◎教皇連続講話「使徒言行録」最終回「使徒たちの宣教は、今もなお、私たちの手で続けられる」

教皇フランシスコ、一般謁見教皇フランシスコ、15日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.1.15 バチカン放送)

 教皇フランシスコは15日の水曜一般謁見でのカテケシス(教会の教えの解説)で、今回が最終回となる「使徒言行録」についての講話をされ、使徒聖パウロの殉教前のローマでの宣教活動について次のように話された。

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 使徒言行録を記した聖ルカはパウロのローマでの最後の様子を詳しく書き残してくれました。聖パウロは囚われの身ではありましたが、一軒の家を与えられ兵士の監視付ではありましたが、自由に神のみ言葉、福音を伝えることが出来ました。

 神の言葉に耳を傾けようとした多くの人々がパウロのもとを訪れました。パウロは家から出て自由に動き回ることは出来ませんでしたが、訪れる人々に話すことは全く自由でした。パウロの言葉を鎖で縛り付けることはできなかったのです。パウロの言葉は、多くの人々の心に、神の御言葉の種子をまき続けました。

 聖パウロのローマでの家は教会を象徴したいます。いかに誤解されようとも、偏見を持たれようとも、神を求め、福音に耳を傾けようとする、あらゆる人々に、教会は常に大きく開かれています。教会は、イエス・キリストにおいてその具体的な姿を示された神の愛を、すべての人々に伝えるために、いつも母親の心をもって、どんなに疲れていても、あらゆる人々を受け入れ続けているのです。

 聖ルカは、使徒言行録の「使徒たちの宣教」を「パウロの殉教」ではなく「パウロの宣教」で締めくくります。「使徒たちの宣教」が、今日もなお福音の旅路を続けていることを示唆しているようです。

 私たちはこの数か月、「良き知らせ」が世界中に広がっていく経過をたどってきました。「私たち1人ひとりが、勇気ある、喜びに満ちたキリストの宣教の使徒となるように」との呼びかけを、新たにしてくださるように、聖霊に願いましょう。そうして、パウロの足跡をたどる私たちが、この世界を、福音で満たし、私たちの共同体を、全ての人が復活された主と出会うことのできる場としますように」

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月16日

♰「イエスは私たちに、柔和、率直、敬意を払う者であれ、と教えてくれる」-主の洗礼の日に

(2020.1.12 VaticanNews Linda Bordoni)

  主の洗礼の祝日の12日、教皇フランシスコは、サンピエトロ広場での正午の祈りの中の説教で、この日の朝、バチカンのシスチナ礼拝堂でなさった乳児32人の洗礼を思い起こし、今日のキリスト教徒が「イエスの柔和で率直な態度」にどのようにして倣わねばならないか、について話された。

 教皇は冒頭、乳児たちとその家族の為に祈るよう求めた後、この日のミサで読まれたマタイ福音書(3章13-17節)にあるイエスの受洗について取り上げ、洗礼を受けることを求めるイエスと洗礼者ヨハネとの対話に注目。

 本来なら、主から洗礼を受ける必要があるのはヨハネの方だが、「神は聖なる方であり、イエスが歩まれるのは神の道であり、私たちには予測不可能な道です」とされ、その道は、神の子が人類と神の間の距離を埋めるもの… イエスが完全に神の側におられるなら、完全に人類の側にもおられるのです」とされたうえで、だから、「イエスがヨハネに、『今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです』とヨハネに洗礼を求めるのです」と語られた。

 そして、「つまるところ、イエスは、父の計画ー子としての従順と連帯を通してもたらされる計画ーを、弱く、罪深い人間性をもって成し遂げるのです。それは謙遜の道、神のご自身の子供たちとの親密さの道です」と説かれた。

 さらに、教皇は、「イエスは、この世の潮流に逆らうやり方で、この世でのご自身の使命を果たします」とされ、「これは柔和な態度であり、イエスがご自身の謙遜、柔和さをもって私たちに教えるもの。率直さ、敬意、節度と内に秘めた振る舞いーそれは、今日の主の弟子たちにも求められていることです」と強調。

 「しかし、残念なことに、多くの人は、自分が主の弟子であることを自慢しています。彼らは、主の良い弟子ではありません… 良い弟子とは、イエスの弟子であることを見せびらかさない、謙虚な人、柔和な人、善を行う人です… キリスト教徒は、表に出て、他の人と会い、常に自分から提案し、相手に何かを課すことをせず、証言をし、実際の生活を人々と共にする人です」と念を押された。

 続けて教皇は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けると、天が開かれ、聖霊が鳩の形で彼の上に降りてきた… そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた、というマタイ福音書の箇所(3章16-17節)を取り上げられ、今日の主の洗礼の祝日にあたって、私たちが自分が洗礼を受けた時の初心に帰ることを勧められ、次のように述べられた。

