・Dr.南杏⼦のサイレント・ブレス⽇記 ㊾ ⼤切なもの、お忘れでは?

 ⾬があがり、けだるい夏の夜のことだ。繁華街に続くターミナル駅に電⾞が着いたことを知らせるアナウンスが聞こえ、向かい側で若いサラリーマン⾵の男性がシートから⽴ち上がった。

 男性はスマートフォンを⽿に当て、⼩声で話し始めた。

 「はやっ、もうそろったの? 悪い、いま電⾞降りるところ。先に始めていいよ」。これから⾏く場所のお仲間と連絡しているようだった。

 男性の背中が視界から半分くらい消えたとき、⼿すりに傘が引っかけられたままであるのに気づいた。あっ、と思ったものの、残されたビニール傘が男性の物かどうかも分からない。⼾惑ったその瞬間のこと。

 「傘、お忘れですよ」

 男性の隣に座っていた中年⼥性の声だった。サラリーマン男性は振り返り、驚くほどうれしそうな笑顔で傘をつかみ、頭をペコリと下げて下⾞していった。重そうなエコバッグを⼆つも抱えた⼥性は何事もなかったかのように、再び居眠りを始めた。

 線路に落ちた⼈をとっさに救った⼈がいる。溺れかけた⼈を⾒つけて、思わず海に⾶び込んだ⼈もいる。災害現場の救急救命⼠やボランティアの活動は、よく⽿にする。ワクチンを打つ前から新型コロナウィルス感染者の救命活動に従事する⼈についても、しかり。

 職業である、ない、にかかわらず、助けを必要としている⼈に躊躇(ちゅうちょ)なく⼿を差し伸べることのできる⼈の姿には清々しさを感じる。それと同時に、⾃分にはそれができなかった、と苦い思いを抱いていた。

  新型コロナウィルスの感染拡⼤を受けて1年半が過ぎる。東京都は7⽉31⽇、都内で新型コロナウィルスの感染者が過去最多となる4058⼈確認されたと発表した。

 「正常な⽣活」が⽇常のさまざまな⾯で失われている。⻑い夜が明けることを願ってひたすら待つ。4回⽬の緊急事態宣⾔のさなかに、私たちの多くは、じっと耐える⽣活を余儀なくされている。

 だからこそ、彼には⾔うべきだったのかもしれない――。

 「今から繁華街に繰り出すのはやめて」

 「危険だってことは、分かっているでしょ?」

 「あなたの、いのちを⼤切にしてください――」

 先ほどの若いサラリーマン男性には、傘のことでなく、そう声をかけるべきだった。彼にとって、1本の傘より、もっと⼤事なものを失くしてしまわないように。

(みなみきょうこ・医師、作家: ⼥性看護師の⽬を通して、医療現場の現実と限界を描いた新刊⼩説『ヴァイタル・サイン』が⼩学館より8⽉18⽇に発売されます。映画『いのちの停⾞場』は、11⽉まで東映系の映画館でロングラン上映が続いています)

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2021年8月1日