大谷翔平選手の活躍に、惹かれます。恵まれた身体(身長193㎝)とはいえ、やはり、きっと、その背後には、本人の不断の努力があるのでしょう。
現在は引退した、イチロー選手もすごかった。かつて 彼は こう語っていましたー「小さなことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行く、ただ一つの道と思う 」。地に足の着いた生き方とは、こういうことかもしれません。
しかし、そのような生き方と、理想を抱いた生き方とは、必ずしも矛盾しません。むしろ、両者が一つとなる時、真に望ましい生き方が生まれてきます 理想は、いわば、可能性のうちにある現実 私たちを招き、励まし、進むべき方向に導いてくれるものーそう思います。理想は、いわば、一つの見えない事実です。
*命そのものとしての神
イエスが生きた社会には、いくつかのグループがありました。サドカイ派もその中の一つです。彼らは、上級祭司階級や それに同調する富裕で有力な階級の出身者であったといわれています。
そのような人々の価値観は、いったいどのようなものだったのでしょうか。すべてとは言わないまでも、その多くは、いわゆるこの世的なものー例えば、金銭や物、社会的地位や名声ーを良しとするものではなかったか と思います。もしそうならば、そのような人々が、霊的存在や永遠の命、また復活などを信じなかったのは、ある意味で、自然であったかもしれません。
彼らに対して、イエスは 、はっきりとこう言います。「 あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」( マルコによる福音書12章24 節)。
聖書は、命の書。「神は命そのもの」ーこれは、聖書の根本的使信の一つです。私たちはこの命へと招かれ、それによって生きる意義と出会います。そのことを 聖書は、端的に語ります。「 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ 」(同12章27 節)。また、神の力とは、すべてのものを一つに統べる神の計らいにほかなりません。