 「イエスがまさに御父の最愛の息子であるように、私たちも水と聖霊によって生まれ変わりました。そして、自分たちが御父の最愛の子供であり、御父の喜びの対象であり、他の多くの兄弟姉妹の中にいる兄弟姉妹であり、すべての男性と女性に対する御父の限りない愛を証しし、宣言するという壮大な使命を託されたのだ、ということを、私たちは知っています」。

 最後に教皇は、洗礼を受けた時がいつか知らない人々に、洗礼を受けた日を見つけ出すという「宿題」を出された。そして、毎年、自分が洗礼を受けた日を祝うように求め、「これは、私たちにとても良くしてくださる主に対する当然の義務でもある」ことに気付くよう、信徒1人1人に願われた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年1月13日

♰「広島、長崎の被爆者たちは核の悲劇を繰り返させない、と訴える『生きたともし火』」-在バチカン外交団への新年挨拶

(2020.1.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコが9日、恒例の駐バチカン外交団と新年の会合を持たれ、バチカンと外交関係を持つ183カ国にマルタ騎士団と欧州連合を加えた185の国・組織の代表に新年の言葉をおくられた。

 この挨拶の中で、教皇は、昨年行われた海外司牧訪問や教会の行事を振り返りつつ、各地の紛争や緊張状態、未成年者の虐待、環境保全、核兵器非保有など、今日の世界と教会が抱える現状と課題を浮きぼりにされたうえで、「平和と人類の統合的発展のため、世界の人々に対話を促し、希望を抱くように励ます」バチカンの外交方針を示された。

 まず、教皇は、昨年初めにパナマで開かれた「世界青年の日(ワールドユースデー)」の「社会の未来と希望である若者たち」との出会いを、喜びをもって思い起こす一方、「聖職者を含む多くの大人たちによって、若者や子どもたちの尊厳に対する重大な犯罪が行われている」ことに遺憾を表され、昨年2月に全世界の司教協議会会長を招集して開いた未成年者の保護をめぐる会議に触れ、「様々な角度からの規則をもってこの問題に対処していく」決意を新たにされた。

 さらに、若者たちによって積極的に提起されている環境問題について、昨秋のアマゾン地域シノドス(代表司教会議)でも、環境問題が重要な議題となったことを指摘したうえで、統合的な「エコロジー的回心」が急務になっている、と強調。「地球温暖化防止への国際社会の賢明な取り組み」を呼びかけられた。

 また教皇は、昨年の海外司牧訪問の中で、アラブ首長国連邦訪問の際、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と、共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」に署名したことに言及。「この文書が宗教の自由と新しい世代の諸宗教対話を促進するもの」となるよう願われた。

 今日の世界情勢の中については、特に「シリアの平和と再興のための解決策」を緊急課題として示されるとともに、イランと米国の間で危機的事態が続いていることを深く憂慮され、「対立を回避し、国際法の尊重のうちに、対話と自制を保つ」ことを関係者に強く訴えられた。

 さらに、昨年11月に日本訪問にも言及、特に世界唯一の原爆被爆国で広島、長崎の現地を訪れ、「人類が体験しうる限りの苦しみと恐怖にじかに触れました… 広島、長崎の被爆者の証言に耳を傾け、『核兵器による人類絶滅の脅威の上に真の平和を築くことはできない』との思いを強くしました」と話された。

 そして、「被爆者たちは、1945年8月に起きた恐怖と、今日まで続く筆舌に尽くしがたい苦しみ、後世に決して繰り返させないとの共通の思いを、『生きたともし火』として保ち続けています」とされたうえで、「核兵器のような、高度な破壊力を持った兵器による支配と破壊へのあらゆる願望を前に、人類の良心がより強まるよう、被爆者たちの証言は、犠牲者たちの記憶を呼び覚まし、保っているのです… 核兵器は、恐怖や、不信、敵意を広めるだけでなく、希望を破壊します。核兵器の使用は、倫理に反するものであり、人類とその尊厳に対するだけでなく、私たちの共通の家のあらゆる未来に対する犯罪です」と強調。 ともしび

 「核兵器のない世界は可能であり、必要です」と述べた教皇は、「大量破壊兵器の保有が世界を安全にするわけではないことを十分に意識する」ように世界の政治指導者たちに訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月10日

◎教皇連続講話:使徒言行録⑯「パウロの航海は、私たちに『試練を生きる』ことを教えてくれる」

Pope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

(2020.1.8 VaticanNews Lydia O’Kane)  教皇フランシスコは8日、新年初の定例謁見に臨まれ、使徒言行録についてのカテキーシスを続けられた。

 今回は、聖パウロが囚われの身となって、陸路ではなく海路で帝国の都、ローマに向かった箇所を取り上げられ、これによって、「あなたがたは… 地の果てまで、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)という、復活されたイエスの言葉が実現された、と指摘。

