♰「新たな命へ、あらゆる”石”を取り除こう」-日曜正午の祈りで

Pope during the Sunday AngelusPope during the Sunday Angelus  (ANSA)

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年3月29日

・教皇、新型ウイルスの危機終息と人々の救いを願う祈り、聖体奉献、特別の祝福を挙行

 なお、この祈りの式に、さまざまなメディアを通して、霊的な一致の下に参加し、祈りを捧げたすべての信徒は、バチカン内赦院が先に出した教令で示した条件を満たすことで、全免償が与えられる。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二・聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

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*教皇のお話の全文

(2020.3.27 バチカン放送)

「主よ、嵐の中に私たちを見捨てないでください」

 「その日の夕方になって」(マルコ福音書4章35節)。私たちが耳を傾けた福音は、このように始まります。この数週間は夕闇が降りてきたかのようです。深い闇が私たちの広場や道や町に満ちていきました。闇は私たちの生活を奪い、すべてを沈黙と虚無で覆いました。闇はそれが触れるすべてのものを麻痺させました。空気が、人々の態度や眼差しが、それを語っています。

 私たちは怖れ、怯えています。福音書のエピソードにある、突然の激しい突風に襲われた時のイエスの弟子たちのように。私たちは皆、同じ船に乗り合わせているということに気づきました。皆、弱く混乱し、しかし同時に、一人ひとりが大切でかけがえのない存在であり、皆が一つになるよう招かれ、互いの慰めを必要としています。この船の上に…私たちは皆一緒にいるのです。「私たちは溺れそうです」(同4章38節参照)と不安の中で声を合わせるあの弟子たちのように、私たちも、一人ひとりがもう勝手にふるまうことはできず、皆が一つになってこそ乗り越えられると気づいています。

 この福音のエピソードに自分たちを重ねることは簡単です。しかし、難しいのはイエスの態度を理解することです。弟子たちが嵐の中で、当然のことながら、怯え、絶望している時、イエスは今にも沈みそうな舟の舳先で、騒ぎにもかかわらず、御父に信頼して眠っておられました。イエスが眠っておられるのを福音書の中で見るのはこの時だけです。イエスは起き上がって、風と水を静めた後、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(4章40節)と弟子たちに向かって言われました。

 イエスが持つ信頼とは対照的な、弟子たちの信仰の欠如は何によるものでしょうか。弟子たちはイエスに対する信頼を捨てたわけではありません。それゆえ、彼らはイエスに訴えます。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と訴えるのです。「かまわないのですか」という言葉に見られるように、弟子たちはイエスが彼らに対し無関心で、彼らを放置していると思っています。

 私たちの家庭において、一番つらいことの一つは、「あなたにとって、私のことなど、どうでもいいのだ」という言葉を聞くことです。これは心を傷つけ、動揺させる言葉です。この言葉はイエスにとっても心を動かすものだったでしょう。なぜなら、イエスほど私たちを思ってくださる方はいないからです。実際、イエスはその言葉を聞き、落胆した弟子たちを救われました。

 嵐は、私たちの弱さをあばき出し、私たちが計画的、習慣的に築き上げた安心は、偽物で表面的なものであったことを明るみに出します。私たちは眠り込み、社会や共同体を支え、力を与えていたものを、放棄してしまったことを悟らせます。嵐は、皆の魂を育んでいたもの、私たちがしまい込み、忘れかけたものを発見させます。

 嵐によって、私たちのエゴを隠し、自分の外面だけを繕っていた、ステレオタイプの仮面ははずれました。そして、再び、兄弟としての所属、祝福された共通の所属を再発見しました。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、あなたの言葉は今夜、私たちの胸を打ち、私たちすべてに向けられています。この世界、私たちが愛する以上にあなたが愛しておられるこの世界を、私たちは強く万能だ、という自信に満ちて、全力で駆けていました。利益を追求し、物事に没頭し、多忙の中で何も考えられなくなっていました。

 私たちはあなたの呼びかけに止まることも、戦争や世界的な不正義に目を覚ますことも、貧しい人の叫びや深く病んだ地球の声に耳を傾けることもありませんでした。病んだ世界の中で自分たちは常に病まずにいられると、無関心のまま突き進んでいきました。そして今、私たちは荒れた海にいて、あなたに哀願しています「主よ、目を覚ましてください」と。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主は私たちに呼びかけます。それは信仰への呼びかけです。それは主をただ信じるだけでなく、主のもとに行き、主により頼めとの招きです。この四旬節、主の差し迫った呼びかけが響きます。「悔い改めよ」「今こそ、心から私に立ち帰れ」(ヨエル書2章12節)。

 主はこの試練の時を「選びの時」とするよう呼びかけます。それは、主の裁きの時ではなく、私たちの裁きの時です。何が重要で、何が過ぎ去るものか、必要なものとそうでないものを区別する時です。人生の指針を、主と、他の人々に向けて定めなおす時です。

 私たちはこの旅において、怖れに対し、自らの命を捧げるという行為をもって反応した、多くの模範的な仲間たちを目にしました。その勇気があり、惜しみない献身は、人々の中で働く聖霊の力の注ぎによって形作られたものです。

 聖霊の命は、私たちの生活が普通の人々、普段は目立たない人々によって織りなされ、支えられていることを見せてくれます。こうした人たちは、新聞や雑誌のタイトルを飾ったり、目立つ舞台に立つことはなくとも、私たちの歴史上の重大な出来事を今刻んでいる人たちです。それは医師や、看護師、スーパーマーケットの職員、清掃員、介護職の人々、交通関係者、公安関係者、ボランティア、司祭、修道者、そして、自分の力だけでは救われないことを知っている他の多くの人々のことです。

