・日本の聖職者による性的虐待ー”シノドスの道”からほど遠い、高位聖職者の”沈黙”、教区担当者の”驚きの発言”

 「もう何年もたっているので、悲しみが癒えるであろうとか、納得するかどうか、という話ではないにせよ。まあ、しょうがない事だっただろうな、ということ・・・第三者委員会としては『あった可能性が高い』ということでありましたので、こちら側とすれば、この司祭を守らなければいけない、と言う立場もありますから、司祭と言うよりも、この人の人権を守らなくてはいけない、ということでありますので・・・まあ和解するというような方向を模索していますね。まあお互いに判断する、と言うことでしかないだろうと思います」

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 ある信徒から私にごく最近、「これだけ、世界的に聖職者による性的虐待が問題になり、教会そのものの信頼さえ揺らいでいる今、このような発言があるのはどういうことか」という抗議と共に寄せられたのが、VICEAsiaが取材、制作したYouTube特集「日本の教会における性的虐待-Violation」。その中で、司祭の性的虐待による長年にわたる精神的ダメージに損害賠償を求めて訴えを起こした女性に関して、被告側のカトリック仙台教区の事務局長が語っている言葉だ。

 VICEはニューヨークに本部を置き、世界30か国以上に支部を持つ”硬派”のデジタルメディア。世界中の本支部で制作された情報を日々、5千万人以上に提供している、という。そのアジア版であるVICEAsiaが配信しているこの特集は、日本における聖職者の性的虐待について、カトリック仙台教区のケースをとりあげた16分弱の短編だが、今から約1年前に配信開始され、視聴回数が16万回を超えている。

 特集は、仙台教区の司祭から性的虐待を受けて40年近く苦しみ続け、裁判に踏み切った鈴木ハルミさん、被告のカトリック仙台教区の小松史郎・事務局長、そして20年にわたってカトリック中央協議会の「子供と女性の権利擁護デスク」の秘書を務めたシスター石川春子(聖心侍女修道女会)の3人のインタビューを中心に構成されており、https://youtu.be/piM1hoQ_vQE (ナレーションは英語、インタビューは英語同時通訳付き)で動画ですべてをご覧になれる。

 特集には500件を超える世界中の閲覧者から、被害者を支持し、教区の対応を批判するコメントが寄せられている。以下は、その一部だ。

 ”the interview with the priest representative made me so mad “it happened so long ago” “he’s very old and suffering from dementia too” “there’s no way to find evidence anyway” so that means that people shouldn’t be held accountable for their wrongdoings?? What a joke.” @julieghim7846

 ”As a fellow woman and catholic, it hurt so much. To all the survivor, thank you for sharing this story to us. I really hope you can recover and be happy. For the abuser, may you rot in hell and people can bring justice to the survivor. I pray for the church to recover and take a better care for the safety of the people in the church.” @reignasregina 

 ”Catholic church needs to change EVERYTHING. It’s impossible that they say things like “it happened long time ago” in each case and no matter the country, and any government judge those priests who committed crimes.”@Kaingieshia

 ”The way shiro komatsu talked about her abuse was absolutely horrible, with obviously no genuine empathy of what happened to the abused. not unexpected, but still disgusting”@adelelim3043

 ”イエスの面目を立てるために、カトリック教会が鈴木ハルミさんの名誉を取り戻すべきです。”@saiful6600

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 仙台教区での性的虐待訴訟は、一般紙などで報じられているのでご存じの方もおられると思うが、概略以下の通りだ。

 仙台市の女性が宮城県内の教会司祭から性的に暴行され、申告したカトリック仙台教区からも二次被害を受けたとして、2020年9月24日、損害賠償を求める訴え―加害者司祭(当時)を「被害者原告に対する性的虐待の直接的な加害者」、司教(当時)を「加害者を指導・監督すべき仙台教区裁治権者としての注意義務違反、原告被害者への不適切な発言および対応による二次被害の加害者」、カトリック仙台教区を「信徒への安全配慮義務違反、本件事案の調査義務違反、被害事実の隠蔽、加害者への適切な処分ならびに被害者への適切な対応についての不作為があった」として、三者を相手取り、損賠賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こした。

 河北新報(本社・仙台市)などによると、鈴木さんは1977年、当時、所属していた気仙沼カトリック教会の司祭に、夫の暴力について相談した際、教会の一室で乱暴された。
当時、別の司祭数人に相談したが、相手にしてもらえず、罪悪感にさいなまれ、精神障害を発症するなど、長い間苦しみ続けたが、主治医の助言で被害を認識し、2016年に教区に申告した。申告を受けた教区は第三者委員会に調査を託したが、同年10月にまとめた報告書は「(性的被害が)存在した可能性が高い」としたものの、司祭の責任を問わなかったうえ、司教からは「合意の上でやった」などと言われてフラッシュバックに苦しむようになり、二次被害を受けた、としている。

 原告代理人の弁護士は、鈴木さんが被害に遭ったことを理解したとする15年ごろが起点となるため、請求権はある、としており、教区については、十分に被害調査をしていないことなどが義務違反に当たると主張している。 河北新報によると、鈴木さんは24日の提訴後に仙台市内で記者会見し、「失った尊厳を取り戻すための裁判。同じように暗闇で息を潜めている被害者に声を届けたい」と語った。

 そして、結審を迎えた2022年3月初めに、仙台地方裁判所の担当判事から原告、被告双方に対し、和解のための話し合いに入るよう提案があり、双方が同意して、和解に向けた手続きが始まった。非公開で行われた仙台地裁での、双方からの和解条件についての一回目の聴取では、原告側から、①司教が公的な場での真摯な謝罪をする、聖職者による性的虐待の再発防止に、外部機関の点検を受けつつ、教区全体で具体的に取り組む、②原告に対する教区の信徒たちの誤解を解くため、原告が虐待事件の真実を語る場を設ける-など、具体的な提案をした、という。

 それに対し、教区側が代理人弁護士を通して出した和解条件の”素案”は、関係者によれば、概要は①この訴訟は、原告が被告から性的侵害行為を受けたとして提起され、被告らはその事実を全面的に否認している②だが、教区が設置した第三者調査委員会が、原告の主張する性的侵害行為は「存在した可能性が高い」と判断しているので、「事案の性格に鑑みて」和解する⓷第三者委員会の報告書が出されたのに対して、速やかに対応すべき点で欠けるところがあったことを謝罪する④被告の仙台教区は、原告が教区の元信者であって、その信者が「性的侵害行為」の申告を行ったことを考慮して「解決金」を支払う、ということとされている。

 要すれば、「自分たちは悪くないが、第三者委員会が『性的虐待が存在した可能性が高い』との判断を出しているので、和解する、第三者委員会の報告に速やかに対応すべき点で欠けることがあったことは反省する」という内容で、被告たちとしては、あくまで性的虐待行為を認めず、謝罪もしない、反省するところがあるのは「速やかに対応しなかった」ことだけ。 しかも、原告をどういうわけか「元信者」と決めつけ、信者だったから「解決金」で片を付ける、というように読み取れる。

 案の定、というべきか、和解交渉は1年以上たった今も進展した、とは聞いていない。

 仙台教区では、2006年3月から教区長を務めていた平賀徹夫司教が、この裁判結審と同じ2020年3月に役職定年でに退任、小松史朗師が代行の使徒座管理者を務め、2年後の2022年3月19日にエマヌエル・ガクダン司教が就任している。司教からこの問題についての公のコメントはない。

 「都合のいい箇所だけピックアップした」という批判を受けないように、仙台教区の小松資料事務局長がVICEAsiaに語った全文を以下に改めて掲載すると、次のようになる。

 「もう何年もたっているので、悲しみが癒えるであろうとか、納得するがどうか、という話ではないにせよ。まあ、しょうがない事だっただろうな、ということ。事が起こったのは1970年代の話であり、その当事者である司祭も高齢で、だいぶ年齢がいってますんでね。(認知症)と言うこともありましたので、なかなか答えが難しい状況ではありました。

 もちろん第三者委員会というのは警察でもないので、捜査をするといっても、もうだいぶ前の話ですし、証拠を一生懸命探している、ということではないので、第三者委員会としては「あった可能性が高い」ということでありましたので、こちら側とすれば、この司祭を守らなければいけない、と言う立場もありますから、司祭と言うよりも、この人の人権を守らなくてはいけない、ということでありますので、なかなかむつかしい話ではありますけれども、まあ和解するというような方向を模索していますね。まあお互いに判断する、と言うことでしかないだろうと思います」。

