☩「皆が喜びと責任を共有できる環境を育んで」教皇、イタリアの”シノドスの道”担当司教、司祭、信徒たちに注文

教皇フランシスコ、イタリアの教会のシノドス担当者らと 2023年5月25日 バチカン・パウロ6世ホール教皇フランシスコ、イタリアの教会のシノドス担当者らと 2023年5月25日 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは25日、バチカンのパウロ6世ホールでイタリアの”シノドスの道”の歩みを担当する司教、司祭、修道者、一般信徒との集いを持たれた。

 教皇はあいさつで、「地方教会レベルの”シノドスの道”の歩みで、互いに耳を傾け合うことで得た回心と刷新の道を、これからも勇気をもって進み、小教区やキリスト教共同体が持つ力を引き出していくように」と激励。

 さらに、2015年のフィレンツェでのイタリアの教会会議で示された教会を特徴付けるべき三つの顔-「謙遜」「無私無欲」「真福八端の精神」を改めて強調された。

 そして、「第二バチカン公会議から60年経った今も、『選ばれた人たちだけが司牧活動を率いる』という誘惑が、まだ、教会の中に見られます」と指摘。「すべての人が自分の家と感じられるように、教会共同体を大きく開き、司牧のための組織や方法が小さなグループを生み出すのではなく、『皆が喜びと責任を共有できる環境を育む』ことができるように」と願われた。

 また教皇は、「他者の中に、その人のカリスマと豊かな特性を見出すように」、「特に教会の中で目立たない人々、声を持たない人々、時には困難で複雑な過去のために疎外感を感じている人々に寄り添うように」と求められた。

 さらに、司祭至上主義に陥らないことは当然として、「新しい状況を前にして、恐れから一種の『守りの姿勢』に入ったり、逆に『自分の影響力』をことさらに示そうとすることがないように」と司祭たちに忠告された。

 最後に教皇は、”シノドスの道”は、「私たちが、喜びと謙遜と創造性のうちに歩み、『自分たちが皆弱い存在であり、互いの助けを必要としていること』を自覚するように求めている」と話され、「”シノドスの道”の歩みの主役は、私たちではなく、聖霊です… 聖霊が、私たちに、他者の言葉に耳を傾けさせ、対話させ、識別に導き、そして何よりも、調和を醸し出してくれるのです」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月26日

☩「神の義を求めるとき、正義と平和は尽きることのない清流のように流れる」9月1日の「被造物のための祈願日」に向けたメッセージ

ニカラグアの自然保護区でニカラグアの自然保護区で  (ANSA)

 教皇フランシスコは25日、9月1日のカトリック教会「被造物を大切にする世界祈願日」に向けて、メッセージを出された。

 今年のメッセージのテーマは、「正義と平和が流れるように」。旧約聖書・アモス書の「公正を水のように、正義を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(5章24節)という言葉からインスピレーションを得たもの。

 教皇はメッセージの中で、「神は、私たちが生きていくために必要な水のように、私たちの生活に不可欠な正義が治めることを望んでおられる。この正義は、深すぎる場所に隠れず、また私たちを支える前に蒸発する水のようであってもならず、必要なところに現れなくてはなりません」と説かれている。

 そして、「神と人類と自然の正しい関係を保ちつつ、何もよりもまず神の義を求めるとき(マタイ福音書6章33節参照)、正義と平和は尽きることない清流のように流れ、人類とすべての被造物を養うことになるでしょう」と述べられている。

 教皇は、2022年7月、カナダ・アルバータ州で先住民たちの巡礼地の湖、ラック・サンタンヌを訪問された際、「自然の懐に包まれ、大地の鼓動に耳を傾けるよう招かれた」ことを思い起こされ、「私たち、被造物、神の、それぞれの心の鼓動は、今日、調和を失い、正義と平和において共に鼓動することがありません」と語れれ、「環境と気候上の不正義の犠牲者たちに寄り添い、被造物に対するこの戦争を終わらせなくてはなりません」と訴えられた。

 さらに、多くの川が干上がっている状況に、「世界に外的な砂漠が広がっているのは、”内的砂漠”がこれほどまでに広いからです」というベネディクト16世の言葉を引用され、「利己的な心によってかき立てられた貪欲な消費主義が、地球の水のサイクルを乱し、際限のない化石燃料の利用と森林の伐採が気温上昇を招きながら、深刻な干魃をもたらしている状況」を注視。

 アッシジの聖フランシスコが「姉妹なる水」と呼んだものが搾取され、「市場の法則に左右される商品となっている」ことに対し、「正義と平和を力強い川の流れにするためには、『私たちの心』と『ライフスタイル』、そして『公共の政策』を改めなくてはなりません」と強調された。

 また教皇は、聖ヨハネ・パウロ2世が唱えた「エコロジー的回心」の必要を改めて指摘され、ベネディクト16世の「『創造』と『贖い』が切り離せないものであること、を理解する急務の課題… 贖い主は創造主。私たちが神を、贖い主=創造主という、この完全な偉大さにおいて告げ知らせないなら、贖いの価値をも取り去ることになる」という言葉と共に示された。

 メッセージの終わりに、教皇は、キリスト教諸教会が参加する被造物保護のための祈りと行動の月間である「被造物の季節」の最終日でアッシジの聖フランシスコの祝日でもある10月4日に、カトリック教会の「共働性(シノドス性)」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)が始まることを念頭に置きながら、「無数の小川や水流が合流した大河のように、教会を構成する世界の様々な共同体や個人の意見を集めて行われるこの会議」に言及され、「『普遍の教会』とは、同じ水で育まれた数多くの地方教会や修道会や組織の交わりであり、それぞれの水源がかけがえのない貢献をもたらしながら、やがてはすべてが合流し、神の慈しみ深い愛の大海に注ぎ込んでいくものです」と語られた。

 そして最後に教皇は、「一つの川があらゆる動植物に命を与えるように、共に歩む教会がたどり着くすべての場所に、正義と平和の種をまくことができるように」と願われた。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

2023年5月26日

☩「苦しむ中国のカトリック教徒が、普遍教会の連帯で慰めと勇気を感じられるように」-教皇、24日「中国のカトリック教会のための世界祈願日」

教皇フランシスコ、「扶助者聖母マリア」の日に、中国のカトリック信者にメッセージ 教皇フランシスコ、「扶助者聖母マリア」の日に、中国のカトリック信者にメッセージ  

 「中国のカトリック教会のための世界祈願日」の24日、教皇フランシスコは一般謁見で、中国のカトリック信者たちにメッセージをおくられた。

 カトリック教会の典礼暦で24日は「扶助者(キリストの助け手)聖母マリア」の日だが、中国・上海の余山(シェシャン)の聖母巡礼聖堂が「扶助者聖母マリア」に捧げられたいることから、教会ではこの日を「中国のカトリック教会のための世界祈願日」としている。

