☩「神と人への喜びあふれる奉仕で、人生の終わりにマリアと同じ栄誉を受ける」聖母被昇天の祝日に

(2018.8.15 VaticanNews Christopher Wells)

 15日の聖母被昇天の祝日に当たり、教皇フランシスコは恒例の一般謁見での説教で、神が、人のすべて-体と魂-を救うことをお望みなっている、という真理について話された。

 教皇はまず、聖母マリアが天に昇られた神秘を深く想うように「今日、教会は私たちを招いています」と語られた。これが、15日の水曜恒例の一般謁見での、教皇のメッセージだった。教皇は、この神秘が「神が人のすべて-体と魂-を救うことをお望みになっているのを、私たちに教えている」ことを強調され、聖母マリアは人生の終わりに「体と心」を天に挙げられた-その体は「墓の中で朽ちることを知りませんでした」とし、「これは、彼女の息子、イエスとの体と魂の比類のない一致ゆえに「神の母」に与えられた特別の栄誉だったのです」と説明された。

 そして、この栄誉は「私たちに、私たち自身の栄光に満ちた神の定めを確認させます」と述べ、過去において、哲学者たちは人の霊魂の価値を理解し、それは幸福に至ることが定められているということが分かっていたが、体が魂との一致においてキリストが示された八つの幸せの教えに向けられていることに思い至らなかった。これが、「体の復活」のキリスト教の教義であり、教皇は「キリストの啓示の固有の要素であり、私たちの信仰の核心的な要素」である、とされた。

 また、聖母の被昇天は、私たちに人の一致を想起させるとともに「私たちが、全身全霊をもって神に仕え、その栄光を称えるように招かれている」ことも思い起こさせることを強調され、「体だけで神に仕えるのは、奴隷の振る舞い」だが、「魂だけで使えるのも、私たち人間の自然な姿とは、著しく異なるでしょう」と注意された。

 教皇は説教の最後を、励ましの言葉で次のように締めくくられた-「私たちが、神への喜びにあふれた奉仕-それは、私たちの兄弟への惜しみない奉仕にも表されますが-の中で生きるなら、私たちの運命は、復活の日に、天の聖母と同じものとなるでしょう。聖パウロが強く勧めていることを全うすることで、それは私たちに与えられるでしょう-『自分の体で神の栄光を現しなさい!』(コリントの信徒への手紙1・6章20節)、そして私たちは天国で神の栄光を永遠にたたえるのです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2018年8月16日

☩「『死の文化』に”ノー”では不十分、『善』を行いなさい」‐日曜正午の祈り

(2018.8.13 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは12日、日曜正午の祈りの中の説教で、次のようにお話しになりました。バチカン公式発表の英語版から翻訳してお届けします。(カトリック・あい)

 親愛なる兄弟姉妹、そして親愛なる若いイタリア人の皆さん、おはよう!

 今日の日曜日のミサの第二朗読で、聖パウロは私たちに強く勧めています。「神の聖霊を悲しませてはなりません。あなた方は、聖霊によって、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェソの信徒への手紙4章30節)と。

 でも、私は自問します。「聖霊を悲しませるとはどいういうことですか?」と。私たちは洗礼と堅信で聖霊をすべて受け入れました。ですから、聖霊を悲しませないために、洗礼で約束し、堅信で確認したことを、固く守って生きる必要があります。首尾一貫し、偽善的でないやり方で-それを忘れないように。キリスト教徒は偽善的にふるまってはならない-首尾一貫して生きねばなりません。洗礼の約束には二つの側面があります-悪を捨てることと、善に執着することです。

 悪を捨てるということは、誘惑に、罪に、サタンに、「ノー」と言うことを意味します。もっと具体的に言えば、「死の文化」に対して、「ノー」と言うことを意味するのです。「死の文化」は、誤った幸せへの現実からの逃避の中で、虚偽、欺瞞、不正、侮辱などの形をとって現れます。これらすべてに「ノー」です。

 洗礼によって私たちに与えられ、その源に聖霊を持つ新たな人生は、分裂と不一致の感情に支配された行為を拒絶します。それが、使徒パウロが「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(同31節)と強く勧めた理由です。これがパウロの言っていることです。聖霊の喜びを妨げる、これらの悪の要素、そして悪行は、心を毒し、神と隣人を呪うようにさせます。