 この苦しみを前に、私たちは「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)という、イエスの祭司的祈りを見出し、体験します。

 毎日どれだけ多くの人たちが、パニックを広めることなく、共同責任を自覚し、忍耐を示しながら、希望を皆に伝えっていることでしょう。どれだけ多くの両親や、祖父母、教師たちが、子どもたちに日常の小さな行為を通して、習慣を変え、眼差しを上げ、祈るよう招きながら、この危機に対応し、過ごす方法を教えていることでしょう。どれだけ多くの人々が、皆のために犠牲を捧げ、取りなしを祈っていることでしょう。祈りと沈黙の奉仕、それは私たちを勝利に導く武器です。

 「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。信仰の一歩は、自分が救いを必要とする者であると知ることです。私たちは自分だけでは何もできません、一人では沈んでしまいます。星を見つめたいにしえの航海者のように、私たちは主を必要としています。イエスを私たちの命の船の中に招きましょう。私たちの怖れをイエスに託しましょう。イエスがそれを打ち負かしてくださるようにと。弟子たちのように、船の上のイエスと共に私たちは遭難することはないでしょう。なぜなら、これは神の力、起きるすべてのこと、たとえ良くない出来事をも善へと変える、神の力だからです。イエスは私たちの嵐を鎮めてくださいます。神と共にいるならば、命は死ぬことがないからです。

 主は、この嵐のさなか、私たちに話しかけます。目覚め、連帯の精神と希望を持ち、連帯と支援を与え、すべてが挫折に見えるこの時に意味を見出すようにと呼びかけます。主は私たちの信仰を目覚めさせ、生かすために、復活されます。

 私たちには、錨(いかり)があります。十字架において私たちは救われました。私たちには舵(かじ)があります。十字架において私たちは贖われました。私たちには希望があります。十字架において私たちは贖われました。私たちには希望があります。十字架において私たちは再び癒され、抱擁されました。何ものも、誰も、私たちを贖い主の愛から引き離すことはできません。

 愛情や出会いの欠如に苦しみ、多くの物の不足を経験しつつある、この隔離された生活の中で、私たちは再び救いのメッセージを聞きます。主は復活され、私たちの近くにおられます。主は十字架上から私たちに呼びかけます。未来に待つ生活を見出し、私たちを必要とする人々に向き直り、私たちが持つ恵みを知り、強め、活かすようにと招きます。「暗くなっていく灯心を消すことなく」(イザヤ書42章3節参照)、希望の灯を再び灯しましょう。

 イエスの十字架を抱きしめることは、今の災難を抱きしめる勇気を得ることです。全能であろうとする喘ぎ、所有への焦りを捨て、聖霊だけが促すことのできる創造性に開くことです。それは、すべての人が新しい形の受け入れと兄弟愛と連帯に招かれていると感じられる社会を築く勇気を見出すことを意味します。

 イエスの十字架において私たちは救われました。それは希望を受け入れ、その希望によって私たちを守るための可能な限りの手段を強め支えるためでした。希望を抱きしめるために、主を抱きしめること。これが、怖れから解放し、希望を与える信仰の力です。

 「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、聖ペトロの揺らぐことのない信仰を告げるこの場所から、今夕、私は神の民の救いであり、嵐の海の星である聖母マリアの執り成しを通して、あなた方すべてを、主に委ねたいと思います。ローマと全世界を包む、この(聖ペトロ大聖堂の)列柱から、神の祝福が、慰めの抱擁として、あなた方に降りてきますように。

 主よ、世界を祝福し、私たちの体に健康を与え、私たちの心に安らぎをくださいますように。あなたは私たちに、恐れるな、とおっしゃいました。それでも、私たちの信仰は弱く、私たちは、恐れおののいています。しかし、主よ、あなたは、私たちを嵐のなすがままにしてはおかれません。もう一度、おっしゃってください-『恐れることはない』(マタイ福音書28章5節)と。そして、私たちは聖ペトロと共に『一切の思い煩いをお任せします… 神が‥心に欠けていてくださるからです』(ペトロの手紙1・5章7節)」。

(編集「かとりっく・あい」)

*バチカン広報局発表の公式英語訳全文

Pope at Urbi et orbi: Full text of his meditation

 Pope Francis meditated on the calming of the storm from the Gospel of Mark during the prayer service over which he presided on the steps of St Peter’s Basilica on Friday evening. Here is the full text.

 “When evening had come” (Mk 4:35). The Gospel passage we have just heard begins like this. For weeks now it has been evening. Thick darkness has gathered over our squares, our streets and our cities; it has taken over our lives, filling everything with a deafening silence and a distressing void, that stops everything as it passes by; we feel it in the air, we notice in people’s gestures, their glances give them away. We find ourselves afraid and lost. Like the disciples in the Gospel we were caught off guard by an unexpected, turbulent storm. We have realized that we are on the same boat, all of us fragile and disoriented, but at the same time important and needed, all of us called to row together, each of us in need of comforting the other. On this boat… are all of us. Just like those disciples, who spoke anxiously with one voice, saying “We are perishing” (v. 38), so we too have realized that we cannot go on thinking of ourselves, but only together can we do this.

It is easy to recognize ourselves in this story. What is harder to understand is Jesus’ attitude. While his disciples are quite naturally alarmed and desperate, he stands in the stern, in the part of the boat that sinks first. And what does he do? In spite of the tempest, he sleeps on soundly, trusting in the Father; this is the only time in the Gospels we see Jesus sleeping. When he wakes up, after calming the wind and the waters, he turns to the disciples in a reproaching voice: “Why are you afraid? Have you no faith?” (v. 40).

