Pope Francis in prayer
(2022.11.25 VaticanNews Salvatore Cernuzio)
ロシアによるウクライナ軍事侵攻の開始から 9 か月がたち、教皇フランシスコが、ウクライナの人たちに、悲しみの共有と、「殉教」した気高い犠牲者への哀悼を改めて示す書簡を送られた。
書簡は、「破壊と痛み、飢え、渇き、寒さ」によって傷ついている人々を目の当たりにする司牧者としての痛みの表明と共に、「子供たちと悲しみをともにする父親」としての愛を込めて書かれている。
ロシアの軍事侵攻という「戦争の愚かな狂気」が解き放たれてからちょうど 9 か月、教皇は、ウクライナという「殉教した」国のために 100 を超える声を上げておられるー女性、暴力の犠牲者、または戦争の未亡人たちへ、前線に派遣された若者たちへ、取り残された老人たちへ、難民あるいは避難民となっている人たちへ。ボランティアと司祭、国の当局者へ…。
教皇は、苦難と試練の時代に勇気を失わないように、との心からの願いを彼ら全員に伝え、彼らが「強い人たち」であり、「苦しみ、祈り、叫び、もがき、抵抗し、希望する、高貴で殉教した人たち」であることを称賛されている。
(バチカン放送)
書簡で、教皇は、この9カ月の間、「吹き荒れる戦争の狂気の中、町は爆撃で破壊され、ミサイルの雨が死と破壊、苦しみ、飢え渇き、寒さをもたらし、多くの人は家や愛する人たちを置いて逃げざるを得ず、そこには毎日血と涙の川が流れている」と悲しみを表され、ご自身の涙をウクライナの人々の涙と重ねるとともに、「祈りの中で皆さんを心に浮かべ、近くにいなかった日は一日たりともありません。皆さんの痛みは、私の痛みです」と述べた。
そして、「イエスの十字架の中に、攻撃の恐怖に苦しむ人々を見、拷問の痕を残した遺体や共同墓地などの多くの残忍な現実の上にイエスを苦しめた十字架がよみがえります」とされたうえで、「いったい、どうしたら人間が、他の人間をこのように扱うことができるのでしょう」と問いかけ、「殺された、あるいは怪我を負わされた子どもたち、孤児たち。そうした子どもたち一人ひとりの中に、全人類の敗北があります」と指摘。
同時に、「未来への夢の代わりに武器を取った若者たち、夫を失いながらも尊厳のうちに子どもたちのためにすべてを尽くす妻たち、あるべき平穏な老後から戦争の闇に突き落とされたお年寄りたち、暴力を受け心と体に重い傷を負った女性たち、多大な試練に立ち向かうすべての人たち」に、ご自身の寄り添いと愛情、敬意を示された。また、家を離れ、遠くにいる難民と国内避難民はもとより、危険を冒して人々に奉仕するボランティアや司牧者にも、思いを向けられた。
そして、教皇は、このような悲劇的な時に国を治め、「平和と発展のために先見的な決断の義務を負う当局者たち」のために祈られた。
さらに、「このすべての悪と苦しみが、ホロドモールによる虐殺から90年を背景に起きていること」に言及され「大きな悲劇を前に、決してくじけないウクライナの民に、心と、祈り、人道的配慮をもって、これからも寄り添いたい」と願われた。困難な状況をさらに難しくする、厳しい冬の寒さを生きる人たちに、全ての教会の愛と祈りを伝えられた。
また、教会が待降節に入り、「降誕祭が近づく中で、皆さんの苦しみは、いっそう軋みを感じさせるかもしれません」と懸念されつつ、「ベツレヘムの聖家族の試練を思い起こしてください」と語られた。そして、「寒さと闇しかないように思われたあの夜、光が現れた。それは人々からではなく、神からの、地上ではなく、天からの光でした」と励まされた。
そして、「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章37節)という確信のもとに、「熱望する平和の賜物を疲れることなく願いましょう」と呼びかけつつ、ウクライナの人たちの苦しみと涙を、聖母マリアの汚れなきみ心に託して祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.11.23 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは23日の水曜恒例の一般謁見で「識別について」の講話を続けられ、「霊的な慰め」とは、すべての中に神の臨在を見ることによる「内なる喜びの深遠な体験」である、と強調された。