教皇が中国のカトリック信者たちにあてたメッセージは次の通り。

**********

 24日は「中国のカトリック教会のための世界祈願日」を記念します。 この祈願日は、上海の余山(シェシャン)の聖母巡礼聖堂において崇敬されている「キリスト者の助け手、聖母マリア」の祝日でもあります。

 この機会に、中国における私たちの兄弟姉妹を思い起こし、その喜びと希望を分かち合いながら、彼らへの寄り添いを表明したいと思います。特に、苦しむすべての人々、司牧者、信者たちに思いを向けます。普遍の教会の交わりと連帯において、彼らが慰めと勇気を感じることができますように。十字架上で死に、復活したキリストの福音が、その完全さと、美しさ、自由のうちに告知され、中国のカトリック教会と社会のために実りをもたらすように、すべての人に神への祈りをお願いしたいと思います。(編集「カトリック・あい」)

2023年5月25日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑭韓国の聖人キム・テゴンは”使徒的熱意の体現者”

Pope Francis holds his weekly General AudiencePope Francis holds his weekly General Audience  (REMO CASILLI)

(2023.5.24 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

    教皇フランシスコは24日の水曜恒例の一般謁見で「使徒的熱意について」の連続講話を続けられ、この日は「使徒的熱意を体現した聖アンデレ・キム・テゴンを取り上げ、「迫害と数多くの困難にもかかわらず、同胞に神の愛を示し続けた韓国人初の司祭… 生涯を通して、福音宣教の熱意を雄弁に証ししました」と讃えられた。

 講話で教皇は、「約200年前、朝鮮の地はキリスト教信仰に対する非常に厳しい迫害が行われていました。 イエス・キリストを信じるということは、死に至るまで証しをする覚悟を持つことを意味していました」とされた。

 そして、この聖人が、そうした「激しい迫害」の時代に、官憲による逮捕を恐れて身元を隠し、散り散りになった信徒たちを、勇気を持って探し出し続けたこと、またそのような信徒が現代にいたる信仰を伝える鍵となったこと-を思い起され、「国全体にイエスの愛を知らせるには、信徒の信仰が不可欠だったのです」と指摘された。

 教皇は、キリストに従い、民に奉仕する粘り強さが彼にとって殉教に至る道であったことを指摘し、キム・テゴンはまさに、「キリストの弟子であり… 主の弟子であるということは、主に従い、主の道に従うことを意味します。それには福音宣教のために命を捧げることも含まれます」とされた。

 また教皇は、キム・テゴンの一生を回想された。彼が若い神学生だった時、密かに入国してくる外国人宣教師を官憲に見つからないように受け入れるのに苦労した。教皇は、「当時の政権は外国人の入国を厳禁しており、容易なことではなかったのです」と言われた。また司祭になった後、冬の長い宣教の旅の途中で、疲れ果てて雪の降り積もった地面に倒れ、命落としそうになった。すると「突然、『立ち上がって歩き続けなさい!』という声を聞き、『自分は決して一人ではない、主は決して自分を見捨てられない』ということに気付いた」という。

  キム・テゴンのこの経験は、「使徒の熱意の重要な側面、つまり、倒れたときに立ち上がる勇気を、私たちに教えています… 聖ペトロも、罪に陥り、キリストを三度否定したにもかかわらず、キリストの死と復活を経て立ち治りました。私たちはいつでも立ち上がることができる。なぜなら、主イエスは決して私たちを見捨てず、いつも近くにいて、励まし、手を取って下さるから。主はいつも私たちに『起きなさい、起きなさい』と繰り返して呼び掛けてくださるのです」と強調。「そもそも、イエスご自身が死からよみがえられたお方なのです」と説かれた。

 講話の最後に教皇は「主の復活は、まさに神秘であり、その中に、私たちがあらゆる転落から立ち上がる可能性が含まれています。そして、それは、私たちが前に進むことを可能にする力の源です」とされ、聖人の模範によって力を得られるように… 落胆せず、福音宣教がもたらす素晴らしさを奪われないように、イエス・キリストが与えてくださる力で前進しましょう」と、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに呼び掛けられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2023年5月24日

☩「スーダンとウクライナの苦しみ続けている人たちの側に立ち続けよう!」-教皇、「主の昇天」の主日に

People fleeing Sudan conflict arrive to southern EgyptPeople fleeing Sudan conflict arrive to southern Egypt  (ANSA)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年5月21日

☩「イエスはご自身の昇天をもって、私たちを天へ導いてくださる」-主の昇天の主日に

(2023.5.21 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは21日、「主の昇天」の主日の正午の祈りでの説教で、「イエスが、私たち人間を天国に導き、御父の子として楽園で永遠に暮らすことができるように、ご自分に倣って歩むべき道を開いてくださったこと」を強調された。

 説教で教皇は、主の昇天の主日のもつ重要な二つの側面-「イエスが地上から発たれたこと」と「イエスが今、天でなさっておられること」-に注意を向けられた。

 まず、「イエスが地上から発たれたこと」によって、「新しく、素晴らしいことが起きました… イエスは、神の所へ上られ、永遠にそこにとどまられることを、人としてこの地上で約束され、ご自身が天に上られることで、私たち人間を天にもたらされたのです」と語られた。

 そして、「主が昇天された日から、神ご自身が『変わった』と言えるでしょう。その時から、神の私たちに対する愛は、ご自身の中に私たちの肉体、つまり私たちの人間を宿すほどになりました!」と強調。「私たち人間とともに御父のもとに戻られたイエスによって、天はすでに私たち自身が今いる場所に少々、似たものとなりました。 イエスは私たちに道を開いてくださったのです」と説かれた。

 二つ目の側面である「イエスが今、天でなさっておられること」については、「天のイエスが、常に私たちのために御父の前におられ、イエスが私たちのために受けた傷を絶えず神に示してくださっていること」に焦点を当てられ、「 イエスは御父の前で私たちの代弁者であり、したがって『時代の終わりまで』、常に私たちの側に立って、私たちのために執り成してくださるのです」と語られた。

 説教の最後に教皇は、「イエスが御父の前で私たちのために執り成してくださっており、私たちの信仰は、希望を失ったり落胆したりしないようにしてくれます」とされ、次のように祈られた。

 「天の元后聖マリアが祈りの力をもって、私たちを執り成してくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年5月21日

