誰かに忠告する、ということは、気の重いものです。伝えた方がいいだろうか、やはり、やめといた方がいいだろうか… と逡巡します。また、誰かから忠告されることも、(その指摘が当たっていても)どこか複雑な思いを感じます。
忠告とは、「まごころをもって他人の過失・欠点を指摘して戒めさとすこと」(『広辞苑』第五版)と語られます。〝まごころをもって〟という点が、大切なのでしょう。なぜなら、もしそれがなければ、良い事態を招くどころか、むしろ、お互いの間にきしみや大きな溝が生まれる可能性もあるからです。
*神の光のもとで
「マタイによる福音書」には、次のような言葉がありますー「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(18章15節)。
ここで「とがめなさい」と訳された言葉(エレンコー)には、次のような意味がありますー「光にさらす、明るみに出す、誤りを認めさせる、非難する、たしなめる」。この場合の光とは、神の光を意味するのでしょうか。兄弟が、何か罪を犯した場合、人間の思いで裁くのではなく、むしろ、神の光に任せること。
そうすれば、その人を滅ぼすのではなく、むしろ、その人の命を得ることになる、と語られます。私たちの罪を真に明らかにできる方、それは、神だけです。ヨハネは、それゆえ、次のように語りますー「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネによる福音書 16章8節)。ここで語られるその方とは、聖霊のことでしょう。
*父の御心とは
先ほどのマタイの言葉の直前には、迷い出た羊のたとえ話が語られます。その羊の持ち主は、一心不乱に捜します。その心は、まさに、一人の罪人に対する神の心そのものです。「これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」(マタイによる福音書 18章14節)。
父の御心とは、イエスも語るように、私たちの誰一人も滅びることなく、終わりの日に復活に与ることにあります(ヨハネによる福音書 6章35~40 節参
照)。「小さな者」とは、私たち一人ひとりに、ほかなりません。その私たちは、たとえどんなに誠実であろうとしても、過ちを犯し得る弱く不確かな存在です。パウロが語るように、自らの中に分裂を抱えています。
「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています」(ローマの信徒への手紙 7章19節)。これが、私たちの現実の姿です。それゆえ、私たちに求め
られること、それは、互いに赦し合い受け入れ合うことであって、決して、裁いたり切り捨て合ったりすることではありません(マタイによる福音書 7章1~5節、エフェソの信徒への手紙 4章32節 参照)。
*命を得るために
「忠告」ーそれは、罪を犯した兄弟を滅ぼすためではありません。むしろ、その人の命を得るためです。裁くためではなく、赦しと和解へと招くためです。それは、パウロが、次のように語るとおりです。「神はキリストにあって世を御自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」(コリントの信徒への手紙二 5章19節)。
この赦しと和解は、教会においてなされます。なぜなら、教会の中心には、まさにイエスがいるからです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書 18章20節)。忠告の言葉が、自分ではなく、イエスからのものであることを、願い求めたいと思います。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)
自分が今、どこで、どうしているのか、ふと分からなくなり、自問することがあります。『タイのバンコク』の自分を意識し、我に帰るのです が、一瞬の不思議な感覚で、何とも説明しょうのない、宙ぶらりんの境地です。
タイ国に来ることになったきっかけを振り返ると、摂理の織りなす 綾に導かれて来た日々、驚くばかりです。
聖パウロ女子修道会は、1915 年に福者アルベリオーネ神父により、イタリアのアルバで創立されま した。前年に創立された男子聖パウロ会と共に、広報機関による福 音宣教に献身し、現在50カ国で奉仕しています。
まさに広報の利器の誕生と成長を共にして来ましたが、要望に応じら れず、断り続けて来たある時期の総会で、聖霊の招きに応じていない 事態を反省し、派遣国を厳選し、15の国に会員を送ること決定。 総長のその時の書状に感動し、50歳の誕生日を迎えた私は「残る人生 を、新たな決意で福音宣教に捧げよう」と奮起しました。
膨大な費用が必要。姉妹たちの協力で、休み時間に皆で資金作りの内職を始め、姉妹たちが「 パウロ娘」としての宣教の熱意に燃えているのを感じ、本当にうれしく思いました。そもそも奉献の人生は幸せのはずなのに、時に惰性に流れ、くすぶる姿、 悲しいですものね。
私は特技無し、専門の養成も受けていない一介の修道者。海外に派遣されることなど 考えもせず、ただ黙々と自分の全てを神様に捧げて人々に奉仕した いーただそれだけで精いっぱい生きていました。その私へ1993 年、総長から手紙で『行ってくれませんか』と呼ばれたのです。
海外のどこかの国で、人々と運命を共にして生きる、存在そのものを捧げる、そうした考え方があってもいいのではないかーそう考えるようになっていたので、喜んでお受けしました。
「私をどうぞ」ー今日もそんな気持ちで、精いっぱいイエスの福音を 生き、このタイで献身しています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員=写真は「私が手掛けた本とCD」(左)と「愛読者の少年」(右)
コロナ禍の中、子供たちにとっては夏休みは夏休みであり、“ はっきり”と学校に行かなくてもよい日が続き、 少しは息抜きができたことだろう。しかし、今年の夏休みも又、 今まで当たり前だったことができない過ごし方だったに違いない。 いったい子供たち一人ひとりはどのように感じながら日々を過ごして いるのだろう。
新学期の始まりも各都道府県の学校によって日が違うようだ。 明日の学校の予定も定かでない状況では、 親子で落ち着かないだろう。また、 親は学校からの連絡に何時も注意を払わねばならない。最近は、 学校からの連絡手段もメールでの一斉送信、と聞いている。
インターネットの普及から私たちの生活も変わらずを得ない。 義務教育でも学校に行かずにオンライン授業を導入せねばならない 昨今である。 インターネット接続がなければ学校の授業も受けられない。 デジタル社会で育つ子供たちは、これからどう成長していくのだろう。
カトリック教会もYouTubeを利用してミサ、説教、 分かち合いなどが配信されている。( 司祭によっては趣味の番組作りなども配信しているようだ。) 誰でもが、カトリック教会をネット上で自由に訪問することができる 。世界中の教会の主日のミサに与ることができ、 何度でも説教を聞くこともできるのだ。ある日本人信徒は、 日本の教会を北から南へと順にアクセスして、 今は一つの教会のミサに与っている。外国人信徒も同様に、 英語圏から最終的に一つの教会を選んでいる。
今の子供たちは、ネット社会からのスタート、と言えるだろう。 必要な情報はネットから簡単に得ることができ、 知らない人との接触もボタン一つで可能な時代だ。素晴らしい! と、思う事も多々あるが、 今まで培ってきたコミュニティは希薄になり、 自己愛と承認欲求がまかり通っているように感じるのは、私だけであ ろうか。 バランスのとれた人間として生きていく為には何事にも苦労して学 び、面倒くさく思わず、 実体験を喜んでする教育が必要と私は思っている。
神様は今、 何を一番望んでいらっしゃるのか。神様のひとり言を“ちょっと” 聞きたい私である。
(西の憂うるパヴァーヌ)
感謝の気持ちを表したい、と書き始めました。 宣伝しているように見えたら、ごめんなさい!
