【聖木曜日】☩「赦しを倦むことなく求める恵みを、主に願うように」ローマ市内の刑務所で主の晩餐・夕べのミサ

(2024.3.28 バチカン放送)

 28日の「聖木曜日」午後、教皇フランシスコは、ローマ郊外のレビッビア刑務所の女子部で「主の晩餐の夕べのミサ」を捧げられた。教皇の同刑務所でのミサは、2015年の聖木曜日に続き、今回で2度目。刑のレベルが中程度の人々の施設、マフィアなどの組織犯罪に関連する人々の施設、病棟など、いくつかのセクションに分けられており、ミサには、約300人の受刑者のうち、病気や高齢などで参加が困難な人を除いて、約200人が参列した。

 カトリック教会の典礼は一年間の頂点であり、主の受難と死と復活を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」に入った。この三日間は、復活祭を目前にした「聖週間」中の木曜日、「聖木曜日」午後の「主の晩さんの夕べのミサ」から、「復活の主日」の「晩の祈り」までを指し、 その始まりとなる「主の晩さんのミサ」は、受難が近づく中、イエス・キリストが弟子たちと共にした最後の晩さんで、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定されたことを思い起こす。ミサの中で、イエスが最後の晩さんの前に、自ら弟子たちの足を洗われ、愛と奉仕の模範を示されたことに倣い、「洗足式」が行われる。

 教皇ミサは、刑務所女子部の運動場を会場とし、テント内に祭壇が設けられた。刑務官や奉仕ボランティアや修道女たちの協力で会場の飾り付けや、ミサの式次第の冊子の配布、椅子を並べる作業などが行われ、受刑者らが参加するコーラスがミサをいっそう豊かなものとした。

 ミサの説教で教皇は、「イエスは、最後の晩さんで弟子たちの足を洗われましたが、この謙遜な行為を通して、『私は仕えさせるためではなく、仕えるために来た」というご自分の言葉を、私たちに理解させ、奉仕の道を示されたのです」と説かれた。

 さらに、ユダの裏切りに触れ、「ユダは愛し続けることができず、お金やエゴイズムが裏切りに導くことになりました」とされ、「イエスは常にすべてを赦されるが、イエスが私たちに唯一、望まれるのは、私たちが赦しを願うこと」と強調。「イエスは赦すことに倦むことはありませんが、自分は赦しを乞うことに疲れてしまいます」と嘆いたある高齢の女性の言葉を思い起こしながら、「赦しを倦むことなく求める恵みを、主に願うように」と受刑者らを促された。

 続いて行われた洗足式では、教皇は国籍・宗教の異なる12人の受刑者の足を洗われた。

 ミサ後、教皇と受刑者たちとの出会いがもたれ、同刑務所のナディア・フォンターナ所長は、挨拶の中で、「今日の教皇の訪問は陽の光のように一人ひとりの心を温めてくださいました」と語った。受刑者たちから、刑務所内の菜園で作った野菜や、手作りのロザリオ、ストラなどが教皇に贈られ、教皇からは、聖母子画や、復活祭のお菓子である卵形のチョコレートなどが贈られた。

 続いて教皇は、病舎の受刑者たちを訪ね、励ましと祝福を与えられ、責任者が語る刑務所内での様々な困難、成長や希望などについて耳を傾けられた後、教皇はバチカンに戻られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年3月29日