♰「現代の殉教者たちの存在を心に留めるように」

Pope Francis at the General Audience of 11 December, 2019. Pope Francis at the General Audience of 11 December, 2019.   (Vatican Media)

(2019.12.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「使徒言行録」を用いたカテケーシス(教会の教えの解説)で、使徒パウロがアグリッパ王の前で自身の回心と使命を語る場面を取り上げられた。

 使徒パウロの宣教の旅が進むにつれて、彼の試練と苦しみも増していく。

 教皇は「パウロは異教徒の間で新しいキリスト教共同体を生み育てる、熱意にあふれた宣教者であるだけでなく、復活の主を苦しみと共に証しする存在でもある」と話された。

「使徒言行録」21章に記されるように、エルサレムでパウロは扇動された民衆に捕えられた。こうしてエルサレムは、イエスにもそうであったように、パウロにとっても敵意に満ちた場所となった。神殿の境内から引きずり出されたパウロは、はじめは最高法院で、次に総督の前で、最後にアグリッパ王の前で弁明することになった。

 教皇は、ルカは「使徒言行録」の中で「パウロとイエスのどちらも、敵対者から憎まれ、公の場で訴えられ、ローマ帝国の当局から無実を認められたという、両者の類似性を浮き上がらせています」と指摘。このように、「パウロは師イエスの受難に自分自身を連ね、彼の受難は生きた福音となっていくのです」と話された。

 教皇はここで、この朝、ウクライナのビザンチン典礼・ムカチェヴォ教区の巡礼団と交流されたことを紹介。「迫害の中でも、自らの信仰において決して妥協することなく、福音のために苦しんだ人々の模範」として示された。そして、「今日もヨーロッパや世界で、信仰のために命を捧げる人々、疎外されて苦しむ人々が多くいます」と述べつつ、「現代の殉教者たちの存在を心に留めるように」と促された。

パウロは無罪を証明するために、古代ユダヤの領主アグリッパ王の前に引き出されることになったが、その弁明は説得力にあふれた信仰の証しへと変わっていった。回心のいきさつを語ったパウロは、復活の主によってキリスト教徒とされ、民と異邦人の「目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、彼らがキリストへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるため」(参照:使徒言行録26章18節)に遣わされたと、自らの使命を説明した。

そして、パウロは「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」(同23節)と説いた。パウロの情熱的な証しは、アグリッパ王の心に触れ、彼は「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(同28節)とパウロに言った。

 「パウロは何も悪いことはしていない、とアグリッパたちは認めましたが、彼が釈放されることはなかった。パウロは皇帝に上訴していたため、ローマへ送られ、留まることのない神の御言葉の旅は、ローマへと続いていくことになったのです」と教皇は語った。

 さらに、「囚人パウロが繋がれていた鎖、それは彼の福音に対する忠実を象徴するものでした… 私したちが信仰に再び活力を取り戻し、キリスト者としての召命にどこまでも忠実でいられるように」と使徒パウロの取り次ぎをもって祈られた。

(2019.12.11 Vatican News Robin Gomes)

During his General Audience on Wednesday, Pope Francis held up the figure of St. Paul as a model for Christians saying suffering, persecution and martyrdom are a sign that they are walking in the footsteps of the Lord.
Even today Christians are being persecuted and marginalized, Pope Francis said in his catechesis, adding, it is a blessing to be a witness of martyrdom.

The Pope reflected on the “seal of suffering” that increasingly marked the life of St. Paul as recounted in the Acts of the Apostles. The intrepid missionary is not only an ardent evangelizer among the pagans but he is also the suffering witness of the Risen One.

Passion of Christ and Paul

Upon his arrival in Jerusalem, Paul is met with “ferocious hatred” with people saying he was a persecutor who is not to be trusted. As it was for Jesus, Jerusalem also becomes hostile to Paul.  He was led out of the temple to be lynched but was saved by the Roman soldiers. Accused of teaching against the law and the temple, he was arrested and began his journey as a prisoner to various authorities of the region.

The Pope drew attention to similarities between Paul and Jesus. Both were hated by their adversaries; accused publicly, both were found innocent by the Roman authority; Paul is associated with the passion of his Master and his passion becomes a living Gospel.

Today’s martyrs of faith

The Pope noted that Christians continue to suffer for the sake of Christ even today. Just before the General Audience, he said, he met a group of Ukrainian pilgrims, who suffered for the Gospel without negotiating their faith.

“Today in the world, in Europe,” the Pope pointed out, “many Christians are persecuted and they give their lives for their faith, or are persecuted with white gloves, that is, left aside, marginalized.” “Martyrdom,” he stressed, “is the air of the life of a Christian, of a Christian community.”

“There will always be martyrs among us: this is the sign that we are on the path of Jesus.” “It is a blessing from the Lord, that among the people of God, there be some witness of martyrdom,” the Pope said.

Witness of faith

Called to defend himself against accusations in the presence of King Agrippa II, the Pope explained, Paul’s apology turns out to be an effective witness of faith, the Pope said.