K誌に連載していたエッセイをまとめてくださったものが本になります。K誌の私の記事の担当者のKさん、出版社のIさん、私の小さな記事を喜んで読んでくださっている姉妹たち、友人たち…これは「私の」本というより、多くの方々の「協働作業」の実りです。初めから最後まで「感謝!」の本。
なぜK誌の連載が始まったのか、それがなぜ今、本になったのか(しかも一般の出版社から)、そもそも、なぜ私が、神学の中でもひじょうにマイナーな「マリア論(Mariology)」を勉強することになったのか、「マリアの風」に乗って、キリストに従う日々の生活を生きるとは、どういうことか…いろいろな思いがこもった小さな本です。
本が出版されることになった時、「売れなかったらどうしよう」と親心で心配してくれた修道会会長が、真っ先に日本人の姉妹たち全員に本を注文してくださいました(今でも「売れ残った分も引き取らなければだめかしら?」と、出版される前から心配しています)。
先日、『マリア論オンライン講座』のスタッフが、目ざとく「シスターの本、通販で予約が始まっています!」と知らせてくれました。妹もお母さんも、キリスト信徒ではない従兄弟も読みたい、と注文してくれました。クラスメートのライン・グループの「本棚」でも紹介されたとか(どういうものか知りませんが…)。
私のエッセイ連載を拾ってくださった出版社の担当のIさん。百回以上続いている記事の中から幾つかを選んで、内容でくくって二部構成。何しろ、まとめて本になることなど考えずに書いているので、言葉や聖書引用を統一するだけでも大変です。
ここは「心」でいいけれど そこはやっぱり「こころ」がいい、などという、ほとんど感覚的なこだわりがあります。 聖書引用も、この箇所は、この聖書の訳がいい…など Iさんは、それにいちいち付き合い、私が表現したいことを汲み、大切に大切に本にしてくださいました。
そして、早く読みたい、と待っていてくださる友人たち。やはりこれは 協働作業 です。
最後に、感謝しきれないほどの感謝を、M師に届けたい。マリアさまが大好きなM師に、推薦の「帯書き」を書いていただけないでしょうか、お忙しかったら無理にとは言いませんが…とびくびく連絡したら、すぐに返事をくださり、「喜んで。原稿を送ってください」、と また、「帯書き」のお礼にメールをすると、返事をくださり、何と原稿を全部読んでくださったと知り、心の芯が熱くなるとはこういうことか、という経験をしました。小さな者に目を留めてくださるまなざしに感謝しかありません。
K誌の連載記事は、印刷された時点で私の手を離れ、聖霊が自由に読む方の心にささやいてくださる、と私はイメージしています。まさに「マリアの風に乗って…」という感じ。壮大な意味で、聖霊との協働作業です。聖霊に導かれて書いて、聖霊が読む人の心を動かしてくださる、という意味で。
すべてに感謝しつつ、また、マリアさまが、読む人の心に母の温かさを伝え、周りの人を兄弟姉妹として大切にする心を育ててくださることを願いながら。
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員/新刊書「マリアの風に乗って」は教育評論社刊、1650円です)
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タイ入りした1994年4月当初からこれまでを振り返ると、結構な移 り変わりが見えて面白いです。
「スカイトレイン」とも呼ばれる空中を走る電車が敷かれ、渋滞バンコ クの行き来が便利になった。携帯-スマホが誕生し、電話ボックスを探 さずとも済み、何処へでも道案内してもらい、 長距離電話の費用も不要になった。支払い、 金銭のやり取りもスマホで指先ひとつ。時間も労力も省け、人々は今や スマホいじりに夢中、のんびり空を眺める余裕ある姿も見かけ なくなりました。
食生活にも結構な変化。客に出すのは「冷たいお水」が決まりだったのが、今は「珈琲いかがですか」と。洒落た珈琲ショップが巷に続々開店、 スーパーには迷うほどにさまざまな種類、メーカーのインスタント珈琲が並ぶ。「タイ人は一般的 に珈琲を忌み嫌う」という私の第一印象でしたが、今では打ち消されしまいまし た。
20世紀中頃、インドネシアから持ち帰った苗でタイ国の珈琲栽培 が始まった、と言われます。 1988年にはタイ王室が珈琲の栽培開発を企画。山岳の麻薬栽培地帯の貧しい人々が、森林と共生し環境を保護しながら、ぴった りの高地条件で珈琲の栽培を始めました。「ここは昔、木が1本も ないアヘンのケシ畑」だったのが、30余年の歳月を経て、良質なアラビカ 珈琲畑に変わりました。2014年の時点でタイ珈琲の生産量は世界18位、アジアで3位になっており、南部はロブスタ 種、北部はアラビカ種、いずれも品質の良さで評価されています。
2012 年6 月のこと。年に一度タイに来られる福岡教区の川上神父様を囲んで、嬉しい日本語ミサがありました。そ の折、「アカ族村の初収穫の珈琲、持って行っていい?」と、タイのNGOで働く親友からの電話。ミ サ後聖堂前で持参した豆と挽いた珈琲を紹介、どちらも完売となりました。
友人はタイの貧しい人々の中で環境保護、村興し、AIDS対策などに長 年取り組み、当時は珈琲豆の栽培で村の産業振興に力を注いでいたのです。