教皇の講話の要旨は次のとおり。(バチカン放送)
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「識別について」の連続講話では、前回、「魂の闇」ー「悲嘆」について考察しましたが、今日は、「魂の光」とも言える「慰め」について考えたいと思います。「慰め」もまた識別における重要な一つの要素なのです。
魂の慰めとは何でしょう。それは内的喜びの体験です。そこではあらゆることに神の現存を見ることを可能とし、信仰と希望、善を行う力を強めることができます。慰めを体験する人は、困難を前に諦めるということがありません。なぜなら試練よりもさらに強い平和を経験するからです。慰めは霊的生活への、また人生そのものへの大きな恵みです。
慰めは、私たち自身の奥深くに触れる内的な働きです。それは海綿に落ちる一滴の水のように、目立たないが、甘美で繊細なもの(聖イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』335項参照)。慰めを体験する人は、神の存在に包まれるように感じます。それは私たちの意志に力を加えるものでも、過ぎ去りやすい歓喜でもありません。それとは反対に、たとえば自身の罪など、時には苦悩さえも、慰めのきっかけとなり得ます。
聖アウグスティヌスや、アッシジの聖フランシスコ、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、十字架の聖テレサ・ベネディクタ(エディット・シュタイン)など聖人の経験を考えてみましょう。聖人たちが偉大なことを行うことができたのは、彼らが自分の才能を信じていたからではなく、神の平安をもたらす甘美な愛に捉えられたからでした。
慰めは希望とつながります。慰めは未来に向かって人を歩ませ、エディット・シュタインの洗礼のように、その時まで後回しにしてきた計画を実行させるのです。
慰めが与える平安は、「座ったまま、それを味わう」ことをさせず、人を主にいっそう引きつけ、「良いことを行うために歩ませる」のです。私たちが「慰め」を体験した時、善を行いたい気持ちがいつも起こります。それに対して、悲嘆の中にある時は、自分の中に閉じこもり、何をする気も起きません。「慰め」は人を他者への奉仕のために進ませます。
霊的な「慰め」は、自分の思い通りに得ることはできません。それは聖霊の賜物だからです。「慰め」は、神との親しさを可能にし、神との距離をなくします。
幼きイエスの聖テレーズは、14歳の時、ローマを訪れ、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会(エルサレムの聖十字架教会)で、イエスが十字架につけられた時の釘の聖遺物に指で触れました。その時、テレーズはこの大胆さを、愛と信頼に満たされたものと感じていました。
テレーズはこう記していますー「私は本当に、あまりにも大胆でした。それでも、心の奥をご覧になる神さまは、私の意図が純粋であったことをご存知です… 何もかも赦されていると思い込み、父の宝を自分のものとみなす子どものように、私は神さまに対し振る舞っていました」(自叙伝)。
14歳のテレーズは、私たちに霊的慰めをめぐる素晴らしい叙述を与えてくれました。神に対する愛情に気づき、「神に受け入れられ、愛され、元気づけられている」と感じることで、神ご自身の命にあずかり、「神のお気に召すことをしたい」と大胆になり、困難を前にも、くじけなくなる…。実際、テレーズは同じ大胆さをもって、まだ若すぎたにもかかわらず、教皇にカルメル会への入会を願い、やがてその願いはかないました。
神から来る「霊的慰め」に対し、人間が作り出す「偽の慰め」もあることに注意しなければなりません。神からの慰めは静かで非常に内面的なものですが、「偽の慰め」は騒がしく、目立ち、情熱的です。そして燃える藁のように、最後には虚しさだけを残します。
ですから、慰めを感じた時にも「識別」が必要なのです。なぜなら、偽の慰めは、「主を忘れ、自分のためだけにそれを追求するようになる」という意味で、危険だからです。子供っぽい仕方で生きる危険、それを消費する対象にしてしまい、最も美しい贈り物である神自身を失う危険を冒していることに注意が必要です。
