ChrisKyogetuの宗教と文学 ③ゴッホと聖書―「全能の神ができないことはただ一つ… 罪人の破門だ」

 「喜びなさい、大いに喜びなさい、天には報いがある」(マタイによる福音書5章12節)

Ⅰ 絵画への目覚め

 ゴッホは画家として有名ですが、パトロンでもあった弟テオにあてた手紙は文学のように言葉が美しいことで有名です。小林秀雄が取り上げたこともあるので、知っている方もいるのかもしれません。ゴッホの手紙は903通ほどあり、その殆どが弟テオに送ったものです。そんな彼が1881年12月23日、金曜日の手紙にこんな言葉を残しています。

 「神は全能ではない。神にできないことはひとつある。全能の神にできないこととは何か? 全能の神は罪人を破門することができないのだ」

 これは、マタイによる福音書の5章、「喜びなさい、大いに喜びなさい、天には報いがある」への彼の反発のように思えました。「全能の神は罪人を破門することができないのだ」これを実際に言ったのは、一人の神父のようですが、何故このように言ったのか、この発言を拾ったのか、手紙なので真意はわかりません。この箇所の他の内容はどんな内容だったのかというと、厳格で自由恋愛を良しとしない牧師の父親への反発が多く書かれている手紙でした。

 カトリック信者の多い土地に生まれたゴッホは牧師の子供でした。上層中産階級というもので、子供の努力次第で上流にも、そして下に落ちることもあるという環境の中で育ちました。ゴッホの両親は子供達に良い教育を与え、そして上流社会への邁進を期待していました。ゴッホは、そんな両親、特に牧師である父親の方針を毛嫌いしていました。それは、父親が教師や医師ではなく、イエス・キリストを語る牧師だったからです。ゴッホの聖書解釈は父親と対照的なところがありました。

 前回、少しだけシモーヌ・ヴェイユの話をしました。工場勤めをした彼女が、現場を見た彼女は表層的な宣教は役に立たないことを知らしめましたが、ゴッホはヴェイユが生まれる前に同じ体験をしています。牧師を志したゴッホでしたが、挫折をしてしまいます。彼はそれでも「伝道師」として炭鉱地域へと向かい、労働者と同じように働いて、地面で眠っては貧しい人達のために聖書を読んでいました。

 現場は労働者の抑圧、死、労働争議が繰り返される日々、そこで彼の語るイエス・キリストは疎まれるだけでした。更に福音伝道委員会はゴッホを「みすぼらしい」という理由で認めませんでした。更に、ゴッホの姿は伝道師としての威厳を損うとのことで、彼等は仮免許を剥奪しました。

  ゴッホは炭鉱で働く貧しい人をドローイングで描いていました。免許剥奪後、弟のテオはその絵を見て、ゴッホに画家になるべきだと言いました。ゴッホが画家に目覚める要素は複合的な他にもエピソードがありますが、これが根幹だと思います。

Ⅱ「貧しさとカタルシス」

 定立と反定立を認めたのは「心理学」ですが、相反するものや矛盾の共存は、音楽や文学でもそれは強く人の心を揺さぶるものでもあります。「哀しいは美しい」というように相反するものは特にロマン派は様々な作品を残しました。それは「カタルシス」とも言えるでしょう。

 「カタルシス」とは、元はギリシャ語で医学の語彙でしたが、精神分析の用語としては、劇場や物語を通して、耐えがたい感情を創造すること、それによって悪い情念を「排出」させ癒すことも期待されます。ゴッホは彼の絵画の力強さから「情念」を約束させ、残された者に何等かの解放させる力があります。(勿論、ルソーがカタルシスを批判したように、このような感情の排出に「何の意味も持たない」と思っている人もいます)

 5章11節によると「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき」とありますが、その言葉と自分の経験が重なる時、それは抑圧でもありますが、同時に、自分自身の困難と聖書が共感することは、カタルシスでもあるのでしょう。

 「心の貧しい人」というのは、金銭的な貧しさだけではなく、不遇等も含まれています。そして、このような人を「聖人」扱いすることはよくあるのですが、実際は、清いだけでも生きられないことも事実です。大切な人や神に感謝しながらも、「自分自身を欠陥品のように何かを恨んでいる」というのもあるのだと思います。それはゴッホが炭鉱で見た「現場」です。

 「神は罪人を破門しない」としながらも、目が光を受け入れるように、彼の場合は、絵画の才能を「神の声」だ、と信じたのだと思います。それはとても貧しかったからです。その強さを、福音書は認めてくれているように思います。ゴッホの代表作の「星月夜」は月夜に闇が蠢いているのが特徴です。闇の色と光の色が混ざりながら、弟テオには感謝を伝えたいと彼は手紙も書き続けました。目に見えない「報い」と共に、彼の姿は絵画を通して多くの人にカタルシスを与え続けています。

 彼のように「天の国」を信じて描き続ける毎日は、それは目に見えないものだとしても、「神からの祝福」を受けているのです。そうだと信じて、今日は終わりにしましょう。

 マタイによる福音書5章1~12節より

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。

 幸い

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 平和を造る人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

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2023年6月29日