 しかし、善いキリスト教徒になるためには、悪行をしないだけでは足りません-善に執着し、善をなす必要があります。聖パウロは勧めます-「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」(同32節)。人がこのように言うのをよく聞きます-「私は誰も傷つけていません」と。そして、それで聖人になると信じられています。いいでしょう。でも、あなたは善人ですか?なんと多くの人々が悪を行わず、善も行わないことでしょう-このような人々の人生は無関心、空虚、熱意の喪失に引き込まれていくのです。

 このような姿勢は、福音に反します。そしてまた、あなた方若い人たちの特権にも反します。若さの特権は、躍動的で、情熱的、そして勇敢なことです。このことを覚えてください-覚えたら、皆で一緒に繰り返しましょう-「悪を行わないのは良いことだ。だが、善を行わないのは悪いことだ」。これは、聖アルベルト・ウルタ-ド(1952年に膵臓癌で51歳で亡くなったチリのイエズス会士、労働・社会運動に尽くした)の言葉です。

 今日、私は、皆さんに、善において主役を演じるよう、強くお勧めします。主役を演じるのは、善において、です。悪を行わない時に、それでいい、と思わないように-善を行えたのにしなかった人は誰もが有罪です。嫌うだけでは不十分です-赦す必要があります。分け与えるのを惜しまないだけでは不十分です-敵のために祈らねばなりません。分裂の原因とならないだけでは不十分です-平和のないところに平和をもたらさねばなりません。他人のことを悪く言わないだけでは不十分です-誰かがひどいことを言っているのを聞いたら止めねばなりません。つまらないことを喋りまくるのを止めましょう。それが善をなすことです。

 悪に反対しないと、私たちは暗黙のうちにそれを育てることになります。悪が広がるところには割って入る必要があります。なぜなら、聖パウロが警告しているように、善をもって反抗する-「愛によって歩む」(同5章2節)-大胆なキリスト教徒のいない所に、悪が広がるからです。

 (ここに集まった)親愛なる若い皆さん。あなた方は、この数日、たくさん歩かれ、鍛えられました。ですから、私はあなた方に、こう言うことができます-「愛の中を歩みなさい、愛の中を歩みなさい!」と。そして。10月の(若者をテーマにした)シノドス(全世界代表司教会議)に向けて、一緒に歩きましょう。聖母マリアが、その取り次ぎによって、私たち一人ひとりが、日々、行いをもって、悪に対して「ノー」、善に対して「イエス」と言うことができるように、支えてくださいますように。

(翻訳・南條俊二)

2018年8月13日

◎連続講話「十戒」⑤「『金の子牛』ではわずかな安心感しか得られない」

(2018.8.8 バチカン放送)教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週再開された「十戒」をテーマに、最初の掟「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)の考察を続けられた。

 今回は、まず、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(同32章1‐8節)に触れて、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として「モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたこと」を挙げ、「荒れ野」とは不安定と不確かさに支配された場所、つまり、「不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージです」と話された。

 そして、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、「荒れ野に置かれた人々の偶像崇拝につながった」とされ、モーセの消息が分からない人々は、目に見える神を望み、「私たちに先立って進む神々を造ってください」とモーセの兄アロンに言ったが、民のこのような態度について、「不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないなら、自分たちで思い通りの神を創作しようとする人間の本性を表すもの」、「偶像は、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための一つの口実です」と指摘された。

 アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造ったが、教皇は「金の子牛」は、古代オリエントの影響下で、豊穣や豊かさ、活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから「繁栄や、成功、権力、富などを象徴するもの」、すなわち、「自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものだったのです」と述べられた。

 だが、人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は「神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあります」と強調され、「神を第一にしないなら、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでにわずかな安心感を得るだけです」と話された。

 さらに、「豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)を引用して、「イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解するのです」とされ、「真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否できる」と語られた。

 最後に、「私たちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出します」「キリストにおいて、私たちの弱さは災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年8月9日

☩「イエスを信じることで、神の業を行うことが出来る」

(2018.8.5 VaticanNews  By Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは5日日曜の正午の祈りでの説教で、神との関係を育てるようにしなさい、イエスを信じることが、私たちを霊的に養い、私たちの兄弟姉妹のために良い仕事ができるようにするからです、とサンピエトロ広場に集まった信徒たちに呼びかけられた。