私たちは、慰めと世の罪による悲嘆の間を生きていきますが、神からの慰めを見分けることができるなら、それは魂の奥底まで深い平和をもたらすに違いありません。
(編集「カトリック・あい」)
インドネシア・西ジャワ州チアンジュール県で(2022年11月23日 )
(2022.11.23 バチカン放送)
教皇フランシスコは23日の水曜恒例の一般謁見で、インドネシアのジャワ島で起きた地震の犠牲者と負傷者のために祈られた。
ジャワ島西部で21日発生したこの地震で、これまで271人の犠牲者と約150人の行方不明者、2千人以上の負傷者が報告されている。
教皇は、愛するインドネシアの人々に精神的な寄り添いを述べられるとともに、地震の犠牲者と負傷者のために祈られた。
一方、現地の宣教師マーチン・シュミット神父は、「地震の発生時刻が日中だったため、学校にいた多くの子どもたちが犠牲になった」と説明。被災者たちのために真に連帯が必要な状況だと訴えた。
また、「死者数は増え続けており、救助隊は様々な方法で震源地に近い地域に到達する努力をしているが、多くの村で道が分断されており、救命・支援活動が難航している」と語った。
(編集「カトリック・あい」)
(2022.11.20 バチカン放送)
教会の典礼暦で「王であるキリスト」を祝った20日、教皇フランシスコは訪問先のイタリア北部アスティのカテドラルでミサを捧げられた。
このミサには、地元ピエモンテ州はもとより、リグーリア州など、北イタリア各地から信者らが訪れ、会場の司教座聖堂の内外をいっぱいにした。
教皇はミサの説教の冒頭で、祭壇奉仕者への任命を受ける一人の青年を紹介しながら、「将来的に司祭を目指しているこの青年のために、またアスティの教会に司祭への召し出しが欠けることのないように、祈ってほしい」と願われた。
「大地の豊かな実りと働き者の人々で知られ、ご自分の家族と縁のある土地を訪れ、自らのルーツを再び見出した思いがします」と述べられたうえで、この日の福音朗読(ルカ福音書23章35-43節)は、「カルワリオという荒地に天国への種をまき、十字架の木によって救いの実をもたらしたイエス」の受難の一場面を通して、私たちに「信仰のルーツ」を示してくれる、と話された。
そして、「王であるキリスト」の祭日に、「玉座に着いた力強い荘厳な王のイメージとは真逆の、十字架という王座からすべての人に両腕を広げる私たちの王、キリスト」を観想され、「その抱擁の中に入ってこそ、私たちの苦しみや、悲しみ、弱さ、貧しさ、孤独、尊厳のない状態に寄り添うために、僕となり、ののしられ、嘲笑され、衣を取られ、受難に向かわれた神の、十字架の逆説的な意味を理解することができます」と説かれた。
さらに、「今日、私たちの王は、十字架の上から両腕を広げ、私たちを見つめておられます… その王を、ただ見ているのか、それとも関わっていくのか。その選択は私たちに委ねられているのです」と強調された。
続けて教皇は、「信仰の危機や信者の減少を前に、批判や議論だけに留まりますか。それとも危機を自覚して積極的に祈りや奉仕に取り組んでいきますか。十字架上で釘打たれたキリストの手を見ても、手をポケットに突っ込んだままですか。それとも社会や世界、教会のために何か努力しますか」と問いかけられ、「十字架上のキリストを見つめることで、自分自身を見つめる勇気を得て、神への信頼と奉仕の道を歩むことができますように」と祈られた。
(編集「カトリック・あい」)
教皇フランシスコ イタリア北部アスティから正午の祈り(2022年11月20日 =Vatican Media)
(2022.11.20 バチカン放送)
教皇フランシスコは「王であるキリスト」の祝日の20日、訪問先のイタリア北部アスティのカテドラルでミサを捧げられたのに続いて、正午の祈りをなさった。
祈りに先立って、教皇はアスティ教区と地元自治体、そしてすべての人々の温かいもてなしに心からの感謝を表された後、教区レベルの「世界青年の日」を記念したこの日、特に若い信者たちに語りかけた。
