☩「天国は私たちの故郷、迷ったらイエスに従おう」復活節第5主日の正午の祈りで

Pope Francis during his Regina CoeliPope Francis during his Regina Coeli  (ANSA)

(2023.5.7  Vatican News   Francesca Merlo)

 教皇フランシスコは7日、復活節第5主日の正午の祈りで、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、「天国は私たちの故郷。『どこに行けばいいのか』『どのように行ったらばいいのか』と迷ったときには、イエスに従うように」と説かれた。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(14章1‐12節)を取り上げ、「このイエスが亡くなる前の最後の説教で、弟子たちに、これからどのように進むべきか、を教えておられます。この言葉は私たちにも向けられ、『どこに行けばいいのか』『どのように行ったらいいのか』を教えてくださっているのです」と指摘。

 「どこに行けばいいのか」について教皇は、イエスが(「私の行くところに、あなたは今、付いて行くことができない」(13章36節b)と言われるのを聞いて)動揺する弟子たちに対して、「私の父の家には住まいがたくさんある…あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」(14章2節)と言われたことに注目された。

 そして、「この箇所で、イエスは、人間関係と親密さの場所である『家』という親しみのある言葉を使っています」とされ、「『父の家には』と、イエスは友と私たち一人ひとりに話しかけられます-『あなたがたのための部屋があり、あながたは歓迎され、暖かい 抱擁で永遠に迎え入れられるでしょう。そして、私は天国で、あなたがたのための場所を用意しています!』と。この言葉は、慰めと希望の源です」と強調。

 さらに、「私たちは目標を見失ってはなりません。たとえ今日、目標を忘れたり、究極の問いを忘れる危険を冒しても、重要なのは、『私たちはどこに行こうとしているのか?』『どこに向かって歩くのか?』『生きる価値のあるものは何なのか?』を問い続けることです。それなくしては、私たちは人生を”今、現在”に押し込めるだけになってしまいます。私たちの故郷が天国であるのに、です」と説かれた。

 続けて教皇は、「どのようにそこに行ったらいいのか」について、「特に大きな問題に直面し、悪の働きが強い、と感じているとき、私たちは自分自身に『何をすべきか』『どの方向に進むべきか』を自問することがあります」とされた。

 そして、「イエスに、この問いに答えていただきましょう。それは、イエスご自身そのものが、真実のうちに生き、豊かな命を得るための道のたどり方を示しておられるからです。イエスは、たどり方であり、『信じるべき諸々の考えのパッケージ』ではなく、『歩むべき道』、するべき旅、イエスと共に歩む旅、なのです」と強調された。

 説教の最後に教皇は、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、私たちが今生きている「現在」に圧倒されるのではなく、「天を見上げ、目標を思い起し、私たちが「永遠」と、「神との出会い」に召されていることを考えるように」と促され、この目標に到達するためにイエスに従った 聖母マリアに倣うことで、「私たちの希望をしっかりと保つことになります」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*バチカン公式ページより、教皇の説教原稿の英語訳全文は以下の通り

Dear brothers and sisters, buongiorno!

The Gospel of today’s Liturgy (Jn 14:1-12) is taken from Jesus’ last discourse before his death. The disciples’ hearts are troubled, but the Lord speaks reassuring words to them, inviting them not to be afraid, do not be afraid. He is not abandoning them, but is going to prepare a place for them and to guide them towards that destination. The Lord today thus shows us all the wonderful place to go, and, at the same time, tells us how to get there, shows us the way. He tells us where to go and how to get there.

First of all, where to go. Jesus sees the disciples’ distress, he sees their fear of being abandoned, just as it happens to us when we are forced to be separated from someone we care for. And so, he says: “I go to prepare a place for you … that where I am you may be also” (vv. 2-3). Jesus uses the familiar image of home, the place of relationships and intimacy. In the Fathers’ house – he says to his friends, and to each one of us – there is space for you, you are welcome, you will always be received with the warmth of an embrace, and I am in Heaven to prepare a place for you! He prepares for us that embrace with the Father, the place for all eternity.

Brothers and sisters, this Word is a source of consolation, and it is a source of hope for us. Jesus does not separate from us, but has opened the way for us, anticipating our final destination: the encounter with God the Father, in whose heart there is a place for each one of us. So, when we experience fatigue, bewilderment and even failure, let us remember where our life is headed. We must not lose sight of the destination, even if we run the risk of of overlooking it, of forgetting the final questions, the important ones: where I am going? Where I am I walking towards? What is it worth living for? Without these questions, we compress our life into the present, we think we must enjoy it as much as possible and end up living day by day, without purpose, without a goal. Our homeland, instead, is in heaven (cf. Phil 3:20); let us not forget the greatness and the beauty of our destination!

Once we have discovered the target, we too, like the apostle Thomas in today’s Gospel, wonder: how can we get there, what is the way? At times, especially when there are major problems to face and there is the sensation that evil is stronger, we ask ourselves: what should I do, what path should I follow? Let us listen to Jesus’ answer: “I am the way, and the truth, and the life” (Jn 14:6). “I am the way”. Jesus himself is the way to follow to live in truth and to have life in abundance. He is the way and therefore faith in him is not a “package of ideas” in which to believe, but rather a road to be travelled, a journey to undertake, a path with him. It is following Jesus, because he is the way that leads to unfailing happiness. Following Jesus and imitating him, especially with deeds of closeness and mercy towards others. This is the compass for reaching Heaven: loving Jesus, the way, becoming signs of his love on earth.

Brothers and sisters, let us live the present, let us take the present in hand, but let us not be overwhelmed; let us look up, let us look to Heaven, let us remember the goal, let us think that we are called to eternity, to the encounter with God. And, from Heaven to the heart, let us renew today the choice of Jesus, the choice to love him and to walk behind him. May the Virgin Mary, who following Jesus has already arrived at the goal, sustain our hope.

2023年5月7日

☩「希望を持って地平線のかなたを見つめよう」8月の世界青年の日大会参加者たちを激励

 教皇フランシスコが4日、今年8月1日から6日にかけてポルトガルの首都リスボンで開かれる「世界青年の日(WYD)リスボン大会」に参加する若者たちにビデオメッセージをおくられた。

 ビデオメッセージで教皇はまず、「今、大会に参加される皆さんの頭の中は、仕事や学業との折り合いや、切符の手配など、様々な心配ごとに占められているでしょう」と思いやりを示しつつ、「でも、大切なのは、そうした物理的な心配だけでなく、希望をもって地平線のかなたを見つめること」と強調。

 大会に参加することそのものが素晴らしいし、喜びの時となるだろうが、参加することで成長するためには、「その喜びに、希望を加えることが必要です」と説かれた。

 そして、大会に参加することで見つける価値、他の国々の若者たちとの出会いなどは、気がつかなくても自分の心の内に残っていくもの、であり、「何よりも若者たちの力。教会は若い人の力を待っているのです」と、参加者たちの積極的な対応を期待された。

 また教皇は、WYD大会を準備するための秘訣は、「『ルーツ』を見つめることにある」とされ、お年寄りたちとの出会いを持つことを勧められ、「祖父母たちに『若い時に、WYDがあった?』と聞けば、答えは当然『ノー』でしょうが、(それで終わらせないで)『ぼく(わたし)は何をしたらいいだろう』と聞き直せば、お年寄りたちの知恵を授けてくれるに違いありません」と語られ、最後に、「リスボンで皆さんをお待ちしています」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月5日

☩「人類の架け橋を築くとき『ルーツ』を忘れてはならない」ハンガリー訪問を振り返って

 

*バチカン放送による講話の要旨以下の通り。

 3日前、私はハンガリー司牧訪問から戻った。ハンガリー政府、教会、国民の皆さんをはじめ、この訪問の準備に携わった人々、祈りをもって見守ってくれた人々、これらすべての人々に深く感謝します。

