・Sr.岡のマリアの風(66) 「アウトプット」に必死になって気が付いたら…

   今、恒常的な「インプット」不足を感じています。別の言葉で言えば、勉強不足、読書不足。原稿を書いたり、講話をしたり、「アウトプット」に必死になっていたら、気が付けば、何と表現したらよいのか…空っぽ感というか、上っ面感というか…。

   …で、7月、8月と、渇いたように「読んで」います。今までタダで読めていたバチカンの『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』のデジタル版が、有料になりました(と言っても、年に20ユーロの購読料…だったと思いますが)。購読を申し込み、せっせと読む。その傍ら、今は特に、東方教会の伝統、霊性、教義…関係の本を読んでいます(日本語、イタリア語、英語文献をまぜこぜにして)。

   学びのための本は、一回読むだけでは頭に「刷り込まれない」とは、尊敬する教育学のT先生の言葉。その本の質にもよりますが、少なくとも三回は読み、付箋を付け、赤・青・緑で線を引き、それをまとめてノートに書いたり、表にしたり、パソコンに入力したりして、著者が何を主張しようとしているのか、そこから私は何を引き出すのかを、知恵を絞って「奮闘」しながら考える。 つまり消極的ではなく、積極的読書。とにかく「自分の手」を使って学ぶことが大切だ、とは、T先生の見解。そのために、出来るだけ「紙の本」で読む。

   そこで、意を決して、今まで、購入したものの取り組む「気力」がなかった、ロシアの思想家、神学者たちの本を読み始めました。 Pavel Florenskij氏、ladimir Lossky氏。東方正教会の著名な神学者Alexander Schmemann師、シリア教会伝統の権威、Sebastian P. Brock氏、 Olivier Clément氏。東方教会霊性についてイエズス会のTomáš Špidlík師Marko Ivan Rupnik師の本…。

 自慢をしているわけではありません。この偉大な思想家たちの本を「分かった」などとはとても言えませんから。

 読めば読むほど、アウトプット出来るのか、と言えば、これがそうはいきません。何を考えておられるのか分からない(?)。主のみ心を求めて、一人、空の星を見つめ、頭を心を天に向けて開くアブラハムのような、この世の常識からみれば「無駄なぼーっとしている時間、空間」が必要だと感じます。

 二回目のワクチン接種を終えた次の日、全身の筋肉痛で1時間くらい休んでいたとき、頭ははっきりしていたので、いろいろ思い巡らしていました。「あー、こういう時間が必要なんだ!」と思いました。

 その後、「こういう時間」を造り出すのには、勇気が要ることも分かりました。「何かしていないと」時間を無駄にしているような気がしてしまうからです。いつの間に、そのような生活リズムに慣れてしまったのでしょう。立ち止まって考える、ありのままの自分を主の前において、主と「対話する」時間と空間を造り出すことが難しいなんて…。

 教皇フランシスコは、2021年8月1日、年間第18主日の正午の祈りのときに、その日の福音、ヨハネ6章24‐35節について黙想しながら、「私たちは、なぜ主を捜し求めているのか」を自問してみましょう、と呼びかけられました。

 イエスの時代にも、たくさんの人がイエスを捜し求めていました。その人たちにイエスは、「あなた方が私を捜し求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである…」と、つれない返事をします。

 教皇は、たくさんの誘惑の中で「偶像崇拝の誘惑」がある、と指摘します。それは、私たちの問題を解決するために、私たちの利益のために利用しようとして、神を捜す誘惑。つまり、神を、私の目的達成のために「消耗」しようとする誘惑です。

 教皇の言葉は明確です。「しかし、このような方法では、信仰は表明的なものに、こう言うことが許されるなら、奇跡主義的なものに留まります。自分たちが満腹するために神を捜し求め、満腹したら忘れてしまうのです。このような未熟な信仰の中心には、神はいません。そこにあるのは私たちの要求です」。

 教皇は強調されます、もちろん神に私たちの必要を示すのは正当ですが、「私たちの期待を遥かに超えてご自分のわざを行われる主は、何よりもまず、私たちと愛の関係を生きることを望んでおられます。そして、真の愛は、無欲、無償です。人は、お返しに何かを受け取るために愛するのではありません!それは利害です」。

 実際、私たちは日常の中で、ひじょうにしばしば、真の愛ではなく、利害関係を求めます。

 …とここまで書いて、何が書きたかったのだろう、と自分で思います。支離滅裂で申し訳ありません。これが、2021年8月始め時点の、私の頭の中です。8月下旬、9月始めの、二つの講話の準備をしながら、今はインプットされる宝のあまりの深さ、すばらしさに、私の器がついていけない、という状況を経験しています。これもまた、恵みですね。

 暑い夏、皆さんの上に、ご家族、友人方の上に、主の豊かな祝福と、マリアさまの母のご保護をお祈りしています。私のためにもお祈りしていただければ幸いです。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年8月3日