☩「起き上がり、急いで出かけよ!」ー11月20日「世界青年の日」教皇メッセージ

(2022.11.15 カトリック・あい)

  11月20日、世界の教会は第37回の「世界青年の日」を迎える。同日に向けた教皇メッセージは以下の通り。

2022-23年第37回「世界青年の日」教皇メッセージ 「マリアは出かけて、急いで……行った」(ルカ福音書1章39節)

 親愛なる若者の皆さん

 ワールドユースデー(WYD)パナマ大会のテーマは、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)でした。この大会を終え、私たちは新たな目的地である2023年リスボン大会への道を歩み始めており、神からの緊急の呼びかけを心に響かせているところですー起き上がれ。2020年は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(ルカ7章14節)というイエスの言葉を味わいました。昨年は、復活した主から次のように言葉をかけられた使徒パウロの姿を手掛かりとしました。「起き上がれ。…私があなたに現れたのは… あなたが私を見たこと、これから私が示そうとすることについて…あなたを証人にするためである」(使徒言行録26章16節節参照)。

 リスボンにたどり着くまでの最後の段階に寄り添ってくださるのは、お告げを受けた直後に、いとこのエリサベトのもとへと「出掛けて(訳注:「出掛ける」と訳されているのは、他で「起き上がる」と訳されているものと同じ語)、急いで…行き」(ルカ1章39節)助けようとしたナザレの乙女です。この三つのテーマに共通する動詞は「起き上がる」です。この言葉には「再び起きる」、「命がよみがえる」という意味もあることは、覚えておいてほしいと思います。

 新型コロナウイルスの世界的大感染によって受けた傷に苦しめられていた人類が、戦争の悲劇によって、ずたずたにされる、そのあまりに辛いこの時に、マリアはすべての人のために、とりわけあなたがた、マリアと同じく若い皆さんのために、近しさと出会いの道を再び開いてくださいます。私は、来年8月にリスボンで多くのかたが経験することが、若者の皆さんにとって、そして皆さんとともに、全人類にとって新たな出発点となるよう希望し、またそうなることを固く信じています。

*マリアは出かけて

 お告げを受けた後ですから、マリアは新たな事態による心配事や不安の中、自分のことで頭がいっぱいになっていてもおかしくありません。ところがそうではなく、マリアは神を信頼しきっておられます。さらには、エリサベトのことを案じています。マリアは起き上がり(出かけて)、活力と動きとがある、陽の光のもとへと、飛び出していきました。衝撃的な天使のお告げは、彼女の人生の計画に「地震」をもたらしましたが、この少女は立ち尽くしはしません。その胎にイエスが、復活の力であるかたがおられるからです。

 マリアはすでに、ほふられた小羊でありながら永遠に生きておられる方を宿しておられるのです。彼女が起き上がって動き出せたのは、神の計画こそが、自分の人生の最高の青写真だという確信があったからです。マリアは神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっています。

 人生において、復活したキリストの現存を体験すること、「生きておられる」この方と出会うことは、最高の霊的喜びであり、誰にも「抑える」ことのできない光の大爆発です。これによって私たちは、直ちに突き動かされ、この知らせを他の人々に伝えるよう、この出会いの喜びを証しするよう駆り立てられるのです。復活後の日々で最初の弟子たちを駆り立てたものは、まさしくこの出会いです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28章8節)。

 復活の物語には、「目覚める」と「起き上がる」という二つの動詞が頻出します。この二つの言葉で、主は私たちに、光の中に出て行きなさい、自分の閉じた扉のすべての敷居をまたいで出て行くよう主に導いていただきなさい、そう促しておられます。「それは、教会にとって深い意味をもった姿です。わたしたちもまた、主の弟子として、またキリスト者の共同体として、復活のダイナミズムに加われるよう、そして主が示そうとしておられる道に導いていただけるよう、急いで身を起こす(出かける)ことが求められています」(「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教(2022年6月29日)」。

 主の母は、活動する若者の模範であって、鏡の前で自分ばかり見て、動かずにいる人や、ネットに「がんじがらめになっている人たち」とは違います。マリアは完全に外を向いています。このかたは自分の外に出ていき、偉大な相手である方、神のもとへ、また他の人々、兄弟姉妹のもとへ、とりわけ、いとこエリサベトのように、とても困っている人のもとへ向かう、常に脱出状態のパスカ(過越/復活)の女性なのです。

