・愛ある船旅への幻想曲 (28)「教会とは何か」、そして今、「聖職者とは何か」問い続けて

 私は、ここ数年「教会とは何か」を考え続け、今は「聖職者とは何か」を日々問い続けている。カトリック教会で私と同じ疑問を持つ信徒と持たない信徒の二極化は、昔から珍しくなさそうだ。

 今、時代の大きな転換期であり、宗教界も曲がり角に立っている。宗教が持つ倫理観が欠如されつつある問題が後をたたないことも原因だろう。カトリック教会に於いては、何世紀も前から教会に疑問を持つ信者がいたにもかかわらず、その信者たちとは話し合いの場を持たず、教会上層部だけで解決策を講じてきた印象がある。

 そのように「聖職者主義」と「位階制度」を推奨するカトリック教会の失態が後を絶たず、教会の在り方を社会にも問われている今こそ、教会の想いを知りたい

 教会を考える時には、『イエス・キリストの教えと癒し』を一人ひとりがどのように理解しているのか、を問うことが大事だろう。次に、幼児洗礼、成人洗礼に関係なく、初めて出会ったイエスの印象は、どうであったのかを問いたい。信者として生きるため、自分を制するためには繰り返し原点に戻らねばならないからだ。

 私は幼稚園児の時に聖公会教会の日曜学校でイエス・キリストに出会った。聖画の美しさに感動し、熱心に通ったものだ。何よりも嬉しかったのは、教会にあるオルガンを特別に弾かせていただいたことだ。純粋に聖なるもへの憧れから、芸術から宗教への扉を開いてくださったうちの一人だ。数年前まで行われていたキリスト教一致祈祷会で、当時の私を知る退職司祭に会うと「オルガンを弾くやんちゃな子だった。カトリックに行ってしまったが」と毎回笑顔で皆の前でからかわれたが、カトリックとプロテスタントの信者たちの空気が和むために、それは必要なやりとりだった。そして、それは、当時の日曜学校の先生方と子供たちの自然体のやりとりを思い出す場面でもあった。

 第二バチカン公会議を招集された聖ヨハネ23世教皇、その後を継ぎ、公会議を締めくくられた聖パウロ6世教皇は、カトリックとプロテスタントの教会一致を目指され、「キリスト教会の原点」に戻るよう尽力された。

 

 以下は、第二バチカン公会議やシノドスについて書かれている教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』を読みなおし、私が興味ある箇所の抜粋である。

 「第二バチカン公会議で表明され、1974年のシノドスでさらに確認されたことですが、教会が全世界を真に信頼されるかたちで福音化するためには、絶えざる回心と刷新によって、教会自身が福音化されねばなりません… また宣教者も教会も福音を勝手に扱う絶対的な主人また所有者としてではなく、むしろ福音の奉仕者として、自分に託された福音を非常な忠実さをもってのべ伝えるために出発するのです」(『福音宣教』15 「教会と福音化の相互関係」から抜粋)

 「しかし残念ながら、ここで次のような事実を考える必要があります。たとえば、善意はもっていても、間違った考え方をしている人々があります。キリストを愛するが教会なしに愛したい、キリストに聞くけれど教会のいうことは聞きたくない、キリストに属するが教会の外で属したい、などという人々の声を聞くのははまことに悲しいことです」(『福音宣教』16 「キリストから離れられない教会」から抜粋)

 この2箇所は、「教会への理想と現実からのメッセージ」と私は受け取った。基本に戻ることが理想の教会の姿であり、基本がしっかりしてなければ現実の姿を直視できず、判断も誤るだろう。

 日本の教会の状態、日本人の信仰心をずっと前から憂いていた司教方が居られたことも、承知している。教会の若返りを願い、古い固定観念からの束縛を解き放つべく勇気ある導きをなさった方々だ。彼らは、人間として社会で生き、ミサ中にはキリストの姿が見える司式者、経験による真実を述べ伝える説教者であり、日本の文化と教会を守るための努力の足跡を残されている。

 今、衰退の一途を辿っているいくつかの日本の教区は、「一般社会における民主主義の常識をわきまえない、責任感のない教会代表者の集まり」に、あるいは「古い体制の欠点を見直そうとしない司教にとって都合の良い信者の集まり」になってしまっているのだろうか。

 自分の意見を表明することもない、どっちつかずの風見鶏のような人間は「神の問いかけに気付かないふり」ができるのかもしれない、と諦めの心境にある近頃の私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年6月4日