◎連続講話「十戒」⑪「殺してはならない」は「愛への招き」

(2018.10.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続き、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」をめぐる考察を続けられた。

*兄弟への怒りに対する、イエスの教え

カテケーシスの冒頭、マタイ福音書の数節(5,21-24)が朗読されたーこの箇所で、イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5章21-22節)と教えている。さらに、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(同23-24節)と、兄弟を決して罵らず、和解するように、と説いている。

*「十戒」に、より深い意味を与えるイエス

教皇は「イエスはこの教えを通して、『十戒』中の『殺してはならない』という掟に、より深い意味を与えられました」とされ、「兄弟に対する怒りも、人を殺すことの一つの形であると明言し、それは『兄弟を憎む者は皆、人殺しです』(ヨハネの手紙1-3章15節)と使徒聖ヨハネも記すとおりです」と話された。

また、イエスはそれだけにとどまらず、同じ論理をもって、兄弟を罵ることや軽蔑することも、人を殺すことと同様にみなしていることを指摘され、「人間のどのような法律も、裁きにおいて、これほど異なるものを同列にみなしているものはありません」と話された。

「殺すな」とは、愛することへの第一歩

イエスは「祭壇に供え物を捧げる前に、まず行って兄弟と仲直りをし、それから、供え物を捧げるように」と教えているが、教皇は「イエスが『十戒』の第5戒『殺してはならない』の領域をここまで拡大したのは、なぜでしょうか」と問いかけた。

そして、人間は気高く繊細な命を持ち、体と同様に大切な「私」を隠し持っている。無垢な子どもを傷つけるには、不用意な言葉一つで十分。一人の人を破滅させるには、彼を無視するだけで足りるーだから、「『愛さない』ことは、『殺すことへの最初の一歩』であり、それに対し、『殺すな』ということは、『愛することへの第一歩』なのです」と答えを出された。

*人間の命には、愛が必要

 教皇はさらに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」という神の問いに「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4章9節)と答えた聖書における最初の殺人者、カインの言葉を引用され、「『お前の兄弟は、どこにいるのか』という神の問いに、殺人者たちは『知らない。私には関係ない』と答えますが、私たちは『知っています』『私たちは互いに守り合う関係にあります』と答えられるようでなければなりません」と話された。

 そして、教皇は「人間の命には愛が必要です。真の愛とは『キリストが私たちに示されたいつくしみ』『自分を傷つけた者を、赦し、受け入れる愛』なのです」と説かれ、「誰もがいつくしみや赦しなしでは生きることができません。『殺す』ことが誰かを破壊する、排除することであるなら、『殺さない』とは、その人を大切にし、価値を与え、受け入れ、赦すことなのです」と強調された。

 最後に教皇は、「十戒」の「殺してはならない」という掟は、最も重要で本質的な呼びかけ、すなわち「愛への招き」だ、とされた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月18日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑩「殺してはならない」は命の価値を守る掟

(2018.10.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見でのカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」(出エジプト記20章13節、申命記5章17節)を考察された。

 講話の前に「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」という「知恵の書」(11章 24-26節) の言葉が朗読された。そのうえで教皇は、第5の戒めで、「十戒」が「神との関係」をめぐる前半から「隣人との関係」をめぐる後半に入ったことを指摘され、この「殺してはならない」という簡潔で絶対的な掟は「『人間関係における基本価値』、 『すなわち命の価値』を守る『城壁』としてそびえています」と話された。

*すべての悪は「命に対する侮べつ」

 この世で行われるすべての悪は「『命に対する侮べつ』という言葉に要約できます」とし、「戦争や、人を搾取する組織、投機目的の自然破壊、切り捨ての文化、利益のために人を服従させるシステム、人間の尊厳にふさわしくない生活をする数多くの人々の存在」など、命の軽視の結果である様々な状況を挙げられた。

 また、教皇は「母親の胎内における人命に対し、別の権利の名のもとに、その中絶を認めることは、矛盾したアプローチ」と強調。「花開こうとしている、つぼみのような無垢で無防備な命を殺す行為が、どうして臨床上、『社会的・人間的行為』と言えるのでしょうか」「一つの問題の解決のために一人の人間を亡き者にすることが、正義にかなっているのでしょうか」「それはまるで、問題をなくすために、刺客を雇うのと同じではありませんか」と問いかけられた。

*恐れから来る命の拒絶

 そして、命に対するこのような拒絶は、どこから発するのか、何を原因としているのか。教皇は「それは『恐れ』から生まれます」と話され、「実際、他の存在を受け入れることは、『個人主義に対する挑戦』です」として、例として、生まれてくる子どもが重い障害を背負っている場合を挙げられた。