☩「核の使用は人道上の犯罪、恒久平和へのビジョンを示して」教皇、白浜・広島司教通じ、 G7首脳たちに願う

(2023.5.20 Vatican News  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコが19日付けで、G7サミット開催中の広島の白浜司教に書簡を送られ、「核兵器の使用は人道に対する犯罪であり、私たちの共通の故郷のあらゆる将来を損なうもの」という「確固たる信念」を確認されたうえで、参加首脳たちに対してサミットが「永続する平和と安定した社会の基礎を築く上で、先見の明のあるビジョンを示すことを祈っている」との希望を表明された。

 

*広島の核の脅威に対処する「場」としての重要性

  教皇はこの書簡で、「核兵器に依存した継続的な脅威」に対処するG7会合の場としての被爆地・広島の重要性を強調され、「2019年11月に日本を訪問し、広島の原爆死没者慰霊碑を訪れた時の感動の瞬間を思い起こしています… 原爆で命を落とされた無実の犠牲者たちを思い、黙祷を捧げながらそこに立ちました」と述べられた。この時、教皇は、「戦争目的での核の使用は、今日、これまで以上に人間の尊厳に対する犯罪となっているだけでなく、私たちが共有するあらゆる将来の可能性に対する犯罪です」という確固たる信念を表明されている。

*ウクライナ‥.平和が緊急に求められている

 そして、今、特に新型コロナの世界的な大感染の発生、さらにウクライナにおけるロシアによる残虐非道な侵略戦争を含め様々な地域で紛争が続いているが、このような過去数年の出来事は「私たち人類家族が友愛と連帯をもって団結することによってのみ、その傷を癒し、公正で平和な世界を築くことができることを、改めて明らかにしました」と指摘された。

*世界の安全保障は、食料・水、環境など総合的なもの

 また、「21世紀の多極化した世界において、平和の追求は、安全と、それを保証するために最も効率的な手段についての熟考と密接に関係しています」とされ、そうした観点から、「世界の安全保障は、食料と水の供給、環境への配慮、医療、エネルギー資源などすべての人に必要な物とサービスの公平な分配を含む総合的なものでなければなりません」と強調。

 そして、このような考え方は、「現在のさまさまな課題の深い相互関係に基づいて、多国間主義と政府と非政府主体間の国際協力を定着させるために必要です。そしてそれには、責任ある多国間協力のアプローチを共同で採用することが求められています」と説かれた。

*核兵器を持つこと自体が恐怖と疑惑を産み、相互信頼と対話を損なっている

 教皇は、被爆地・広島は「記憶のシンボル」であり、「平和に対する大きな脅威に効果的に対応し、国のそして世界の安全を確保するために、核兵器が適切ではないことを、強烈に訴えています」とされたうえで、核保有国を含むG7 の首脳たちに対し、「核兵器の開発・製造がもたらしている人的、経済的な資源の浪費と不適切な配分、その使用がもたらす壊滅的な人と環境への被害」を改めて強く認識するよう、訴えられた。

 また、核兵器の保有自体から生じる恐怖と疑惑が、「関係国同士の信頼と対話の環境醸成の障害となること」に言及され、このことが、「核兵器やその他の大量破壊兵器が平和を”幻想”にしてしまうリスクを倍増させることを意味します」と警告された。

*広島司教と信徒たちに祈りと祝福を

 

 書簡の最後に、教皇は、白浜司教と信徒たちに対して祈りと祝福を約束され、「広島でのG7サミットが、恒久的な平和と長期にわたる安定した持続可能な安全保障の基礎を築く上で先見の明のあるビジョンを示すことになるように」祈っています、と述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

*教皇フランシスコの白浜・広島司教あての書簡英語訳全文以下の通り。

 

LETTER OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO THE BISHOP OF HIROSHIMA ON THE OCCASION OF THE G7 SUMMIT

 To the Most Reverend Alexis-Mitsuru Shirahama Bishop of Hiroshima

 As the G7 Summit meets in Hiroshima to discuss urgent issues currently facing the global community, I wish to assure you of my spiritual closeness and my prayers for the fruitfulness of the Summit. he choice of Hiroshima as the site of this meeting is particularly significant, in light of the continuing threat of recourse to nuclear weapons. I recall the overwhelming impression left by my moving visit to the Peace Memorial during my 2019 visit to Japan. Standing there in silent prayer and thinking of the innocent victims of the nuclear attack decades ago, I wished to reiterate the firm conviction of the Holy See that “the use of atomic energy for purposes of war is, today more than ever, a crime not only against the dignity of human beings, but against any possible future for our common home” (Address at the Peace Memorial, 24 November 2019).

It is to that future to which responsible men and women now look with concern, particularly in the wake of our experience of a global pandemic and the persistence of armed conflicts in various regions, including the devastating war now being fought on Ukrainian soil. The events of the past few years have made it clear that only together, in fraternity and solidarity, can our human family seek to heal wounds and build a just and peaceful world.

Indeed, it has become increasingly evident that in the multipolar world of the twenty-first century, the pursuit of peace is closely related to the need for security and reflection on the most efficient means for guaranteeing it. Such reflection must necessarily consider the fact that global security needs to be integral, capable of embracing issues including access to food and water, respect for the environment, health care, energy sources and the equitable distribution of the world’s goods. An integral concept of security can serve to anchor multilateralism and international cooperation between government and nongovernment actors, on the basis of the profound interconnection between these issues, which makes it necessary to adopt, together, an approach of responsible multilateral cooperation.

Hiroshima, as “a symbol of memory”, forcefully proclaims the inadequacy of nuclear arms to respond effectively to today’s great threats to peace and to ensure national and international security. We need but consider the catastrophic humanitarian and environmental impact that will result from the use of nuclear weapons, as well as the waste and poor allocation of human and economic resources involved in their development. Nor should we underestimate the effects of the continuing climate of fear and suspicion generated by their mere possession, which compromises the growth of a climate of mutual trust and dialogue. In this context, nuclear arms and other weapons of mass destruction represent a multiplier of risk that offers only an illusion of peace.

Assuring you of my prayers for you and for those entrusted to your pastoral care, I join you in praying that the G7 Summit at Hiroshima will demonstrate farsighted vision in laying the foundations for lasting peace and stable and long-term sustainable security. With gratitude for your efforts in the service of justice and peace, I cordially send my blessing.

