◎教皇連続講話⑩「御心が行われますように」は父に向けられる子どもたちの祈り

(2019.3.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日、聖ペトロ広場で水曜恒例の一般謁見中の「主の祈り」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、第三の祈願「御心が行われますように」を考察され、次のように話された。

 「『主の祈り』で、信者は『御名が聖とされますように』と、神の御名の聖化を願い、続けて『御国が来ますように』と神の王国の到来を待ち望む気持ちを表した後、『御心が行われれますように』と、神の救いの御業の実現に対する、揺るぎない信頼を表明します。

 神は全人類を『十把ひとからげ』ではなく、一人ひとりの救いを望まれるのです。子どもたち一人ひとりに、その思いをかける父のように。ですから、この祈りは『奴隷の祈り』ではなく、父に向けられる子どもたちの祈りです。

 神の御心が行われますように、と言うためには、人類と世界のことを、いつも心にかけておられる神への全幅の信頼、信仰が前提とされます。

 神は私たちが神を探すより前に、私たちを探しに来られます。福音書の中の『回心した徴税者ザケオ』のエピソードが示す通り、イエスはザケオに『人の子は失われたものを探し救うために、この世に来たのです」と言われます。

 皆さんは、神ご自身が私を探しに来られる、ということの意味を考えたことがありますか。『神が私を、そしてあなたを探しておらるのです』と、私たち一人ひとりに言うことができるのです」

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 この日の一般謁見会場には日本から、東日本大震災と原発事故の被災者をサポートする「きらきら星ネット」のメンバー8人も来場していて、謁見後、教皇は彼らに直接、親しく言葉をかけられた。教皇は、メンバー代表として英語で挨拶した高校生の鴨下全生君に、にこやかに言葉をかけられ、メンバー一同を特別に祝福された。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用個所の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」を使用しています)

2019年3月21日

♰「苦難は栄光に至る通り道、それ自体に意味はない」ー四旬節第二主日に

(2019.3.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは四旬節第二の主日の17日、正午の祈りで、この日のミサの福音朗読箇所から、主のご変容の神秘について解説された。

 朗読されたルカ福音書で、ご受難を前にしたキリストは3人の愛弟子、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて、高い山に登られれ、そこで変容された。想像を絶する栄光の中で、弟子たちに神の子としての輝きを垣間見せる。

 教皇フランシスコはこの神秘を次のように語った。

 「キリストに従うことなしに、この地上の生活で自分自身の十字架を担うことなしに、誰も永遠の生命に至ることはできません。試練や苦しみ、困難は、それ自体に意味があるのではなく、イエスのご変容の際に、弟子たちが垣間見ることのできたキリストの光り輝く御顔、それに現されたように『より大きな栄光に到るための通り道』のようなものです。

 ご変容を目の当たりにして、弟子たちは驚愕します。彼らにはまだ、キリストの救いの神秘、過ぎ越しの神秘が完全には理解できません。救いの完成、復活に至るための、受難と十字架の死を受け入れる準備が十分には出来ていませんでした。

 イエスはそのことをよくご存知でした。それで実際のご受難に入る前に、彼らが受難と死の躓きを受け入れられるように、前もって復活の栄光を垣間見させ、彼らに心の準備をさせようとなさったのです。なぜなら、この道こそ、御子キリストが受難と十字架の死を通して復活の栄光に達するようにと、天の御父が備えた救いの道だったからです。

 そして、この道はまた、キリストに従うすべてのキリスト者たちが、救いに至る為に たどるべき道でもあります。それは、自分自身の十字架を担いキリストに従うことです。キリストは私たちに『この道を通ってたどり着く先が、栄光に輝く復活』だということを、自ら十字架を担いながら示してくださるのです」。

(編集「カトリック・あい」)

2019年3月18日

♰教皇フランシスコ、ニュージーランドの大量虐殺犠牲者たちのために祈る

(2019.3.17 VaticanNews Lydia O’Kane)

