・竹内神父の午後の散歩道 ⑪赦しと和解に招かれて

誰かに忠告する、ということは、気の重いものです。伝えた方がいいだろうか、やはり、やめといた方がいいだろうか… と逡巡します。また、誰かから忠告されることも、(その指摘が当たっていても)どこか複雑な思いを感じます。

 忠告とは、「まごころをもって他人の過失・欠点を指摘して戒めさとすこと」(『広辞苑』第五版)と語られます。〝まごころをもって〟という点が、大切なのでしょう。なぜなら、もしそれがなければ、良い事態を招くどころか、むしろ、お互いの間にきしみや大きな溝が生まれる可能性もあるからです。

*神の光のもとで

 「マタイによる福音書」には、次のような言葉がありますー「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(18章15節)。

 ここで「とがめなさい」と訳された言葉(エレンコー)には、次のような意味がありますー「光にさらす、明るみに出す、誤りを認めさせる、非難する、たしなめる」。この場合の光とは、神の光を意味するのでしょうか。兄弟が、何か罪を犯した場合、人間の思いで裁くのではなく、むしろ、神の光に任せること。

 そうすれば、その人を滅ぼすのではなく、むしろ、その人の命を得ることになる、と語られます。私たちの罪を真に明らかにできる方、それは、神だけです。ヨハネは、それゆえ、次のように語りますー「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネによる福音書 16章8節)。ここで語られるその方とは、聖霊のことでしょう。

*父の御心とは

 先ほどのマタイの言葉の直前には、迷い出た羊のたとえ話が語られます。その羊の持ち主は、一心不乱に捜します。その心は、まさに、一人の罪人に対する神の心そのものです。「これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」(マタイによる福音書 18章14節)。

 父の御心とは、イエスも語るように、私たちの誰一人も滅びることなく、終わりの日に復活に与ることにあります(ヨハネによる福音書 6章35~40 節参
照)。「小さな者」とは、私たち一人ひとりに、ほかなりません。その私たちは、たとえどんなに誠実であろうとしても、過ちを犯し得る弱く不確かな存在です。パウロが語るように、自らの中に分裂を抱えています。

 「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています」(ローマの信徒への手紙 7章19節)。これが、私たちの現実の姿です。それゆえ、私たちに求め
られること、それは、互いに赦し合い受け入れ合うことであって、決して、裁いたり切り捨て合ったりすることではありません(マタイによる福音書 7章1~5節、エフェソの信徒への手紙 4章32節 参照)。

*命を得るために

 「忠告」ーそれは、罪を犯した兄弟を滅ぼすためではありません。むしろ、その人の命を得るためです。裁くためではなく、赦しと和解へと招くためです。それは、パウロが、次のように語るとおりです。「神はキリストにあって世を御自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」(コリントの信徒への手紙二 5章19節)。

 この赦しと和解は、教会においてなされます。なぜなら、教会の中心には、まさにイエスがいるからです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書 18章20節)。忠告の言葉が、自分ではなく、イエスからのものであることを、願い求めたいと思います。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2021年9月30日