Paul narrated his own conversion and how the Risen Christ entrusted him with the mission among the nations. In carrying out this task, the apostle showed how the prophets and Moses foretold that Christ should suffer and that, “as the first to rise from the dead, He would proclaim light both to the people and to the Gentiles”. Paul’s passionate witness touched the heart of the King, who lacking the decisive step, replied, “You will soon persuade me to play the Christian.”

Chains – sign of faith

Paul was declared innocent, but could not be released because he had appealed to the Roman Emperor. Thus, the Pope said, the unstoppable journey of the Word of God continued to Rome, where Paul ended up in chains.

Pope Francis noted that because of this, Paul is portrayed as a prisoner whose chains are the sign of his fidelity to the Gospel and his testimony to the Risen One. For Paul, as Pope Benedict XVI noted, faith is not a theory or an opinion on God and the world but is the impact of God’s love in his heart and his love for Jesus Christ.

Pope Francis concluded, urging Christians to pray for the grace to persevere in their faith amid trials, seeing everything with the eyes of faith and being faithful to their vocation as disciples and missionaries of the Lord.

 

2019年12月12日

♰教皇フランシスコの「無原罪の聖母への崇敬の祈り」

(2019.12.8 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは無原罪の聖マリアの祝日の9日、ローマ市内のスペイン広場においでになり、以下の祈りを唱えられた。(Sr.岡による試訳)

けがれのないマリアよ、

 私たちはまた、あなたの周りに集まりました。

 人生の歩みを進むほど、神への感謝は増します、

罪人である私たちに、「けがれのない方」よ、あなたを、母を与えてくださったことを。

すべての人間の中で、あなたは唯一罪から守られました、世の罪を取り除く「神の小羊」、イエスの母として。

 しかし、このあなたの並外れた特権は、あなたの子である私たちすべての善のために、あなたに与えられました。

実際、あなたを見つめながら、私たちはキリストの勝利を見ます、神の愛の、悪に対する勝利:罪が増したところ、つまり人間の心の中に、恵みが満ち溢れました、
イエスの御血の、柔和な力を通して。

 母であるあなたは、私たちに思い起こさせます、私たちが罪人であることを、しかし、もはや罪の奴隷ではないことを!

 あなたの御子は、ご自分の「いけにえ」をもって、悪の支配を打ち砕き、世に勝ちました。

これは、すべての世代に語り伝えます、風がすべての雲を散らした天のように澄んだ、あなたの心を。

 このようにして、あなたはわたしたちに思い出させます、罪人であることと、堕落した人であることは同じではないことを:それはまったく異なります。

一方は、転んで、しかしその後、悔い改め、神のいつくしみの助けとともに再び起き上がること。他方は、悪との、偽善的な共犯、心の腐敗、それは、外側は非の打ちどころなく思われますが、内側は、邪悪な意図と、けちくさい利己主義で満ちています。

 あなたの澄み切った清さは、私たちに、率直さ(誠実さ)、透明さ、単純さを呼び起こします。

私たちは、どんなに必要としているでしょうか、最も深刻な危険である、心の腐敗から解放されることを!

それは、慣れて(中毒になって)しまっている私たちには、不可能に思われます、

 けれどそれは、すぐ近くにあります。あなたの母のほほえみに、あなたのけがれのない美しさに、まなざしを上げれば十分です、

私たちが、悪のために造られたのではなく、善のために、愛のために、神のために造られたということを再び感じるために!

 そのために、おとめマリアよ、今日、私はあなたに委ねます、

この街の、そして全世界の、不信によって、罪による落胆によって抑圧されているすべての人々を;

自分のために希望はないと思っている人々、自分の過ちが大きすぎると思っている人々、神は、自分のために時間を無駄にするわけはないと思っている人々を。

あなたに彼らを委ねます、あなたは母であるだけでなく、母として、あなたの子らを愛することを決して止めないだけでなく、「けがれのない方」、恵みに満ちた方でもあり、最も濃い闇の内側から、「復活したキリスト」の光の光線を反映させることが出来るのですから。

 キリストが、そしてキリストだけが、悪の鎖を打ち砕き、もっとも執拗な依存から解放し、もっとも凶悪な絆を解き、もっとも頑固な心を柔らかくします。

そして、もしこれが、人々の内側で起こるなら、街の表情はどんなに変わるでしょうか!
小さなジェスチャー(行為)と、大きな選択において、悪循環は、少しずつ徳の循環となり、生活(いのち)の質はより良くなり、社会的風土は、より呼吸しやすくなります。

 けがれのない母よ、あなたに感謝します、

 私たちに思い起こさせてくださることを、イエス・キリストの愛を通して、わたしたちがもはや罪の奴隷ではなく、自由であること、自由に愛し、大切にし合い、兄弟として助け合うことが出来ることを、
たとえ、私たちは異なっていても―神のおかげで、わたしたちは異なっています!

