◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑰ 永遠の命にふさわしい「信仰」と「希望」と「愛徳」を生きよう

教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年4月24日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 

(2024.4.24 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは24日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」の連続講話を続けられ、これまでの「cardinal virtues =人間的徳(基本的な徳目)」から「theological virtues=対神徳(神学的な徳目)」に考察を移され、「信仰、希望、そして愛徳が、キリストに従い、共に聖性を目指す私たちの旅を導き、その途上で、たとえ倒れても立ち直るのを助けてくれること」を強調された。

 バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次の通り。

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 これまでの数週間、私たちは、賢明、正義、勇気、節制という、「人間的徳」について考えてきました。何度か強調したように、この4つの徳はキリスト教よりも昔の、古代の叡智に属していまする。キリスト以前から、「正義」は市民の義務として、「賢明」は行動の基準として、「勇気」は善を目指す生活の本質的要素として、「節制」は過剰にとらわれないための尺度として、奨励されてきました。キリスト教はこの人類の遺産に取って代わるのではなく、それに焦点を当て、価値づけ、純粋化、補完したものとしてきたのです。

 あらゆる人の心には、「善」を求める力が備わっています。それを受ける者がはっきりと善悪を区別し、悪を退け、善に従う力を得ることで、完全な自己実現ができるよう、聖霊から与えられました。

 しかし、すべての人がたどるべく招かれた、命の充満に向けた歩みの中で、キリスト者はイエス・キリストの霊の特別な助けをいただいています。それは、しばしば新約聖書で言及される、他の3つの徳の賜物を通して実現されるものです。キリスト者の生活を特徴づけるこれらの基本的態度とは、「信仰」「希望」「愛」です。キリスト教の著作家たちは、それを「対神徳)」と呼ぶようになりました。「人間的徳」が善き生活の要(かなめ)を構成するように、「対神徳」は、神との関係の中で受け取り、生きるべきものを表しています。

 『カトリック教会のカテキズム』は、「対神徳」の働きを次のように定義しています―「対神徳はキリスト者の倫理的生活の土台であり、源であり、これを特徴づけるものである。あらゆる倫理徳に生気を与え、活気づける。神の子供としてふるまい、永遠の命いのちに値する行為をすることができるように、信者の心に神から注がれたものである。それは、人間の諸能力のうちに聖霊が共におり、働いておられる、ということの保証である」(1813項)。

 「人間的徳」では、英雄的な人々が善を生み出す時、大抵一人の孤立した行いになりがちであることに対し、「対神徳」の偉大な恵みは、聖霊を通して体験されるものです。キリスト者は決して独りではありません。善は、個人の膨大な努力によってではなく、謙遜な弟子として師イエスに従って歩むことによって実現されるのです。「対神徳」は自己完結に対する偉大な薬です。道徳的に非の打ち所がないある種の人たちが、他者の目には、うぬぼれた尊大な人に見える危険がいったいどれだけあることでしょうか。

 福音書は、こうした危険を前に、私たちに注意を促している。イエスは弟子たちにこう教えられました。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ福音書17章10節)。

 「高慢」は猛毒です。ただ一滴で善に満ちた人生全体を破壊してしまいます。ある人が山のような善業を果たし、人から認められ、称賛を集めたところで、それを自己の称賛のためにしたとすれば、これでも有徳の人と言えるでしょうか。

  善を行うには目的だけでなく、方法も重要である。善には大いなる控え目さと思いやりが必要です。善は時に自分という嵩張る存在を脱ぎ捨てることを要求します。人生のあらゆる行為を自分のためだけにするとしたら、その動機づけは本当に重要でしょうか。

 これらのしばしば苦しい状況を正すために、「対神徳」は大きな助けになります。特に過ちを犯した時に役立ちます。毎日徳を実践する人でさえも、過ちに陥ることがあるからです。必ずしも常に知性が的確に働き、意志が堅固で、熱情が抑えられ、勇気が恐れに勝つとは限りません。しかし、心を聖霊に開くなら、聖霊は私たちの内に「対神徳」を息づかせるでしょう。そうするなら、信頼を失った時、神は私たちを再び信仰に開かせ、意気消沈した時、私たちを新たな希望に目覚めさせ、心が頑なな時、神はご自身の愛によってそれを和らげてくださるに違いありません。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月25日

☩「私たちは”崩れかけている共通の家”を直し、守るよう召されている」EarthDayにメッセージ

ドローンが捉えた自然保護地区での森林破壊ドローンが捉えた自然保護地区での森林破壊 

(2024.4.22 バチカン放送)

 22日の地球環境について考える「EarthDay(地球の日)」に当たって、教皇フランシスコがX(旧Twitter)を通して、「私たちが共に暮らす家=地球」を危機から救うために、次のようなメッセージを投稿された。

 “Our generation has bequeathed many riches, but we have failed to protect the planet and we are not safeguarding peace. We are called to become artisans and caretakers of our common home, the Earth which is “falling into ruin.” #EarthDay

私たちの世代は多くの豊かさを遺産として残しました。しかし、私たちは地球を保護することができず、また平和を守ることもできていません。私たちは地球という共に暮らす家を、「崩れかけている」その家を、建て直し、しっかりと管理する者となるように召されているのです。#EarthDay)

 教皇2015年に、エコロジー的回心をテーマとした回勅「ラウダート・シ」を出され、2023年には、同回勅を補完する使徒的勧告「ラウダーテ・デウム」を発表するなど、これまで多くの機会を通し環境問題への提言をされいる。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月23日

☩「良い羊飼いイエスは、両手を広げて私たちを待っていてくださる」21日Regina Coeliの説教で

(2024.4.21 Vatican News  Thaddeus Jones)