 パウロは、海路を護送される途中、船がクレタ島を離れようとした時、海が荒れる季節で航海が危険となったのを知って、船に乗っている人々に、このまま航海を続けようとすれば、人命さえも危うくなると警告した(同27章9-10節参照)。だが、人々は彼の警告を聞かず、出港し、何日も暴風に襲われ、本当に危険な状態になったが、パウロは「元気を出しなさい… 私は神を信じています… 必ずどこかの島に打ち上げられます」(22-26章)と人々を励ました。

 そして、船は破壊されたものの、乗員全員が無事にマルタ島に上陸できた(27章39-28章6節参照)。だが、パウロは現地の人々が寒さをしのぐために焚いてくれた火の中から出てきた毒蛇に噛まれてしまう。それでも彼はその毒蛇を火の中に振り落とし、何の害も受けずに済んだ(28章5-6節参照)。そして、病に苦しんでいる島の人々を癒した。

 このような出来事を振り返り、教皇は「パウロの航海は、洗礼の水の中で死から生への道を通して、神がそのご意思で私たちを顧みてくださる、という象徴とみることができます」とされ、「(パウロのように)『試練を受けたキリスト者』は、苦しんでいる人に確実に近づき、心を開き、他者との連帯に敏感になることができるのです」と強調された。

 さらに、「パウロは、キリストにひたすら付き従うことで、私たちに『試練を生きる』ことを教えてくれます… 『明らかな失敗の中でさえ、神はどんな状況でも行動できる』『愛ゆえに自分自身を神に捧げる人は多くの実を結ぶ』という確信を深めるために」と説かれた。

 最後に教皇は、「試練の中にある私たちを支えてくださいますように。今日、乗った船が難破し、私たちの海岸に着く人々を、心を開いて迎えられますように」と主に祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月9日

♰ 「神の前にひざまずけないなら、神学も司牧も意味を持たない」-主の公現

教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂教皇フランシスコ、2020年1月6日、「主の公現」のミサで バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

(2020.1.6 バチカン放送) 教皇フランシスコは6日、「主の公現」のミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた。

(「主の公現」とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナでの最初の奇跡など、キリストが公に人々の前に姿を現されたこと。6日は主の公現を記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う日だが、イタリアやバチカン以外の米国や日本では5日の祭日に祝われている。)

 ミサ中の説教で教皇は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)という占星術の学者たちの言葉を引用され、「『礼拝する』とは、キリスト者たちが目指すもの、すなわち主に向かって歩むことです」と述べられた。

 さらに、キリスト教生活の歩みは、「主に向かうものであり、自分たちに向かうものではありません」とされ、「神を礼拝することを望む東方三博士」の傍らで、「神を礼拝することができないでいる人々」の存在を福音書の中から指摘された。そして、後者の1人として、まず、ヘロデの存在を挙げた。

 教皇は、「ヘロデは占星術の学者たちを呼び寄せ、この幼子が見つかったら知らせるよう命じ、『私も行って拝もう』(マタイ福音書2章8節)と語りました… ヘロデは『拝む』という言葉を使っていますが、実際には自分自身だけを崇拝し、この幼子を邪魔な存在と考えていたのです」と述べ、「人は神を拝まない時、自分自身を崇めるようになり、神に仕えるどころか、神を自分たちのために利用しようとするのです」と話された。

 「神を礼拝することができない人々」として、教皇は次に挙げられたのは、民の祭司長たちや律法学者たち。

 ヘロデがこれらの人々を集め、メシアはどこに生まれることになっているかを問いただすと、彼らは非常な正確さをもって、預言者の言葉を引用しながら、「それはユダの地、ベツレヘムです」と答えた。だが、彼ら自身は幼子を拝みに行こうとはしなかった。教皇は「彼らの振る舞いは、キリスト教生活は、知識だけでは十分でないことを示しています」と強調。「自分から抜け出し、神と出会い、拝むことなしに、神を知ることはできません。神の前にひざまずけないなら、神学も効果的な司牧も意味を持ちません」と強調された。

 そして、「拝む」ことについて、「自分自身への隷属という最も重い隷属から解放され、自分ではなく、神を中心に置くこと」「多くの要求なしに、『ただイエスと共にいたい』という思いだけをもって、イエスと出会うこと」「お金や、消費や、快楽、成功など、拝むべきでないものを学ぶこと」「あらゆる距離を超える愛の神秘を前に、私たちに互いを兄弟姉妹と気付かせること」と説かれた。

 最後に「多くのキリスト者は祈りはしますが、礼拝ができていません… 『自分はキリスト者として神を礼拝しているか』『日常の中で礼拝の時間を持っているか』『礼拝のためのスペースを確保しているか』を問い直すように」と勧められた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月7日

