☩「イエスはあなたがたのために貧しくなられた」ー11月13日「貧しい人のための世界祈願日」に

(2022.11.11 カトリック・あい)

 13日、年間第33主日は、教皇フランシスコが定められた「貧しい人のための世界祈願日」にあたる。教皇は、この日に向けて以下のメッセージを出されている。(翻訳:カトリック中央協議会)

第6回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ 年間第33主日 2022年11月13日
「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)

1.「イエス・キリストは、……あなたがたのために貧しくなられた」。使徒パウロはこの言葉を、助けを必要としている兄弟姉妹と連帯する責任の根拠として、コリントの初期のキリスト者に伝えました。「貧しい人のための世界祈願日」は、今年もまた、私たちの生活様式や、現代のさまざまな形態の貧困について振り返るための、意義のある機会を提供してくれます。

 数か月前より、世界は新型コロナウイルス感染の嵐から抜け出し始め、経済回復の兆しが表れ、失業によって困窮する何百万もの人も安堵しつつあります。愛する人を亡くした痛みを忘れることなく、ようやく直接に会っての人と人との交流が取り戻され、制限や制約なしでの再会がかなう、平穏な状況がうかがえるようになったところでした。まさにそうした中で、世界に別の筋書きを押しつける新たな大惨事が視界に現れたのです。

 ウクライナでの戦争は、近年、死と破壊を撒き散らし続けている幾多の地域紛争の一つに数えられます。しかしそこでは、民族自決の原則に反する自らの意志を押しつけようとする”超大国”の直接の介入により、事態はさらに複雑になっています。脳裏に焼きつく悲劇的な場面が繰り返され、またしても、一部の権力者が相互に威嚇し合うことで、平和を叫ぶ人類の声を封じ込めてしまうのです。

2.愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人や、いちばん弱い人にとって、打撃となるかが分かります。数えられないほどの人々、とりわけ子どもたちが、根を据えている地から引きはがされ、別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています。エルサレムの崩壊とユダヤの若者の捕囚を目の当たりにした詩編作者の言葉が、今まさに繰り返されています。「バビロンの川のほとり そこに座り、私たちは泣いた。シオンを思い出しながら。そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め 私たちを苦しめる者が慰みに… どうして歌うことができようか 異教の地で主のための歌を」(詩編137章1‐4節)。

 近隣諸国に避難民として逃れ、安全を得るため、何百万もの女性、子ども、老人が、被弾の危険を冒さざるをえないのです。戦闘地域に残る人々は、恐怖に怯えながら、食糧、水、医療、そして何よりも愛の温もりを欠いたまま、毎日を過ごしています。こうした極限の状況下では、理性は失われ、苦しめられるのは多数の一般の人たちであり、すでに増大している貧困層の上に、上乗せされるのです。不透明で不安定な状況に翻弄される多くの人に、安心と平和をもたらすため適切に対応するにはどうしたらよいのでしょうか。

3.あまりに支離滅裂なこの状況の中で、「第6回貧しい人のための世界祈願日」が、使徒パウロの言葉による勧めをもって行われます。イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)。エルサレム滞在中にパウロは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人に会いましたが、彼らはパウロに、貧しい人々のことを忘れないよう求めました。エルサレムの共同体は、国を襲った飢饉による深刻な困難に直面しています。使徒パウロは早速貧しい人々のために大規模な募金を行うよう手配しました。コリントのキリスト者たちは、意識が高く協力的でした。パウロの指示で、週の初めごとに、それぞれがいくらかでも貯めたお金を集め、誰もが、とても寛大でした。

 その時から、時を同じくするように、私たちも毎日曜日に感謝の祭儀の中で、それと同じ行為を続け、共同体が貧しい人々の必要に応えられるようにと、献金を集めてきました。それは、一人の兄弟も一人の姉妹も、必要なものを欠くことがないよう、キリスト者が喜びと責任感をもって常に果たしてきたことのしるしです。これについては、すでに2世紀に、聖ユスティノの文書が言明しています。