 

*急いで…行った

 ミラノの聖アンブロジオは『ルカ福音書註解』の中で、マリアが急いで山里に向かった理由について、次のように書いています。

 「希望で胸躍り、奥から湧き出る喜びで、奉仕に献身したいと熱望したからです。今や、神に満たされたマリアが、はやる思いで向かう場所は、高いところ(訳注:エリサベトのもとに行くには山を越えなければならない)の他にあったでしょうか。聖霊の恵みは、悠長にはさせません」。マリアが急ぐのは、奉仕に、喜びを告げることに、聖霊の恵みに即、応えることに急いでいるからです。

 マリアは、年老いた、いとこの困り事に応えようとしています。尻込みしたり、無関心でいたりはしませんでした。自分のことよりも他者のことを思っていました。だから彼女の人生には、躍動感と熱意が生まれるのです。

 皆さん一人ひとりが考えてみてください。身の周りで誰かの困り事に気づいたとき、自分はそれにどう応えるのか。すぐさま、関わらないことの言い訳を考えるのか、それとも関心をもって自分自身を用立てるのか。もちろん、世界中の問題をすべて解決できるわけはありません。それでも、身近な人の困り事から、自分の住んでいる地域の問題から、始めることは、できるはずです。かつてマザー・テレサは、「あなたのしていることは、大海の一滴にすぎない」と言われたことがあります。彼女はそれに、「でも私がしなければ、海は一滴分、減ってしまいますから」と答えました。

 具体的で緊急のニーズがあれば、すぐに行動しなければなりません。世界には、心配して世話をしてくれる人が来てくれるのを待つ人が大勢います。どれほどの高齢者が、病者が、収監者が、難民が、自分と同じく心を痛める私たちのまなざしを、私たちの訪問を、無関心の壁を乗り越えてくれる兄弟を、姉妹を、必要としていることでしょう。

 どのような「緊急性」が、愛する若者の皆さんを動かすのでしょうか。じっとしていられないほどに、皆さんを動かそうとするものは何でしょうか。新型コロナの世界的大感染、戦争、強制移住、貧困、暴力、気候変動、といった現実に苦しむ多くの人には、問いが生まれます。「どうして私にこんなことが起こるのか。なぜ私なのか。なぜ今なのか」。まさにそこに、私たちの存在の中心的な問いがあるのですー「私は誰のためにあるのか」(使徒的勧告『キリストは生きている』286項参照)。

 ナザレの少女が急いだことは、主から受け取った途方もない贈り物を分かち合わずにはいられない人、経験した深い恵みがあふれ出てしまう人の、それと同じです。自分のことよりも他者の困り事を優先できる人の機敏さです。マリアは、他人からの注目や承認を求めて時間を無駄にするーSNSの「いいね」に取りつかれると、そうなりますーのではなく、出会い、分かち合い、愛と奉仕から生まれる、本物のつながりを求めて行動する、若者の模範となる人物です。

 お告げを受けて以降、いとこを訪ねて初めて出掛けて行った時から、マリアは、時と空間を超えて、思いやりあるご自分の助けを必要とする子らのもとへ向かうことをやめません。私たちの旅路は、そこに神が住まわれておられるなら、私たちをまっすぐ、兄弟姉妹一人ひとりの心へと導く道となります。イエスの母であり、私たちの母であるマリアの「訪れ」を受けた人々の証しは、どれほど多いことでしょう。マリアは、何世紀もの間、地上のあちらこちらで、出現や特別な恵みをもって、ご自分の民のもとをどれほど訪れてきたことでしょう。

 実際、この方が訪れていない場所は、この地上にどこにもありません。神の母は人々の間を歩んでおられ、愛に満ちた優しさから心動かされ、苦悩や人生の浮き沈みをその身に引き受けておられます。ですからマリアにささげられた聖地、教会、礼拝堂がある場所には、その子らが大勢集まるのです。マリアにささげる民間信心業はたくさんあります。巡礼地、祝祭日、嘆願の祈り、家々を巡回するマリア像、そのほかにも多数ありますが、これらは、相互に訪ね合う中の、主の母とその民との血の通った関係の具体例です。

 