 このような場合、「両親の苦しみは大変なものです」と理解を示され、「彼らは、恐れを乗り越え、現実に立ち向かうために、真の寄り添いと、真の連帯を必要としている」。だが、それにもかかわわらず、「多くの場合、妊娠を中絶するように、という性急なアドバイスを受けることになるのです」と話された。

*人生の真の物差しは「愛」の中に

 病気の子どもは「お年寄りや貧しい人のような、社会で助けを必要とするすべての人々と同様に、一つの『問題』」として提起されるが、それは実際には「私たちを自己中心主義から外に引きずり出し、愛の中に成長させる、神の『恵み』」と説かれ、「人を命の拒絶に至らせるもの、それはお金や、権力、成功といった『この世の偶像』、人生を測るための『間違った物差し』です」と話され、「人生の『真の物差し』は、すべての命を愛される神と同じ『愛』の中にあります」と強調された。

 そして、「殺してはならない」という戒めに、「知恵の書」に示された「神はすべてをいとおしまれる方」だ、という前向きな意味を示された。

*私たちを愛の喜びに開くキリスト

 さらに教皇は「人となられた神の御子は、人間の拒絶された状態や、弱さ、貧しさ、苦しみを、ご自分の十字架の上に引き寄せられ、病気の子どもや、体力の衰えたお年寄り、絶望した移民、すべてのはかない脅かされた命の中で、キリストは私たちを探し、私たちの心を愛の喜びに開こうとしてくださいます」と説かれ、「すべての命を受け入れることには価値がある。なぜなら、すべての人はキリストの尊い血に値する(ペトロの手紙①1章18-19節)からです」「神がこれほどまで愛された命を、侮べつすることはできません」と訴えられた。

 最後に教皇は、「殺してはならない」という掟は、自分たちの命にもあてはまることを指摘。「私たちは、若い人たちに『自分の命を軽んじてはいけない。神の業を拒んではならない。あなたは神の作品なのだ』と伝えなくてはなりません」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月11日 | カテゴリー :

☩「夫婦が一致を保つことを可能にするのは、与え合う愛」日曜正午の祈りの集いで

(2018.10.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコは7日、日曜正午の祈りの集いの説教で、結婚をめぐるイエスの教えについて語られた。

 この日曜日の福音朗読箇所(マルコ10章2-16節)で、イエスはファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と尋ねられ、「モーセは何と命じたか」と問い返すと、彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。そこで、イエスはモーセのこの掟について「あなたたちの心が頑固なので、このような掟を書いたのだ」と答えた。

 教皇は、「イエスは御父から来る叡智と権威をもって『モーセのこの掟は、私たちの利己主義が生んだ過ちに対し、必要上とった一つの譲歩であり、創造主の本来の意図に合致しない』ということを言っているのです」と説明。

 続いて、この個所でイエスは「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(同10章6-8節)と、「創世記」にさかのぼって、創造主の本来のご計画を示しつつ、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)と説いている。

 イエスはこれを通して「男女は結婚において、互いに認め合い、補い合い、助け合うよう招かれている、ということを教えています」。イエスのこの教えは「大変明確で、忠実を必要とする愛の絆としての、結婚の尊厳を保護するものです」と強調された。そして、「結婚において、夫婦が一致を保つことを可能にするのは、キリストの恵みに支えられて、互いに与え合う愛であり、これに対して、、自分の満足のために、個人の利害を優先させる時、夫婦の一致は保てなくなります」と注意された。

 また、教皇は「この日の福音は、愛を共に生きるように召された男女が、結婚を、痛ましくも危機に陥らせるような態度を取る可能性があることを、大きなリアリズムをもって思い起こさせています」とされ、「イエスは、夫婦関係を挫折に至らせるすべてを容認しないことで、人間関係の力と美しさが際立つ、結婚という神のご計画を確認しようとしているのです」と述べられた。

 そして、「教会は、聖書と伝承からもたらされた家庭の素晴らしさを、飽くことなく確認する一方で、壊れた関係を体験する人々や、苦労のうちに関係を維持している人々に、母として具体的に寄り添う努力をしています」と話され、「傷ついた愛は、いつくしみと赦しを通して、神によって癒されます。ですから、教会はこの状況において、すぐに裁くことなく、傷を受けた心を神に再び導くために、愛といつくしみを伝える存在となるよう召されているのです」と説かれた。

 最後に教皇は「夫婦たちが、神の贈り物としての絆を生き、常に新たにしていくことができますように」と聖母の取り次ぎを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2018年10月9日

☩信仰生活の”慣れ”が福音を矮小化する

(2018.10.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは5日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを捧げられ、説教の中で「キリスト教生活を単なる社会習慣のように、形式的に生きてはなりません」と注意された。