 ニュージーランド・クライストチャーチのイスラム教モスク2カ所で15日、男が金曜礼拝の参加者を大量虐殺し、世界中に衝撃を与えているたが、教皇フランシスコは17日の聖ペトロ広場に集まった人々との正午の祈りで、この惨事を取り上げ、犠牲者とその親族、関係者に深い哀悼の意を示すとともに、嫌悪と暴力を排した平和への思いを改めて確認、そして会衆と共に沈黙の祈りをささげた。

 教皇はこの祈りの中で、「人々を苦しめてやまない戦争と争いの悲痛に加えて、クライストチャーチの二つのモスクに対して起こされた、身の毛のよだつような襲撃で多くの犠牲者が出ました。亡くなられた方々、けがを負われた方々、そして家族の皆さんのために、祈ります。私はイスラム教徒の兄弟たちとその共同体の皆さんのそばにいます」と語り、改めて、「嫌悪と暴力と戦うために祈り、平和への努力に加わる」ように聖ペトロ広場に集まった会衆に呼び掛けた。

 この惨事での死者は17日までに50人に達し、ニュージーランドの最近の歴史で最悪のテロ犠牲者数となっている。警察当局は、オーストラリア人のブレントン・タラント容疑者の単独犯行としており、16日に開かれた初公判で、判事はまず、この男の罪状として一人の殺人を取り上げ、さらに罪状を追加していく方針を示している。クライストチャーチ市内の病院に収容されている負傷者34人のうち、12人は重体で、オークランドの病院にいる4歳の少女も重体という。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年3月18日

♰「人はパンだけで生きる存在ではない、金銭、権力…偶像は人の尊厳を損なう」

(2019.3.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日の日曜正午のアンジェラスの祈りの中で、ルカ福音書のイエスの受けた誘惑の箇所を取り上げ、「内的生活と、神への信仰と愛こそが、誘惑に対する強力な武器」と次のように話された。

 「今日、四旬節第一主日のミサ中朗読された福音によれば、イエスは悪魔から三度、誘惑されたとあります。

 最初の誘惑は、石をパンに変えてみろ、というものでした。悪魔のいつもの、ずる賢いやり方です。生きるために必要不可欠な食べること、幸福になることなどを、『神なしでも、むしろ神に対抗しても、自然に実現できる』と思い込ませようとします。イエスは、神の御摂理に完全に信頼することで、悪魔の誘惑に対抗することを教えます。人はパンだけで生きる存在ではありません。

 二番目の誘惑として、悪魔はイエスに全世界の国々を示し、力ある栄光に輝く救い主になるよう誘います。イエスは『ただ神なる主にのみ、膝をかがめ、神のみを拝するように』と返答します。神以外の金銭、権力、成功、出世、自己満足などの偶像は、あらゆる真の人間的尊厳を損ないます。泡のようにすぐに消え去る、虚しい喜びに酔いしれるだけです。

 三番目の誘惑では、悪魔はイエスをエルサレムの神殿のてっぺんに連れて行きます。神として劇的なその力を誇示するために、そこから身を投げるよう誘います。イエスはこのたびも、また神なる御父の御前で完全な信頼と謙遜を示しつつ、悪魔に対抗します。

 こうして、イエスは神と共にあることによって、悪魔のすべての試みを打ち払います。私たちを神から遠ざけようとする試みは、全て悪魔の仕業です。『どこでもいかなるときにも、神と共にある』こと、これこそ、あらゆる試みに対抗するための一番の良策なのです」

(編集「カトリック・あい」)

2019年3月11日

♰「四旬節は『私のところに戻りなさい』のメッセージ付き”目覚ましコール”-灰の水曜日に

(2019.3.6 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは6日、ローマ・アベンチノの丘の聖サビーナ大聖堂で、四旬節の始まりを告げる灰の水曜日のミサを行われ、ミサ中の説教で、「慌ただしく、目的を見失うこともしばしばある生活のペースを落とし、私たちを惑わせる不必要なことがらを控え、この四旬節を”にしましょう」と信徒たちに呼びかけられた。そして、「このモーニングコールには、主が預言者の言葉を通して語られる『私のところに戻りなさい』というメッセージが付いています… 戻らねばならないとすれば、それは、私たちが横道に入ってしまっていることを意味するのです」と注意された。