 教皇はまず、この日の福音書の朗読箇所を取り上げ、敬愛するパウロ6世-40年前に地上での人生の最後の時間を送られた”現代性の教皇”-を振り返られた。そして、イエスによって養われ、彼を求めて後を追った群衆について述べた福音書の言葉を受けて、イエスにとって、人々が単に自分の後を追うだけでは十分ではなく、人々がイエスを知り、食べ物、着物、仕事など日々の心配よりも、もっと広く心を開き、「物質的な満足以上のものを人々にもたらすために来た」のだということを、イエスは人々に分かって欲しかった、として、「イエスは真のパン、体だけでなく、人々の心の奥底にある飢えを満たすことのできる霊的な糧を与えることで、人々の心を満たしたいのです」と話された。

 そして、「すぐに消えてしまう食物ではなく、永遠の命のために消えずにいる食物のために働くように」と主が招いておられるのを、私たちも何度となく忘れてしまう、とされたうえで、神を喜ばせる善行をすることで十分と考え、「法律の実践に宗教を矮小化してしまうのは、よくある誘惑」と言われた。

 イエスは私たちが予想しないような指示―「これは神の業、神が送られた方を信じること」を出される。「この言葉は今日、私たちに対しても語られているのです-神の業は、物事を『する』ところにたくさん働くのではなく、神が送られた方を『信じる』ところに働くのです」。そして、「さらにいいことに、イエスを信じることで、私たちは神の業を行うことができるのです。イエスとの愛と信頼の関係に取り込まれるようにすれば、私たちは、福音のかぐわしい香りをもつ、私たち兄弟姉妹のための、良い業を行うことができるでしょう」と強調された。

 最後に、教皇は、「物質的な必要を気にかけねばならない場合でも、それよりもっと大事なのは、イエスとの関係を育てること、”命のパン”であるイエスを信じる心を強めることだ、と言うことを忘れないように。イエスは私たちの、真実、正義、そして愛への飢えを満たすために来られたのです」と締めくくられ、聖母マリアに助けを求める祈りで説教を終わられた。

2018年8月6日

☩連続講話「十戒」再開「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは愛の道の始まり」

(2018.8.1 バチカン放送)教皇フランシスコが1日、7月中中止していた水曜の一般謁見をパウロ6世ホールで再開、カテケーシス(教会の教えの解説)で「十戒」をめぐる考察も再開された。

 教皇は「十戒」の最初の掟、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)を、テーマに取り上げられ、「この掟は、偶像や、偶像として扱われる可能性のある、あらゆる種類の像(イメージ)を禁じています」としたうえで、「偶像崇拝は、信仰を持っているか、いないかに関わりなく、一つの人間的傾向として、誰でもが陥りやすいもの」と注意された。

 「偶像崇拝とは、異教的問題に留まらず、どのような時でも信仰に対する誘惑となりうるものであり、それは、神ではないものを”神”とすること」(参照:「カトリック教会のカテキズム」n.2113)とされ、「”神”とは人生の中心にあって、自分の行動や考えを左右する存在」であり、「人間は何かを中心にしなければ生きることができないことから、(そうした人間に)世界は”偶像のスーパーマーケット”のように物や、像、アイデア、役割等を提供しているのです」と指摘された。

 偶像崇拝はどのように進むのだろうか。教皇はその展開を「あなたはいかなる像も造ってはならない…あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4-5節)という、十戒の続きの言葉に見出された。

 そして、「偶像」を意味するギリシャ語は、「見る」という動詞を語源に持つ、としたうえで、「『偶像』は強迫観念に至らせる一つのビジョンであり、それは実際には、物や計画に注がれた自分自身の投影なのです」と説明された。さらに、「何かを所有したい、あるいは、ある計画を実現したい、ある地位に到達したい、という考えが、幸福のための素晴らしい道、天まで届く塔(参照:創世記11章1-9節)のように思われ、すべてはその目的のために費やされる過程」に言及。次いで「あなたはそれに向かってひれ伏してはならない」という言葉が警告するように、偶像が信心や儀式を要求し、すべてを犠牲に求めるようになる過程を教示された。

 偶像が要求する犠牲について「古代は人身御供というものが行われましたが、今日も、出世のためや、美しくあるため、有名になるため、お金儲けのために、人や生活が犠牲になっていることに変わりはありません」と語られ、偶像崇拝の最も悲劇的段階として、「『あなたはそれらに仕えたりしてはならない』とあるように、偶像の奴隷となることの恐ろしさ」に触れられた。