日本に帰国する前に「注文よろしくね」と連絡先を置いていきました。《実に美味しい、飲み干して漂う優しい香り》、味を占めた仲間と 、今も誘い合い続け、取り寄せています。アカ族のその村は何と、カトリックの村で、昨年はアカ山岳民初の司 祭が誕生しました。ほんとうに嬉しいです。
移り変わる世、今はコロナ禍で動きが取れない状況の中でも、心底 から喜び響き合い、翻弄されずに生きていたいです。美味しい一杯 の珈琲も、ひと役です。皆さん笑顔で頑張りましょう。
*「こんなことが起こらなければよかったのに…」
今年3月に海外の大学に入学した姪っ子と久しぶりにオンラインチャットしました。コロナ禍のせいでまだロックダウン実施中の現地国へ行けず、自宅で完全にオンライン形式の授業を受け、無事に第一学期を終えましたが、9月から始まる第二学期も当面の間まだ現地に行くことができないそうです。
いまだに実際の海外留学生活の体験ができない彼女は、軽く愚痴をこぼした後、「私の時代にこんなことが起こらなければよかったのに」と言いました。それを聞いた私は、ふとその言葉に聞き覚えがあると思ったのですが、その時は思い出せなかったので、そのことには触れず、彼女の気持ちを理解しながら励ましました。
数日後、その言葉をどこで聞いたことがあるかは急に思い出しました―英国の文献学者、作家、詩人の故J・R・R・トールキンの傑作『指輪物語』三部作(原題:ロードオブザリング/The Lord of the Rings)の第一部の『旅の仲間』(原題:The Fellowship of the Ring)でした。
「中つ国」(ミドル・アース)を舞台に、主人公のフロドを含む9人の旅の仲間が、邪悪な冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊する物語です。若き主人公のフロドが、邪悪な力の指輪を破壊できる唯一の場所、すなわち邪悪そのものの中心に運ぶことができる唯一の純粋無垢な人です。
しかし、中つ国全体の運命がフロドにかかっていることを考えると、フロドにとってそれは恐ろしい重荷となります。邪悪なものは常にその指輪を求め、彼に付きまとい、彼とその運命的な任務に加わった仲間たちを滅ぼそうとします。
物語の中で次のような会話をする場面があります。指輪の暗い歴史と邪悪な冥王サウロンの帰還を聞いた後、フロドは 「指輪が僕の手に渡らなければよかったのに。僕の時代にそんなことが起こらなければよかった」 と言います。
冒頭で、姪っ子も、無意識に軽く愚痴っていた同じような言葉ですが、私たちも様々な状況において何度同じような思いを抱いたことがあるのでしょう。それが悲劇であれ、心痛であれ、悩める時期であれ。「なぜ私なのだ?神様よ、なぜ私がこのような苦しみや悲しみを背負わなければならないのですか」。
多くの人々の命、愛する人々の命、そして多くの人々の生計、生活の目標や夢などを奪っているコロナ禍が一日も早く去るように全世界が願っています。フロドのように、私たちが現在直面している状況を誰一人も望んでおらず、身の周りに潜んでいる有害でマイナスの「力」に恐れを抱いています。
さて、物語の場面に戻りましょう。フロドの言葉を聞いた魔法使いのガンダルフは次のように言います。「ワシもそうだ。このような辛い時代に生きる者は皆そう思う。だが、それは自分たちで決められることではない。私たちが決めなければならないのは与えられた時間をどうするか、ということだけなのだ」。
*全ての世代に語りかけている名言
これがこの『指輪物語』大作にある数多く心に残る名言の一つです。実は信心深いのカトリック信者であった著者トールキン(1892年生まれ、1973年死没)が2度の世界大戦を経験した上でこの作品を書き、非常に考えさせられる一文です。どの世代も、いかに平和で繁栄していようと、現在直面している様々な困難や悩みを嘆き悲しむ傾向があるのです。そこで、トールキンがすべての世代に、こう語りかけているのではないかと思います。
「私たちが決めなければならないのは、与えられた時間をどうするか、ということだけなのだ」。
この言葉は、宗教や信仰と関係なく、色々な側面で考えさせられるものだと思いますが、キリスト者にとっては特に奥深い意義がある、と感じています。すなわち、私たちが耐えなければならない時代や状況を、最終的に神様が支配されているのです。そして神様は、あなたと私が含まれている世界のための計画と定めを持っておられるのです。
主人公フロドのように、私たちの周りで働いている様々なマイナス的な影響力によって隠されているので、しばしば神様の御計画を見ることができないかもしれません。しかし、私たちが見えるかどうかにかかわらず、神様はご自身の御計画を実現するために忠実であり続け、働いておられるのです。
魔法使いガンダルフの言葉を借りて言い換えれば、「私たちは、そのような困難で悲しく苦しい時を選ぶことはありません。しかし、神様が私たちに与えてくださった時間をどうするかについては、私たちには選択の余地があるのです」。
*エフェソの信徒への手紙5章15節~17節
よく考えてみれば、著者トールキンが書き残したこの言葉は、使徒パウロがエフェソの信徒への教えを反映しているのではないかと思います―「そこで、知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代だからです。だから、愚かにならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」。