     21日、「良い羊飼い主日」の正午、Regina Coeliの祈りに先立つ説教で、教皇フランシスコは「イエスが私たちを限りなく愛され、私たちのために命を捧げてくださっていること」を思い起され、「私たちの牧者の愛の腕によって歓迎され、高められるように」と願われた。

 説教で教皇はこの日読まれた福音(ヨハネ10章11-18節)を取り上げ、この箇所で、主が「(良い羊飼いである)私は羊のために命を捨てる」と三度繰り返して述べ、「私たち一人ひとりを限りなく愛し、私たちのために命を犠牲にされたこと」を強調された。

 教皇は、「キリストの時代の羊飼いは、1日に数時間だけではなく、昼も夜も羊の世話をする必要がありました。良い羊飼いは自分の羊一頭一頭のことを知っており、羊たちに気を配り、迷子になった場合は探し、羊たちと共に生きることで安全を確保し、必要を満たしました」とされ、「イエスは、私たち群れの命を自分のものとし、一人ひとりの名前を知っておられます。私たちが迷ったときは見つかるまで探してくださり、そればかりか、私たちのために命を犠牲にし、復活を通して私たちに聖霊を与えてくださった『良い羊飼い』なのです」と説かれた。

 そして、「良い羊飼い」のたとえを通して、「主が、私たちの導き手、群れの頭であるだけでなく、何より私たち一人一人をご自分の命への愛として考えておられることを、私たちに示しておられるのです.…  私たち一人ひとりを、重要で、かけがえのない、無限の命の代価を払う価値のある存在と考えておられます」、さらに、「これは単なる言葉ではなく、実際に主は、私たちのために命を捧げ、私のために死んで復活されました。それは、主が私たちを愛し、私たちが自分ではなかなか気づかない素晴らしさを、私たちの中に見出してくださったからです」と語られた。

 また教皇は、「多くの人が、自分のやってきたことを自分の価値観、あるいは世界が自分をどう見ているか、あるいは他者がどう見ているかで判断し、『不十分だ、あるいは間違っている』と考えます。 しかし、イエスは、私たちが彼にとってとても価値がある存在だ、と教えて下さいます。ですから、真に自分自身と幸福を見つけるためには、私たちは主の御前に立ち、”良い羊飼い”の愛の腕によって受け入れられ、高められるように努めなければなりません」と信者たちを促された。

 さらに教皇は、「自分自身の人生を振り返り、人生に価値と意味を与えてくださる主の無限の愛を本当に受け入れているかどうか、考える」ように勧められ、「それは、祈り、崇敬、賛美の瞬間に、主を思い起し、愛ある主の御前に立とう努めることで可能です。 私たちが人生でこのことを実践しようと努めるなら、人生の”秘密”を再発見するでしょう。神が私のため、そして私たち全員のために、命を捧げられたことを思い起こすでしょう。神にとって、私たちは皆、私たち一人ひとりが重要なのです」と強調して、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2024年4月21日

☩「中東地域そしてウクライナの和平のための対話実現を祈る」21日のRegina Coeliの祈りで

At Regina Coeli the Pope appeals for an end to the violence in the Middle East and Ukraine

(2024.4.21 Vatican News  Francesca Merlo)

教皇フランシスコは21日、復活節第四主日のRegina Coeliの祈りに続いて、パレスチナ、イスラエル、ウクライナの「戦乱の影響を受けている人々の苦しみを忘れない」ことを強調されるとともに、和平に実現を心から訴え、そのための対話を改めて関係国指導者たちに求められた。

教皇は、中東地域で外交的解決に向けた対話、交渉が進むことへの期待を改めて表明され、「主張の論理」に屈しないよう、次のように訴えられた。

「私は中東情勢を懸念し、悲しみながら見守り続けています。戦争の主張に屈するのではなく、多くを達成できる対話と外交を優先するよう繰り返し訴えます。私は毎日、パレスチナとイスラエルの平和を祈り、この二つの民族が早く苦しみを終わらせられることを願っています」。

さらに、教皇は、ロシアの一方的な軍事侵攻で始まり、今なお続いているウクライナ戦争を思い起こされ、世界の指導者に対して、「(戦争によって)悲惨な苦しみを味わっている」この地をこれ以上”曇らす”ことのないよう努力を求められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月21日

☩「喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人になろう」ー4月21日・世界召命祈願の日教皇メッセージ

2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2024年4月21日 「希望の種を蒔き、平和を築くよう呼ばれて」

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 世界召命祈願の日には毎年、主が旅を続ける忠実な民一人ひとりにあてた、召し出しという尊い賜物について考えるよう招かれます。私たちが主の愛の計画に加わり、福音の素晴らしさを、さまざまなあり方の中で具現化するためにです。神の呼びかけに耳を傾けることは、宗教的理想の名のもとであったとしても、外部から課される義務とはまったくの別物で、むしろ私たちの内にある幸福への望みをかき立てる、もっとも確かな方法です。私たちの人生に輪郭が与えられ、それが十全なものとなるのは、自分は何者なのか、どんな資質があるのか、どのような分野でそれを生かせるのか、どのような道を進めば、置かれた場にあって、愛、受容、美、平和のしるしとなり、道具となれるのか、に気づけたときです。

 そのためこの世界祈願日は毎回、全生涯に及ぶ召し出しを受け止めた人々の、忠実で、日常的で、そしてしばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こす絶好の機会です。心に浮かぶのは、自分のことは顧みずに後回しで、うわべだけのことに流されず、人と人との関わりを大切にして生き、愛と無償の心をもって、命の賜物へと自らを開き、子とその成長のために尽くす母親、父親です。献身的に協力の精神で仕事を果たす人々、様々な分野で、色々なやり方で、より公正な世界、より連帯ある経済、より平等な政治、より人間らしい社会を築くために専心する人々、共通善のために懸命に働く、善意あるすべての人のことを思い起こします。

