☩「神に心を開き、人々と共にあることが、真の幸福」-主日の正午の祈りで

(2019.2.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日の主日の正午の祈りで、ミサ中に読まれたルカ福音書の箇所を取り上げ、「真の幸福とは何か」というキリストの教えを考察された。

 教皇は「神に対する全幅の信頼とその信仰が人々を『真の幸福』に導きます」とされたうえで、「『真の幸福』とは神に心を開き、人々と共にあること。この世に、偶像に、決して従わないことです」と強調され、次のように話された。

 「人は、生ける神に心を開き、他の人々と分かち合うことで、真の幸福を獲得できます….他人を顧みず、自分の利益のみを追求する利己主義者は、呪われた者であり、本当の幸福には至れません。イエスはいつも、私たちに、この世の現状を信仰によって見極めるように、と教えてくださっています…」

 「神は常に苦しむ人々と共にあり、束縛から解放されます。キリストの福音は、真の信仰に生きるとは具体的にどういうことなのか、も教えてくれます。それは、全てを挙げて神に全幅の信頼を寄せること、なのです… 真の神に心を開くために、この世のすべての偶像を打ち壊すことでもあります。神だけが、困難ではあるが皆が到達することを望む私たちの存在の、真の意味での完成をもたらすことが出来るのです」。

(編集「カトリック・あい」)

2019年2月18日

・「貧困・飢餓克服へ、具体的、現実的な取り組みが必要」教皇、IFAD総会に出席

(2019.2.14 バチカン放送)

 教皇フランシスコは14日、ローマ市内の国連食糧農業機関(FAO)本部で行われた国際農業開発基金(IFAD)第42回総会の開会式に出席され、「貧困と飢餓に苦しむ世界の兄弟姉妹たちのために、これらの問題への積極的な取り組み、責任を果たしてもらいたい」と訴えられた。

 あいさつで教皇は、大気や水質の汚染、天然資源の搾取、水不足、医療システムの不備、ふさわしくない住環境など、世界各地で不安定な状況を生きる人々の叫びに耳を傾け、これらの人々の不安に関心を持つ必要がある、と強調。「貧困と闘い、飢餓を現在と未来から消し去るためには、国際共同体と市民社会、資源を所有する人々の協力と、責任を回避し合うことのない、具体的で現実的な解決を求める姿勢が不可欠です」とされた。

 また、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が掲げる17の目標の最初の2つ「貧困をなくす」「飢餓をゼロにする」を遂行する上で、苦しむ人々の必要に具体的に応えるIFADの事業が非常に重要な役割を果たしていることを評価される一方、「飢餓に脅かされている人々の大半が、世界の農村地帯に暮らし、食料生産に携わっていること」を指摘し、「農村から都会への人口流出という世界的傾向」も無視できない問題として示された。

 そして、「地域の発展の中で、全ての人、全ての共同体が、それぞれの能力を余すところなく発揮し、人間の尊厳にふさわしい生活を送ることができ、農村地域の人々が自分たちの生産と発展の責任ある主役となることができるように」、各国政府や組織の具体的な努力を願われ、「科学技術を貧しい人々への真の奉仕に用い、新しいテクノロジーを地域の文化や伝統と対立させることなく、統合的、相乗的な方法で役立てるように」と希望された。

(編集「カトリック・あい」)

2019年2月15日

◎教皇連続講話・主の祈り⑥祈りで繰り返される「私たち」が意味するものは

(2019.2.13 バチカン放送) 教皇フランシスコは13日の水曜恒例の一般謁見で、アブダビ訪問などで一時中断していた「主の祈り」をめぐるカテケーシスを再開され、この祈りで繰り返される「私たち」という言葉に注目、「私たちと皆の御父」というテーマで話された。

 この講話で教皇はまず、「イエスのように祈るためには、偽善的な祈りに陥らないように」と注意。人に見られるために広場に立って祈ることをせず(マタイ福音書6章5節参照)、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」、神に向かって「父よ」と呼びかけながら祈るように、というイエスの教えを示された。