私たちは誰しも、コロナ禍の終息、様々な苦しみや悩ましい状況からの解放を願っています。しかし、私たちは直面しているマイナス的な状況を嘆くばかりで時間を無駄にすることはできません。むしろ、神様が与えてくださった時間に対して、神様に感謝し、主の愛を他の人たちに反映し、主の内に深く成長するために、あらゆる機会をできる限り活用することを選ぶことができると思います。
私たちが決めなければならないのは、「与えられた時間をどうするか」だけです。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
*良寛さんの道号(僧名)は 「大愚」
良寛さんの「大愚」という道号は、33歳の時、師の国仙和尚から授けられたものです。「お前は一見、愚者のようだけれど、誰よりもその道心は広い。悠々と生きよ」――と 印可の(禅僧としての卒業証書)には記されていたそうです。
この「大愚」とは、もちろん、「知識・知恵の足りない者」という意味ではなく、むしろ、「自分の足りない点をよく知っている人 」という意味でしょう。換言すれば、「自分のことをよくわきまえた人」でしょうか。聖書的な表現で言えば、「知恵のある人」です。良寛さんもまた、そのような人物の一人であった と思います。
*恐れから畏れへ
主を畏れることは、知恵の初め」(シラ書1:14 ――と 聖書は語ります。「畏れ」とは、私たちが、圧倒的な力(決して暴力的な意味ではなく)で迫ってくる存在に出会った時に抱く「畏怖の念」です。私たちは、時々、それを日常生活において体験します。 例えば、そのような対象は、大自然であったり、聖なるものであったりします。そのような時、私たちは、ただ頭を垂れます。
「畏れ」は、「恐れ」とは違います。イエスは生前、何回もこう語りました―― 「恐れるな 」(ルカによる福音書12章32節、マタイによる福音書14章 27節参照)。真に神を「畏れる」ことを学んだ人、その人は、あらゆる「恐れ」から解放されます。「頭を垂れること」を学んだ人は、心を「神に挙げること」を悟ります。
*真の知恵に招かれて
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました 」(マタイによる福音書11章 25節)。
「これらのこと」とは、イエスにおいて、まさに天の父が現れているということ。「知恵ある者や賢い者」とは、そのイエスを受け容れない人々。彼らは、イエスが神から遣わされたキリストであるということを認めず(11 章16~19節)、彼の奇跡を目の当たりにしても、悔い改めようとはしない人々です。すなわち、彼らこそ、神を知らない人々であり、聖書の中で「愚か者」と呼ばれる人々です。
「神を畏れる」――それは、 神を知る ことにほかなりません。そして、それができるのは、まさに「幼子」と言われる人です。 そのような人は、「主の目に貴く」(イザヤ書43章 4節)、「心の貧しい人 」(マタイによる福音書5 章3節)と言われます。換言すれば、「足るを知り、分をわきまえ、 そして、慎みをもって生きる人」です。
そのような人は、自分の知識に頼んで人を裁かず、むしろその人を受け容れます。「自由」「権利」「正義」などの言葉を声高に叫ぶことはありません。むしろ、互いに仕え合うことに心を砕き、人の喜びを自らの喜びとし、人の悲しみを自らの悲しみとします(ローマの信徒への手紙12 章15節参照)。
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い 」(コリントの信徒への手紙1・1章25節)ーこの言葉の深い意味に招かれたい、とそう思います。神が心に留められるのは、「世の取るに足りない者や軽んじられている者 」(同1 章28節)ーこれは 人間の論理ではありません。神の知恵です。
この知恵に与るためにも、パウロの次の言葉を思い起こしたい、と思いますー「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい 」(ローマの信徒への手
紙12章 2節)
*今年の夏は、複雑ー私の身にも
コロナ関係のニュースとオリンピック関係のニュース。そして、注意が必要な熱中症と天気予報。 報道する側も、それを受ける側も、すぐには思考回路が定まらない。 そう感じるのは私だけだろうか。その上に猛暑である。 速報が出る度に緊張が増す。最近の生活は、 以前よりも随分と緊張せねばならなくなっているというのに…
このような複雑な社会情勢であっても、私たちは置かれた場所で生き ていかねばならない。
同じ船に乗っていても、違う景色の中に身を置くことがある。 側にいる相手に、 ついつい言わなくてもいいことまで言ってしまう。 こちらが、ついついでも、相手はしっかり受け止めて、事態はとんでもない方向に進んでしまう。 知らず知らずのうちにストレスを感じて生活している今、 私達の情緒も不安定であり、あえて言わなくてもよい言葉を、ついつい、思いっきり発してしまうのかもしれない。
私は青年二人と、聖書を身近に感じるように意見交換している。 ある日突然、二人は一瞬にして交流を断った。それを知った私の思考回路は混乱した。「どうして?」。 二人との間に、まだ信頼関係が生まれていなかったのか? 隣人愛は育っていなかったのか? 聖書の言葉は心に染みていなかったのか?