 使徒的行為としての祈りの沈黙を通して、時には辺境の地で労力を惜しまずに、創造性をもって自分のカリスマを生かし、出会う人々のために用いることで、自身を主に捧げる奉献生活者のことを思います。叙階される祭司職への召命を受け入れて、福音をのべ伝えることに自らをささげ、兄弟姉妹のためにエウカリスチアのパンとともに自らを裂き、希望の種を蒔(ま)き、神の国の素晴らしさを全ての人に示す人のことを思います。

 若者たち、とりわけ教会に距離を感じたり不信感を抱いている若者たちに申し上げたいと思います。イエスに心をつかまれるがままになってください。福音書を開き、あなたがたにとって大事な問いを、イエスに投げかけてください。いつも私たちのためを思って危機に立たせるイエスの存在に、心を揺さぶられてください。イエスは誰よりも私たちの自由を尊重し、押しつけることはなさらずに、ご自分を示しておられます。イエスに場を空けてください。そうすれば、イエスに従うことで、そして主に求められるならば主に完全に自身を捧げることで、幸福を得るでしょう。

旅する民

 キリスト教が認識し伴奏する、さまざまなカリスマとさまざまな召命によるポリフォニー(多声音楽)は、キリスト者としてのアイデンティティを十全に理解する助けとなります。世の道を歩む神の民として、聖霊に駆り立てられ、生きた石としてキリストの体に組み込まれながら、私たち一人ひとりは、自分たちが大きな家族の一員であり、御父の子どもであり、同じ神の似姿である兄弟姉妹だということに気づかされます。私たちは、自分という存在の中に閉ざされている孤島ではなく、全体の一部です。だから世界召命祈願の日は、シノダリティの音色を帯びています。カリスマは多様です。そのカリスマに気づき、全ての人の益のために何をなすよう聖霊が求めておられるのかを識別すべく、互いに耳を傾け、共に歩むように、私たちは求められています。

 現在、共同の道は、2025年の聖年へと私たちを導いています。自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様な賜物を結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう。そうして私たちは、神の愛に結ばれ、そして慈しみと分かち合いと兄弟愛のきずなで結ばれた一つの家族を形づくるのです。

 この世界祈願日にはとくに、御国を建設するための尊い召命の賜物を、御父に切願する祈りを捧げます。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ福音書10章2節)。そして祈りとは、ご承知のとおり、神に語る言葉よりも、耳を傾けることによってなされるものです。主は私たちの心に語りかけ、心が開かれ、誠実で、寛大であるよう願っておられます。御言葉は、イエス・キリストにおいて受肉し人となった御言葉は、御父の御心を余すところなく私たちに啓示し、知らせてくださいます。

 今年2024年はまさに聖年の準備として、祈りにあてられる年です。私たちは、主と心と心をもって対話できるという測り知れないほど尊い賜物を再確認し、希望の巡礼者となるよう求められています。なぜなら、「祈りは、希望の最初の力です。祈れば希望は膨らみ、増幅していきます。祈りは希望への扉を開く、とも言えるでしょう。希望は、あるものですが、祈りによってその扉を開くのです」(教皇フランシスコ「キリスト者の祈りについての連続講話―創造の神秘」2020年5月20日)。

希望の巡礼者、平和の建設者

 では、「巡礼者である」とはどういう意味でしょう。巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭に常に置いています。同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないように、日々、頑張らなければなりません。このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にある様々な道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。疲労や困難はあっても、それによって常に新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。

 キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。私たちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見いだすためでもあります。「内なる旅」とは言え、それは、多様な関わりに刺激され続けるものです。つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。神を愛し、互いに愛し合うように呼ばれています。ですから、この地上における私たちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。その逆で、日々、呼びかけにこたえつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。私たちは希望の巡礼者です。より良い未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。

 結局のところ、あらゆる召命が目指すのは、希望の人となることです。個人として、また共同体として、多様なカリスマと奉仕職をもって、私たちは皆、新たな時代の課題を負った世界にあって、福音の希望に「体も心も捧げる」ように呼ばれています。新時代の課題とは、散発的な第三次世界大戦の脅威の拡大、よりよい未来を求め故郷を逃れる移住者の大群、増加の一途をたどる貧困層、この地球の安定を不可逆的に損ねる危険などです。こうした全てに加え、日常でぶつかる困難もあり、それらは私たちを、時に諦めや悲観に陥らせかねないのです。

 それゆえこの時代において、私たちキリスト者こそ、希望に満ちたまなざしを養わなければならないのです。神の国のため、愛と正義と平和の国のために、私たちに託された召命にこたえることで、実り豊かな働きがなせるようにです。聖パウロが確約するように、この希望は「私たちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章5節)。主イエスが、いつも私たちと共におられ、あがないの業に私たちを加える、と言われた約束だからです。

 イエスは贖いを、一人ひとりの心、被造物の「心」において、成し遂げたいと願っておられます。この希望の原動力は、キリストの復活にあります。キリストの復活は、「世界を貫いた命の力を帯びています。すべてが死んだかのように思われるところにはどこにでも、復活は再び芽生えるのです。この力を止めることはできません。しばしば、神はいないかのように思われることが確かにあります。不正も悪意も無関心も、残酷な行為も減ることはなく、私たちはそれを目にしています。

 しかし、闇のただ中にあっても、新しい何かが必ず芽生え始め、ついには実りをもたらすこともまた確かなことです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』276項)。使徒パウロも、「私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマの信徒への手紙8章24節)と断言しています。復活において果たされた贖いが希望をもたらします。それは、現在の試練に立ち向かうための、確固たる、信頼すべき希望です。