感謝します、

 あなたは純白さをもって、私たちを力づけてくださるから、善を恥ずことなく、悪を恥じるように;

私たちを助けてくださるから、欺きをもって私たちを引き寄せ、その内側は死である邪悪なものから、遠ざかるように;

私たちに、甘美な記憶を与えてくださるから、

私たちが、計り知れないやさしさの「父」、いのち、美、愛の永遠の源である神の子らであるという記憶を。アーメン。

2019年12月9日

♰「私たちの生活のすべてを、神への『はい』とするように」-無原罪の聖マリアの祭日に

(2019.12.8 バチカン放送)

 無原罪の聖マリアの祭日の8日、教皇フランシスコは、バチカンで正午の祈りの集いを行われ、その中の説教で、「無原罪の聖マリアの祭日が待降節の中に位置づけられていることに特別な意味」について語られた。

 教皇は、無原罪の聖マリアの祭日は、「主の御母となられるマリアが、ご自分の母の胎内に宿った瞬間に、すでに神の聖化する愛で満たされ、人類が背負う原罪の汚れから守られていたことを祝うもの」と説明された。

 この日のミサで読まれたルカ福音書の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」(1章28節)というマリアへの天使の挨拶を観想され、「この天使の言葉にあるように、神はその深遠なご計画によって、マリアが恵み-すなわち神ご自身の愛-で完全に満たされた者であるよう、常に考え、望まれていたのです… 神の恵みに完全に満たされるためには、自分自身を空にしなければなりませんが、マリアは、神の御言葉に耳を傾け、神の御旨に完全に信頼し、その御旨を恐れず、自分の人生に受け入れることを知っていました」と語られた。

 さらに、「マリアにおいて、御言葉は肉となられましたが、それは受胎を告知する天使に対して答えた『私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように』(同38節)というマリアの承諾の『はい』があったからこそ可能となったのです」と強調。

 こうして、神のご計画に完全に応えながら、マリアはあまねく美しく聖なる存在となったが、「そこには、ひとつの自賛もなく、神の「傑作」でありながら、謙遜で、小さく、貧しい者として留まり、神の素晴らしさ、すなわち神の愛と恵みと献身を反映する存在となられました」と説かれ、実際、マリアが自身を「主の仕え女」と呼び、最初から奉仕の態度を示し、受胎告知を受けた直後にエリザベトを訪問した出来事に見られるように、「他の人が必要としていることに気を配る態度」に注目された。

 最後に教皇は「私たちが、自分の生活の全てを、神への『はい』とするように、神への崇敬、愛と奉仕の振る舞いによる『はい』とするように」と無原罪の聖母に祈られた。

(編集「カトリック・あい」=聖書からの引用は「聖書協会 共同訳」を使用しています。今回は従来の日本語訳聖書では「はしため」という言葉が使われていた箇所を「仕え女」としてあります。これは、前者は漢字では「端た女・婢女」と書かれることもあり、差別的である、との判断によります)

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 教皇の説教のイタリア語全文からの試訳(Sr.岡)

 愛する兄弟姉妹たち、おはようございます!

 今日、私たちは、無原罪の聖マリアの祭日を祝っています。それは、待ち望む季節、待降節の中に置かれています:神は、約束したことすべてを成し遂げるでしょう。しかし、今日の祭日は、私たちに、「すでに」、おとめマリアのうちに、彼女のいのち(人生)のうちに成就されたものを告げています。

 私たちは今日、この成就の始まり―それは、主の母の誕生よりもさらに前―を黙想しています。実際、マリアのけがれのない宿りは、私たちを、マリアのいのちが彼女の母の胎の中で鼓動し始めた、まさにその瞬間へと導きます:すでにそこに、神の、聖とする愛があります―マリアを、人類の共通の遺産である悪の伝染から守りながら―。

 今日の福音の中で、マリアへの天使の挨拶が響きます:「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におらる」(ルカ福音書1章28節)。神は、ご自分の計り知れない計画の中で、永遠からマリアを思い、望
みました―恵みに満たされた、つまり、ご自分の愛でいっぱいにされた被造物として。でも、いっぱいに満たされるためには、空間(スペース)を造らなければなりません、自分を空(から)にしなければなりません、自分を脇に置かなければなりません。

 まさに、マリアがしたように―マリアは、自分自身を明け渡して、神の「みことば」に耳を傾けることを知っていました。神のみ心(意志)に完全に信頼することを知っていました―神のみ心を、自分のいのち(人生)の中に、条件無しで受け入れながら―。彼女の中に、「みことば」が肉(人)となるほどに。これは、マリアの「はい」によって可能にされました。

 イエスの母となる準備が出来ているか、と尋ねる天使に、マリアは答えます:「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)。

 マリアは、たくさんの理屈をこねて時間を無駄にしたりしません。主の邪魔をしません。マリアはすぐに、自らを委ね、聖霊のわざ(働き)に空間(スペース)を開けました。自分の全存在と、自己の歴史を、直ちに神に差し出しました―それらを形づくり、それらを成就させるのが、みことばと、神のみ心となるように―。

 このようにして、神の、彼女に対する計画に、完全に答えながら、マリアは「まったく美しい方 la “tutta bella”」、「まったく聖なる方 la“tutta santa”」となりました―しかし、少しの自己満足の影もなく―。マリアは謙遜でした。マリアは、最高傑作ですが、貧しく、小さく、謙虚でい続けました。マリアのうちに、神の美しさ―それは、すべて愛、恵み、自己贈与の美しさです―が映し出されます。