上から目線の私(私自身、 偉そうなことが言えないことは、百も承知なはずなのに)。人を赦し、謝罪することは、なかなか難しい。今時の若者( このフレーズを、若者は嫌う)は、 この状態にどうやって対処するのか? 「神を信じ、イエスと共に歩んでいます」と彼らは言っていたではないか。無論、私は2人に、一度は聞いてみたのだが、良い反応は得られなかった。
*でも、神はおられた。
遠方の司祭を訪問した時のこと。帰る間際に、連絡が途絶えていた彼らの一人が、偶然にも司祭に会いに来た。彼は、どんな反応をするのだろう? いい年である私は、大人の対応をせねばならない。それぞれの思いは、 神は全てご存知。あの時、どちらが”成熟”していたのか、私には分からない(私でないことは確かだが)。
今、何が必要なのか?ー神は案内してくださる。 神はいつも側におられる。
「よぉ、久しぶりだね」「あの時は失礼しました」
…先週、私達の聖書の集いは、三人で再開した。
(西の憂うるパヴァーヌ)
子供の頃から、4年に一度開催される夏季オリンピックを見るのが大好きです。個人的に好きなスポーツの個別の世界大会を観るのも好きですが、世界中のトップアスリートたちが集まって一斉に競い合う数多くの競技をたくさん見ることができるのは、オリンピックだけです。
*懸命に頑張る選手の姿にパウロを重ね合わせる
アスリートたちが皆全力を尽くし、世界トップレベルの身体と運動能力や精神的な強さを最大限に発揮し、最高のパフォーマンスや技術を披露していく姿には、いつも心を動かされ、感動を受けています。
東京2020オリンピックも2年前から、大いに楽しみにしていましたが、とても残念なことに世間の賛否両論の中で、コロナ禍の暗黒の闇に覆われた無観客の大会となってしまいました。アスリートたちにとっても、このような未曾有の状況において、これほど精神的な強さが大いに試される大会はないのではなかろうか、と思います。
しかし、このような状況でも開催された以上、彼らはひたすら目標に集中して頑張って行かなければなりません。努力に満ちた長い歳月を経てここまで誠実にたどり着いた世界中のアスリートたちは、どのような逆境に直面したか、どれほどの艱難辛苦に耐え、どれほど精神的に試され、乗り越えて来たかは、本人たち自分自身のみ知ることです。
そのようなわけで、オリンピックで懸命に頑張っている多くのアスリートたちの姿を見ると、いつも使徒パウロの教えを思い出され、改めて反省し、学ばせてもらっています。
*パウロは陸上競技を例えに使っている
使徒パウロは、いくつかの書簡の中で、何度も陸上競技の世界の比喩を使っています。3つの書簡では、全力で走るイメージを用いて、霊的な成長と奉仕の活発で合法的な追求を促しています。また、自分の成長と奉仕について、4回も、そのような走りに例えて語っています。
紀元前776年まで遡るオリンピックは、運動能力、練習や鍛錬、および競争力の頂点を表しています。パウロはもちろん古代オリンピックのことを知っていましたし、オリンピックの前後の2年に一度のコリントス地峡で開催される「イストミア大祭(競技会)」(古代ギリシア四大競技会の一つ)もよく知っているはずなのです。
そのため、霊的に豊かに恵まれてはいますが未熟なコリントの信者たちに、パウロはこう書いています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(コリントの信徒への手紙1・9章24節)。
パウロは、霊的成長に必要な規律ある努力を、アスリートがレースに勝者だけに与えられる賞を獲得するための努力に例えています。
キリスト者としての成長は、勝手に起こるものではありません。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピの信徒への手紙2章13節)が、信者は、聖霊が教えることに従うために、責任を持って真剣に努力することで、神様に協力しなければなりません。「競技をする者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を手にすることはありません」(テモテへの手紙2・2章5節)。 鍛錬を重ねた信者にとっての賞は、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞」(フィリピの信徒への手紙3章14節)です。神様は信者に何を求めておられるのでしょうか?それは、心と生き方において主イエス・キリストのようになることです(ローマの信徒への手8章28節~30節参照)。
*そして私たちも…日々の鍛錬が必要
私たち信者は、主キリストのようになるため、様々な試練や鍛錬を重ねることによって、心の中で神様の働きの現実を示していると思います。アスリートたちが競技のために日々鍛錬するように、私たちにも日々の鍛錬が必要なのだ、と使徒パウロは教えています。
パウロは「ヘブライ人への手紙」に、こう記します。「…すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい」(12章1節~3節)。
主イエスを最も優れた走者として描いていますー走りのペースをお決めになり、私たちの模範であり、人生のレースのヒーローとして…。オリンピックのアスリートたちが自分の走りを妨げるものを排除しなければならないように、私たちも主の憐れみと御力によって罪から自らを解き放たなければなりません。アスリートたちがどんな状況の中でも目をそらさず、ゴールを見続けなければならないように、私たちも主イエス・キリストとその喜びの御報いを見続けなければなりません。
そして、私たちがこの世の人生の終わり、レースの終わりを迎える時、聖パウロが言うように、「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテへの手紙2・4章7節)と宣言することができますように。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)
今、恒常的な「インプット」不足を感じています。別の言葉で言えば、勉強不足、読書不足。原稿を書いたり、講話をしたり、「アウトプット」に必死になっていたら、気が付けば、何と表現したらよいのか…空っぽ感というか、上っ面感というか…。
…で、7月、8月と、渇いたように「読んで」います。今までタダで読めていたバチカンの『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』のデジタル版が、有料になりました(と言っても、年に20ユーロの購読料…だったと思いますが)。購読を申し込み、せっせと読む。その傍ら、今は特に、東方教会の伝統、霊性、教義…関係の本を読んでいます(日本語、イタリア語、英語文献をまぜこぜにして)。