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 問題は、このような言葉が、苦しみの中であえて被害を訴えている信徒に対する思いやりの欠如、他人事のような対応、教皇フランシスコが「弱い人々に寄り添い、互いの声に耳を傾け、共に歩む教会への願い」を込めて進めておられる”シノドスの道”とはかけ離れた、”聖職者主義”からいまだに抜けきれない、日本の教会の少なくない聖職者、なかんずく高位聖職者の意識状況を反映しているように思われるからだ。

 これは単なる思い過ごしではない。具体例を三つ挙げよう。

①日本の司教団は、数年前に、聖職者による性的虐待に関する”アンケート”をまとめたが、その内容はあくまでアンケートで、実態究明にははるかに及ばず、しかも、それ以来、具体的な対応を示さずに今に至っている。

②日本の司教団は毎年3月に性的虐待被害者の日を定めているが、年々おざなりになっており、今年3月は、東京教区がカテドラルでミサを挙げた以外、この問題を考える講演会などの行事を各教区が行ったとは聞いていない。長崎教区では、女性と子供のための権利保護の教区の窓口の担当女性が、司祭たちのパワハラのためにPTSDを発症、職務を継続不能となった後、閉鎖になっていた窓口を再開した、という、何の説明もないベタ記事を、「性的虐待被害者の日」に合わせたように教区報に掲載したのみ。

③長崎教区ではこのパワハラに対して、被害女性が裁判中で、教区側の強硬姿勢で和解調停も進んでいない。長崎教区は、先に、別の司祭の性的暴行に遭った女性が起こした損害賠償訴訟で、長崎地裁から損害賠償命令を受けているが、控訴はしなかったものの、教区はいまだに、被害女性に損害賠償をしたのか、それより何より、公式に謝罪したのか、精神的なダメージのケアに努めるのか、など全く公的な説明がなされないままだ。

 そのような流れの中で、同様の性的暴行に遭った仙台の女性が損害賠償訴訟を起こし、教区が設けた第三者委員会で状況的に黒、という判断を出したにもかかわらず、和解調停を教区側は進める意思がなく、別添したYoutubeのような言葉を教区事務局長が語っている、というわけだ。

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7 月 18 日(火)-21 日(金)開かれる2023 年度第 1 回臨時司教総会中に開催する「司教の集い」で、東京教区の田中昇師を講師に「教会の倫理的刷新」について学ぶ、と7月号カトリック中央協議会報に公示されている。

 このテーマであれば、当然、聖職者の性的虐待問題と司教団の対応についても”学ばざるを得ない”だろうが、上記に例示したように、いまだに司教も関係司祭も、性的虐待被害者に真剣に向き合い、耳を傾け、どう対応すべきか、を理解し、真剣に具体的対応に踏み出そうとしていない状態で、いくらお”勉強”をしても、何の役にも立たないだろう。

 日本では7月13日から改正刑法が施行され、不同意性交罪と不同意わいせつ罪が設けられた。暴行・脅迫や恐怖・驚愕(きょうがく)、地位利用など8項目の要因で、被害者が同意しない意思を形成・表明・全うするのが困難な状態にさせ性行為に及んだ者は罰する、というものだ。この規定に基ずく、初の逮捕者が翌14日に仙台で出ている。

 13日には、名古屋高裁が、知人女性への強制性交致傷罪に問われた被告の控訴審判決で、無罪とした一審の富山地裁の裁判員裁判判決を破棄、犯罪事実を認定し、求刑通り懲役7年の判決を言い渡した。判決理由は、「女性が置かれた状況や心理に思いを致さない検討を続けた」「女性は)被害が文字に残ることに抵抗を感じたため、性被害に遭ったと率直には記載できなかった」というものだ。

 世界の教会は、そして日本社会も、性的虐待に対して、弱者に真剣に向き合う姿勢に、大きく動いているのだ。

 

(2023年7月17日記・日本の教会の現状を危惧する東京の一信徒)

2023年7月17日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉙若い世代が求めるイエスを中心にした“愛ある教会”への道は…

 早いもので7月になり、カトリック教会も、司祭の移動や委員の交代等から2か月が過ぎ、小教区全体会(総会)も終えたところが多いだろう。

 カトリック教会は、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派である組織として、社会に受け入れられていることは周知の事実である。日本でも子供達はキリスト教は「世界三大宗教の一つ」と教科書から学んでいる。しかし、日本人の多くは宗教、特にキリスト教に関心を持つ人は少ない。宗教二世問題やカトリック教会の性的虐待問題が次々報じられる昨今、宗教に対して益々負のイメージが強くなっていることも、否定できない。宗教を持つ者として、真摯に受け止めねばならない世の中の動きである。

 カトリック信者として襟を正す為にも、報道からの情報には耳を傾け、対処していかねばならない、と私は思っている。しかし、信者歴の長い方ほど性的虐待問題には関心が薄く、話題にも上がらない現状がある。カトリック中央協議会に各教区ハラスメント等対応窓口の案内が発表されたが、「この窓口で正しい対応ができるのだろうか」と案じるのは、私だけであろうか。今、守らねばならないのは何であるのかを考えるなら、これらは親身になって相談を受けてもらえる窓口だろうか、疑いがある。以前の窓口も、形だけの機関だった、と私は思っている。

 カトリック信者としての一人ひとりが持つ信仰の意味、生き方は違って当然であるが、信者としての言動に疑問を持つ場面が最近とにかく多過ぎる。それも、教会の中心で運営する信者たちからだ。私が知る地方の教会は、新年度を迎える時期になると、各小教区評議会議長は声を揃えて「若者が居ないから、自分が議長にならねばならない」とおっしゃる。「若い世代に譲りましょうよ」の私の声など、笑顔で一蹴、である。

 教会が組織ならばビジョンを持って運営し、若い信徒も増えていなければならない。各小教区評議会規約には、必ず教会の目的が明記され、委員の任期も決められている。それを守っていない小教区が多々あることに驚く。

 まさか、小教区規約を担当司祭はじめ議長や代表委員が知らないわけではあるまい。担当司祭が頻繁に変わる教会では、小教区を運営し続けている信徒たちの都合による規約があり、皆がそれで納得しているようだ。全信徒に真の評議会規約の指導が行われていないため、規約に沿わない信徒の発表からは教会が正しく動いてないことが確信できる。これでは、教会共同体の意味さえわからないだろう。

 私が知るこの教区は、当時の司教の考えから、各小教区の状態を発表し合い、司教を交えて会議を繰り返し、共通するルールを置き、それぞれの小教区に鑑みて小教区ごとに数年かけて丁寧に規約の作成に至った経緯がある。私の所属する小教区では、担当司祭も信徒も、なかなか司教に認印をもらえないことに半ば諦めの境地になりながらも、最後までやり通し、やっと認印をもらえた時の安堵感を、今も忘れていない。

 同じ教区でも他の小教区は、このような規約作りの苦労を知らずに教会活動を今日までしてきたのか、と今さら疑問を持つ私である。各小教区には、司教の署名と捺印がある小教区規約が必ず存在する、と思ってきた私にはショックしかない。勿論、信徒数の極端に少ない教会についての対応も話し合い、難しかったことも覚えている。

 あれから20年、とにかく世代交代を呼び掛け、「若者を育てよう」と頑張った司教の思いを受け継いでいるなら、「若いイエス」を中心とする教会の姿がここにあるはずだ。「教会に若者が居ない」と笑顔で言う信者たちに自省の念はなく、教会の活性化は望めない。

 信徒数は、教区の経済にも影響する。若い世代の小教区代表信徒からの「小教区あっての教区ではないのですか?」との問い掛けに、「違う、教区あっての小教区だ」と、”確信”をもって答える司教のお膝元にいる聖職者たち。「カトリック教会ヒエラルキーは、例え三角形が逆になっても権力の強さは変わらない。それがカトリック教会だ」と。どうしても一信徒では満足できず、第二の人生を”権力第一主義”の聖職者への道を選んだ方々の本音の言葉だろう。

 信徒数減少にもポーズだけで危惧し、「なぜ教会がこのような状態になったのか」との反省すらないのである。昨日まで一信徒だったのなら、信徒の気持ちが分かるはずではないか、と言いたい。経済問題を含め、教会(教区)に疑問を持つ若い信徒をことごとく排除し、ヒエラルキーに従う信徒だけの教会は、イエスの求める教会と言えるのだろうか。

 教会での”地位”と”名誉”、役割だけを欲しがる信徒たちに福音は届かないようだ。これでは、若い世代が求めるイエスの愛を中心にする“愛ある教会”への道は遠い。若者は純粋に聖書を読み、純粋にイエスの愛を求めて日々生きていることを、知って欲しい私である。