Let us try to understand. In what does the lack of the disciples’ faith consist, as contrasted with Jesus’ trust? They had not stopped believing in him; in fact, they called on him. But we see how they call on him: “Teacher, do you not care if we perish?” (v. 38). Do you not care: they think that Jesus is not interested in them, does not care about them. One of the things that hurts us and our families most when we hear it said is: “Do you not care about me?” It is a phrase that wounds and unleashes storms in our hearts. It would have shaken Jesus too. Because he, more than anyone, cares about us. Indeed, once they have called on him, he saves his disciples from their discouragement.

The storm exposes our vulnerability and uncovers those false and superfluous certainties around which we have constructed our daily schedules, our projects, our habits and priorities. It shows us how we have allowed to become dull and feeble the very things that nourish, sustain and strengthen our lives and our communities. The tempest lays bare all our prepackaged ideas and forgetfulness of what nourishes our people’s souls; all those attempts that anesthetize us with ways of thinking and acting that supposedly “save” us, but instead prove incapable of putting us in touch with our roots and keeping alive the memory of those who have gone before us. We deprive ourselves of the antibodies we need to confront adversity.

In this storm, the façade of those stereotypes with which we camouflaged our egos, always worrying about our image, has fallen away, uncovering once more that (blessed) common belonging, of which we cannot be deprived: our belonging as brothers and sisters.

 “Why are you afraid? Have you no faith?” Lord, your word this evening strikes us and regards us, all of us. In this world, that you love more than we do, we have gone ahead at breakneck speed, feeling powerful and able to do anything. Greedy for profit, we let ourselves get caught up in things, and lured away by haste. We did not stop at your reproach to us, we were not shaken awake by wars or injustice across the world, nor did we listen to the cry of the poor or of our ailing planet. We carried on regardless, thinking we would stay healthy in a world that was sick. Now that we are in a stormy sea, we implore you: “Wake up, Lord!”.

 “Why are you afraid? Have you no faith?” Lord, you are calling to us, calling us to faith. Which is not so much believing that you exist, but coming to you and trusting in you. This Lent your call reverberates urgently: “Be converted!”, “Return to me with all your heart” (Joel 2:12). You are calling on us to seize this time of trial as a time of choosing. It is not the time of your judgement, but of our judgement: a time to choose what matters and what passes away, a time to separate what is necessary from what is not. It is a time to get our lives back on track with regard to you, Lord, and to others.

We can look to so many exemplary companions for the journey, who, even though fearful, have reacted by giving their lives. This is the force of the Spirit poured out and fashioned in courageous and generous self-denial. It is the life in the Spirit that can redeem, value and demonstrate how our lives are woven together and sustained by ordinary people – often forgotten people – who do not appear in newspaper and magazine headlines nor on the grand catwalks of the latest show, but who without any doubt are in these very days writing the decisive events of our time: doctors, nurses, supermarket employees, cleaners, caregivers, providers of transport, law and order forces, volunteers, priests, religious men and women and so very many others who have understood that no one reaches salvation by themselves.

In the face of so much suffering, where the authentic development of our peoples is assessed, we experience the priestly prayer of Jesus: “That they may all be one” (Jn 17:21). How many people every day are exercising patience and offering hope, taking care to sow not panic but a shared responsibility. How many fathers, mothers, grandparents and teachers are showing our children, in small everyday gestures, how to face up to and navigate a crisis by adjusting their routines, lifting their gaze and fostering prayer. How many are praying, offering and interceding for the good of all. Prayer and quiet service: these are our victorious weapons.

 “Why are you afraid? Have you no faith”? Faith begins when we realise we are in need of salvation. We are not self-sufficient; by ourselves we flounder: we need the Lord, like ancient navigators needed the stars. Let us invite Jesus into the boats of our lives. Let us hand over our fears to him so that he can conquer them. Like the disciples, we will experience that with him on board there will be no shipwreck. Because this is God’s strength: turning to the good everything that happens to us, even the bad things. He brings serenity into our storms, because with God life never dies.

The Lord asks us and, in the midst of our tempest, invites us to reawaken and put into practice that solidarity and hope capable of giving strength, support and meaning to these hours when everything seems to be floundering. The Lord awakens so as to reawaken and revive our Easter faith. We have an anchor: by his cross we have been saved. We have a rudder: by his cross we have been redeemed. We have a hope: by his cross we have been healed and embraced so that nothing and no one can separate us from his redeeming love. In the midst of isolation when we are suffering from a lack of tenderness and chances to meet up, and we experience the loss of so many things, let us once again listen to the proclamation that saves us: he is risen and is living by our side. The Lord asks us from his cross to rediscover the life that awaits us, to look towards those who look to us, to strengthen, recognize and foster the grace that lives within us. Let us not quench the wavering flame (cf. Is 42:3) that never falters, and let us allow hope to be rekindled.

Embracing his cross means finding the courage to embrace all the hardships of the present time, abandoning for a moment our eagerness for power and possessions in order to make room for the creativity that only the Spirit is capable of inspiring. It means finding the courage to create spaces where everyone can recognize that they are called, and to allow new forms of hospitality, fraternity and solidarity. By his cross we have been saved in order to embrace hope and let it strengthen and sustain all measures and all possible avenues for helping us protect ourselves and others. Embracing the Lord in order to embrace hope: that is the strength of faith, which frees us from fear and gives us hope.