 そして、「祈り」について、「イエスは偽善を望まれません。真の祈りとは、良心においてひそかになされるもの。その心は外からは分からず、神だけがご存じです」「祈りとは、自分と神の場であり、神は偽善を赦されず、裸の心をご覧になります。神を前に偽りや虚飾は役に立ちません」「神との対話の根底にあるのは、沈黙の対話。愛する二人が交わす眼差しのように、神と人とが交わす眼差し、それが祈りなのです」と語られた。

 この一方で教皇は「キリスト者の祈りは、神との親密さだけに閉じこもり、世界を扉の外に締め出すものであってはなりません」とされ、人々や、様々な状況、問題を、祈りの中にもたらす必要を指摘された。

 さらに、「この祈りで驚かされるのは、一人称単数の『私』いう言葉が、全く見当たらないこと」とされ、具体的に次のように説明された。

 「祈りの前半で、イエスは『(あなたの)御名が聖とされますように』『(あなたの)御国が来ますように』『(あなたの)御心が天に行われるとおり、地にも行われますように』と、御父に呼びかけ、祈りの後半には『私たちの日ごとの糧を今日も お与えください』『私たちの罪を赦しください。私たちも人を赦します』『私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください』と、一人称複数の「私たち」が繰り返されます。このように、この祈りには「私」という言葉がなく、「『あなた(御父)』と『私たち』の対話があるのです」。

 では、なぜ神との対話には、個人主義のための『スペース』が無いのか、と問われた教皇は、「自分の問題だけを世界で唯一の問題のようにひけらかす祈りはなく、神への祈りを自分たちの共同体のためだけの祈りとすることはできません。『私たち』は共に祈る民なのです」とその答えを説明された。

 教皇はここで、かつてご自分がある刑務所付司祭と交わした対話を回想。「『私』に対する反義語は何だと思いますか」という司祭の質問に、「それは『あなた』でしょう」と答えると、司祭から「それが戦争の始まりです。『私』の反義語は『私たち』です。平和のあるところには、皆が共にあるのです」と教えられたことを紹介された。

 そして、「キリスト者は、祈りの中で自分の周りに生きる全ての人々の困難を思い起こし、神の御前でその日に出会った人々の様々な苦しみを語る必要があります」とされ、「もし多くの人の苦しみや貧しい人たちの涙に無関心でいるならば、その人の心は『石』です」「『同情を感じる』は、福音における一つのキーワード的な動詞です」と語られた。

 さらに教皇は「自分が祈る時、近くや遠くにいる人の叫びに心を開いているでしょうか。それとも祈りを『自分を安心させるための一種の麻酔』のように考えているでしょうか。私たちは自分自身に問う必要があります」と話され、また「神を求めないように思われる人々に対しても、彼らのために祈るようイエスは招いています」「御父は全ての人を愛されます。自分の気に入った人にだけよくしようとする私たちと異なり、全ての人に対して善い方である神から、私たちは学ばねばなりません」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年2月14日

☩「イエスの奇跡の偉大さは、ペトロたちを『諦めの罠』から助け出したことにある」-日曜正午の祈りの前に

(2019.2.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、日曜正午の祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書中のイエスが漁師シモン・ペトロを弟子にする場面(5章1-11節)を取り上げられた。

 このエピソードでは、イエスによる大漁の奇跡と、ペトロの召し出しが語られる-ゲネサレト湖畔で、イエスは網を洗う漁師たちをご覧になった。イエスはシモンの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼み、そして、舟から岸辺の群集に教えられた。話し終わったイエスは、「沖に漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。漁師たちがそうすると、網が破れそうなほどの、おびただしい魚がかかった。

 教皇は、この箇所について、経験豊かな漁師シモン・ペトロは、前の晩に何もとれなかったものを、また漁をしたところで同じだろうと考えたが、イエスの存在とその言葉に動かされ、「お言葉ですから」と網を降ろす、イエスの招きに答えようとする姿勢を持っていた、とされた。

 そして、「主はご自分のすべての弟子たちに、信仰への回答として、主の呼びかけに答えるこの姿勢を求められているのです」とし、「ペトロのイエスへの信頼に満ちた従順は、網がやぶれそうなほどの魚をもたらしましたが、この奇跡の大漁は、『イエスの言葉の力』を表すしるしであり、私たちが主のために寛大に奉仕する時、主は私たちの中で偉大なことを成し遂げられます」。