♰「クリスマスの意味は聖性の賜物をいただくこと」-主の公現の日、正午の祈りで

(2020.1.5 VaticanNews  Devin Watkins)

  教皇フランシスコは今年初めての日曜日、降誕節の第二日曜の5日、正午の祈りの中で、イエスの誕生の意味について観想された。(世界の国々の中にはこの日を主の公現の祝日とする国が少なくないが、バチカンとイタリアは伝統的に6日をこの祝日としている。)

*言葉は肉となった

 教皇はまず、ヨハネの福音書が第一章で、神の子である永遠の言葉が「肉となった」(14節)というショッキングなメッセージを取り上げ、「神の子は、人々の中に住むようになっただけでなく、人々の1人、私たちの1人になったのです!」と語られた。

 そして、そのことは「私たちが今や、法律や制度のような抽象的な原理に従うよりも、私たちの肉を帯びられた神の子に倣って生きることができるようになったこと、を意味しています」と指摘。

*私たちを神の子とするために

 続けて、教皇は、聖パウロは、イエス・キリストにおいて実現された愛の計画ゆえに、神の恩恵を感謝している、とし、「この計画の中に、私たち1人ひとりが自分の基本的な使命を見出します-私たちはイエス・キリストを通して神の子になることを運命づけられています。神の子は、私たち、男性、女性を神の子にするための人となられたのです」と述べられた。

 そして、「私たちは、キリスト降誕の場面で父との親子関係を深く思い… 今日のミサ典礼は、キリストの福音が『人類に対する神の計画の完全な啓示』であり、おとぎ話や、神話、あるいは教訓的なお話ではないことを、確認するのです」と説かれた。

*愛において聖とされる

 さらに教皇は、私たちは一つの問いと向き合っている、それは、「私たちの中に神の子の誕生をお示しになり続けることで、主は私にどんな具体的な事業を私たちにお任せになったのか」ということだ、とされ、「聖パウロは、私たちに、クリスマスの意味についての答えをくれています… 『神は、御前で、聖なる、汚れの無い者として、慈しみの中で私たちを選ばれたのだ』と… 主がいつも私たちの中に来て、御言葉の賜物を与えてくだされば、私たち1人ひとりは、この呼びかけに応えられるのです-愛において聖人になるために」と語られた。

*隣人のためを思って

 教皇は、聖性について、「神に属し、神と交わり、神の限りない善を表明すること」を意味する、とされたうえで、「聖性を恵みの贈り物として受け取る人は誰でも、日常生活で、他の人との出会いの中で、具体的な行動によって、必ず実を結びます」、そして「愛に基づいて行動することは、私たちを『汚れのない者』とします… 『汚れがなくなる』のは、『私がしみを落とす』からではなく、『神が私たちの中に入って来られる』という意味なのです。神の無償の贈り物が私たちの中に入り、私たちはそれを大切にし、他の人にそれを与えるのです」と強調された。

 そして最後に、聖母マリアに「イエス・キリストにおいて実現された神の愛の計画を、私たちが喜びと感謝をもって受け入れるのをお助けくださいますように」と祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年1月6日

♰「戦争は死と破壊しかもたらさない」-教皇、米・イラン情勢悪化の中で、対話と自制を呼びかけ

(2020.1.5 VaticanNews Devin Watkins)

 米国とイランの間の関係悪化が深刻になる中で、教皇フランシスコが5日の正午の祈りに続いて、国々に自制と対話を強く求められた。

 「戦争は死と破壊しかもたらしません」。教皇は、 特定の国を名指しすることは避けつつ、世界の多くの地域で「ひどい緊張が起きている」とされ、「私は全ての関係者に対して、対話と自制を強く働かせ、敵の影を消すように呼びかけます」と強調。その様な願いを持って沈黙のうちに祈るよう、全ての人に求めた。

 教皇フランシスコの呼びかけは、米軍が3日、イラン革命防衛隊のスレイマニ司令官をイラクで空爆して殺害、イラン国内の反米感情の高まりを背景に同国指導部は米国に報復すると宣言するなど、米国とイランの間の緊張の高まっているのを受けたものだ。

 イラクの首都バグダッドの東方カルデア典礼カトリック教会のルイス・ラファエル・サコ総主教も4日、この米軍によりイラクで行われたイラン軍高官の殺害について、イランの人々を代表して、強い遺憾の意を表明。「私たちの国が、自らの国土、財産、市民を守ることのできる主権国家ではなく、仕返しの場になってしまったのは、嘆かわしいことです」の述べ、節度ある行為を保ち、道理に従って行動し、(戦闘回避へ)合意に努めるよう、すべての国に呼びかけている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年1月6日

