☩「喜びへの招きを受けるために『私はどうすればよいか』問い直そう」

(2018.12.16 VaticanNews)

 教皇フランシスコは16日待降節第三主日「喜びの日曜日」正午のお告げの祈りに先立つ説教で、サンピエトロ広場の寒さを防ぐために温かい服を着込んだ子供たちに向かって、「あなた方が、お家で(注:お生まれになるキリストが置かれる)『飼い葉おけ』の前で、皆でお祈りをし、赤ちゃんのキリストさまを見て、人を造られた神さまをとてもすごい、と思うでしょう。そして、聖霊があなたの心に、イエスさまのつつしみ深さ、やさしさ、そしてすばらしさをくださるでしょう。これが、本当のクリスマス!あなた方とあなた方の家族の皆さんにとって、そうなりますように」と語られた。

 そして、教皇は、広場に集まった人々に、待降節第三主日のミサ典礼は「私たちを、喜びに招くもの」とし、「エルサレムの住民たちは、主が自分たちへの裁きを退けられた(注:ゼファニヤ書3章15節参照)ことで、喜びに招かれました…それゆえ、人々にとって悲しんだり、落胆したりする理由はなくなり、すべてが、愛する者たちをいつも罪から救い、助けたいと思っておられる神への、喜びに満ちた感謝につながっていくのです」とされた。

 さらに教皇はこの日のミサの第一朗読で読まれた聖書の箇所と取り上げ、「主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる」(ゼファニヤ書3章17節=「聖書協会共同訳」より)と語る預言者ゼファニヤの言葉は、「クリスマスを準備する私たちにとって、特に適っています… なぜなら、それはイエス、エマニュエル-私たちと共におられる神、に対するもの、イエスの存在が喜びの源だからです」と説かれた。

 また、教皇は、「聖パウロは(注:第二朗読の「フィリピの信徒への手紙」で)『何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献(ささ)げ、求めているものを神に打ち明けなさい(4章6節=同)』と私たちに勧めています。困難に遭う時、私たちがいつも、主に向き合うことができることと、そして、主は決して私たちの願いを拒まれないことを知ることは、喜びの大きな理由です」とされ、「心配も、恐れも、『神はいつも、愛をもって人生を導いてくださる』のを知ることからくる心の平穏を、私たちから、取り去ることはできません。問題や苦しみの最中にあってさえも、この確信が希望と勇気を育てていくのです」と述べられた。

 最後に教皇は、待降節は回心の機会の一つであり、喜びへの主の招待を受け入れるために(注:福音朗読、ルカ3章10‐18節にある)「私はどうすればよいのですか」と自分自身に問う必要がある、と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」)

2018年12月17日

◎教皇連続講話【主の祈り】②「父よ」「お父さん」で始まるのは

(2018.12.12 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは12日の一般謁見で、先週に続いて「主の祈り」についてのカテキズムをなさった。その内容は以下の通り(翻訳・Sr岡立子)。

 「愛する兄弟姉妹たち、先週始めた、「主の祈り」についてのカテキズムの歩みを続けましょう。

 イエスは、ご自分の弟子たちの口に、短く、大胆な、七つの要求domandeから成る祈りを載せました―七という数は、聖書の中で、偶然ではありません。それは、充満(完全pienezza)を示します―。

 私は、大胆な、と言いました。なぜなら、もしそれを、キリストが示唆したのでなければ、おそらく、私たちの中で誰も―というより、最も有名な神学者たちの中でも誰も―このような方法で、敢えて神に祈ろうとはしないでしょうから。

 実際イエスは、ご自分の弟子たちに、神に近づくように、神に、信頼をもって、いくつかの嘆願を向けるよう、招きます:何よりもまず、神に関して、それから、私たちに関して。

 「主の祈り」の中には、何の前置きもありません。イエスは、主の「機嫌を取る」ための決まり文句formuleは教えません。それどころか、服従や恐れのバリア(壁)を砕いて、神に祈るよう招きます。「全能の方」とか、「いと高き方」とか、「みじめな者である私たちから遠く離れた方」とか呼びながら、神に祈らないでください。そうではありません。

 そのようには言わず、単純に、「父(お父さん)」と言います。子供がパパ(お父ちゃん)に向かうように、まったくの単純さをもって。そして、この「父(お父さん)」という言葉は、親密さ、子としての信頼を表しています。

