◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑰ 永遠の命にふさわしい「信仰」と「希望」と「愛徳」を生きよう

教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

(2024.4.24 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは24日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」の連続講話を続けられ、これまでの「cardinal virtues =人間的徳(基本的な徳目)」から「theological virtues=対神徳(神学的な徳目)」に考察を移され、「信仰、希望、そして愛徳が、キリストに従い、共に聖性を目指す私たちの旅を導き、その途上で、たとえ倒れても立ち直るのを助けてくれること」を強調された。

 バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次の通り。

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 これまでの数週間、私たちは、賢明、正義、勇気、節制という、「人間的徳」について考えてきました。何度か強調したように、この4つの徳はキリスト教よりも昔の、古代の叡智に属していまする。キリスト以前から、「正義」は市民の義務として、「賢明」は行動の基準として、「勇気」は善を目指す生活の本質的要素として、「節制」は過剰にとらわれないための尺度として、奨励されてきました。キリスト教はこの人類の遺産に取って代わるのではなく、それに焦点を当て、価値づけ、純粋化、補完したものとしてきたのです。

 あらゆる人の心には、「善」を求める力が備わっています。それを受ける者がはっきりと善悪を区別し、悪を退け、善に従う力を得ることで、完全な自己実現ができるよう、聖霊から与えられました。

 しかし、すべての人がたどるべく招かれた、命の充満に向けた歩みの中で、キリスト者はイエス・キリストの霊の特別な助けをいただいています。それは、しばしば新約聖書で言及される、他の3つの徳の賜物を通して実現されるものです。キリスト者の生活を特徴づけるこれらの基本的態度とは、「信仰」「希望」「愛」です。キリスト教の著作家たちは、それを「対神徳)」と呼ぶようになりました。「人間的徳」が善き生活の要(かなめ)を構成するように、「対神徳」は、神との関係の中で受け取り、生きるべきものを表しています。

 『カトリック教会のカテキズム』は、「対神徳」の働きを次のように定義しています―「対神徳はキリスト者の倫理的生活の土台であり、源であり、これを特徴づけるものである。あらゆる倫理徳に生気を与え、活気づける。神の子供としてふるまい、永遠の命いのちに値する行為をすることができるように、信者の心に神から注がれたものである。それは、人間の諸能力のうちに聖霊が共におり、働いておられる、ということの保証である」(1813項)。

 「人間的徳」では、英雄的な人々が善を生み出す時、大抵一人の孤立した行いになりがちであることに対し、「対神徳」の偉大な恵みは、聖霊を通して体験されるものです。キリスト者は決して独りではありません。善は、個人の膨大な努力によってではなく、謙遜な弟子として師イエスに従って歩むことによって実現されるのです。「対神徳」は自己完結に対する偉大な薬です。道徳的に非の打ち所がないある種の人たちが、他者の目には、うぬぼれた尊大な人に見える危険がいったいどれだけあることでしょうか。

 福音書は、こうした危険を前に、私たちに注意を促している。イエスは弟子たちにこう教えられました。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ福音書17章10節)。

 「高慢」は猛毒です。ただ一滴で善に満ちた人生全体を破壊してしまいます。ある人が山のような善業を果たし、人から認められ、称賛を集めたところで、それを自己の称賛のためにしたとすれば、これでも有徳の人と言えるでしょうか。

  善を行うには目的だけでなく、方法も重要である。善には大いなる控え目さと思いやりが必要です。善は時に自分という嵩張る存在を脱ぎ捨てることを要求します。人生のあらゆる行為を自分のためだけにするとしたら、その動機づけは本当に重要でしょうか。

 これらのしばしば苦しい状況を正すために、「対神徳」は大きな助けになります。特に過ちを犯した時に役立ちます。毎日徳を実践する人でさえも、過ちに陥ることがあるからです。必ずしも常に知性が的確に働き、意志が堅固で、熱情が抑えられ、勇気が恐れに勝つとは限りません。しかし、心を聖霊に開くなら、聖霊は私たちの内に「対神徳」を息づかせるでしょう。そうするなら、信頼を失った時、神は私たちを再び信仰に開かせ、意気消沈した時、私たちを新たな希望に目覚めさせ、心が頑なな時、神はご自身の愛によってそれを和らげてくださるに違いありません。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年4月25日