 Rome, Saint John Lateran, 19 May 2023 FRANCIS

 

2023年5月21日

◎教皇連続講話「使徒的熱意について」⑬「キリストの愛が、聖フランシスコ・ザビエルを遠く離れた日本の宣教に駆り立てた」

(2023.5.17 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは17日の水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意について」と題する講話を再開され、使徒的熱意を体現した人物の中で聖フランシスコ・ザビエルを「最も偉大な宣教師」と称賛。「キリストの愛が、福音を広めるために世界の遠く離れた地まで、彼を駆り立てたのです」と語られた。

 講話で教皇はまず、「キリストの愛は、挫折、失望、落胆を克服させる力。聖フランシスコ・ザビエルを、絶え間ない労苦と危険を伴う世界の遠く離れた地へ駆り立て、最後まで、その愛に従い仕えることにおいて慰めと喜びを与えました」とされ、聖人がどこにいても病人、貧しい人、子供たちに多大な配慮を注いだことを賞賛しつつ、「彼の熱心な活動は常に祈り、神との結合と結びついていました」と指摘。

(以下、バチカン放送による講話の日本語要旨)

  使徒的熱意の証しの模範として、今日は聖フランシスコ・ザビエルについて考えましょう。聖フランシスコ・ザビエルは、近世の最も偉大な宣教者とされています。ただし、誰がもっと偉大であるとか、偉大でないとか、言うことはできません。今日も無数の隠れた宣教者たちが、宣教に行ったたくさんの司祭や、修道者、信徒たちが、聖フランシスコ・ザビエルと同じように、多くの業を行っているからです。

 宣教者が偉大なのは、「宣教に出ること」にあります。福音を宣べ伝えるために祖国を出る、これは「使徒的熱意」です。そして、私たちはこの熱意を育む必要があります。宣教者たちの生き方を見つめながら、それを学ばねばなりません。

 聖フランシスコ・ザビエルは、1506年、スペイン北部ナバラの没落した貴族の家に生まれました。パリに留学したフランシスコは、現世的で知的な青年でした。そこで彼は聖イグナチオ・デ・ロヨラと出会い、霊的指導を受け、人生が変わります。フランシスコは、宣教師となるために、世俗的な出世を捨て、誓願を立て、イエズス会士となり、司祭に叙階されると、東洋へと派遣されました。当時の東洋への宣教の旅は、「まだ見たことのない世界」への招きでした。彼が旅立ったのは、使徒的熱意に満ちていたからです。

 近世の情熱的な宣教者たちの群れの最初の一人として、フランシスコ・ザビエルは旅立ちます。苦労や危険をしのび、見知らぬ地で文化や言葉のまったく異なる人々と出会うことをいとわない宣教者たちは、ただ「イエス・キリストとその福音を知らせたい」という強い熱意に突き動かされていました。

 フランシスコ・ザビエルは11年余りの宣教生活で類いまれな事業を成し遂げました。当時の船旅は困難と危険を極め、多くの宣教師が旅の途中で遭難や病気で亡くなっています。ザビエルも3年半、宣教生活の三分の一を船上で過ごしたのです。

 フランシスコはまず、ポルトガルのアジアにおける拠点だったインドのゴアに到着。そこから、インド南部沿岸の貧しい漁師たちの村に宣教に出かけます。そこで要理と祈りを子どもたちに教え、人々に洗礼を授け、病者たちの世話をしました。ある晩、聖バルトロマイの墓で祈っていると、「インドよりさらに先へと行くように」との声を聴き、ゴアでの仕事を信頼できる人々に託して、モルッカ諸島に向かいました。

 彼はインド宣教中に一人の日本人と出会います。彼は日本について語りましたが、日本は欧州の宣教師がまだ足を踏み入れたことのない国でした。使徒的熱意に動かされたザビエルは、すぐに日本行きを決意し、ジャンクに乗っての冒険的な航海を経て、日本に着きました。日本での3年間は、異なった自然環境、キリスト教に対する抵抗、不十分な日本語力など、非常につらく厳しいものだったにもかかわらず、蒔いた種は多くの実りをもたらしました。

 日本で宣教しているうちに、ザビエルは、「アジア宣教での鍵は、中国だ」と思うようになります。当時の中国は、進んだ文化、古い歴史、領土の広大さから、アジア地域に大きな影響を及ぼしていました。彼はいったんゴアに戻り、中国での宣教を目指して再び舟に乗りますが、夢はかないませんでした。中国の上川島で、本土上陸を虚しく待ちながら、1552年12月3日、病のために亡くなります。そばには一人の中国人が付き添っていただけでした。こうして、フランシスコ・ザビエルのこの世での旅は終わりました。まだ46歳でした。

 フランシスコ・ザビエルの非常に熱心な活動は、常に「祈りと、神との一致」のうちにありました。いかなる場所でも、病者、貧しい人、子どもたちへの大きな配慮を示しました。彼を絶えまない労苦と危険を伴う世界の果てへの旅に送り出し、失敗や失望を超えさせ、イエスに最後の最後まで従う慰めと喜びを与えたのは、キリストの愛の力だったのです。

 この偉業を大いなる清貧と勇気のうちに行った聖フランシスコ・ザビエルが、私たちに「福音を生き、福音を宣べ伝えるための熱意」を与えてくれますように。落ち着きのない心を抱え、自分が何をすべきか分からない多くの若者たちに言いましょう-「フランシスコ・ザビエルを見つめ、世界の果て、多くの貧しい人々、苦しむ人々、イエスを必要とするたくさんの人々を見つめなさい。そして、勇気をもって行きなさい」と。主が私たち皆に、福音宣教の喜びを与えてくださいますように。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年5月17日

☩「聖霊は私たちの誤りを正し、守ってくれる」教皇、復活節第6主日の正午の祈りで

Pope Francis at the Regina CoeliPope Francis at the Regina Coeli  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年5月14日

☩「イスラエルとパレスチナ武装勢力の停戦が維持されるように」教皇、復活節第六主日の正午の祈りで

A woman sits amid the rubble of her house in GazaA woman sits amid the rubble of her house in Gaza  (AFP or licensors)

(2023.5.14 Vatican News   Devin Watkins)

    教皇フランシスコは14日、復活節第6主日の正午の祈りで、イスラエルとガザ地区のパレスチナ武装勢力との間の停戦が維持されるよう祈られるとともに、聖地の平和を強く願われた。

 イスラエルとガザ地区のイスラム聖戦過激派は、イスラエルによる空爆で同組織の最高司令官3人が死亡した9日以来、武力による戦いを劇化させていたが、13日にエジプトの仲介による停戦が発効し、14日の日曜もこれまでのところ停戦が続いている。だが、停戦前までに、ガザ地区では、少なくとも4歳の子供を含む13人の民間人が殺害されたと報告されている。

 教皇は、「武器によっては、決して安全と安定を得ることができません。武器が”沈黙”しますように。戦う人々は、平和への希望を打ち砕くことにしか成功していないのです」と強調。

 イスラエル人とパレスチナ人の間の武力闘争で、「女性や子供を含む無実の人々が命を落としている」と強い悲しみを表され、停戦がこのまま継続され、さらに双方が武器を置くことに、強い期待を表明された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年5月14日