 さらに、「偶像は、幸福を約束しながらそれを与えず、命を約束しながらそれを取り上げる」が、「真の神は命を要求せず、むしろそれを与え、私たちに成功の幻想を抱かせず、その代わりに愛することを教えてくれます」と強調され、「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは、一つの恵み、愛の道の始まりとなります」と述べて、「真に愛するために、すべての偶像から解放される必要」を説かれた。

2018年8月2日

☩「”ミッション”は”インポッシブル”にあらず」ローマ巡礼の侍者の若者たちに

(2018.7.31 VaticanNews  Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

 7月30日から8月3日まで国際侍者協会(Coetus Internationalis Ministrantium,  CIM)主催のローマ巡礼が行われ、13歳から23歳までの欧米の若者たち7万人がローマに滞在しているが、教皇フランシスコは7月31日、サンピエトロ広場での特別謁見で彼らを励まされた。

 特別謁見での説教で、教皇は新約聖書のコリントの信徒への手紙(1・10章31節~11章1節)を取り上げ、以下のようにお話しになった。

*すべて神の栄光を表すためにしなさい

 説教で教皇はまず、「すべて神の栄光を表すためにする」(10章31節参照)は、「ひと言で言えば、イエスの友だちになる、ということです」と話され、私たちが確信を持てない時、そうすることが私たちの指針になる。「神の栄光は、私たちの倫理的な羅針盤の針なのです」と語られた-その針によって、私たちは神の声が分かり、神のご意志を知ることができる、と。

*すべての人を喜ばす者でありなさい

 次に教皇は「若者たちにすべての人を喜ばす者となるように」(10章33節参照)という聖パウロの熱心な勧めを励行するように励まされた。そして、喜ばす者となることで、人々が落ち込んでいる時、彼らに元気を取り戻させることができ、また、彼らの友であり続けることの助けになるだけでなく、「神の愛と信仰の喜び」をともに示すことになる、とされ、「これを続けるなら、私たちの兄弟姉妹が、唯一の救い主であるイエスを知るように助けることになります」と強調された。

*使命は、不可能ではない

 さらに、「おそらく、あなた方は思案なさるでしょう。『こんなことが自分にできるだろうか?自分には重すぎるのではないか?』と」は問いかけたうえで、あなた方に課せられたmission(使命)は確かに大きなものだが、「impossible(不可能)ではありません」と自答された。聖パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなた方も私に倣う者となりなさい」(11章1節)と語る時、鍵を提供してくれる-キリストに倣い、聖人たちに倣うことが、私たちが使命を果たすのを可能にする。そして、「彼らは生ける福音です。なぜなら、彼らは、自分たちの生きざまを通して、キリストのメッセージを解釈したからです」と説明された。

*聖イグナチオ・ロヨラは軍人から聖人になった

 そして、最後に、教皇はこの日の聖人である聖イグナチオ・ロヨラを模範にひいて、次のように締めくくられた。「彼は、若い軍人として、自分自身の栄誉に関心があったのですが、早くに、神の栄光に心を惹かれるようになりました。そして神の栄光に、人生そのものの核心と意味を見出したのでした。ですから、私たちも聖人たちに倣いましょう。私たちがすることすべてが、神の栄光のため、そして、私たちの兄弟姉妹の救いのためになるようにしましょう」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2018年8月1日

☩「『自分のパンと魚を差し出す若者』の勇気を支えよう」

 (2018.7.30 バチカン放送)教皇フランシスコは29日の日曜正午の祈りの説教で、この日の福音朗読箇所、「バンと魚の奇跡」(ヨハネ福音書6章1-15節)を考察された。

 ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の向こう岸に渡ったイエスが、自分を追ってきた大勢の人々に、バンと魚の奇跡をなさった場面が描かれている。

 山に登られたイエスは、ご自分の方に来る大勢の人々を見て、弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6章5節)と言われた。フィリポが「めいめいが少しづつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えているうちに、もう一人の弟子アンデレが、パン5つと魚2匹を持った少年を連れてきた。アンデレも、この少年が持っているわずかなものでは「大勢の人に食べさせるには、何の役にも立たないでしょう」と否定的な態度を示したが、イエスはそれには答えず、弟子たちに人々を座らせるよう命じ、これらのパンと魚を取り、御父への感謝の祈りを唱え、人々に分け与えられた。すべての人は、それを食べて満腹した。

