☩「主は父が子にするように、私たちを抱き寄せてくださる」教皇の年間第27主日・正午の祈り

Pope Francis during his Sunday AngelusPope Francis during his Sunday Angelus  (Vatican Media)
(2021.10.3 Vatican News  Francesca Merlo)

   教皇フランシスコは3日、年間第27主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(10章2~16節)を考察された。

 この箇所では、ファイサイ派の人々が近寄って来て、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」などと尋ねたのに対して、イエスは「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる」などと答えられる(2~12節)。

 だが、教皇は、それに続く場面ーイエスが触れていただくために、人々が子供を連れて来る場面で、イエスが強く憤慨されたこと(13~14節)に注目。「イエスの憤慨で最も驚くべきことは、それが、離婚の合法性の問題でイエスを試そうとしたファリサイ派の人々に向けられたものではなく、子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちに向けられた、ということです」とされ、「ではどうして、主は、ご自分に論争を挑んできた人々ではなく、子どもたちをご自分から引き離そうとする弟子たちに憤慨されるのでしょう?」と問いかけれられた。

 そして、こう説かれた。「イエスはこの場面で、”小さな者”たち、つまり、他の人の助けが必要だが、それに対して対価を払うことにできない人たちこそ、一番に仕えられるべき存在なのだ、ということを教えようとしておられるのです。神を求める人は、その”小さな者”たち、困窮している人たちの中に、神を見つけるのです」。

 さらに、「主は、このように言われますー『子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』(15節)と。イエスの教えの新しさは、ここにあります」と強調。「弟子たちは、小さな子どもたちに仕えるだけでなく、自分自身を小さな子どもとせねばなりません。自分を『小さい」と知ることは、主を進んで迎え入れるために欠かすことができないのです」と語られた。

 また教皇は「私たちは、自分自身が”小さい”ことを認めることで、”大きく”なる。成功の中よりも、もがき苦しみ、脆くなる中で、私たちは、大きくなるの。その時、私たちが着けていた”仮面”が外れ落ち、脆い本性が表に出てくるのです。それは私たちの”宝”、神と共にある脆さは、傷害ではなく、機会なのです」と説かれた。

 続けて、「実際のところ、神がどれほど気にかけてくださっているか、私たちが知るのは、まさに自分の脆さが表れた時。逆説的ですが、私たちの脆さが明らかにされる状況は、神の愛を体験する絶好の機会です」とされた教皇は、「忍耐強く祈る人は、そのことをよく知っています。暗闇や孤独の時、私たちに対する神の優しさは、そこにある。それは、私たちに平和を与え… 私たちを成長させてくださるのです」と語られた。

 最後に教皇は、「祈りにおいて、主は私たちを抱き寄せてくださいます。父が子にするように。こうして、私たちは偉大な者となるのです」と説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年10月3日

☩「都市にも、家庭にもある”周辺部”へ真の愛を」「世界宣教の日」(10月24日)教皇メッセージ

2021年「世界宣教の日」教皇メッセージ 「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、私たちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません。イエスの弟子たちとの関わり、すなわち、受肉の神秘、福音、復活によって明かされたイエスの人間性からは、神が私たち人間をどれほど愛しておられ、私たちの喜びや苦しみ、望みや不安をご自分のものとされているかが示されます(第二バチカン公会議『現代世界憲章』22参照)。

 キリストにおける何もかもが、私たちの生きる世界とそのあがないの必要性はキリストにとって他人事ではないことを思い起こさせ、また、この宣教活動に積極的に加わるよう呼びかけています。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタイ福音書22章9節)。だれもよそ者ではなく、このあわれみの愛を、自分とは無関係な縁遠いものと思う人はいないのです。

使徒たちの体験

 福音宣教の道のりは、どこにいようとも一人ひとりを呼び出し、友としての対話をしたいと望んでおられる主を(ヨハネ福音書15章12~17節参照)熱心に探し求めることから始まります。それを教えてくれるのは使徒たちです。彼らは、そのかたと出会った日時すら覚えています。「午後四時ごろのことである」(同1章39節)。

 使徒たちは主との友情の中で、主が病人を癒やし、罪人と食事をし、飢えた人に食べ物を与え、排除された人のもとへ行き、汚れているとされた人に触れ、困窮者とご自分を同じくされる姿を見ました。真福八端へと招き、新しい権威に満ちたしかたで教え、消えることのないしるしを残す主を見ることによって、驚きと抑えきれぬ無償のあふれ出る喜びを呼び覚ますことが可能になったのです。

 預言者エレミヤが語っているように、この体験が、私たちの心の中で生きておられる主の燃え上がる炎であり、私たちを宣教へと駆り立てるのです。たとえ、それがわたしたちを犠牲や無理解にさらすことがあってもです(エレミア書20章7~9節参照)。愛は常に動きのあるものであり、もっとも美しく希望に満ちたメッセージを分かち合うべく、私たちを動かすのです。――「私たちはメシアに出会った」(ヨハネ福音書1章41節)。

 イエスによって私たちは、物事は多様でありうることを目にし、聴き、触れてきました。この方は、しばしば忘れられてしまう私たち人間の本質、すなわち「私たちは、愛においてのみ、たどり着くことのできる充満のために造られている」(「回勅『Fratelli tutti(兄弟の皆さん』68項)ことを思い起こさせることによって、今日すでに、先の時代を開いたのです。