 今日、このハンガリー訪問を、「ルーツ」と「架け橋」という二つのイメージを通して振り返りたいと思います。

 「ルーツ」。私が巡礼者として訪れたハンガリーは、聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を借りれば、「多くの聖人と英雄、そして彼らを取り囲む謙遜で勤勉な人々の群れ」(1996年9月6日、ブダペストにおける歓迎式での挨拶)に特徴づけられる国です。まさにこのように、私は素朴で働き者の多くの人たちが、誇りをもって自分たちのルーツとの絆を守っているのを見ることができました。

 私がハンガリーのカトリック教会関係者や、若者たちとの出会いで述べたように、これらのルーツの中には、第一に聖人たちの存在があります。聖人たちは人々のために命を捧げ、愛の福音を証しし、闇の中の光となりました。過去の多くの聖人たちは、今日、悲観主義と明日への恐れを克服するよう励ましながら、「キリストは私たちの未来」であることを思い起させてくれます。

 ハンガリーの人々の堅固なキリスト教的ルーツは苦難にさらされ、彼らの信仰は火の試練を受けました。20世紀の無神論主義による迫害で、キリスト者は激しい弾圧に遭い、司教、司祭、修道者、信徒たちは殺害されたり、自由を奪われました。しかし、信仰の木が切り倒されようとする中、根はそのままに残りました。それは「隠れた教会」でしたが、福音の力によって強く生かされたものでした。

 共産主義下の弾圧に先立つ、ナチスによる迫害では、多くのユダヤ人たちの強制連行という悲劇が起きています。この残忍なジェノサイドには、多くの人が抵抗し、犠牲者たちを守ろうとしました。このようなことが可能だったのは、「共存」という堅固な「ルーツ」が基盤にあったからでした。今、ローマには、これらの試練を過去に受けたハンガリー出身の優れた一人の詩人が暮らし、若者たちに理想のために戦う必要を語っています。彼は今日、92歳の誕生日を迎えた。エディス・ブリュックさん、おめでとうございます。

 ハンガリーの若者や文化人たちとの出会いでも浮かび上がったように、今日、自由は特に消費主義などの脅威にさらされています。消費主義は、少しの物質的な幸福で人に満足を与え、過去を忘れさせ、個人それぞれに都合よく作り上げた現在の中に浮遊させます。だが、皆が自分のことだけを考え、自分が好きなことだけを大切にすれば、”根”は呼吸できなくなります。

 これは欧州全体にあてはまる問題です。他者のために尽くす、共同体感覚を持つ、共に夢を見る、たくさんの家族を作る-これらのことは今、危機に瀕しています。ルーツを保つのが大切なのは、根を深く張ることでこそ、枝は高く伸び、実をもたらすからです。

 「ルーツ」に次ぐもう一つのイメージは「架け橋」。ブダペストは150年前に3つの町が一つになって生まれました。ブダペストはこれらの地区を結ぶ橋によっても知られています。私は、ハンガリーの各界代表との会見で、この「橋」をもって、異なる民族間に平和の橋を築く重要性を強調しました。

 特に欧州の「平和の橋を架ける者」としての召命は、多様性を受容し、その扉をたたく人たちを迎え入れることにあります。その意味で、ウクライナからの多くの避難民のために築かれた「人道の橋」と、ハンガリーの教会の支援ネットワークは素晴らしい。

 ハンガリーは「未来にかける橋」の構築にも取り組んでいます。環境保護と持続可能な未来に大きな関心を持ち、若者と高齢者の「世代間の橋」を築くことにも努力しています。

 また、ハンガリーの教会は、現代の人々にイエスと出会うことができるよう手を差し伸べるとともに、カトリック教会の異なる典礼、キリスト教の諸教会、さらに諸宗教との間に、一致と調和の橋を架けるように求められているのです。

 5月の始まりにあたり、ハンガリーの人々が大きな信心を持つ聖母を思い起こしたいと思います。ハンガリーの最初の王、聖ステファノ(イシュトヴァーン1世)はハンガリーの人々を聖母に奉献しました。かつて、彼らは大きな崇敬から聖母の名を直接呼ばず、「元后・女王」と呼んでいました。「ハンガリーの元后」にこの愛する国を、「平和の元后」に世界に架ける橋を託し、「天の元后」に私たちの心を委ねながら、その心が神の愛に根差しているように、と祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」

 

 

2023年5月3日

☩「ロシアに強制連行されたウクライナの子供たちの帰還実現に努力中」教皇、帰国途上の機中会見で

 

 3日間のハンガリー訪問を終えられた教皇フランシスコは30日夜、ローマへの帰途の機上で同行記者団と会見され、ロシアのウクライナ軍事侵略の即時中止、ロシアに拉致されたウクライナの子供たちの帰国促進のバチカンの努力、教皇ご自身の退院後の健康状態など、多くの質問に答えられた。.

 教皇の記者団との一問一答は以下の通り。(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*「ハンガリーの人々との最初の体験はブエノスアイレスで」Pope Francis speaks to journalists aboard the papal plane

 

問:アンタル・フバイ=(ハンガリーのテレビ局 Rtl Klub:  ハンガリーの人たちとの出会で、どのような経験をなさいましたか?

教皇:多くのハンガリー人イエズス会士が国外追放された 1960 年代に、私は初めて(ブエノスアイレスで、ハンガリーの人々と)出会いました。  ブエノスアイレスから 20 キロ離れたところに学校があり、月に 2 回通いました。ブエノスアイレスで働いているハンガリー人信徒のコミュニティとも関係がありました。 私はハンガリー語をよく知らなかったのですが、意味がよく分かる言葉が 2 つあります。「Gulash(ハンガリー料理のスープ)」 と「 Tokai(ハンガリーの有名なワインの名)」 です(笑)。 難民であり、家に帰ることができないという彼らの痛みに、私は大きな影響を受けました。 また、1956 年の短い熱狂とその後の落胆も経験しました。

問:アンタル・フバイ: その後、ハンガリーの人々への見方は変わりましたか?

教皇:変わっていません。 私が会ったハンガリー人が素晴らしい文化を楽しんでいる、という意味でより豊かになりました….

 問:ブエノスアイレスで、ハンガリー人とは 何語を話していましたか?

教皇:通常、ドイツ語あるいは英語で話しました。 ハンガリー語はハンガリー国外では話されていません。 それを学ぶには「永遠に時間がかかる」と言われているので、(ハンガリー語で話すことのできるのは)天国だけです(笑)。

問:エリアナ・ルッジェーロ=イタリアのオンライン・ニュース局AG: あなたは私たちの利己主義のドアを貧しい人々、移民、秩序を保っていない人々に開くよう訴えかけました。 ハンガリーのオルバン首相との会談で、彼が閉鎖したバルカン ルートの国境を再開するよう要請なさいましたか? 最近、あなたは(ロシア正教会の前渉外局長で、現在ブダペストおよびハンガリー府主教の)イラリオン主教ともお会いになりました。彼とオルバン首相が、ウクライナの和平プロセスを加速するために、あるいはあなたとプーチン大統領との会談を可能にするために、モスクワに対して開かれたチャネルになることができる、とお考えですか?