 私はまた、マリアが神に自分の身を委ねるなかで、自らを定義づけた(特徴づけた)言葉をも強調したいと思います:「主の仕え女」«la serva delSignore»。マリアの、神への「はい」は、最初から、奉仕の態度、他の人々の必要への注意(留意)を負っていました。「お告げ」の直後に続く、エリサベトへの訪問の事実が、それを具体的に証ししています。神に対する献身は、隣人の必要を引き受ける献身に符号します。

 このことすべて、騒音や見せびらかし無しに、名誉の地位を求めること無しに、宣伝無しに。なぜなら、愛のわざ、いつくしみのわざは、トロフィーとして提示される必要はないからです。慈しみのわざは、沈黙のうちに、隠れて、それらを誇ることなく、行われます。私たちの共同体においても、私たちは、マリアの模範に従うよう招かれています―思慮深く、隠れたスタイル(様式)を実践しながら―。

 私たちの母の祭日が、私たちが、自分の生活(人生)全体を、神への「はい」とするよう、助けてくださいますように―神への礼拝と、日々の愛と奉仕のジェスチャー(行為)によって造り出される「はい」―。

2019年12月9日

◎教皇連続講話:使徒言行録⑮「『群れに気を配る』ことこそ、主任司祭、司教、教皇、すべての司牧者の仕事」

 

教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年12月4日教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年12月4日  (Vatican Media)

(2019.12.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで4日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「使徒言行録」についてのカテケーシス(教会の教えの解説)で、使徒聖パウロのエフェソでの宣教を取り上げられた。

 エフェソに行ったパウロは、12人ほどの人々にイエスの名によって洗礼を授けた。彼らの上に聖霊が降り、新たな者とされた(参照:使徒言行録19章1-7節)。さらに、パウロの手を通して様々な奇跡が行われ、病人は癒され、悪霊に取りつかれた人々は解放された(参照:同19章11-12節)。

 教皇は「これらのことが起きたのは、弟子は師に似る者となるため(参照:ルカ福音書6章40節)であり、パウロは自分自身が主から受けた新しい命を兄弟たちに伝えるために、その力を発揮したからです」と述べられた。

エフェソでみなぎる神の力は、「精神的権威を持たずに、試みにイエスの名によって悪霊払いをしようとした祈祷師」を悪霊に見破らせ(参照:使徒言行録19章13-17節) 、魔術を行っていた者も、キリストを選ぶ人々に見捨てられ、その弱さを露見した(参照:同18-19節) 。

 この箇所について教皇は「キリスト教信仰と魔術は相容れないものであり、信仰とは、神の手に信頼をもって自らを委ねるものです」と説かれた。

エフェソで福音が広がることで、アルテミス神殿の模型を造る銀細工師たちは売り上げを落とした。彼らは、パウロに対する蜂起を企て、「キリスト教徒たちは、アルテミス神殿と女神への威光を失わせるもの」として訴えられた(参照:同23-28節) 。パウロはエルサレムに向けて、エフェソを発ち、ミレトスに到着した(参照:使徒言行録20章1-16節)。パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ、人々の司牧を彼らに託した(参照:同17-35節)。

 ミレトスで、パウロがエフェソの長老たちに別れの挨拶を述べる場面を、教皇は「使徒言行録の中でも最も美しいページの一つ」として紹介された。

 この場面で、二度と彼らに会うことがない、と知っているパウロは、共同体の責任者たちを励まし、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と頼んだが、教皇は「まさに『群れに気を配る』ことこそが、主任司祭、司教、教皇、すべての司牧者の仕事なのです」と強調。そして、教皇は、パウロが特に群れの「監督者=司教」たちに対し、神が御子の血によってご自分のものとされた神の教会の世話をし、群れを荒らす残忍な「狼」からそれを守るように(参照:同28-29節)最大の配慮を求めている点を指摘された。

この使命をエフェソの長老たちに託したパウロは、「神とその恵みの言葉」に彼らを委ね(同32節)、パウロ自身のように、自分の生活のためにも、共にいる人々のためにも、自分の手で働き、弱い者を助け、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を身をもって体験するように招いた(同35節)。

 そして終わりに、教皇は「信仰を守り育む教会への愛を新たにすると共に、司牧者たちが神なる牧者の強さと優しさを示すことができるよう祈りで支えることで、すべての人が群れを守る共同責任者となれるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年12月5日

♰「『切り捨て文化』『不平等を生む文化』を克服しよう」-国際障害者デーに(全文付き)

(2019.12.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日、「国際障害者デー」のためにメッセージを発表された。

 このメッセージで教皇は、国際障害者デーを機会に、「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書12章40節)とお考えになるイエスご自身の現存を「すべての兄弟姉妹の中に、信仰の眼差しをもって見つめる」ように、改めて促された。

 教皇は「障害をもつ人々に対し医療や支援の分野で大きな進歩がある一方で、『切り捨ての文化』とともに、多くの障害者が社会への所属や参加を実感できないでいます」と指摘。「障害をもつ人々とその家族の保護だけでなく、障害者の市民の権利を阻むあらゆるものや差別を完全に排除し、様々な場所へのアクセス、生活の質を向上させることで、世界をより人間的なものとする必要」を呼びかけられた。