教皇は、この日の「世界青年の日」と来年夏にポルトガルで開かれる「世界青年の日・リスボン大会」の共通テーマ、「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカ福音書1章39節)という言葉の観想へと招かれた。
そして、エリザベトを訪問した時のマリアの若さを指摘。「出かける」「向かう」という2つの動詞を「若さの秘訣」として示され、「マリアは出かけて、向かいました。自分のことだけを考えず、天の高きを見つめ、自分の恐れから抜け出し、助けを必要とする人に手を差し出すために歩き始めたのです」と語られた。
さらに、「今日、私たちは、”順応主義者”や”携帯電話の奴隷”ではない、マリアのように”世界を変える若者たち”を必要としています…マリアのように、人々にイエスをもたらし、他者をいたわり、兄弟愛に満ちた社会と平和の夢を実現してください」と若者たちに希望され、「世界は平和に飢えています… ウクライナをはじめ戦争に苦しむ世界各地を心に留めつつ、平和のために祈り続けましょう」と呼びかけられた。
また、教皇は数日前にパレスチナ自治区ガザの難民キャンプで発生した大規模火災で亡くなった子どもたちを含む、犠牲となった多くの人々とその遺族に思いを向け、犠牲者の冥福とともに、長い紛争に苦しむ人々への慰めを、神に祈り求められ、「平和の元后マリア」に捧げたこのカテドラルで、すべての家族や病者をはじめ、すべての人々を聖母の保護に託して祈られた。
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教皇フランシスコは19、20の両日、イタリア北部ピエモンテ州アスティ県を訪問された。アスティ地方に住む教皇の親類の女性の90歳の誕生日を機会にご自身の家族のルーツを訪ねると共に、同地方の信者らを励ますことが目的。19日は親類の人々と私的な時間を持たれていた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis greets the faithful during his weekly General Audience (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2022.11.16 Vatican News Francesca Merlo)
教皇フランシスコは16日の水曜恒例の一般謁見で、バーレーン訪問などで中断していた「識別について」の連続講話を再開され、「人生を前に進めるために、 desolation(寂寞)と健全な悲哀を受け入れるように」と信徒たちに促された。
講話の冒頭、教皇は「私たちは、時々の感情に駆られて拙速に判断を下し、あとになって後悔しないように、自分の中で心騒がせるのは何かを読み取ることが重要だ、と知っています。 つまり、これから何が起こるかを、読み取ったうえで、判断を下す、ということです」と指摘。
そして「そのような意味で、私たちが”寂寞”と呼ぶ 精神状態ー心の中が真っ暗で、悲痛な状態ーは、成長の機会となる可能性があるのです」とされ、「寂寞は 『魂の覚醒』を引き起こし、私たちを警戒を怠らないようにさせます。このような健全な悲哀がなければ、私たちは常に物事の表面にとどまり、自分の存在の中心と回路をつなぐことができないというリスクを冒します」と述べられた。
バチカン放送による要旨は次のとおり。
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これまでの連続講話では、その時々の感情に駆られて拙速に判断を下すことのないよう、自分の心の動きを読み取ることの大切さを見てきました。
その意味で、私たちが「 desolation(寂寞)」と呼んでいる精神的状態も、成長の機会になり得ます。実際、多少の不満や、悲しみ、孤独に慣れる力、逃げずに自分と向き合う能力がなければ、いつも物事の表面だけに留まり、自己存在の中心と回路をつなぐことができないからです。
悲しみは、私たちの「魂を揺さぶり」、目覚めた、謙虚な状態にし、気まぐれな傾向から守ってくれます。それは、人生、そして霊的生活における成長に欠かせない状態です。