*「移民・難民問題は欧州全体で対処すべき、5か国に負担がかかりすぎている」

教皇:「平和は常に(対話の)チャンネルを開くことによって作られる」と私は信じています。 閉鎖によって平和を実現することはできません。 私はすべての人に、関係、友情のチャンネルを開くように勧めます…  これは容易ではありません。 私がいつも言っている事と同じ事を、オルバン首相たち、あるいは誰にでも言いました。

 移民・難民の問題は、欧州全体で対処しなければならない問題だと思います。キプロス、ギリシャ、マルタ、イタリア、スペインの 5 つの国がいちばん苦労しています。 欧州各国が移民・難民を公平に受け入れる責任を負わないと、これらの国々だけに負担がかかり続けます。 欧州諸国は、この問題に対しても「欧州連合なのだ」という意識を人々に与えなければならないと思います。

 移民・難民に関連して別の問題もあります。それは出生率の低い国の問題です。 イタリアやスペインのように子供が少ない国があります。 最近… 昨年、私は家族に関する会議でこの問題について話しました。最近、この二つの政府や他の国の政府もそれについて話すようになっているようです。 イタリアの平均年齢は 46 歳で、スペインの平均年齢はさらに高く、さびれた小さな村もあります。いくつかの国が持っていた移民・難民モデル(たとえば、ラテンアメリカの独裁政権時代のスウェーデンがその一例です)でうまく実施されているプログラムは、出生率の低いこれらの国にも役立つでしょう。

 

*「ロシア正教のキリル総主教とのパイプは繋がっている」

 

 

教皇:質問の最後は… 最後は何だったのでしょうか? ああ、はい、イラリオン主教のことですね。彼は私がとても尊敬している人物で、常に良い関係を築いてきました。 彼は親切にも私に会いに来て、ミサに来てくれました。私も今回、ブタペストの空港で彼に会いました。 彼は知的な人物で、対話が可能です。彼との関係を維持する必要があります。それは、エキュメニズムについて話すとき、私たちはすべての人に手を差し伸べ、彼らの手をつかまなければならないからです。

 (ロシア正教のリーダーである)キリル・モスクワ総主教とは、(ロシアの対ウクライナ)戦争が始まってから一度だけ話しをしました。インターネットのZOOMを使って 40 分間。その後、イラリオン主教の後任の(ロシア正教会の渉外局長の)アントニウス主教が私に会いに来ました。 彼はローマの教区司祭を経験しており、現在の状況をよく理解している。私は彼を通して、常にキリル総主教とつながっています。

 キリル総大主教とは昨年6月か 7 月にエルサレムで会う予定でしたが、戦争のために実現しなかった。間もなく離任される駐バチカンのロシア大使と良い関係を築いています。 彼は 7 年間、バチカンの大使を務め、素晴らしい人物、comme il faut(礼儀正しい)人物、まじめで教養があり、バランスの取れた人物です。 私のロシア人との関係は、主にこの大使との関係です。

 

 

 

*「ウクライナ和平へのミッションが進行中」

 

問:エリアナ・ルッジェーロ: ヒラリオン主教とオルバン首相が、ウクライナでの和平プロセスを加速し、あなたとプーチンの会談を可能にすることが可能でしょうか。彼らは「仲介者として」行動できるでしょうか?

教皇:彼らとの会合で、”赤ずきんちゃん”について話しただけではないことは想像していただけますよね?  私たちはこれらの問題すべてについて話し合いました。 誰もが平和への道に関心を持っており、これについて話し合いました。 私は喜んで、必要なことは何でも喜んでします。 現在進行中のミッションがありますが、まだ公開されていません。 様子を見ましょう… 公開されたらお話しします。

 

問:アウラ・マリア・ヴィスタス・ミゲル= Rádio Renascença: 教皇の次のご目的地はリスボンです。ご 健康についてどう思われますか。先に入院された時は驚きました。気絶されたと聞きましたが、リスボンの「世界青年の日」に参加する気力はおありですか? 新しい世代へのしるしとして、ウクライナとロシアの若者のイベントを希望されますか?

教皇:第一に、健康について。あの時、水曜日の一般謁見の後、突然、具合が悪くなった。 昼食をとる気が起きず、 少し横になりました。 意識を失うことはありませんでしたが、とても熱が高く、午後 3 時に医師が私を病院に連れて行きました。検査で肺の下部に重度の急性肺炎が起きているのが分かったのです。神に感謝します。助かりました。

 リスボン訪問については、今回の旅行の前日に、私はリスボン教区のアメリコ・アギアル補佐司教 と話をしました。 私はリスボンに行きます。それを願っています。 2 年前の具合が悪かった時と違います。 体調が今は良くなっているし、 今のところ、リスボン訪問はキャンセルされていません。それから、フランス・マルセイユ、モンゴル、さらに次の海外訪問があります。

 (ロシアとウクライナの若者に関するイベントについては)アメリコが何か考えています。何かを準備している、と私に言いました。よく準備してくれています。

 

*バチカン美術館の所有物のギリシャへの返還の後は

問:ニコル・ウィンフィールド=AP通信: あなたは最近、信教一致に関してとても強い意思表示をなさいました-バチカン美術館が保有していた、パルテノン神殿の彫刻の 3 つの断片をギリシャに寄贈される、と言う形で。これは、正教会の外の世界でも反響を呼んでいます。それは、まさに今、西欧の多くの美術館が、正義の行為として、植民地時代に(当時の西欧列強諸国が)手に入れた美術品の返還について議論しているからです。 他にも返還を考えておられる品物があるでしょうか。特に、植民地時代に被った損害に対する補償の一環として、カナダの先住民の人々が、バチカン美術館の収蔵品の中で彼らに関わる品の返還を要求していることに対しては。

教皇:モーセの第七の戒めに、(何か)を盗んだ場合、(それを)返さなければならない、とあります。 しかし、世界の歴史を振り返ると、戦争に勝ったり、植民地にしたりして、他の国や人々の所有物を奪うということがありました。パルテノン神殿の品を返すのは正しい行為であり、なされなければなりませんでした。では、 明日、エジプトの方々がオベリスクを返すよう求めてきたらどうするか? 、その場合も、ケース・バイ・ケースで(どう対応すべきか)識別する必要があります。

 返すことができる物、その必要がある物は返す。様々な理由で、それが出来ない場合もありますが、返せるときは、返すべきです。他人のポケットに手を入れるのと当たり前と思わないように。

 カナダの先住民の物品の返還に関しては、現在、進行中です。少なくとも、私たちはそうすることに同意していました。 どこまで進んでいるか、担当者に聞いてみます。カナダでの先住民との経験(昨年7月のカナダ訪問で、教皇は、先住民の人々に会い、かつての彼らの子弟に対する教会の残虐行為を謝罪した)は非常に実り多いものでした。米国でも、イエズス会が彼らとの間で対応していることがあります。イエズス会の総長からそう聞きました。

しかし、返品に戻ります。 返すことができるもの、必要なもの、身振りとして見られるものであれば、やったほうがいいです。 できない場合もあります。 政治的、現実的、具体的な可能性はありません。 でも返せるときは返してください。それは誰にとってもいいことです。 他の人のポケットに手を入れることに慣れないようにせねばなりません。

 

 

*強制連行のウクライナの子供たちの連れ戻しはうまくいくと期待

 

問:エバ・フェルナンデス=スペインのRadio COPE: ウクライナの首相は、ロシアに強制連行された子供たちを連れ戻すためにあなたの助けを求めています。助けることを考えておられますか?

教皇:そう思います。バチカンはこれまでいくつかの捕虜交換の仲介役を大使館を通して行い、うまくいきました。(子供たちを連れ戻すことも)うまくいくと思います。これは大事なことです。正しく、公正であることですから、バチカンは進んで行動します。 これ(ロシアの子供たちの強制連行)が、正当な理由なく、人為的になされたことを確認することに協力しなければなりません。 これは、”戦利品”や戦争によって引き起こされた”移動”の問題である以前に、人道上の問題です。 人間の意思表示としての行為は役に立ちますが、残酷な意思表示の行為は役に立ちません。 人間として出来ることはすべてするべきです。

 イタリア、スペイン、ポーランド、ハンガリーなどの国に、避難してくる女性のことも、私は考えます。子供たちや夫とやって来る非常に多くの女性、そして、戦いに出ている方の妻たち、戦いに出ている女性たちのことも。今、彼女たちは助けを受けていますが、私たちは助ける熱意を失ってはなりません。熱意がさめれば、彼女たちは保護されずに残され、”ハゲタカ”の手に落ちる危険が生まれるからです。 そうならないように注意してください。難民支援に緊張感を持ち続けるようにしましょう。 すべての人がかかわる問題です。

 