 共同体を形作り開始するための推進力を内に秘めた信仰を奮い立たせる新しい時代、それは男女が自身と他者の脆弱さを引き受けることを互いに学び合うことに端を発し、兄弟愛と社会的友愛の中で促進されます(同67項参照)。教会共同体は、主がまず私たちを愛してくださったこと(ヨハネの手紙1・4章19節参照)を感謝をもって思い起こすたびに、そのすばらしさを表します。

 「主の深い愛には衝撃を受けますが、この驚きはその性質上、私たちがどうこうできるものではなく、無理に抱かせることもできません。……無償の奇跡、無償の自己贈与という奇跡は、そうした形でのみ、花開くのです。宣教への熱意も、考えたり計算したりして得られるものでは決してありません。『宣教状態』に身を置くということは、感謝の気持ちの表れなのです」(「教皇庁宣教事業へのメッセージ(2020年5月21日)」)。

 しかしながら、楽な時代はありませんでした。初代教会のキリスト者は、敵意と困難な状況の中で彼らの信仰生活を始めました。隅に追いやられた時代と投獄され内部と外部の対立が絡み合い、これまで自分たちが目にし、聴いたことですらも否定し矛盾しているかのように映る状況でした。しかしそれは、彼らを退かせたり、引きこもらせたりする困難や障害とはならずに、かえって彼らを、障害、反対、困難をことごとく宣教の好機に変えるよう駆り立てたのです。制約や妨害もまた、主の霊によってすべてのものとすべての人に油を注ぐ、恵みの機会となりました。何一つ、だれ一人、この解放の告知に無縁なはずはないのです。

 私たちはこうしたすべてについての生きた証しを収めた使徒言行録を持っており、この書物は宣教する弟子たちが常に大切にしてきたものです。福音の香りがどのようにして広がり、主の霊のみが与えうる喜びを呼び覚ましたかを記した書です。使徒言行録はわたしたちに、キリストを胸に抱くことによって試練を生きることを教えています。それによって、「神はあらゆる状況の中で、失敗と思われる状況でさえもお働きになるという確信」や、「愛ゆえに自らをささげて神にゆだねる人は必ず実を結ぶ(ヨハネ福音書15章5節参照)」(使徒的勧告『福音の喜び』279項)という確信が成熟するのです。

 私たちも同じです。今のこの時代も、たやすくはありません。パンデミックという状況は、すでに多くの人が苦しんでいる、痛み、孤独、貧困、不正義を明らかにして増大させ、また私たちの偽りの安心感、私たちを密かに引き裂く細分化や分極化を露わにしました。もっとも弱くて傷つきやすい人が、なおいっそう脆弱に、壊れやすくなったのです。私たちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪うあきらめの気持ちに、視野が遮られてしまったのです。

 けれども、私たちは、「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(コリントの信徒への手紙2・4章5節)。ですから私たちは、自分の心にこだまし、語りかける命の言葉が、共同体や家庭で鳴り響くのを感じます。「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ福音書24章6節)と。

 希望の言葉は、その言葉に触れるがままでいる人に、あらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります。そして創造性をもった共感を生きるすべての方法や、誰一人道端に捨て置きはしない神が私たちと近しくあられるという―秘跡性―を探し求めます。

 このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。「見たことや聞いたこと」(使徒言行録4章20節)、つまり、わたしたちが受けてきたあわれみが、「時間、努力、財産を割くべき、帰属意識と連帯の共同体」(回勅『Fratelli tutti』36項)を築くべく、皆で抱く情熱を取り戻すための基準点となります。

 主のみ言葉こそが、毎日、私たちをあがない、「どの道変わりはしない、何をしても無駄」というもっとも卑しむべき懐疑主義に閉じこもる言い訳から救い出してくれるのです。「自分には大して利益もないだろうに、どうして己の安全、快適さ、快楽を手放さなくてはならないのか」という問いに対し、いつも答えは同じです。「イエス・キリストは罪と死に打ち勝ち、力に満ちておられるのです。イエス・キリストはまさしく生きておられ」(使徒的書簡『福音の喜び』275)、私たちにも生きてほしい、友愛をもって、この希望を抱き、分かち合えるようでいてほしいと願っておられるのです。現在の状況で早急に求められているのは、希望の宣教者です。自分一人で救われる人は誰もいないことを預言的に気づかせてくれる、主に油注がれた者です。

 使徒や初代教会のキリスト者のように、私たちも声を限りに語ります。「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)。私たちが受けたものすべて、主が私たちに与えてくださったものすべては、私たちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

 イエスの救いを見て、聴いて、体験した使徒たちのように(ヨハネの手紙1・1章1~4節参照)、今日の私たちもまた、日々の歩みの中で、苦しみと栄光を受けたキリストの肉に触れることができ、すべての人とともに、希望の未来を共有するようにとの励ましを得られるのです。これは、主はいつもわたしたちに寄り添ってくださっているとの認識から生まれる、疑いのないしるしです。私たちキリスト者は、主を自分のもとに留め置くことを許されていません。福音化という教会の宣教は、世界の変革と被造物の保護における、自らの全面的かつ公的な意義を表しています。