 今年、そして来年へと“シノドスの道”が正しく続いていく、ということであれば、現代の教会における組織としてのミッションとビジョンを是非とも問い正していただきたい私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2023年7月1日

・”シノドスの道”に思う ①日本の教会は、教皇の意図も、”シノドス 的教会”の意味を理解していない

2021年10月に教皇フランシスコの手で始まった”シノドスの道”は、今年10月と来年10月の二回にわたってバチカンで開かれる世界代表司教会議(シノドス)総会で最終段階を迎えます。でも、これまで日本の教会は、まともに”シノドスの道”を歩んできたのでしょうか。教皇が願われているように、各教区は上に報告を挙げても、それで終わりにせず、小教区、信徒の有志グループでも、教区レベルでも、歩みを続けている、と言えるのでしょうか。

 

*ドイツ司教団のサイトにある”シノドスの道”特集号が参考に

 昨年の夏、ドイツ司教団のサイトにヘルダー社刊の特集号「動き出す普遍教会―シノダルな道」が出版され、英訳を読み、そのうちの15個の抄訳を作りました。これまで教区レベル、国レベルなどの”シノドスの道”の歩みを指導するなど実際に関わりをもった方々の報告を集めたものです。それを読んで、現代の世界のカトリック教会がどのような状況にあるのかが、よく分かる気がしました。

 カトリック聖職者が、ほぼすべての国で性的虐待の問題を起こし、国家規模での訴訟や裁判がなされているだけでなく、「司祭は、教会のリーダーとなり得ていない」との評価がもっぱらであること、教会のほぼすべての活動の主体は女性なのに、その貢献に見合った権限や地位を与えられていない国がほとんどであること、教会の教えや倫理が一般信徒の日常生活から乖離したものになっていること、などが具体的に述べられています。制度も教えも倫理もすべて時代の要請に応えておらず、このままではカトリック教会という巨大な船は、確実に沈んでいくことを確信しました。

 特集号の中で、フランスのポール・ゼリッチ氏は、人々はこれまで教会に対して多くの失望を味わってきたので、「これ(今回のシノドス総会)が最後の機会となるかもしれない」と警告しています。

 

*日本の一般信徒はほとんど何も知らされていない

 

 日本の教会は小教区レベル、教区レベル、そして国レベルの”シノドスの道”にどのように取り組んだのでしょうか。ドイツ特集号の私訳を読まれた、ある県の在俗会の女性から、次のような感想をいただきました。

 「特集号を読んで、『なぜ今シノドス(の道)なのか』がピンときました。教区から、各小教区にシノドス(の道)に関する質問用紙が配られ、話し合って提出するようにとのことでしたが、こちらの地域ではシノドス(の道)について一言も信者には知らされず、提出期限を迎えました。私の在俗会宛てには、質問用紙が送られてきたので姉妹たちと話し合って提出しましたが、『なぜ主任司祭は、信者に話し合うように勧めなかったのか』と主任司祭に聞くと、『分からないんだよ、教区長も笑って言ってたよ、信者には分からない、って』という返事。そのような司祭の姿勢に憤りを感じました」。

 別の町の教会の知人女性に、「質問紙をもらいましたか」と聞くと、「そのようなものは一切ありませんでした。もしあれば、書きたいことはたくさんあったのに」と。また同じ町の別の教会の女性は、「シノドスとかなんとかとか、もちろん大切なのでしょうが、私にはピンと来ません」との返事でした。

 

*駐日バチカン大使が司教総会で、「日本では多くの集まりが『シノダリティ無し』に開かれている」と苦言

 

 では司教たちは、どのように対応されたのか、それを考える上で、駐日バチカン大使のレオ・ボッカルディ大司教が2023年2月13日に司教総会の開会式でなさった挨拶「シノドスとシノダリティ」(カトリック中央協議会HP)が参考になります。

 大使は、はっきりと言われました。「皆さん、今回の日本のシノドス(の道)の集まりの多くは、『シノダリティ無し』に開かれました」と。その場におられた司教さまたちは戸惑ったでしょうね。大使の挨拶を、私なりに解釈してみました。

 「シノダリティ(共働性)」とは、基本的には、教皇、司教、司祭、修道者、一般信徒などが分け隔てなく、同じ「信仰の感覚」を持つ「神の民」として「共に」生き、働くことを意味します。教皇フランシスコによると、神が第三千年紀に期待している教会は、シノダリティがあらゆる面に浸透している教会です。シノドス的に、つまり「共働」して、同じ地平で、同じ洗礼を受けた人間として等しい立場で考え、議論し、何が神の望みかを探し、そして実行していく、そのような過程を継続していく-それがシノダル(共働的)な教会の姿だと思います。

 つまり、大使は、日本の教会の”シノドスの道”の取り組みは、ほとんどの場合、そうした理解を欠いたまま、小教区レベル、教区レベル、そして国(司教協議会)レベルの集まりをもったにすぎない、という”評価”をされたのです。「そうでない。私たちは、十分理解して、努力している」と自信を持って反論された司教がおられたのでしょうか。

 

*秋のシノドス総会の討議要綱もとに、小教区レベルから踏み込んだ分かち合いを

 

 ところで、秋からローマで始まるシノドス(世界司教総会)の討議要綱(作業文書)が6月20日にシノドス事務局から発表されました。この文書はこれまでの大陸フェーズまでの議論を踏まえたものです。内容は、A,Bから成り、Aで「シノダルな教会とは、どういう教会か」が示されていて、Bで「そのような教会になるには、何をしたらいいか」を3つの優先事項(交わり、参加、派遣)
に分けてそれぞれのワークシートで、ローマに集まる前に、実践的・具体的に考えておいてもらいたいことが示されています。

 そのうちのB2は「派遣における共同責任」、B3は「参加、統治(管理)、権威」で、重要だと思います。イエスの時代の後に、一般信徒、司教司祭、修道者などと分かれても、洗礼によって共通の等しい尊厳を神から与えられた信者として、「共働する」教会になるためにどうしたらよいか、です。

 例えば、現行の教会法典では、小教区において一般信徒の司牧評議会はいわば「諮問機関」としてあり、決定権はありません。それでいいのか、です。何かを決めるとき、意思決定のプロセスに一般信徒も相応しい権限を持って参加できるようにすること、また種々の奉仕や役務に信徒が参加できるための資格や権限を与えること、そのことを教会法典にきちんと規定することなど。また教皇フランシスコが「イエスの弟子たちにとって唯一の権威は奉仕の権威である」と言ったように、司教たちの権威が権力や支配とならず奉仕となるために、組織や制度、手続きなどをどう改革するか、透明性と説明責任を確保しつつです。

 従って、一般信徒も持つ「共通祭司職」と、叙階の秘跡による「位階的祭司職」の関係も問題になりますし、女性の助祭叙階の問題等も議論されれることになります。期待したいですし、日本の教会でも、改めて小教区レベル、グループレベルなどから、もっと踏み込んだ分かち合いをしていくべきではないでしょうか。

*文中の特集号はサイトwww.synodalerweg.deを参照。HERDER THEMA“UNIVERSAL CHURCH IN MOTION ,Synodal Paths”のこと
です。

(西方の一司祭)

2023年6月29日

ChrisKyogetuの宗教と文学 ③ゴッホと聖書―「全能の神ができないことはただ一つ… 罪人の破門だ」

 「喜びなさい、大いに喜びなさい、天には報いがある」(マタイによる福音書5章12節)

Ⅰ 絵画への目覚め

 ゴッホは画家として有名ですが、パトロンでもあった弟テオにあてた手紙は文学のように言葉が美しいことで有名です。小林秀雄が取り上げたこともあるので、知っている方もいるのかもしれません。ゴッホの手紙は903通ほどあり、その殆どが弟テオに送ったものです。そんな彼が1881年12月23日、金曜日の手紙にこんな言葉を残しています。

 「神は全能ではない。神にできないことはひとつある。全能の神にできないこととは何か? 全能の神は罪人を破門することができないのだ」

 これは、マタイによる福音書の5章、「喜びなさい、大いに喜びなさい、天には報いがある」への彼の反発のように思えました。「全能の神は罪人を破門することができないのだ」これを実際に言ったのは、一人の神父のようですが、何故このように言ったのか、この発言を拾ったのか、手紙なので真意はわかりません。この箇所の他の内容はどんな内容だったのかというと、厳格で自由恋愛を良しとしない牧師の父親への反発が多く書かれている手紙でした。