 “Why are you afraid? Have you no faith”? Dear brothers and sisters, from this place that tells of Peter’s rock-solid faith, I would like this evening to entrust all of you to the Lord, through the intercession of Mary, Health of the People and Star of the stormy Sea. From this colonnade that embraces Rome and the whole world, may God’s blessing come down upon you as a consoling embrace. Lord, may you bless the world, give health to our bodies and comfort our hearts. You ask us not to be afraid. Yet our faith is weak and we are fearful. But you, Lord, will not leave us at the mercy of the storm. Tell us again: “Do not be afraid” (Mt 28:5). And we, together with Peter, “cast all our anxieties onto you, for you care about us” (cf. 1 Pet 5:7).

2020年3月28日

♰「聖ヨハネ・パウロ二世の 『いのちの福音』を証ししよう」-一般謁見で

(2020.3.25 バチカン放送)

教皇フランシスコ、2020年3月25日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年3月25日の一般謁見  (ANSA)

 教皇フランシスコは25日の水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形でなさり、カテケーシス(教会の教えの解説)で、発布25周年を迎えた聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」をテーマに、次のように講話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。25年前、今日と同じように、教会が「神のお告げ」を祝う3月25日、聖ヨハネ・パウロ2世は、人間のいのちの侵すことのできない価値を説く、回勅「いのちの福音」を発布されました。

 「神のお告げ」と「いのちの福音」との関係は、聖ヨハネ・パウロ2世が強調したように、堅固で深いものです。今日、新型コロナウイルスの世界的感染が人命と世界経済を脅かしている現状を背景に、この教えを再び掲げたいと思います。

 回勅はこのような言葉で始まります。「いのちの福音は、イエスのメッセージの中心です。それは、毎日、教会によって愛をもって受け入れられ、あらゆる時代と文化の人々に善き知らせとして勇気ある忠実をもって告げられるべきものです」 (n. 1)。

 すべての福音の告知と同じように、このメッセージも、何よりもまず証しされなくてはなりません。私はここで、病者や、お年寄り、孤独な人、助けを必要とする人に、様々な形で奉仕しておられる多くの方々の静かな証しを、感謝と共に思い起こします。これらの方々は、天使のお告げを受け、「助けを必要としている従妹エリザベトのもとにすぐに出かけたマリア」のように、いのちの福音を実践しておられる人々です。

 実際、私たちが守り、支えるように召されている「いのち」は、抽象概念ではなく、生身の人間を通して表わされるものです。受胎したばかりの胎児、疎外された人、孤独と失望の中あるいは終末期にある病者、仕事を見つけられない失業者、拒否され隔離された移民など、「いのち」は具体的な人々の中にあります。

 すべての人間は、いのちの充満を享受するよう神から召されています。いのちの大切さは、教会の母なる配慮にゆだねられているために、教会は、いのちに対するあらゆる脅威を前に、手をこまねいていることはできません。

 教会にとって、いのちを守ることは、イデオロギーではなく、すべてのキリスト者に関わる「人間としての現実」です。

 人間の尊厳といのちへの攻撃は、残念ながら、この普遍的人権の時代においても続いています。それどころか、むしろ、私たちは新しい脅威、新しい隷属制度を前にし、最も弱く傷つきやすい人間のいのちの法的保護が常にあるわけではなりません。

 回勅「いのちの福音」のメッセージは、今日これまでになく私たちに訴えるものです。私たちが直面している現在のような危機においてはもとより、連帯、ケア、受容などの態度を未来の世代に伝えるように、文化・教育面で取り組まねばなりません。

 そして、いのちの文化とは、キリスト教だけに特有の遺産ではなく、兄弟愛の構築のために働き、弱く苦しんでいる人々をはじめ、一人ひとりの人間が持つ価値を認めている、すべての人々のものであることを忘れてはなりません。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、すべてのいのちは、唯一、かけがえのないものです。それははかり知れない価値を持つものです。このメッセージは、常に、あらたに、勇気ある言葉と行動をもって伝えられるべきです。これは大きな人類家族とその一人ひとりのメンバーを連帯と兄弟愛に導くものです。

 このような理由から、聖ヨハネ・パウロ2世は、この回勅を記しました。私は聖ヨハネ・パウロ2世と共に、彼が25年前にすべての人に向けたアピールを、今、新たな確信をもって繰り返します。「いのち、すべてのいのち、あらゆる人間のいのちを、尊重し、守り、愛しましょう!この道の上にのみ、正義と、発展、自由、平和、幸福を見出すことができるでしょう!」(回勅「いのちの福音」 5)

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月26日

♰「受胎告知」の25日正午、新型ウイルス世界的危機の中で「主の祈り」をともに捧げる

(2020.3.25 VaticanNews)

 教皇フランシスコは25日の「受胎告知」の正午から、バチカン宮殿図書館からの動画配信の形で、世界の信徒たちと共に、新型コロナウイルスの世界的感染危機の中で、父なる神への祈りー「主の祈り」-を捧げられた。

 「主の祈り」に先立って、教皇は冒頭、「親愛なる兄弟姉妹の皆さん。今日、私たち世界中のキリスト教徒がともに集まり、イエスが教えてくださった『主の祈り』を捧げます」とされたうえで、次のように祈られた。

 信頼する子供として、私たちは父に目を向けます。私たちは毎日、何度もそうしています。しかし今、私たちは、新型コロナウイルスの世界的大感染という試練を受けている人類のために、憐れみを願います。そして、私たちはこれを、すべての教会と共同体、あらゆる文化伝統の、年齢層の、言語の、そして国のキリスト教徒が、心を一つにしていたします。私たちは感染者とその家族のために、医療に携わる人々と支援者のために、政府当局、治安当局、そしてボランティアのために、私たちの教会共同体の司牧者たちのために、祈ります。今日、私たちの多くは、聖母マリアが胎内に主が宿られることを告げられた日を祝っています。告知を受けた時、彼女は謙虚に、すべて受け入れました。私たちも、全てを信じ、自らを神の手に委ね、心と魂を一つにして、祈りますー天におられる私たちの父よ…。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月25日