 そして教皇は「四旬節は人生の方向を再発見する期間です。どの旅でもそうであるように、人生の旅で大事なのは目的地を見失わないこと」とされたうえで、旅をしている間に横道に入れば、先へ進めなくなる-「人生の旅で先に進む道を探し求めるかどうか、心地よさだけを考え、いくつか問題を解決して、つかの間の暮らしを楽しむことで満足するかどうか、をあなた方自身に問いかけなさい」と信徒たちに求められた。

 さらに、「何が(進むべき)方向でしょうか?」「健康を求めることですか?現在の多くの人が一番にそう言いますが、やがては消え去るものではありませんか?それは財産、幸せになるのでしょうか?」と問いかけられ、「私たちは、そのためにこの世にいるのではありません… 主が、この世での私たちの旅の目的地です。旅の方向は主に至るものでなければなりません」と答えを示された。

 灰の水曜日に私たちが受ける灰のしるしについて、教皇は、私たちが進むべき方向を見つける助けとなるサインであり、「私たちの心を占める多くの事柄-私たちが追い求め、日々心を悩ます、後に何も残らないもの-を(思い出させるための)注意信号です。どんなに懸命に働いても、このような人生からは何の富を得られないでしょう」と指摘され、世俗的な現実は「風に舞う塵のように消え去ります。地上の富はつかの間のもの、権力は過ぎ去り、成功者は衰えていきます」と語られた。

 また教皇は、「現在流行している”見栄っ張りの文化”-過ぎ去るもののために生きるように、私たちを促す文化-は大きな欺瞞です。それは火災のようなもの。火が消えれば、灰だけが残ります」と批判され、「四旬節は、私たちを、ほこりを追い求める幻想から私たちを解放する期間であり、この世ではなく神のために、地上的な虚偽ではなく天の永久の世界のために、物の奴隷の状態に置かれるのではなく神の子たちの自由のために、私たちは造られたのだ、ということを再発見するための期間なのです。私たちは今日、自らに問わねばなりませんー私は、どこに立つのですか?私は火災のため、それとも灰のために生きるのですか?と」

 そして、教皇は、福音が 偽善と虚飾ではなく、慈善、祈り、断食の三つの歩みを提示していることを、信徒たちに思い起こさせ、それは、消えてなくなることのない三つの現実に私たちを断ち戻させる行いであり、「祈りは神に、慈善は隣人に、そして断食は自分自身に、再会させます」とされ、「神、私の隣人、私の人生」は消え去ることのない現実であり、私たちはそこに投資せねばならない、と強調された。

 四旬節が私たちに注意を向けるよう求めているのは、「何よりもまず、全能の神-自分自身のために時間を見つけ神を忘れる、横並びのありふれた人生から解放してくださる方-に祈ること。それから、そして、慈善ー物を手に入れ、自分にとって良いなら、それはただ良いもの、と考える虚栄心から解放する行為-をもって、他の人々に注意を向けること。最後に、四旬節は、断食-物への執着と、心を麻痺させる俗念から解放する行為-をもって、私たちの心の内面を見つめるよう、促します。祈り、慈善、断食、この三つは永続する宝物への投資です」と説明された。

 また、私たちが外見、金、職業、趣味… 私たちを隷属させ、方向を見失わせる全てのもの、によって心がかき乱される危険を冒す時に、向かうべき方角を指示される必要性に注意を向け、「そうした状態にもかかわらず、私たちの心が、過ぎ去ることのないものに結びついていれば、自分自身を取り戻し、そうしたものから解放されます」とも言われた。

 最後に教皇は、「四旬節は、虚栄から心を自由にする恵みの時… 私たちを誘惑する耽溺から癒される時、耐えるものをじっと見つめる時」とされ、「十字架上のイエスは、私たちに天国への道を示す、人生の指針」として、十字架にかけられた方を見つめるように促された。