 また、教皇は、家庭や社会の中で「隠れた亡命者」となっている多くの人々、特にお年寄りをはじめ、障害を理由に、しばしば重荷と認識され、疎外される恐れのある人々、自分の未来を構築するための仕事のビジョンを拒まれた人々を思い起こされ、「法整備、物理的なバリアフリーを進めることは重要ですが、それだけでは十分ではない。日常生活への障害者の活発な参加を阻む『不平等を生み出す文化』を克服し、メンタリティーを改革することが必要です」と強調。

 さらに、「障害者のためのこれらの重要な奉仕と取り組みが、国の社会的レベルを決めるのです」とされたうえで、障害者と共に働くすべての人々を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

【教皇フランシスコ「国際障がい者デー」へのメッセージ】全文

  「世界障がい者デー」にあたって、兄弟姉妹一人一人の中に、キリストご自身の存在を見る、わたしたちの信仰のまなざしを新たにしましょう。キリストは、最も小さな兄弟たちの一人に対する、あらゆる愛のジェスチャー(行為)が、ご自分に対してなされたものと考えます(マタイ福音書25章40節参照)。この機会に、わたしは、今日、参加する権利の促進が、差別に反対し、出会いの文化と、質のよい生活の文化を促進するための、中心的役割をもつことを思い起こしたいと望みます。

 医学と介護の分野で、障がいをもっている人たちに対して大きな進歩がなされましたが、今日でも、排斥の文化の存在が認められ、彼らの多くは、所属も参加もなく存在していると感じています。このことすべては、障がいをもっている人と、その家族の権利を擁護するだけでなく、わたしたちに、この世をより人間的にするよう勧めています―彼らに完全な市民権を妨げるものすべて、偏見の妨害を取り除きながら、また、さまざまな場所へのアクセスのしやすさと、人間のあらゆる側面を考慮する、生活の質を推進しながら―。

 次のことが必要です:障がいをもっている人を、あらゆる生活状況の中でケアし、寄り添うこと―現代のテクノロジーをも利用しながら、しかしそれらを絶対視することなく―;強さとやさしさをもって、隅に追いやられている状態を共に担うこと;彼らとともに道を開き、市民、また教会のコミュニティー(共同体)への、積極的参与のために、彼らを尊厳で「塗油する」こと。それは、ますます、一人一人を、唯一の(ユニークで)かけがえのない人間として認めることが出来る意識を形づくることに、貢献する、厳しい歩み、また骨の折れる歩みでもあります。

 そして、わたしたちの家の中に、家族の中に、社会の中に住んでいる、たくさんの「隠された追放者たち」のことを忘れないようにしましょう(お告げの祈り:2013年12月29日、外交団への講話:2015年1月12日参照)。あらゆる年代の人、特に高齢者のことを思います。彼らは、障がいのためもあって、時に、自分が重荷であり、「やっかいな存在」だと感じていて、排斥されたり、自分の将来の建設に参与するための、具体的な仕事の見通しを否定される危険があります。

 わたしたちは、障がいをもっているあらゆる人の中に、複雑で重度の障がいをもっていても、自分独自の伝記を通しての、共通善へのユニークな貢献を認めるよう招かれています。一人一人の尊厳を認めること―それは、五感の機能性によるのではないことを良く知りながら―(障がいについての、CEIの会議参加者との対話、2016年6月11日参照)。

 福音はわたしたちに、この回心を教えています。いくつかのいのちがAリーグで、その他はBリーグであると考える文化に対抗する、抗体を発展させるべきです:これは社会的罪です!障がいの状態のために差別されている人々に、声を与える勇気をもってください。なぜなら、残念ながら、いくつかの国において、今日もまだ、彼らを、同じ尊厳をもった人間、人類における兄弟姉妹として認めることが困難なのです。

 実際、良い法律を作り、物理的な障壁を打ち倒すことは大切ですが、十分ではありません―もし、メンタリティーを変えないなら、もし、障がいをもった人に、普通の生活における積極的参加を阻止しながら不平等を生み続ける、蔓延する文化を克服しないなら―。

 近年、包括的なプロセスが実施され、進められていますが、まだ十分ではありません。なぜなら、偏見が、物理的バリアのほかに、すべての人のための教育、仕事、参加へのアクセスに制限を生み出すからです。障がいをもった人は、自分自身を築くために、存在するだけでなく、コミュニティー(共同体)に属する必要があります。

 わたしは、障がいをもった人と働いている全ての人が、国の文明(文化)の水準を決定する、この大切な奉仕と任務を継続するよう奨励します。そして祈ります。あらゆる人が、自分自身の上に、その人の完全な尊厳、その人のいのちの無条件の価値を肯定する、神の父のまなざしを感じることが出来るように。

 バチカンから、2019年12月3日 フランシスコ

(イタリア語の原文からSr.岡が試訳)

2019年12月4日

♰「待降節は、私たちの周りで苦しんでいる人々に注意を向ける機会」

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 聖母マリアのお告げの祈りの前に、教皇はまず、待降節が「イエスが常に私たちの暮らしに入って来られるのを、思い起こさせる機会」となることを指摘され、「イエスが時の終わりに、私たちに信頼と希望を持って未来を見つめるよう促すために帰って来られること」の確かさについて語られた。