 「主の祈り」は、人間の具体的な現実の中に、その根をはっています。例えば、わたしたちに、糧を、日々の糧を嘆願させます:単純な、しかし本質的な要求。それは、信仰が、生活からかけ離れた「飾りの(うわべの)」問いかけ―その他のすべての要求が満たされたときに口に出す―ではないことを示しています。

 ことによると、祈りは、生活そのものから始まるとも言えます。イエスが私たちに教える祈りは、おなかがいっぱいになった後、人間の暮らしの中で始まるのではありません。そうではなく、祈りは、人間がいるところどこにでも宿っています。おなかがすいている人、泣いている人、闘っている人、苦しんでいる人、「なぜ」と問いかけている、あらゆる人がいるところに。

 私たちの最初の祈りは、ある意味で、最初の呼吸に寄り添った産声だったと言えます。あの、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声の中に、わたしたちの人生すべての運命が、告げられていますー私たちの、絶え間ない飢え、絶え間ない渇き、幸福の探求…。

 イエスは、祈りの中で、人間らしさを消すことを、麻痺させることを望みません。イエスは、問いかけ、要求を鎮める(和らげる)こと―すべてを耐えることを学びながら―を望みません。イエスは、そうではなく、あらゆる苦しみ、あらゆる不安が、天に向かって投げ出され、対話となることを望んでいます。

 ある人が、信仰をもつことは、叫びの習慣un’abitudine al gridoであると言いました。私たちはみな、福音の中のバルティマイのようにならなければなりません(マルコ福音書10章46-52節参照)。

 ティマイの子、バルティマイの福音の箇所を思い起こしましょう。エリコの門の前で物乞いをしていた目の見えない人のことを。

 彼の周りには、たくさんの賢い人たち(常識ある人々brava gente)がいて、彼に黙るように命じました。「黙りなさい、主が通られます。黙っていなさい。邪魔しないでくださ。先生は忙しいのです、先生を邪魔しないでください。あなたは叫びながら、自分を煩わしくしています。邪魔しないでください」。

 しかし彼は、これらの助言を聞きませんでした:聖なる執拗さで、彼のみじめな状態が、最終的にイエスと出会うことが出来るよう、強く求めましたpretendeva che la sua misera condizione potesse finalmente incontrareGesù。そして、より強く叫びました!教養のある人は「やめなさい、お願いです、彼は先生です!あなたはみっともない姿をさらしています!」。彼は叫びました。目が見えるようになりたかったから、癒されたかったからです。「イエスよ、わたしを憐れんでください!」(47節)。

 イエスは、彼に、視力を再び与え、言いました:「あなたの信仰が、あなたを救った」(52節)。彼の癒しにとっての、決定的なことは、あの祈り、あの「信仰をもって叫ばれた嘆願」ー彼を黙らせようとしたたくさんの人の「常識」よりも強く叫ばれた嘆願ーであったことを説明するかのように。

 祈りは、救いに先立つだけでなく、何らかの方法で、すでに救いを含んでいます。なぜなら、たくさんの耐え難い状況からの出口を信じない人の絶望から、解放するからです。確かに、信じる者たちは、神を賛美する必要も感じます。福音は私たちに、イエスの心―父への感謝の驚きに満ちた―からあふれ出る歓喜の叫びを、私たちに伝えています(マタイ福音書11章25-27節参照)。

 最初のキリスト者たちは、「主の祈り」のテキストに、栄唱una dossologiaを加える必要さえ感じました。それは、「力と栄光は世々にあなたのものだからです」(ディダケーDidaché=「十二使徒の教訓」。ギリシャ語の本来の意味は「教え」「教訓」。1世紀ごろ、シリアかパレスチナのキリスト教共同体で使われていた、信徒の生活および教会の営みに関しての実際的勧告のマニュアルで、古くから存在は知られていたが、近代になって、ギリシャ正教のニコメディア(トルコ)大司教、フリュエンニオスによって写本が発見された=8章2節)。

 けれど、私たちの誰も、過去に、誰かが示したセオリー(学説)を支持しません。つまり、嘆願の祈りが信仰の弱い形であり、より真実の祈りは、純粋な賛美、何の要求の負荷もなしに、神を求める賛美であるという説…。違います、それは本当ではありません。嘆願の祈りは真実です。自発的です。「父」であり、善い方であり、全能である神への信仰の行為です。それは、小さく、罪深く、助けを必要としている私を信じる行為です。ですから、何かを願う祈りは、非常にに気高いものです。