2023年5月1日

☩教皇「互いに出会い、支え合うことの大切さ」を強調、ハンガリーと欧州全土を聖母の保護に託す

(2023.4.30  バチカン放送)

 ハンガリー訪問最終日の30日、教皇フランシスコは、ブダペストのコシュート・ラヨシュ広場でのミサに続く日曜正午の祈りで、ハンガリーと全ヨーロッパを聖母の御心に託された。

 教皇はこの3日間の司牧訪問におけるハンガリーの政府、教会関係者、そして国民の温かい歓迎に、心から感謝されるとともに、このミサに参加できなかった病者やお年寄り、また神への信仰や人生の希望を失った人々に、寄り添いと祈りを約束され、ハンガリー駐在の外交団や、エキュメニカル使節、諸宗教関係者にもお礼を述べ、「互いに出会い、支え合うことの大切さ」を強調された。

 そして、ハンガリー国民を聖母が守ってくださるよう祈り、全欧州の信仰と未来を聖母の御心に託された。そして、欧州全土の平和を願い求め、特に今もロシアの爆撃などで苦しみ続けるウクライナ国民とロシア国民に眼差しを注ぐよう、聖母に願われ、「平和の元后マリア、国々の責任者の心に平和構築の熱意を呼び起こし、若者たちに戦争ではなく未来の希望、死ではなく命、壁でなく兄弟愛に満ちた世界を与えてください」と祈られた。さらに、「欧州の教会が祈りの力を取り戻し、聖母の中に謙遜と従順、証しへの熱意、福音を告げることの素晴らしさを再び見出すこと」ができるように祈願された。

ノヴァーク大統領や司教団の見送りを受ける教皇フランシスコ 2023年4月30日 ハンガリー・ブダペストの空港でノヴァーク大統領や司教団の見送りを受ける教皇フランシスコ 2023年4月30日 ハンガリー・ブダペストの空港で

 教皇はこの後、パズマニ・ペーター・カトリック大学で大学・文化関係者と会見され、ブダペストの国際空港でのノヴァーク大統領や司教団による送別式を経て、特別機でローマへ戻られた。

 教皇はバチカンのお住まいに入る前に、ローマ市内の聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・マッジョーレ)を訪問。聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ」(ローマ人の救い、の意)の祭壇で祈り、ハンガリー訪問の実りを感謝された。

2023年5月1日

☩「ハンガリーの教会も、社会も、助けを求める人々に扉を開け!」教皇、ブタペストで復活節第三主日のミサで

2023.04.28 Viaggio Apostolico in Ungheria

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年4月30日

☩「若者よ、人生の高みを目指せ!」教皇、ハンガリーの若者たちとの集会で

(2023.4.29 Vatican Newes   Lisa Zengarini)

 

*「沈黙」は「ケータイに張り付く」ことではない、祈り、イエスと対話すること

 

 

*イエスは、ありのままのあなたを愛される

 続けて、「福音は、主が特別な人々に対してではなく、普通の人々に対して、偉大なことをなさる、と教えています。 自分の力に頼り、いつも他人の前で見栄えよくすることばかり考えているは、自分の心から神を遠ざけます。イエスは、ありのままのあなたを愛されるのです」と教皇は語られた。

 そして、先にあいさつしたギリシャ・カトリック教徒の若者の言葉を振り返られ、「彼は『戦争と苦難が日々の現実になっている私たちがいる一方で、安全で快適な暮らしの中では、福音宣教の使命への熱意は冷める可能性がある』と言いましたが、本当に難しいが、やりがいのあること、それは、私たちの世界を平和に暮らせるようにするために、イエスが教えられたように、寛大な心、無欲になって他者に奉仕することのよって、自分の人生をコントロールすることです」と説かれた。

 

 

*信仰は、”与えること”から始まる

 

 講話の最後に教皇は、「信仰は、熱意と寛大さをもって、見返りを期待せずに他者に奉仕することから、恐れを乗り越え、前に進むことから始まります!」 と述べ、ヨハネ福音書に書かれたイエスの「パンと魚の奇跡」を思い起こされて、「私たちも、物事をイエスの手に委ねることを学ばねばなりません」とされた。

 そして、「あなた方一人一人は、イエスにとっても、私にとっても貴重です!教会と世界の歴史の中で、誰もあなたの代わりを務めることはできない、ということを忘れないでください。あなたにしかできないこと、それは、他の誰にもできないのです」と強調して、講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年4月30日

☩「『Charity(慈愛)の言葉』を語る、真の信仰を育め」教皇、ハンガリー訪問2日目難民や貧しい人々との出会いで

(2023.4.29  バチカン放送)

 ハンガリー訪問2日目の29日朝、教皇フランシスコは、ブダペストの障害児支援施設を訪れた後、市内の聖エリザベト教会で貧しい人や難民との出会いを持たれた。

 この朝、教皇がまず訪問されたのは、福者ラースロー・バッチャーニ・ストラットマン学園。同学園は、児童教育学者で視覚障害者であったアンナ・フェヘル修道女が、ラースロー・レカイ枢機卿の援助のもとに、1982年、「視覚障害児の家」を創立したことから始まった。現在、幼児から小学生まで、視覚障害児を中心に、特別な支援を必要とする子どもたちの教育を行っている。

 教皇は子どもたちの歌声に笑顔で耳を傾け、子どもたちの手作りの贈り物である、アルゼンチン国旗の水色と白、バチカン国旗の黄色と白をモチーフとしたショルダーバッグや、黄色と白の玉をつないだロザリオなどを受け取られ、教皇は同学園に、「結び目を解く聖母マリア」の像を贈られた。

 教皇は、子どもたちの歓迎と、教育者たちの努力に心からの感謝を述べられ、この集いのはじめに唱えられたアッシジの聖フランシスコの祈りについて、「何かがないところに、何かができるよう主に願う、現実を歩むことを助ける祈りなのです」と話され、また、「イエスは現実をそのままに受け止めながら前へと歩まれました… 現実から目を背け、理想やイデオロギーを選ぶ方がやさしかったにもかかわらず、イエスの福音の歩みは、現実を受け入れながら進んでいくものだったのです」と話された。

 この後、教皇は、聖エリザベト教会で貧しい人や難民との出会いを持たれた。ハンガリーの聖エリザベト修道女(1207−1231)は、ハンガリー王女として生まれ、ドイツのチューリンゲン方伯ヘルマン1世の子息ルートヴィヒ4世と結婚。夫の死後、聖フランシスコ会第三会に入り、貧しい人々のために尽くした。その聖女に捧げられた教会は、1895年に建設が始まり、1901年に献堂されたネオ・ゴシック様式の聖堂。第二次世界大戦で大きな被害を受けたが、再建され、かつての姿を取り戻した。

 教皇は貧しい人々や、ウクライナからをはじめとする難民、ロマの人々、またハンガリーのカリタス関係者、ボランティアたちとお会いになり、「貧しい人々のための、貧しい人々と共にあるハンガリーのカトリック教会の寛大な奉仕」に感謝を述べられた。

 そして、イエスが「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ福音書4章18節)来られたように、「貧しい人、助けを必要とする人たちが福音の中心にいることを忘れてはなりません」とされ、実生活から離れた「独りよがりの信仰」ではなく、貧しい人々に出会いに行き、「Charity(慈愛)という言葉」を語る、真の信仰を育むように、人々を励まされた。

 また教皇は、貧しい人々への献身で知られる聖エリザベトの生涯を回想され、「王女として宮廷生活に慣れたエリザベトが、イエスとの出会いによってこの世の豊かさや虚栄を捨て、最も貧しい人々や病者たちの世話に自らを捧げた、その生き方こそ、『Charityの言葉』をもって語られたもの」と話された。

 ハンガリーの教会が、戦争の恐怖から逃げてきたウクライナの難民たちを熱心に受け入れていることに、教皇は深く感謝され、「悲しみと苦しみの中で受けた愛の香油は、人々が未来を信じ、前進していくための力となるでしょう」と述べられた。

