのです。

 人を殺す貧困は、不正義、搾取、暴力、資源の不公正な配分、それらによって生まれた窮乏のことです。展望も出口もない使い捨ての文化が土台となっているため、未来のない絶望的な貧困です。極貧状態に追い込むと同時に、霊的な部分にも影響を及ぼすほどの悲惨さです。霊的なものはしばしば軽視されますが、だからといって、存在しないもの、重要ではないものなのではありません。

 一日の終わりに利益を計算することが唯一決まった行動であるなら、人間を搾取する論理にもはや歯止めは利きません。他者は単なる手段となるのです。公正な賃金も公正な労働時間もなくなり、新しい形態の奴隷制度が生まれ、生活するための最低限のものを得るため、他に選択肢はなく、この毒となる不公正を受け入れざるをえない人々が苦しむのです。

 一方、人を解放する貧しさとは、重荷を軽くし、大切なものに集中するための責任ある選択、として示されているものです。実際、何か大切なものが欠けていると感じ、それを求めてあてのない放浪者のようにさまようことで、多くの人が味わっている満たされなさは、簡単に見分けることができます。自分を満たすものを探し求める彼らは、何が自分にとって真に必要なのかの理解を得るため、小さくされた人、弱い人、貧しい人へと向かわねばなりません。貧しい人との出会いによって、漠としたさまざまな不安や恐怖にとらわれなくなり、人生において本当に大切なもの、だれも奪うことのできないものに到達できるのです。すなわち、まことの無償の愛にです。事実、貧しい人は私たちの施しの対象ではなく、私たちを不安や浅薄さの束縛から解放してくれる主体なのです。

 教父であり教会博士である聖ヨハネ・クリゾストモは、その著作の中で、いちばんの困窮者に対するキリスト者の振る舞いを強く非難し、次のように記しています。「貧しさがあなたを豊かにすると信じることができないなら、あなたの主を思い、そのかたを疑うのをやめることです。主が貧しくなられなければ、あなたが豊かになることはなかったのです。貧しさから多くの豊かさが生まれた、ということは、驚くべきことです。パウロがここで言う『豊かさ』とは、憐みの心、罪からの清め、正義、聖化、そのほか、今もいつも私たちに与えられている、数え切れない良いものを意味しています。貧しさのおかげで、こうしたすべてが可能なのです」(「コリントの信徒への手紙二についての説教」17章1節)。

9.今回の第6回「貧しい人のための世界祈願日」のテーマとして引用した使徒パウロの言葉は、信仰生活の大いなる逆説を示しています。キリストの貧しさこそが、私たちを豊かにするのです。パウロがこの教えを伝えることができ、教会が何世紀にもわたってそれを広め、証しすることができたのは、まさしく神が、御子イエスにおいてこの道をお選びになり、歩み続けられたからです。主が私たちのために貧しくなられたのですから、私たち自身の人生が、照らされ、変えられ、世が知らず、与えることのできない価値を獲得するのです。

 イエスの豊かさとは、その愛であり、それは誰に対しても閉ざされることなく、すべての人に、とりわけ、疎外され、必要なものを奪われている人々のもとに向かう愛です。愛ゆえに、ご自分を無にして、人間の境遇を担われました。愛ゆえに、ご自分を、十字架の死に至るまで、仕える者となさいました(フィリピの信徒への手紙2章6−8節参照)。愛ゆえに「命のパン」(ヨハネ福音書6章35節)となられました。それは、誰もが必要なものを欠くことなく、永遠の命を養う食べ物を得られるようにするためです。

 当時、主の弟子たちがそうであったように(ヨハネ福音書6章60節参照)、今日でもこの教えを受け入れることは難しいように思われますが、イエスの言葉は明解です。命が死に打ち勝ち、尊厳が不正義から取り戻されることを望むのなら、進むべきは、あのかたの歩んだ道です。イエス・キリストの貧しさに倣い、愛のために命を分かち合い、自分という存在であるパンを、兄弟姉妹とともに、しかもまず、最も虐げられている人、必要なものに事欠く人と共に裂くことで、平等を生み出し、貧しい人を困窮から、金持ちを虚栄からーどちらにも希望はありませんー救うことです。

10.去る5月15日、兄弟シャルル・ド・フーコーが列聖されました。彼は裕福な家に生まれながら、イエスに従うためにすべてを捨て、イエスとともに貧しい者となり、すべての人の兄弟となりました。初めはナザレで、次にサハラの荒野で、沈黙と祈りと共有によって築かれた彼の隠遁生活は、キリスト者の貧しさの模範的証しです。彼の次の言葉を深く味わうことは、私たちにとって有益です。

 「貧しい人、小さくされた人、労働者を軽んじてはいけません。彼らは神における私たちの兄弟であるばかりでなく、その目に見える生活において、ほぼ完全にイエスに似た人たちなのです。彼らは、ナザレの労働者であるイエスを完全に体現しています。選ばれた民の中の長子であり、救い主のゆりかごにいちばん先に招かれた人たちです。イエスの誕生から死に至るまでの、常なる友でした。……彼らを敬い、彼らの内に映る、イエスとその聖なる父母の姿を讃えましょう。……主がご自分の身に引き受けてくださった[境遇を]、私たちも引き受けましょう。……私たちは、すべてにおいて貧しい者、貧しい人の兄弟、貧しい人の友となることを、決してやめてはなりません。イエスのように貧しい人の中の最も貧しい人となり、イエスのように貧しい人を愛し、彼らを囲む者となりましょう」(『黙想』263「ルカ福音書注解」)1

 兄弟シャルルにとって、これらは単なることばではなく、具体的な生き方であり、命という贈り物そのものをイエスと分かち合えるようにしてくれるものなのです。

 この第6回「貧しい人のための世界祈願日」が恵みの機会となり、個人として、また共同体として良心の糾明を行い、イエス・キリストの貧しさを人生の忠実な友としているか、を振り返る機会となりますように。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年6月13日 パドバの聖アントニオの記念日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は、原典に近く、現代日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」に改め、漢字の表記は一般に使われている当用漢字表記に原則として改めました)

2022年11月11日

☩「幼稚な武器の論理は、決して問題の解決にならない」 教皇、ウクライナでの戦いを改めて批判

Soldiers in the Russian-Ukrainian war fire towards enemy positionsSoldiers in the Russian-Ukrainian war fire towards enemy positions  (AFP or licensors)

 最後に教皇は、一般謁見に参加したポーランドの巡礼者たちに、明後日がポーランドの独立記念日であることから、「この重要な記念日が、すべての人に神への感謝の気持ちを抱かせますように、そして、あなたの国、世界、特に近隣のウクライナでの友愛、生命の保護、人間の尊厳への新たな約束となるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年11月9日