 皇帝アントニヌス・ピウスにあてて、キリスト者が主日を祝うことを説明し、次のように書き送っています。「太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。……一人ひとりが感謝された食物の分配を受け、これに与ります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです。次に、生活にゆとりがあって、しかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」(『第1弁明』六七, 3-7[柴田有訳『キリスト教教父著作集 第1巻―ユスティノス』教文館、1992年、85頁])。

4.コリントの共同体に話を戻すと、最初の興奮が収まると、彼らの意欲は徐々に低下し、使徒の提案した取り組みは勢いを失っていきます。だからこそパウロは、募金をもう一度もり立てるために、「今それをやり遂げなさい。心からそう願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです」(コリントの信徒への手紙2・8章11節)と熱い言葉で書きつづったのです。

 近年、中東や中央アフリカの紛争、そして現在のウクライナの戦争から逃れてきた、何千何百万人もの難民を受け入れるために、門を開くよう、住民全体を駆り立てる決意について、私は今、考えています。家庭が、家族単位で避難民を受け入れるために自宅を開放し、地域社会は多くの女性や子どもたちを寛大に受け入れ、人間にふさわしい対応に努めています。しかし、戦闘が長引けば長引くほど、事態は悪化します。受け入れ側では、支援の継続が難しくなり、受け入れ家庭や地域社会は、緊急事態が続く状況に負担を感じ始めています。今こそ、くじけず、最初の意欲を取り戻す時です。やり始めたことは、その責任をもってやり遂げなければなりません。

5.連帯とはまさに、持っているわずかなものを、何も持っていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります。一方、ここ数十年で、多くの家庭に対して手厚い福祉が拡充し、安定した生活状態になった国々があることは、評価しなければなりません。これは、家族支援政策や社会的責任に働きかける具体策と結びつくよう、経済成長を支えてきた、民間の取り組みと法律がもたらした、好ましい結果です。手にした安全と安定の遺産を、今度は、身を守り、生き延びるために家と国を離れざるをえなかった人たちと、共有することができます。市民社会の一員として、自由、責任、友愛、連帯の価値を訴える声を上げ続けましょう。そしてキリスト者として、自らの存在と行動の基盤を、常に、愛と信仰と希望のうちに見い出しましょう。

6.興味深いのは、使徒パウロはキリスト者に愛の業を強いているわけではないことです。実際、こう書かれています。「こうは言っても、私は命令するのではありません」(コリントの信徒への手紙2・8章8節)。むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の「純粋さを確かめ」ようとしています(同参照)。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、彼の意図はそれ以上のものです。献金を、イエスご自身が証ししてきたように、愛のしるしとして行うよう、招いているのです。つまり、貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとされた神の御子の選択にあるのです。

 使徒はまさに、キリストのこの選択、この「放棄」は「恵み」で、これこそ「私たちの主イエス・キリストの恵み」(コリントの信徒への手紙2・8章9節)であり、それを受け入れることによってのみ、私たちは自分の信仰を具体的、かつ裏表なく表現できるのだ、と言い切っています。新約聖書全体の教えは、このテーマについて一貫しており、それは使徒ヤコブの言葉にも反映されています。

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはいけません。御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです」(ヤコブの手紙1章22−25節)。

7.貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接の関わりによって、信仰を実践するのです。ところが、時おり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正すこができずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています。

 お金そのものに問題があるのではないことは分かっています。お金は人々の日常生活と社会的関係の一部であるからです。省みるべきは、私たちにとってお金の価値がどれほどのものであるか、ということです。お金を第一の目的であるかのように、絶対的なものとしてはいけないのです。このような執着は、日常生活を現実的な目で見られなくさせ、目を曇らせ、他者の困窮に気づくことをできなくします。富という偶像に目がくらみ、刹那的で絶望的な人生観に縛られてしまうことほど、キリスト者と共同体に害を及ぼすものはありません。