悲しみは、感情上の慰めを期待して行動しないための、無償性への招きでもあります。打ち砕かれた状態は、人を成長させ、与える・受け取るといった単なる交換関係ではない、主との、親しい人々との、より成熟した素晴らしい関係を始めることを助けてくれます。
小さな子どもは、親にいろいろなもの要求します。最も大きな贈り物は、親たちの存在そのものですが、それを理解するのは、成長の過程においてです。
私たちの祈りも、こうした関係にやや似ています。私たちは祈りの中で主にいろいろなことを願いますが、主そのものに対しては、関心が欠け落ちていることがあります。
福音書の中で、イエスはしばしば多くの人に囲まれています。しかし、それは人々が癒しや、物的助けを求めたからで、単に「イエスと一緒にいたいから」ではありません。イエスは群衆に揉まれていたにもかかわらず、人きりでした。ある聖人たち、また芸術家たちも、イエスと同じこの状況を観想しています。
主に「お元気ですか」と尋ねるのは、おかしなことに思われるかもしれません。ですが、それは、イエスの人間性とその苦しみ、孤独と共に、真の誠実な関係に入るための、非常に素晴らしい方法なのです。イエスはご自身の命を私たちと徹底的に分かち合うことを望んでおられます。
他の目的なしに、イエスと共にいることを学ぶのは、とてもよいことです。それは私たちが愛する人たちに対して望むこと、と同じです。私たちは愛する人々のことをもっとよく知りたいと願いますが、それは一緒にいることが素晴らしいからです。
「霊的生活」は、私たちに計画可能な「内的幸福」のテクニックではありません。もし、それが私たちに計画できるものなら、そこに寂寞はなく、判で押したように、いつも幸福で満足しているでしょう。霊的生活、それは生きたキリストとの関係です。
祈る者は、祈りの結果を予想できません。聖書を読むことが、いつもなら心を燃やすのに、今日は、なぜか何も感じない、ということもあれば、できれば避けたいと思っていた経験や出会い-たとえば十字架的な体験-などが、思いがけない平和をもたらすこともあります。
ですから、困難に直面しても意気消沈せず、神の恵みの助けをもって、その試練と向き合うことが大切なのです。心の中に、私たちを祈りから引き離す声が聞こえたら、それは誘惑者の声です。このような時は、その声が命じることと反対のことをしましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
教皇フランシスコの「貧しい人のための世界祈願日」のミサ(11月13日、バチカン・聖ペトロ大聖堂 =Vatican Media)
(2011.11.13 バチカン放送)
カトリック教会の「貧しい人のための世界祈願日」の13日、教皇フランシスコがバチカンでミサを捧げられた。
祈願日は、教皇フランシスコによって創設。毎年、典礼暦の年間第33主日に記念され、今年で第6回目を迎えた。
バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた貧しい人々のためのミサには、ホームレスの人々や難民・移民などローマ教区のカリタスや諸団体の支援を受けている人々も多数参加した。
教皇はミサ中の説教で、この日読まれたルカ福音書の一節(21章5-19節)を取り上げられた。この箇所で、イエスは神殿の外見的な美しさに見とれている人々に、その崩壊の時と終末の徴について予告している。
教皇は、「この世のすべてのものと同様、人の手で築かれた神殿は滅びるが、重要なのは、今、生きている時のしるしを識別し、歴史上の様々な出来事の中で福音の弟子として留まることです」と語られた。
そして、時のしるしの識別に役立つものとして、この箇所でイエスが言う「惑わされないように気をつけなさい」(ルカ福音書21章8節)、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(同13節)という2つの言葉を示され、「イエスの言葉は、この世界祈願日において、私たちの塞がれた心の耳を開き、弱い立場にある人々の苦しみの叫びを聞くように、との警告です」と指摘。
「今日の世界で見られる暴力や、不正義、迫害、また新型コロナの世界的大感染や、気候変動、戦争などの危機、難民や移民、失業者らの苦しみを前に、もし、私たちの心が反応しないなら、人々の苦悩の叫びを聞き、その悲しみを分かち合うことはできないでしょう」と注意された。