 さらに、「主は私たちの人生の舟にご自分を迎え入れ、ご自分と共に新たな海に漕ぎ出すよう招かれ、そこで偉大な驚くべきことを見せてくだいます。優しさと慈しみを証しするために人類の大海に出ることは、私たちの人生に新しい意味をもたらすのです」と強調された。

 また、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言ったペトロと同じ様に、「私たちも、神の呼びかけを前にして、自分の不適格さを理由に、それをたびたび断ろうとする傾向があります」。しかし、「『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』とイエスがペトロを励ましたように、私たちが主に信頼を寄せるなら、主は私たちを罪から解放し、ご自身の使命に協力するように、と新しい世界を開いてくださいます」と説かれた。

 教皇は「イエスが行った奇跡の偉大さは、網を魚で満たしただけでなく、ペトロたちを失望や諦めの罠から助け出したことにあります」とされ、イエスは福音と神の御国の証し人になるよう彼らの心を開かれ、「それに対する彼らの答えは『すべてを捨てて、イエスに従う』ことでした」と語られ、神の御旨に寛大に従ったおとめマリアを模範として示された教皇は、「私たちも、神の御言葉と救いを告げ知らせるために、主の呼びかけに答えることができますように」と聖母の助けを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年2月13日

☩「人身売買撲滅の戦いに加わるように、政治指導者も積極的取り組みを」-日曜正午の祈りで

(2019.2.10 VaticanNews Christopher Wells)

 教皇フランシスコは10日の主日の正午の祈りの説教で、今月の教皇の祈りの意向でもある「人身売買」の問題を取り上げ、世界で起きている男女、子供たちに対する搾取、人身売買を強く非難するとともに、こうした犠牲者の保護に努めるよう、改めて訴えるとともに、世界の政治指導者たちに積極的な取り組みを強く求められた。

 教皇は説教の冒頭、人身売買を終わらすための努力を皆で続けていくために「祈りが力となります」と述べ、聖ペトロ広場に集まった人々に、キリスト教徒となる前に奴隷として大きな苦しみを味わった聖ジュゼッピーナ・バキータ(注:1868年-1947年=スーダン、オルゴッサ村の有力者の家庭に生まれたが、7歳のとき誘拐され、奴隷として5度も売買された。16歳の時、イタリアの駐スーダン領事に救われ、イタリアに行って受洗、カノッサ修道女会に入会。やさしく、穏やかで、いつもほほえんでいた彼女は、皆に愛され、晩年、病に苦しんだ2000年10月1日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された)を思い起こし、次のように祈られた。

 「聖ジュゼッピーナ・バキータ、あなたは子供の時に奴隷として売られ、言葉では説明できないほどの困難と苦しみを味わいました。奴隷の状態から解放されて、キリストと教会との出会いの中に、本当の救いを見つけました。聖ジュゼッピーナ・バキータ、奴隷にされている全ての人を助けてください。こうした人々の名において、彼らが繋がれている鎖が打ち壊されるよう、慈しみの神に取り次いでください。人間を取引し、売買する行為によって、恐怖を味わわされ、傷つけられ、酷い扱いを受けている人々を自由にしてくださるように、神ご自身にお願いします。奴隷状態にある人々に安らぎをお与えください。信仰と希望の模範としてイエスを見るように、彼らに教えてください。それによって、傷が癒されるでしょう。聖ジュゼッピーナ、私たちはあなたにお願いします。私たち皆のために、祈りと取り次ぎをお願いします-私たちが無関心に陥らないように、目を見開いて、尊厳と自由を奪われた数多くの兄弟姉妹の悲惨と傷を見つめることができますように。助けを求める彼らの声をお聞きください。アーメン」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2019年2月11日

☩「マザー・テレサに倣い、神の愛を形で示そう」11日の「世界病者の日」へ教皇メッセージ

11日の「世界病者の日」を前に、教皇フランシスコが以下のメッセージを送られた。「世界病者の日」は聖ヨハネ・パウロ二世によって1993年から始められたもので、「ルルドの聖母の記念日」にもあたる。以下のメッセージを私たちも共有し、病に苦しむ人たちを祈りと働きで、寄り添い、支えることができるよう決意を新たにする機会としたい。(「カトリック・あい」)