 また、孤独に苦しむ人や、麻薬依存者、元受刑者、ホームレス、高齢者など、物質的援助だけでなく、寄り添いや愛を必要とする人々の存在に関心を向けるよう招き、これらの人々に神の愛を伝え、内面からの再生を助けることができるようにと願われ、「これからもハンガリーの教会と社会に『Charity(慈愛)の言葉』を通して慈愛をもたらして欲しい」と関係者たちに希望された。

(編集「カトリック・あい」)

2023年4月30日

☩「『悲惨な敗北主義』と『世俗的な順応主義』の誘惑に陥るな」ーハンガリーの聖職者たちに警告

(2023.4.28 Vatican News  Christopher Wells)

 続けて、「ハンガリーには、世俗主義、物質主義、快楽主義、二極化などの問題があり、それらが、特に家族や若者を脅かしています」とされ、「それでも、こうした問題は、教会を助けることができる。なぜなら、私たちの信仰を強め、現代の問題をより深く理解する機会を提供するからです」とベネディクト 16 世教皇の言葉を引用して語られた。

 そして、「召命の危機」や「教会内部での分裂」など、教会が直面しているさまざまな試練を挙げたうえで、「司牧者が最優先すべきことは、『霊的交わりを証しする』こと。神は霊的交わりの方であり、兄弟愛のあるところにはどこにでもおられるからです」と指摘された。

 講話の終わりに教皇は、「私たちが熱望せねばならない教会は、互いに耳を傾け、対話し、最も弱い人々の世話ができる教会、 すべての人を歓迎し、勇気をもって福音の預言的なメッセージを伝える教会です」とされ、ハンガリーの教会指導者とすべての信徒に対して、人々を歓迎し、福音の預言的メッセージを証しし、何よりも「祈りの人」となるよう強く勧められた。そして、「あなたがたの心が決してくじけず、常に大いなる喜びを持って前進し続けることができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年4月29日

☩「国境の先を見据え、平和を追求するように」教皇、ハンガリーの 政府当局者、外交団、市民代表に訴え

(2023.4.28 Vatican News   Francesca Merlo)

 ハンガリー訪問中の教皇フランシスコは28日午後、首都ブタペストの旧カルメル会修道院を改装した首相官邸で、同国政府、外交団、市民社会の代表と会合を持たれ、講話の中で、ハンガリーと首都ブタペストには、キリストの教えを反映した痛み、美しさ、そして、外から人々を歓迎する歴史がある、と指摘された。

*「歴史の都」

 講話で教皇は、首都ブタペストを「歴史の都、橋の都、聖人の都」とされ、まず、「歴史の都」として、「 ケルト人とローマ人を祖先に持っていますが、その素晴らしさは現代に結びついています… また、この都は平時に誕生したものの、過去の時代から第二次世界大戦の残虐行為の犠牲となるまで、残忍な紛争も経験してきました」と語られた。

 そして、「今年は、首都ブタペストの誕生150 周年。 1873 年にドナウ川の西岸のブダとオブダ、対岸のペストという 3 つの都市が一つになったことを記念する年です」とされたうえで、「欧州大陸の中心部にこの偉大な首都が誕生したことでハンガリーが重要な役割を果たしている欧州連合の成立過程を改めて考える機会を提供しています」と指摘。 「第二次大戦後、国際連合、そして欧州連合の成立によって、『諸国家が緊密に協力することで、紛争を回避する』という崇高な希望を体現したのです」と述べられた。

 さらに、「戦争の”独演者たち”が、平和の合唱団を乗っ取ろうとする、今の歴史的な重大局面において、欧州は極めて重要な立場に置かれています。これまでたどってきた歴史のおかげで、欧州は人類の記憶を代表している。ですから、欧州の精神、欧州連合の創設者たち-自からの時代を超え、国境、目先の利益を越えて将来を展望でき、亀裂を広げず、一致を追及する外交を進めることのできる優れた政治家たち-の熱意と理想を取り戻すことが、今、強く求められているのです」と訴えられた。

*「橋の都」

 続いて教皇は、「橋の都」であるブタペストに関連して、「(ドイツ南部から、ハンガリーなど中欧、東欧諸国を経て、黒海に注ぐ) ドナウ川には、国と国を結ぶ架け橋が27も作られている。そして、各国が独自性を損なうことなく、すべての国に貢献が求められているのです」とされ、「このハンガリーで効果的な政策が実施されることで、『イデオロギーの植民地化』『超国家主義』を排し、人間と人々を中心に置いた欧州、国々が構成員一人ひとりの独自性と成長を守る一つの家族となる欧州を構築出来たら、どれほど素晴らしいことでしょう」と強調。

 「非常に多くの異なった現実を結び付ける”橋”は、信仰一致の取り組みにもたとえられます。そこでは、さまざまな宗派が摩擦なく共存し、互いに敬意を持って建設的な協力を進めるのです」と付け加えられた。

*「聖人の都」

 教皇は、ブダペストが「聖人の都」であることについて、「欧州のキリスト教徒が完全な交わりを持っていた時代」に生きたハンガリーの初代国王、聖イシュトヴァーンに注目され、「聖ステファノが『愛の実践は最高の幸福につながる』と宣言するとき、真のキリスト教精神を示しています… これは他者に対してオープンであることの必要性を表現してもいます。そして、ハンガリーの憲法は、「私たちは、他の人々の自由と文化に敬意を払い、世界のすべての国と協力することに努める。同様に、私たちと共に暮らすさまざまな民族は、ハンガリーの政治共同体の一部を形成し、国家の構成要素である」と明記し、 「ハンガリーに住む民族の言語と文化を促進し、保護する」ことを約束しています」と指摘された。

 さらに、「信仰の証しと共に、自らをキリスト教徒であることを告白する人は、証しするように、福音によって励まされた人間主義を皆と共に育て、父の愛された子供であることを認め、兄弟姉妹としてお互いを愛し合う、力となるように求められています」とされ、「聖ステファノは息子に兄弟愛に関する素晴らしい言葉を残しました-『異なる言語と習慣を持ってやってくる人は、国を飾る』と。 同様に私たちも、紛争、貧困、気候変動から必死に逃れようとする多くの兄弟姉妹の中にキリストがおられることを頭に浮かべます。そして、特に、イエスを信じ、福音の証人の模範に倣いたいと願う人々の対応が求められているのです」と強調された。

 講話の最後に教皇は、「さまざまな信条を持つ非常に多くの正義の人々」と共に、パンノニア サクラの信仰の偉大な告白者すべては「あなたの国の父であり母である。 彼らにこの国の未来を託したいと心から願っています」とされ、ハンガリー語で「 Isten, áldd meg a magyart!(ハンガリーの人々に神のご加護がありますように!)」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年4月29日

☩「教会は、さまざまな召命の”交響曲”」-30日の「世界召命祈願の日」にメッセージ

“Did not our hearts burn within us while he talked to us on the road, while He opened to us the scriptures?”“Did not our hearts burn within us while he talked to us on the road, while He opened to us the scriptures?” 

