・ある主任神父の回想・迷想 ⑪「良心」と「自己肯定」

 人間相手の仕事というのはこの世にどれくらいあるのでしょうか。

 医師、看護師、理容師、美容師、教師、ソーシャルワーカー、カウンセラー、街角の占い師や屋台のお店で販売をしている人なども、これに当たるかもしれません。要するに、私自身あまり考えたことはないのですが、司祭職はその一つですね。もちろん、神父さまの中には学業を専門にしておられる方や、その一環で著作活動に専心する方もおられますから、この場合、ひとくくりに「司祭職」と言ってしまわずに、「司牧者」という言い方をした方がが妥当かもしれません。

 プロテスタント諸教会では「牧会者」ということになりましょうか、いずれにしても一般的なイメージとしての教会共同体の代表者、カトリック教会でいう主任司祭、あるいは助任司祭という任命を受けている人たち、また、それぞれ固有の共同体の司牧に当たっておられる人たち、ないしはその仕事の延長線上で教壇に立つことを生業としておられる人ですね。その人たちは日々、生身の人間を相手に働いておられるわけです。

 こうした仕事をしている人たちには(限ったことではないかもしれませんが)、時折、深い後悔の時が訪れます。言うまでもなく後悔先に立たずですから、その気持ちを今後に役立てていくしかないのが現実だし、「過ぎたことはもう仕方がない」と割り切って前進するのが、その種の職のプロなのではありましょう。

 とは言え、私はその点、少々、プロ意識に欠けるところがあるのか、あるいは司祭職という職種の特徴として、こうした後悔を思い巡らすところがあるからなのか、その日、その時、その人とのことを振り返っては「あの時の自分を赦して欲しい」という思いに駆られることは多々あり、その思いをして後の仕事の仕方に影響してしまうわけです。

 多分これは、私だけに限ったことではなく、「私もそうです」という人はたくさんいるはずです。そしてそのような想いは、必ずしも真面目だと評される性格かどうかとは関わりなく、起こる時には、誰にでも起こり得るものではないでしょうか。

 私自身は、割り切れるほどの強さはなく、引きずりつつも仕方なく前に進む、というパターンですが、かつて、ある先輩司祭から非常に真心のこもったアドバイスをいただいたことを今でも覚えています。師は言いました。「プロ野球の監督は、既に負け試合だ、と考えられる状況において、次の勝利を模索します。選手も、致命的なミスを悔やんでいては、次の試合に支障があるでしょう。試合はシーズン中、続いていくものであって、その日、一日では終わらないからです」と。

 なるほど、と納得したものですが、その後、「そういう気持ちになるためには何が必要なのだろう」と、素直に受け取りつつも、「あとは自分自身の問題だろうな」と思われたのです。プロの選手であっても、試合のミスが決定的であれば、その時のプレーを観客は結構、いつまでも覚えているでしょうし、無かったことにはできませんから、結局は、引きずるのが現実なのだ、と思います。

 こうしたことは、良心と自己肯定とのバランスの調整や、時間の経過がもたらす落ち着きを実感できるまでの忍耐など、それらをもって対処するしかないのかも知れません。開き直れば傲慢に陥るかも知れず、自己否定からは建設的な結果は得られないでしょう。

 主は仰せになりました。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節)。この聖句を巡っては、かなり幅広い解釈の仕方があるようです。ただ、私は聖書学者ではありませんし、最初にこれを読んだのは当然、司祭に叙階されるずっと前のことです。今、この聖句について感じているのは、この「自分を愛する」ということが、本当はとても難しいことなのだろう、ということです。

 真の意味での「自己愛」と、自分の観点でしか考えようとしない「エゴイズム」では、相当な違いがあるでしょう。そもそも線を引き難い人間の感情を前に、それが「自己」によるものか「自我」によるものかー不完全な感覚しか持っていない人間には、見分け難いわけです。

 「良心」は、第二バチカン公会議の公文書に数多く出てくるキーワードで、原文ではラテン語のconscientia(コンスキエンティア)、そのもとはギリシャ語のσυνείδησις(シュネイデーシス)です。公文書では、これを「初めから備わっているもの」であると同時に「形成されるもの」であるという理解のもとに使っています。だから、「放ってもおいてもいけないし、適切に育っていかなければならないもの」ということです。

 自己肯定に一辺倒では、成長がなく、自己否定に陥っては意味がない、と言えるでしょう。「自分しか愛せない」のでは、幸せには程遠く、「自分を愛せていないのに隣人を愛する」のであれば、その隣人愛そのものが疑わしくなります。難しいですね。

 カトリック教会における日本語の「良心」の概念は以上のようなものです。小文はいわばその紹介に留まるものであります。

(日読みの下僕)

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年7月30日