【聖木曜日】「私たち司祭の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか」聖香油のミサで

(2024.3.28 バチカン放送)

  28日、「聖木曜日」午前中の伝統の儀式「聖香油のミサ」が聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコとローマ教区の司祭たちによって捧げられた。

  復活祭を直前に控えた一週間、「聖週間」の木曜日の午前中に、世界の教区の司教座聖堂で、司教と司祭の共同司式による「聖香油のミサ」が捧げられることになっており、その中で行われる「司祭叙階時の約束の更新」と「聖油の祝別」を特徴としている。

 28日朝、バチカンの聖ペトロ大聖堂の中央祭壇を囲み、ローマ司教である教皇と共に1500人の司祭たちが共同でミサを司式。前半の「ことばの典礼」は教皇が、後半の「感謝の典礼」はローマ教区の教皇代理司教アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿が主司式者となった。

 教皇はミサ中の説教で、朗読されたルカ福音書の、イエスが故郷ナザレの会堂で朗読・説教する場面(4章16-21節)を取り上げ、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(同4章20節)ことに注目。沈黙のうちにイエスに向けられる、驚きといぶかしさの入り混じった人々の眼差しを思い起こされた。

 一方で、最後の晩餐の席で、「あなたは… 三度、私のことを知らないと言うだろう」(マルコ福音書14章30節)とペトロの離反を見抜くイエスの眼差し、またイエスが逮捕されてから「私はあの人を知らない」と三度否定するペトロを振り向いて見つめるイエスの眼差しも観想された。

 (イエスのその眼差しを見たペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いた= ルカ福音書22章61-62節)。

 教皇は、「ペトロの癒し、使徒の癒しは、彼らが傷つき、後悔し、イエスに赦していただいた時に、苦い涙と悲しみを通してもたらされ、その涙は、彼らに愛を再び見出させるものとなる」とされ、さらに、「私たちの内的な再生は、自分たちの惨めさと、主の慈しみが出会った場所から、私たちの精神の貧しさに対し、聖霊がそれを豊かにしてくださるところから生まれるのです… 私たち司祭は、『自分の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか』と、自身に問いたださねばなりません」と強調された。

 説教に続いて、司祭叙階の日の約束の更新が行われた。

 「主キリストが使徒とわたしたちにご自分の司祭職を告げたこの記念の日に、あなたがたが叙階の日に司教と聖なる神の民の前で行った約束を新たにすることを望みますか」と教皇が問うと、司祭らは「はい」と答え、その約束を更新した。

 また、教皇は会衆に向けて、司祭たちのために祈るよう求められた。

 この後、聖油の祝別が教皇によって行われ、助祭たちが「病者用聖油」、「洗礼志願者用聖油」、入信、堅信、叙階等に用いられる「聖香油」の三種の聖油の壺を教皇の前に運んだ。教皇はそれぞれの香油を、祈りと共に祝別された。特に最後の「聖香油」の壺には香料が注がれ、教皇は祈りに続き、その壺に息を吹き込まれた。再び続く教皇の祈りと一致し、司祭らも壺に向けて手をかざし、沈黙のうちに祈った。

 この「聖木曜日」の午後より、教会の典礼は一年間の頂点をなす「聖なる過ぎ越しの三日間」に入った。教皇は午前中の「聖香油のミサ」に続き、午後「主の晩餐の夕べのミサ」を捧げるために、ローマのレビッビア刑務所に向かわれた。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年3月29日