第27回「世界病者の日」教皇メッセージ 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)。これは、イエスが、福音を述べ伝えるために使徒たちを派遣する際に、無償の愛のわざを通してみ国を広めるよう述べたことばです。

 第27回「世界病者の日」が、インドのコルカタで2019年2月11日に厳かに祝われるにあたり、病者を始めとする全ての子らの母である教会は、よいサマリア人のように無償で与えることが福音宣教の最も確かな方法であることを、私たちに思い起こさせます。病者に対するケアには、専門的な技能と愛情、さらには優しく触れる行為のような、「愛されている」と相手に感じさせる無償で直接的で飾らない行いが求められます。

 いのちは神から与えられた「恩恵」(たまもの)です。「あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか」(コリントの信徒への手紙1・4章7節)と聖パウロが指摘しているとおりです。神から与えられた恩恵であるからこそ、単なる所有物や私有財産と見なすことはできません。医学とバイオテクノロジーの進歩により、「いのちの木」(創世記3章24節参照)の操作への誘惑に人々がさらされている状況においてはなおさらです。

 その「恩恵を互いにささげ合うこと」(たまもの)は、新たなきずなと多種多様な協力関係を諸民族、諸文化の間に結ぶために、利己主義や現代社会の分断化に挑戦することを可能にする枠組みとして位置づけられるべきであることを、私は、使い捨てと無関心の文化に直面する中で強調したいと思います。

 対話は、恩恵をささげ合うことの前提となるものであり、人類を成長、発展させ、社会における権力の行使という既成の構図を打破することのできる、人間関係の幅を広げます。ささげ合うことは、単に贈り物をすることと同じではありません。自分自身を差し出してはじめてそう言えるのであって、単なる財産や物の受け渡しではありません。

 そこには自らをささげることが含まれており、絆を結びたいという願いが伴っているからこそ、贈り物をすることとは異なるのです。このように、ささげ合うことは、何よりもまず互いに認め合うことであり、社会的な絆にとって不可欠な行いです。そこには、御子イエスの受肉と聖霊の注ぎのうちに頂点に達する神の愛が映し出されているのです。

 人は、誰もが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれた時には、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、私たちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。

 これは、私たちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。その事実を率直に認めることにより、私たちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。

 このような認識は、個人のものであり共同体のものでもある善を見据えながら、責任をもって行動し、他の人にも責任を負わせるよう、私たちを導きます。人が自分自身のことを、孤立した世界ではなく、その本性上、他の全ての人と結ばれたものとして捉え、本来は互いに「兄弟姉妹」だと感じるときにはじめて、共通善に基づく社会的連帯は可能になります。自分は助けを必要とし、必要なもの全てを自分で得られないからといって、気に病むことはありません。自分独りでは、自分の力だけでは、どんな限界も克服できないからです。

 恐れずにそのことを認めましょう。神はキリストのうちに自らへりくだり(フィリピの信徒への手紙2章8節参照)、私たちを助け、私たちの力では決して得られない善を与えるために、私たちとその貧しさの上に身をかがめてくださったのですから。

 インドで厳かに式典が行われるにあたり、私は貧しい人と病者への神の愛を目に見える形で示した、愛のわざの模範であるコルカタの聖マザー・テレサの姿を、喜びと称賛のうちに思い起こしたいと思います。

 彼女の列聖式で述べたように、「マザー・テレサは全生涯にわたり、生まれる前の命、世間から見放され見捨てられた命といった人間の命を受け入れ、守ることを通して、全ての人が神の慈しみを手にできるよう惜しみなく分け与えました。……衰弱しきって死にかけている人の前にかがみ、道の端に連れて行って死を迎えさせてあげました。神がその人たちにお与えになった尊厳を認めていたからです。彼女は、この世の権力者の前で声を上げ、権力者自身が生み出す貧困という犯罪……に対する彼らの責任を自覚させようとしました。マザー・テレサにとって慈しみは、彼女の働きの全てに味をつける『塩』であり、貧困と苦しみのために涙も枯れ果てた人の闇を照らす『光』でもありました。都市の周辺部と、実存的辺境に対して彼女が行った宣教は、神が極限の貧困にあえぐ人々に寄り添っておられることを雄弁に物語る証しとして、今の時代にも生き続けています」(「列聖式ミサ説教」2016年9月4日)