学びのための本は、一回読むだけでは頭に「刷り込まれない」とは、尊敬する教育学のT先生の言葉。その本の質にもよりますが、少なくとも三回は読み、付箋を付け、赤・青・緑で線を引き、それをまとめてノートに書いたり、表にしたり、パソコンに入力したりして、著者が何を主張しようとしているのか、そこから私は何を引き出すのかを、知恵を絞って「奮闘」しながら考える。 つまり消極的ではなく、積極的読書。とにかく「自分の手」を使って学ぶことが大切だ、とは、T先生の見解。そのために、出来るだけ「紙の本」で読む。
そこで、意を決して、今まで、購入したものの取り組む「気力」がなかった、ロシアの思想家、神学者たちの本を読み始めました。 Pavel Florenskij氏、ladimir Lossky氏。東方正教会の著名な神学者Alexander Schmemann師、シリア教会伝統の権威、Sebastian P. Brock氏、 Olivier Clément氏。東方教会霊性についてイエズス会のTomáš Špidlík師Marko Ivan Rupnik師の本…。
自慢をしているわけではありません。この偉大な思想家たちの本を「分かった」などとはとても言えませんから。
読めば読むほど、アウトプット出来るのか、と言えば、これがそうはいきません。何を考えておられるのか分からない(?)。主のみ心を求めて、一人、空の星を見つめ、頭を心を天に向けて開くアブラハムのような、この世の常識からみれば「無駄なぼーっとしている時間、空間」が必要だと感じます。
二回目のワクチン接種を終えた次の日、全身の筋肉痛で1時間くらい休んでいたとき、頭ははっきりしていたので、いろいろ思い巡らしていました。「あー、こういう時間が必要なんだ!」と思いました。
その後、「こういう時間」を造り出すのには、勇気が要ることも分かりました。「何かしていないと」時間を無駄にしているような気がしてしまうからです。いつの間に、そのような生活リズムに慣れてしまったのでしょう。立ち止まって考える、ありのままの自分を主の前において、主と「対話する」時間と空間を造り出すことが難しいなんて…。
教皇フランシスコは、2021年8月1日、年間第18主日の正午の祈りのときに、その日の福音、ヨハネ6章24‐35節について黙想しながら、「私たちは、なぜ主を捜し求めているのか」を自問してみましょう、と呼びかけられました。
イエスの時代にも、たくさんの人がイエスを捜し求めていました。その人たちにイエスは、「あなた方が私を捜し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである…」と、つれない返事をします。
教皇は、たくさんの誘惑の中で「偶像崇拝の誘惑」がある、と指摘します。それは、私たちの問題を解決するために、私たちの利益のために利用しようとして、神を捜す誘惑。つまり、神を、私の目的達成のために「消耗」しようとする誘惑です。
教皇の言葉は明確です。「しかし、このような方法では、信仰は表明的なものに、こう言うことが許されるなら、奇跡主義的なものに留まります。自分たちが満腹するために神を捜し求め、満腹したら忘れてしまうのです。このような未熟な信仰の中心には、神はいません。そこにあるのは私たちの要求です」。
教皇は強調されます、もちろん神に私たちの必要を示すのは正当ですが、「私たちの期待を遥かに超えてご自分のわざを行われる主は、何よりもまず、私たちと愛の関係を生きることを望んでおられます。そして、真の愛は、無欲、無償です。人は、お返しに何かを受け取るために愛するのではありません!それは利害です」。
実際、私たちは日常の中で、ひじょうにしばしば、真の愛ではなく、利害関係を求めます。
…とここまで書いて、何が書きたかったのだろう、と自分で思います。支離滅裂で申し訳ありません。これが、2021年8月始め時点の、私の頭の中です。8月下旬、9月始めの、二つの講話の準備をしながら、今はインプットされる宝のあまりの深さ、すばらしさに、私の器がついていけない、という状況を経験しています。これもまた、恵みですね。
暑い夏、皆さんの上に、ご家族、友人方の上に、主の豊かな祝福と、マリアさまの母のご保護をお祈りしています。私のためにもお祈りしていただければ幸いです。
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)
東京オリンピックがコロナ禍の中で開かれ、選手たちの奮闘ぶり が世界中を元気づけています。とくに日本選手の一途さには心を打 たれます。
携帯では迫力が感じられず物足りないですが、仕事の合間に様子を 垣間見ています。フィリピンとタイの姉妹達に『金メダル獲得』の 話をしましたが、関心無し。その後、歴史初の金メダルに祖国が湧 いている、と言う事実を知って、食卓の話題にやっと登場しました。
タイの伝統的なスポーツは国技『ムエタイ』。400年の歴史を 持つムエイタイは、13世紀ビルマとの度重なる侵攻に備え、若い 男子に特訓された護身に重きを置く実戦格闘技です。両手、両肘、 両脚、両膝の8箇所で打つ蹴るという身体を張った素手素足の技。 アユタヤ出身のカノム・トムが捕虜としてビルマに連行され、試合 で10人勝ち抜いて生還した、という武勇伝が語り継がれています。
ムエタイは1941年に王室の管理下に置かれ、グローブ着用で 1試合5ラウンド(1ラウンド3分)のルールが確立。
2002 年には観光スポーツ省が設立され、世界遺産、風景、歴史見物、エ コツアーと組んだマラソン、サイクリング他のスポーツと共に、タイ 国復興の一端を担い、ムエタイの体験ツアーも人気です。試合前に師匠、両親に感謝し、 安全と勝利を祈る舞の儀にはじまり、民族楽器の演奏が流れる中で 試合が行われ、国技の風格があります。
しかし、その反面で、法律で賭け事が禁止されているにもかかわらず、ムエタイの世界ではギャンブルが罷り通るようになっており、暴力沙汰、けが人を出す事態が起こらないように 、警察と軍の警備監視下で、審査員も不正が起こらないようにポイント調整をしながら、試合をする、というのが実情です。
でも、タイの人々のスポーツへの熱意は高く、観光スポーツ大臣が大活躍 。確かにタイ国のスポーツと観光とが密接な関わりは深く、調査・研究に 来ている日本の大学関係者もいます。最近ではサッカーの人気も高まり、先日もサッカー交流でコーチを務めている日本の青年に出会い、『清々しく』感じました。
世界ムエタイ連盟(WMF=世界90数か国が加盟)は、次回のオリンピック種目にムエタイを入れてもらおうと交渉中との事、実現すれば、タイは必 ずや金メダルに耀くことでしょう、願わくは、賭博界の泥濘から健全 な憧れのスポーツに抜け出る機会になりますように。