 神は、私たちに計り知れない慈しみをもっている父、子供たちが恐れることなくご自分に話すのを望む父、です。ご自分を直接「父」と呼びながら、あるいは、困難の中で、「主よ、どうしてですか?」と言いながら。

 だから私たちは、神にすべてを語ることが出来ます―生活の中で、ゆがめられたこと、不可解なことでも―。主は、私たちと共にいつもいる、と約束しました―私たちの、地上での最後の日々まで。

 「主の祈り」を祈りましょう。次のように始めながら。単純に「父よ」、あるいは「お父さん(お父ちゃん)」と。神は私たちを理解し、私たちをとても愛しておられます」。

2018年12月13日

☩「和解は容易でない。それでも、希望を灯し続けよう」

(2018.12.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは9日, 日曜正午の祈りの説教で、神を信じる者たちのこの世界において果たすべき重要な役割について話され、キリストの降誕祭を準備する期間である待降節の第二の主日にあたるこの日のミサの福音朗読から、洗礼者聖ヨハネの使命を想起しつつ、聖ヨハネが人々に呼びかけた「回心の必要性」について強調され、次のように話された。

「親愛なる兄弟の皆さん、洗礼者聖ヨハネは救い主を迎えるためにその道を平らにし、整え準備するよう人々を招きました。

 主を迎えるための道を平らにし整えるとはどういうことでしょうか。それは、私たちの心から冷酷さや利己主義、無関心を取り除き、イエスご自身が持たれた心をもって人々に自分自身を開いていくことです。そのためには自分自身を謙虚に保ち、具体的に兄弟たちと和解し、自分自身の罪の赦しを心から願うことが必要です。

 和解を実現するのはそんなに容易なことではありません。神の愛を信じる者であるということ、それは、洗礼者聖ヨハネのように兄弟たちに心を開くために、いつも彼らの近くにとどまる、ということでもあります。この世のみじめな現状に遭っても、現実を拒否して逃避したり、自分自身の狭い世界に閉じこもるのではなく、決してあきらめることをせず、世のメンタリティーに流されることなく、各自の生活の中心に イエスご自身と、その光のみ言葉、愛、なぐさめを置くようにすることが肝要です。

 今日も、イエスの真の弟子たちは、イエスご自身の謙虚なまた同時に勇敢な証人として、何があっても神のみ国は毎日、聖霊の力によって建設され続けている、という希望を灯し続けるように招かれています。ですから、この世界をよりよく変えていくために私たちも何ができるか考えてみたいと思います」。

(編集「カトリック・あい」)

2018年12月11日

☩「『私はここにいます』は生き方のキーワード」‐無原罪の聖母の大祭日に

(2018.12.9 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは8日、無原罪の聖母の大祭日にあたって、正午のお告げの祈りの後の説教で次のようにお話しになった。(試訳・Sr.岡立子=バチカンにて)

「愛する兄弟姉妹たち、今日の神のみ言葉は、わたしたちに、二者択一の自由(機会)を示しています。

 第一朗読の中で、[世の]始まりに、神に「ノー」と言う人間がいます。そして福音朗読の中で、お告げの時、神に「はい」と言うマリアがいます。どちらの朗読の中でも、人間を捜しているのは神です。

 しかし、最初の場合、神は、罪の後のアダムのところに行き、彼に聞きます:「お前はどこにいるのかDove sei?」(創世記3章9節)。そして彼は答えます:「わたしは隠れていますMi sono nascosto 10節)。

 それに反して、二番目の場合、神は、罪の無いマリアのところに行き、彼女は答えます:「ここにいます、わたしは主のはしためですEcco la serva del Signore」(ルカ1 38)。

 「わたしはここにいますEccomi」は、「わたしは隠れていますmi sono nascosto」の反対です。「わたしはここにいます」は、神に対して開き、罪は閉ざし、孤立し、自分自身だけに留まります。

 「わたしはここにいますEccomi」は、生き方(人生)のキーワード(鍵となる言葉)です。それは、水平方向の生き方―自分自身と、自分の必要を真ん中に置く生き方-から、神に向かって投げ出されたslanciata、垂直方向の生き方への移行を印します。