 さらに「この十字架から、イエスは私たちに、己に打ち勝つ力強い勇気を教えてくださいます」とし、「”消費者主義“の呪縛と自分本位の誘惑から、あくなき欲望から、満足しない性向から、そして貧しい人々の求めに心を閉じることから、自分自身を解放するように」と強く訴えられ、つぎのように結ばれたー主が求めておられるように生きることは容易でないが、その言葉は、私たちの目的地に導いてくれるもの、「私たちが愛の道を選ぶなら、終わりのない命を手に入れることになる。そして喜びに満たされるでしょう」、

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年3月7日

◎教皇連続講話「主の祈り」⑨「み国が来ますように」はイエスご自身の渇望

(2019.3.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日のバチカンでの一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」の中の「み国が来ますように」の箇所を考察された。

 「主の祈り」では、「み名が聖とされますように」と願った後、「み国が来ますように」と、神の王国の到来を待ち望む気持ちを表す。神のみ国の到来に対するこの願いは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と、ガリラヤでの宣教開始の際に表明された「イエスご自身の心から湧き出る渇望です」と教皇は話された。

そして、「イエスのこの言葉は脅しではなく、喜びのメッセージ」とされ、イエスは「やがて来る神の裁きによって人々に恐怖を与えながら回心を迫る」のではなく、「救いの善 き知らせを告げ、そこから人々を回心へとお招きになるのです」と説明。「み国の訪れのしるしは、すべて前向きなもの」であり、イエスは公生活を「人々の心身の癒しや、疎外された人々への奉仕」から始められたことを指摘された。

 さらに教皇は「多くの罪や、苦しみ、戦争、様々な形の搾取などに満ちたこの世の現実は、キリストの勝利をより一層行き渡らせる必要があることを示しています」と語られ、こうした中で、「天におられる私たちの父」に向けた「み国が来ますように」という祈りが、「キリスト者の口に自然に上ってくるのです」と話された。

 また、私たちは「なぜ神のみ国の実現は、これほどゆっくりしているのだろう」と思うことがあるが、神のみ国は「麦と毒麦が共に育つ畑」(マタイ福音書13章24-30節参照)に似ており、「神は、私たちと違って、毒麦に見えるものを急いで抜くことのない、忍耐に満ちた方」とされた。

 教皇は「神のみ国は非常に大きな力を持っているが、それはこの世の基準とは異なるもの」とも述べ、「神のみ国は絶対多数には属さず、イエスのたとえにあるように、パン種のように、一見隠れながら、全体を膨らませるものです」とも話された。

 神のみ国の発展に似て、イエスの人生も、同時代人や当時の歴史家の目には、微かなしるしでしかなかったが、「一粒の麦」は地の中に落ちて死ぬことで「多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節参照)とイエスご自身がたとえておられるように、「神の国は、神の業として、まかれた種のように成長していく」(マルコ福音書4章27節参照)とされ、「神は常に私たちに先立ち、常に私たちを驚かされます。神のおかげで、聖金曜日の夜の後には、復活の朝日が昇り、全世界を希望で照らすことになったのです」と語られた。

 最後に教皇はこのように呼びかけ、祈られた。「『み国が来ますように』という祈りの種を、私たちの罪や失敗の中にまきましょう。苦しむ人と助けを求める人のために。聖霊は、この言葉で、全ての聖書の言葉を強く印象づけるのですー『然り、私はすぐに来る』(黙示録22章20節)。アーメン。来てください。主イエスよ!」。

(編集「カトリック・あい」・最後の部分は、バチカンの公式発表文英語版をもとに手直ししました。聖書からの引用は「聖書 聖書協会共同訳」を使用)

2019年3月7日

☩「盲人に盲人の手が引けますか」ー司牧者を含めた指導者たちに自覚を促す

(2019.3.3 VATICANNEWS  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは3日、日曜の正午の祈りの説教で、教育を受けた、指導者としての責任をもつ人たちに「自分たちの役割を自覚し、賢明で、優れた識別力と慈しみの心をもつように」と強く呼びかけられた。