 そしてこの日のミサで読まれた第一朗読で、「預言者イザヤは、 全ての国がそこに向けて描かれるであろう神の家である山の絵を描いています」と述べ、「イエスは人となられた後、ご自身がその山の頂にある、真の神殿であることを明らかされました」とされた。

 そして「イザヤの素晴らしい展望は、神の約束にあり、巡礼-『歴史の意味であり、目標であるキリスト』への旅-の心構えをするように促しています」と説かれ、待降節は「神のなさり方を私たちにお示しになる平和の使いとして来られるイエスを、喜びを持って迎える時」とされた。

 また、この日のミサで朗読された福音の箇所で、イエスは私たちに「目を覚ましていなさい」と勧めてるが、「これは、文字通りに『常に目を見開いている』ことを意味しません… 他者のために自分自身を捧げ、奉仕することで、自分の心を自由にし、正しい方向に向けることを意味するのです」とされたうえで、「私たちが目を覚まさねばならないのは、無関心や虚栄心によって、人間関係を作ること、孤独な、見捨てられた、あるいは病にある兄弟姉妹の世話をすることができないこと、によって、生まれる”睡眠”です」と強調された。

 教皇は、私たちがイエスの到来を期待して待つためには「神の行動と神の驚きに驚嘆する」という形で目覚めていることが求められる、とされ、「それは、困難のなかにある隣人に注意を払い、彼らが私たちに助けを求めるのを待つことなく、彼らの必要に応えることです」と説明。

 最後に、教皇は乙女マリアに待降節の旅への導きを願って祈られた-「マリア、目覚めておられる乙女、そして希望の母が、私たちの眼差しを、『主の山』-全ての人をご自身に引き寄せられるイエス・キリスト-に向けてくださいますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年12月2日

♰「貧しい人々は、私たちに福音の生き方を教えてくれる」ー「世界貧しい人々の日」に

(2019.11.17 Vatican News Linda Bordoni)

 「世界貧しい人々の日」の17日、教皇フランシスコは、サンピエトロ大聖堂でこの日のためのミサを捧げ、説教の中で、「貧しい人々が私たちに福音の生き方を思い起こさせてくれます… 施しを願う人々が主に手を差し出すように。彼らは教会の宝物です」と語り始められた。「世界貧しい人々の日」は、教皇フランシスコが、2017年の「慈しみの特別聖年」の締めくくりの日、年間第33主日を記念して設けられたもの。

 以下はバチカン広報発表の説教の全文。

 「このミサで朗読された主日の福音(ルカ21章5-19節)で、イエスは同時代の人々と私たちの両方を驚かせています。他の皆がエルサレムの壮大な神殿を賛美している間、イエスは彼らに『一つの石』も崩されずに『他の石の上に』残ることのない日が来る、と告げられました。では、なぜ彼はこのような神聖な施設について語るのでしょうか… それは単なる建物ではなく、宗教的シンボルであり、神と信者のための家だからです。では『神の民の確固たる信念が崩れる』と預言するのはなぜでしょうか。私たちの世界がますます少なくなっている時に、なぜ、主は私たちの確信を崩されるのでしょうか?。

 イエスの言葉の中に答えを探しましょう。彼は私たちに、『ほとんどすべてのものが無くなる』と言います。『ほとんどすべて』ですが、『すべて』ではありません。王国と人間の出来事であり、人類そのものではありません。『最後から2番目』のものは、多くの場合最終的なもののように見えますが、そうではありません。それらは私たちの寺院のような荘厳な現実であり、地震のような恐ろしい現実です。それらは天国の兆候であり、地球上の戦争です(21章10-11節参照)。私たちにとって、これらは新聞の一面に載るニュースですが、主は2ページ目に掲載しています。決して死ぬことのないものは、私たちが彼のために建てたどの神殿よりも無限に大きい生きている神、世界のすべてのニュース報道よりも価値がある私たちの隣人、です。

 人生で本当に大切なことを理解するために、イエスは私たちに二つの誘惑について警告しています。

 1つ目は、『たった今』を急ぐ誘惑です。私たちは『終わりがすぐに来ている』、『時が近づいている』(8節)と言っている人たちに従うべきではありません。私たちは、他人や未来への恐怖を助長する警戒心に従うべきではありません。恐怖が心と心を麻痺させるからです。

 私たちはどれだけの頻度で、『今、すべてを知りたい』という強い欲求、好奇心にかられ、最新のセンセーショナルなニュースまたはスキャンダラスなニュース、愚かな話、大声で怒り叫ぶ人々の叫び声に誘惑されるでしょうか? この性急さは、神から来たのではありません。私たちは、『今』に躍起になると、残っているものを永久に忘れてしまいます。私たちは『過ぎ去る雲』を追いかけ、『空』を見失います。今起こっている騒々しさに気を取られ、神のために、隣に住む兄弟姉妹のために時間をかけることが出来なくなります。これが今日の現実です!走り回って、すべてを今すぐ達成しようと狂乱する中で、取り残された人は『迷惑な存在』と見なされます。そして『使い捨て』の対象、と見なされます。『役に立たない』と見なされる高齢者、胎児、障害者、貧しい人がどれほどいるでしょう。私たちは、格差が拡大すること、わずかな人の貪欲さが多くの人の貧困を増すことを心配することもなく、我が道を行きます。

