・竹内神父の午後の散歩道⑩ 神への畏れと真の知恵

*良寛さんの道号(僧名)は 「大愚」

 良寛さんの「大愚」という道号は、33歳の時、師の国仙和尚から授けられたものです。「お前は一見、愚者のようだけれど、誰よりもその道心は広い。悠々と生きよ」――と 印可の(禅僧としての卒業証書)には記されていたそうです。

 この「大愚」とは、もちろん、「知識・知恵の足りない者」という意味ではなく、むしろ、「自分の足りない点をよく知っている人 」という意味でしょう。換言すれば、「自分のことをよくわきまえた人」でしょうか。聖書的な表現で言えば、「知恵のある人」です。良寛さんもまた、そのような人物の一人であった と思います。

*恐れから畏れへ

 主を畏れることは、知恵の初め」(シラ書1:14 ――と 聖書は語ります。「畏れ」とは、私たちが、圧倒的な力(決して暴力的な意味ではなく)で迫ってくる存在に出会った時に抱く「畏怖の念」です。私たちは、時々、それを日常生活において体験します。 例えば、そのような対象は、大自然であったり、聖なるものであったりします。そのような時、私たちは、ただ頭を垂れます。

 「畏れ」は、「恐れ」とは違います。イエスは生前、何回もこう語りました―― 「恐れるな 」(ルカによる福音書12章32節、マタイによる福音書14章 27節参照)。真に神を「畏れる」ことを学んだ人、その人は、あらゆる「恐れ」から解放されます。「頭を垂れること」を学んだ人は、心を「神に挙げること」を悟ります。

*真の知恵に招かれて

 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました 」(マタイによる福音書11章 25節)。

 「これらのこと」とは、イエスにおいて、まさに天の父が現れているということ。「知恵ある者や賢い者」とは、そのイエスを受け容れない人々。彼らは、イエスが神から遣わされたキリストであるということを認めず(11 章16~19節)、彼の奇跡を目の当たりにしても、悔い改めようとはしない人々です。すなわち、彼らこそ、神を知らない人々であり、聖書の中で「愚か者」と呼ばれる人々です。

 「神を畏れる」――それは、 神を知る ことにほかなりません。そして、それができるのは、まさに「幼子」と言われる人です。 そのような人は、「主の目に貴く」(イザヤ書43章 4節)、「心の貧しい人 」(マタイによる福音書5 章3節)と言われます。換言すれば、「足るを知り、分をわきまえ、 そして、慎みをもって生きる人」です。

 そのような人は、自分の知識に頼んで人を裁かず、むしろその人を受け容れます。「自由」「権利」「正義」などの言葉を声高に叫ぶことはありません。むしろ、互いに仕え合うことに心を砕き、人の喜びを自らの喜びとし、人の悲しみを自らの悲しみとします(ローマの信徒への手紙12 章15節参照)。

 「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い 」(コリントの信徒への手紙1・1章25節)ーこの言葉の深い意味に招かれたい、とそう思います。神が心に留められるのは、「世の取るに足りない者や軽んじられている者 」(同1 章28節)ーこれは 人間の論理ではありません。神の知恵です。

 この知恵に与るためにも、パウロの次の言葉を思い起こしたい、と思いますー「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい 」(ローマの信徒への手
紙12章 2節)

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2021年8月31日