 聖マザー・テレサは、言語や文化、民族、宗教の違いに関わりなく、全ての人に無償の愛を示すことこそが、活動の唯一のよりどころであることを教えてくれます。彼女の模範は、理解と優しさを求めている人々、とりわけ苦しんでいる人々のために、喜びと希望の展望を切り開くよう、私たちを導き続けます。

 医療活動にとって極めて重要であり、よきサマリア人の精神をあらゆる形で体現しているボランティアの人々にとっては、無償であることこそが活動の原動力です。患者の搬送や救護に従事しているボランティア団体、さらには血液、組織、臓器提供のために尽力しているボランティア団体に、私は感謝と励ましの意を表します。

 人々の間の意識を高め、予防を充実させることも忘れてはなりませんが、教会がとりわけ注目しているのは、病者の権利、中でも特別な治療を要する患者の権利を擁護する活動です。また、医療機関や在宅ケアでの皆さんのボランティア活動は根本的に重要なものであり、保健衛生から精神的サポートまで多岐にわたっています。その活動は病者、孤立した人、高齢者、心や体が衰弱している人など、大勢の人々のために役立っています。私は皆さんが、この世俗化した世界において教会のしるしであり続けるよう願っています。

 ボランティアは、思いや感情を打ち明けることのできる公平無私な友です。傾聴することを通して彼らは、治療される受動的な存在である病者を、相互の関係における能動的な主体へと変えることができます。それにより病者は希望を取り戻し、治療を受ける心構えを持てるようになるのです。ボランティア活動は、「ささげる」というパン種を核心とする価値観、姿勢、生き方を伝えています。それは、治療をより人間味あふれるものにする活動でもあります。

 特に、カトリック系の医療機関は、無償であるという側面によって推進されるべきです。その働きは世界中、先進地域においても極貧地域においても、福音の論理のもとに行われているからです。利益最優先の論理、見返りを求める論理、人間を無視した搾取の論理に対して、カトリック諸機関はささげること、無償であること、連帯することの意味を明らかにするよう求められています。

 利益優先の使い捨て文化を克服するために欠かせない無償で与える文化を、あらゆる分野に広めるよう、私は皆さんに強く求めます。カトリック系の医療機関は、利益優先主義に陥ることなく、収益よりも人々への配慮を重んじるべきです。健康状態は他者との関係に左右される相関的なものであり、信頼関係と友情、連帯を必要とすることは言うまでもありません。それは、分かち合ってはじめて「十分」に味わうことのできる恵みです。無償で与える喜びは、キリスト者の健康状態を示す指標なのです。

 私は「病者の回復」であるマリアに、皆さんを委ねます。私たちが対話と相互受容の精神のもとに受けた、たまものを分かち合い、他者の必要に心を配りながら、兄弟姉妹として生き、寛大な心で与えるすべを身につけ、私欲にとらわれずに奉仕する喜びを知ることができるよう、マリアが助けてくださいますように。私は祈りのうちに皆さんに寄り添うことを約束し、心から使徒的祝福を送ります。

バチカンより 2018年11月25日 王であるキリストの祭日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)

(「カトリック・あい」注:聖書の直接の引用については「聖書協会共同訳』を使用。また、ひらがなの多用は、読みにくさ、分かりにくさの原因になることから、原則として常用漢字表をもとに「カトリック・あい」が改めました。また原文のパラグラフが長すぎて意味のとり難い箇所は、行替えをしました)

2019年2月8日

☩「イエスの公生活は、同郷の人々の拒絶と死の脅迫から始まった」-日曜正午の集いで

2019.2.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日日曜正午の祈りの中での説教で、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書のナザレの会堂におけるイエスと、イエスを受け入れることのできないナザレの人々の反応(4章21-30節)を取り上げられた。

 <ナザレの会堂で説教するイエスに対し、人々はその恵み深い言葉に驚き、「この人はヨセフの子ではないか」(22節)と言った。教皇は、カファルナウムでされたように、ここでも奇跡を期待するナザレの人々の思いを読み取ったイエスは、偉大な預言者エリヤとエリシャが、イスラエルの人々ではなく、彼らの言葉を信じた他の民族を癒し、救ったことを例に引いて語られた。>