 さらに、「神の招きには…『送り出す』ことが含まれています。『派遣 』のない『召命』はありません。洗礼を受けたすべてのキリスト教徒は、霊的、肉体的な慈悲の業を通して自分がイエスを経験したことを、喜びをもって証しするよう求められているのです」と強調。 神と私たちの仲間である人への奉仕で「私たちはキリスト教徒の召命の核心を理解するようになります。それは、『奉仕されるためではなく、奉仕するため』に来られたイエス・キリストに倣うことです」と説かれた。

 教皇は続けて、キリストが十字架上の死から復活された後、エマオへの道で弟子たちとお会いになった場面(ルカ福音書24章13-35節)を取り上げ、「私たちの召命は、自分自身の能力、計画、事業の結果ではなく、 『イエスの深遠な経験』に起因するもの」と強調。すべての男女が、弟子たちのように「心を燃やし、すぐさま立ち上がって出かけて行くように求められていると感じる」ことができるように、祈られた。

 また教皇は、「神の呼び掛けは、教会共同体の中にあります…  教会は、愛を自分たちで分かち合い、すべての人に広げることに専心するイエス・キリストの宣教する弟子たちの共同体を形成するための、Ecclesiaギリシャ語の意味は『呼び掛けを受け、集められた人々の集団-です。そうすることで、神の国が来るように」とされた。

 そして、「一般信徒、修道者、司祭など、教会を構成するすべての人は、福音を宣べ伝える使命において果たすべき役割をもち、それぞれの召命は、他のすべての召命との関係においてのみ、その真の性質と豊かさが完全に明らかになるのです」と語られ、この観点から、「教会は、召命の“交響曲”。それぞれの召命は、異なるが一致し、神の国の新たな命を、世界を通して放射するために前進する中で、調和し、組み合わされるものです」とされた。

 メッセージの最後に教皇は、召命を「賜物であり使命、新しい命と真の喜びの源」と表現された。そのうえで、聖パウロ6世教皇が第1回世界召命祈祷日のために作られた以下の祈り(おおイエス… 若者たちをあなたに続く者、聖職を継ぐ者とするために、彼らの間から熱意ある、崇高な魂を引き寄せ続けてください…)を自分のものとするよう、信徒たちに勧められた。

「おおイエス、魂の天の羊飼いである方、あなたは弟子たちを召され、『人間をとる漁師』になさいました。 若者たちをあなたに続く者、聖職を継ぐ者とするために、彼らの間から熱意のある、崇高な魂をご自分に引き寄せ続けてください。すべての人を救うことへのあなたの渇望を彼らに分け与えてください… 彼らの前に、全世界の地平を開いてください… あなたの呼び掛けに応えることによって、彼らが、この地上であなたの使命を引き継ぎ、あなたの神秘体である教会を築き上げ、”地の塩””世の光”となることができますように」。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

*以下は、カトリック中央協議会が4月28日発表したメッセージ全訳。

2023年「第60回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2023年4月30日 「召命―それは恵みであり使命」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん
最愛なる若者の皆さん

1964年、第二バチカン公会議の会期中に聖パウロ六世教皇によって制定された「世界召命祈願の日」は、今回で60回目を迎えます。この摂理的な発意は、傷も希望も、課題も成果も持ち合わせた現代世界のあらゆる人に対する、主の呼びかけと託された使命に、個人としてまた共同体としてこたえていけるよう、神の民のメンバーにとっての励ましとなることを目指したものです。

今年は、「召命―それは恵みであり使命」というテーマを手引きに、考え、祈っていただきたいと思います。主からの呼びかけは恵みであり、無償の贈り物であり、さらにまた、福音を伝えるために出向いて行く、出掛けていく決意なのだと、驚きをもって再発見する絶好の機会です。私たちは、諸秘跡や教会での交わりによる恵みの生活と世における使徒職は、強く結び合わされていることを証しする信仰に招かれています。

キリスト者は聖霊によって鼓舞され、隅に追いやられて生きる人々からの詰問に身をさらし、人間の悲劇に敏感でいます。そして、宣教とは神の業であり、一人で行うものではなく、教会の交わりの中で兄弟姉妹とともに、司牧者の導きのもとに行うのだ、ということを肝に銘じています。愛の交わりをもって、私たちがご自分と共に生きること、これこそが常に、そして永遠に神の夢だからです。

 

「天地創造の前に、神はお選びになりました」

使徒パウロは私たちに、途方もない光景を見せてくれます。父なる神は、「天地創造の前に、……私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソの信徒への手紙1章4−5節)。この言葉から、人生の完全な意味が見えてきます。神は私たちを、ご自分の似姿に「想像/創造(concieve)し」、ご自分の子としたい、と望んでおられます。私たちは愛である方によって、愛のために、愛をもって創造されました。私たちは愛するために、造られたのです。

私たちの存在の隅々に刻まれた、幸せの秘訣であるこの呼びかけは、人生を通じて、聖霊の働きによって、常に新しい形で私たちのもとに届けられ、知性を照らし、意欲をかき立て、驚きで満たし、心を燃え立たせてくれます。それが不意に押し入って来ることもあります。

私にとっては、1953年9月21日、毎年恒例の学校祭へと向かう途中に突然、教会に行って赦しの秘跡を受けたい、という思いに駆られたことは、まさにそういうことでした。その日、私の人生は変わり、今日まで消えない痕跡が刻まれたのです。

とはいえ、自分を差し出すように、との神の呼びかけは、歩みの中で、少しずつなされるものです。貧困の状況を目にした時であったり、祈っている時であったり、福音書の確かな証しや心を開いてくれる書物に触れた時であったり、神の言葉を聞いて、それが直接自分に向けられている、と感じた時であったり、同伴してくれている兄弟姉妹から助言を受けた時であったり、病気の時や、死別の悲しみにある時であったりと、私たちを招くための神の発想は無限です。

そして主の発意と無償の賜物は、私たちの応答を待っています。召命とは、「神の選択と人間の自由意思で編み出すもの」であり、力強く魅力的なつながりであって、ちょうど神と人間の心との対話のようなものです。ですから召命の賜物は、「人生」という土地に芽生える神が蒔かれた種であり、それが私たちを神に向かって開かせ、見つけた宝を分かち合うために他者へと開かせるのです。

私たちが分かっている召命の基本構造はこうです。-神は愛することで呼びかけ、私たちはそれをありがたく思い、愛することで応えます。そして自分たちが同じ御父に愛された子らである、と自覚し、互いが兄弟姉妹であることを確認するのです。幼いイエスの聖テレジアは、この現実を、ついにはっきりと「見つけた」時、こう叫びました。「私は、自分の天職をついに見つけました。私の天職、それは愛です…。そうです。教会のうちに自分の席を見つけました… 母である教会の心臓の中で、私は愛となりましょう」

 

「私はこの地上に派遣されている」

神の招きには、上に述べたように、派遣までが含まれています。「宣教の無い召命」はありえません。また、得ることができた新たな生を、他者に差し出すことなしには、幸せも、真の自己実現もありえません。神による愛への招きは、じっとしてはいられない体験です。

「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(コリントの信徒への手紙1・9章16節)、聖パウロはそう声を上げました。そしてヨハネの第一の手紙は次のように始まります。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの-すなわち、肉となった御言葉-を皆さんにも伝えます。私たちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(同1−4節参照)。

5年前、使徒的勧告『喜びに喜べ』の中で、私は洗礼を受けた一人ひとりに向けて、次のように述べました。「あなたも、自分の人生のすべてを使命として受け止めなければなりません」(23項)。そうなのです。私たちはそれぞれ、一人として例外なく、「私はこの地上に派遣されている」(使徒的勧告『福音の喜び』273項)と言うことができるからです。

私たちキリスト者全員に共通する使命は、イエスと共にいることで経験することを、またイエスの共同体、すなわち教会を通して経験することを、どんな状況においても、姿勢と言葉で、喜びをもって証しすることです。そしてこれは、物質的・霊的な慈しみの業に、すなわち「使い捨てと無関心の文化」の流れに逆らい、近しさ、あわれみ、優しさのある、開かれた優しい生き方に、結実するのです。

よいサマリア人のように隣人となることで(ルカ福音書10章25−37節参照)、キリスト者の召命の「芯」が分かるようになります。それは、仕えられるためではなく仕えるために来られたイエス・キリスト(マルコ福音書10章45節参照)に倣う、ということです。

このような宣教の活動は、単に、私たちの能力、意図、計画、あるいは意欲や愛徳の実践の努力によってではなく、イエスのもとでの深い体験から生まれるものです。それを得て、私たちは初めては、あの方、命である方の証人となることができ、「使徒」となるのです。その時に、自分を「人々を照らし、祝福し、励まし、起き上がらせ、癒し、解放する使命の焼印を押された者」(『福音の喜び』273項)として自覚するのです。