また、イエスが「惑わされないように気をつけなさい」と言われるように、「こうした危機の中で、安易な解決をうたうポピュリズムや、利益の名のもとに一部の人を富ませ、貧しい人たちを隅に押しやる”偽のメシア”に惑わされてはなりません」と強調され、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」というイエスの教えに従い、「闇の中に希望の光を灯すことで、福音の喜びを証しし、兄弟愛に満ちた世界を築いてもらいたい」と信徒たちに願われた。
教皇はこのミサに続き、日曜正午の祈りの集いを行われ、その後、バチカンのパウロ6世ホールで貧しい人々と昼食を共にされた。
(編集「カトリック・あい」)
An Amazonian woman holds up her hand at a demonstration in Sharm El-Sheikh (ANSA)
(2022.11.13 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは13日、年間第33主日の正午の祈りの説教の終わりに、エジプトで開催中のCOP27(第27回気候変動枠組条約締約国会議)に言及。
環境回勅「Laudato Si’ 」を基にした行動規範(Action Platform)をその基礎となるものとして思い起こされ、環境保護に努力する参加者たちに「 勇気と決意を持って前進することを願っています」と激励の言葉を送られた。
回勅「Laudato Si’ 」は 教皇フランシスコが”私たちの共通の家”である地球を守ることを狙いとして2015年に発出されたもの。教皇はさらに、昨年11月に回勅に基づいた「 生態学的な転換とそれに一致するライフスタイルを促進する」行動規範を発出され、14日に一周年を迎える。活動を担当するのはバチカンの総合人間開発省だ。
そして、教皇は、この活動に、個人、家族、企業を始め、宗教・文化関係団体、医療機関など約 6000 の参加者がいる、とされ、「これは、地球の叫びと貧しい人々の叫びに応えることを目的とした7年間の旅の素晴らしいスタートです。 私たちは、人類の未来のためのこの重要な使命を奨励し、創造物を大切にするという具体的なコミットメントをすべての人に育むことができるようにします」と言明された。
Pope Francis meeting members of the World Union of Catholic Teachers (Vatican Media)
(2022.11.12 Vatican News Lisa Zengarini)
教皇フランシスコは12日、世界カトリック教師連合 (WUCT)の代表たちとお会いになり、キリスト教教育は「完全に人間的で完全にキリスト教的」でなければならない、と強調され、イデオロギーの植民地化に馴らされないよう注意された。
WUCTは、教会の教えを学校教育の分野にもたらすための調査研究を協力して進めることを目的に、世界中のカトリック教師の集まりをまとめるネットワークとして1951年から活動している。
*教皇と共に働く者として
教皇フランシスコはあいさつで、WUCTが今日直面している多くの課題について「前向きな見方をする」よう求め、「教皇と共に働く者」としての連合の使命は、「カトリックの教師が、個人として、または同僚のグループ内で、教育者、信仰の証人としての重要な使命を十分に認識するよう励まし、動機づけることにあります」とされた。
そして、「そうすることで、皆さんは世界にカトリック教師を支援するという教会の奉仕の在り方を示し、カトリック教師が可能な限り最善の方法で仕事を遂行し、複雑な状況で進行を証しできるようになるのです」と説かれた。
*カトリックの教師には人間的、キリスト教的な完全性が求められる
さらに教皇は、「学校という社会で、キリスト教徒の教育者の存在は非常に重要。皆さんには、完全に人間的であり、完全にキリスト教的であること、自分のいる時代と文化に根ざし、教え子たちの最も深い要請、疑問、恐れ、夢を理解することができる人であることが求められています」と強調。