 教皇は、この場面で、まず、自分が持っていたパンと魚を差し出そうとした少年の勇気を称賛され、「必要ならば使って欲しい、というこの少年のような若者たちの勇気を、今の私たちも支えなければなりません」と強調した。

 また、「(イエスは)大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(参照:マルコ福音書6章34節)という先週の日曜22日の福音朗読箇所を思い起こし、「人々がその時に一番必要としていることに関心を持つイエスの憐みに満ちた眼差し」を感じ取られ、29日の朗読箇所でも、「その時、人々は飢えており、イエスが彼らの飢えを満たそうと弟子たちに働きかけたのは、具体的な事実」と指摘。

 人々に言葉と、慰め、救い、最後にはご自身の命までをも与えられたイエスは、「それだけでなく、人々が物質的に生きるための食べ物にも配慮されているのです」と言われ、イエスの弟子である私たちも、現実を見て見ぬふりをせず、人々のありのままの姿の求めに関心を持ち、人々が置かれた「それぞれの具体的な状況に寄り添ってこそ、より高い精神的な価値について説く時にも、彼らは耳を傾けてくれるでしょう」と話された。

 さらに、「パンと自由、正義と平和、そして特に、神の恵みに飢えた人類に対する神の愛は、決して欠けることがありません」「今日もイエスは、私たちを通して、こうした人々の飢えに応え、生き生きとした慰めに満ちた存在として、人々のそばに留まり続けておられるのです」と説かれた。

 教皇は、今日のヨハネ福音書の朗読箇所の後半、すべての人が満腹した時、イエスが弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6章12節)と言われたことについても取り上げ、「食べ物が捨てられるのを見ると、飢えた人たちのことを思う」としたうえで、「食べ物が余ると捨ててしまう、という人は、おじいさん、おばあさんから体験を学んでほしい。余った物を再利用したり、必要とする人が飢えないように活用するなど、決して無駄にしないように」と求められた。

(「カトリック・あい」が編集)

 

2018年7月31日

☩「人身取引は、恥ずべき犯罪」-国連「人身取引反対デー」に

 

(2018.7.29 バチカン放送)教皇フランシスコは29日、バチカンで行われた日曜正午の集いでの説教で、毎年7月30日に記念される国連の「人身取引反対デー」に言及。

 人身取引が「子どもたちをはじめ多くの人々を奴隷状態に陥れ、これらの人々を不正な労働や、性的搾取、臓器売買、物乞い、犯罪行為強要などの犠牲としている実態」を訴えられた。

 また、「移民ルートも、人身売買の新たな犠牲者を集める場として、斡旋者や搾取者たちにしばしば利用されている」と指摘され、「人身取引という恥ずべき犯罪の不正」を訴え、それに「断固として反対するために、すべての人々の責任」をアピールされた。

2018年7月30日

☩「環境、難民・移民など世界的問題の解決に、対話の橋を」ー倫理神学の国際会議へ

(2018.7.27 バチカン放送)教皇フランシスコは、26日から29日までボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開かれている「世界教会におけるカトリック倫理神学」( CTEWC)主催の国際会議に、メッセージを送られた。

 会議のテーマは「橋を架けることが困難な時代に:今日のカトリック倫理神学」で、世界的な問題になっている環境保全や、難民・移民などについて、倫理神学の視点から専門家たちが意見を交換した。

 教皇は参加者に宛てたメッセージで、会議の開催地サラエボを「橋の都市」と表現。「異なる民族、文化、宗教、政治思想が交差する中で、分裂と緊張を超え、再構築へ歩むこの都市が、会議にインスピレーションを与えてくれるでしょう」と意義を強調され、「壁ではなく、橋を」という言葉を繰り返しながら、「世界から壁を取り除き、兄弟愛の橋を築くことが求められています」と強調された。

 そして、環境や移民などをめぐる問題が拡大・複雑化するこの時代にあって、すべての人が運命を共にするこの世界で、「皆がより良く生きることができるよう、助け導く、リーダーシップが必要です」と述べられ、CTEWCがこれまで培ってきたネットワークを生かして、世界の様々な問題に、「倫理神学の立場から、情熱をもって対話の橋を架ける」ように求められた。

 バチカン発表のメッセージ全文の英語訳は以下の通り。

(「カトリック・あい」編集)

MESSAGE OF THE HOLY FATHER FRANCESCO TO THE PARTICIPANTS  IN THE III INTERNATIONAL CONFERENCE OF
“CATHOLIC THEOLOGICAL ETHICS IN THE WORLD CHURCH” 
[Sarajevo, 26-29 July 2018]

 

“A Critical Time for Bridge-Building: Catholic Theological Ethics Today”

 

Dear brothers and sisters!