♰「聖母は御子を示すことで私たちを祝福される」神の母・聖マリアの祝日正午の祈り

2020年1月1日アンジェラスの祈り2020年1月1日アンジェラスの祈り  (AFP or licensors)

(2020.1.1 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2020年元日、「神の御母聖マリア」の祭日にあたって、正午の祈りの集いを行われ、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、神の御母について次のように話された。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 新年あけましておめでとうございます。

 昨晩、2019年最後の日を、神への感謝の中に過ごしました。今日は、2020年最初の日を、昨晩と同じ神への感謝と賛美の中に始めます。

 新年最初の日、典礼暦ではナザレトの乙女、救い主イエスをこの世にもたらした「神の御母聖マリアの大祝日」を祝います。このマリアの子は、すべての人にとって、全世界にとっての、神からの祝福そのものです。

 イエスはこの世の悪を根こそぎ倒しました。イエスのもたらす救いは魔法ではありません。忍耐強い救いです。それは愛に満ちた忍耐をもたらします。「愛の忍耐」です。愛は私たちを忍耐強くしてくれます。私たちは何回も忍耐を失います。ですから、私たちはベトレヘムの馬小屋を観想しながら、信仰の目で、まったく新たにされた世界、悪の支配から解放された世界、まぐさ桶にに横たわる幼子に救い主の王権を見るのです。

 今日、神の御母は、私たちを祝福してくれます。聖母は私たちをどのように祝福されるのでしょうかーその御子を示すことによってです御子を抱き、私たちに見せ、祝福してくれるのです。

 聖母はこうして、全教会を祝福し、全世界を祝福します。ベトレヘムで天使たちが歌ったように、「すべての民に喜び、人々には神の栄光と平和」をイエスはもたらすのです。これこそ、一年の初めの日を、パウロ六世が平和の日に定めた理由なのです。

(編集「カトリック・あい」)

2020年1月2日

♰「神による人類の救いは女性の体から…女性への暴力は神への冒涜」-元旦、神の母・聖マリアの祝日に

 

  2020年元日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサを捧げられた。また、この日は、カトリック教会の「世界平和の日」を記念し、今年の第53回「世界平和の日」のテーマには「希望の道である平和――対話、和解、エコロジカルな回心」が選ばれた。

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 「時が満ちると、神は、その御子を女から生れた者… としてお遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)。

 教皇はミサの説教で、神の御子が「女から生まれた」、「マリアの胎内に宿られた」(ルカ福音書2章21節)という神秘を観想。

 「一人の女の胎内において、神と人類は二度と離れることのないように一致したのです」、「新年の最初の日、私たちは一人の女性の胎内において始まった、この神と人類の結びつきを祝います」と話された。

 マリアの「女性」であり「母」であるという本質を強調しながら、「女性であるマリアから救いが生まれ、この女性なしでは救いはありませんでした」とされ、「それゆえに、私たちは一年を聖母のしるしのもとに始めるのです」と語られた。

 そして、「人類の再生は女性から始まり」、「女性は命の源」であるにもかかわらず、「彼女たちは、絶えず感情を害され、痛めつけられ、強姦され、自ら身体を売り、子宮に宿す命を圧迫するように仕向けられます。女性に加えられる暴力は、女性から生まれた神を冒涜するものです。人類の救いは女性の身体からもたらせれたのです」と強調。

 さらに、「人類の救いは、女性の体からもたらされました。ですから、女性の体をどのように扱うかによって、人間性のレベルが測られます。消費されるための外見としての広告、利潤、ポルノ画像など女性を冒涜する祭壇の上で、女性の体が何回犠牲にされているのでしょうか。女性の体は、消費主義から解放されねばなりません。尊重され、敬意を払われねばなりません」と念を押された。

 「女性の体は、この世で最も高貴な肉体であり、私たちを救われた『愛の神』を身ごもり、生んだのです!今日、母性は侮辱されています。なぜなら、私たちの関心を引く唯一の『成長』は『経済的な成長』だからです。自分の子宮に宿した存在がより良い未来を迎えられるようにと必死に望み、困難な旅をする危険を冒す母親たちがいます。しかし、彼女たちは、飽食し愛の心を欠いた人々によって余計者と見なされています」と現状に対する反省を求められた。

 教皇はまた、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」(ルカ福音書2章19節)という、聖母の態度にも注目された。

 そして、「マリアのように、心で物事をしっかり見ることのできる人だけが、人や物事の内部を見通すことができ、人々をその過ちや弱さで判断せず、困難にも希望を見出し、すべてを神に委ねることができるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、新年を始めるに当たり、「自分は物事を心でしっかり見ているか」「一緒にいる人々のために心を砕いているか」を問い直すよう招かれた。そして、この一年、私たちが人のことを心にかけ、世話をする気持ちを持てるよう、その恵みを願うよう求められた。

 