 カトリック信者の多い土地に生まれたゴッホは牧師の子供でした。上層中産階級というもので、子供の努力次第で上流にも、そして下に落ちることもあるという環境の中で育ちました。ゴッホの両親は子供達に良い教育を与え、そして上流社会への邁進を期待していました。ゴッホは、そんな両親、特に牧師である父親の方針を毛嫌いしていました。それは、父親が教師や医師ではなく、イエス・キリストを語る牧師だったからです。ゴッホの聖書解釈は父親と対照的なところがありました。

 前回、少しだけシモーヌ・ヴェイユの話をしました。工場勤めをした彼女が、現場を見た彼女は表層的な宣教は役に立たないことを知らしめましたが、ゴッホはヴェイユが生まれる前に同じ体験をしています。牧師を志したゴッホでしたが、挫折をしてしまいます。彼はそれでも「伝道師」として炭鉱地域へと向かい、労働者と同じように働いて、地面で眠っては貧しい人達のために聖書を読んでいました。

 現場は労働者の抑圧、死、労働争議が繰り返される日々、そこで彼の語るイエス・キリストは疎まれるだけでした。更に福音伝道委員会はゴッホを「みすぼらしい」という理由で認めませんでした。更に、ゴッホの姿は伝道師としての威厳を損うとのことで、彼等は仮免許を剥奪しました。

  ゴッホは炭鉱で働く貧しい人をドローイングで描いていました。免許剥奪後、弟のテオはその絵を見て、ゴッホに画家になるべきだと言いました。ゴッホが画家に目覚める要素は複合的な他にもエピソードがありますが、これが根幹だと思います。

Ⅱ「貧しさとカタルシス」

 定立と反定立を認めたのは「心理学」ですが、相反するものや矛盾の共存は、音楽や文学でもそれは強く人の心を揺さぶるものでもあります。「哀しいは美しい」というように相反するものは特にロマン派は様々な作品を残しました。それは「カタルシス」とも言えるでしょう。

 「カタルシス」とは、元はギリシャ語で医学の語彙でしたが、精神分析の用語としては、劇場や物語を通して、耐えがたい感情を創造すること、それによって悪い情念を「排出」させ癒すことも期待されます。ゴッホは彼の絵画の力強さから「情念」を約束させ、残された者に何等かの解放させる力があります。(勿論、ルソーがカタルシスを批判したように、このような感情の排出に「何の意味も持たない」と思っている人もいます)

 5章11節によると「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき」とありますが、その言葉と自分の経験が重なる時、それは抑圧でもありますが、同時に、自分自身の困難と聖書が共感することは、カタルシスでもあるのでしょう。

 「心の貧しい人」というのは、金銭的な貧しさだけではなく、不遇等も含まれています。そして、このような人を「聖人」扱いすることはよくあるのですが、実際は、清いだけでも生きられないことも事実です。大切な人や神に感謝しながらも、「自分自身を欠陥品のように何かを恨んでいる」というのもあるのだと思います。それはゴッホが炭鉱で見た「現場」です。

 「神は罪人を破門しない」としながらも、目が光を受け入れるように、彼の場合は、絵画の才能を「神の声」だ、と信じたのだと思います。それはとても貧しかったからです。その強さを、福音書は認めてくれているように思います。ゴッホの代表作の「星月夜」は月夜に闇が蠢いているのが特徴です。闇の色と光の色が混ざりながら、弟テオには感謝を伝えたいと彼は手紙も書き続けました。目に見えない「報い」と共に、彼の姿は絵画を通して多くの人にカタルシスを与え続けています。

 彼のように「天の国」を信じて描き続ける毎日は、それは目に見えないものだとしても、「神からの祝福」を受けているのです。そうだと信じて、今日は終わりにしましょう。

 マタイによる福音書5章1~12節より

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。

 幸い

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 平和を造る人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

2023年6月29日

Sr.阿部のバンコク通信 (79)主が「もういいよ」と言われるまで、福音宣教に捧げる人生を歩み続けたい

    タイ国の宣教奉仕に召されて、ほぼ30年。この宣教の地で誓願60周年を祝い、80 歳。これまでの人生を思うと感無量です。主の恵みと慈しみに導かれた日々でした。

 仙台市の青葉城広瀬川の辺りで、私と妹は生まれました。空襲を逃れ、母は私を背に、妹の皓子を抱えて、焼夷弾の下を潜り抜けて歩き続け、宮城県の北部、登米郡の見渡す限りの水田地帯の村に疎開。大家さんが空いていた馬屋を使わせてくれ、父が人が住めるように改築して、そこで弟が生まれました。

   両親は大家さんの田で働き家賃とし、父が写真を撮ってお米や生活費用に当て、借地を耕して野菜を作り、私は”肥やし係”でバケツと十能を持って馬糞拾い。父や母と出かける時は、竹の筒を提げて、イナゴ取り、串刺しにしてあぶって、おやつに。お陰で頑丈な体に育ちました。大人のまねをして手に唾をパッと掛けて縄をになったり… 私の素敵な幼稚園、工夫して生きる人生の学び舎でした。

   小学校に入る歳になり、母の実家福島、教会がある町に引っ越しました。福島市大町1番地、最初にミサが捧げられた「三才館スタジオ」という写真館で、弟妹たちが生まれました。両親は信仰を何よりも大事にして私たちを育ててくれました。子供の頃の思い出は、語り尽くせないほどの、笑いと涙の物語です。

   長女の私は、母には家の実情を話され、「協力してね」と言われ、頼りにされました。弟妹の面倒、家事、お花とお茶の先生をしていた母の手伝い、父の写真館の手伝い… 全て、後の聖パウロ会で奉仕の使命を果たすのに役立ちました。

   兄が取り寄せた聖パウロ会紹介のパンフレットに興味を持ち、女子パウロ会に導かれ、その後、兄弟たちも次々従いて来ました。
父は入会の時「羊子には何でも教え、やらせました、どうぞ使ってください」と。母は修道院の門で「羊子を捧げるのは、お母さんの右腕をもぎ取って捧げる事だからね」と。私を叱咤激励する一言は、我が胸の宝です。

   仏教国タイでの宣教生活30年。福音を全ての人々に、美味しいタイの風味で、日本の漫画が大好きなタイの人々に「ベンハー」の漫画のタイ語版の出版から始め、単行本47冊(各5,000部余)、AV関係21枚、メディアを通して捧げてきました。

   昨年9月、進行癌の治療が必要になり、私の持ち前のタフな活動に急ブレーキが掛かり、生活が一変。末期膵臓癌の聖パウロ会の弟、眞理とグッと親密になり、LINE で濃密に語り合い、聖パウロ会での福音宣教人生を捧げ切ろうと励まし合いました。「生贄のキリストと共に、小さな生贄として私たちを捧げよう。会の祈りにあるように… 神様が『いいよ』と言われるまで、精一杯、捧げよう」と。

 今年1月16日、聖パウロの弟子の人生を大阪サンパウロ宣教現場で生き切って、眞理は召されました。まだ若かったころ、彼は私に、「僕はどんな時にも微笑む事に決めたんだ。顔は他人のためにあるからね」と言っていました。以来、屈強な筋金入りの健康体、眞理の顔は、笑顔で輝き続けました。

 私も、主が「もういいよ」とお呼びになるまで、聖パウロに従い、福音宣教に捧げるこの道を歩み続けたい、いつか、がっちりと、眞理と握手する日を楽しみに。 天国と日本から、阿部大家族が応援してくれています。DEO GRATIAS !

