Sr.阿部のバンコク通信 (79)主が「もういいよ」と言われるまで、福音宣教に捧げる人生を歩み続けたい

    タイ国の宣教奉仕に召されて、ほぼ30年。この宣教の地で誓願60周年を祝い、80 歳。これまでの人生を思うと感無量です。主の恵みと慈しみに導かれた日々でした。

 仙台市の青葉城広瀬川の辺りで、私と妹は生まれました。空襲を逃れ、母は私を背に、妹の皓子を抱えて、焼夷弾の下を潜り抜けて歩き続け、宮城県の北部、登米郡の見渡す限りの水田地帯の村に疎開。大家さんが空いていた馬屋を使わせてくれ、父が人が住めるように改築して、そこで弟が生まれました。

   両親は大家さんの田で働き家賃とし、父が写真を撮ってお米や生活費用に当て、借地を耕して野菜を作り、私は”肥やし係”でバケツと十能を持って馬糞拾い。父や母と出かける時は、竹の筒を提げて、イナゴ取り、串刺しにしてあぶって、おやつに。お陰で頑丈な体に育ちました。大人のまねをして手に唾をパッと掛けて縄をになったり… 私の素敵な幼稚園、工夫して生きる人生の学び舎でした。

   小学校に入る歳になり、母の実家福島、教会がある町に引っ越しました。福島市大町1番地、最初にミサが捧げられた「三才館スタジオ」という写真館で、弟妹たちが生まれました。両親は信仰を何よりも大事にして私たちを育ててくれました。子供の頃の思い出は、語り尽くせないほどの、笑いと涙の物語です。

   長女の私は、母には家の実情を話され、「協力してね」と言われ、頼りにされました。弟妹の面倒、家事、お花とお茶の先生をしていた母の手伝い、父の写真館の手伝い… 全て、後の聖パウロ会で奉仕の使命を果たすのに役立ちました。

   兄が取り寄せた聖パウロ会紹介のパンフレットに興味を持ち、女子パウロ会に導かれ、その後、兄弟たちも次々従いて来ました。
父は入会の時「羊子には何でも教え、やらせました、どうぞ使ってください」と。母は修道院の門で「羊子を捧げるのは、お母さんの右腕をもぎ取って捧げる事だからね」と。私を叱咤激励する一言は、我が胸の宝です。

   仏教国タイでの宣教生活30年。福音を全ての人々に、美味しいタイの風味で、日本の漫画が大好きなタイの人々に「ベンハー」の漫画のタイ語版の出版から始め、単行本47冊(各5,000部余)、AV関係21枚、メディアを通して捧げてきました。

   昨年9月、進行癌の治療が必要になり、私の持ち前のタフな活動に急ブレーキが掛かり、生活が一変。末期膵臓癌の聖パウロ会の弟、眞理とグッと親密になり、LINE で濃密に語り合い、聖パウロ会での福音宣教人生を捧げ切ろうと励まし合いました。「生贄のキリストと共に、小さな生贄として私たちを捧げよう。会の祈りにあるように… 神様が『いいよ』と言われるまで、精一杯、捧げよう」と。

 今年1月16日、聖パウロの弟子の人生を大阪サンパウロ宣教現場で生き切って、眞理は召されました。まだ若かったころ、彼は私に、「僕はどんな時にも微笑む事に決めたんだ。顔は他人のためにあるからね」と言っていました。以来、屈強な筋金入りの健康体、眞理の顔は、笑顔で輝き続けました。

 私も、主が「もういいよ」とお呼びになるまで、聖パウロに従い、福音宣教に捧げるこの道を歩み続けたい、いつか、がっちりと、眞理と握手する日を楽しみに。 天国と日本から、阿部大家族が応援してくれています。DEO GRATIAS !

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

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2023年6月29日