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年1月2日

・「希望の道である平和!」-新年「世界平和の日」教皇メッセージ(2020.1.1)

第53回「世界平和の日」教皇メッセージ(2020年1月1日)「希望の道である平和――対話、和解、エコロジカルな回心」

1. 平和――障害や試練に直面する中で歩む希望の道のり

 平和は、尊い宝、私たちの希望の対象、全人類が切望してやまないものです。平和を望むことは実存的な緊張を伴う人間の姿勢であり、その望みがあるからこそ、現在がときに困難な状況にあっても、「私たちはそれを生き、受け入れることができます。そのためには、現在が目標へと導いてくれるものでなければなりません。私たちがこの目標を確信できなければなりません。そしてこの目標が、労苦して目指すだけの意味をもつものでなければなりません」(1)。このように希望とは、たとえ克服できそうもない障害に直面しても、わたしたちを踏み出させ、前に進む翼を与えてくれる徳なのです。

 私たち人間の社会は、ますます破壊力を増している相次ぐ戦争や紛争の傷を、その記憶とからだに受けています。戦争と紛争は、とくに、もっとも貧しく弱い人々に害を与え続けています。国全体で、憎しみと暴力に拍車をかける搾取と腐敗の連鎖から自らを解き放つのに難渋している国々もあります。今日でも、非常に多くの人が、老いも若きも、尊厳、身の安全、信教の自由を含む自由、共同体としての連帯、未来への希望を否定されています。罪もない無数の犠牲者が、侮辱や排除、死別の悲しみや不正義、さらには当然ながら、同胞や愛する人が組織的な攻撃を受けたことによるトラウマのために苦しんでいます。

 内戦や国家間の戦争という悲惨な試練は、情け容赦のない暴力によってますます深刻化しており、人類の体と心にいつまでも消えない傷痕を残しています。どの戦争も、人類家族の召命に刻みこまれた兄弟関係そのものを破壊する兄弟殺しにほかなりません。

 戦争は、多くの場合、相手の違いを受け入れられないことから生じていることは言うまでもありません。そうした不寛容は所有欲や支配欲を助長します。それは、利己主義、傲慢、憎しみによって、人間の心の中で生まれます。憎しみが、破壊に、相手を否定的なイメージで固めることに、相手の排除や抹殺に至らせるのです。戦争は、さまざまな関係の歪み、覇権への野心、権力の濫用、他者や異なるものを障害と見なすことで生じる恐怖心によってあおられます。そしてこれらすべてが、戦争によってさらにあおられるのです。

 先日の日本への司牧訪問で強調したように、逆説的ではありますが、「私たちの世界は、倒錯した二分法の中にあります。それは、恐怖と不信の心理から支持された偽りの安全保障を基盤とした安定と平和を、擁護し確保しようとしているからです。人と人の関係を毒し、可能なはずの対話を阻んでしまうものです。国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が、相互依存と共同責任によって築く未来に奉仕する、連帯と協働の世界的な倫理によってのみ実現可能となります」(2)。

 脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向けます。不信と恐れは、決して平和的な関係に結びつかない悪循環で、関係性をもろくし、暴力の危険を増大させます。この意味では、核の抑止力も架空の安全をもたらすにすぎません。

 ですから、絶滅への恐怖で世界の安定を維持できるなどと、極めて不安定な状況の中で、核の深淵に立ち、無関心という壁の内側に閉じこもったまま、言い張ってはなりません。そうした場では、互いを大切にせずに、人や被造物を使い捨てにするという悲劇への道を開くような、社会経済的な決断がなされるのです(3)。それでは、どうしたら平和と相互尊重への道を切り開けるのでしょうか。どうしたら脅威と恐れに基づく不健全な論理を打ち破れるでしょうか。どうしたら現在蔓延している不信の流れを断ち切れるでしょうか。

 私たちは、神という共通の源に根差した、対話と相互信頼のうちに実践される真の兄弟愛を追い求めなければなりません。平和への願いは、人間の心に深く刻まれています。決して、それより劣るものに甘んじてはなりません。

2. 平和――記憶と連帯と兄弟愛に基づいた、耳を傾けるという道のり

ヒバクシャ――、広島と長崎に投下された原爆の生存者は、1945年8月に起こったことの恐ろしさと、今日までの筆舌に尽くしがたい苦しみを、次世代の人々に証言することで、共同意識の炎を今もともし続けています。彼らの証言は、どのような支配欲や破壊欲を前にしても人間の良心をさらに強固にするために、犠牲者の記憶を呼び起こし守っています。「現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません。より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤である記憶」(4) をです。

 ヒバクシャと同じように大勢の人が、世界中で、記憶を守るための活動を次世代の人々のために行っています。それは、同じ過ちを再び犯さないため、あるいは過去の妄想的な企てを繰り返さないためだけでなく、経験の実りである記憶が、平和に向けた現在と未来の決断の根拠と刺激となるようにするためでもあります。