 「わたしはここにいますEccomi」は、主に対して準備が出来ていることesseredisponibiliです。それは、利己主義のための治療、いつも何かが欠けている、不満のある生き方への解毒剤です。

 「わたしはここにいますEccomi」は、罪の老化に対抗する薬、内的に若く留まるためのセラピー(療法)です。

 「わたしはここにいますEccomi」は、神は、わたし自身よりもずっと大切だと信じることですEccomi è credere che Dio conta più del mio io。それは、神に賭けること、神の驚きに従順(素直)であることです。

 ですから、「わたしはここにいますEccomi」は、わたしたちが神に差し出すことが出来る、最も大きな賛美です。一日の始めを、このように、「主よ、わたしはここにいます」で始めませんか?

 毎朝、「主よ、わたしはここにいます。今日、わたしの中で、あなたのみ心(望み)が行われますように」と言うのは、すばらしいことです。わたしたちはそれを、これから「お告げ」の祈りの中で言います。でも、すでに今、一緒にそれを繰り返しましょう:「主よ、わたしはここにいます。今日、わたしの中で、あなたのみ心(望み)が行われますように!」

 マリアは続けます:「あなたのお言葉通り、この身に成りますようにAvvengaper me secondo la tua parola」。

 マリアは、「わたしの思い通りに成りますように」とは言わず、「あなたの思い通りに」と言います。マリアは、神に限界を置きません。「わたしを神に少し捧げ、その後、解放され、したいことをしよう」とは、考えません。違います。マリアは、気の向く時に、思い出したように、主を愛するのではありません。徹底的に神に信頼して生きます。それが、人生(生き方)の秘密です。すべてにおいて神に信頼する人には、すべてが出来ます。

 けれど、愛する兄弟姉妹たち、主は、わたしたちがアダムのように、「恐ろしくなり、隠れています」と答える時、苦しみます。神はお父さんです。どんな父親よりも優しい(愛情深い)父であり、子どもたちの信頼を望んで(切望して)います。

 それに対して、わたしたちは、どんなにしばしば、神を疑うでしょうか!わたしたちは、神が、わたしたちに何かの試練を送り、わたしたちから自由を奪い、わたしたちを見捨てることが出来ると考えます。

 しかし、それは、大きなごまかし(錯覚)です、それは原初の誘惑、悪魔の誘惑です:神への不信を忍びこませること。

 マリアは、彼女の「わたしはここにいますeccomi」をもって、この原初の誘惑に打ち勝ちます。そして今日、わたしたちは、罪無く生まれ、生き、つねに神に従順(素直)で透明な(裏表のない)trasparente聖母の美しさを見つめます。

 これらすべてのことは、マリアにとって人生が簡単だったという意味ではありません。違います。神と共にいることは、問題を魔法のように解決することではありません。

 今日の福音の結びは、それを思い起こしています:「天使は彼女から離れ去ったL’angelo si allontanò da lei 38節)。離れ去った:それは強い動詞です。天使は、おとめマリアを、難しい状況の中に一人きりで残します。

 マリアは、特別な方法で神の母となるだろうことを知っていました-天使がそれを言いました-。しかし、天使は、それを他の人々には説明せず、マリアにだけ説明しました。

 そして、問題はすぐに始まりました。考えてみましょう:律法に沿わない状況、聖ヨセフの苦悩、ひっくり返された人生計画、人々が何と言うだろうか…。

 しかし、マリアは、さまざまな問題の前で、神に信頼を置きました。彼女は天使から取り残されました。しかし、自分と共に、自分の中に、神が留まっていることを信じました。そして、信頼しました。神に信頼しました。マリアは、主と共にいるなら、たとえ予期せぬ方法であっても、すべてが良い方向に行くことを確信していました。

 これこそ、知恵ある態度です:さまざまな問題に依存しながら生きるのではなく-一つの問題が終われば、次の問題を考えるでしょう-、神に信頼し、日々、神に自分を委ねながら生きること:「わたしはここにいます!」。

「わたしはここにいますEccomi!」は、言葉です。「わたしはここにいますEccomi!」は祈りです。わたしたちは、無原罪の聖マリアに、このように生きる恵みを願いましょう。