こうした体験の福音における象徴は、エマオの二人の弟子です。復活したイエスとの出会いの後、二人は互いにこう打ち明けます。「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ福音書24章32節)。彼らの姿から、「熱い心と道行く足」をもつことの意味が伝わってきます。これと同じことを、心待ちにしている次回の「世界青年の日」リスボン大会-テーマは「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカ福音書1章39節)―にも望んでいます。「立ち上がって急いで向かいなさい、燃える心で!」との呼びかけに、一人ひとり誰もが気付くことができますように。

 

共に呼ばれている―召集

福音記者マルコは、イエスが十二人の弟子を、それぞれ名をもって呼び寄せた時のことを語っています。彼らを、ご自分のそばに置くために、また、派遣して宣教させ、病いを癒し、悪霊を追い出すために、任命しました(マルコ福音書3章13−15節参照)。このようにして主は、新しい共同体の基礎を築かれたのです。十二人は社会的背景も職業も異なっていて、影響力のある階層の人はいませんでした。福音書はさらに他の召命について、たとえばイエスが二人ずつ派遣した七十二人の弟子についても伝えています(ルカ福音書10章1節「参照)。

教会は「エクレシア(Ekklesía)」、呼び出され召集された人の集団を指すギリシア語そのものです。まさしく、イエス・キリストの宣教する弟子の共同体を形成するためのエクレシアです。神の国の到来を目指し、自分たちの間でイエスの愛を生き(ヨハネ福音書13章34節、15章12節参照)、すべての人にその愛を広めることに専心する集団です。

教会の中では、私たちは誰もが奉仕者であり、それぞれ異なる召命、カリスマ、役務によって奉仕します。愛に献身するという召命は、すべてに共通しています。それが明らかなものとなり、具体化するのは、キリスト教の信徒の生活では、小さな家庭教会として家庭を築き、福音のパン種をもって社会のさまざまな環境を新たにするための献身においてであり、奉献生活者の証しでは、神の国の預言者として兄弟姉妹のために神にすべてを捧げることにおいてであり、そして叙階された役務者(助祭、司祭、司教)にとっては、御言葉と祈りと、神の聖なる民の交わりへの奉仕においてです。

教会における各種の召命は、他のすべての召命に結ばれていてこそ、固有の価値と豊かさを余すところなく発揮されるのです。その意味で教会は、召命のシンフォニーです。個々の召命が、一つに結ばれながらも違いをそのままに全体で調和を奏で、神の国の新たな生き方を世に放つために、一斉に「外へと向かう」のです。

 

恵みと使命―賜物と務め

親愛なる兄弟姉妹の皆さん。召命はたまものであり務めであり、新たな生き方と真の喜びの源泉です。どうか、今日の祈願日に関連する祈りや啓発活動によって、わたしたちの家庭、小教区共同体、奉献生活者の共同体、教会の組織や運動体内での、召命への意識が高まりますように。復活した主の霊が、わたしたちを無関心から目覚めさせ、理解と共感の力を与えてくださいますように。日々、愛である神の子として生まれ(ヨハネの手紙1・4章16節参照)、それによって今度は、愛を生み出す者となれますように。あらゆる場所に、とりわけ、排除と搾取のある場所、貧困と死がある所に、命をもたらすことができますように。そうして、愛の空間(範囲)が広げられ、この世界がますます神の支配するものとなりますように。

1964年4月11日、第1回世界召命祈願の日のための聖パウロ六世教皇による祈りが、この道を進む私たちと共にありますように。

「魂の牧者である神、イエスよ。あなたは使徒たちを呼び寄せて、人間をとる漁師とされました。どうかまた、若者たちの熱く寛大な魂をご自分のもとに引き寄せ、あなたに続く者、あなたのために働く者としてください。彼らを、あまねくすべての人の救いを求めるあなたの渇きに加えてください。……世界全体へと続く地平を彼らにお示しください。……あなたの呼びかけに応える彼らによって、この地上におけるあなたの使命が継続され、あなたの神秘体である教会が築かれ、彼らが「地の塩、世の光」(マタイ福音書5章13節)となりますように」。

聖母マリアが皆さんに寄り添い、皆さんを守ってくださいますように。祝福を送ります。

   ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2023年4月30日、復活節第4主日 フランシスコ

 

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として、日本の社会一般に使われている当用漢字表記に統一しました。「ひらがな」を乱用する”教会用語”は、決して美しく、分かりやすい日本語とは言えないからです。漢字も立派な日本語です)

 

2023年4月27日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑫「観想修道会の男女修道者たちは”普遍的な愛”を証明している」

Pope Francis arrives for this Wednesday's General AudiencePope Francis arrives for this Wednesday’s General Audience  (ANSA)

*聖グレゴリオ(ナレク)修道院長教会博士=西暦950年ごろ、アルメニアのナレクに生まれた。司祭だった父を10歳の時になくし、近くの修道院に入り、修道士として祈りと瞑想に一生を捧げた。詩人としても優れ、多くの祈祷文や参加を残した。代表作は「悔い改めの祈り」で、自身の罪や苦しみ、神への愛や希望をうたい、アルメニア教会だけでなく、他の東方教会やカトリック教会でも読まれている。1003年ころに亡くなり、墓はナレク湖畔にあったが、1915年のアルメニア人虐殺の際に破壊され、遺骨はエルサレムなどに移された。教皇フランシスコは、彼の修道者としての偉業を讃え、2015年に教会博士の称号をお与えになった。

(以上、翻訳・編集「カトリック・あい」)

*以下は、バチカン放送の日本語訳による講話の要旨(「カトリック・あい」編集)。

 使徒聖パウロから始め、前回は殉教者の生き方を見つめた私たちは、今日は信仰の歴史を貫く、もう一つの偉大な証し人、修道者を取り上げようと思います。修道者は、清貧と貞潔と従順の道においてイエスに倣い、すべての人のために取り次ぎを祈るように、自分と俗世を放棄した兄弟姉妹たちです。

 修道院の中で生活する観想系の修道会の人々は、どのように福音の告知を助けることができるのでしょうか。「彼らのエネルギーは、宣教に費やした方がよいのではないか」と思うこともあるかも知れません。実は、これらの修道者たちは、福音宣教の「鼓動する心臓」、彼らの祈りはキリストの神秘体のすべての肢体のための「酸素」、宣教を支える「目に見えない力」なのです。

 宣教の保護者が、一人の修道女、幼きイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)であるのは偶然ではありません。聖テレジアは自身の召命をいかに見出したかをこのように記しています―「私は悟りました、『教会には一つの心臓が、愛に燃える心臓がある』と。教会の肢体を動かしているのは愛だけであり、この愛が消えてしまったら、『使徒たちはこれ以上、福音を宣べ伝えず、殉教者たちはもう、自らの血を流すこともないだろう』と分かったのです。私は理解し、悟ったのです、愛はすべての召命を抱擁していると…  そこで私は、ありったけの喜びと魂の恍惚と共に叫びました-『おお、イエス、私の愛よ、とうとう私の召命を見つけました。私の召命、それは愛です… 私の母なる教会の心臓の中で、私は愛となりましょう」(自叙伝・原稿B 、1896年9月8日)。

 観想修道会の修道士・修道女たちは、沈黙のうちに、全教会のために、祈り、働く人々です。これは、「修道院の中で、教会のために祈り働く」という形で表される愛である。

 すべての人に対するこの愛は、修道者たちの生活を生かし、それは彼らの取り次ぎの祈りとなって表されます。こうした修道者の例として、ナレクの聖グレゴリオ(修道院長・教会博士950頃-1003)がいます。アルメニアの修道者、聖グレゴリオは、私たちに祈りの本を残してくれました。彼はナレクの修道院で生涯のほとんどを過ごし、まさにそこで、彼は人間の精神を深く観察し、詩と祈りを織り交ぜながら、アルメニアの文学・霊性の最高峰をしるした。