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2023年6月29日

・愛ある船旅への幻想曲 (28)「教会とは何か」、そして今、「聖職者とは何か」問い続けて

 私は、ここ数年「教会とは何か」を考え続け、今は「聖職者とは何か」を日々問い続けている。カトリック教会で私と同じ疑問を持つ信徒と持たない信徒の二極化は、昔から珍しくなさそうだ。

 今、時代の大きな転換期であり、宗教界も曲がり角に立っている。宗教が持つ倫理観が欠如されつつある問題が後をたたないことも原因だろう。カトリック教会に於いては、何世紀も前から教会に疑問を持つ信者がいたにもかかわらず、その信者たちとは話し合いの場を持たず、教会上層部だけで解決策を講じてきた印象がある。

 そのように「聖職者主義」と「位階制度」を推奨するカトリック教会の失態が後を絶たず、教会の在り方を社会にも問われている今こそ、教会の想いを知りたい

 教会を考える時には、『イエス・キリストの教えと癒し』を一人ひとりがどのように理解しているのか、を問うことが大事だろう。次に、幼児洗礼、成人洗礼に関係なく、初めて出会ったイエスの印象は、どうであったのかを問いたい。信者として生きるため、自分を制するためには繰り返し原点に戻らねばならないからだ。

 私は幼稚園児の時に聖公会教会の日曜学校でイエス・キリストに出会った。聖画の美しさに感動し、熱心に通ったものだ。何よりも嬉しかったのは、教会にあるオルガンを特別に弾かせていただいたことだ。純粋に聖なるもへの憧れから、芸術から宗教への扉を開いてくださったうちの一人だ。数年前まで行われていたキリスト教一致祈祷会で、当時の私を知る退職司祭に会うと「オルガンを弾くやんちゃな子だった。カトリックに行ってしまったが」と毎回笑顔で皆の前でからかわれたが、カトリックとプロテスタントの信者たちの空気が和むために、それは必要なやりとりだった。そして、それは、当時の日曜学校の先生方と子供たちの自然体のやりとりを思い出す場面でもあった。

 第二バチカン公会議を招集された聖ヨハネ23世教皇、その後を継ぎ、公会議を締めくくられた聖パウロ6世教皇は、カトリックとプロテスタントの教会一致を目指され、「キリスト教会の原点」に戻るよう尽力された。

 

 以下は、第二バチカン公会議やシノドスについて書かれている教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』を読みなおし、私が興味ある箇所の抜粋である。

 「第二バチカン公会議で表明され、1974年のシノドスでさらに確認されたことですが、教会が全世界を真に信頼されるかたちで福音化するためには、絶えざる回心と刷新によって、教会自身が福音化されねばなりません… また宣教者も教会も福音を勝手に扱う絶対的な主人また所有者としてではなく、むしろ福音の奉仕者として、自分に託された福音を非常な忠実さをもってのべ伝えるために出発するのです」(『福音宣教』15 「教会と福音化の相互関係」から抜粋)

 「しかし残念ながら、ここで次のような事実を考える必要があります。たとえば、善意はもっていても、間違った考え方をしている人々があります。キリストを愛するが教会なしに愛したい、キリストに聞くけれど教会のいうことは聞きたくない、キリストに属するが教会の外で属したい、などという人々の声を聞くのははまことに悲しいことです」(『福音宣教』16 「キリストから離れられない教会」から抜粋)

 この2箇所は、「教会への理想と現実からのメッセージ」と私は受け取った。基本に戻ることが理想の教会の姿であり、基本がしっかりしてなければ現実の姿を直視できず、判断も誤るだろう。

 日本の教会の状態、日本人の信仰心をずっと前から憂いていた司教方が居られたことも、承知している。教会の若返りを願い、古い固定観念からの束縛を解き放つべく勇気ある導きをなさった方々だ。彼らは、人間として社会で生き、ミサ中にはキリストの姿が見える司式者、経験による真実を述べ伝える説教者であり、日本の文化と教会を守るための努力の足跡を残されている。

 今、衰退の一途を辿っているいくつかの日本の教区は、「一般社会における民主主義の常識をわきまえない、責任感のない教会代表者の集まり」に、あるいは「古い体制の欠点を見直そうとしない司教にとって都合の良い信者の集まり」になってしまっているのだろうか。

 自分の意見を表明することもない、どっちつかずの風見鶏のような人間は「神の問いかけに気付かないふり」ができるのかもしれない、と諦めの心境にある近頃の私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2023年6月4日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㉜「Veni Sancte Spiritus(聖霊来てください)」

 5月28日に私たちは「聖霊降臨の主日」を祝いました。主イエスは天に昇られる前に、聖霊がその後に降臨して使徒たちに力を与える、と告げられました。それが「使徒たちが聖霊によって洗礼を受けた」(使徒言行録1章5節)日であり、主イエスが選ばれた「岩」である使徒ペトロの上に建てられた御自分の教会(マタイ福音書16章18節)が誕生した日でした。

 聖霊降臨のミサ典礼の中で特に印象的な中世のお祈りのひとつ、「Veni Sancte Spiritus(聖霊来てください)」が含まれています。この「聖霊の続唱」という聖霊へのお祈りは、少なくとも13世紀に遡り、それ以来、聖霊降臨の祭日のミサ典礼で使用されてきた、と言われています。

 私は昔から、このお祈り(続唱)が大好きです。生まれ育ったシンガポールの教会では、原曲のグレゴリオ聖歌旋律でその英語版(”Come Holy Spirit”)が歌われていました。日本に来てから
日本語版の「聖霊来てください」も好きになりました。原曲のままではなく、グレゴリオ聖歌旋律と日本独特の旋律を足して割ったようなメロディーで、グレゴリオ聖歌と似たような聖なる祈りの雰囲気が伝わっているのが好きです(音楽専門家ではないので、あくまでも個人的な感想です)。

 とは言え、この聖霊への祈りで最も素晴らしいと思うのは、歌われる旋律ではなく、祈りの言葉そのものが心に響くことです。どちらかと言うと、聖霊のことを教えてくれているからです。この祈りを通して、次第に聖霊のことや働きを少しずつ、より一層知り、より信頼することを学ぶことができると思います。

 「聖霊来てください。/あなたの光の輝きで/私たちを照らしてください」

 聖パウロはコリントの信徒への第一の手紙(2章)の中で、「聖霊の賜物には理解力と知恵が含まれる」と教えています。私たちは、聖霊の降臨を呼びかけ、その光をもたらし、私たちが霊的なものをより明確に見て、理解できるようにしてくださるよう、神聖な光を照らしてくださることを求めます。

 「やさしい心の友、/さわやかな憩い、/揺らぐことのないよりどころ」

 聖パウロはローマの信徒への手紙の中で、私たちが神を呼び求め、神を切に待ち望むのは、聖霊が、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださっているからだ、と書いています(8章16節)。聖霊が私たちと共におられます。聖霊の存在を感じるとき、私たちは神の栄光を、たとえほんの一瞬でも垣間見ることができるのだ、と思います。そして、何の慰めもなかったのに、慰めを見出すことができることは、なんというさわやかな憩いでしょう。

 「恵みあふれる光、/信じる者の心を満たす光よ」

 使徒言行録の中では、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」と聖パウロが言っています(17章28節)。聖霊は私たちを満たしてくださり、聖霊がなければ私たちの心は空しいです。
「Veni Sancte Spiritus(聖霊来てください)」の祈りは、私と共におられる聖霊への理解を新たにし、聖霊の力と助けを呼び求めることを思い出させてくれます。

 典礼聖歌352番「聖霊の続唱」(https://youtu.be/XyPsS-Pak0Y)

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、
私たちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、揺らぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵みあふれる光、信じる者の心を満たす光よ。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えて行き、
誰も清く生きては行けない。
汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手を癒す方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。
あなたの言葉を信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたは私の支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。アレルヤ

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2023年6月4日

・Sr.阿部のバンコク通信 (78)聖霊の息吹を受けて、スパイスの効いた暮らしを!

     愛読者の皆さんお元気ですか。私たちは2千年余の聖霊の時代を生きています。

 歴史に燦然と輝く出来事もありますが、そっと働く心憎い霊の導きもあります。人知を遥かに越える霊の働きに心を澄ませると、意外な気付きに元気が出ます。「聖霊の息吹を受けて、スパイスの効いた生活をしたい」と願うこの頃です。

 ところで、タイ料理に使われるスパイスの数々には、本当にびっくりします。見たこともない自然のスパイスがそれぞれの料理に独特の風味を付けてくれるのです。代表的なものを紹介します。

 まず「唐辛子」。何と10種もあり、緑と赤の形も大きさも様々、生と乾燥させた物を使い分けているようです。疲労回復、殺菌防腐、食欲増進効果があります。
 次に、ほとんどの料理に使われる「ニンニク」。特に紫色の小粒のものは格別で、炒め物には皮のままたたき潰して、まず必ず入れます。臭みも無く、滋養強壮剤で高血圧や心臓病の予防になります。

 そして、「ターメリック」。生姜のような根菜で生のまま、ぶつ切りにして料理に入れ、利き味を出す強壮剤。

 「カー(ガランガル=生姜の一種)」や「レモングラス」は、肉や魚の臭みを取り、爽やかな香りと味つけをしてくれます。レモングラスはスープなどには欠かせず、お茶としてもすっきりした味わい。利尿作用があり、疲労時の強壮剤。