2018年12月9日

◎教皇連続講話【主の祈り】①「主よ、私たちにも祈りを教えてください」

(2018.12.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで5日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」をめぐる考察を開始された。

 まず冒頭で、ルカ福音書から、弟子たちが、イエスに「祈りを教えてください」と頼む場面が以下のように朗読された。

 「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子のひとりがイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(11章 1節)

 福音書は「祈りの人」としてのイエスの姿を生き生きと伝えている。教皇は「イエスはその宣教の急務と、ご自分を必要とする人々の切迫にもかかわらず、ひとり退き、祈る必要を感じていました」とされ、「マルコ福音書では、イエスの公生活の最初から、祈るイエスの姿が浮かび上がってきます」と語られたうえで、イエスのカファルナウムでの行動を、次のように振り返られた。

 カファルナウムで、多くの病人を癒したイエスは、いわば凱旋的にその一日を終えようとしていた。そこでは、イエスは人々の注目の的であり、人々の待ち望んでいた存在、イスラエルの希望の実りだった。しかし、イエスはご自分を指導者と見なす人々の期待に縛られず、こうした圧力から、ご自分を解くすべを知っておられた。実際、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ福音書1章35節)。

 弟子たちはイエスを捜すが、見つけることができなかった。シモンたちがイエスを見つけた時、イエスは完全に祈りに徹しておられた。「皆が探しています」という、シモンがイエスにかけた言葉は、イエスの宣教の成功を裏付けるものだった。だが、イエスは「近くの他の町や村に行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出てきたのである」(マルコ福音書1章38-39節)と、他の場所に行こうとし、「人々がイエスを捜す」のではなく、「先にイエスご自身が人々を捜す」という態度を示された。

 カファルナウムでの出来事を振り返えられた教皇は「聖書は、イエスの祈りと御父との親しい交わりに満ちています」と話され、その例として、イエスのゲツセマネでの祈りを挙げ、「絶えず御父に耳を傾けようとするイエス」の姿勢を示され、「この祈りは、決して容易なものではなく、むしろ死の苦悶であったにもかかわらず、この時のイエスの祈りは、十字架の道行きを支える力となったのです」と強調された。

 「イエスは祈っておられた」。これを本質的な点として示された教皇は、「公生活の中で祈るイエス」「世の喧騒から離れて祈るイエス」の姿を見つめるよう招かれた。「主よ、私たちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを拒まず、ご自身と御父との親密さを独り占めにせず、イエスは私たちを、まさに御父との絆に導かれようとした。「こうして、イエスはご自分の弟子たちの、そして、私たちの『祈りの師』となられました」と話された。

 さらに教皇は、「主の祈り」をめぐるカテケーシスの初めに「主よ、私たちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを繰り返すことは「最も素晴らしく、ふさわしいこと」とし、「イエスは私たちのこの懇願を必ず聞き入れてくださるでしょう」と話された。

2018年12月6日

☩「待降節を、自分の生き方を見直し、キリストとの出会いに備える機会に」

(2018.12.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日正午のアンジェラスの祈りに際して、この日から始まる待降節の過ごし方について次のように話された。

「神の子キリストのこの地上での誕生を準備する待降節の間、利己主義的な生き方や、ただクリスマス・プレゼントに気を配るだけの世間的なお祭り騒ぎに陥ることを避けましょう。また、戦争の混乱の中で苦しむシリアの人々のことも忘れないようにいたしましょう。

 待降節は、キリストの降誕を記念し、神の子を心から受け入れる準備の時期だけではなく、世の終わりに栄光の中に再臨されるキリストの到来に、心を向ける時でもあります。待降節にあたって、1人ひとりが自分の生き方を見直し、真のキリスト者らしく、勇気をもって、誠実にキリストとの出会いを準備するよう勧めます。

 この待降節の4週間、私たちはただ、だらだらと、いい加減に生きるのではなく、しっかりと目覚めて、未来の新しい世界への夢と希望を大きく育てながら、前進するよう招かれているのです。今日、待降節第一の主日のミサの福音もこのことを強調しています」。

(2018.12.1 バチカン放送)

 キリストの降誕祭を準備する待降節が2日の待降節第一主日で始まる。教皇フランシスコは1日、待降節の意味について「人類と出会うために、自ら地上に降りて来られる神の子を、迎える準備」のための貴重な時、「私たちの兄弟たちの中に現存するキリストの存在を認め、愛し、学ぶ」ための時、であることを強調された。