*”よい急ぎ”は常に、私たちを高みへと、他者の元へとせきたてるもの

 ”よい急ぎ”は、必ず私たちを、高みへと、他者の元へと駆り立てます。その逆の、”悪い急ぎ”というのもあります。たとえば、懸命さや真剣さがなく、関わっていることに本気で取り組むことなく、表面的にやり過ごすようになる、何でも軽く捉えてしまう性急さです。少しも真剣に考えず、心もそっちのけで、生活し、学び、働き、人と交際している時の、せわしなさです。人間関係の中でそうなることもあります。

 家庭でいえば、相手の話にろくに耳を傾けず、一緒に過ごすことのない関係、また交友関係でいえば、友だちには楽しませてもらい、自分の欲求を満たしてくれるよう期待する一方、友が窮地に陥り、自分を必要としている、と分かれば、すぐに避けて、別の人の元に去っていくような関係であれば、そうなります。さらに恋人同士の情熱的な関係でも、互いを深く知り、理解するための忍耐力のある人は少ないのです。

 そうした態度を、学校や職場、それ以外の日常生活でも取ってしまうことがあります。いずれにしても、そうした性急さを持って生きているうちは、実を結ぶことは難しいでしょう。不毛なままとなる恐れがあります。箴言にあるとおりです。「勤勉な人の計画は利益をもたらし、慌てて事を行うと損失を招く」(21章5節)。

 マリアがやっとのことでザカリアとエリサベトの家にたどり着くと、すばらしい出会いがあります。エリサベトは、老齢の彼女に子を授けてくださった神の、奇跡の業をその身に味わっていたのです。エリサベトは、まず自分の話をしたくなるのが当然のはずなのに、自分のことに夢中にならずに、駆け寄って、若いいとことその胎に宿った子を歓迎したのです。マリアのあいさつを聞いた途端、エリサベトは聖霊に満たされます。こうした、不意に聖霊に満たされる感じは、私たちが心から人をもてなすとき、つまり、自分ではなく、客人をいちばんに考えるときにもたらされます。

 これは、ザアカイの物語にも見られます。ルカ福音書19章5−6節では次のように語られています。「イエスはその場所(ザアカイのいるところ)に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 私たちの多くは、思いも寄らない時に、イエスが会いに来てくださる、という経験をしています。その時、私たちは初めて、イエスにおいて、親しみ、大切に思うまなざし、偏見と糾弾のない姿、慈しみのまなざし、他の人からは決して得られなかったもの、を味わうのです。そればかりか、イエスは私たちを遠くから眺めるだけでは満足なさらず、私たちと一緒にいたい、ご自分の命を分かち合いたい、そう望んでおられることも感じ取ったはずです。

 この体験がもたらす喜びによって、早く主を迎え入れたい、すぐに主とともにあって、主をもっとよく知りたい、との思いに駆られたのです。エリサベトとザカリアは、マリアとイエスを歓待しました。この年配の二人から、歓待の意味を学びましょう。ご両親やおじい様おばあ様に、また共同体のお年寄りに、神を歓待する、他者を歓待するとはどういうことか、尋ねてみてください。先人たちの経験を聞くことは、皆さんにとってよい経験となるでしょう。

 親愛なる若者の皆さん。今こそ、具体的な出会いを目指し、すなわち、若いマリアと高齢のエリサベトの間にあったような、自分とは異なる人を本当の意味で迎え入れることを目指して、急いで再出発しなければなりません。そのような出会いだけが、世代間、社会階層間、民族間、あらゆるたぐいの集団や職業間の隔たりを乗り越え、戦争にさえも打ち勝たせてくれるのです。ばらばらに分断された人類に新たな一致をもたらす希望の星は、いつだって若者たちです。

 ですがそれは、彼らが過去についての記憶をもっていればこそであり、老人たちの語る悲劇や夢に耳を傾けていればこそ、のことなのです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(「第2回祖父母と高齢者のための世界祈願日の教皇メッセージ」)。歴史の教訓を忘れずに、この時代の二極化や過激主義を克服するには、若者と高齢者の連携が必要なのです。

 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように告げました。

 「以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し……ました」(2章13−14節)。

 イエスは、あらゆる時代において、人類の抱える課題に対しての神からの返答です。そしてこの返答であるかたを、マリアはエリサベトに会いに行くときに、身に宿して運び届けたのです。マリアが高齢の親族に差し出した最高の贈り物、それはイエスを連れて来たことです。