I greet you participants at the third world ethics conference. It is held in Sarajevo, a city full of symbolic value for the path of reconciliation and pacification, after the horrors of a recent war that has caused so much suffering to the people of that region.

Sarajevo is a city of bridges. Your conference too was inspired by this dominant motif, a warning to rebuild, in a climate of divisions and tensions, new paths of rapprochement between peoples, cultures, religions, visions of life, political orientations. I appreciated your effort from the beginning, during the visit to the Vatican by members of your Planning Committee , last March.

The theme of your conference moves in a perspective that I have often referred to myself: “bridges and not walls”, I am repeating in the lively hope that attention is paid to this need that we are increasingly aware of, even if at sometimes opposed by fears and regressions. Instead, without renouncing prudence, it is necessary to grasp every signal and mobilize every energy to eliminate the walls of division in the world and build bridges of fraternity.

The three focal points of the conference cross in depth this path of building bridges in a critical age, as it turns out to be ours. The ecological challenge is placed at the center of special attention, because it contains aspects that can cause serious imbalances, not only on the axis of the relationship between man and nature, but also on those of relations between generations and among the peoples. This challenge – as emerges from the Encyclical Laudato si ‘ – is not one of many, but it is the horizon of understanding of ecological ethics and at the same time of social ethics. This is why the reference you make to the issue of migrants and refugees is very serious and causes metanoia which concerns ethical-theological reflection, even before inspiring appropriate pastoral attitudes and responsible and aware political practices.

In such a demanding and complex scenario, there is a need for people and institutions to assume renewed leadership . There is no need for the noise of proclamations, which often remain in vain; there is no need for antagonism between those who play the strongest. We need leadership that helps us discover and live a more just way of being in the world as we all participate in a common destiny.

If I ask myself how the theological ethics can offer its specific contribution in this sense, I appreciate the intuition that you propose to implement: networking among people who, in the five continents, with different modalities and expressions, are dedicated to ethical reflection in theological key and strive to find new and effective resources in it. With these resources we can carry out appropriate analyzes, but above all to mobilize energies in order to a compassionate praxis and attentive to human drama to accompany it with merciful care. To weave this network, it is urgently necessary to build bridges, share paths, accelerate approaches. It is certainly not a matter of standardizing the points of view, but rather of seeking with sincere will the convergence in the intentions, in the dialogue opening and in the comparison on the perspectives. Veritatis gaudium . There I recalled the basic criteria for a renewal and a revival of ecclesiastical studies, and among these criteria I emphasized the importance of “all-encompassing dialogue” ( n.4, b ), which is at the basis of inter- and transdisciplinary openness, so vital also for theology and for theological ethics. And I also indicated “the urgent need to” network “among the various institutions that, in every part of the world, cultivate and promote ecclesiastical studies” ( No. 4, d ).

I appeal to you, lovers of theological ethics, and I encourage you to be passionate about this dialogue and networking. From the exercise of such attitudes you will draw your inspirations for penetrating analysis, attentive to the complexity of the human phenomenon. And you will always learn better the forms of fidelity to the Word of God that challenges us in history and solidarity with the world, on which you are not called to make judgments, but to indicate roads, accompany paths, soothe wounds, support fragility.

You already have a more than ten-year path in your liaison network Catholic theological ethics in the Word Church . Your world conferences in Padua (2006) and Trento (2010), as well as the regional conferences in the various continents and the various initiatives conducted so far with publications and teaching activities, have trained you in a style of sharing that I wish you carry forward fruitfully for the whole Church. I thank with you those who leave the office and those who take it, I pray for them and I cordially send my blessing, asking you also to pray for me.