 「バイマックル」と呼ばれるコブミカンの葉。爽やかな酸味の香りを出しスープの味を整え、ビタミンA、Cが豊かに含まれています。

 他にも書き出せないほどのハーブ、スパイス類。どれも自然の植物であり、タイでは平素の調理に使い、食することの醍醐味を楽しみ、創造主からの健康を支える賜物なのです。タイ人の姉妹達が見事に使いこなし、美味しい料理を用意してくれます。私は感嘆して味わっているばかりです。

 バンコクでは、このところ新型コロナの勢いが再び増しており、「市内のシリラート病院は重症患者で満床」とのニュースに、改めて気を引き締めています。

 愛読者の皆さん、どうか聖霊に満たされ、スピリットの効いた人生をお過ごしくださいませ。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2023年6月2日

・ChrisKyogetuの宗教と文学 ②Bon Jovi「Livin’ On A Prayer―祈りながら生きる」の深い意味

Livin’ On A Prayer

We’ve gotta hold on to what we’ve got

It doesn’t make a difference if we make it or not

We’ve got each other and that’s a lot for love

We’ll give it a shot

今あるものを手放すな

成功するかどうかはどうでもいい

俺たちは愛し合っているんだ

やってやろうじゃないか

(Bon Jovi)

 今回は歌詞になるわけですが、ボンジョビのLivin’ On A Prayerは、今の時代こそ取り入れるべきではないかと思います。この歌詞には男女の恋人が登場します。「それほど昔の話ではないけれども、彼氏が港湾労働で働き、彼女がダイナー(アメリカのプレハブ式のレストランのこと)で働いている」という始まりですが、かつて二人には夢があって、男はギターを売っていて、これだけで二人のなれ初めが見えてきます。歌詞では「これはそれほど昔の話ではない」となっていて、この二人が現在、どうなっているのかは分かりません。

 けれども、バッドエンドを聞かされていない観客は、力強いサウンドや歌詞の連想から「二人は抜け出した」と信じたのだと思います。この曲の発表は1986年でしたが、グループの予想外に大ヒットしたようです。80年代といえば、アメリカ経済にはレーガノミックスの期待がありました。夢のような想定を80年代前半に立てましたが、思ったほどの効果は出ませんでした。大きな負債となった「双子の赤字」というのも、学生時代に勉強した世代もいるでしょう。

 常にポップカルチャーには若者の「反抗」が存在していますが、それが情熱を表していることがあります。夢を追った後の二人が苦労しながらも「Livin’ On A Prayer―祈りながら生きる」には、深い意味があります。

 私はシモーヌ・ヴェイユが好きなのですが、彼女は哲学教師でありながら炭鉱夫の労働者を支援し、過激なこともしたために逮捕もされ、工場生活に入りました。頭痛持ちの彼女の書いた「工場日記」はキリスト者なら読むべき一冊だと思っています。ヴェイユは、重力と恩寵(カイエ)で「労働者に必要なのはパンよりも美と詩である」と言いましたが、それについて、視点を変えてみれば「詩も何か役に立つ」という意味で捉える人が多いのですが、全く違います。

 ヴェイユは、労働者にとって「信仰も、詩も、何の意味もない」という現実を知っていました。工場日記で、ヴェイユは「睡眠が労働にとって一番必要である」と書き残している。「労働者こそ詩が必要」というこの言葉は、机上の空論で祈るキリスト者や、哲学を上流階級しか教えない社会への、彼女の「反抗」でしょう。これは「荒れ地でも、信者として種をまけるのか」-伝道への挑発に繋がっているのだ、とキリスト者なら気づかねばなりません。ヴェイユは「貧しい労働者のところにイエスがいる」と信じていました。それは、どういうことなのか。人間の技術的な進歩があっても、奴属の状態から脱していない、ということについて、「それがキリスト教ではないか」とペラン神父に手紙を書いています。

 しかし、カイエに記されている「労働の神秘」などと他の記録と比較してまとめると、「奴属の状態とは、永遠から差し込む光でもなく、詩もなく、宗教もない労働である、ということ、労働を通じて、人間が物質になること。キリストが聖体の秘跡を通じて、そうなるように」とも書かれてあります。自分が疲弊しているのと同じように、イエスが疲弊したことにも、注目しなければなりません。旧約聖書の「主」には肉体的な疲れが見えませんでしたが、イエスはゴルゴダの丘を上って行きます。

 Livin’ On A Prayerの歌詞に戻りましょう。この二人も自分のためだけではなく、お互いのために働いていました。歌詞には「逃げたい願望」も表れています。自分のために過酷な労働をしてくれる存在がいる、ということは、神聖なものが自分のために、何も疲れずに祈ってくれているわけがない、ということを知ることにつながります。愛は自分視点だけではなく、自分のためにも働いているのです。それは一回の祈りや善行で恩は返せない、それがイエスだと思います。

 最後になりますが、歌詞に書かれてあるWe’ve gotta hold on to what we’ve got(今あるものを手放すな)というのが、私にとってはマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ話」と重なりました。「誰でも賜物(タラントン)を与えられている」という有名な話ですが、主人を恐れて、預かったタラントンを運用して増やそうとせず、土に埋めておいた僕に、主人が「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と言い、タラントンを取り上げて、外の闇に追い出します。これを残酷に捉える人も多いのですが、「本当の意味はこうではない」と言い切るのは嘘なのかもしれません。残酷ですが、本当に、「持っているもの」も取り上げられる… 常に私達は、その危機感を持っているべきだと思います。

 愛について、単純に言えませんが、自分の内に留まるものではありません。分け与えて循環していきます。それも神から与えられた「賜物」だということを考えました。賜物とは自分に与えられたものだけだ、と思いますが、それでは他人と繋がれません。タラントンを増やす過程とは、「友愛にも恋愛にも通じる、全て神の恵みだ」と信じたいところです。

 イエスが示される道は、痛みもありますが、喜びもあります。この貧しい二人が歌詞の通りに、しがみついたものはそうだったのだと思います。現代なら、「稼げない二人は別れるべきだ」と言われることも多々あるでしょう。しかし、二人は「祈り」は諦めないということ、愛だ、と言えるように、お互いが奪われないように、その強さが共感を呼んだのだ、と思います。

*参考 https://www.youtube.com/watch?v=VHOiwqYQAiY(Livin’ On A Prayer 和訳つき)

(Chris  Kyogetu)

 

2023年5月24日

・「カトリック教会は刷新できるか」ーポストコロナの教会を導く7つの公文書日本語訳・解説を出版

(2023.5.13 カトリック・あい)

 田中昇、阿部仲麻呂の両師の編集・翻訳による「カトリック教会は刷新できるか-信仰・組織・倫理に関するバチカン教理省・国際神学委員会の公文書の翻訳と解説(2014-2022)」が教友社から出版された。

 収められた公文書は主として2014年から2022年に出された「教会の生活における信仰の感覚」(国際神学委員会)、「秘跡による救いの営みにおける信仰と諸秘跡の相互関係」(同)、「司教たちへの書簡『教会は若返る』(教理省)、「教会の生活および使命における協働性』(国際神学委員会)、「諸秘跡の聖性の保護」(教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡)、「教理省に留保される犯罪に関する規則」(教理省)、「聖職者による未成年者への性的虐待事例を扱う手続きに関する手引き」(教理省)の七つ。

 全体として、一般信徒にも読みやすい日本語で翻訳されており、「日本のカトリック教会で、神学の学習・研究用としてだけでなく、現実に様々な方面で信仰生活を営まれている聖職者、修道者、信徒すべてにとって生涯養成の資料としても、実務上のヒントとしても活用されるべき、重要な内容… 今後の日本の教会のさまざまな現場において、信者として信仰の実態を見つめ直し、教会の共同体の在り方、組織運営、倫理上の問題解決への姿勢を見直していくうえでも、是非とも参考にされるべき、非常に多くの示唆に富むもの」(田中昇師の「はじめに」より)として、多くの教会関係者に読まれることが希望されている。

 

 

2023年5月13日

・愛ある船旅への幻想曲 ㉗「教会に必要な、若者たちが『帰りたい』と思う環境作り」

 コロナ禍で孫達に3年間会ってなかった。冬休みには中学3年生男子が帰って来た。空港での再会は彼が私たちを見つけて気がつけば前に立っていた。劇的な再会シーンにはならず、出迎えの言葉も淡々と3年間のブランクなどなかったような互いの対応振りであった。

    彼が所属している合唱団は、神奈川県の中学代表校に選ばれ、江ノ島をバックに、歌手の三浦大知さんと『燦燦』をコラボさせていただきTVで放映された。熱唱する中学生男女の姿から一つの楽曲を一人ひとりが真面目に練習し、作り上げてきたハーモニーに感動し、単純ではあるが、日本の未来に大きな期待が持てた私だ。