私たち一人ひとりへの招き

 今年の世界宣教の日のテーマ、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)は、「任を引き受け」、心に抱く思いを伝えるようにという、私たち一人ひとりへの招きです。この宣教が常に教会のアイデンティティであり、これまでもずっとそうでした。「教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」(聖パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』14項)。

 孤立状態になったり、少数グループに引きこもってしまうと、私たちの信仰生活は弱まり、預言する力や、驚嘆し感謝する能力を失います。信仰生活には、その独自のダイナミズムゆえに、すべての人に到達し、すべての人を抱きしめることのできる、開放性の高まりが必要です。初代教会の信者たちは、閉鎖的なエリート集団を形成する誘惑に屈することはありませんでした。

 主に見聴きしたこと、すなわち「神の国は近づいた」ということを、人々の中に分け入って証しするという、主から与えられた新しい生き方に魅了されたのです。彼らは、自身の努力と献身による実りを他者が食することになると知りつつ種を蒔く人のように、惜しまず、感謝しつつ、誇り高く、そうしたのです。だからこそ、私はこう考えたいのです。「どれだけ弱い人でも、障害者も、傷を負っている人も、それぞれのかたちで宣教者となるはずです。そこにたくさんのもろさが共存していたとしても、よいものを伝えるということをいつも可能にしていなければなりません」(使徒的勧告『キリストは生きている』239項)。

 毎年、10月の最後から2番目の日曜日に祝われる世界宣教の日に私たちは、福音の寛大で喜びに満ちた使徒になるという洗礼がもたらす義務を一新すること、その人生の証しをもって励ましてくれるすべての人を、感謝のうちに思い起こします。なかでも、多くのいのちが恵みに渇いている村や都市の隅々に、遅滞なく、恐れを感じることなく福音が届けられるようにと、故郷を出て家族から離れて出発した人々を思い起こします。

 宣教者としての彼らの証しを見つめることで、勇気ある者となるよう、そして、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に」(ルカ福音書10章2節)粘り強く願うよう励まされます。宣教への召命は過去のものでもなければ、別の時代の感傷的な思い出でもないと自覚しているからです。今日イエスは、世界の”周縁部”へと出向かせ、慈しみの使者、憐れみの道具とする、真の愛の物語として自らの召命を生きようとする心を必要としています。

 そしてこれこそが、方法は異なっても、主が私たち全員に向けて行っている呼びかけです。”周縁部”は、私たちの近くに、都市のただ中に、家庭の中にもあることを忘れてはなりません。愛が普遍的に開かれていくことには、地理的ではなく実存的な面もあります。いつであっても、しかし、とりわけこのパンデミックの時代には、身近にいてもおよそ「自分が関心ある世界」の人だという気がしない人のもとに行き、自分の仲間の輪を広げようとする、日常的に働く力を高めることが必要です(回勅『Fratelli tutti』97項参照)。

 宣教を生きるということは、キリスト・イエスと同じ感覚をもつ覚悟をすることであり、主によって、そばにいる人は誰であれ自分の兄弟姉妹である、と信じることです。主の憐みの愛が私たちの心をも目覚めさせ、私たち皆を宣教する弟子にしてくださいますように。

 最初の宣教する弟子、マリアが、洗礼を受けたすべての人の内にある、地の塩、世の光(マタイ5・13―14参照)となりたい、という望みを、強めてくださいますように。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年1月6日 主の公現の祭日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)(「カトリック・あい」編集=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めてあります)

2021年10月2日

☩「常に共にある旅」ー教皇フランシスコと第二バチカン公会議の未完の業績(LaCroix)

(2021.9.29 La Croix  By Pope Francis )

 次のエッセイは、マイケル・チェルニー枢機卿、クリスチャン・バローネ神父の共著「Fraternità—segno dei tempi: il magistero sociale di Papa Francesco(英語名Siblings All、Sign of the Times:The Social Teaching of Pope Francis=兄弟姉妹皆ー時のしるし:教皇フランシスコの社会教説)」 に教皇フランシスコが寄せた序文から採った。イタリア語版は9月30日にLibreria Editrice Vaticanaから出版、英語版は2022年にOrbisBooksから出版される予定。

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 福音の核心は、イエスご自身、エマヌエルー神は私たちと共におられるーの名において、神の統治を宣言することにあります。イエスにおいて、神は人類への愛の計画を実現させ、生ける物に対する主権を確立し、人類の歴史に神の命の種を蒔き、内側から変容させるのです。

*神の統治は、生き、躍動する現実

 神の統治は、何らかの地上的または政治的なものと同一視されたり、混同されたりしてはなりません。また、それは純粋に内的現実、単に個人的で精神的なもの、または来るべき世界だけに関係する約束として考えるべきではありません。キリスト教の信仰は、イエズス会士の神学者アンリ・ドゥ・リュバックにとって非常に大切な言葉、魅力的で説得力のある「パラドックス」によって生きています。

 それは、永遠に私たちの肉と結びついたイエスが今、ここで成し遂げていることであり、私たちを父なる神に開放し、私たちの生活に継続的な解放をもたらします。イエスにおいて神の統治はすでにそばにある(マルコ福音書1章12~15節)からです。

 同時に、私たちがこの肉体に存在する限り、神の統治は、約束であり、私たちが内に抱く深い憧れであり、悪によって傷つけられている、完全に解放される日まで苦しみ、うめく被造物が叫び求めるもの(ローマの信徒への手紙8章19–24節)。