 ですから希望の巡礼者であり平和の建設者であるということは、キリストの復活という岩の上に自己を確立することであり、応えて生き続ける召命を通して行うすべての取り組みが水泡に帰すことはない、と心得ることです。失敗や挫折があっても、私たちが蒔いた善は静かに成長し、何ものも、私たちに究極の目的地を見失わせはしません。そこは、キリストとの出会いがあり、皆が友愛のうちに永遠に生きる喜びがある場です。

 この究極の招きを、私たちは日々待っていなければなりません。神との愛ある関係、また兄弟姉妹との愛に満ちた関係によって、神の夢、すなわち一致、平和、友愛の夢が実現し始めるからです。自分はこの呼びかけの対象外だと感じる人が誰もいないように。私たちは一人ひとり、それぞれのささやかなやり方で、置かれた場にあって、聖霊の助けを受けて、希望と平和の種を蒔く人となることができるのです。

 

賭けてみる勇気を

 ワールドユースデー・リスボン大会で申し上げたことを、もう一度、今度は皆さんに向けて申し上げます―「起き上がりなさい」。眠りから覚めましょう、無関心から抜け出しましょう、閉じこもりがちな牢獄の鉄格子を開けましょう。そうすることで私たち一人ひとりが、教会で、世界の中で、自分の召命を発見し、希望の巡礼者、平和の建設者となれますように。熱意をもって生きましょう。周囲の人々と、私たちが暮らす環境とを、愛をもってケアするよう力を尽くしましょう。繰り返します。賭けてみる勇気を持ちなさい。

 慈しみの不屈の使徒、オレステ・ベンツィ神父は、「底辺にいる人、誰にも守ってもらえない人の味方で、貧しい人からも与えられるものがあり、裕福な人にも受け取るべきものがある」と、いつも語っておられました。ですから起き上がって、希望の巡礼者として旅立ちましょう。そうして聖エリサベトに対するマリアのように、私たちも喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人となりましょう。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2024年4月21日、復活節第4主日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳、「カトリック・あい」編集)

2024年4月20日

☩「あなた方は未来の『傍観者』ではない、『主役』だ」-イタリアの「平和の学校」の生徒たちに

 

 教皇フランシスコは19日、バチカンのパウロ6世ホールで、イタリアの「平和の学校」ネットワークに参加する6千人の生徒たちとお会いになった。「未来を変えよう」をテーマにしたこの集いは、5月25、26両日に行われる世界のカトリック教会で行われる初の「世界子どもの日」の準備の一環として企画され、「平和の学校」ネットワークに関わる学校の教師や、大学関係者、社会・平和問題の専門家も出席した。

 教皇はあいさつで、「不正義や暴力が人間の尊厳を歪めている今日、無気力の誘惑に負けずに、『未来を作る工事現場』で情熱をもって取り組む人々」に感謝を表明。「今日こそ、責任を持ち、前を向いて、未来の実りのために毎日平和の種を蒔き続けることが必要です」と強調された。

 そして、9月にニューヨークで開かれる「国連未来サミット」に言及され、採択が予定されている「未来のための協定」「未来の世代についての宣言」を「単に紙に書かれたものとせず、具体的に実現させるためにも、皆の貢献が求められています」と語られた。

 そのうえで教皇は、集いに参加した生徒たちに「あなた方は、未来の『傍観者』ではない。『主役』として呼ばれています」とされ、「国連未来サミット」は、「私たち皆が、より良い未来の構築に招かれているだけでなく、特にそれを皆で構築する必要を思い起させるもの」と指摘。「平和とは、武器の轟音がしないこと、戦争がないことだけでなく、寛大と信頼と愛に満ちた環境も意味します。それは、思いやりある関係に基礎を置く社会においてこそ可能になるのです」と説かれた。

 そして、「人々の必要に耳を傾け、傷を癒し、慈しみと癒しの道具となること、それは人類に、特に最も立場の弱い人々に、示されたイエスのいたわり。互いにいたわり合うところから、平和と対話に基づいた受容性ある社会が生まれるのです」と強調された。

 最後に、「戦争が影を落とす今日、私たちが共に暮らす地球が兄弟愛あふれる場所となるように、平和の作り手、受容性ある社会の主役、未来の構築者となってださい」と生徒たちに求められた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年4月20日

☩「神の愛と交わりを体現し、分裂に傷つく世界に証しを」-キリスト教諸団体の国際集会にメッセージ

ガーナの首都アクラで開催されたグローバル・クリスチャン・フォーラム国際集会ガーナの首都アクラで開催されたグローバル・クリスチャン・フォーラム国際集会 

 教皇フランシスコは18日、ガーナの首都アクラで開かれたグローバル・クリスチャン・フォーラムの国際集会にメッセージをおくられた。

 グローバル・クリスチャン・フォーラムは、エキュメニカル対話の世界的な運動の一つで、カトリック教会、正教会、プロテスタントの諸教会、独立系教会、キリスト教の諸団体等が参加し、共通の問題を追求し、それに取り組むための、相互尊重の推進を目的としている。1998年にスイスの・シャトー・ド・ボッセで準備的会合を行なって以来、地域別の集いのほか、2007年にリムル(ケニア)、2011年にマナド(インドネシア)、2018年にボゴタ(コロンビア)で国際集会を開いてきた。

 第4回目にあたる今集会は、「世が知るように」(ヨハネ福音書17章23b節)をテーマに、ガーナの首都アクラで16日から19日まで開催されている。

 教皇から集会参加者に宛てたメッセージは、教皇庁キリスト教一致推進省次官、フラビオ・パーチェ大司教によって会場で読み上げられた。

 この中で教皇は、「世が知るように」という今集会のテーマは、「三位一体の神の愛と交わりを個人と教会の生活の中で体現し、分裂と敵対に傷ついた世界に証しをもたらすようにとキリスト者たちを招いています」と述べられ、「一致は神の王国のビジョンを抱くために不可欠な要素と教皇は強調し、そこにエキュメニズムとキリスト教的使命の密接な関係があります」と指摘された。