 春休みには、小学6年生男子が帰って来た。三兄弟の中で一番成長が著しく背が高い。彼の所属するラグビー・スクールは1月のヒーローズカップ決勝大会で優勝した。小学生チームが日本一を目指して熱戦を繰り広げる姿は感動しかない。

 彼ら2人がこのような結果を残せたのは決して自分だけの力ではない。素晴らしい環境が与えられていたからだ。良き指導者と良き仲間、そして家族の支えがあるからこそ、本人も途中で投げ出すことなく続けられた。何らかの才能を伸ばすためには環境が大事であり、そこでの過程は人格形成、そして人間関係を形成する力をも育ててくれる。同じような環境で育った者同士の友情が長続きするのも、納得できる。

 しかし、ここでイエスが12人の弟子を選んだことを考える。この12人は、社会的背景も職業も異なっていた。教会とはそのような場だろう。それゆえに『カトリック教会の一致』『共同体の一致』、最近では『多様性における一致』と、『一致』は永遠の課題となっている。

 教会は、イエス・キリストが中心であるから、「教会に集い共に祈り、ミサを捧げている人たちは既に一致している」と考えて当然、と思うのだが、現実を見ると、信徒の教会離れが後を絶たない。世代に関係なく、教会への不信、また雰囲気から「ミサに行く必要のなさ」を感じ、「自分たちが思い描く教会の環境ではない」と、ある意味、苦渋の決断を強いられているのだ。

 人と人、2人の間でさえ全てに一致するには、時間が掛かる。互いを知るために話し合う時間、喧嘩をして仲直りをするための時間、相手の趣味、興味、考え方が自分と同じか、または全く違っていても、受け入れることができるか等、多くの情報を得て、理解し合いながら友情は成立していく。人と人が全てに一致することは奇跡である。それぞれが自分と違った意見や感情を持っているからこそ、互いに成長し、豊かなハーモニーを奏でる『愛の一致』のスコアは、完成へと書き直し続けるのである。

 『愛』には、様々な解釈そして表現の仕方があるだろう。 ある聖職者がイエスと自分を混同し、「あなたと私」と熱弁されたことがある。申し訳ないが、言葉足らずの説明からは不信感と不快感しか残らなかった。これがイエスが説いておられる『愛』ならば、イエスは、中途半端な八方美人でしかない。おまけに「家族があったらこんな事はできないのです」と言われた。

 なるほど、聖職者は、「人々にその時その場限りの愛を説くことはできても、究極の愛は説けない」ということか。このように『愛』の例一つとっても、司祭と信徒間、あるいは世代間で問題意識が違うのが、今の教会だろう。だから今、多種多様な人が集まる教会は、「環境の変革期を迎えている、迎えねばならない」と思っていただきたいのだ。そして、若い世代の教会離れが一番多いことを真摯に受け止め、彼らが「帰りたい」と思う環境作りを、教会が一日も早く着手するように、と願っている私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2023年5月7日

・菊地大司教の週刊大司教123号「5月は聖母月、ロザリオの祈りを」

(2023.5.6 週刊大司教)

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 5月は伝統的に「聖母の月」とされています。5月の間には、5月13日に「ファティマの聖母の記念日」、聖霊降臨の翌日5月29日に「教会の母聖マリアの記念日」、そして月末の5月31日は「聖母訪問の祝日」です。

 これまでの3年間、教皇様はこの聖母月に、特に「新型コロナの世界的大感染からの解放」を聖母の取り次ぎによって祈り求めるように、勧めてこられました。

 今年は、月末に、シノドスのためにロザリオの祈りを捧げるようにと呼びかけられ、東京教区では、5月31日に碑文谷教会を会場に、祈りを捧げる予定で調整中です。詳細は後日お知らせいたします。今月のロザリオの祈りの際には、教皇様の意向に合わせて、シノドスのためにお祈りくださるようにお願いいたします。

 1965年に、特に世界平和のために5月に聖母の取り次ぎを祈ってほしいと呼びかけられた「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世はこう述べておられます。

 「5月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、私たちの願いがよりたやすくマリアの憐れみ深い心に近付く道を、見出す時です。教会の必要が求める時に、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされている時にはいつでも、キリスト者に公の祈りを捧げるよう勧めるため、このマリアに捧げられた月を選ぶのは、私の先任者たちに好まれた習慣でした」(3)

 同時にパウロ六世は、ロザリオの重要な要素として「賛美と祈願」に加えて、「観想」の重要性を説いておられます。「マリアーリス・クルトゥス」には、「『観想』という要素が無いなら、ロザリオは魂の抜けた体にすぎません。・・・主にもっとも近かったマリアの目を通して主の生涯における神秘を黙想できるように役立つべき」とも記しておられます。(47)

 十字架上で主イエスご自身から、「見なさい。あなたの母です」と、教会の母として民を託された聖母マリアは、ルルドやファティマでのロザリオの祈りへの招きを通して、母としての私たちへの気遣いを示そうとしておられます。ロザリオの祈りは、聖母マリアを通して主イエス・キリストへとわたしたちを導く賛美と祈願と観想の道です。神の御旨が実現するために自分自身のすべてを神に委ねる勇気を持つことができるように、聖母マリアに従って、主イエスへと至る道を歩み続ける祈りです。

 聖母の取り次ぎを求めながら、祈りましょう。

 今年も教区広報でロザリオのビデオを企画していますが、すでにYoutubeで公開されているこれまでに撮影されたロザリオの祈りのビデオも是非ご活用ください。ご一緒に祈りを捧げていただけますので、皆様の祈りの一助となれば幸いです。https://youtu.be/SLoQwKvb-fo

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月6日

・Sr.阿部のバンコク通信 (77) どんな状況でも、慈悲の感性を輝かせて生きる

 お年寄りや障害者がたいせつにされる所には、和やかで幸せな雰囲気がありますね。タイの人々の中で生活していると、労り、付き添う介護の姿を巷でしばしば見かけ、うれしい気持ちになります。

 経済発展、少子化、若者の都心への流出、合理化消費主義の影響を受け変化の波が押し寄せてきていますが、家族コミュニティの人間関係は根強く、タイ社会の基盤になっています。

 これは仏教の教えに培われた、運命の受容、報恩感謝、人間の救いに深く結び付いた信仰の文化に因るものだと思います。通院治療を受けながら、ごく当たり前にさりげなく寄り添う人々の姿に接し、これまでになく感じ入っています。

 悲しいかな、時に私たちは、面倒で手間ひまのかかる仕事を、工夫して合理化する。そうしてはいけない分野にまで… 人の慈悲の感性を守り育てる大切な存在であるはずの年老いた人々、病人、障がい者、幼児に対しても…。冷たく硬い、味気も感動も無い世の中にならないようにしなければと、寒々とするニュースを耳にして、思わず合掌して詫び、祈ってしまいます。

 親しくしているカミリアン病院(バンコクのトンローにある、カトリック宣教師によって1956年に開設された私立病院)修道会のジョバンニ神父、レナート神父の感性と活動には敬服してしまいます。エイズホスピス、老人ホーム、重度の障がい施設を通しての活躍、貧しい住宅街への定期的な巡回訪問、医療奉仕。闇に光が灯され、慈しみの思いが伝わっていくようです。

 「神の名は『慈しみ』」と教皇様は言われました。その似姿に造られた私たちが、どんな状況においても慈悲の感性を輝かせて生きるように、マリア様のご保護に信頼して心底から願っています。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2023年5月5日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㉛今夜、眠りに就こうとする時に…詩編から安息を学ぶ

 明かりが消え、暗夜に包まれた家が静かになり、安らかな静けさが、私たちの周囲のすべてに降りかかるようになっています。ただ、それは私たちに降りかからない夜もあります。

 周りのすべての人が休んでいる時、千の思いが私たちを目覚めさせ続けるかもしれません。 やり残した仕事や答え切れない疑問についての思い。生きている悲しみや亡くなってしまった慰めに対する思い。前日の後悔や翌日の期待への思い。

 人によっては眠りにつくことは簡単に思えるかもしれません。 「必要なのは、『疲れた体』と『静かな心』だけだ」と、ある睡眠障害の本の著者が語っています。 しかし、その方程式の後半は、時としてとても手の届かない願いのように感じることがあるでしょう。

 「主は愛する者には眠りをお与えになる」とソロモンは語ります(詩編127編2節)。しかし、そのような夜には、私たちがその贈り物を無力な手に持って、どのようにその包みを解けばよいのか迷い悩んでしまいます。