 イエスがナザレで奇跡をなさらなかったのは「神が望まれるのは信仰であるのに、人々は奇跡を望み、神は全ての人を救うことを望まれるのに対し、人々は自分たちに都合の良いメシアを望んでいたからです」と教皇は説明された。

 <イエスは人々に救いの無償性と普遍性に心を開くよう招いたが、ナザレの人々の憤慨は、「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し…山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」(29節)するほどだった。>

 ここで、教皇は「イエスの公生活が、逆説的に同郷の人々の拒絶と死の脅迫から始まった」ことを指摘され、「イエスは御父から託された使命を生きるうえで、苦労や、拒絶、迫害、敗北に遭わねばならないことを知っておられましたが、どんなに厳しい拒絶も、イエスの歩みと預言的な言動を止めることはなかったのです」と強調された。

 最後に、「今日も、キリスト教的召命に勇気と忍耐をもって応え、御父の御旨を受け入れ、それを人々に証しする、預言者的な主の弟子たちの存在」を思い起こされた教皇は「私たちも同じ使徒的熱意のうちに歩み成長することができるように」と聖母の助けを祈られた。

 また、教皇はこの集いで、5日に極東をはじめ各地で旧暦の正月を迎える人々にお祝いを述べ、人々が自分自身、他の人々、自然と共に、平和のうちに生活できるよう祈られた。そして、ローマのカトリックアクションの子どもたちと、世界平和を願い、風船を空に放たれた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年2月4日

☩「これから花開く命を意図的に消すことは、召命に対する裏切り」-「命の日」を前に

(2019.2.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、バチカンで、イタリアのプロ・ライフ・ムーブメント(Il Movimento per la vita)の評議会メンバーとお会いになり、「命とは未来」であり、常に命を大切に、確信をもって守る必要を説かれた。

   教皇は「これから花開く命を意図的に消すことは、いかなる場合においても、未来に希望をもたらす世代間の約束のみならず、私たちの召命に対する裏切りです」とされ、「もし、命そのものが初めから侵害されるなら、感謝と恵みに満ちた受容はそこになく、残るのは冷たい計算だけです」と警告。

 さらに、「こうして命は自分自身や他人のために、消費、利用され、捨てられる存在に矮小化されてしまうのです」と強調されたうえで、このような悲劇は「残念ながら広がり、根付いており、最も弱い立場にある私たちの兄弟たちをどれほど苦しませていることでしょうか」と慨嘆された。

 そして、3日がイタリアで記念される「命の日」であること念頭に、「共通善の礎は、生まれてくる命を守り、社会に新しさと未来と希望をもたらすその命を受け入れること」として、政治家たちに命を守る責任を果たすように呼びかけられた。

 イタリアのプロ・ライフ・ムーブメント連盟は、全国の600以上のプロ・ライフ組織から構成され、活動目的は、命の権利と人間の尊厳を、その受胎から自然の死に至るまで、守り、推進し、特に生まれてくる前の子どもをはじめ、弱者に対する受容の文化を支えることにある。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年2月3日

☩「子供たちこそ、未来を保証するメッセージだ」-教皇、パナマ訪問を振り返って

(2019.1.30 バチカン放送)

 教皇フランシスコは30日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われ、パナマ司牧訪問について報告された。

 カトリックの若者たちの祝祭「世界青年の日(ワールドユースデー、WYD)大会」などパナマで受けた温かいもてなしに感謝を述べた教皇は、人々の歓迎の中でも、特に子どもを腕に高く掲げた多くの両親たちの姿を思い起こされ、「この子は私の誇り、私の未来です」と言っているかのような両親たちに人間としての尊厳を見出す一方で、人口減少という「冬」を体験している欧州に対して「子どもたちこそが未来の安定を保証するというメッセージを感じた」と語られた。

 また、WYD大会に先立って行われた「先住民族の若者たちの集い」を「ラテンアメリカの教会の多様性を示す重要な行事」とされ、大会のため世界中から集った国籍も言語も異なる若者たちの喜びにあふれたシンフォニーは「民族間の出会いに自らを閉ざす、今日の紛争的な国家主義に対抗する、預言的なしるしとなりました」と評価された。