 記憶はさらに、希望の地平です。戦争や紛争の闇に何度覆われても、連帯の印をわずかでも受けたという記憶があれば、勇敢で、英雄的でさえある決断をくだすことができます。そして個人や共同体の中にまったく新しい力を生み出し、新しい希望の炎をともすことができるのです。

 平和の道のりを切り開いて進むことは、ますます複雑な挑戦となっています。個人、共同体、国家間の関係に付随する利害が多様で相反しているからです。何よりもまず道徳心と、個人の意思と政治的意思に働きかけなければなりません。平和はまさに、人間の心の奥底から現れます。そして、政治的意思は、つねに新たにされなければなりません。それにより、人々と共同体を和解させ一つにする、新たな道が開かれるのです。

 この世界が必要としているのは、空虚なことばではなく、確信にあふれるあかし人、排除も操作もなく対話に開かれた平和の職人です。実際、イデオロギーや異なる意見を超えて、真理を追い求める人々の間で納得のいく対話がなされなければ、本当の意味で平和を実現することはできません。平和とは、「たえず建設されるべきもの」(5)であり、絶えず共通善を追求し、約束を守り法を遵守する責任を果たしつつ、ともに歩む道のりです。互いに耳を傾け合うことによって、相手に対する知識と敬意は、敵の中に兄弟姉妹の顔を見るほどに深まるのです。

 ですから平和の歩みは、時間がかかる骨の折れることなのです。それは、真理と正義を求め、犠牲者の記憶を尊重し、報復よりもはるかに強い共通の希望に向けて一歩ずつ切り開いていくという、忍耐力を要する作業です。法に基づく国家では、民主主義がこの歩みにおける重要な枠組みとなります。ただしその民主主義が正義に根ざし、弱者や周縁に追いやられた人をはじめとする各人の権利を守る義務に根ざしたもので、真理がつねに追究されている場合においてです(6)。それが社会構築であり、各人が地域、国家、国際社会のあらゆるレベルで責任をもって貢献する発展なのです。

 聖パウロ六世が強調しているように、「二つの欲求、すなわち、平等の達成と責任ある参加の増進は、なんらかの形の民主主義社会の促進を求めます。……これは、社会における生活のために人々を教育することの重要性を示しています。社会教育において、個人の権利について教えるだけでなく、それに必然的に伴う義務、すなわち、他者に対する義務をも思い出させるのです。自分の義務の自覚とその実行は、個人または集団の自由に課せられている限界を認めると同時に、自己抑制の程度にかかっています」(7)。

 その逆に、社会の分断、格差の拡大、さらに全人的発展に必要な措置の排斥は、共通善の追求を脅かします。一方、言葉の力と真理の力に根ざした忍耐強い努力は、共感する力と、創造性をもって連帯する力を人々の中に呼び覚ますことができます。

 私たちは、自分たちを和解させるためにご自身のいのちを捧げてくださったキリストを、キリスト者としての体験を通してつねに思い起こしています(ローマ5・6-11参照)。教会は、キリスト教の価値観の伝達、道徳的な教え、さらには社会的・教育的活動を通して、正しい秩序を実現させるために全身全霊をかけて関わり、共通善のために尽くし、平和への希望を育み続けているのです。

3. 平和――兄弟姉妹の交わりにおける和解の道のり

聖書は、とりわけ預言者のことばを通して、人間と結んだ神の契約を、各人の心と諸民族に思い起こさせます。それは、他者を支配しようという欲望を捨て、互いを人間として、神の子として、兄弟姉妹として見られるようにするということです。発言や行動だけで相手を決めつけるのではなく、持っている可能性のゆえにその人を大切にすべきです。尊重する道を選んではじめて、報復の連鎖を断ち切り、希望の道に踏み出せるのです。

 私たちは、ペトロとイエスの間で交わされた次の会話を伝える福音によって導かれます。「『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。七回までですか』。そしてイエスはいわれた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい』」(マタイ福音書18章21-22節)。この和解の道のりをたどるためには、赦す力と、互いを兄弟姉妹として認める力を、心の奥底に見いださなければなりません。赦しながら生きるすべを学ぶことにより、私たちは平和の人となる力をいっそう高めることができるのです。

 社会的領域における平和について言えることは、政治や経済の領域における平和にも当てはまります。平和の問題は、共同体の生活のすべての側面に浸透しているからです。ですから、より公正な経済システムを構築できなければ、真の平和は決して築かれません。10年前にベネディクト十六世が回勅『真理に根ざした愛』に記したとおりです。「低開発を克服するために必要な行動は、交換を基礎とする取引を改善し、公共福祉の構造を設けるだけでなく、何よりも、無償性と交わりに特徴づけられる経済活動を受容する姿勢を徐々に世界規模で増大させることです」(39)。