スポーツは喜びと希望で人を結び元気にしてくれる、実にそう思い ます。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
大谷翔平選手の活躍に、惹かれます。恵まれた身体(身長193㎝)とはいえ、やはり、きっと、その背後には、本人の不断の努力があるのでしょう。
現在は引退した、イチロー選手もすごかった。かつて 彼は こう語っていましたー「小さなことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行く、ただ一つの道と思う 」。地に足の着いた生き方とは、こういうことかもしれません。
しかし、そのような生き方と、理想を抱いた生き方とは、必ずしも矛盾しません。むしろ、両者が一つとなる時、真に望ましい生き方が生まれてきます 理想は、いわば、可能性のうちにある現実 私たちを招き、励まし、進むべき方向に導いてくれるものーそう思います。理想は、いわば、一つの見えない事実です。
*命そのものとしての神
イエスが生きた社会には、いくつかのグループがありました。サドカイ派もその中の一つです。彼らは、上級祭司階級や それに同調する富裕で有力な階級の出身者であったといわれています。
そのような人々の価値観は、いったいどのようなものだったのでしょうか。すべてとは言わないまでも、その多くは、いわゆるこの世的なものー例えば、金銭や物、社会的地位や名声ーを良しとするものではなかったか と思います。もしそうならば、そのような人々が、霊的存在や永遠の命、また復活などを信じなかったのは、ある意味で、自然であったかもしれません。
彼らに対して、イエスは 、はっきりとこう言います。「 あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」( マルコによる福音書12章24 節)。
聖書は、命の書。「神は命そのもの」ーこれは、聖書の根本的使信の一つです。私たちはこの命へと招かれ、それによって生きる意義と出会います。そのことを 聖書は、端的に語ります。「 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ 」(同12章27 節)。また、神の力とは、すべてのものを一つに統べる神の計らいにほかなりません。
*出来事としての復活
この事実を受け容れることーそれが 信仰かもしれません。 「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです」( ヘブライ人への手紙11章1節)。
私たちは、実際、日々の生活の中で さまざまな 見えない事実 を確認し、経験しています。それは、「信頼」であったり、「優しさ」であったり、あるいはまた 「愛」であったりします 。見えない事実は、実は、見える事柄よりも、いっそう確かで堅固なものです(サドカイ派の人々には、それが分からなかったのでしょう)。
イエスの復活は、一つの事実です。 「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」( ヨハネによる福音書11章25~26節)。 この事実を受け入れるために求められることーそれは、単純で素朴な心であり、心から溢れ出る祈り(トビト記3章2節、6 章11~15節参照)ではないか と思います
頑なな心である限り、見えない事実を確認することも、それを受け入れることもできないでしょう。トマスに語られたイエスの言葉が、聞こえてきますー「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである 」(ヨハネによる福音書20章29節)。
復活を信じることは、命そのものの体験なしにはありえません。この事実をすっと受け入れることができる時、人は 「神から生まれた者 」(ヨハネの手紙1・5章1節) となるのでしょう。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)
⾬があがり、けだるい夏の夜のことだ。繁華街に続くターミナル駅に電⾞が着いたことを知らせるアナウンスが聞こえ、向かい側で若いサラリーマン⾵の男性がシートから⽴ち上がった。
男性はスマートフォンを⽿に当て、⼩声で話し始めた。
「はやっ、もうそろったの? 悪い、いま電⾞降りるところ。先に始めていいよ」。これから⾏く場所のお仲間と連絡しているようだった。
男性の背中が視界から半分くらい消えたとき、⼿すりに傘が引っかけられたままであるのに気づいた。あっ、と思ったものの、残されたビニール傘が男性の物かどうかも分からない。⼾惑ったその瞬間のこと。
「傘、お忘れですよ」
男性の隣に座っていた中年⼥性の声だった。サラリーマン男性は振り返り、驚くほどうれしそうな笑顔で傘をつかみ、頭をペコリと下げて下⾞していった。重そうなエコバッグを⼆つも抱えた⼥性は何事もなかったかのように、再び居眠りを始めた。
線路に落ちた⼈をとっさに救った⼈がいる。溺れかけた⼈を⾒つけて、思わず海に⾶び込んだ⼈もいる。災害現場の救急救命⼠やボランティアの活動は、よく⽿にする。ワクチンを打つ前から新型コロナウィルス感染者の救命活動に従事する⼈についても、しかり。
職業である、ない、にかかわらず、助けを必要としている⼈に躊躇(ちゅうちょ)なく⼿を差し伸べることのできる⼈の姿には清々しさを感じる。それと同時に、⾃分にはそれができなかった、と苦い思いを抱いていた。
新型コロナウィルスの感染拡⼤を受けて1年半が過ぎる。東京都は7⽉31⽇、都内で新型コロナウィルスの感染者が過去最多となる4058⼈確認されたと発表した。
「正常な⽣活」が⽇常のさまざまな⾯で失われている。⻑い夜が明けることを願ってひたすら待つ。4回⽬の緊急事態宣⾔のさなかに、私たちの多くは、じっと耐える⽣活を余儀なくされている。
だからこそ、彼には⾔うべきだったのかもしれない――。
「今から繁華街に繰り出すのはやめて」
「危険だってことは、分かっているでしょ?」
「あなたの、いのちを⼤切にしてください――」
先ほどの若いサラリーマン男性には、傘のことでなく、そう声をかけるべきだった。彼にとって、1本の傘より、もっと⼤事なものを失くしてしまわないように。
(みなみきょうこ・医師、作家: ⼥性看護師の⽬を通して、医療現場の現実と限界を描いた新刊⼩説『ヴァイタル・サイン』が⼩学館より8⽉18⽇に発売されます。映画『いのちの停⾞場』は、11⽉まで東映系の映画館でロングラン上映が続いています)
医師、看護師、理容師、美容師、教師、ソーシャルワーカー、カウンセラー、街角の占い師や屋台のお店で販売をしている人なども、これに当たるかもしれません。要するに、私自身あまり考えたことはないのですが、司祭職はその一つですね。もちろん、神父さまの中には学業を専門にしておられる方や、その一環で著作活動に専心する方もおられますから、この場合、ひとくくりに「司祭職」と言ってしまわずに、「司牧者」という言い方をした方がが妥当かもしれません。