 教皇はこの日のミサで朗読されたルカ福音書の箇所「盲人に盲人の手引きができようか?」(6章39節)とのイエスの弟子たちへの問いかけを取り上げ、イエスがおっしゃろうとしているのは、「案内人-指導者-は、目が見えない人であることはできない、目がよく見えなければならない-つまり、賢明でなければならない。さもなければ、自分を信じて付いて来る人々を損なってしまうこと」と説明された。

 特に、「イエスは、教育を受けた、指導者としての責任をもつ人たちに、注意を促されたのです。『魂の牧者、行政官、議会議員、教師、両親たちは、細心の注意を要する自分たちの役割を自覚し、自分について来る人々を導く正しい道を常に見分けていくように』と」と語られた。

 続いて、「弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(同40節)というイエスの言葉に移り、ご自身を教師、案内人の模範として示されたことを強調され、これは「善良で賢明な案内人となるために、ご自身の模範と教えに倣うように、との勧め」とされ、この教えは、先週の日曜日まで3回の日曜の福音書朗読で私たちに示された「山上の説教」に含まれている、と指摘された。

 また教皇は、誠実で、謙虚で、公正な人とであるために、素直で慈しみ深い態度をとることが必要、と述べ、朗読されたルカ福音書のもう一つの重要な箇所、「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気づかないのか?」(同41節)を取り上げて、でしゃばったり、偽善的になることのないように、強く求められた。

 そして、「他人の欠点と罪を見、非難するのは、自分自身を見るよりも、容易でたやすいことがよくあります。誘惑は、自己本位に陥り、誤ったことさえも正当化しようとする振る舞いとなり、一方で、他人を裁く時に、彼らの気持ちを推し量ることをせず、辛辣になることがよくあります」と指摘。「賢明な助言で隣人を助けるのは、良いことで、有益なことですが、彼らの欠点を観察して、直そうとする時には、自分にも落ち度がないように注意する必要があります」と注意を与えられ、「こうして、私たちは信頼のおける者となり、謙遜で、慈しみを証しするように振る舞うことになるのです」とされた。

 さらに、次のルカ福音の箇所をもとに、「自分の目がよく見えなかったら、梁が視界を遮ったら、どうやって(注:相手の目におが屑がついているのが)分かるのでしょうか?」(同42節参照)と問いかけられ、「イエスは私たちにこう言われるのです-『悪い実のなる良い木はなく、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる』(同43,44節)と」。「振る舞いは『実』だが、『言葉』でもある。言葉は木の質を表します。良い人はその心から、口から良さを引き出し、悪い人は悪を作り出すのです」と改めて注意を与えられた。

 最後に、教皇は、今日の福音朗読の箇所は、私たちの信仰の旅路に有益な示唆を与え、私たちが「いつも選択し、行動するの前」に識別をするように勧めている、とされ、「識別する力は主の賜物であり、絶えることの無い祈りで願わねばなりません」とし、識別力とともに、謙遜、忍耐、そして、他の人の話を聴き、理解する能力の必要性を強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二・聖書の引用は「聖書 聖書協会共同訳」を使用しています)

 

 

 

2019年3月4日

◎教皇連続講話「主の祈り」⑧「み名が聖とされますように」に込められた願いは

(2019.2.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは27日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」の考察を続けられた。

 今回は「み名が聖とされますように」がテーマとなった。

  教皇はまず、「主の祈り」について、「み名が聖とされますように」「み国が来ますように」「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という、「あなた=父である神」を中心に据えた、前半の3つの願いと、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」「私たちを誘惑に陥らせず」「悪からお救いください」いう、「私たち」を中心に据えた、後半の4つの願いの7つの願いから構成されていることを説明された。