 そして、誕生以来25年を迎えた同フォーラムが、「共に祈りながら、各自の信仰をより深く生き、兄弟愛をより息づかせることができるように」、また「自分たちのストーリーを語り合うことで、世界のキリスト教共同体が直面する課題に立ち向かう力を得ることができるように」と願われ、この集いがすべてのキリスト者の間に目に見える一致を育てることを祈りつつ、参加者らに祝福をおくられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月19日

☩「パレスチナ、イスラエル、そしてウクライナ。戦争捕虜の速やかな解放を」教皇、一般謁見で訴え

Rally in Kyiv calls for return of Ukrainian prisoners of warRally in Kyiv calls for return of Ukrainian prisoners of war  (ANSA)

    教皇フランシスコは17日の水曜恒例一般謁見の最後に、世界中の戦争捕虜に言及。彼らの多くが受けている拷問を強く非難するとともに、速やかな解放を訴えられた。

 「私たちの思い、この瞬間、私たち全員の思いは、戦争中の人々に向けられています」とされた教皇は、「私たちは聖地、パレスチナ、イスラエルのことを考えます。 私たちはウクライナ、苦しむウクライナのことを考えます。 私たちは捕虜のことを考えています…」と語られた。

 そして、「主が御心を動かされ、彼ら全員が解放されますように」と祈られた。

 また、捕虜たちの多くが受けている拷問に思いを向けられ、「拷問は恐ろしい行為。人間のすることではない」と強調。拷問で苦しむ人々を神が祝福してくださるよう願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月18日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑯ 「節制」は、すべてが「過剰」に向かう現代社会に必要な”バランス感覚”

教皇フランシスコ 2024年4月17日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇フランシスコ 2024年4月17日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見で連続講話「悪徳と美徳」を続けられ、今回は「節制」の徳をテーマに取り上げられた。

 講話の要旨は次の通り。

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 今回は、基本的な徳目のうち4つ目の徳である「節制」について考えましょう。「節制」は、これまで取り上げた「賢明」「正義」「勇気」とともに、キリスト教以外の文化とも、大変古い歴史を共有しています。

 古代ギリシャ人にとって、徳の実践は、「幸福」という目標を持っていました。哲学者のアリストテレスは、息子のニコマコスに生きる技術を教えるために、倫理学の本を著しました。「なぜ皆は幸福を求めるのに、わずかな人しか、それにたどり着けないのか」-この問いに答えるために、アリストレスは徳のテーマと向き合い、特に「enkráteia(節制)」について、この著作のスペースを割いています。「enkráteia」はギリシャ語で「自分自身に対する権力」を意味します。つまり「自己統治力」。反動的な情熱に巻き込まれない、マンゾーニ(アレッサンドロ・マンゾーニ、19世紀のイタリアの詩人、作家)言うところの「人間の心の混乱に秩序を与える技術」です。

 『カトリック教会のカテキズム』は、「節制」の徳について次のように述べています。

 「節制とは、快楽の誘惑を抑え、この世の善を程よく用いさせる倫理徳です。本能に対する意志の支配力を保証し、欲求の中庸を保たせます。節制を保つ人は自分の感覚的欲求を善に向かわせ、健全な控え目を守り、欲望のままに生きることがありません」(1809項)。

 「節制」はイタリア語でtemperanza-「節度の徳」です。どのような状況に置かれても、「節制」は人を、賢明さをもって行動させます。それは、人は常に衝動や活気に動かされ、結果的に信頼できない存在だからです。

 多くの人が気まま勝手に話す世界にあって、節度のある人は、自分が話すことについて考えるのを好みます。出まかせの約束をせず、約束を守れるように努力します。快楽に対しても判断をもって行動します。衝動のなすままに、快楽の放縦を完全に認めることは、人を倦怠状態に陥らせ、最後には自分自身に害を与えることになります。いったい、どれだけの人が貪欲に望むままを求め、あらゆることに対する興味を失ってしまったことでしょう。そうなるより、節度を求めた方がいい。良いぶどう酒を味わうには、一気に飲むより、一口ずつ賞味したほうがいいのです。

 節度のある人は、言葉の重みや程度を測ることができます。「節制」は、一瞬の怒りが人間関係や友情を壊してしまうことを防ぎます。一度壊れた関係を修復するには努力が必要です。抑制があまり利かい家庭生活のような場所では、皆が緊張や、苛立ち、立腹などを抑えられない危険があります。人には話すべき時と、沈黙すべき時がありますが、いずれにも節度が求められるのです。

 節度のある人が、自分の怒りやすさを制御できたとしても、いつも平和的に微笑む顔をしていられるわけではありません。節度を保ちながらも、時々憤慨することも必要です。叱責のひとことが、辛辣で恨みがましい沈黙よりも、有益なことがあります。

 「節制」は、他者の過ちを正すことが難しいと承知しつつ、そうすることが必要なことも理解しています。そうしないと、悪に自由な場を与えてしまうからです。時と場合によって、「節制」は両極を一緒に保つ―絶対的な原則や譲りがたい価値を強調しながら、他者を理解し、共感を示す―ことができるのです。

 「節制」の恵みとは、すなわち貴重で得難い「バランス感覚」です。すべてが過剰に向かっている現代社会で、「節制」は、小ささ、思慮深さ、人から隠れた生き方、柔和さといった、福音的振る舞いとよく合います。節度ある人は、他者の評価を尊重しても、行動や発言の唯一の基準とはしません。感受性が高く、泣くことができても、悲劇の主人公を装うことはしません。負けた時は立ち上がり、勝った時は、元の隠れた生活に戻って行くことができます。喝采を求めず、「自分は他者のおかげで生きている」と自覚しています。