 教皇は、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書のイエスが悔い改めない町を叱る場面(ルカ10章13-16節)を取り上げられた-イエスは、奇跡が行われても、悔い改めようとしなかった、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町を叱責された。ガリラヤ地方のこれらの町々を、異邦人の地であるティルスやシドンと比べ、「これらの町で奇跡が行われていれば、とうの昔に悔い改めただろう」と語っている。

 教皇は「イエスは、奇跡を行ったにもかかわらず、ご自分を拒否し、回心しなかった町のために嘆き、彼らすべての心に愛のメッセージが届かなかったことを悲しまれました」と話され、「キリスト者としての私たちの態度を、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々の態度と重ねて考えるように」と促された。

 そして、「主から多くを受け取り、救いを知ったのに、キリスト教社会に生まれ、信仰教育を授かったのに、私たちがイエスのことを簡単に忘れてしまうのはなぜでしょうか」と問いかけ、その原因が、「慣れ」にある、と指摘され、この「慣れ」が、「福音を社会学的なものに矮小化し、イエスとの個人的な絆を忘れさせてしまうのです」と話された。

 さらに「イエスは私たち一人ひとりに話しかけておられ、異邦人がイエスの説教を聞いてイエスに従うのに、キリスト教社会に生まれた私たちは、キリスト教の信仰生活が単に社会的習慣であるかのように、ただ形式的に生きています」と注意された。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」(ルカ10章13節)というイエスの嘆きを聞きながら、「私たちは、イエスがご自身を与えてくださったにもかかわらず、表面的な生き方をし、イエスを心から追い出しています。そうした自分たちの心を問わなければなりません」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月7日

☩「私たちも『仲間でない人』を排除していないか」

(2018.9.30 VaticanNews  Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

 教皇フランシスコは30日、サンピエトロ広場に集まった数千の人々共に正午の祈りをささげる前の説教で、この日の主日の福音(マルコ福音書9章38∼43節、45節、47∼48節)をもとに、すべての人を通して神が働かれることを正しく認識するように、というイエスの勧めを強調された。

 この福音の箇所は、イエスと弟子たちが教えを宣べ伝えている中で、弟子たちが自分たち以外の者が悪霊を追い出すのを妨げた場面を描いている。ヨハネはイエスに自分たちのやったことを認めてもらいたい、と思っているが、イエスは彼らの思惑とは違う答えをなさった。

 「ヨハネと他の弟子たちは、イエスが好ましいと考える彼ら以外の人の行為に、閉鎖的な態度をとります。なぜなら、自分たちの集団以外の人の行為だからでした」とされた教皇は、「イエスは、弟子たちよりもずっと自由な考えをお示しになります。神の霊の自由に完全に心を開いておられます-神の行為はどのような境界、そのような囲い込みにも制限されないのです」と強調された。

 この場面で、イエスはご自身の態度によって、内にある自由と言うものが何かを、弟子たちに教えている。教皇はそこで、私たちも良心のテストをするように提案された。それは、「自分たちの仲間」でない人を排除する態度は、どこのキリスト教共同体にも見られるからだ。

 教皇は、このような排除の行為は、嫉妬の表れや、創設者や指導者のカリスマ的な体験を守ろうとする熱意から来るものであったりすることがあるが、時としてそれは、新参者を除外する「争い」になる可能性があり、そうやって、私たちは、単に「彼らは自分たちの仲間ではない」というだけの理由で、他の人の良き行いを正当に評価できなくなる、と指摘され、次のように呼びかけられた。

 「これは、イエスが今日、私たちに下さった招待状です。イエスは私たちに呼びかけます-『味方か敵か』『自分たちか彼らか』、あるいは、誰が内側にいるか、外側にいるかというふうに人を分けて考えないように、そのようなことにこだわらず、普通ではない、予想できないような所、私たちの集団に入っていない人々の間にも、神の存在と働きがあることが分かるように、心を開きましょう」。

 そして、最後に、神の驚くようななさり方を素直に受け入れる模範として、私たちの中に主がおられるしるしを認識するように、主がご自身を明らかにされるどこにでも、まったく考えられないような、尋常ではない状況の中にあっても、主を見出すことが出来るように、聖母マリアの助けを祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2018年10月1日

☩「キリストに倣って。社会の片隅の人々に尽くすことを恐れるな」-リトアニアでの日曜ミサで

(2018.9.23 バチカン放送)

 バルト3国訪問中の教皇フランシスコは23日、リトアニア第二の都市カウナスのサンタコス公園で、約10万人参加のミサを捧げられた。

 ミサ中の説教で教皇はこの日朗読されたマルコ福音書(9章30-37節)の「イエスが弟子たちに、再び、ご自分の死と復活を予告する場面」を取り上げ、「マルコ福音書で、イエスは3度、ご自分の受難を予告しましたが、3度とも弟子たちは理解せず、繰り返し、弟子たちを諭しています」と指摘したうえで、本日の朗読箇所は、イエスが2度目に受難を予告した時のエピソードです」と説明された。