 そして、ここに「全てのキリスト教の祈りの特徴である、神の神秘、素晴らしさ、寛大さなど、神に対する『観想』の要素と、私たちが生きる上で必要なものを、率直に勇気をもって願う『嘆願』の要素の、二つがある、とされ、「キリスト教的祈りの最初の一歩は、私たち自身を神とそのみ摂理に託すこと」と強調。それは「主よ、あなたはすべてご存じです。私の苦しみを聞いていただくまでもなく、あなたがそばにいてくだされば十分です。あなたは私の希望です」と言うことと同じ、と指摘された。

 さらに教皇は、イエスが山上の説教で「主の祈り」の内容を伝授された直後に、色々なことで「思い煩うな」と諭されていることに注意を向け、「『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください』と祈るようイエスが教えられた後で、『何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と言って、思い煩ってはならない』(マタイ福音書6章31節)と言われるのは、矛盾している」と思う人がいるかもしれないが、「矛盾はありません。キリスト者の祈りは、『父に対する信頼』の表明であり、私たちはまさにその信頼によって、不安や思い煩いなしに、必要なものを神に願うのです」と説かれた。

 また、「み名が聖とされますように!」という最初の願いには「御父の素晴らしさ、偉大さに対するイエスの賛美の全て」とともに、皆に「神の真の姿を知り、愛して欲しい」というイエスの望みが感じられる、と語られ、「ここには『神のみ名が私たち自身や、家庭、社会、世界の中で聖とされるように』との願いがこめられています… 私たちも聖化する神の愛によって変容し、世において神の聖性を証ししなければなりません」と強調された。

 最後に、「祈りはあらゆる怖れを追い払います。御父は私たちを慈しみ、御子は御腕を私たちに添えられ、聖霊は静かに世の贖いのために働かれます…私たちは不安の中でも、揺らぐことはありません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年2月28日

☩四旬節の教皇メッセージ「滅びへの隷属から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れ」

(2019.2.26 バチカン放送)

 カトリック教会が3月6日の「灰の水曜日」で復活祭前の準備期間「四旬節」に入るのを前に、教皇フランシスコは、四旬節のためのメッセージを発表された。

 今年のメッセージのタイトルは「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」(「ローマの信徒への手紙」8章19節)。

 使徒聖パウロの言葉からとったタイトルについて、教皇は「私たちの地上の人生において、既に働いている救いの神秘は、ダイナミックなプロセスをもって、全ての歴史と被造物にも及ぶもの」とされ、「もし人間が神の子として、また、あがなわれた者として生き、『聖霊に導きのもとに、心と自然の中に刻まれた掟』を始めとする神の掟を認め、実践するなら、人間は被造物に対しても、そのあがないのために協力しながら、善を行うことができます」と述べられた。

 一方で、「私たちが神の子として生きないなら、私たちは隣人や他の被造物、さらに自分自身に対して破壊的な態度をとり、人間のあり方、自然に対する尊重を侵してしいます」「全ての悪の根源である罪は、神や、人々、被造物との交わりを断ち切るものです」とと警告された。

 さらに、罪は「神との交わりを絶ちながら、人間と環境との調和ある関係にもひびを入れ、こうして園を荒れ野」(創世記3章17-18節参照)とし、「人間に自分を創造の神、絶対的な主人と信じさせ、自然や人々を創造主の望みとは異なる、自分の利益のために」使うようにさせ、神の掟を捨てた時、愛の掟は「弱者に対する強者の掟」に変わってしまった、と語られ、全ての被造物は私たちと共に「滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入る」(ローマの信徒への手紙8章21節)ように招かれている、と説かれた。

 そして、この四旬節をそのための「回心の機会とし、特に断食・祈り・施しを通して、個人・家庭・社会生活の中で、過ぎ越しの神秘をより深く具体的に生きるように」と呼びかけられた。

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 *「四旬節」とは「灰の水曜日」に始まり、「復活の主日」まで、日曜を除いた40日間にわたる期間をいう。この間、キリストが公生活に入る前に、荒野で40日間の断食を行ったことを思い起こし、悔悛、祈り、断食、節制、施し、愛徳の実践を通して、キリストの復活の記念によりよい形で与る準備をする。