 大事なのは、よくあるような貧しい人に対する過保護な社会保障を敷くことではありません。必要なものに事欠く人がいないよう努力することが求められているのです。救いとなるのは行動主義ではなく、心からの寛大な気遣いです。その気遣いがあるから、貧しい人に兄弟として近づくことができるのです。貧しい人は、私に手を差し伸べ、陥った無気力から目覚めさせようとしています。ですから「自分の生活における選択のために、他の事柄にもっと注意を払っているので、貧しい人に対しては距離を置いている、などと、誰も言ってはなりません。

 これは、学問、実業、専門職の世界、さらには教会においてさえ頻繁に聞かれる言い訳です。……貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れているような人は、誰一人いません」(使徒的勧告『福音の喜び』201項)。「困窮者に向けて構想されながらも、まったく困窮者側のものではなく、困窮者からのものでもない、ましてや人々を再び一つにする計画に含まれてもいない」(回勅『兄弟の皆さん』169項)社会政策の枠を超えた、新しい方法を見つけることが急務です。むしろ、コリントの信者に「他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようというのではなく、平等にするためです」(コリントの信徒への手紙2・8章13節)と書きつづった、使徒パウロの姿勢を目指さなければなりません。

8.昔も今も、人間の論理とは対照的な、受け入れがたい逆説があります。それは、私たちを豊かにすることができる貧しさの形が存在する、ということです。パウロは、イエス・キリストの「恵み」に言及することで、自らが説いた内容を裏づけようとしています。すなわち、真の豊かさは「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」ような、ため込まれた「地上の富」(マタイ福音書6章19節)にあるのではなく、誰も見捨てられたり排除されたりすることがないよう、互いの重荷を負えるようにする相互愛にあるのです。

 この一、二年に私たちが思い知らされたもろさと限界の経験、そして今世界中に波及している戦争の悲劇は、決定的なことを教えてくれるはずです。私たちは生き残るためにこの世界にいるのではなく、誰もが尊厳ある幸せな人生を送るために存在しているのです。イエスのメッセージは私たちに道を示し、気づかせてくれます。屈辱を与えて殺してしまう貧しさがあり、それとは別の、解放と幸福をもたらす貧しさがあるのです。

 人を殺す貧困は、不正義、搾取、暴力、資源の不公正な配分、それらによって生まれた窮乏のことです。展望も出口もない使い捨ての文化が土台となっているため、未来のない絶望的な貧困です。極貧状態に追い込むと同時に、霊的な部分にも影響を及ぼすほどの悲惨さです。霊的なものはしばしば軽視されますが、だからといって、存在しないもの、重要ではないものなのではありません。

 一日の終わりに利益を計算することが唯一決まった行動であるなら、人間を搾取する論理にもはや歯止めは利きません。他者は単なる手段となるのです。公正な賃金も公正な労働時間もなくなり、新しい形態の奴隷制度が生まれ、生活するための最低限のものを得るため、他に選択肢はなく、この毒となる不公正を受け入れざるをえない人々が苦しむのです。

 一方、人を解放する貧しさとは、重荷を軽くし、大切なものに集中するための責任ある選択、として示されているものです。実際、何か大切なものが欠けていると感じ、それを求めてあてのない放浪者のようにさまようことで、多くの人が味わっている満たされなさは、簡単に見分けることができます。自分を満たすものを探し求める彼らは、何が自分にとって真に必要なのかの理解を得るため、小さくされた人、弱い人、貧しい人へと向かわねばなりません。貧しい人との出会いによって、漠としたさまざまな不安や恐怖にとらわれなくなり、人生において本当に大切なもの、だれも奪うことのできないものに到達できるのです。すなわち、まことの無償の愛にです。事実、貧しい人は私たちの施しの対象ではなく、私たちを不安や浅薄さの束縛から解放してくれる主体なのです。

 教父であり教会博士である聖ヨハネ・クリゾストモは、その著作の中で、いちばんの困窮者に対するキリスト者の振る舞いを強く非難し、次のように記しています。「貧しさがあなたを豊かにすると信じることができないなら、あなたの主を思い、そのかたを疑うのをやめることです。主が貧しくなられなければ、あなたが豊かになることはなかったのです。貧しさから多くの豊かさが生まれた、ということは、驚くべきことです。パウロがここで言う『豊かさ』とは、憐みの心、罪からの清め、正義、聖化、そのほか、今もいつも私たちに与えられている、数え切れない良いものを意味しています。貧しさのおかげで、こうしたすべてが可能なのです」(「コリントの信徒への手紙二についての説教」17章1節)。