続けて、「カトリックの教師として、若者の”夢の翼”を切り落とし、その願望を台無しにすることなく、キリスト教信仰が人間の経験のすべてを包含することを証しできるようにすることが重要です。実際、教会の伝統において、若者教育は、常にすべての次元において、一人一人の人間の完全な養成を目標としてきました」と指摘された。
*時代と世代の変化に適応し、 若者の人格形成に果たす重要な責任
また教皇は、子供、青少年、若者の生活に「良くも悪くも足跡を残す」立場にある教師の「大きな責任」を強調され、 「私たちは皆、個人的な経験から、人格の形成期に優れた教師と賢明な教育者を持つことがいかに重要であるか、を知っています」と述べられた。それゆえ、「 教育者が自分の動機と方法を継続的に再評価し、時代と世代の変化に適応する能力も必要。硬直した考えや行為は教育を破壊してしまう。硬直してはなりません」と説かれた。
WUTC の任務について教皇は、「教師が、若者たちと共に成長したい、という願望を持ち続け、学習の喜びと真実への欲求を彼らに伝達する、最も効果的な方法を見つけるのを助けること。教師が”教育のイデオロギー化”と、若者たちを成長させる”新奇性”を注意深く見分けるの支援すること」である、とされた。
そして、「今日、顕著になってきている”イデオロギーの植民地化”は、人間の個性を破壊し、それが教育の分野に入ると、災害を引き起こします」と警告された。
*教育分野のグローバル コンパクトの意識を高めて
あいさつの締めくくりに、教皇WUTC に、教育分野で教皇が提唱される「グローバル コンパクト」についての意識を、カトリック教師たちの間で高める手助けをするよう求められた。
グローバルコンパクトの 起源は、 1999年 の 世界経済フォーラムで 、当時の 国連 コフィ・アナン 事務総長 が企業に対して、 人権 ・ 労働権 ・ 環境 ・ 腐敗 防止に関する10原則を順守し実践することを求めたことにあるが、教皇は2019年に、これを教育の分野にも適用。 教育分野での世界のカトリックの教育関係者たちの協力体制を構築し、 質の高い教育に利用可能な最高のリソースを投資し、新しい世代に尊敬、対話、連帯の価値を認識させることを目的としている。
Soldiers in the Russian-Ukrainian war fire towards enemy positions (AFP or licensors)
(2022.11.9 VaticnNews Linda Bordoni)
教皇フランシスコは9日、水曜恒例の一般謁見で、ロシアが続けているウクライナ軍事侵攻への懸念を改めて表明され、武器を放棄し、対話による解決を関係国に訴えられた。また、世界中で死と破壊をもたらしている多くの”忘れられた戦争”についても触れられた。
教皇は、「幼稚な武器の論理」を強く批判、ウクライナにとどまらず、シリア、イエメン、ミャンマーなどで続いている”戦いの狂気”を止めるための対話を訴えられた。
そして、「私は、世界中で続いている正気の沙汰でない戦争を思い浮かべます。まったく正気の沙汰ではありません!」と現状を強く批判。
「苦しめられ続けるウクライナはその犠牲者。そして他の多くの地域でも、多くの犠牲者が出ています。子供じみた武器の論理によって紛争が解決されることは決してありません。対話の穏やかな力によってのみ解決されるのです」と強調された。
また、教皇は、苦しめられ続けるウクライナのことは当然として、「何年も続いてきた戦争」についても考えるよう呼びかけ、「シリアについて考えてみましょう、 10年以上も内戦が続いています。イエメンの子供たちのこと、ミャンマーのロヒンギアの人たちのことも考えてみましょう」とされ、続けて、「戦争は何をもたらしますか?人類を破壊し、すべてを破壊します。 紛争は、戦いで解決されるべきではありません」と説かれた。
最後に教皇は、一般謁見に参加したポーランドの巡礼者たちに、明後日がポーランドの独立記念日であることから、「この重要な記念日が、すべての人に神への感謝の気持ちを抱かせますように、そして、あなたの国、世界、特に近隣のウクライナでの友愛、生命の保護、人間の尊厳への新たな約束となるように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)