☩「聖母の模範に目を向け、人間関係を築く能力を生かし、平和に貢献を」世界カトリック女性団体連合総会の参加者たち

  (Vatican Media)Pope Francis meets with the women of WUCWO in the Paul VI Hall

 さらに、「私たちの世界は、平和を切実に必要としています… その平和は今、憎しみと恨みによって引き裂かれている。平和は、まず、私たちの心から始めなければなりません」と説かれた。

 続けて教皇は、世界各地で女性が「政治的紛争や文化的イデオロギーの道具となる危険」にさらされている現実に目を向け、「人間関係を築き、他者に与えることのできる女性の能力をもっと評価する必要がある。人が人であることを特徴づける人類学的要素、家庭や社会における女性の役割を特徴付ける人類学的要素を取り戻すために、男性は、女性との互恵関係の豊かさをよりよく理解する必要があります」と強調。

 また、13日が「ファティマの聖母」の祝日に当たることから、女性たちの人生のモデルとして聖母マリアに目を向けるよう促され、「聖母マリアは、『母性』という賜物を世界に捧げ、子供たちを育て上げるなど、自分に与えられた使命を最大限に果たしました… マリアは、命を生み出し、常にそれを守り、優しさと思いやりをもって他者と関わることを教えてくれます」と語られた。

 教皇は続けて、総会参加者たちに、「頭」「心」「手」という3つの「言語」を組み合わせて使うように促され、「女性には、自分が感じていることを考え、自分の考えや行動を感じ、自分の感じたこと、考えたことを実行する能力がある、と私は思います。 この感性を他の人のために提供し続けることをお勧めします」と述べられた。

 最後に、マリアに強さをもたらし、ファティマで聖母が現れた純朴な羊飼いの子供たちに信頼を与えた力について考察され、「イエスの弟子となる秘訣は、神との内なる結合を育み、マリアのように『神の救いの働きをするために選ばれたのだ』という意識を持って、女性であることの充実感を生きるために、神との一致を保つことにあります」と語られた。そして、「キリストとの一致は、教会との交わりや他者への奉仕を通じて、日常生活の中に表れねばならない。教会の使命と調和するために、仕事の中で『祈り』、祈りの中で経験したことを『実践』する必要があります」と説かれた。

 そして、WUCWOの女性たちに対し、「聖霊の内なる声に従い、福音宣教活動に前進するように」と改めて激励の言葉を贈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年5月14日

☩「澄んだ心で聴き、話すことで初めて”見える”ようになる」―5月14日「世界広報の日」教皇メッセージ

(2023.5.12  カトリック・あい)

 5月14日は、世界のカトリック教会の57回目の「世界広報の日」。この日を前に教皇フランシスコがメッセージを出されている。カトリック中央協議会による全文翻訳は以下の通り。(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に、聖書の引用は本来の意味に近く、現代日本語としても優れている「聖書協会・共同訳」に統一しました)

第57回「世界広報の日」教皇メッセージ-心をもって、「愛に根ざして真理を語る」(エフェソの信徒への手紙4章15節)—

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年まで、よいコミュニケーションの条件として、「来て、見る」「聴く」という”動詞”について考えてきましたが、今回の第57回世界広報の日メッセージでは、「心をもって話す」ことに焦点を当てたいと思います。

 「来て」「見て」「聴く」ことへ私たちを導くのは、まさに心であり、さらにまた、開かれた、歓待のコミュニケーションへと突き動かすのも心です。耳を傾ける-「待つ」ことと「辛抱する」ことが求められ、予断による自己主張も排除すべきものです-訓練を重ねれば、生き生きとした対話や共有が始められるようになります。それがまさに、心をもってのコミュニケーションなのです。

 澄んだ心で相手の話に耳を傾けることができれば、愛に根ざして真理を語れるようになります(エフェソの信徒への手紙4章15節参照)。面倒が生じようとも、真実を告げることを恐れてはなりません。ただし真実を告げる際、愛も心もないままにそうしていないかを気に掛けなければなりません。

 ベネディクト十六世が述べておられるように、「キリスト信者の計画は……『見ることのできる心』だからです。心は、その鼓動によって、私たちの存在の真理を明らかにするのですから、それに耳を傾けねばなりません。そうすることで、聞き手は波長を合わせることができ、自分の心で相手の鼓動を感じられるほどになります。そうなれば出会いの奇跡が起きます。その奇跡によって、伝聞で人を裁き不和や分裂を招くのではなく、互いへの敬意をもって弱さを受け入れ、思いやりの心で互いを見るようになるのです。

 イエスは「どの木もその実によって見分けられるのだ」と警告します(ルカ福音書6章44節参照)。「善い人はその心の良い倉から良い物を出し、悪い人は悪い倉から悪い物を出す。およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである」(45節)。

 ですから愛をもっての、真実に従ったコミュニケーションのためには、自分の心をきれいにしておかなければなりません。澄んだ心で聴き、話すことで初めて、見えている以上のものが見えるようになり、情報の分野でも、私たちが生きる複雑な世界の中で識別の助けにはならない雑音に煩わされずにいられるのです。「心をもって語りなさい」という呼びかけは、現代を根本から問いただすものです。この時代は、無関心だったり、すぐに憤慨したりで、時には真実を捏造して操作する「偽情報」を持ち出すことすらあるのです。

*心を込めたコミュニケーション

 「心を込めて伝達する」ということは、私たちの発するものを読んだり聞いたりしている人たちに、現代人の喜びや不安、希望や苦しみを自分たちも共有しているのだ、と分かってもらうことです。そのように伝える人は、相手の幸せを望んでいます。そういう人は相手を思いやり、相手の自由を侵さず大事にするからです。そうした姿は、ゴルゴタでの悲劇の後、エマオへと向かう弟子たちと対話する謎の旅人に見ることができます。

 復活したイエスは心をもって彼らに語り、悲しみに沈む彼らの歩みに敬意をもって同行し、ご自分を示しつつも押しつけはせず、起きたことの深い意味を理解できるよう、愛をもって彼らの心を開くのです。確かに彼らは、「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」と喜びにあふれて叫ぶことができたのです(ルカ福音書24章32節参照)。

 偏向と対立の色濃い時代-残念ながら、教会共同体も無縁ではありません-にあって、「心からの、手を広げた」コミュニケーションに取り組むことは、報道の担い手だけでなく、私たち一人ひとりの責任です。私たちは皆、真理を求め、伝え、愛をもってそれを行うよう求められているのです。とくに私たちキリスト者は、「悪から舌を守る」ように、絶えず求められています(詩編34章14節参照)。聖書が教えるように、「私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています」(ヤコブの手紙3章9節参照)。口から出る言葉は、悪い言葉であってはならず、むしろ、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉」(エフェソの信徒への手紙4章29節)であるべきです。