(注:「カトリック・あい」では、聖書の引用部分の日本語訳は原則として「聖書 聖書協会共同訳」を使用しています)

*英語訳全文以下の通り

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS  FOR LENT 2019

 

For the creation waits with eager longing for the revealing of the children of God” (Rm 8: 19)

 

Dear Brothers and Sisters

Each year, through Mother Church, God “gives us this joyful season when we prepare to celebrate the paschal mystery with mind and heart renewed… as we recall the great events that gave us new life in Christ” (Preface of Lent I). We can thus journey from Easter to Easter towards the fulfilment of the salvation we have already received as a result of Christ’s paschal mystery – “for in hope we were saved” (Rom 8:24). This mystery of salvation, already at work in us during our earthly lives, is a dynamic process that also embraces history and all of creation. As Saint Paul says, “the creation waits with eager longing for the revealing of the children of God” (Rom 8:19). In this perspective, I would like to offer a few reflections to accompany our journey of conversion this coming Lent.

1. The redemption of creation

The celebration of the Paschal Triduum of Christ’s passion, death and resurrection, the culmination of the liturgical year, calls us yearly to undertake a journey of preparation, in the knowledge that our being conformed to Christ (cf. Rom 8:29) is a priceless gift of God’s mercy.

When we live as children of God, redeemed, led by the Holy Spirit (cf. Rom 8:14) and capable of acknowledging and obeying God’s law, beginning with the law written on our hearts and in nature, we also benefit creation by cooperating in its redemption. That is why Saint Paul says that creation eagerly longs for the revelation of the children of God; in other words, that all those who enjoy the grace of Jesus’ paschal mystery may experience its fulfilment in the redemption of the human body itself. When the love of Christ transfigures the lives of the saints in spirit, body and soul, they give praise to God. Through prayer, contemplation and art, they also include other creatures in that praise, as we see admirably expressed in the “Canticle of the Creatures” by Saint Francis of Assisi (cf. Laudato Si’, 87). Yet in this world, the harmony generated by redemption is constantly threatened by the negative power of sin and death.

2. The destructive power of sin

Indeed, when we fail to live as children of God, we often behave in a destructive way towards our neighbours and other creatures – and ourselves as well – since we begin to think more or less consciously that we can use them as we will. Intemperance then takes the upper hand: we start to live a life that exceeds those limits imposed by our human condition and nature itself. We yield to those untrammelled desires that the Book of Wisdom sees as typical of the ungodly, those who act without thought for God or hope for the future (cf. 2:1-11). Unless we tend constantly towards Easter, towards the horizon of the Resurrection, the mentality expressed in the slogans “I want it all and I want it now!” and “Too much is never enough”, gains the upper hand.

The root of all evil, as we know, is sin, which from its first appearance has disrupted our communion with God, with others and with creation itself, to which we are linked in a particular way by our body. This rupture of communion with God likewise undermines our harmonious relationship with the environment in which we are called to live, so that the garden has become a wilderness (cf. Gen 3:17-18). Sin leads man to consider himself the god of creation, to see himself as its absolute master and to use it, not for the purpose willed by the Creator but for his own interests, to the detriment of other creatures.

Once God’s law, the law of love, is forsaken, then the law of the strong over the weak takes over. The sin that lurks in the human heart (cf. Mk 7:20-23) takes the shape of greed and unbridled pursuit of comfort, lack of concern for the good of others and even of oneself. It leads to the exploitation of creation, both persons and the environment, due to that insatiable covetousness which sees every desire as a right and sooner or later destroys all those in its grip.

3. The healing power of repentance and forgiveness

Creation urgently needs the revelation of the children of God, who have been made “a new creation”. For “if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has passed away; behold, the new has come” (2 Cor 5:17). Indeed, by virtue of their being revealed, creation itself can celebrate a Pasch, opening itself to a new heaven and a new earth (cf. Rev 21:1). The path to Easter demands that we renew our faces and hearts as Christians through repentance, conversion and forgiveness, so as to live fully the abundant grace of the paschal mystery.

