・愛ある船旅への幻想曲 ㉗「教会に必要な、若者たちが『帰りたい』と思う環境作り」

 コロナ禍で孫達に3年間会ってなかった。冬休みには中学3年生男子が帰って来た。空港での再会は彼が私たちを見つけて気がつけば前に立っていた。劇的な再会シーンにはならず、出迎えの言葉も淡々と3年間のブランクなどなかったような互いの対応振りであった。

    彼が所属している合唱団は、神奈川県の中学代表校に選ばれ、江ノ島をバックに、歌手の三浦大知さんと『燦燦』をコラボさせていただきTVで放映された。熱唱する中学生男女の姿から一つの楽曲を一人ひとりが真面目に練習し、作り上げてきたハーモニーに感動し、単純ではあるが、日本の未来に大きな期待が持てた私だ。

 春休みには、小学6年生男子が帰って来た。三兄弟の中で一番成長が著しく背が高い。彼の所属するラグビー・スクールは1月のヒーローズカップ決勝大会で優勝した。小学生チームが日本一を目指して熱戦を繰り広げる姿は感動しかない。

 彼ら2人がこのような結果を残せたのは決して自分だけの力ではない。素晴らしい環境が与えられていたからだ。良き指導者と良き仲間、そして家族の支えがあるからこそ、本人も途中で投げ出すことなく続けられた。何らかの才能を伸ばすためには環境が大事であり、そこでの過程は人格形成、そして人間関係を形成する力をも育ててくれる。同じような環境で育った者同士の友情が長続きするのも、納得できる。

 しかし、ここでイエスが12人の弟子を選んだことを考える。この12人は、社会的背景も職業も異なっていた。教会とはそのような場だろう。それゆえに『カトリック教会の一致』『共同体の一致』、最近では『多様性における一致』と、『一致』は永遠の課題となっている。

 教会は、イエス・キリストが中心であるから、「教会に集い共に祈り、ミサを捧げている人たちは既に一致している」と考えて当然、と思うのだが、現実を見ると、信徒の教会離れが後を絶たない。世代に関係なく、教会への不信、また雰囲気から「ミサに行く必要のなさ」を感じ、「自分たちが思い描く教会の環境ではない」と、ある意味、苦渋の決断を強いられているのだ。

 人と人、2人の間でさえ全てに一致するには、時間が掛かる。互いを知るために話し合う時間、喧嘩をして仲直りをするための時間、相手の趣味、興味、考え方が自分と同じか、または全く違っていても、受け入れることができるか等、多くの情報を得て、理解し合いながら友情は成立していく。人と人が全てに一致することは奇跡である。それぞれが自分と違った意見や感情を持っているからこそ、互いに成長し、豊かなハーモニーを奏でる『愛の一致』のスコアは、完成へと書き直し続けるのである。

 『愛』には、様々な解釈そして表現の仕方があるだろう。 ある聖職者がイエスと自分を混同し、「あなたと私」と熱弁されたことがある。申し訳ないが、言葉足らずの説明からは不信感と不快感しか残らなかった。これがイエスが説いておられる『愛』ならば、イエスは、中途半端な八方美人でしかない。おまけに「家族があったらこんな事はできないのです」と言われた。

 なるほど、聖職者は、「人々にその時その場限りの愛を説くことはできても、究極の愛は説けない」ということか。このように『愛』の例一つとっても、司祭と信徒間、あるいは世代間で問題意識が違うのが、今の教会だろう。だから今、多種多様な人が集まる教会は、「環境の変革期を迎えている、迎えねばならない」と思っていただきたいのだ。そして、若い世代の教会離れが一番多いことを真摯に受け止め、彼らが「帰りたい」と思う環境作りを、教会が一日も早く着手するように、と願っている私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年5月7日