 神の子、キリストは、クリスマスの祝日に私たちのもとに来られる。貧しさの中に、謙虚な条件の中に誕生された神の子の歴史上の到来を記念するたびに、心から迎えようとする人々の中に神の子は再び来られる。そして世の終わりに、生者と死者を裁くために再び来られます。私たちはいつも希望を持って主の来臨に備えていなければならない。

 教皇は2016年11月27日の日曜正午のアンジェラスの祈りの際に、キリストの三様の来臨について話されている。第一の来臨は「受肉の神秘を通して、すなわち、ベトレヘムの馬小屋での誕生」。第二の来臨は現に毎日絶え間なく実現していることで「いつも私たちの傍らに現存し、愛と慰めを持って、ともに歩み続けてくださっている」こと。そして第三、最後の来臨は「世の終わりに際しての最後の審判の際での出会い」だ。

 教皇はマタイの福音書第25章、「私が飢えていたとき食べさせてくれた、私が渇いていたとき飲ませてくれた、私が旅人だっとき宿らせてくれた、私が裸だったとき着せてくれた、私が病気だったとき、牢獄に入れられていたとき見舞ってくれた。まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟たちであるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり、私にしてくれたことであると」を引用しながら、「私たちは皆、最後には、兄弟をどのように愛したか、によって裁かれるでしょう」とされ、待降節の間、「自分のキリストとの出会いが、どのようなものであるかを深く省みるように」と促している。

(編集「カトリック・あい」)

2018年12月2日

☩「神の前に自由であるようにと、彼は私たちに教えてくれた」-自閉症の少年に

How an autistic boy taught the Pope a lesson

  (Photo: CNS/Max Rossi, Reuters

(2018.11.29 Tablet Christopher Lamb in Rome

 教皇の謁見場にいた人々は昨日、自閉症の立場になって考える機会を得た。

 パウロ6世ホールの教皇フランシスコによる謁見に参加した(注:衛兵も含めた)人々の周りを歩き回る、六歳の自閉症の少年、ヴェンゼル君の振る舞いは、「避けられるべき問題」あるいは「処理すべき問題」というよりも、「学びの時」になった。

 「この男の子は話すことができません。口が利けないのです」と聴衆に語る教皇は、彼の闖入を目の当たりにして、嬉しそうに見えた。「でも、彼はどのようにしたら通じ合えるかを知っています。どのように自分を表現するかを知っています。彼は、私に考えさせるものを持っている」と。

 そして、教皇はされにこう続けた。「彼は自由です。規則に縛られない自由… しかし彼は自由です。そのことが私に考えさせます-自分も、神の前にこのように自由だろうか?と」。

 81歳のイエズス会士の教皇は、世界中から集まった何千人もが参加する毎週恒例の一般謁見の最中のホールの壇上に、ヴェンゼル君が登った後も、話をつづけた。彼は、教皇の前をまっすぐに歩いて、そばに直立不動の姿勢でいるスイス衛兵のところに行き、口を利かないまま、衛兵の手に触れ、中世のままの制服の赤い袖を調べる仕草をした。

 彼の母親、リディアは教皇の故郷であるアルゼンチンからやって来たのだが、息子が週に一度の教皇の大事な行事の場で、壇上に上がったのを見て「恐ろしくて、訳が分からなくなり」、いそいで息子を壇上から下ろそうとした、と新聞記者に語った。

 この出来事は、自閉症の子供を持つ多くの親たちの共感を誘った。ミサや重要な集まりの間、子供たちはじっとしていられず、やかましくする。そういう時に、正常な子供の場合と違って、親たちができることはほとんどないのだ。

 ヴィンゼル君は母親の言うことを聴かず、教皇の前で静かにすることもできない。彼の姉は、彼が教皇の説教を大人しく聞いているように、壇上に上がらないように、懸命に抑えようとしたが、うまくいかなかった。

 それでも教皇は、母親のリディアに「心配しないように」と声をかけた。「自由に走らせましょう」と。教皇に何かを教えたのはヴィンゼル君だったのだ。

 そして教皇は会衆に、「私たちは子供たちのようにならねばならない、とイエスが言われた時、彼は、父の前で振る舞う子供のように自由であるように、と教えられたのです」「私は、ヴィンゼル君が私たち皆に説いてくれたのだ、と思います。この男の子が話すことができる恵みをくださるように願いましょう」