 

4. 平和――エコロジカルな回心の道のり

「私たちが自らの行動規範を誤って解釈し、自然の濫用を正当化したり、被造界に対して横暴に振る舞ったり、戦争や不正や暴力行為に手を染めたりすることがあったのであれば、私たち信仰者が認めるべきは、それによってわたしたちは、自分たちが守り保つよう招かれた知恵の宝に不忠実だったということです」(8)。

 私たちは、他者への敵意、共通の家への敬意の欠如、天然資源の濫用――地域社会や共通善、自然界にまったく配慮せずに、資源を目先の利益の手だてとしか、見なしていません――の結果に直面しており、エコロジカルな回心が必要です。

 先ごろ行われたアマゾン特別シノドスは、共同体と土地との間、現在と記憶との間、体験と希望との間での平和的な関係構築に向けた訴えを、革新的なしかたで行うよう、私たちを強く促しています。

 この和解の道のりは、神が共通の家とするようにと、私たちに与えてくださったこの世界に耳を傾け、観想することでもあります。天然資源、さまざまな形態のいのち、そして地球そのものは、まさに、「耕し、守るように」(創世記2・15参照)と、そして未来の世代のために、一人ひとりが責任をもって積極的にかかわるようにと、私たちに託されているのです。私たちはまた、他者との出会いや、創造主の美と知恵を映している被造物という、たまものの受容に向けて、自分たちの信念と観点をさらに開かれたものに変える必要があります。

 そうして初めて、共通の家に住むための、それぞれの多様性をもったまま互いに向き合うための、与えられ分かち合う命をたたえて大切にするための、生物をこれからも繁栄させ永続させることに優しい社会の条件と模範について考えるための、さらには人類家族全体の共通善を発展させるための、心からの意欲と新たな方法がもたらされるのです。

 ですから、私たちが訴えているエコロジカルな回心は、地球を与えてくださり、喜びと節度をもってそれを分かち合うよう繰り返し呼びかけておられる、創造主の惜しみのなさについて考えることを通して、新たなまなざしで命を見つめるよう、私たちを導いてくれます。この回心は、私たちと兄弟姉妹との関係、他の生物との関係、ありとあらゆる被造物との関係、すべての命の源である創造主との関係の変質として、完全な形で理解されなければなりません。キリスト者は、「イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界との関わりの中で証し」(9)するよう求められているのです。

5. 希望するだけのものをすべて、勝ち得ることができる(10)

和解の道のりには、根気と信頼が欠かせません。平和は、望まなければ決して実現しません。

 それは何よりもまず、平和の実現を信じること、そして相手も自分と同じように平和を求めていると信じることです。そうして初めて、私たち一人ひとりへの、神の自由で、限りのない、無償で、飽くことのない愛によって導かれることができるのです。

 争いの源は、多くの場合、恐れです。ですから、私たちを愛してくださり、放蕩息子の父親のように待っていてくださる方(ルカ福音書15章11-24節参照)の前では助けを必要としている子どもであるという自覚をもって、人としての恐れを乗り越えることが重要です。兄弟姉妹の間の出会いの文化は、争いの文化を打ち砕きます。それはあらゆる出会いを可能にし、その出会いを寛大な神の愛からの贈り物とします。その文化は、私たちが狭い視野の領域を超え出るよう導き、天におられるただ一人の御父の子らとして、普遍的な兄弟愛のもとに生きるよう、常に私たちを励ましてくれます。

 キリストの弟子にとってこの道のりは、洗礼を受けた者の罪の赦しのために、主がお与えになる和解の秘跡によっても支えられています。個人と共同体を新たにする教会のこの秘跡は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」(コロサイの信徒への手紙1章20節)ご自分と和解させたイエスを見つめ続けるよう呼びかけています。そして、隣人に対しても、神の被造物に対しても、思い、言葉、行いによるあらゆる暴力を放棄するよう求めているのです。

 父なる神の恵みは、無条件の愛として与えられています。キリストにおいて御父の赦しを受けた私たちは、現代に生きる人々にその恵みを差し出すために歩み始めることができます。聖霊は毎日、私たちが正義と平和の職人となるための姿勢や語り方を示しています。

 平和の神が私たちを祝福し、私たちを助けに来てくださいますように。

 平和の君の母であり、地上のすべての人の母であるマリアが、和解の道を一歩一歩進む私たちに寄り添い、支えてくださいますように。

 この世に生まれたすべての人が、平和な生活を味わい、心に抱く愛といのちの約束を十全に果たすことができますように。

 

バチカンにて 2019年12月8日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳=表記は一般に使われている日本語表記に改めてあります(「カトリック・あい」)

2019年12月31日