 したがって、イエスによって明らかにされた神の統治は、生き、躍動する現実。私たちを回心へと誘い、私たちの信仰が、個々の信心の停止状態、あるいは形式主義から抜け出るように求めます。私たちの信仰が、主と主の言葉を絶え間なく探求し続けるように望みます。

 神の統治は、さまざまな方法で、しばしば名を明らかにせずに沈黙し、私たちの失敗し傷を負った歴史の中でさえも、私たちの心の中で、周りで起きいる出来事の中で、実現しているのです。土の中に隠れた小さな種のように(マタイ福音書13章31~32節参照)、生地に混ぜられたパン種のように(同33節)、イエスは、私たちの人生の物語にご自身が始めた新しい人生のしるしをもたらし、救いの業に、ご自身と共に働くようにお求めになります。

 

*神は平和のための兄弟姉妹愛の構築者となれ、と呼びかけている

 私たち一人一人は、地上における神の統治の働きの実現に貢献し、救いと解放の空間を開き、希望の種を蒔き、兄弟姉妹の福音の精神でエゴイズムの致命的な論理に挑戦し、優しさに専念し、私たちの隣人、特に最も貧しい人たちのための連帯します。

 私たちは、キリスト教信仰のこの社会的側面を決して、ないがしろにしてはなりません。 回勅「Evangelii gaudium(福音の喜び)」で述べたように、ケリュグマ(最初の福音の告知)あるいはキリスト教信仰の宣言自体そのものに社会的側面があります。それは、至福の教えと連帯の友愛の世界の論理が勝利する社会を構築するように、私たちに勧めます。イエスの中で兄弟姉愛の構築者となるよう、呼びかけておられます。

 福音は神の国についてのもの(ルカ福音書4章43節)。私たちの世界でを統治される神を愛することについてのもの。神が私たちの内で統治されている限り、社会の生活は普遍的な友愛、正義、平和、そして尊厳の舞台となるでしょう。したがって、キリスト教徒の福音宣教と生きざまが、共に社会に影響を与えることを意図しています(Evangelii gaudium 180項)。

 この意味で、私たちの母なる地球を気遣い、Fratelli tutti(兄弟皆)あるいは兄弟姉妹として、連帯の社会を築くことはすべて、私たちの信仰にとって、無縁でないだけでなく、その具体的な実現です。イエスは私たちに、この救いの任務において共に働くように求められます。そして、これが、教会の社会教説の基礎なのです。キリスト教の信仰の単なる社会的拡張ではなく、神学的根拠のある現実です。神の人類への愛と、愛の計画ー兄弟愛、姉妹愛の計画は、聖霊によって神を信じる全ての人が親密に結ばれる御子イエス・キリストを通して人類の歴史の中で成し遂げられます。

 

*著作は回勅「Fratelli tutti」への案内書、社会教説と第二バチカン公会議の教えをつなぐもの

 この本の著者であるマイケル・チェルニー枢機卿とクリスチャン・バローネ神父に対して、信仰の兄弟、兄弟姉妹の主題に関する貢献に感謝します。また、この著作が回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」への案内書として意図されている一方で、現在の教会の社会教説と第二バチカン公会議の教えとの間の深いつながりを明らかにし、明確にするように努力されたことにも感謝します。このつながりは、信徒の間で常に理解されているわけではありません。

 その理由を説明しましょう。私が、若いイエズス会の神学生として、さらに宣教師としての活動に没頭したラテンアメリカの教会の風土は、第二バチカン公会議の神学的、教会的、そして霊的な直観的真理を懸命に吸収し、我がものとし、実行し、育てました。

 現地のイエズス会の仲間のうちで最年少だった私にとって、第二バチカン公会議は信仰、話し、行動する指針となりました。たちまちのうちに、私たちの教会的、司牧的な“生態系”となったのです。しかし、私たちは、この公会議が決めた憲章などの文書を暗唱する習慣をつけたり、思索にふけったりはしませんでした。

*第二バチカン公会議の意味を改めて明確にする必要

 第二バチカン公会議によって、私たちは素直にキリスト教徒である道、”教会である”道を歩み始め、人生を歩むにつれて、私の直感、認識、そして霊性は、公会議の教えから出された様々な示唆から生まれて行きました。公会議の諸文書を引用する必要はそれほどありませんでした。

 そしてこの公会議から何十年も経った今、世界そして教会にいる私たちは(注:公会議が開かれた当時と比べて)大きく変わったことに気づいています。そして、公会議の主要な概念、その神学的、司牧的視野、その主要なテーマ、そしてその方法を改めて明確にする必要があるでしょう。このことを、マイケル枢機卿とクリスチャン神父は、この価値ある著作の第一部で私たちを助けてくれます。

 お二人は、私が実行しようとしている社会教説を読み、解釈し、行間に少しばかり隠されたものーつまり、根本的な基礎としての公会議の教え、そして、兄弟愛、姉妹愛という究極の目標をもった教会と全世界に対する私の招きの出発点ーに光を当てておられます。

 それは、第二バチカン公会議が光を当てたいくつもの時のしるしの一つであり、そして私たちの世界ー私たちが兄弟姉妹として生きるように招かれている「共通の家」ーが最も必要としているものです。それが、私たちがいかにして、常に旅するべきかということーいつも共にいること、なのです。