 自閉症の子供を持つ多くの親たちは、絶望的な沈黙にさいなまれている。多くの人が集まる場で、問題を起こさないようにびくびくしている。子供の将来を常に案じ、子供が祈りの邪魔をして教会の信徒たちから嫌なされることに傷ついている…。

 ヴィンゼル君の様子を写した画像は瞬く間に広がり、(注:日本を含む)世界中の視聴者がこれを見て、愛着を感じた。自閉症の問題がこのように前向きな光を当てる形で世界中に報じられたのは、初めてだ。

 そして、教皇の持つ大きな力が、難病や心身の障害は避けたり、隠したりするものでない、ということを世界に示した。それだけでなく、教皇は、そのような苦難にある人々を通して、私たちは神と他への思いやりを学ぶのです、と強く訴えた。

 教皇公邸管理部室長の ゲオルク・ゲンスバイン大司教はヴィンゼル君の側にいて、彼に手を差し伸べた。大司教は前教皇ベネディクト16世の世話役を長く務め、対人的な対応の良さで評判の人物だ。教皇フランシスコに仕えるようになってからは、教皇の即興的な発言や突然の振る舞いに、気が気でない日々を過ごしてきたのだが、昨日は、ヴィンゼル君が行ってしまった後、教皇は大司教に顔を向けて、「彼はアルゼンチン人です。規則に縛られないですね」と冗談を飛ばした。

 この日の出来事の教訓は、苦難は傷つきやすさをもたらし、傷つきやすさは人々とその関係を変えることができる、ということだ。「私が弱い時、私は強い」と聖パウロはコリントの信徒への手紙に書いている。

 自閉症の子供たちは、社会で、一番弱く、一番助けを必要としている者たちの中に入る。昨日、その子供たちの1人が花形となり、重要な教訓を私たちくれたのだ。

(翻訳・「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は同誌の発行者から許可を得て、記事を随時、翻訳、掲載しています。Tabletの記事はhttp://www.thetablet.co.ukでご覧になれます。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

2018年12月1日

☩「キリスト者の一致は、分裂する世界の大きな希望」ギリシャ正教総主教に

(2018.11.30 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11月30日、使徒聖アンドレアの祝日にあたり、コンスタンチノープル総主教バルソロメオス1世にメッセージを送られた。

 教皇はこの日、イスタンブールに送った「キリスト教一致推進評議会」議長クルト・コッフ枢機卿を団長とする使節団に総主教あてのメッセージを託した。その中で、「ローマの教会とコンスタチノープルの教会の間に交わされる使節団の交換は、年を重ねるごとに両教会を結びつける深い絆を表現する喜ばしい慣わし」となり、「『一致の霊』である聖霊は、両教会の間に横たわる長い年月わたる相互の無理解と沈黙を解きほぐし、相互理解と兄弟的対話をますます促進するための大きな恵みを与えてくれる」としたうえで、「キリスト者たちの分裂ではなく一致する姿は、多くの争いや紛争、分裂に傷つく現代世界に、大きな希望の光を注ぐもの」と強調された。

 バチカンに本拠を置くローマ・カトリック教会の保護者は使徒聖ペトロ、イスタンブール(コンスタンチノープル)にその本拠のあるギリシャ正教の保護者は聖ペトロの兄弟、使徒聖アンドレアだ。毎年6月29日の聖ペトロの祝日にはギリシャ正教の使節団がバチカンを訪れ、11月30日の聖アンドレアの祝日にはローマ・カトリックの使節団がイスタンブールを訪れ、それぞれお祝いの挨拶を交わすのが長年の伝統。ローマ・カトリックとギリシャ正教は長年の分裂の歴史を乗り越え、聖パウロ6世教皇の治世にアテナゴラス・ギリシャ総主教との間に和解と相互理解への歩みが急速に進んできた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年12月1日

◎教皇連続講話【十戒】⑰最終回「『十戒』とは心を開き、キリストを観想すること」

(2018.11.28 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで28日、水曜恒例の一般謁見を行われ、この中でモーセの「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を締めくくられた。

