◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑬「『忍耐』はキリストの愛の説得力ある証しとなる」

(2024.3.27  バチカン放送) 教皇フランシスコは27日の水曜恒例一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は「忍耐」の徳を考察された。

講話の要旨は以下の通り。

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先の日曜日、私たちは主の受難の朗読に耳を傾けました。イエスはご自身が受ける苦しみに、ある徳をもって応えられます。それは伝統的な徳(枢要徳、対神徳)の中にはありませんが、非常に重要な徳、すなわち「忍耐」の徳です。

「忍耐」の徳は、自らが受ける苦しみに耐えることを意味します。「忍耐(pazienza)」が「受難(passione)」と同じ源を持っているのは、偶然ではありません。受難から浮かび上がるのはイエスの「忍耐」。イエスは、捕えられ、平手で打たれ、不当な判決を下されるのを、従順さと穏やかさをもって受け入れられます。ピラトの前で、怒りをもって答えることをなさらず、兵士のあびせる侮辱や唾や鞭打ちに耐えられ、十字架の重みを背負われ、ご自分を十字架につける者たちを赦され、挑発に応えず、慈しみを与えられました。これらのことから、イエスの「忍耐」とは、苦しみに対する禁欲的な抵抗ではなく、「より偉大な愛」の結実であったことがわかります。

使徒聖パウロは、「愛の賛歌」(コリントの信徒への手紙1・13章4-7節)の中で、愛と忍耐を緊密に結びつけています。これは聖書の中で何度も語られる「忍耐強い神」( 出エジプト記34章6節、民数記14章18節)の、驚くべき姿も表しています。神は私たちの不誠実を前にされても、人間の悪や罪に対する不快に憤慨することなく、限りない忍耐をもって、毎回、最初から始めることのできる、偉大な姿を見せられます。

イエスの愛の最も優れた証しとは、「忍耐強いキリスト教信者と出会うこと」と言えるかもしれません。また、どれほど多くの親や、働く人々、医師や看護師、病者たちが、隠れた、聖なる忍耐をもって、日々、世界を美しくしているか、考えてみましょう。それは、「怒りを遅くする人は勇士にまさる」(箴言16章32節)と聖書が明言するとおりです。

しかし、私たちは正直にいって、しばしば忍耐を失い、悪に対して悪で返すことがよくあります。冷静を保ち、衝動やひどい返答を抑え、争いを回避するのは容易ではありません。

ここで、忍耐とは一つの「必要」ではなく、「召命」であることを思い起しましょう。キリストが忍耐強いなら、キリスト者もまた、忍耐強くあるように求められているのです。

「性急さ」と「短気」は、霊的生活の敵であることを忘れてはなりません。なぜなら、神は愛であり、愛する者は疲れを知らず、怒るに遅く、最後通牒を突きつけず、待つことを知っているからです。たとえば、「放蕩息子」のたとえ話(ルカ福音書15章11-32節)の「帰ってきた息子を見つけて走り寄る父親」や、「毒麦」のたとえ話(マタイ福音書13章24-30節)で、「何も失われることがないように、時が来るまで毒麦を抜かないでいる主人」のことを考えてみましょう。

では、どうしたら「忍耐」を育てることができるのか。聖パウロが教えるように、忍耐が「霊の結ぶ実」であるからには、まさにキリストの霊に願わねばなりません。「キリスト者の徳は、善を行うだけでなく、悪に耐えるのを知ることである」(聖アウグスティヌス「共観福音書説教」46章13節)。キリストは私たちに忍耐強い柔和な力を与えてくださいます。特に今、私たちが過ごしている聖週間の日々、十字架上のキリストを観想し、その忍耐に倣うこと、迷惑な人々を我慢強く耐え忍ぶ恵みを願うことは、私たちのためになるでしょう。

「忍耐」を育てるのに、眼差しを広げることも大切です。たとえば、自分が出会う災難を前にして、世界を見る目を狭めてはなりません。私たちが試練の苦しみを感じる時、ヨブが教えるように、神は私たちの願いを裏切らない、という確固とした信頼のうちに、神が新たにされることへに希望をもって心を開きましょう。

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2024年3月27日