*現代世界憲章を越えて、今や教会自体が人類に奉仕すべき時

 これに関連して、この著作には、今日の世界で、世界と対話する開かれた教会を目指した公会議の”直感”を読み直すメリットもあります。現代世界の疑問と課題に直面して、第二バチカン公会議は、「Gaudium et spes(現代世界憲章)」の息吹で応えようとしました。

 しかし今日、私たちが公会議に参加した教父たちによって示された道をたどる時、教会が現代の世界と対話するだけでなく、何よりも、教会自体が人類に奉仕する必要がある、と私たちは気づきます。 ですが、何よりも、教会が人類に奉仕するために、告知とともに創造を大事にし、新たな普遍的な姉妹愛と兄弟愛を実現するために働き、その中で、人間関係がエゴイズムと暴力から癒され、相互の愛、歓迎、連帯に基礎を置くことに、気づくのです。これが今日の世界ー特に不均衡、傷害、不公正で強く特徴づけられている現代社会ーであるとすれば、私たちが認識するのは、公会議の精神において、人類の歴史のしるしを読み、聴くように求めている、ということです。

*研究、考察、そして教会の経験がどのように結びつけるか

 この著作はまた、公会議後の神学の方法論ー人類の歴史が神の啓示の場である歴史的、神学的、司牧的な方法論ーについての考察を私たちに提供することで貢献します。この考察を通して神学の(現代社会への)適応を発展させ、教会的、社会的な応用で、司牧的な聖職が、神学を受肉化することになるのです。これが、教皇の教えが、常に歴史に注意を払うことを必要とし、神学の貢献を求める理由なのです。

 最後に申し上げたいのは、枢機卿と若い神学者のこの共同作業は、それ自体が「研究、考察、そして教会の経験がどのように結びつけるか」の典型例であり、新たな方法を示しています。教会の役職者の声と若者の声が共になる形で。それが私たちがいかにー教導権、神学、司牧的応用、高位聖職者による指導が一体となって―常なる旅をするべきか、を示します。

 私たちも、教会ですべて兄弟姉妹ーfratelli tutti(皆、兄弟)であると感じ、福音ー神の統治の構築、そして私たちの「共通の家」へのいたわりーへの奉仕として、敬意をはらわれるような聖職を生きることを始めるなら、私たちの絆はもっと信頼に足るものとなるでしょう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

 

2021年10月1日

☩「あなた方は今日と未来を構築する当事者だ」若者たちの環境会議へメッセージ

教皇フランシスコ、若者たちによる環境会議「Youth 4 Climate」にメッセージ教皇フランシスコ、若者たちによる環境会議「Youth 4 Climate」にメッセージ 

(2021.9.29 バチカン放送)

  教皇フランシスコが29日、ミラノで開催中の若者たちによる環境会議「Youth 4 Climate」にビデオメッセージをおくられた。

  「Youth 4 Climate」は、今年11月に英国・グラスゴーで開催予定の国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)と、そのための準備サミット「プレCOP」(イタリア・ミラノ、9月30日~10月2日)を前に、9月28日から30日まで開かれている。

 教皇は29日、「Youth 4 Climate」の中で開かれた「持続可能な教育の推進」をテーマにしたセミナーを機会に、参加者たちにビデオメッセージをおくられ、環境と人間の問題に大きな関心を寄せる若者たちに感謝を表明。「行動的であるだけでなく、建設的対話と相互理解に開かれた皆さん若者たちの力は、大人たちの世界を驚かせるもの」と話された。

 そして、「兄弟愛に満ちた人類を目指し、分断された人間関係を再構築できる堅固で成熟した世代を育成するためには、教育上の広い協定を通し、皆の力を一致させることが大切」とされ、「『若者たちは未来だ』と言われますが、こうした問題において、若者たちはまさに、今日と未来を構築する当事者なのです」と強調。このような視点から、「一人ひとりの責任を育て、持続可能な発展に基づいた文化の推進に貢献できるような教育プロセスが必要」を説かれた。

 さらに、教皇は「エネルギー不足の克服、共通資源の管理を中心に据えた政策、持続可能な生産、循環型経済を促進し、いたわりの文化、責任を分かち合う文化を可能にするために、今こそ賢明な決断を下す時です」と若者たちに訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月30日

◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑨「義化」は恵み、慈しみの業に生かす義務が私たちに

 (2021.9.29 Vatican News By Christopher Wells)

 教皇フランシスコは29日の水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした連続講話を再開され、パウロが取り上げている「難解だが重要」な「義化」について考察された。

 「聖パウロは、『義認』はキリストへの信仰によってもたらされる、という事実を主張しています」とされた教皇は、「『義化』を完全に定義するのは容易ではありませんが、『カトリック教会のカテキズム』の助けを借りて、『義化は、ご自分の方から進んで赦しをお与えになる神の憐みの結果』と言うことができるでしょう」と語られた。

*神と私たち人間の関係を回復する「義化」

 そして、「私たち罪人は、イエスの死を通して神から赦しと救いを与えられ、神に歓迎され、神と和解するのです。神が私たちに自由に与えられた『義化』は、罪と不従順によって傷つけられた創造主と、その被造物である私たち人間の関係を、回復します」と言明。