♰「25日『受胎告知』の日正午(日本時間午後8時)に共に『主の祈り』を」教皇が呼びかけ

(2020.3.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコが、「受胎告知」の祝日である3月25日正午(日本時間同日午後8時)に「主の祈り」を共に唱えるよう、すべてのキリスト者に一致した祈りを呼びかけられた。

 教皇は22日の正午の祈りの中で、以下のように語られている。

 「新型コロナウイルスの世界的感染の脅威に人類が揺さぶられるこの試練の日々、天に向けて一致した祈りを捧げるようすべてのキリスト者に呼びかけたいと思います。全キリスト教教会と共同体の指導者の方々に、教派の異なるすべてのキリスト教徒と共に、私たちの主イエスが教えてくださった祈りを、いと高き全能の神に向かい、一緒に唱えてくださるようお招きします。『主の祈り』を毎日、何度も唱えることはもちろんですが、3月25日の正午、この祈りを共に唱えてくださるよう、すべての皆さまをお招きいたします。多くのキリスト者が、乙女マリアへの受胎告知を思い起こすこの日、復活された主の勝利を祝う準備をしているご自身の弟子たちの一致した祈りを、主が聞き入れてくださいますように」

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月24日

改♰「ともに天の父に向って声を上げよう」-教皇が27日に祈りの式と特別のUrbi et Orbiと全免償

2020.03.22 AngelusPope Francis prays the Sunday Angelus from the Apostolic Library in the Vatican 

(2020.3.22 VaticanNews  Christopher Wells)

 教皇フランシスコは22日、日曜正午の祈りで、新型コロナウイルスの世界的感染拡大に対して、私たちの父にともに祈るように、そして、どこにいても変わらぬ「祈り、思いやり、優しさ」をもって結束し、最も孤独で試されている人たちに寄り添う心をもって対応するよう、全世界の全てのキリスト教徒に促された。

 この日の祈りに続いて教皇は、全てのキリスト教徒に対して、共に祈るよう呼びかけられた。「この試練の日々、新型ウイルスの世界的感染拡大で人々はひどく怯えていますが、私は、皆で天の父に向かってともに声を上げることを提案します」。

 

*受胎告知の祝日、25日に主の祈りを共に唱えよう

 具体的には、受胎告知の祝日である3月25日の水曜日に、「諸教会の長たちと全ての教会共同体のリーダーたちが、様々な形の告白をする全てのキリスト教徒とともに、全能なる方、全知全能の神に救いを求めて呼びかけ、私たちの主なるイエスが教えてくださった、『私たちの父よ‥』で始まる祈りを唱える」ことを求められた。

 そして、「神がイエス・キリストとなったこの世に来られることを告げる、乙女マリアへの受胎告知を多くのキリスト教徒が思い起こすこの日(25日)に、復活されたキリストの勝利を祝う準備をするイエスの弟子たち全ての一致した祈りを、主がお聴きくださるように」と祈られた。

*27日に祈りの式、特別なUrbi et Orbi(使徒的祝福)、赦免

  さらに、教皇は3月27日に聖ペトロ大聖堂の正面の階段を上ったsagratoで祈りの式をすることを明らかにされ、「各種の通信手段を使って、全ての方がこれに参加するようにお勧めします」と述べらた。

 この式は聖書朗読、主に救いを願う祈り、聖体の礼拝、そして最後に、教皇がUrbi et Orbi(教皇祝福)をされる。様々な通信手段を通じての実況中継でこれを聴き、先に内赦院が出した教令の条件を満たすことで、全免償を受けることができる。「ローマと世界」に向けたこの祝福は、通常は、年に二回、復活祭とクリスマスに限ってされるものだ。

*祈りの式は日本時間28日午前2時から動画配信

 バチカンの報道官によると、この27日の儀式は、同日ローマ時間午後6時(日本時間28日午前2時)から、バチカンから生放送される。また、この祝福に伴う全免償を受けるにはバチカン内赦院が出した(注:新型コロナウイルスに感染した信徒、家族、対策に関わる医療・保健従事者、そして彼らの為に祈ることを含めて対応をしている人に特別の全免償を受ける恵みを与える、とした)教令の条件を満たす必要がある、という。

 教皇はまた、この日の祈りの終わりに、26日朝に大地震に見舞われたクロアチアの人々に心を向けられ、「復活された主が、クロアチアの人々に、この災難に立ち向かう力と連帯をお与えください」と祈られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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【参考】

   教皇庁内赦院は、新型コロナウイルス患者とその家族、医療関係者をはじめ、このパンデミック危機下にあるすべての信者らに、特別免償を定めた教令を発表した。

 免償とは、既に赦された罪に伴う有限の罰の免除をいう。

 今回の教令は、人類が現在直面している感染症という見えない脅威が人々の生活に苦悩や怖れや不安、また特に心身の苦痛を与えている状況を直視すると同時に、神なる師イエスの模範に倣い、常に病者に寄り添い続けてきた教会の歴史に言及している。教皇フランシスコも、この最近の感染症危機に際し、病者たちへの連帯を表され、新型コロナウイルスの患者たちのために絶えず祈るように、改めて求めたおられる。

 このようなことから内赦院は、新型コロナウイルスに苦しむ人々が、その苦しみの神秘の中に贖い主キリストと同じ苦しみを見出し、主の御言葉に信頼し、この状況を信仰の精神をもって個人的回心の鍵のうちに生きられるよう、免償の恵みを受ける条件を以下のように定めた。