 感じ良く話をすれば、硬い心がほぐれることもあります。文学作品にもその証拠があります。『いいなづけ』(訳注:アレッサンドロ・マンゾーニの長編小説。ダンテの『神曲』と並ぶイタリアの国民文学)の第21章の印象的なエピソードが思い浮かぶのですが、それはルチーアがインノミナート(訳注:「名もない」という意味)に心を込めて語りかけていると、その人が、健全な内的危機によって、心の武装が解除されて、悩まされながら、愛の優しい力に降伏するまでとなる場面です。

 私たちはそれを、社会生活の中で経験しています。優しさが、単なるマナーの問題ではなく、不幸にも心を蝕み人間関係を狂わせてしまうような、むごい状況を変えうる真の解毒剤となる場面をです。同じことはメディアの分野にも必要で、そうなればコミュニケーションは、憤慨させ、憎悪に駆り立て対立を招く、恨みをかき立てるものとはならずに、大衆が、批判精神をもって、常に他に対する敬意を忘れずに、自分たちが生きる現実を冷静に考え、読み解く助けとなります。

*心と心のコミュニケーション-「うまく伝えるには、たくさん愛すること」

 「心をもって語る」模範として、もっとも輝いていて、今なお魅力的な一人が、聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士です。先ごろ私は、その帰天400年に、彼についての使徒的書簡『トートゥム・アモーリス・エスト(すべては愛です)』を出しました。

 そしてこの大きな記念の年に加え、今年2023年に訪れるもう一つの記念にも触れておきたいと思います。ピオ11世が回勅『レールム・オムニウム・ペルトゥルバティオネム(万物の混乱)』をもって、彼にカトリックのジャーナリストの保護聖人の称号を与えて100年となるのです。才気煥発な知識人にして多作の著述家、重厚な神学者であったフランシスコ・サレジオは、17世紀初頭、カルヴァン派との激しい論争があった困難な時代に、ジュネーブの司教を務めていました。

 その温厚な人柄、寛大さ、誰に対しても、自分に反論する人に対してはなおさら、粘り強く対話しようとする姿勢によって彼は、神のいつくしみ深い愛を示す希代の証人となったのです。彼について、「甘い喉は、友を増やし、爽やかに語る舌は、愛想のよい返事を増やす」(旧約聖書シラ書6章5節)と評することができるでしょう。

 ですが何より、彼のもっとも有名な言葉の一つ「心が心に語る」-これが、世代を超えて信者を励ましてきたのです。その代表が、自身のモットーにCor ad cor loquiturを選んだ聖ジョン・ヘンリー・ニューマンです。「うまく伝えるには、たくさん愛すればいい」というのが、彼の信念の一つでした。これが示しているのは、彼にとってコミュニケーションとは、今日でいうところの「マーケティング戦略」といった、仕掛けのようなものに矮小化されるものでは決してなく、魂を映し出すものであり、目には見えない愛の核が表に出て見えるものとなることだった、ということです。

 聖フランシスコ・サレジオは、コミュニケーションとはまさに「人が神への気づきを得るような、繊細でありつつ強烈な一本のプロセスが実現する、心の中での、そして心を通して」2のものだと考えています。「たくさん愛する」ことによって聖フランシスコは、ろうあ者のマルティーノとコミュニケーションを取り、友人となることができました。そのため彼は、コミュニケーションに障害のある人の保護者ともされています。

 ジュネーブの聖なる司教は、その著作と生き方の証しを通して、この「愛の基準」から、「私たちはコミュニケーションする存在」だということを思い起こさせてくれます。この教訓は、今の時代、とくにSNSで経験するような、コミュニケーションがもっぱら単なる道具と化し、世界がわたしたちをそうであるものとしてではなく、そうであってほしいものとして見る風潮に対抗するものです。聖フランシスコ・サレジオは、ジュネーブ地域で、自分の数々の著作を大量に普及させました。この「ジャーナリスト的」勘によって彼は、教区を超えてたちまち評判となり、それは今日まで続いています。

 彼の書は、聖パウロ六世が指摘したように、「痛快で、示唆に富み、励ましとなる」3読み物となっています。現在のコミュニケーションの姿に目をやれば、記事、ルポルタージュ、ラジオやテレビの番組、あるいはSNSの投稿が備えるべき特徴は、まさにこのようなものではないでしょうか。情報発信の担い手たちには、この優しさの聖人から刺激を受けて、勇気をもって自由に真理を追い求め、それを伝えられるようであるとともに、派手で攻撃的な表現を使おうとする誘惑には打ち勝っていただきたく思います。

*”シノドスの道”の歩みの中で、心をもって語る

 これまでも指摘してきましたが、「教会でも、耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それはわたしたちが互いに差し出しうる、もっとも尊く豊かな贈り物です」。偏見をもたずに、配慮と役に立ちたいとの意欲をもって耳を傾けることによって、神の流儀-これを身に着ける道は、近しさ、あわれみ、優しさです-で話せるようになります。

 教会では、「心を燃え立たせ、傷をいやし、兄弟姉妹の道を照らすようなコミュニケーション」が急務です。私が夢見る教会のコミュニケーションは、聖霊に導かれることを知り、礼節をわきまえ、かつ預言的なものであり、第3千年期に届けるよう召されている驚異のメッセージに、新たな文体と話法を見い出すことができるものです。

 神との関係、隣人、とりわけもっとも助けを必要としている人との関係を中心に据えたコミュニケーション、自己言及的な”自己認識の燃えかす”を大事にするのではなく、信仰の火を燃え立たせるようなコミュニケーションです。耳を傾ける謙虚さと、語る大胆さ(parresia)を土台とするコミュニケーションであり、真実と憐みを切り離してしまわないコミュニケーションです。

*平和の言語を広めて、人々の心から敵意を取り去る

 「柔らかに語る舌は骨をも砕く」と箴言には書かれています(25章15節)。心をもって語ることが、今日ほど求められたことはありません。戦争があるところに平和の文化を広めるため、憎しみと敵意が荒れ狂うところに対話と和解の道を開くためです。私たちが今体験している地球規模の争いという悲劇的状況では、友好的なコミュニケーションの確立が急務です。

 「開かれた敬意ある対話に向かうよりも、屈辱的な形容詞を相手にあてがう」、「反対者の信用をすぐ失墜させようとする傾向」を克服せねばなりません。対話に前向きで、包括的軍縮に尽力し、私たちの心に潜む戦争志向の解体に取り組む、コミュニケーターが必要です。聖ヨハネ23世が回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』で預言的に説いたように、「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」(61項)のです。自分の側の安泰にこだわることなく、むしろ大胆かつ創造的に、危険を顧みず、合意できる共通項を見いだそうとするコミュニケーターを要する信頼です。