 さらに教皇は、「私たちがどのようにして『義化』されるかという問題に対しては、聖パウロの教えに別の目新しさを発見することによってのみ答えることができます。『義化』は恵みによってもたらされる」とされ、「聖パウロは、自身の罪深さとダマスカスへの道での回心を常に意識し、『神の恵みだけが自分を救った』ことを発見したのです」と指摘された。

 

*その恵みの力を、実際の慈しみの業に結び付ける

 また、「この恵みには、キリストへの信仰が含まれる。それは、聖パウロにとって、キリスト教徒としての人生の側面に影響を与える包括的な価値を持っています。 『信仰による義化』は、神の恵みの優先順位を強調するもの」とされたうえで、聖パウロが書いているように「私たちは恵みによって救われていますが、それでもなお、掟を守る義務があります(聖パウロのローマの信徒への手紙7章12節参照)。 しかし、ここでも私たちは自分の努力を当てにすることはできません」と語られた。

 教皇は、「聖パウロの教えは、『行いのない信仰は死んだものです』(ヤコブの手紙2章26節)と書いた聖ヤコブの教えによって補完されている。この2人の使徒は、私たちに、信仰への応えとして、神への愛と救いにために活発に働くことを求めているのです」と強調。

 最後に、「信仰の光は、神の慈悲がどれほど無限であるかを認識することを可能にしますが、同時に、神の慈悲の働きにおいてご自身と協力することを、私たちに委ねられた責任を、私たちに認識させます。私たちは、神の愛がどれほど大きなものであるかを証しするために生きるように召されています。ですから、神から受けた恵みの力は、私たちの慈しみの業と結びつく必要があるのです」と講話を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月29日

☩「起き上がれ、そして生活の中でイエスの証人となれ」教皇の世界青年の日へのメッセージ

(2021.9.27 Vatican News By Devin Watkins)

 教皇フランシスコが27日、今年11月21日の「Diocesan World Youth Day(教区の世界青年の日)」に向けたメッセージを発表され、「聖パウロの足跡をたどり、勇気を持ってイエス・キリストを証しするように」と呼びかけられた。

 第36回となる世界青年の日は、2023年にポルトガルのリスボンで予定される世界大会を視野に入れる形で、世界中の教区で祝われることになっている。

 教皇は、メッセージのタイトルを「起き上がれ…あなたが見たものの証人となることを、あなたに命じる」(使徒言行録26:章16節参照)とされ、本文で、特に新型コロナウイルスの世界的大感染によって深刻な挫折と困難を経験する中で、若者たちが世界で果たさなければならない重要な役割があることを強調された。

 そして、多くの若者が、家庭の問題、失業、鬱病、孤独、そして薬物中毒などを経験しているが、「新型コロナ大感染の経験は、『連帯』を進めようという美徳も明らかにています」とされ、「若者たちが倒れるときには、ある意味で人類すべてが倒れてしまう。しかし、若者たちが起き上がれば、まるで全世界も立ち上がるように見えるのも、事実です。ですから、皆さんは『起き上がって』、その情熱と熱意で世界が新たに始まるのを助けるようにしてください」と若者たちを励まされた。

*「実名」でのイエスとの出会いが人生を変える

 さらに、教皇は、今回のテーマが取られた使徒言行録26章について考察されたー聖パウロがアグリッパ王の前で弁明する中で、自分の回心の経験を物語を語っている。回心を経験した当時、パウロはキリスト教徒迫害の先頭に立っていたが、ダマスコに向かう途中で、明るく輝く光に打たれ、イエスが「サウル、サウル」と自分の名を呼んで話しかけるのを聞いた(12‐14節)。

 「パウロが経験したように、キリストとの匿名ではなく、実名での出会いだけが人生を変える…この恵み、この不相応な、無条件の愛は、サウルの人生を根本的に変える光となります」と教皇は説かれた。

*教会、兄弟姉妹を知らずにイエスを知ることはできない

 呼び掛けを聞いた聖パウロは「主よ、あなたはどなたですか」(15節前半)と尋ねるが、「これは、私たちも遅かれ早かれ、しなければならなくなる問いかけ」であり、祈りとはいったい何なのかーイエス・キリストとの個人的な対話、関係を結ぶことにつながる問いかけだ、とされた。

 パウロの問いかけに対して、イエスは「あなたが迫害しているイエスである」(15節後半)と答る。教皇は「パウロは自分がキリスト教徒を迫害する立場にあると確信していましたが、イエスは、彼に、自分が教会と一つの体であることを悟らせます」とし、「教会を知らなければ、イエスを知ることはできません。そして、イエスの共同体の兄弟姉妹を別にして、イエスを知ることはできません。信仰の教会的側面を経験しない限り、私たちは自分を完全なキリスト教徒だ、と言うことはできないのです」と語られた。

 

*ソーシャル・メディアにのめり込み本来の自分を忘れてはならない

 また、教皇は、「イエスは、サウルを選ぶことで、神の目には誰も失われない、すべての人が、そのことをよく考えるなら、神の愛の火が心の中で燃えているのを感じることができるのだ、ということを、私たちに教えておらます」とされた。