①コロナウイルスに感染し、保健当局の指示に従い、病院もしくは自宅に隔離されている信者で、あらゆる罪から離れる決意を持ち、メディアを通してミサ、ロザリオの祈り、十字架の道行、または他の形の信心業に精神的に一致し、少なくとも、信仰宣言(クレド)、主の祈り、至福なるおとめマリアへの敬虔な祈りを一つ唱え、この試練を神における信仰と兄弟への愛徳の精神をもって捧げ、可能な限り早く通常の条件(ゆるしの秘跡、ミサ、教皇の意向に従った祈り)を果たす意志を持つ者に、全免償が与えられる。

②医療関係者、家族、そして神なる贖い主の言葉に従って、善きサマリア人の模範に倣い、感染の危険に身を置きつつ、新型コロナウイルスの患者を看護するすべての人は、同様の条件のもと、全免償が与えられる。

③内赦院は、現在のパンデミックの状況下で、少なくとも30分間、聖体訪問、または聖体礼拝か、聖書の読書をする、あるいはロザリオの祈り、十字架の道行の黙想、神のいつくしみへの祈りの花束をもって、全能の神にこの感染症の収束と、この感染症で苦しむ患者たちの慰め、主の御許に召された人々の永遠の救いを祈る者に、同様の条件のもと、全免償を与える。

④教会は、病者の塗油と、危篤時の聖体を受けられない人を、聖人の交わりの力のもとに、神の憐みにゆだね、その信者に用意が整い、人生の中で何らかの祈りを唱える習慣があったならば、臨終に際して、全免償を与える。この免償の完成のために十字架を用いることが勧められる。

 

*バチカン内赦院が出した教令(公式英文訳)は以下の通り

Decree of the Apostolic Penitentiary on the granting of special Indulgences to the faithful in the current pandemic, 20.03.2020

The gift of special Indulgences is granted to the faithful suffering from COVID-19 disease, commonly known as Coronavirus, as well as to health care workers, family members and all those who in any capacity, including through prayer, care for them.

“Be joyful in hope, patient in affliction, faithful in prayer” (Rom 12: 12). The words written by Saint Paul to the Church of Rome resonate throughout the entire history of the Church and guide the judgment of the faithful in the face of all suffering, sickness and calamity.

The present moment in which the whole of humanity, threatened by an invisible and insidious disease, which for some time now has become part of all our lives, is marked day after day by anguished fears, new uncertainties and above all widespread physical and moral suffering.

The Church, following the example of her Divine Master, has always had the care of the sick at heart. As Saint John Paul II points out, the value of human suffering is twofold: “It is supernatural because it is rooted in the divine mystery of the Redemption of the world, and it is likewise deeply human, because in it the person discovers himself, his own humanity, his own dignity, his own mission” (Apostolic Letter Salvifici Doloris, 31).

Pope Francis, too, in these recent days, has shown his paternal closeness and renewed his invitation to pray incessantly for those who are sick with the Coronavirus.

So that all those who suffer because of COVID-19, precisely in the mystery of this suffering, may rediscover “the same redemptive suffering of Christ” (ibid., 30), this Apostolic Penitentiary, ex auctoritate Summi Pontificis, trusting in the word of Christ the Lord and considering with a spirit of faith the epidemic currently underway, to be lived in a spirit of personal conversion, grants the gift of Indulgences in accordance with the following disposition.

The Plenary Indulgence is granted to the faithful suffering from Coronavirus, who are subject to quarantine by order of the health authority in hospitals or in their own homes if, with a spirit detached from any sin, they unite spiritually through the media to the celebration of Holy Mass, the recitation of the Holy Rosary, to the pious practice of the Way of the Cross or other forms of devotion, or if at least they will recite the Creed, the Lord’s Prayer and a pious invocation to the Blessed Virgin Mary, offering this trial in a spirit of faith in God and charity towards their brothers and sisters, with the will to fulfil the usual conditions (sacramental confession, Eucharistic communion and prayer according to the Holy Father’s intentions), as soon as possible.

Health care workers, family members and all those who, following the example of the Good Samaritan, exposing themselves to the risk of contagion, care for the sick of Coronavirus according to the words of the divine Redeemer: “Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends” (Jn 15: 13), will obtain the same gift of the Plenary Indulgence under the same conditions.

This Apostolic Penitentiary also willingly grants a Plenary Indulgence under the same conditions on the occasion of the current world epidemic, also to those faithful who offer a visit to the Blessed Sacrament, or Eucharistic adoration, or reading the Holy Scriptures for at least half an hour, or the recitation of the Holy Rosary, or the pious exercise of the Way of the Cross, or the recitation of the Chaplet of Divine Mercy, to implore from Almighty God the end of the epidemic, relief for those who are afflicted and eternal salvation for those whom the Lord has called to Himself.

The Church prays for those who find themselves unable to receive the Sacrament of the Anointing of the Sick and of the Viaticum, entrusting each and every one to divine Mercy by virtue of the communion of saints and granting the faithful a Plenary Indulgence on the point of death, provided that they are duly disposed and have recited a few prayers during their lifetime (in this case the Church makes up for the three usual conditions required). For the attainment of this indulgence the use of the crucifix or the cross is recommended (cf. Enchiridion indulgentiarum, no.12).

May the Blessed Virgin Mary, Mother of God and of the Church, Health of the Sick and Help of Christians, our Advocate, help suffering humanity, saving us from the evil of this pandemic and obtaining for us every good necessary for our salvation and sanctification.

The present Decree is valid notwithstanding any provision to the contrary.

Given in Rome, from the seat of the Apostolic Penitentiary, on 19 March 2020.