 「節制」が、人を「精彩を欠いた喜びのない人」にする、と言うのは正しくありません。それは、皆で食卓に着くこと、友情の優しさ、賢明な人との信頼関係、被造物の美しさに対する驚異など、人生の善をより良く味わうのを助けます。「節度ある幸福」とは、人生で最も大切なことを認め、それに価値を与えることのできる人の心に花開く喜びです。

 主が私たちに成熟の恵み―年齢による成熟、愛情の成熟、社会的成熟、そして節制の恵みをくださるよう祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月18日

☩「中東における対話と和平にすべての努力を傾けるように」教皇が呼びかけ

Objects are seen in the sky above Jerusalem after Iran launched drones and missiles towards Israel, in JerusalemObjects are seen in the sky above Jerusalem after Iran launched drones and missiles towards Israel, in Jerusalem 

    教皇フランシスコは14日正午のRegina Coeliの祈りの後、中東で戦争拡大の恐れが強まっていることに対して、ただちに「暴力のスパイラル」を止め、関係する全ての国が和平の向けた対話の努力に全力を傾けるよう求めるとともに、ガザで苦しむ人々を支援するよう心から訴えられた。

教皇は、ここ数時間に届いたイラン介入後のイスラエル情勢悪化に関するニュースを「祈りと懸念、さらには悲しみ」をもって見守っている、と語られ、「どの国も他国の存在を脅かすべきではなく、すべての国が平和の側に立ち、イスラエル人とパレスチナ人が二つの国家で安全に並んで暮らせるよう支援すべきです」と強調された。 さらに、「隣り合う二つの国となることは、彼らの深く正当な願望であり、彼らの権利です!」とも付け加えられた。

そして、ガザでの停戦と交渉の道を「決意を持って」進めるよう改めて訴え、「人道的大惨事に陥った」ガザ地区の住民の苦しみを思い、「苦しみを軽減するためのあらゆる努力」を関係国の指導者たちに呼び掛けられ、「数か月前に誘拐された人質たちが解放されるように!」と祈られた。さらに、「このように苦しみを味わわされ続けているとは! 平和を祈りましょう。 これ以上の戦争、これ以上の攻撃、これ以上の暴力を続けてはなりません。 対話にYes、そして平和にYesです!」と訴えられた。

教皇はまた、世界中の戦争で苦しんでいる子供たち、特にウクライナ、パレスチナ、イスラエル、ミャンマーの子供たちへの祈りを新たにされ、「こうした子供たちのために、そして私たちの世界の平和のために祈ってください」と、世界の全ての人に呼び掛けられた。

戦争によって子どもたちが負う重荷について語る中で、カトリック教会が5月25日から26日にかけて、初めての「世界子供の日」を迎えることを思い起こされ、聖ペトロ広場に集まった会衆の中にいる子供たちと世界中で見守っている人々に対して、この日の準備に努めていることに感謝し、このイベントに向けて旅をする子供たちに祈りをもって寄り添うことを約束され、「私は皆さんを待っています。より良い世界、平和な世界への喜びと願いを分かち合うように」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2024年4月14日

☩「主との出会いの経験を分かち合うことは何と素晴らしいことか」復活節第3主日のRegina Coeliの祈りで

(2024.4.14 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは14日、復活節第3主日正午のRegina Coeliの祈りに先立つ説教で、信者たちに、主との個人的な出会いを思い起こし、「私たちが信仰を分かち合い、伝えることが、どれほど素晴らしいことであるか」を考えるよう勧められた。

 「主に出会うことは、何と素晴らしいことでしょう。主と出会ったら、私たちはその喜びを他の人に伝えなければなりません…」。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたルカ福音書の箇所(24章35-48節)を取り上げた。この箇所は、弟子たちがエルサレムで上の部屋に集まっている時、二人がエマオから戻ってきてイエスとの出会いを語るところから始まる。

 教皇は、この瞬間が彼らの人生をどのように変えたか、そして同様に、イエスとの出会いがすべての信者のすべてをどのように変えたか、について思いを巡らせられた。そして、主との出会いがどれほど人生を変え、「それは私たちが他の人々に語らねばならない最も素晴らしいこと」であるにもかかわらず、「私たちは、それについて話すのに苦労することが多い」と指摘。

 そして、「私たち一人一人が、このことについて多くのことを語ることができます。他の人に講義をするのではなく、『主が生きておられ、近くにいて、私たちの心に喜びを燃え上がらせ、心の疲れを癒してくださった』という得難い瞬間を分かち合うことによってです」とされ、「 自信と慰め、強さと熱意、あるいは赦し、優しさ、平和を伝えた涙。これを家族、地域社会、友人らと共有すること」が、いかに重要であるかを強調された。

 さらに教皇は、「私たちが神の御前に身を置いたときに生まれた考えや感情、また信仰の道を理解し、進むための努力や労苦について、自分の足跡をたどることは、とても有益です… もし私たちがそうすれば、イエスは、過ぎ越しの夜に弟子たちにされたのと同じように、私たちを驚かせ、私たちの出会いや環境をさらに素晴らしいものにしてくださるでしょう」と説かれた。

 教皇はまた、「誰もが、主との出会いを経験している」とされ、すべての人にそれを思い起すように求められ、「あなたが主を見つけたのは、いつですか? 主はいつ、あなたに近づいたのですか?少し沈黙して、考えてみましょう」と促された。