 教皇は、キリストにおける啓示の光のもとに、「十戒」を人間の「願望」というテーマを鍵に再読しつつ、これまでの考察を振り返られ、まず、「『何かを私たちにお求める前に、まず、ご自分から非常に多くを与えてくださる神』への感謝-信頼と従順の関係の基礎にあるその感謝-から、「十戒」の考察は始まります」と述べられた。

 続いて「神は、私たちに力を及ぼす偶像崇拝の欺瞞から、私たちを解放するために、ご自分への従順を呼びかけられます」とし、この世の偶像の中に人生の実現を追い求めることが「私たちを虚しくさせ、偶像に隷属させる」のに対して、神との関係は「キリストにおいて、私たちを神の子としてくれます」と説かれた。

 さらに、「神によって解放された人は、人生の様々な出来事を受け入れ、自分自身と和解することができ、イエス・キリストによって表わされた神の愛から出立して、隣人との関係に入ることができます。それは忠実、寛大、正真に生きることの素晴らしさへの招き」とされたうえで、「このように生きるためには『新しい心』が必要」とされ、「その『新しい心』はどのように植え付けることができるのでしょうか」と問いかけられた。

 その答えとして教皇は「神によって私たちの心に蒔かれた『新たな願望』の芽生えによって、それが可能となるのです」と話された。

 また教皇は、「『十戒』はイエスによって完成させられます」と強調。「十戒」に表わされる人生、すなわち、『感謝に満ちた、自由で、偽りのない、祝福され、成熟し、命を愛する、忠実で、寛大な人生』を観想するうちに、私たちは気づかないうちに、キリストの御前に立っています」、そして、「『十戒』は、いわば『キリストのX線写真』であり、聖骸布のようにキリストの御顔を映し出すもの」「キリストを見つめることで、私たちは真・善・美を見ることになります」と話された。

 「キリストは律法を廃するためでなく、完成するために来られた、という意味がここにあります」とされ、「肉による律法が一連の規定や禁止であるのに対し、霊による掟は命となる」「なぜなら、それはすでに『掟』ではなく、私たちを愛し、探し、赦し、慰める『キリストご自身の肉』であり、キリストの体において、罪によって失われた御父との交わりが、再び取り戻されるからです」と説明された。

 こうして「十戒」の「殺してはならない」「盗んではならない」など、「…してはならない」という否定の言葉は、「愛する」「隣人のために心を割く」といった前向きな態度、願望へと変容することになる、とされ、「キリストにおいてのみ、『十戒』は罪への定め(参照:ローマの信徒への手紙8章1節)となることをやめ、人間の命の正真の真理、すなわち、愛すること、喜び、平和、高潔、寛容、優しさ、誠実、温和、自制への願望となります」「よこしまな欲望が人を破壊するのに対し、聖霊は私たちの心に聖なる願望を置き、それは新しい命の芽となるのです」と強調された。

 最後に教皇は「キリスト者にとっての『十戒』とは何でしょう。それは、私たちの心を開き、キリストの心、御旨、聖霊を受けるために、キリストを観想すること」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月29日 | カテゴリー :

☩「人生の終わり-神のみ前に立つこと-について考えるのは賢明」

(2018.11.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは27日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でのミサの説教で、この日の第一朗読「ヨハネの黙示録」(14章14-19節)を取り上げ、「自分のこの世での人生の終わりと神のみ前に出る日を考えることは、賢明であり、神との出会いまでの道のりを助けてくれるもの」と話された。

 教皇は、ヨハネがこの朗読箇所で「世の終わり」を、「キリストと鋭い鎌を手にした天使による『刈り入れ』の様子として描いている」とされたうえで、「『刈り入れ』は、私たち一人ひとりが主と出会う場所であり、その時、私たちは「これが私の人生です。これが私の麦です。これが私の人生の質です」と主に言わねばなりません」と説かれた。

 そして、「もし、今日、主から呼ばれるならば、自分は何を言うだろうか、どんな麦を見せるだろうか」と終わりについて考えることは有意義なこと、と強調し、「そう考えることは、私たちを立ち止まらせず、むしろ前進させ、愛徳や希望を育むことになるでしょう」と話された。

 さらに、「人生には終わりがありますが、そこには一つの出会い、主との出会いがあるのです。それは、いつくしみと、喜び、幸福、との出会いです」と語られ、「自分の人生の終わりを考える賢明さを聖霊に祈り求める」ように促された。

(編集「カトリック・あい」)

2018年11月28日