 そして、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ福音書1章38節)という受胎告知を受けたマリアの言葉をテーマにした今回の大会は「マリアのように神に『はい』と答えるように、新世代の人々をを励ますものとなりました」。 特に大会の行事の一環として行われた「十字架の道行き」は「十字架を担ぐイエスの後をマリアと共に歩むことが、忍耐強く、静かな、具体的な愛の学び舎となることを教えることになりました」と強調された。

 また、大会記念ミサの前夜祭では、神のご計画に「はい」と答えることによって世界の歴史に影響を与えることになったマリアを、神の「影響を与える者」として若者たちに示した、とされ、大会閉会の記念ミサでは若い人たちに、「『明日』ではなく『今』、『いつかそのうち』ではなく『今、福音を生きるように』と促しました」と話された。

 さらに、訪問で印象深かったこととして、パナマの少年刑務所で赦しの秘跡、エイズ患者のファミリーホームの訪問をあげ、中米諸国の司教たちとの出会いでは、聖オスカル・ロメロ大司教を模範として示し、パナマ大司教区のカテドラルでは、新しい祭壇の聖別式をとり行ったことなども振り返られた。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は昨年12月創刊のカトリックとプロテスタント諸派が協力して原典から訳出した「聖書協会共同訳」を使用しています)

2019年1月31日

☩「この21世紀の世界でマリアのように『影響を与える者』とは」教皇、夜の集会で若者たちに

(2019.1.26 Vatican News Seàn-Patrick Lovett)

 パナマ訪問中の教皇フランシスコは26日夜、首都パナマ市のメトロパークで若者たち60万人が参加して行われた集会で、”神に影響を与える方”、マリアに倣うように強く求めた。

  三つの人生、三つの物語、信仰、希望、愛の三つの証し-それが若者たちに対する教皇の深い思いの裏にあるインスピレーションだった。

 人生の物語、愛の物語。教皇はまず、「主は最初に『はい』と言われます。そして、私たちに、ご自分に倣って『はい』と言うように希望なさいます。イエスが私たちに『愛の物語の一部』になるようにお招きになります」としたうえで、マリアを、「はい」と言い「神の愛と約束に信頼」を置く最高の模範として示され、「マリアを『神に影響を与える方』にしたのは、まさに、そのことによるのです」と強調された。

 そして「マリアの『はい』は、すべての世代に響き渡り、広がります」と述べ、ダウン症と診断された後、娘を出産することの困難とリスクに直面する中で、それを証しした若い夫婦を感謝とともに例示し、「主に『はい』と言うことは、これから来る人生を、そのすべての脆弱さとともに、丸ごと受け入れることを意味します」「主が私たちの愛の物語を書きたいを思われるのは、私たちのもろさと傷を通してなのです」とされ、さらに「私たちの不完全さにもかかわらず、丸ごと受け入れてくださる父がおられる、ということを知るのは、何という贈り物でしょうか」と語られた。

 続いて、教皇は、麻薬中毒と闘った自身の経験を語った若者に感謝を宣べるとともに、私たちにとって「自分を支える強い根」-教育、雇用、家族、共同体社会-を持たずに成長することが、いかに不可能か、ということについて話され、「そのような根を持たずに、未来について夢を見ることはできません。なぜなら、未来の夢をみることは、自分が何のために生きているのか、誰のために生きているのか、という問いに答えることだからです」と訴えられた。

 さらに、この21世紀において「影響を与える者」であることは、「根の守り手」であること、自分たちを「互いの一部だ」と感じさせ、「一員である」と感じさせる、「全てのものの守り手」であること、と指摘され、ダウン症、麻薬中毒に続く、三つ目の具体的な証しとして、クラコフで二年前に開かれたWYD大会で信仰を見つけたパレスチナの若い女性の例をあげ、「彼女は、自分を歓迎し、一員であることを実感させた生き生きとして、幸せな共同体を知りました。そして、イエスに見つけられた喜びを生きることができるようになったのです」と語られた。

 このように語られたうえで、教皇は会場の若者たちに「あなた方は『はい』と進んで言いますか?」「マリアのように『影響を与える者』に進んでなりますか?」と問いかけ、「だだ愛だけが、私たちをもっと人間らしく、満たされた者、とするのです」「ですから、イエスに『私は、この世界であなたの愛の物語の一部となりたいのです』と言うことを恐れないように」と諭された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年1月27日