 パウロはイエスと出会った時、天からの強い光を受けて、地面に倒れ、一時的に目が見えなくなる。「それは、主が彼のこれまでの行為の誤りを明らかにし、本来の姿に戻るよう彼を謙虚にしたからです。そして、彼は、回心のしるしとして、『サウル』という名を”小さい者”を意味する『パウロ』に変えました」と語られた。

 これと関連して、教皇は、「現実離れした自分のイメージ」を描こうとソーシャルメディアに多くの時間を費やしている現代の若者の実態を取り上げ、「真昼の太陽であるキリストは、私たちを啓発し、私たちに自分の真の姿を取り戻させ、すべての”仮面”から解放するために、来られます。キリストは私たちが誰であるかをはっきりと示しています。まさに彼が私たちを愛するなさり方だからです」と強調された。

*パウロが「迫害者」から「偉大な証人」に変わったように、あなたがたも

 主との出会いの後、パウロはダマスコに導かれ、そこで祈りと沈黙の時を過ごし、イエスとの新たな関係を深める(19‐20節参照)。

 教皇は、若い信徒たちに、パウロの模範に従うように促し、「パウロは、その若々しい情熱と力を『地球の果てまでの福音を伝える先駆者』としての熱意に変えました。主が彼に信頼を置き、パウロは『諸国民の使徒』として知られるようになりました。神の思いが、最悪の迫害者を偉大な証人に変えるたのです」とされ、「あなた方も、”立ち上がって”、イエス本人と、私たちの壊れた心を癒すイエスの力、を証しする使命を受け入れるように。主、教会、教皇は、あなたがたを信頼し、現代の『ダマスカスへの道』で出会う若者たちすべての前で証しするように求めます」と呼びかけられた。

*皆、起き上がれ!そしてキリストを証ししよう!

 メッセージの最後を、教皇は、今年11月の世界の教区での「世界青年の日」に備える若い信徒たちに送る以下の言葉で締めくくられた。

-起き上がれ!落ち込んだり、何かにはまり込まないように。使命があなたを待っています!あなたも、自分の人生でイエスがなさろうとしていることを証しすることができるのです。イエスの名において、私はあなたがたに願います。

-起き上がれ!あなた自身が、光に出会い、目が見えなくなった経験を証ししてください。自分自身、他の人、そしてすべての孤独が克服される教会の交わりの中で、神の善と美を見てきとことを。

-起き上がれ!愛と尊敬を証し、人間関係、家庭生活、親と子の対話、若者と高齢者の対話にそれを反映できるようにしてください。

-起き上がれ!社会的正義、真実と誠実、人権を鼓舞してください。迫害された貧しい人々や弱い立場にある人々、声を上げることのできない人々、移民たちを守ってください。

-起き上がれ!驚きに満ちた目で創造物を見、地球を私たちの「共通の家」とし、地球環境全体の保護を進める勇気を与える新しい見方、を証ししてください。

-起き上がれ!証ししてください。人生に失敗しても作り直せることを、霊的に死んでも、また新たに立ち上がれることを、束縛されている人が再び自由になれることを、悲しみに打ちひしがれた心が再び希望を見出せることを。

-起き上がれ!キリストが生きておられることを喜んで証ししてください!キリストの愛と救いのメッセージを、あなたの周りに、学校、大学、職場、デジタルの世界、あらゆる場所に広めましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月28日

☩「弱い人々の隣に身を置き、誰も排除しない世界を作ろう」教皇、「世界難民・移民の日」に

(2021.9.26 バチカン広報)

 教皇フランシスコは26日の正午の祈りで、この日が、カトリック教会の「世界難民・移民の日」に当たることを念頭に、次のように語られた。

 私たちは、移民、難民、避難民、人身売買の犠牲者、そして見捨てられた人々など、最も脆弱な人々の隣に身を置き、偏見や恐れを抱くことなく、共に歩む必要があります。私たちは、誰も排除しない、いっそう包摂的な世界を構築するよう求められています。

 私はこの日を祝っている世界のさまざまな地域のすべての人々と共ににいます。私は、移民と難民を支持するイタリアの司教会議が主導権を発揮するために、ロレートに集まった信徒の方々に挨拶を送ります。私はここの広場に旗を掲げて参加されたさまざまな民族コミュニティに挨拶し、感謝します。イタリアのカリタスの「APRI」プロジェクトの代表者に挨拶します。ローマ司教区の移民局とセントロアスタッリも同様です。寛大なご尽力に感謝します!

 そして、広場を出る前に、チェルニー枢機卿がいるその記念碑に近づき、移民のいるボートに近づき、それらの人々の視線にとどまり、すべての移民が今日持っている希望をその視線で把握することをお勧めします。再び生き始めるために。そこに行って、その記念碑を見てください。私たちは彼らの希望への扉を閉ざしません。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年9月26日

☩「キリスト教徒の交わりの場は、分け隔てなく、受け入れることで作られる」年間第26主日正午の祈り

File photo of Pope Francis at the AngelusFile photo of Pope Francis at the Angelus  (Vatican Media)

 

*教会においても”閉鎖””偏見”に注意を

 そのうえで、教皇は、現代の教会においても、これと同じような閉鎖的姿勢、偏見に陥らないように警戒するよう、促された。

 「悪魔は、他者をより分け、排除するために疑惑を引き起こそうとする”分割者”です。彼は狡猾に人々を誘惑し、弟子たちと同じように、悪魔を追い出した人たちさえも排除するところまで行かせようとするのです」と語られた教皇は、教会にも、「謙虚で開かれた共同体」ではなく、「自分自身を他者よりも大切に考え、他者を追い払うという罠に陥る可能性がある、と警告。「皆と共に歩く代わりに、他者を判定し除外するための”信徒免許”を持ち歩く」ことを嘆かれた。