Mauro Cardinal Piacenza Major Penitentiary Krzysztof Nykiel Regent

 

 

 

 

 

At the close of his remarks following the Angelus, Pope Francis expressed his closeness to the people of Croatia, which was struck by magnitude 5.4 earthquake Sunday morning. The Holy Father prayed, “May the Risen Lord give them the strength and solidarity to face this calamity”.

 

2020年3月23日

♰「新型ウイルスは私たちが『一つの人類共同体』だと教えている」-イタリアの日刊紙に

(2020.3.20 VaticanNews)

  教皇フランシスコは20日付けのイタリアの日刊紙La Stampaに掲載されたインタビューで、新型コロナウイルスによってあらゆる人が体験している嘆き、苦しみについて語られ、このような状況を生き抜く唯一の道は、皆が結束すること、と強調された。

 そして、今この瞬間を「悔い改め、思いやり、希望をもって」生きることを勧め、「私たちには謙​​虚さが必要です。なぜなら、私たちは人生には暗い時期もあるということを、しょっちゅう忘れてしまうからです… 私たちは、辛いことが他の人にだけ起きる、と考えがちですが、誰にでも、そういう時はあるのです」と付け加えられた。そして、現在の四旬節は「他の人々と、特に苦しんでいる人々と連帯を実践するように、鍛える」時期だ、と説かれた。

*祈ること

 また、教皇は、祈りの重要性を強調された。福音書のガリラヤ湖をイエスと渡ろうとした弟子たちが、激しい突風で舟が沈みそうになり、眠っておられた彼に助けを求める場面(マルコ4章35-38節)を思い起こされ、「祈りは、私たちが自分の弱さを理解する助けとなります… 祈りは、溺れそうになっている人たち、危険にさらされ、孤立していると感じている人たちの叫びなのです」と語られた。そして、「困難で絶望的な状況の中で、主が、私たちをしっかりとつかんでくださる為にそこにおられることを知るのが重要なのです」と強調された。

*皆が苦しんでいる

 教皇は「信仰を持っている人と持っていない人」を区別しない。「人々が涙を流しているのは、苦しんでいるからです… ”あらゆる人”が苦しんでいます」とされ、「私たちは神の前で、皆、子供たちなのです」と述べられた。

*愛する人無しに亡くなる人

 また教皇は、「孤独で、家族の慰めも受けられずに、亡くなっていく人々」について語り、その一方で「看護師の1人が持っていた携帯電話を借りて、(注:側にいることのできない)愛する人に最後の別れを告げた、年配の女性」の話に心を打たれた、と話され、 「『さよなら』を言わずに亡くなった人々の痛みは、後に残された人々の心の傷になります」とされた。

 そのうえで、「(注:患者の世話をしている)全ての看護師、医師、そしてボランティアの方々に感謝します….. 疲労困憊の中で、その場にいることのできない患者の家族の為に、忍耐と思いやりをもって、彼らの代わりを務めてくれているのです」と医療関係者たちに感謝された。

 さらに、教皇は、新型コロナウイルスの世界的大感染(パンデミック)が私たちの将来にもたらすものについて触れられ、現在起きている危機が、「最終的には、人類は単一の共同体である」ということを、私たちに思い起こさせる助けとなり、「universal kinship(普遍的な親族関係=人類は皆、兄弟姉妹の関係にあること)」”が決定的に重要であることを教えてくれる、と指摘された。

 「私たちは、それを”(注:敵と味方に分かれての)戦いが終わった後”の現象と考えるべきです。もはや、”彼ら”ではなく、”私たち”なのです。なぜなら、私たちは共に協力することでしか、現在の状況から抜け出すことができないから」と強調され、次のように結ばれた。「私たちは、自分のルーツー祖父母、お年寄りーをもっと傍で見る必要があります… 私たちの中に、本当の親族関係を作る必要があります」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年3月21日

♰「不確かな状況、苦しみや不安の闇でも、神のみ旨に信頼して歩もう」-聖ヨセフの祭日に

(2020.3.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは19日の聖ヨセフの祭日にあたって、イタリア司教協議会が主催するロザリオの祈りにビデオ・メッセージをおくられた。

 イタリア司教協議会は、聖ヨセフの祭日の19日夜、皆でロザリオの祈りを唱えるよう、各家庭や、修道者の共同体などに呼びかけている。教皇は、お住いのバチカンのサンタ・マルタ館から、この祈りに参加される。

 これに先立ち、教皇はビデオを通し、次のようにロザリオの祈りへの一致を促された。

「今晩、聖家族とすべての家庭の保護者、聖ヨセフの取り次ぎに託して、皆で心を合わせて祈りましょう。ナザレの大工ヨセフも、不確かな状況に置かれ、苦しみや明日の不安を体験しました。聖ヨセフは、闇の中においても、常に神のみ旨に完全に信頼し、それに導かれて歩みました」

(編集「カトリック・あい」)

2020年3月20日

◎教皇連続講話「山上の説教」⑥「赦し」と「忍耐」が憐みの秘訣、神の憐れみは私たちの”空気”

 

ビデオを通じ一般謁見のカテケーシスを行う、教皇フランシスコ 2020年3月18日ビデオを通じ一般謁見のカテケーシス(3月18日 ()

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、多数の信徒の前での行事を中止されている教皇フランシスコは18日の水曜恒例一般謁見をバチカン宮殿図書室から動画配信の形でなさった。

 この一般謁見でのカテケーシス(教会の教えの解説)の講話で、教皇は、マタイ福音書の「山上の説教」の5番目の「幸い」の教え、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」(5章7節)を取り上げられた。