プロテスタント諸教会では「牧会者」ということになりましょうか、いずれにしても一般的なイメージとしての教会共同体の代表者、カトリック教会でいう主任司祭、あるいは助任司祭という任命を受けている人たち、また、それぞれ固有の共同体の司牧に当たっておられる人たち、ないしはその仕事の延長線上で教壇に立つことを生業としておられる人ですね。その人たちは日々、生身の人間を相手に働いておられるわけです。
こうした仕事をしている人たちには(限ったことではないかもしれませんが)、時折、深い後悔の時が訪れます。言うまでもなく後悔先に立たずですから、その気持ちを今後に役立てていくしかないのが現実だし、「過ぎたことはもう仕方がない」と割り切って前進するのが、その種の職のプロなのではありましょう。
とは言え、私はその点、少々、プロ意識に欠けるところがあるのか、あるいは司祭職という職種の特徴として、こうした後悔を思い巡らすところがあるからなのか、その日、その時、その人とのことを振り返っては「あの時の自分を赦して欲しい」という思いに駆られることは多々あり、その思いをして後の仕事の仕方に影響してしまうわけです。
多分これは、私だけに限ったことではなく、「私もそうです」という人はたくさんいるはずです。そしてそのような想いは、必ずしも真面目だと評される性格かどうかとは関わりなく、起こる時には、誰にでも起こり得るものではないでしょうか。
私自身は、割り切れるほどの強さはなく、引きずりつつも仕方なく前に進む、というパターンですが、かつて、ある先輩司祭から非常に真心のこもったアドバイスをいただいたことを今でも覚えています。師は言いました。「プロ野球の監督は、既に負け試合だ、と考えられる状況において、次の勝利を模索します。選手も、致命的なミスを悔やんでいては、次の試合に支障があるでしょう。試合はシーズン中、続いていくものであって、その日、一日では終わらないからです」と。
なるほど、と納得したものですが、その後、「そういう気持ちになるためには何が必要なのだろう」と、素直に受け取りつつも、「あとは自分自身の問題だろうな」と思われたのです。プロの選手であっても、試合のミスが決定的であれば、その時のプレーを観客は結構、いつまでも覚えているでしょうし、無かったことにはできませんから、結局は、引きずるのが現実なのだ、と思います。
こうしたことは、良心と自己肯定とのバランスの調整や、時間の経過がもたらす落ち着きを実感できるまでの忍耐など、それらをもって対処するしかないのかも知れません。開き直れば傲慢に陥るかも知れず、自己否定からは建設的な結果は得られないでしょう。
主は仰せになりました。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節)。この聖句を巡っては、かなり幅広い解釈の仕方があるようです。ただ、私は聖書学者ではありませんし、最初にこれを読んだのは当然、司祭に叙階されるずっと前のことです。今、この聖句について感じているのは、この「自分を愛する」ということが、本当はとても難しいことなのだろう、ということです。
真の意味での「自己愛」と、自分の観点でしか考えようとしない「エゴイズム」では、相当な違いがあるでしょう。そもそも線を引き難い人間の感情を前に、それが「自己」によるものか「自我」によるものかー不完全な感覚しか持っていない人間には、見分け難いわけです。
「良心」は、第二バチカン公会議の公文書に数多く出てくるキーワードで、原文ではラテン語のconscientia(コンスキエンティア)、そのもとはギリシャ語のσυνείδησις( シュネイデーシス)です。 公文書では、これを「初めから備わっているもの」であると同時に「形成されるもの」であるという理解のもとに使っています。だから、「放ってもおいてもいけないし、適切に育っていかなければならないもの」ということです。
自己肯定に一辺倒では、成長がなく、自己否定に陥っては意味がない、と言えるでしょう。「自分しか愛せない」のでは、幸せには程遠く、「自分を愛せていないのに隣人を愛する」のであれば、その隣人愛そのものが疑わしくなります。難しいですね。
カトリック教会における日本語の「良心」の概念は以上のようなものです。小文はいわばその紹介に留まるものであります。
(日読みの下僕)
(編集「カトリック・あい」)
⑤愛国心という迷妄:新渡戸稲造の場合
「愛国心の迷妄」を考えるとき、その筆頭に来るのは新渡戸稲造である。
そもそも彼の研究発表の第一発は、英文の日米交渉史The Intercourse Between the United States and Japan: A Historical Sketch である。1891年をもってジョンズホプキンス大学出版局から出版されている。
冒頭に出てくる徳川斉昭(1800-1860)の文書の英訳が、まるで出鱈目で、一種の捏造文書になっている。斉昭に、愛国的拡張主義者の発言をさせている。「・・・わが日本国の国旗が他国に翻ったことはあっても、侵略国の国旗が吾が国土に翻った試しは皆無である」ーそういう意味の事を、新渡戸は記しているのである。
斉昭の原文には「旗」という文字は出てくるが、上記如きことは何も言っていないのである。贔屓の引き倒しも良いところである。学者人生のそもそもの発端で、こんな捏造をしてしまった稲造の公的発言はよくいって「ひねくれたもの」に成らざるを得なかったであろう。悪くすれば「嘘の上塗り」に堕すことになったであろう。
これが私が新渡戸の公的生涯に下す評価の通奏低音である。
(2021. 5 .1記)
⑥新渡戸稲造の『武士道』の由来
新渡戸稲造の『武士道』が英語で書き下ろされ、『Bushido:The Soul of Japan』として出版されたのは1900年のことである。
新渡戸がこの著書を執筆する直接の動機は、たまたま訪れていたベルギーで、地元の法律家、ラブレーから「日本で道徳の基盤となっているのは、何であるか」とたずねられたことだった。
その答えとして、彼は、欧米の近代的国家の市民は、道徳の基盤をキリスト教に置いていたのに対して、明治維新を経験したばかりの日本という国家の国民は、武士道に置いている、と言うのであった。
思想としての武士道の構成要素として、日本に土着の祖先崇拝の他に、外来思想の要素として仏教と儒教が挙げられていたのである。(2021.7.6記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大博士)
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