 ナレクの聖グレゴリオの驚くべき特徴は、彼が伝える「普遍の連帯」です。修道者たちの間には、「普遍的な連帯感」というべきものがあります。彼らの心はアンテナのように、世の様々な出来事をとらえ、彼らはそのために祈り、取り次ぎます。そうして、彼らは主とすべての人々との交わりを生きるのです。ナレクの聖グレゴリオはこのように記しています―「私は、父祖からその最後の子孫に至るまでのすべての罪を、自ら引き受けた」。

 修道者は、イエスがなさったように、世の問題や、困難、病気などを引き受け、他者のために祈る。彼らは偉大な宣教者です。修道者は閉ざされた生活を送りながら、なぜ宣教できるのか。修道者たちは、言葉や、模範、祈り、日々の労働をもって、すべての人、すべての罪に対する取り次ぎの橋となるからです。彼らは自らの罪のために涙を流し、そして世の中の罪のために泣き、手と心を上げて、祈り、取り次ぎます。

 教会における彼らの存在は、神の民を前進させる真の力です。人々は、修道者たちに出会うと、「私のために祈ってください」と言います。それは修道者たちが取り次ぎを祈ってくれることを知っているからです。可能な範囲内において、修道院を訪問することは、私たちのためになることです。そこでは修道者たちが祈り、働いています。それぞれの修道院には規則がありますが、彼らの手は、仕事に、祈りに、いつも占められています。

 取り次ぎの祈りを通して教会を前進させる、新しい修道院、修道士、修道女たちを、主が私たちにもたらしてくださいますように。

2023年4月26日

☩「警戒を緩め、イエスに心を開こう」復活節第三主日のRegina Coeli の祈りで

Regina Coeli PrayerRegina Coeli Prayer  (ANSA)

 続けて、祈りに参加する人たちに、このことをしっかりと認識するように求められ、「私たちにとっても、イエスと共に自分の人生の来歴を振り返ることが重要です。弟子たちがしたのと同じように、私たちは、さまざまな出来事に直面し、多くの疑問や心配事を抱え、様々な出来事、孤独、不確かさに直面して、我を忘れてしまうことがありますが、弟子たちがしたように、私たちもイエスと共に時を過ごすように招かれているのです。そうすることでイエスは私たちと一緒にいてくださるでしょう」とされた。

 そして、そのための最善の方法は、「毎夕に、短い良心の糾明を行うこと」とされ、 イエスと共に一日を追体験し、希望、恐れ、感動、選択、そして一日を通して私たちの心をよぎった人々のすべてをイエスに委ねることで、「自分の目だけでなく、イエスの目、異なる目をもって物事を見ることを徐々に学ぶのです」と説かれた。

 また、これを行うためには、「警戒を緩める必要があります。イエスに何も隠してはなりません」とされ、「イエスを通して、私たちは彼の真実によって自分が傷付けられるようにし、自分の心をイエスの御言葉の息吹で震わせるようにせねばなりません」と付け加えられた.

 説教の締めくくりに教皇は、「私たちは今日から始められます… 今晩、私たちの一日について問い返す祈りの時間を持つとことです。自分に問い掛けなさい。『私がしたことの中に、少しばかりの愛があっただろうか?』『イエスに委ねることで、新たな道を開いてくださるように、私を断ち直させ、励ましてくださるようにすることに、失敗したり、嘆いたり、疑ったり、恐れたりすることがあったろうか?』と」と語られた。

 そして最後に、「賢い乙女」であるマリアに、「私たちが、共に歩んでくださるイエスを認識し、彼の前で私たちの人生の日々をを読み直すことができるよう、お助けくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年4月23日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑪「現代の殉教者に倣い、私たちも福音を証し続けられるように」

教皇フランシスコ 2023年4月19日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2023年4月19日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2023.4.19   バチカン放送)

 教皇フランシスコは19日の水曜恒例の一般謁見で「使徒的熱意」をテーマとした連続講話を続けられ、使徒的情熱の証し人である「殉教者」たちについて考察された。

 講話の要旨は次の通り。

**********

 使徒的情熱をまさに偉大な形で証しした聖パウロについての考察に続いて、今日は、眼差しを「殉教者」たちの群れに向けましょう。殉教者たちは、キリストに命を捧げた、あらゆる年齢、言語、国の人々です。使徒たちの世代の後に、福音を特別な形で証ししたのは彼らでした。

 最初の殉教者は、エルサレムの城壁の外で石打ちにされた助祭ステファノです。「殉教者(伊martirio、英martyr)」という言葉は、ギリシャ語で「証人」を意味する「martyria」を語源としていますが、教会において「殉教者」という言葉は、「血を流すに至るまでの証しをした者」を指すために使われるようになりました。

 しかし、殉教者は個人の力で行動した「英雄」のように、また砂漠に突然開いた花のように見られるべきではありません。殉教者たちは、教会という、主のぶどう畑で熟した類いまれな果実なのです。

 特にキリスト者は、聖体祭儀に熱心に参加することで、聖霊に導かれつつ、愛の神秘-主イエスがご自身の命を彼らのために与えられ愛の神秘-に基づき、自らの命をも、イエスと人々のために差し出すことができたのです。

 聖アウグスティヌスは、この感謝と、その賜物を無償で返すこととの関係を、しばしば強調しています。たとえば、聖ラウレンチオ助祭殉教者の祝日の説教で「御子は、私たちのために、命を捨ててくださいました… だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(ヨハネの手紙1・3章16節参照)ということを聖ラウレンチオは理解し実践し、「生においてキリストを愛し、死においてキリストに倣った」と語っています。

 今日、教会の歴史を見守って来たすべての殉教者たちを思い起こしましょう。現代の殉教者たちの数は、初代教会の時代よりもずっと多くなっています。第2バチカン公会議は「世の救いのためにすすんで死を受けた師に弟子が似たものとなり、流血において弟子が師の姿ににあやかるものとなる殉教を、教会はすぐれた賜物、愛の最大の証明と考える」(教会憲章42項)と述べています。殉教者は、イエスに倣い、そしてイエスの恵みをもって、福音を拒む人の暴力を、自らを迫害する者への赦しに至るまでの、至上の愛を示す機会に変えるのです。

 殉教者として召される人はごくわずかですが、「すべての人はキリストを人々の前で宣言し、教会に決して欠けることのない迫害の中にあって、十字架の道をたどりつつ、キリストに従う覚悟がなければならない」(同 42項)。このように、殉教者たちの存在は、すべてのキリスト者はイエスに倣い、自分自身を神と兄弟たちへの贈り物とすることで、血を流すことに至らなくとも、生き方をもって証しするよう招かれていることを教えてくれます。

 世界のあらゆる場所で行われているキリスト教的証しを思い起こしましょう。

 たとえば、長い戦争に傷つきながらも、忘れられているイエメンでは、「神の愛の宣教者会」が、病気の高齢者や障害者への宗教を問わない支援を通して、この地に輝ける証しをもたらしてきましたが、1998年に3人の修道女が、2016年には4人の修道女が数人の信徒と共に殺害されています。貧しい人々への慈愛の事業を手伝っていたこれらの信徒の中にはイスラム教徒もいました。

 「血による証し」を、異なる宗教の信者が共にしていることに心を動かされますが、神の名において人を殺すことは、決してあってはなりません。神にとって、私たちは皆、兄弟姉妹です。私たちが一緒に他者のために人生を捧げることは可能なのです。

 苦難の時代にあっても、私たちが福音を証し続けることができるように、すべての聖なる殉教者たちが、より人間的で兄弟愛に満ちた世界を築くための、平和と和解の種となるように、祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年4月20日

☩「死の種を播き続ける残虐行為が止まるように」東方教会の復活祭を迎え、ウクライナとロシアの兄弟姉妹のために祈る

Ukrainian soldiers attend a church service on the eve of Orthodox Easter in the city of Slovianskウクライナ東部、スロウヤーニシクで復活前夜祭に参加するウクライナ兵たち  (AFP or licensors)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年4月17日