◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑫「観想修道会の男女修道者たちは”普遍的な愛”を証明している」

Pope Francis arrives for this Wednesday's General AudiencePope Francis arrives for this Wednesday’s General Audience  (ANSA)

*聖グレゴリオ(ナレク)修道院長教会博士=西暦950年ごろ、アルメニアのナレクに生まれた。司祭だった父を10歳の時になくし、近くの修道院に入り、修道士として祈りと瞑想に一生を捧げた。詩人としても優れ、多くの祈祷文や参加を残した。代表作は「悔い改めの祈り」で、自身の罪や苦しみ、神への愛や希望をうたい、アルメニア教会だけでなく、他の東方教会やカトリック教会でも読まれている。1003年ころに亡くなり、墓はナレク湖畔にあったが、1915年のアルメニア人虐殺の際に破壊され、遺骨はエルサレムなどに移された。教皇フランシスコは、彼の修道者としての偉業を讃え、2015年に教会博士の称号をお与えになった。

(以上、翻訳・編集「カトリック・あい」)

*以下は、バチカン放送の日本語訳による講話の要旨(「カトリック・あい」編集)。

 使徒聖パウロから始め、前回は殉教者の生き方を見つめた私たちは、今日は信仰の歴史を貫く、もう一つの偉大な証し人、修道者を取り上げようと思います。修道者は、清貧と貞潔と従順の道においてイエスに倣い、すべての人のために取り次ぎを祈るように、自分と俗世を放棄した兄弟姉妹たちです。

 修道院の中で生活する観想系の修道会の人々は、どのように福音の告知を助けることができるのでしょうか。「彼らのエネルギーは、宣教に費やした方がよいのではないか」と思うこともあるかも知れません。実は、これらの修道者たちは、福音宣教の「鼓動する心臓」、彼らの祈りはキリストの神秘体のすべての肢体のための「酸素」、宣教を支える「目に見えない力」なのです。

 宣教の保護者が、一人の修道女、幼きイエスの聖テレジア(リジューの聖テレーズ)であるのは偶然ではありません。聖テレジアは自身の召命をいかに見出したかをこのように記しています―「私は悟りました、『教会には一つの心臓が、愛に燃える心臓がある』と。教会の肢体を動かしているのは愛だけであり、この愛が消えてしまったら、『使徒たちはこれ以上、福音を宣べ伝えず、殉教者たちはもう、自らの血を流すこともないだろう』と分かったのです。私は理解し、悟ったのです、愛はすべての召命を抱擁していると…  そこで私は、ありったけの喜びと魂の恍惚と共に叫びました-『おお、イエス、私の愛よ、とうとう私の召命を見つけました。私の召命、それは愛です… 私の母なる教会の心臓の中で、私は愛となりましょう」(自叙伝・原稿B 、1896年9月8日)。

 観想修道会の修道士・修道女たちは、沈黙のうちに、全教会のために、祈り、働く人々です。これは、「修道院の中で、教会のために祈り働く」という形で表される愛である。

 すべての人に対するこの愛は、修道者たちの生活を生かし、それは彼らの取り次ぎの祈りとなって表されます。こうした修道者の例として、ナレクの聖グレゴリオ(修道院長・教会博士950頃-1003)がいます。アルメニアの修道者、聖グレゴリオは、私たちに祈りの本を残してくれました。彼はナレクの修道院で生涯のほとんどを過ごし、まさにそこで、彼は人間の精神を深く観察し、詩と祈りを織り交ぜながら、アルメニアの文学・霊性の最高峰をしるした。

 ナレクの聖グレゴリオの驚くべき特徴は、彼が伝える「普遍の連帯」です。修道者たちの間には、「普遍的な連帯感」というべきものがあります。彼らの心はアンテナのように、世の様々な出来事をとらえ、彼らはそのために祈り、取り次ぎます。そうして、彼らは主とすべての人々との交わりを生きるのです。ナレクの聖グレゴリオはこのように記しています―「私は、父祖からその最後の子孫に至るまでのすべての罪を、自ら引き受けた」。

 修道者は、イエスがなさったように、世の問題や、困難、病気などを引き受け、他者のために祈る。彼らは偉大な宣教者です。修道者は閉ざされた生活を送りながら、なぜ宣教できるのか。修道者たちは、言葉や、模範、祈り、日々の労働をもって、すべての人、すべての罪に対する取り次ぎの橋となるからです。彼らは自らの罪のために涙を流し、そして世の中の罪のために泣き、手と心を上げて、祈り、取り次ぎます。

 教会における彼らの存在は、神の民を前進させる真の力です。人々は、修道者たちに出会うと、「私のために祈ってください」と言います。それは修道者たちが取り次ぎを祈ってくれることを知っているからです。可能な範囲内において、修道院を訪問することは、私たちのためになることです。そこでは修道者たちが祈り、働いています。それぞれの修道院には規則がありますが、彼らの手は、仕事に、祈りに、いつも占められています。

 取り次ぎの祈りを通して教会を前進させる、新しい修道院、修道士、修道女たちを、主が私たちにもたらしてくださいますように。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年4月26日