☩「十字架上の『王』をただ見ているか否か、選択は私たちに」ーアスティで「王であるキリスト」の祝日ミサ

(2022.11.20 バチカン放送)

 教会の典礼暦で「王であるキリスト」を祝った20日、教皇フランシスコは訪問先のイタリア北部アスティのカテドラルでミサを捧げられた。

 このミサには、地元ピエモンテ州はもとより、リグーリア州など、北イタリア各地から信者らが訪れ、会場の司教座聖堂の内外をいっぱいにした。

 教皇はミサの説教の冒頭で、祭壇奉仕者への任命を受ける一人の青年を紹介しながら、「将来的に司祭を目指しているこの青年のために、またアスティの教会に司祭への召し出しが欠けることのないように、祈ってほしい」と願われた。

 「大地の豊かな実りと働き者の人々で知られ、ご自分の家族と縁のある土地を訪れ、自らのルーツを再び見出した思いがします」と述べられたうえで、この日の福音朗読(ルカ福音書23章35-43節)は、「カルワリオという荒地に天国への種をまき、十字架の木によって救いの実をもたらしたイエス」の受難の一場面を通して、私たちに「信仰のルーツ」を示してくれる、と話された。

 そして、「王であるキリスト」の祭日に、「玉座に着いた力強い荘厳な王のイメージとは真逆の、十字架という王座からすべての人に両腕を広げる私たちの王、キリスト」を観想され、「その抱擁の中に入ってこそ、私たちの苦しみや、悲しみ、弱さ、貧しさ、孤独、尊厳のない状態に寄り添うために、僕となり、ののしられ、嘲笑され、衣を取られ、受難に向かわれた神の、十字架の逆説的な意味を理解することができます」と説かれた。

 さらに、「今日、私たちの王は、十字架の上から両腕を広げ、私たちを見つめておられます… その王を、ただ見ているのか、それとも関わっていくのか。その選択は私たちに委ねられているのです」と強調された。

 続けて教皇は、「信仰の危機や信者の減少を前に、批判や議論だけに留まりますか。それとも危機を自覚して積極的に祈りや奉仕に取り組んでいきますか。十字架上で釘打たれたキリストの手を見ても、手をポケットに突っ込んだままですか。それとも社会や世界、教会のために何か努力しますか」と問いかけられ、「十字架上のキリストを見つめることで、自分自身を見つめる勇気を得て、神への信頼と奉仕の道を歩むことができますように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年11月22日