 性急さに対する解毒剤として、イエスは今日、私たち一人一人に忍耐を提案しています。『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』(19節)と。忍耐とは、死ぬことのないもの、すなわち主と隣人に目を留めて日々前進することです。これが、忍耐が神の贈り物である理由です(聖アウグスチヌス”De Dono Perseverantiae”2.4を参照)。私たち一人一人、そして教会としての私たち全員が、善を持ち続け、本当に大切なことを見失うことのないように、願います。

 イエスが私たちをなしで済ませたいと思われている、という思い違いがあります。彼は言い​​ます-惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない(8節)と。それが、二つ目の誘惑、自己中心の誘惑です。キリスト教徒は、『たった今』を求めず、『永遠』を求めます。『私』ではなく『あなた』に関心があります。キリスト教徒は、興味をそそるが危険な誘惑に従うのではなく、愛の呼びかけ、イエスの声に従います。

 どのようにしてイエスの声を見分けますか? 『私の名を名乗る者が大勢現れる』と主は言われますが、そのような者に従うべきではありません。『キリスト教徒』あるいは『カトリック教徒』というラベルを身に着けているだけでは、イエスに属するのに十分ではありません。私たちはイエスと同じ言葉、つまり愛の言葉、『あなた』の言葉を話す必要があります。イエスの言葉を話す人は、『私』と言う人ではなく、自分自身から抜け出る人です。それでも、どれほどの頻度で、たとえ私たちが善を行ったとしても、『偽善』に打ち負かされていることでしょう?

 私は、善行だと思われるように善を行います。私は順番に従います。大切な人との友情を勝ち取るために助けを出します。それが『自分の言葉』の話し方です。しかし、神の言葉は私たちに『偽りのない愛』(ローマの信徒への手紙12章9節)に拍車をかけ、借りを返すことのできない人々に与えます(ルカ福音書14章14節、6章35節参照)。ルカ6:35)。ですから、自分自身に問いかけましょう。『見返りをもらえない人を助けますか?キリスト教徒である私は、少なくとも一人の貧しい人が友人としていますか?』と。

 貧しい人々は、神の目に価値ある存在です。それは、彼らが『自分の言葉』を話さないからです-彼らは自分で、自分の力で自分自身を支えません。誰かの助けを必要としています。貧しい人々は、私たちがどのように福音を生きるべきかを思い起こさせてくれます。神に手を差し出す物乞いをする人のように。貧しい人々の存在は、『心の貧しい人々』が祝福されている福音の新鮮な空気を、私たちに吸い込ませてくれます(マタイ福音書 5章3節を参照)。彼らが私たちの扉をたたく時、うるさがらずに、自分自身から表に出ていくようにとの招きと受け止め、助けを求める彼らの叫びを喜びをもって受け入れ、神の愛ある視線で彼らを歓迎しましょう。貧しい人々が私たちの心の中で、神の心の中に彼らが持っている場を占めることができたら、なんと素晴らしいことでしょう!貧しい人々と共に立ち、貧しい人々に仕え、私たちはイエスがご覧になるように物事を見、何が生き残り、何が過ぎ去るもいつもお世話になっております。なのかを知ります。

 最初の問いに戻りましょう。最後から二番目の、そして過ぎ去る現実の中で、主は今日、究極のもの、永遠に残るものを私たちに思い起こさせたい、と願っておられます。それは愛、 『神は愛』(ヨハネ手紙1・4章8節)だからです。私の愛を求める貧しい人は、私を直接、神に導きます。貧しい人々が、私たちの天国への歩みを容易にします。これが、神の民の信仰が、彼らを天国の『門番』とみなす理由です。今でも、彼らは私たちの宝、教会の宝です。それは、貧しい人々が、決して古くなることのない豊かさ、天と地を結びつける豊かさ、人生が本当に生きる価値のある豊かさ、愛の豊かさを、私たちに明らかにするからです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年11月18日

♰「パウロの時代から現代までキリスト教信仰が続いてきたのは一般信徒の力」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (ANSA)(

(2019.11.13 Vatican News Lydia O’Kane)

 教皇フランシスコは13日の一般謁見で、先週に続いて使徒言行録を題材としたカテケーシスを続けられ、今回は、パウロのコリントへの宣教の旅とともに、雄弁家アポロのプリスキラとアキラという敬虔な夫婦との出会いの箇所(18章24節以降参照)を取り上げ、キリスト教徒的なもてなしの模範として説明された。

 この夫婦は、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人の追放を命じた後、ローマからコリントに強制的に移動させられたが、彼らのように、ユダヤ人たちは、長い歴史の中で「住んできた場所から追放され、多くの残虐行為に苦しんできました」と教皇は語られ、「ユダヤ人への迫害は、あちこちで形を変えて繰り返されています… 彼らは私たちの兄弟。迫害されるべきではありません」と強調された。

