2021年10月に教皇フランシスコの手で始まった”シノドスの道”は、今年10月と来年10月の二回にわたってバチカンで開かれる世界代表司教会議(シノドス)総会で最終段階を迎えます。でも、これまで日本の教会は、まともに”シノドスの道”を歩んできたのでしょうか。教皇が願われているように、各教区は上に報告を挙げても、それで終わりにせず、小教区、信徒の有志グループでも、教区レベルでも、歩みを続けている、と言えるのでしょうか。
*ドイツ司教団のサイトにある”シノドスの道”特集号が参考に
昨年の夏、ドイツ司教団のサイトにヘルダー社刊の特集号「動き出す普遍教会―シノダルな道」が出版され、英訳を読み、そのうちの15個の抄訳を作りました。これまで教区レベル、国レベルなどの”シノドスの道”の歩みを指導するなど実際に関わりをもった方々の報告を集めたものです。それを読んで、現代の世界のカトリック教会がどのような状況にあるのかが、よく分かる気がしました。
カトリック聖職者が、ほぼすべての国で性的虐待の問題を起こし、国家規模での訴訟や裁判がなされているだけでなく、「司祭は、教会のリーダーとなり得ていない」との評価がもっぱらであること、教会のほぼすべての活動の主体は女性なのに、その貢献に見合った権限や地位を与えられていない国がほとんどであること、教会の教えや倫理が一般信徒の日常生活から乖離したものになっていること、などが具体的に述べられています。制度も教えも倫理もすべて時代の要請に応えておらず、このままではカトリック教会という巨大な船は、確実に沈んでいくことを確信しました。
特集号の中で、フランスのポール・ゼリッチ氏は、人々はこれまで教会に対して多くの失望を味わってきたので、「これ(今回のシノドス総会)が最後の機会となるかもしれない」と警告しています。
*日本の一般信徒はほとんど何も知らされていない
日本の教会は小教区レベル、教区レベル、そして国レベルの”シノドスの道”にどのように取り組んだのでしょうか。ドイツ特集号の私訳を読まれた、ある県の在俗会の女性から、次のような感想をいただきました。
「特集号を読んで、『なぜ今シノドス(の道)なのか』がピンときました。教区から、各小教区にシノドス(の道)に関する質問用紙が配られ、話し合って提出するようにとのことでしたが、こちらの地域ではシノドス(の道)について一言も信者には知らされず、提出期限を迎えました。私の在俗会宛てには、質問用紙が送られてきたので姉妹たちと話し合って提出しましたが、『なぜ主任司祭は、信者に話し合うように勧めなかったのか』と主任司祭に聞くと、『分からないんだよ、教区長も笑って言ってたよ、信者には分からない、って』という返事。そのような司祭の姿勢に憤りを感じました」。
別の町の教会の知人女性に、「質問紙をもらいましたか」と聞くと、「そのようなものは一切ありませんでした。もしあれば、書きたいことはたくさんあったのに」と。また同じ町の別の教会の女性は、「シノドスとかなんとかとか、もちろん大切なのでしょうが、私にはピンと来ません」との返事でした。
*駐日バチカン大使が司教総会で、「日本では多くの集まりが『シノダリティ無し』に開かれている」と苦言
では司教たちは、どのように対応されたのか、それを考える上で、駐日バチカン大使のレオ・ボッカルディ大司教が2023年2月13日に司教総会の開会式でなさった挨拶「シノドスとシノダリティ」(カトリック中央協議会HP)が参考になります。
大使は、はっきりと言われました。「皆さん、今回の日本のシノドス(の道)の集まりの多くは、『シノダリティ無し』に開かれました」と。その場におられた司教さまたちは戸惑ったでしょうね。大使の挨拶を、私なりに解釈してみました。
「シノダリティ(共働性)」とは、基本的には、教皇、司教、司祭、修道者、一般信徒などが分け隔てなく、同じ「信仰の感覚」を持つ「神の民」として「共に」生き、働くことを意味します。教皇フランシスコによると、神が第三千年紀に期待している教会は、シノダリティがあらゆる面に浸透している教会です。シノドス的に、つまり「共働」して、同じ地平で、同じ洗礼を受けた人間として等しい立場で考え、議論し、何が神の望みかを探し、そして実行していく、そのような過程を継続していく-それがシノダル(共働的)な教会の姿だと思います。
つまり、大使は、日本の教会の”シノドスの道”の取り組みは、ほとんどの場合、そうした理解を欠いたまま、小教区レベル、教区レベル、そして国(司教協議会)レベルの集まりをもったにすぎない、という”評価”をされたのです。「そうでない。私たちは、十分理解して、努力している」と自信を持って反論された司教がおられたのでしょうか。
*秋のシノドス総会の討議要綱もとに、小教区レベルから踏み込んだ分かち合いを