 そして、「私たちは、主とのこの出会いを経験したとき、それを他の人と分かち合い、この信じられないような経験を主の栄光を帰したでしょうか… 他の人がキリストとの出会いについて語るとき、それに耳を傾けるでしょうか」と信者たちに問いかけられた。

 最後に教皇は、「私たちの地域社会が、主とのこれまで以上に素晴らしい出会いの場となるように、私たちが信仰を分かち合うことができるように」と聖母マリアの助けを願われ、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月14日

☩「中東での戦争拡大を許してはならない」教皇、ラマダン明けのイスラム教徒、政治指導者にメッセージ

An Israeli bombardment in Gaza CityAn Israeli bombardment in Gaza City  (AFP or licensors)

(2024.4.12 Vatican News   Linda Bordoni)

 イスラム教の断食月「ラマダン」が明けたのを受けて、教皇フランシスコが12日、国際アラビア語ニューステレビ「アル・アラビーヤ」に託した世界のイスラム教徒たちへのメッセージを発表。パレスチナ、イスラエルからイランなど中東全域への紛争拡大が強く懸念される中で、そうした事態をもたらすことのないよう、関係国指導者たちに強く訴えられた。

 メッセージで教皇は、イスラム教徒の兄弟姉妹たちに挨拶された後、イスラエルとパレスチナで進行中の戦争と、シリア、レバノン、そして地域全体で起きている暴力を「中東の祝福された地で現在流されている血」と表現され、深い悲しみを表明。 「戦争は常に失敗でしかありません。どこへも続くような道ではない。すべての希望を押しつぶすもの」とのご自分の信念を繰り返し述べられた。

 そのうえで、パレスチナ、イスラエル、シリア、レバノンの平和への願いを共有する善意のすべての男女に「不気味な風に煽られて恨みの炎を起こさないように」と訴えるとともに、戦争に関わる国々の指導者たちに、直ちに戦闘を停止し、戦争の拡大の可能性を防ぐよう呼びかけられた。

 また教皇は、イスラム教の神聖な月であるラマダンが復活祭の直後に終わったことを挙げ、「どちらの行事も、信者たちが天に目を上げ、『慈悲深い全能の主』を崇拝します。それは、 地球を破壊する力を持つミサイルがもたらす惨状とは対照的なこと」と指摘。「神は平和であり、平和を望んでおられます。 主を信じる者は、戦争を認めることができません。戦争は解決にはならず、敵対関係を増大させるだけです」と強調。

 パレスチナとイスラエルの紛争に対する苦悩を表明された教皇は、人道的大惨事が展開しているガザ地区での即時停戦を繰り返し訴え、「ひどい苦しみの中にあるパレスチナの人々に援助が届きますように、そして昨年10月に捕らえられたイスラエル人の人質が解放されますように!」と願われた。

 さらに「戦争で荒廃したシリア、レバノン、そして中東全体」に思いをはせられ、「軍拡競争の恐ろしい風にあおられて、恨みの炎が広がるのを許さないように! 戦争の拡大を許さないようにしましょう! 悪の惰性を終わらせましょう!」と強く訴えられた。

 そしてこれらの地域の家族、若者、労働者、高齢者、子供たちのことを思い、「彼らの心の中には、平和を求める大きな願いがある。暴力が蔓延する中、彼らの目からは涙が流れ、口からは『もうたくさんだ』という言葉が発せられています」とされ、「私はこの言葉を、国家を統治する重大な責任を負う人々に向けて言います。『もうたくさんだ!戦闘を止めて!』。あなたがたの子供たちと同じように、すべての子供たちのことを考えてください。差別や区別をしない子供の目で未来に目を向けてほしい。彼らに必要なのは、墓や集団墓地ではない。家、公園、学校なのです」と指導者たちに求められた。

 メッセージの終わりに教皇は、「砂漠が花を咲かせるのと同じように、人々の心や国々の生活も、花を咲かせることができる」という確信で手紙を締めくくられた。「私たちがお互いに寄り添って共に成長する方法を学んだ場合にだけ、私たちが他人の信念を尊重することを学んだ場合にだけ、すべての人々の生存と独自の国家を持つ権利を認める場合にだけ、 私たちが誰も悪者扱いせずに平和に暮らす方法を学んだ場合にだけ、希望の芽が出るのです」。

 そして、「少なからぬ困難の中にある」中東に住むキリスト教徒に向けて、「いつ、どこにいても、平和と友愛を語り、信仰を自由に告白する権利と能力を享受することができるように」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2024年4月13日

☩「『ありがとう』と言うのを毎日の生活で忘れないように!」ローマ市内の子供たちとの「祈りの学校」で

教皇フランシスコと子どもたち 2024年4月12日 ローマ、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会教皇フランシスコと子どもたち 2024年4月12日 ローマ、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会  (Vatican Media)

(2024.4.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日夕、ローマ東部郊外の小教区を訪問、2025年の聖年を前に、初聖体を準備する子どもたち200名と「祈りの学校」と題する集いをもたれた。

 教皇が訪問されたのは、ボルゲジアーナ地区にある聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ教会。同地区に小教区が創立されたのは1963年、現在の教会は当初からの教会を1990年に改築した現代的な外観をもっている。教皇の訪問は、教会の要理講座を学ぶ子どもたちへのサプライズとして行われた。子どもたち、そして保護者や地域の住民たちは、教皇の訪問を驚きと喜びをもって迎えた。

 2025年の聖年を前にした今年の「祈りの年」にあたって、教皇は「祈りの学校」と題したこの集いで、およそ1時間にわたる自由な対話を通して「祈りの学校」の初めて「授業」を行われ、子どもたちに祈ることの大切さを教えられた。

 教皇は、まず、「ありがとう」「ごめんなさい」「…をしてもいいですか」という言葉を毎日の生活の中で忘れないようにと、子どもたちに願われ、特に「ありがとう」という言葉の重要さを強調。「いつも感謝すること、特に神に感謝することが大切です」と話された。