 そのうえで、教皇はこの夫婦のもてなしの話に戻り、夫婦の家は使徒だけでなく、キリストの兄弟姉妹にも開かれていたことを指摘。関連して、パウロが、「教会の家」、神の言葉を聴く場、聖体を祝う場となる「家に集まる共同体」について、どのように語ったかを説明し、「今日においても、信教の自由、キリスト教徒としての自由のない国々では、キリスト教徒たちは、祈り、聖体を祝うために、隠れて集まっています」とされた。

 また教皇は、「パウロやアキラ、プリスキラの協力者たちの中に、キリスト教共同体全体の奉仕に責任をもってかかわる夫婦のいくつもの模範が生まれました。彼らのような数多くの一般信徒の信仰と福音宣教への専心のおかげで、キリスト教の信仰は私たちまで続いてきたのです」と強調。

 最後に、ご自身の前任者であるベネディクト16世の言葉を引用して「キリスト教は最初から、一般信徒によって説かれました。一般信徒のあなた方も、洗礼を受けたがゆえに、信仰を引き継ぐ責任があります」と締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年11月13日

♰「自分だけで生きられるとうぬぼれるところに、”命”はない」-日曜正午の祈りで

St Peter's Square during AngelusSt Peter’s Square during Angelus  (AFP or licensors)

(2019.11.10 Vatican News)

 教皇フランシスコは10日日曜日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで朗読されたルカ福音書の箇所(20章27-38節)を取り上げ、(注:復活があることを否定する)サドカイ派の人々の質問を受けて、死からの蘇りについての素晴らしい答えをなさったことに注意を向けられた。.

  教皇は、サドカイ派の人々がイエスを問答で打ち負かそうとして、「7人の兄弟が次々と死に、そのたびに彼らの1人と再婚した女は、誰の妻になるのでしょうか」と尋ねたが、彼はその”わな”にかからなかった、とされ、イエスが「次の世に入って、死者の中から復活するのにふさわしい、とされた人々は、めとることも、嫁ぐこともない。天使に等しい者であり、復活の子として、神の子だらである」と答えたことを指摘された。

 そして「イエスは、このように答えることで、(注:意地悪い質問でわなにかけようとした)相手、そして私たちを、『今生きているこの世だけでなく、死にかけられることのない次の世があり、そこでは、私たちが神の子であることが完全に明らかにされるのだ』と考えるように、招いておられます」と説かれた。

 さらに「死の次にある命についての、イエスの単純明快な言葉に耳を傾けることによる、大きな慰めと希望をお与えになります… 宇宙についての知識は豊富だが、永遠の命についての知恵は貧弱な現在にあって、私たちは、特にその言葉を必要としているのです」と説かれた。

 また教皇は、復活に関するイエスのはっきりとした確信は「命の神である主への完全な忠誠に基づいています」とされ、「イエスは『命は神に属し、その神は私たちを、み名と結びつけるほど愛し、とても気遣ってくださるのだ』とサドカイ派の人々の問いに答え、また、『主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とされました」と述べた。

 そして「(注:イエスが言われたように)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです… 自分だけで、島のように孤立して生きられるとうぬぼれるところに、命はありません。そのような態度には死があるだけです」と戒められ、「復活は、死から蘇るというだけではなく、私たちが今すでに経験している新しい命です。永遠の命は私たちの定め、私たちの歴史が決定的に満たされる地平線。そして、福音を選ぶことを通して準備するように私たちが呼ばれているのは、この人生においてなのです」と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年11月11日

♰「『切り捨ての文化』を乗り越え、受刑者に寄り添おう」-刑務所司牧国際会議で

(2019.11.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは8日、刑務所司牧に関する国際会議の参加者とお会いになった。

 教皇庁人間開発の部署(長官:ピーター・タークソン枢機卿)主催のこの会議は「人間の統合的成長とカトリック教会の受刑者司牧」をテーマに開かれ、中南米、欧州、アフリカ、オセアニア、米国の刑務所付司祭らたち意見を交換した。

 教皇は参加者へのあいさつで、教育よりも「抑圧」、成長の機会を提供するよりも「閉じ込める」ことを容易と考える刑務所の現実を指摘され、「刑務所とは、社会復帰へのプロセスを促し、人間的成長と、教育、就労、健康へのアクセスを保証する場所でなくてはなりません」と強調。「過ちを犯した人に更生のための助けの手を差し伸べるよりも、切り捨てることをよし、とする社会・文化」を乗り越え、教会は司牧を通して受刑者にもっと寄り添うべきだ、と説かれた。

 そして、教皇は受刑者への司牧を考える上での二つのイメージを示された。一つは刑務所の居室の「窓」。「地平の彼方を見つめずに、人生を変えることはできません。いかなる受刑者にも地平線を見つめるための窓が必要です」。もう一つは、受刑者への面会を求める女性たち、特に「母親たち」。「母たちは恥を恐れず、受刑者である息子たちのために、顔を隠すことなく会いに来ます。教会も彼女たちの母性と行動から学ばなくてはならなりません」。

 最後に教皇は、日ごろ刑務所で受刑者に奉仕する人々を、聖母の保護に託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年11月9日