 

*イエスは、私たちが何を切り落とすのを願っておられるか

 さらに、教皇は信徒たちに、”巣ごもり”のメンタリティ、”判定”と”仕分け”への誘惑に打ち勝つために、神の恵みを求めるように勧められた。そして、”巣ごもり”の姿勢は、「キリスト教共同体を”交わり”ではなく”分離”の場に変えてしまうことになりかねません。聖霊は”閉鎖”を望まない。誰に対してもオープンで、喜んで受け入れる場を望んでおられるのです」と説かれた。

 また、今日の福音で、イエスは「すべての人を裁いてはならない。自分自身に気をつけなさい」と勧めておられる、とされ、「イエスはこの箇所で、罪を絶つという呼びかけの本質を説明するために、体の部分を切り落とすという印象的な例え(42‐48節)を語られます。イエスの要求は、たしかに、過激で厳しいですが、私たち自身のために、よき医者のように話されている。つまずかせるもの全てを切り捨てることは、私たちがより良く成長し、愛の実を結ぶことができるようにするためなのです」と強調。

 最後に、教皇は私たちの生活をより良くするための招きで、説教を締めくくられた。「最後に質問です。私の心の中で福音に反するものは何ですか?イエスは私の何を切り取るように願っておられますか?」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年9月26日

☩「必要なのは『過去の修復』ではなく、未来を共に見つめ、信仰を再構築することだ」欧州司教協議会理事会創立50周年ミサで

教皇フランシスコ、ヨーロッパ司教協議会理事会総会の開会ミサで 2021年9月23日 バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、ヨーロッパ司教協議会理事会総会の開会ミサで 2021年9月23日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

(2021.9.24 バチカン放送)

 教皇フランシスコは23日夕、創立50周年を迎えた欧州司教協議会理事会の総会の開会ミサを、バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられ、各国の司教協議会から代表の司教たちが参加した。

 ミサの説教で教皇は、欧州の司牧者のすべき行為として、「心に留める」「再構築する」「見る」という3つの動詞を示された。

 教皇はまず、このミサの第一朗読のハガイ書の箇所ー「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ… 今。お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」ーを引用。

 「バビロン捕囚から帰還した人々が自分たちの住居のことで心配し、神殿の再建を考えなかったように、今日の欧州のキリスト者たちが、『自分の家や教会や、伝統の与える安心感、ある種の合意における満足感など、心地よいシステム』に留まろうとする誘惑にかられる中で、『神殿』の周りから人はいなくなり、イエスは忘れられかねない状態にあります」と警告された。

 「食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく[…]」とハガイ書にあるが、「主が、預言者ハガイを通して『心に留めるように』と、ユダヤの人々に呼びかけるように、『今日の教会に何が欠けているのか』を考えねばなりません」とされたうえで、「私たちの不満の原因は『慈愛の欠如』にあります… 愛だけが心を満足させることができるのです」と強調。

 「教会内の地位や議論、計画にとらわれている間に、私たちは、慈愛の業を深めることや、無償性への情熱といった、『福音』の真のプログラムを見失ってしまいます… 問題や閉鎖から抜け出す道は『無償で与える道』です」と説かれた。

 また、ハガイ書では、「主は、神殿を建てよーご自身の家を再建するように、と、預言者ハガイを通して言われた」とあり、民は神殿を建て直した。教皇は、「欧州という『共通の家』を建て直すには、創建の父たちの先見的な、未来を見つめた視点に立ち帰ることが必要です」されるとともに、「神の家である教会を、より美しく受容的にするために必要なことは、過去を修復することでなく、未来を共に見つめ、福音の告知・寄り添い・証しという基礎の上に教会を再建していくことなのです」と訴えられた。

 そして、「イスラエルの人々が自らの手で神殿を再建したように、欧州でも多くの聖人たちが、自分の小ささを自覚しつつ、神に信頼し、恵みを受け入れ、自分の生活を変えることから始めて、困難な時代の中に信仰を再構築していきました」と振り返られ、「今の欧州では、多くの人が『信仰は、すでに見たもの、過去のもの』と考えていますが、それは彼らが、自分の人生の中で働く『イエスの存在』を見ることができなかった、あるいは、私たちが『自分の生き方を通して、イエスを十分に証しできなかった』からなのです」と自省を込めて話された。

 最後に教皇は、「慈しみ深い、驚くほどの神の愛こそ、福音の永遠の新しさ。言葉だけではなく、生き方を通し、祈りや清貧さや創造性をもって、疲労した欧州を助けて行きましょう」と司教たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年9月25日

☩「過去への郷愁の行き過ぎは、教会を逆行させる」教皇、スロバキアのイエズス会士との面談で(Crux)

(2021.9.21 Crux Senior Correspondent  Elise Ann Allen

 

  *「旧ラテン・ミサ典礼への執着は、過去への逆行」

  *「決定し前進する時は、忍耐、祈り、そして思いやりが必要」

(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン、南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2021年9月24日