教皇の講話の要約は次のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日はイエスが山上の説教で説かれた8つの「幸い」の5番目、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」を考察したいと思います。

この5番目の教えで特徴的なのは、「憐み」という言葉が、「幸い」の「原因」である前半と、その「実り」を表す後半の両方に使われ、互いに呼応していることです。

この「赦しの相互性」は、「山上の説教」だけでなく、福音全体に頻繁に見いだされるものです。「憐み」とは神の御心そのものです。その相互性は、特に私たちが唱える「主の祈り」に表れています。それは、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」とある通りです。

そして、この嘆願に対し、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6章14-15節)という、唯ひとつの答えが与えられるのです。

「与えた赦し」と「受けた赦し」、この二つは切り離すことができません。だが、多くの人にとって、「赦す」のは、難しいことです。自分が受けたひどい仕打ちを赦すことは、高い山に登るように、たいへんな努力を必要とします。

この「憐みの相互性」は、私たちの考え方を覆すよう促します。私たちの力では不可能だからこそ、神の恵みが必要なのです。

8つの「幸い」の5番目の教えが「憐み」を約束し、「主の祈り」が罪の赦しを願っているように、私たちは本来、「負い目のある者」であり、「憐みを必要とする者」です。 私たち皆が、負い目を持っています。寛大な神に対してはもとより、兄弟たちに対してもそれを持っています。

すべての人が、自分が父として、母として、また夫、妻、兄弟姉妹として、あるべき理想の姿ではないことを知っています。私たちは人生において「負債」があり、そこに憐みを必要としているのです。私たちが過ちを犯したとしたら、そこには行うべき善が何か足りなかったということです。

しかし、この私たちの貧しさこそが、赦しのための力となるのです。私たちは「負い目のある者」ですが、私たちは「自分の量る秤で量り返される存在」です(参照:ルカ福音書6章38節)。そうであるなら、秤をいっぱいに広げて、人を赦すことです。

「赦し」と「忍耐」。これが憐みの秘訣であることを忘れてはなりません。赦すことで、赦されます。神は私たちに先立って、最初に赦しを与えてくださいます。神の赦しを受けながら、私たちも人を赦す力を得るのです。こうして、自分の「惨めさ」と「過ち」は、天の御国に向かって自分を開く機会となります。神は憐みであり、その秤は大きいのです。

私たちの憐みはどこから来るのでしょうか。イエスは言います。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」(ルカ福音書6章36節)。御父の愛を受け入れれば受け入れるほど、より多く愛することができるのです。

「憐み」は、キリスト教生活の中心です。あらゆる霊的歩みの唯一の真の到達点です。愛(カリタス)の最も美しい実りの一つです。私は教皇になって最初に、「憐み」という、このテーマを伝えたいと思いました。教皇就任後、初めてのお告げの祈りで、教皇としてこのメッセージを与える必要を強く感じたのです。

神の憐みは、私たちの自由であり幸いです。私たちは憐みを生き、空気のように、それ無しではいられません。私たちは条件を提示するには貧しすぎる立場です。私たちは赦す必要があります。それは赦される必要があるからです。

(編集「カトリック・あい」)

 

 

 

2020年3月19日

♰「キリストは生ける水の源」-日曜正午の祈りで

Pope Francis prays the Angelus in the Apostolic LibraryPope Francis prays the Angelus in the Apostolic Library 

(2020.3.15 VaticanNews) 教皇フランシスコは15日、新型コロナウイルスの感染防止のため、バチカン宮殿の図書室から動画配信の形でなさった正午の祈りの説教で、井戸の側でイエスがサマリア人と会われたことに触れたこの日の主日のミサの福音書朗読箇所(ヨハネ4章5-42節)について語られた。

「それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に着かれて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」

 教皇は「イエスは疲れています。のどが渇いています… 井戸のそばで休んていると、女の人が水を汲みにやって来たので、イエスは彼女に水を飲ませてください、と頼みます。そのようにすることで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、作っていた壁を破りました」と説かれた。

 そして「イエスは彼女と話を始めます。その中で、彼は、生きている水の神秘について、聖霊と神の賜物について、彼女に語ります」とされたうえで、「二人の話のポントは”水”です… 体の渇きをやわらげ、命を維持するために欠かすことのできない要素としての水、そして、永遠の命をくださる神の恵みの象徴としての水、です」と語られた。

 さらに教皇は「聖書の伝統では、神は生ける水の源とされており、神から離れ、神の律法が最悪の干ばつをもたらしました」と述べ、砂漠をさまようイスラエルの民を例に挙げ、神がご意思として、モーセに岩から水を流れ出させるようにされた、ことを示され、「使徒パウロも、その岩をキリストの象徴と解釈しています」と言われた。

 「救いを渇望する人は、それをイエスから何の束縛もなく引き出すことができます… イエスがサマリア人の女性に与えた”生ける水”の約束は、イエスの受難において現実のものとなるのです」とされた教皇は、「ご自分をいけにえとして捧げ、復活された神の子羊、キリストは、罪を赦し、新しい命へとよみがえらせる聖霊の湧き出る泉です」と強調。

 そして、「サマリア人の女性のように、”生けるイエス”と直に出会う人は誰でも、イエスについて他の人に話す必要があると感じます… 誰もが『イエスが本当に世界を救われる方だ』と公言するように」とされたうえで、「私たちも、自分の内にある命と希望を証しするように求められているのです」と呼びかけ、次の祈りで締めくくられた。

「聖母マリアが、生ける命の源、私たちが心に抱く命と愛への渇きを満たすことのできる唯一の方、キリストへの願望を培う私たちを助けてくださいますように」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年3月15日