2018年7月28日

☩「イエスとその愛から遠ざかる時、私たちは道に迷い、人生は失望と不満に変わる」

教皇フランシスコ、7月22日、日曜正午の祈りの集い

(2018.7.23 バチカン放送)

 教皇フランシスコは22日、バチカンで日曜日の正午の祈りを信者と共に唱えられ、説教で、この日朗読された、マルコ福音書(6章30-34節)を観想された。

 この箇所では、最初の宣教に派遣された弟子たちが、宣教先から戻り、イエスのところに報告に集まってきたことが記されている。「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(同6章30節)とあるように、「弟子たちの初めての宣教体験は熱意に満ちたものだったに違いありません」と教皇は述べつつ、同時に「その体験は何かと困難を伴うものでもあったでしょう」と想像された。

 そして、「さあ、あなたがただけで、人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」(同6章31節)とイエスが言われたのは、「こうした弟子たちの疲労を理解し、思いやられたから」だが、「イエスのこの意図は、多くの人々が先回りをして、彼らの行先に向かったために、実現は不可能でした」と指摘された。

 さらに教皇は「私たちもまた、自分の計画を実行しようとする時、緊急の用事で、それを断念し、人を助けるために柔軟に対応することが求められることがあります」とされ、このような状況の中で、イエスは「舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(同6章34節)が、「イエスのこの態度から私たちは学ぶ必要があります」と話された。

 そして、イエスの群集を見る「眼差し」、冷たく無関心ではなく、常に心の目で見つめる、「憐み」に満ちたその眼差しを観想され、「イエスの憐みは、単に人々の境遇に対する感情的な反応を超え、神のご自分の民に対する配慮と気遣いを反映するものだったのです」と話された。

 イエスがご自分の助けを求める人々にまず示されたのが「奇跡」ではなく、いろいろな「教え」であったことに注目されながら、「飢えた、道に迷う人々に、メシアが最初に差し出したパンは、みことばのパンででした」として、「私たちは皆、自分たちの歩みを照らし導く、真理の言葉を必要としています。イエスご自身であるこの真理なしでは、人生の正しい導きは得られません」と説かれた。

 最後に、「イエスとその愛から遠ざかる時、私たちは道に迷い、人生は失望と不満に変わってしまいます」と述べ、「イエスと共に、試練を乗り越え、神と隣人への愛のうちに成長しながら、確かに歩んでいく」ように招かれた。(編集「カトリック・あい」)

(バチカン広報発表の公式文の英語訳以下の通り)

☩POPE FRANCESCO ANGELUS      Saint Peter’s Square Sunday, 22 July 2018

Dear brothers and sisters, good morning!

The Gospel of today (cf. Mk 6: 30-34) tells us that the apostles, after their first mission, return to Jesus and tell him “all they had done and what they had taught” (v.30). After the experience of the mission, certainly exciting but also tiring, they have a need for rest. And Jesus, full of understanding, takes care to assure them some relief and says: «Come aside, you alone, in a deserted place, and rest a while» (v.31). But this time the intention of Jesus can not be realized, because the crowd, sensing the solitary place where he would go with the boat with his disciples, came there before their arrival.

The same can happen today. Sometimes we fail to realize our projects, because an unexpected emergency occurs that messes up our programs and requires flexibility and availability to the needs of others.

In these circumstances, we are called to imitate what Jesus did: “He came down from the boat, he saw a great crowd, he had compassion on them, because they were like sheep without a shepherd, and began to teach them many things” (v. 34). In this short sentence, the evangelist offers us a flash of singular intensity, photographing the eyes of the divine Master and his teaching. Let’s look at the three verbs of this frame: to see , to have compassion , to teach . We can call them the verbs of the Shepherd. The gaze of Jesus is not a neutral or, worse, cold and detached look, because Jesus always looks with the eyes of the heart. And his heart is so tender and full of compassion, which knows how to capture even the most hidden needs of people. Moreover, his compassion does not simply indicate an emotional reaction to a situation of unease of the people, but it is much more: it is the attitude and predisposition of God towards man and his history. Jesus appears as the realization of God’s concern and care for his people.

Since Jesus was moved to see all those people in need of guidance and help, we would expect that He would now work some miracle. Instead, he began to teachmany things. Here is the first bread that the Messiah offers to the hungry and lost crowd: the bread of the Word. We all need the word of truth, to guide us and enlighten the path. Without the truth, which is Christ himself, it is not possible to find the right orientation of life. When one moves away from Jesus and his love, one loses oneself and existence turns into disappointment and dissatisfaction. With Jesus on the side we can proceed with security, we can overcome the trials, we progress in love for God and for our neighbor. Jesus has made himself a gift for others, thus becoming a model of love and service for each one of us.

May Mary Most Holy help us to take on the problems, sufferings and difficulties of our neighbor, through an attitude of sharing and service.

2018年7月24日