・ガブリエルの信仰見聞思 ㉛今夜、眠りに就こうとする時に…詩編から安息を学ぶ

 明かりが消え、暗夜に包まれた家が静かになり、安らかな静けさが、私たちの周囲のすべてに降りかかるようになっています。ただ、それは私たちに降りかからない夜もあります。

 周りのすべての人が休んでいる時、千の思いが私たちを目覚めさせ続けるかもしれません。 やり残した仕事や答え切れない疑問についての思い。生きている悲しみや亡くなってしまった慰めに対する思い。前日の後悔や翌日の期待への思い。

 人によっては眠りにつくことは簡単に思えるかもしれません。 「必要なのは、『疲れた体』と『静かな心』だけだ」と、ある睡眠障害の本の著者が語っています。 しかし、その方程式の後半は、時としてとても手の届かない願いのように感じることがあるでしょう。

 「主は愛する者には眠りをお与えになる」とソロモンは語ります(詩編127編2節)。しかし、そのような夜には、私たちがその贈り物を無力な手に持って、どのようにその包みを解けばよいのか迷い悩んでしまいます。

*穏やかで静かな心

 詩篇の作者たちは、思い悩みや悲しみ、そして不思議な起因が、いかに簡単に目から眠りを奪ってしまうかを知っていました。彼らは私たちと同じように、長い時間寝床に横たわり、思いを巡らせていました―「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/…苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手
を差し伸べた。/しかし、私の魂は慰めを拒む」(77編2~3節)。

 彼らは夜な夜な、幾度もの月がゆっくりと空を横切っていくのを見ていました「わが神よ/昼に呼びかけてもあなたは答えられない。/夜もなお、私は黙ることができない」(22編3節)。愛する者に眠りを与えられる神は、時として善意と優しさの理由によって、愛する者から取り去ることもあるの
だと、彼らも知っていました。

 それでも、ダビデやソロモン、そして他の詩篇作者たちは、たとえ眠れそうにない夜でも、眠ることが本当に可能だ、ということを知っていました。

 ダビデは荒野で狩りをされていても、「私は身を横たえて眠り、目覚めます」(3編6節)と語り、コラの子は悲しみに打ちひしがれていても、「夜には、主の歌が私と共にある」(42編9節)と詠い、ソロモンは仕事で頭がいっぱいになっていても、「もし、主が家を建てるのでなければ/それを建て
る人々は空しく労苦することになる。/…朝早く起き、夜遅く休み/苦労してパンを食べる人々よ。/主は愛する者には眠りをお与えになるのだから」(127編1~2節)と教えます。

 彼らは神の御前に思い煩いを置き、身を横になって眠ることの素晴らしい体験をしていました。詩編作者たちは、静かな生活ができなくても、穏やかで静かな心が自分たちのものになり得ることを知っていました。詩篇は、静かな心は、眠りを与えてくださる神の御手からもたらされるものであり、神は私たちの盾、羊飼い、慰めである主として、夜ごと私たちに近づいてくださることを私たちに教えてくれます。

*主は私たちの盾

 「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」(3編6節)。

 詩篇3編のダビデには、不安になる理由も思い煩う理由も、すべてありました。裏切り者の息子によってエルサレムから追われた彼は、獣のように狩りをされながら荒野を駆け抜けていました(1~2節)。これほど眠るのが困難な状況はなかったでしょう。しかし、ダビデは眠りにつき、しかも、それ
ほど苦労せずに眠ったようです(6節)。

 なぜなら「主に向かって声を上げれば、聖なる山から答えてくださる」からだ、とダビデは言います(5節)。ダビデは眠るために自分の王座に君臨する必要はなく、ただ自分の上に君臨される神を必要としていました。そのため、ダビデは荒野でもどんな状況でも眠ることができたのでしょう。

 私たちは今夜、自分の力ではどうにもならない心配事に追われ、無力感に苛まれる荒野に身を横たえるかもしれません。私たちは、差し迫った何らかの診断の必要、仕事の不安、人間関係の対立など、暗く陰鬱な不確実性を前にして、全く弱いと感じるかもしれません。しかし、そのようなときでも、私たちの神は王冠と王笏を持たれ、その玉座に座っておられます。

 全能の神なる主は、夜には「わが盾」であり、朝には「私の頭を起こす方」(4節)なのです。私たちの悩みは多くて手近いかもしれませんが、私たちの神は偉大で力強く、より近い存在です。

*主は私たちの羊飼い

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる」(23編1~2節)。

 羊が横になるのは、休むか眠るかという1つの理由だけである、と言われます。羊が横になるなら、絶対的な安心感、満足感が必要です。私たちの孤独な反芻は、主が私たちの羊飼いであることを信頼していないことを示唆することがどれほど多いことでしょう。羊飼いの棒や杖のそばで不安と恐れを抱
き、まるで一人で歩いているかのように鳴いている羊を見たら、どんなに奇妙で悲しいことでしょう。しかし、私自身もそうであることがよくあります。

 主が本当に私たちの羊飼いであれば、私たちの望みは、心配し、目を覚ます心を必要としません。そして、明日の必要が何であれ、主の備えはそれに見合うものであることを証明してくれるでしょう。

*主は私たちの慰め

 「(主は)心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む。星には数を定め、それぞれに名を付ける」(147編3~4節)。

 詩篇の作者たちは寝床に持ち込む様々な落ち着きのなさの中で、悲しみが最も一般的かもしれません。詩篇を通して、真夜中に泣く人たち(30編6節)、目を覚まして慰めのない気持ち(77編2~3節)、涙で寝床を浸すこと(6編7節)などがあります。確かに悲しみは、しばしば眠れぬ心をもたらす
ものです。そのような時、天地創造における神の声は、聖書における神の声と合わさって、私たちの痛みや苦しみへの慰めを語りかけてくださいます。

 神は星の数を定められ、それぞれに名を付けられたこと(147編4節)を考えると、最初は私たちをこれまで以上に小さく感じさせられ、砕かれた心は神の目に留まるにはあまりにも微小すぎると感じさせられるかもしれません。

 主は「心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む」(3節)と詩編作者が語ります。神はすべての星の名前を知っておられるように、私たちの隠れた悲しみや目に見えない痛みを知っておられます。そして、神はそのすべての民にとって、心を癒され、傷を包まれる偉大な存在です。すべての星から輝くこのような約束は、私たちを眠りへと誘う歌となり得るのではないでしょうか。

*主イエス・キリストのうちに、主と共に生きる

 「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです」(①テサロニケの信徒への手紙5章
10節)と聖パウロが教えてくれます。

 今夜、眠りにつくとき、私たちの主の御手は、私たちを安全に抱く準備ができています。そして、その御手には、目覚めているときも眠っている時も、生きている時、死にかけている時も、最も騒がしい心を落ち着かせることのできる静けさがあります。

 「起きている時も、眠っている時も、神よ、私を救い、守ってください。キリストのうちにいつも目覚め、平和のうちに憩うことができるように。
アーメン」(教会の祈り―聖務日課「寝る前の祈り」交唱)

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

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2023年5月3日