 また、「どんなに暗い時でも祈り、感謝するように。病気や、死、孤独、戦争などを前にしても、困難を耐える力をくださるように、神に祈らねばなりません」と説かれ、 「皆さんは祈っていますか。祈り方を知っていますか。神様に何を話しかけていますか」と問いかけられた。

 この問いかけに、ある児童が「毎日、食事の時に家族と祈っています」と答えると、教皇は「あなたは大切なことを言いました。でも、世界のたくさんの子どもたちには、食べる物もないことを知っていますか。食べる物があることを神様に感謝してください。家族があることを神様に感謝してください」と話された。

 最後に教皇は、「皆さんは信仰を持っていますか」と尋ねられ、「神様が信仰をくださったことにお礼を言いましょう」と子どもたちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年4月12日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑮世界の課題の”海”と真剣に向き合うのに必要な徳は『勇気』」

教皇フランシスコ 2024年4月10日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場

(2024.4.10  バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は、「勇気」の特について話された。

 連続講話の要旨次の通り。(バチカン放送訳、「カトリック・あい」編集)

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  今日のカテケーシスでは、基本的徳目の三つ目、「勇気(剛毅)」を取り上げたいと思います。『カトリック教会のカテキズム』は、勇気の徳を次のように定義しています。

 「勇気とは、困難にあっても断固として粘り強く善を追求させる倫理徳です。誘惑に抵抗したり、倫理生活の障害を克服したりする決心を固めさせてくれるものです。勇気の徳は、死の恐怖さえも克服し、試練と迫害とに耐えることができるようにしてくれます」(1808項)。

 このように、「勇気」は徳の中でも最も「闘う徳」です。基本的徳目のうち、「賢明」が「人間の理性」と結びつき、「正義」が「意志の中に宿る」とすれば、「勇気」は、古代の人が「激情」と呼んだものと関係づけられてきました。古代思想にとって、情熱のない人間など石のようなものであり、想像できないものでした。情熱は、必ずしも「罪の名残りだ」とは言えませんが、教育され、方向づけられ、洗礼の水、あるいは聖霊の火によって清められねばなりません。

 勇気のない、自分の力を善に従わせることのできない、誰にも迷惑をかけないキリスト者は、「無用なキリスト者」です。イエスは、人間の感情をご存じない、禁欲的な神ではありません。ご自分の友であったラザロの死を前に涙を流された方です。

 そして、イエスの言葉や振る舞いから、ご自身の情熱的な心が浮かび上がってきます。たとえば、こう言われます―「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ福音書12章49節)。また神殿から、厳しい言葉で商人を追い出された場面@(マタイ福音書21章12-13節)もそうです。

 それでは、人生に実りをもたらすのを助ける「勇気」の徳の実存的な説明を試みましょう。古代の人々、ギリシャの哲学者、あるいはキリスト教の神学者たちは、「勇気」の徳に、受動的、そして能動的な二つの動きを認めていた。

 「受動的」な勇気は、私たち自身の心に向けられています。不安や、苦悩、恐れ、罪の意識など、私たちには打ち負かすべき内的な敵がいます。これらは私たちの心を乱し、場合によって、私たちを動けなくさせる力です。どれほど多くの運動選手が挑戦を始める前にくじけてしまうことでしょう。勇気とは、何よりも自分自身に勝つことです。私たちの心に生まれる恐れの大部分は、非現実的なものと言えます。そうであるなら、聖霊に祈り、忍耐強い勇気をもって立ち向かいましょう。できることから一つずつ、一人ではなく、協力して問題に対処しましょう。主は私たちと共におられます。主に信頼するなら、私たちは誠実に善を追求することができます。すべての状況を、盾となり、鎧となってくださる神の摂理に委ねることができるようになるのです。

 「勇気」の徳のもう一つの動きは、より能動的な性格を持っています。内的な敵のほかに、人生の様々な試練、迫害、私たちを脅かす想定外の困難など、外的な敵があります。私たちは起こるかも知れないことを予測しようとしますが、現実の大部分は不確定な出来事から成っているのです。その”海”の中で、私たちという”船”は波に翻弄されます。それに対して、「勇気」は私たちを、驚いたり、気落ちすることのない、耐久力のある”船乗り”にしてくれます。

 「勇気」は、世界の課題の”海”と真剣に向き合うために、不可欠な徳です。このような多くの問題を無視し、「すべては順調で、歴史の中で死をもたらす闇の力が働くことなどない」と言う人もいますが、歴史の本を紐解けば、あるいは日々のニュースに接すれば、私たちが被害者、あるいは主役として多少は関わっている非道な出来事、たとえば、戦争、暴力、奴隷制、貧しい人への抑圧、血を流し続け、癒されない傷などを知ることができるでしょう。「勇気」の徳は、私たちをこれらすべてに対して反応させ、はっきり「ノー」と叫ばせます。

 私たちの周りの一見、快適な世界では、すべてが水で薄められ、同じに見え、闘う必要もないように思わせられます。しかし、そこに良い意味での「預言者」の必要を、私たちは再び感じているのです。居心地のいい、ふわふわするような場所から、私たちを引きずり出し、悪に対して、また私たちを無関心に導くすべてに対して、はっきりと「ノー」を繰り返すことのできる人、そのような人が求められているのです。

 福音書の中に、イエスの「勇気」を再発見しましょう。そして、聖人たちの証しから「勇気」を学びましょう。

2024年4月12日

☩「復活されたキリストのように、愛する喜びを経験しよう」7日正午Regina Coeliの祈りで

Pope Francis during Regina CaeliPope Francis during Regina Caeli  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月7日