☩「日々の暮らしの中に神がおられることを自覚できるように」-待降節第一主日・正午の祈り

(2022.11.27 Vatican News  Thaddeus Jones)

 待降節の第一主日を迎えた27日の正午の祈りの説教で、教皇は、私たちに「うたた寝から目覚め、いつも神がおられることを意識し、日々の暮らしに喜んでお迎えするように」と呼びかけられた。.

   この日のミサで読まれたマタイ福音書24章37‐44節を題材にとられた教皇はまず、「今日の福音は、主が私たちと共に来られ、『私たちの希望の土台』を示し、人生の最も困難な時期にさえも慰めを与えてくださることを思い起こさせます」と語られた。

 

*主は私たちのそばにおられる

 そして、「主が私たちの日々の暮らしの中にいつもおいでになります。ご自身を私たちの近くに置かれ、時の終わりにお戻りになり、私たちを抱いて歓迎してくださいます」とされたうえで、「では、主は、どのようにして私たちを訪ねて来られるのでしょうか」「私たちは、どのように主を認識し、喜んでお迎えするのでしょうか」と問いかけられた。

 問いかけの一つ目「主は、どのようにして私たちを訪ねて来られるのか」について、教皇は、「主が私たちの旅に同行され、私たちの日々の暮らしの中におられる、ということは、よく耳にしますが、このことはよく考えねばなりません」と注意され、なぜなら、私たちは、日々の暮らしでさまざまな具体的な事柄に気を散らし、主がおられることを、しばしば忘れてしまうからだ、と指摘された。

 そして、今日の福音で、イエスは弟子たちに、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだ」と語られているように、私たちが思いもかけない時に、普通の日々の暮らしの中に、主がおいでになることに、私たちの注意を向けられている、と説かれた。

 

*私たちの日々の暮らしの中に

 続けて教皇は、「神は、私たちの日々の、もっともありふれた暮らしの中に、隠れておられるのです… ”異常な出来事”を待つのではなく、助けを必要とする人に出会った時、偶然の出会いの時、あるいは日々の暮らしの静かで退屈な時など、日々の暮らしの現実を、いつも意識している必要がある。そこに、私たちを呼び求め、語りかけ、私たちを行動に奮い立たせる主がおられるのです」と強調された。

 

*主を認め、喜んで受け入れる

 また、二つ目の問いかけ「私たちは、どのように主を認識し、喜んでお迎えするか」には、「『目を覚まし、警戒し、用心深くなければらない』と、イエスは私たちに警告しておられます」とされ、「イエスがおいでになっていることに気づかず、準備ができていない、という危険があります。聖アウグスティヌスはこのように言っています―『私は通り過ぎる主を恐れる』…つまり、私たちは、主が通り過ぎることを恐れているのに、その主を認識できないのです!」と注意された。

 そして、イエスがノアの時代の人々についてどのように語られたかを思い起され、「彼らは洪水に流されるまで、食べたり飲んだりの、いつもと変わらない暮らしに気を取られ、洪水が迫っているのに気がつきませんでした。私たちは日々の暮らしの中で常に神の臨在を識別し、見逃すことのないようにする必要があります」と強調された。

 

*用心深く、警戒を怠るな

 最後に教皇は、「待降節は、私たちが無気力から揺り動かされ、眠りから覚め、常に警戒する時です。油断なく、用心深く、日々の暮らしの中に神がおられることを認識しているか自問する時です。もし今日、その現実に気づかないなら、神が世の終わりに来られた時、私たちは備えができていないことになります」と改めて注意を呼びかけられ、次の祈りで説教を締めくくられた。

 「マリアは、慎み深く、隠れたナザレでの暮らしの中に神が通って来られるのを知る方法を知り、ご自分の胎に喜びをもって受け入れました。聖母マリアが私たちに助けをくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」)南條俊二)

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2022年11月27日