9.今回の第6回「貧しい人のための世界祈願日」のテーマとして引用した使徒パウロの言葉は、信仰生活の大いなる逆説を示しています。キリストの貧しさこそが、私たちを豊かにするのです。パウロがこの教えを伝えることができ、教会が何世紀にもわたってそれを広め、証しすることができたのは、まさしく神が、御子イエスにおいてこの道をお選びになり、歩み続けられたからです。主が私たちのために貧しくなられたのですから、私たち自身の人生が、照らされ、変えられ、世が知らず、与えることのできない価値を獲得するのです。

 イエスの豊かさとは、その愛であり、それは誰に対しても閉ざされることなく、すべての人に、とりわけ、疎外され、必要なものを奪われている人々のもとに向かう愛です。愛ゆえに、ご自分を無にして、人間の境遇を担われました。愛ゆえに、ご自分を、十字架の死に至るまで、仕える者となさいました(フィリピの信徒への手紙2章6−8節参照)。愛ゆえに「命のパン」(ヨハネ福音書6章35節)となられました。それは、誰もが必要なものを欠くことなく、永遠の命を養う食べ物を得られるようにするためです。

 当時、主の弟子たちがそうであったように(ヨハネ福音書6章60節参照)、今日でもこの教えを受け入れることは難しいように思われますが、イエスの言葉は明解です。命が死に打ち勝ち、尊厳が不正義から取り戻されることを望むのなら、進むべきは、あのかたの歩んだ道です。イエス・キリストの貧しさに倣い、愛のために命を分かち合い、自分という存在であるパンを、兄弟姉妹とともに、しかもまず、最も虐げられている人、必要なものに事欠く人と共に裂くことで、平等を生み出し、貧しい人を困窮から、金持ちを虚栄からーどちらにも希望はありませんー救うことです。

10.去る5月15日、兄弟シャルル・ド・フーコーが列聖されました。彼は裕福な家に生まれながら、イエスに従うためにすべてを捨て、イエスとともに貧しい者となり、すべての人の兄弟となりました。初めはナザレで、次にサハラの荒野で、沈黙と祈りと共有によって築かれた彼の隠遁生活は、キリスト者の貧しさの模範的証しです。彼の次の言葉を深く味わうことは、私たちにとって有益です。

 「貧しい人、小さくされた人、労働者を軽んじてはいけません。彼らは神における私たちの兄弟であるばかりでなく、その目に見える生活において、ほぼ完全にイエスに似た人たちなのです。彼らは、ナザレの労働者であるイエスを完全に体現しています。選ばれた民の中の長子であり、救い主のゆりかごにいちばん先に招かれた人たちです。イエスの誕生から死に至るまでの、常なる友でした。……彼らを敬い、彼らの内に映る、イエスとその聖なる父母の姿を讃えましょう。……主がご自分の身に引き受けてくださった[境遇を]、私たちも引き受けましょう。……私たちは、すべてにおいて貧しい者、貧しい人の兄弟、貧しい人の友となることを、決してやめてはなりません。イエスのように貧しい人の中の最も貧しい人となり、イエスのように貧しい人を愛し、彼らを囲む者となりましょう」(『黙想』263「ルカ福音書注解」)1

 兄弟シャルルにとって、これらは単なることばではなく、具体的な生き方であり、命という贈り物そのものをイエスと分かち合えるようにしてくれるものなのです。

 この第6回「貧しい人のための世界祈願日」が恵みの機会となり、個人として、また共同体として良心の糾明を行い、イエス・キリストの貧しさを人生の忠実な友としているか、を振り返る機会となりますように。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2022年6月13日 パドバの聖アントニオの記念日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は、原典に近く、現代日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」に改め、漢字の表記は一般に使われている当用漢字表記に原則として改めました)

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2022年11月11日