This “eager longing”, this expectation of all creation, will be fulfilled in the revelation of the children of God, that is, when Christians and all people enter decisively into the “travail” that conversion entails. All creation is called, with us, to go forth “from its bondage to decay and obtain the glorious liberty of the children of God” (Rom 8:21). Lent is a sacramental sign of this conversion. It invites Christians to embody the paschal mystery more deeply and concretely in their personal, family and social lives, above all by fasting, prayer and almsgiving.

Fasting, that is, learning to change our attitude towards others and all of creation, turning away from the temptation to “devour” everything to satisfy our voracity and being ready to suffer for love, which can fill the emptiness of our hearts. Prayer, which teaches us to abandon idolatry and the self-sufficiency of our ego, and to acknowledge our need of the Lord and his mercy. Almsgiving, whereby we escape from the insanity of hoarding everything for ourselves in the illusory belief that we can secure a future that does not belong to us. And thus to rediscover the joy of God’s plan for creation and for each of us, which is to love him, our brothers and sisters, and the entire world, and to find in this love our true happiness.

Dear brothers and sisters, the “lenten” period of forty days spent by the Son of God in the desert of creation had the goal of making it once more that garden of communion with God that it was before original sin (cf. Mk 1:12-13; Is 51:3). May our Lent this year be a journey along that same path, bringing the hope of Christ also to creation, so that it may be “set free from its bondage to decay and obtain the glorious liberty of the children of God” (Rom 8:21). Let us not allow this season of grace to pass in vain! Let us ask God to help us set out on a path of true conversion. Let us leave behind our selfishness and self-absorption, and turn to Jesus’ Pasch. Let us stand beside our brothers and sisters in need, sharing our spiritual and material goods with them. In this way, by concretely welcoming Christ’s victory over sin and death into our lives, we will also radiate its transforming power to all of creation.

From the Vatican, 4 October 2018
Feast of Saint Francis of Assisi                      
Francis

2019年2月27日

◎教皇連続講話「主の祈り」⑦「地上の愛が粉々に砕けても、『天におられる父の愛』がある」

(2019.2.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日、バチカンのパウロ6世ホールでの水曜恒例の一般謁見で、先週に続いて「主の祈り」をテーマにした教会の教えの解説をされた。

 今回は、『天におられる父』の不変の唯一の愛について。まず、「キリスト教的祈りの最初の一歩は、父である神の神秘の中に入ることです」とされた教皇は「神を『父』として語る時、私たちが思い浮かべるのは「特に、『自分を愛してくれた両親』ですが、私たちはそれを超えて行かねばなりません」と話された。

 そして、神の愛は「まさに『天におられる父』の愛であり、その完全な愛を私たちは人生の中で不完全な方法でしか知ることができません」と、その大きさを強調され、「人間は『永遠に愛を乞い求める存在』ですが、『完全に自分が愛される場所を求めても見つけられず、失意に陥った友情や愛』がどれほど多く世の中にあることでしょう」として、人間の愛の矛盾や変わりやすさ、弱さや限界を指摘。 「使徒ペトロでさえ、イエスの愛に忠実ではいられず、その弱さと恐れのために逃げ出すことになったのです」とイエスに対するペトロの言動を思い起こされた。

 このような「弱く変わりやすい人間の愛」と「天におられる父の愛」と対比され、「天の御父は、地上の誰もできない愛し方で、すべての人を例外なく愛してくださいます」と力を込められた。

 さらに、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを、私の手のひらに刻み付ける」という「イザヤ書」の言葉(49章15-16節)を引用されて、「私たちの地上の愛が粉々になり、手の中に塵しか残さなくても、私たち皆には、常に熱く燃える、神の唯一の愛があります」と説かれた。

 そして「主の祈り」の「天におられる」という表現は、遠さを表すのではなく、根本的に異なる愛、別の次元の愛を表すもの、と説明された。

2019年2月21日