 もちろん具体的な助けも、とても大切です。ですが、生ける神の幕屋となった聖母の胎におられるイエス以上に、ザカリアの家を大いなる喜びと意義で満たすものはなかったはずです。その山里で、イエスは一言も発することなく、その存在だけで、ご自身にとって最初の「山上の説教」を語られます。つまり、神の慈しみに身を委ねる、小さな者たちやへりくだる者たちの幸いを、沈黙のうちに告げ知らせておられるのです。

 若者の皆さんへの私からのメッセージ、教会が伝えるべき、もっとも重要なメッセージ、それはイエスです。そうです。主その方を、私たち一人ひとりへのその無限の愛を、その救いを、与えてくださった新たな命を伝えたいのです。そして、マリアが手本となります。マリアは、この計り知れない贈り物を、私たちの人生にどのように迎え入れ、その方をどのように他の人々に伝えていくか、を教えてくださり、次には私たちを、キリストを運び届ける者、キリストの慈しみに満ちた愛を運び届ける者、苦しむ人類へのイエスの惜しみない奉仕を運び届ける者にしてくださいます。

*皆でそろって、リスボンへ

マリアは、皆さんとそう変わらない一人の若者でした。マリアも私たちと同じです。イタリア人のトニーノ・ベッロ司教は、マリアについて次のように書いています。

 「聖マリア… あなたは絶海へ漕ぎ出す運命にあったことを、私たちは、よくよく分かっています。ですが私たちが、あなたに岸辺を進むよう強いているのなら、それはあなたを、私たちのような沿岸航海のレベルに引き戻そうとして、ではありません。私たちのいる失意の岸辺のすぐそばにあなたがおられるのを見て、私たちもまた、あなたのように自由の大海原を冒険するよう召されているのだ、という自覚に目覚めるからなのです」(Maria, donna dei nostri giorni, Cinisello Balsamo, 2012, 12-13)。

 3年の準備期間の最初の教皇メッセージで思い起こしたように、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルからは、多くの宣教師を含む大勢の若者たちが、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国民と分かち合うために、見知らぬ土地へと旅立ちました(「2020年世界青年の日の教皇メッセージ」参照)。そして20世紀初頭、マリアはこの地に、特別な訪問をなさりたい、と望まれました。マリアはファティマから、あらゆる世代に向けて、回心へと、真の自由へと招く、神の愛の力強く壮麗なメッセージを送りました。

 皆さん一人ひとりを、あらためて心から招待します。来年8月にリスボンで開催されるWYDで頂点を迎える、国を越えた青年の大巡礼に加わってください。それから、11月20日の王であるキリストの祭日に、世界中に散る部分教会で世界青年の日を祝いますので、そのことも覚えておいてください。これについて、教皇庁「いのち・信徒・家庭省」から先ごろ発表された文書、「部分教会における世界青年の日開催のための司牧指針」は、青年司牧に関わるすべての人にとって、大きな助けとなるはずです。

 親愛なる若者の皆さん。私は皆さんが、世界青年の日(WYD)に、神と出会う喜び、兄弟姉妹と出会う喜びを、もう一度体験できるよう願っています。ソーシャルディスタンスや外出制限を必要とした期間を長らく経て、リスボンでー神の恵みにより!ー皆でそろって、民族や世代を超えて兄弟として抱き合う喜びを再び得られることでしょう。それは、和解と平和の抱擁、宣教する者の新たな友愛による抱擁です。

 聖霊が私たちの心に、「起き上がって、出ていきたい」という情熱と、偽りの国境を捨て、シノドスの道を共にに歩む喜びの火を、かき立ててくださいますように。起き上がる時は、今です。急いで身を起こしなさい。そしてマリアのように、すべての人にイエスを伝えるため、自分のうちにおられるイエスを運んでください。人生の中のこの素晴らしい時期にある皆さんは、聖霊が皆さんの中で進めてくださることを先延ばしにせず、前進し続けてください。皆さんの夢と歩みを、心から祝福いたします。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年8月15日、聖母の被昇天の祭日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は、現代日本語として読みやすく、また原典の表現に近い「聖書協会・共同訳」に修正、また、活字として読みやすく、意味も分かりやすい一般に使われている当用漢字表記に直しました)

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2022年11月15日