 60年前と同様、私たちは今、人類が戦争の激化に怯える暗黒時代の中にあり、一刻も早くブレーキをかけねばなりません。コミュニケーションの領域もそうです。民族や領土の消滅を主張する言説が、これほどまでに軽々しく発せられているのを耳にするのは、おぞましいかぎりです。残念なことに、ことばはしばしば、残酷な暴力による戦争行為に発展するものです。

 だからこそ、あらゆる好戦的なレトリックは否定されねばなりませんし、イデオロギー目的のために真実を歪め、捏造するプロパガンダは、何であれ否定されねばなりません。むしろ、民族間の争いを解決するための条件を整備するため、あらゆるレベルにおいてコミュニケーションが促進されなければならないのです。

 私たちはキリスト者として、「平和の命運を決するのは、まさに回心である」と知っています。戦争というウイルスは、人間の心から生じるからです。閉ざされ分断された世界の闇に光をもたらし、これまで手にしたよりも良い文明を築くための義のことばは、心の中から生まれ出るものです。回心は一人ひとりに求められている努力ですが、とりわけ情報伝達に携わる人々にとっては、自らの職業を使命として果たせるよう、責任感を呼び覚ましてくれるものなのです。

 主イエス、御父の心からほとばしり出るままの言葉である方、この方の助けによって私たちが、コミュニケーションを自由で、廉直で、心あるものにしていけますように。

 主イエス、人となった言葉である方の助けによって、人々の胸の鼓動に耳を傾け、私たちが兄弟姉妹であることを今一度かみしめ、分断をもたらす敵意を取り除くことができますように。

 主イエス、真理と愛の言葉である方の助けによって、愛において真理を語ることができますように。そうして私たちが、互いを保護する者であるとの自覚をもつことができますように。

 

 ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2023年1月24日 聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士の記念日に  フランシスコ

2023年5月12日

☩「世界的な慈善活動を通し、神の愛に応え続けて」国際カリタス”再建”へ総会参加者に

Pope Francis shakes Cardinal Czerny's hand at the audience with CaritasPope Francis shakes Cardinal Czerny’s hand at the audience with Caritas  (Vatican Media)

 

 

*聖体はキリストが愛から作られた賜物

 また教皇は、聖体の力について言及。「私たちのためにご自身を差し出し、見返りを求めることなく私たちを愛してくださった『キリストの真の継続的な臨在』が聖体にある…」と指摘され、「聖体は私たちのためのものです。 食べ物と飲み物は、旅で私たちを支え、疲れたとき、倒れたときに私たちを元気を与えてくれる。神が私たちのためにしてくださったすべてを、救いのために進んで受け入れるように、私たちを促します」と語られた。

 そして、「キリストが愛から作られた無条件の、あふれるばかりのこの賜物を前にして、私たちは何ができるかを自問しなければなりません」とされたうえで、「苦しんでいる兄弟姉妹、ケアを必要としている兄弟姉妹、そして、息子、娘としての尊厳を取り戻すために助けを必要としている兄弟姉妹たちに目を向けることで、私たちは『恩返し』という喜びに溢れた神秘に入ることができる。感謝の気持ちを込めて神にありがとう、と言えるのです」と説かれた。

*愛と慈善

 続けて教皇は、「飢餓に苦しむ人たちを助けるために全財産を差し出すといった、最も並外れた行動、最も英雄的で寛大な行為でさえ、愛と慈善の心なしになされれば、何の役にも立ちません」と注意され、神の愛によって、「私たちの目が開かれ、視線が広げられ、目の前を通り過ぎる見知らぬ人の中に、無関心でいられない名前、物語、ドラマを持つ兄弟姉妹の顔を認識できるようにする必要があります」と強調。

 さらに、「神の愛の光の中で、他者の現実は影から現れ、取るに足らないものから、価値と関連を持つものになる。隣人が必要とするものが、私たちに挑み、私たちを悩ませ、私たちの中に責任感を目覚めさせます」と述べられた。

 

 

*重要なのは態度

 最後に教皇は、真の愛についての聖パウロがコリントの信徒への手紙の中で、「最も優れた道」(コリントの信徒への手紙1・12章31節)は「愛(カリタス )」であると記しているように、「愛は私たちを形作り、目を開かせ、人生の深い意味を悟らせ、自らの命の大切さだけでなく、他者の命の尊さをも理解させる」と、「愛に基づく活動の大切さ」を説かれた。

 そして「国際カリタスは、普遍の教会と世界の地方教会を結び、愛徳の実践における神の民の努力を支えながら、教会の交わりの表現となることを意図したもの。国際カリタスの課題は、善き業によって福音を告げながら、普遍の教会の活動に協力すること。それは宣教的回心の道のりにおいて、絶えず自らを捉え続けることでもあります」と語られ、「一致を大切にしながら、多様性を豊かさとして生きるように」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

Attitude matters

The Holy Father reminded them of St. Paul’s description of authentic love. Charity, the Pope suggested, requires making space for others, and being aware of our attitudes.

“Do you want to know if a Christian is living charity? Look closely to see if they are willing to help freely, with a smile on their face, without grumbling or getting annoyed. Charity is patient, Paul writes, and patience is the ability to endure unexpected trials, daily labours, without losing joy and trust in God. For it is the result of a slow travail of the spirit, in which we learn to master ourselves and acknowledge our limitations.”

The Holy Father urged them to “cooperate with the universal Church in sowing seeds, proclaiming the Gospel through good works”; “accompany local Churches in their active commitment to pastoral charity”; and exemplify “unity.”

Pope Francis concluded by commending all of them to the intercession of Mary, Mother of the Church, imparting his blessing and requesting their prayers.

