・竹内神父の午後の散歩道 ⑨”見えない事実”に招かれて

 大谷翔平選手の活躍に、惹かれます。恵まれた身体(身長193㎝)とはいえ、やはり、きっと、その背後には、本人の不断の努力があるのでしょう。

 現在は引退した、イチロー選手もすごかった。かつて 彼は こう語っていましたー「小さなことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行く、ただ一つの道と思う 」。地に足の着いた生き方とは、こういうことかもしれません。

 しかし、そのような生き方と、理想を抱いた生き方とは、必ずしも矛盾しません。むしろ、両者が一つとなる時、真に望ましい生き方が生まれてきます 理想は、いわば、可能性のうちにある現実 私たちを招き、励まし、進むべき方向に導いてくれるものーそう思います。理想は、いわば、一つの見えない事実です。

*命そのものとしての神

 イエスが生きた社会には、いくつかのグループがありました。サドカイ派もその中の一つです。彼らは、上級祭司階級や それに同調する富裕で有力な階級の出身者であったといわれています。

 そのような人々の価値観は、いったいどのようなものだったのでしょうか。すべてとは言わないまでも、その多くは、いわゆるこの世的なものー例えば、金銭や物、社会的地位や名声ーを良しとするものではなかったか と思います。もしそうならば、そのような人々が、霊的存在や永遠の命、また復活などを信じなかったのは、ある意味で、自然であったかもしれません。

 彼らに対して、イエスは 、はっきりとこう言います。「 あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」( マルコによる福音書12章24 節)。

 聖書は、命の書。「神は命そのもの」ーこれは、聖書の根本的使信の一つです。私たちはこの命へと招かれ、それによって生きる意義と出会います。そのことを 聖書は、端的に語ります。「 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ 」(同12章27 節)。また、神の力とは、すべてのものを一つに統べる神の計らいにほかなりません。

 

*出来事としての復活

 この事実を受け容れることーそれが 信仰かもしれません。 「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです」( ヘブライ人への手紙11章1節)。

 私たちは、実際、日々の生活の中で さまざまな 見えない事実 を確認し、経験しています。それは、「信頼」であったり、「優しさ」であったり、あるいはまた 「愛」であったりします 。見えない事実は、実は、見える事柄よりも、いっそう確かで堅固なものです(サドカイ派の人々には、それが分からなかったのでしょう)。

 イエスの復活は、一つの事実です。 「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」( ヨハネによる福音書11章25~26節)。 この事実を受け入れるために求められることーそれは、単純で素朴な心であり、心から溢れ出る祈り(トビト記3章2節、6 章11~15節参照)ではないか と思います

 頑なな心である限り、見えない事実を確認することも、それを受け入れることもできないでしょう。トマスに語られたイエスの言葉が、聞こえてきますー「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである 」(ヨハネによる福音書20章29節)。

 復活を信じることは、命そのものの体験なしにはありえません。この事実をすっと受け入れることができる時、人は 「神から生まれた者 」(ヨハネの手紙1・5章1節) となるのでしょう。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年8月1日