*穏やかで静かな心

 詩篇の作者たちは、思い悩みや悲しみ、そして不思議な起因が、いかに簡単に目から眠りを奪ってしまうかを知っていました。彼らは私たちと同じように、長い時間寝床に横たわり、思いを巡らせていました―「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/…苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手
を差し伸べた。/しかし、私の魂は慰めを拒む」(77編2~3節)。

 彼らは夜な夜な、幾度もの月がゆっくりと空を横切っていくのを見ていました「わが神よ/昼に呼びかけてもあなたは答えられない。/夜もなお、私は黙ることができない」(22編3節)。愛する者に眠りを与えられる神は、時として善意と優しさの理由によって、愛する者から取り去ることもあるの
だと、彼らも知っていました。

 それでも、ダビデやソロモン、そして他の詩篇作者たちは、たとえ眠れそうにない夜でも、眠ることが本当に可能だ、ということを知っていました。

 ダビデは荒野で狩りをされていても、「私は身を横たえて眠り、目覚めます」(3編6節)と語り、コラの子は悲しみに打ちひしがれていても、「夜には、主の歌が私と共にある」(42編9節)と詠い、ソロモンは仕事で頭がいっぱいになっていても、「もし、主が家を建てるのでなければ/それを建て
る人々は空しく労苦することになる。/…朝早く起き、夜遅く休み/苦労してパンを食べる人々よ。/主は愛する者には眠りをお与えになるのだから」(127編1~2節)と教えます。

 彼らは神の御前に思い煩いを置き、身を横になって眠ることの素晴らしい体験をしていました。詩編作者たちは、静かな生活ができなくても、穏やかで静かな心が自分たちのものになり得ることを知っていました。詩篇は、静かな心は、眠りを与えてくださる神の御手からもたらされるものであり、神は私たちの盾、羊飼い、慰めである主として、夜ごと私たちに近づいてくださることを私たちに教えてくれます。

*主は私たちの盾

 「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」(3編6節)。

 詩篇3編のダビデには、不安になる理由も思い煩う理由も、すべてありました。裏切り者の息子によってエルサレムから追われた彼は、獣のように狩りをされながら荒野を駆け抜けていました(1~2節)。これほど眠るのが困難な状況はなかったでしょう。しかし、ダビデは眠りにつき、しかも、それ
ほど苦労せずに眠ったようです(6節)。

 なぜなら「主に向かって声を上げれば、聖なる山から答えてくださる」からだ、とダビデは言います(5節)。ダビデは眠るために自分の王座に君臨する必要はなく、ただ自分の上に君臨される神を必要としていました。そのため、ダビデは荒野でもどんな状況でも眠ることができたのでしょう。

 私たちは今夜、自分の力ではどうにもならない心配事に追われ、無力感に苛まれる荒野に身を横たえるかもしれません。私たちは、差し迫った何らかの診断の必要、仕事の不安、人間関係の対立など、暗く陰鬱な不確実性を前にして、全く弱いと感じるかもしれません。しかし、そのようなときでも、私たちの神は王冠と王笏を持たれ、その玉座に座っておられます。

 全能の神なる主は、夜には「わが盾」であり、朝には「私の頭を起こす方」(4節)なのです。私たちの悩みは多くて手近いかもしれませんが、私たちの神は偉大で力強く、より近い存在です。

*主は私たちの羊飼い

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる」(23編1~2節)。

 羊が横になるのは、休むか眠るかという1つの理由だけである、と言われます。羊が横になるなら、絶対的な安心感、満足感が必要です。私たちの孤独な反芻は、主が私たちの羊飼いであることを信頼していないことを示唆することがどれほど多いことでしょう。羊飼いの棒や杖のそばで不安と恐れを抱
き、まるで一人で歩いているかのように鳴いている羊を見たら、どんなに奇妙で悲しいことでしょう。しかし、私自身もそうであることがよくあります。

 主が本当に私たちの羊飼いであれば、私たちの望みは、心配し、目を覚ます心を必要としません。そして、明日の必要が何であれ、主の備えはそれに見合うものであることを証明してくれるでしょう。

*主は私たちの慰め

 「(主は)心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む。星には数を定め、それぞれに名を付ける」(147編3~4節)。

 詩篇の作者たちは寝床に持ち込む様々な落ち着きのなさの中で、悲しみが最も一般的かもしれません。詩篇を通して、真夜中に泣く人たち(30編6節)、目を覚まして慰めのない気持ち(77編2~3節)、涙で寝床を浸すこと(6編7節)などがあります。確かに悲しみは、しばしば眠れぬ心をもたらす
ものです。そのような時、天地創造における神の声は、聖書における神の声と合わさって、私たちの痛みや苦しみへの慰めを語りかけてくださいます。

 神は星の数を定められ、それぞれに名を付けられたこと(147編4節)を考えると、最初は私たちをこれまで以上に小さく感じさせられ、砕かれた心は神の目に留まるにはあまりにも微小すぎると感じさせられるかもしれません。

 主は「心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む」(3節)と詩編作者が語ります。神はすべての星の名前を知っておられるように、私たちの隠れた悲しみや目に見えない痛みを知っておられます。そして、神はそのすべての民にとって、心を癒され、傷を包まれる偉大な存在です。すべての星から輝くこのような約束は、私たちを眠りへと誘う歌となり得るのではないでしょうか。

*主イエス・キリストのうちに、主と共に生きる

 「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです」(①テサロニケの信徒への手紙5章
10節)と聖パウロが教えてくれます。

 今夜、眠りにつくとき、私たちの主の御手は、私たちを安全に抱く準備ができています。そして、その御手には、目覚めているときも眠っている時も、生きている時、死にかけている時も、最も騒がしい心を落ち着かせることのできる静けさがあります。

 「起きている時も、眠っている時も、神よ、私を救い、守ってください。キリストのうちにいつも目覚め、平和のうちに憩うことができるように。
アーメン」(教会の祈り―聖務日課「寝る前の祈り」交唱)

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2023年5月3日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉖私の名によって願うなら

 互いに相手をどう呼び合っているか-たいてい、私たちは、そこに二人の関係を見ることができるでしょう。家族の中で、また学校や職場といった社会の中で、私たちは、そのことを体験します。

 その際、「名(前)」は、大切な役割を担っています。相手が自分の名前を憶えている-感謝(よろこび!)。自分が相手の名前を憶えている-祈り(よろこび!)。これが、人間関係の原点ではないか、とそう思います。

 

*名は体を表して

 聖書において、「名」は、ある人(もの)の単なる「しるし」や記号ではありません。むしろ、それは、それらを超えて、その人(もの)の本質や役割を表しています。

 例えば、旧約聖書でしたら、アブラハム(国民の父)、イサク(神は笑う)、そしてヤコブ(かかとを握る)、などを思い起こすことができるでしょう。また、新約聖書でしたら、ヨセフ(主[ヤーウェ]は加えたもう)、マリア(神に愛された者/高められた者)、そしてイエス(主は救い)、などを挙げることができるでしょう。

 イスラエルの民は、しかし、神を直接名前で呼ぶことをはばかりました。そこで、彼らは、「主」という言葉で神を呼ぶようになります。「主」以外に神はない。「あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である-主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。/私、私が主である。/私のほかに救う者はいない」(イザヤ書43章10-11節)。

 

*主の名を呼び求め

 その延長線上において、イエスは、‶主イエス・キリスト〟と呼ばれます。つまり、これは、‶イエスは救い主であり神である〟という信仰告白です。ですから、私たちは、祈りの最後に、「私たちの主イエス・キリストによって」と唱えます。言い換えれば、これは、「主イエス・キリストの名によって」ということです。
主の名を呼ぶ-それは、神に礼拝を捧げること、あるいは祈ることにほかなりません。それゆえ、キリスト者は、「御名を呼び求める人」(使徒言行録9章14節)「この名[イエス]を呼ぶ者たち」(9章21節)、「主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々」(コリントの信徒への手紙1章2節)、「主を呼び求める人々」(テモテへの手紙2章22節)と言われます。つまり、キリスト者とは、「絶えず祈る者」のことなのです。

 イエスは、次のように語ります-「あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネによる福音書16章23節)。イエスの名によって願うとは、「イエスの本質によって願う」ということ。そのイエスの本質とは、「主は救い」でした。つまり、「神の救いの営み(オイコノミア)を信じるならば、父は、必ずそれを叶えられる」ということでしょう。

 このように、キリスト者の信仰はイエスの名に基づく、と考えられます。ですから、パウロは、こう語ります-「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10章9節)。ここに、‶使徒信条〟の核心があります。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2023年5月3日