総会参加者への挨拶で、国際カリタスのアイデンティティーは神の愛から受けたその使命にあると述べた教皇は、「カリタス」と社会で活動する他の組織との違いは、教会の教えに従い、使徒座との交わりのうちに、司教らと愛徳の司牧において協力するという、その「教会的な召命」にあると強調された。

また、

2023年5月12日

☩聖母月の5月、「聖母マリアに平和の賜物を、特にウクライナのために願おう」と教皇

(2023.5.8 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは7日、復活節第5主日の正午の祈りの終わりに、8日に教会の伝統である「ロザリオの聖母への嘆願」をポンペイのロザリオの聖母の聖堂(Pontificio Santuario della Beata Vergine del Santo Rosario di Pompei)で行われる(この聖堂で福者バルトロ・ロンゴが平和を願いロザリオの聖母に祈りを捧げた)と述べられた。

 そして、教会の伝統である5月、「聖母月」にあたり、ロザリオの祈りの中で、聖母マリアに平和の賜物を、とくに苦しみの最中にあるウクライナのために願うように、すべての信徒に求められた。

 さらに、各国の指導者たちが、傷つき苦しみ、平和を求める人々の心からの願いを聞き入れるように願われた。

 教皇の意向を受けて、8日、ポンペイの巡礼聖堂で、イタリア司教協議会会長マッテオ・ズッピ枢機卿によりミサが捧げられた。ミサの説教で、枢機卿は「神の御旨は、平和な世界です。なぜなら、平和がないところに、命はないからです」と話し、皆が兄弟愛を生きることができるように、聖母の助けを祈った。

2023年5月8日

☩「天国は私たちの故郷、迷ったらイエスに従おう」復活節第5主日の正午の祈りで

Pope Francis during his Regina CoeliPope Francis during his Regina Coeli  (ANSA)

(2023.5.7  Vatican News   Francesca Merlo)

 教皇フランシスコは7日、復活節第5主日の正午の祈りで、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、「天国は私たちの故郷。『どこに行けばいいのか』『どのように行ったらばいいのか』と迷ったときには、イエスに従うように」と説かれた。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(14章1‐12節)を取り上げ、「このイエスが亡くなる前の最後の説教で、弟子たちに、これからどのように進むべきか、を教えておられます。この言葉は私たちにも向けられ、『どこに行けばいいのか』『どのように行ったらいいのか』を教えてくださっているのです」と指摘。

 「どこに行けばいいのか」について教皇は、イエスが(「私の行くところに、あなたは今、付いて行くことができない」(13章36節b)と言われるのを聞いて)動揺する弟子たちに対して、「私の父の家には住まいがたくさんある…あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」(14章2節)と言われたことに注目された。

 そして、「この箇所で、イエスは、人間関係と親密さの場所である『家』という親しみのある言葉を使っています」とされ、「『父の家には』と、イエスは友と私たち一人ひとりに話しかけられます-『あなたがたのための部屋があり、あながたは歓迎され、暖かい 抱擁で永遠に迎え入れられるでしょう。そして、私は天国で、あなたがたのための場所を用意しています!』と。この言葉は、慰めと希望の源です」と強調。

 さらに、「私たちは目標を見失ってはなりません。たとえ今日、目標を忘れたり、究極の問いを忘れる危険を冒しても、重要なのは、『私たちはどこに行こうとしているのか?』『どこに向かって歩くのか?』『生きる価値のあるものは何なのか?』を問い続けることです。それなくしては、私たちは人生を”今、現在”に押し込めるだけになってしまいます。私たちの故郷が天国であるのに、です」と説かれた。

 続けて教皇は、「どのようにそこに行ったらいいのか」について、「特に大きな問題に直面し、悪の働きが強い、と感じているとき、私たちは自分自身に『何をすべきか』『どの方向に進むべきか』を自問することがあります」とされた。

 そして、「イエスに、この問いに答えていただきましょう。それは、イエスご自身そのものが、真実のうちに生き、豊かな命を得るための道のたどり方を示しておられるからです。イエスは、たどり方であり、『信じるべき諸々の考えのパッケージ』ではなく、『歩むべき道』、するべき旅、イエスと共に歩む旅、なのです」と強調された。

 説教の最後に教皇は、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、私たちが今生きている「現在」に圧倒されるのではなく、「天を見上げ、目標を思い起し、私たちが「永遠」と、「神との出会い」に召されていることを考えるように」と促され、この目標に到達するためにイエスに従った 聖母マリアに倣うことで、「私たちの希望をしっかりと保つことになります」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*バチカン公式ページより、教皇の説教原稿の英語訳全文は以下の通り

Dear brothers and sisters, buongiorno!

The Gospel of today’s Liturgy (Jn 14:1-12) is taken from Jesus’ last discourse before his death. The disciples’ hearts are troubled, but the Lord speaks reassuring words to them, inviting them not to be afraid, do not be afraid. He is not abandoning them, but is going to prepare a place for them and to guide them towards that destination. The Lord today thus shows us all the wonderful place to go, and, at the same time, tells us how to get there, shows us the way. He tells us where to go and how to get there.

First of all, where to go. Jesus sees the disciples’ distress, he sees their fear of being abandoned, just as it happens to us when we are forced to be separated from someone we care for. And so, he says: “I go to prepare a place for you … that where I am you may be also” (vv. 2-3). Jesus uses the familiar image of home, the place of relationships and intimacy. In the Fathers’ house – he says to his friends, and to each one of us – there is space for you, you are welcome, you will always be received with the warmth of an embrace, and I am in Heaven to prepare a place for you! He prepares for us that embrace with the Father, the place for all eternity.

Brothers and sisters, this Word is a source of consolation, and it is a source of hope for us. Jesus does not separate from us, but has opened the way for us, anticipating our final destination: the encounter with God the Father, in whose heart there is a place for each one of us. So, when we experience fatigue, bewilderment and even failure, let us remember where our life is headed. We must not lose sight of the destination, even if we run the risk of of overlooking it, of forgetting the final questions, the important ones: where I am going? Where I am I walking towards? What is it worth living for? Without these questions, we compress our life into the present, we think we must enjoy it as much as possible and end up living day by day, without purpose, without a goal. Our homeland, instead, is in heaven (cf. Phil 3:20); let us not forget the greatness and the beauty of our destination!

Once we have discovered the target, we too, like the apostle Thomas in today’s Gospel, wonder: how can we get there, what is the way? At times, especially when there are major problems to face and there is the sensation that evil is stronger, we ask ourselves: what should I do, what path should I follow? Let us listen to Jesus’ answer: “I am the way, and the truth, and the life” (Jn 14:6). “I am the way”. Jesus himself is the way to follow to live in truth and to have life in abundance. He is the way and therefore faith in him is not a “package of ideas” in which to believe, but rather a road to be travelled, a journey to undertake, a path with him. It is following Jesus, because he is the way that leads to unfailing happiness. Following Jesus and imitating him, especially with deeds of closeness and mercy towards others. This is the compass for reaching Heaven: loving Jesus, the way, becoming signs of his love on earth.

Brothers and sisters, let us live the present, let us take the present in hand, but let us not be overwhelmed; let us look up, let us look to Heaven, let us remember the goal, let us think that we are called to eternity, to the encounter with God. And, from Heaven to the heart, let us renew today the choice of Jesus, the choice to love him and to walk behind him. May the Virgin Mary, who following Jesus has already arrived at the goal, sustain our hope.

2023年5月7日