 そして、キリスト者の人生には「常に十字架の時があり、その苦しみには終わりがないように見える時もあります」と語り、「占領や強制連行、密告や裏切りのただ中に置かれた不安と苦悩、シベリアやゲットー送り、という言葉に触れる時の戦慄」を体験したリトアニアの人々の歴史を重ねられた。

 本日の朗読箇所で、イエスの弟子たちは、イエスが苦しみや十字架について話すことを望まず、彼らはまったく別のこと、すなわち、誰が一番偉いかを議論し合っていたが、教皇は「権力や栄光へのこだわりは、過去の記憶を癒せない人々によく見られる態度です」とされ、「こうした人々は、今日取り組むべき課題にさえ、向き合うことができないのです」と注意を促された。

 また、イエスは、弟子たちの権力闘争や、犠牲の拒否に対し、子供を彼らの真ん中に立たせ、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れる」(マルコ9章37節)と言われたことを取り上げて、教皇は「イエスは今日、誰を、私たちの真ん中に立たせるでしょうか。誰が私たちの間で最も小さき者、最も貧しい人たちでしょうか。独立宣言100年において、私たちが受け入れるべき人々は誰でしょうか」と問いかけ、「地域における少数民族や、職を求め移民せざるを得なかった人々、孤立したお年寄り、人生の意味を見いだせない若者たち」などの存在を示された。

 そのうえで、教皇は「外に向かう教会」を強調され、「自分の何かを失うように感じて、社会の片隅の人々に尽くすことを恐れてはなりません」と人々に警告された。

(「カトリック・あい」が編集)

2018年9月24日

◎連続講話「十戒」⑨「人生の疑問は神を見出した時に晴らされ、建設的なものとなる」

(2018.9.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで19日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、第4戒「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20章12節、申命記5章16節)を考察された。

 教皇は、聖書の「神を敬う」が「神をありのままに受け入れ、その存在を尊重し、典礼で表わすだけでなく、人生において神に重きを置くこと」を意味するように、「父母を敬う」とは「献身や、愛情、孝行などを表わす具体的な行いをも含めて、父母の存在の重要さを認めること」と話された。

 また、「十戒」の第4戒の特徴は、「あなたの父母を敬え、あなたの神、主が命じられたとおりに」という指示に続いて、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」(申命記5章16節)と、この戒めを守ることでもたらされる「結果」が示されていること、とし、第4戒は「父母を敬うことは、長く幸せな人生をもたらす」としているが、「十戒」の中で「幸せ」と言う言葉が見られるのは、両親との関係をめぐるこの戒めだけ、と指摘された。

 幼児期の体験はその人の一生に影響することは、一般に知られているが、この戒めは「必ずしも両親に優しさや、完璧さを求めているのではありません」「両親の価値の如何にかかわらず、子の側の態度を言っています」と注意したうえで、「たとえ親が良い親でなくても、幼少期が平穏でなくても、すべての子たちは、『誰が、この世に自分をもたらしてくれたのか』を正しく知ることで、満たされた、幸せな人生に到達することができるのです」と強調された。

 そして、教皇は、来月列聖式が行われる福者ヌンツィオ・スルプリツィオや、聖カミロ・レリス、聖ジュゼッピーナ・バキータ、福者カルロ・ニョッキ、また聖ヨハネ・パウロ2世のように、「早くに親を失ったり、苦難に満ちた幼少期を経験しつつも、イエス・キリストにおいて人生と和解し、光に満ちた人生を歩んだ人々」を思い起こされ、「人は誰でも、その人生のストーリーに関わらず、キリストに導くものとして、この戒めを受け取ることができます」とし、「なぜなら、キリストにおいて、私たちに新たな生をくださる真の御父を見出すことができるからです」と話された。

 「私たちの人生の疑問は、神を見出した時に晴らされます」「神は、私たちにいつも、神の子としての人生を準備してくださり、そこですべての行いは、神からいただいた使命となります。そして、人生はすべて貴重で、建設的なものとなるのです」と説かれ、「そうして、私たちは、成熟した子として、慈しみをもって、親たちの限界を受け入れながらも、自分の父母を敬うことができるでしょう」と話された。

(「カトリック・あい」が編集しました)

2018年9月20日 | カテゴリー :

☩「信仰告白は言葉だけでなく、行いによって本物となる」

(2018.9.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日のバチカンで正午の祈りの説教で、この日朗読されたマルコ福音書(8章27-35節)を取り上げられた。

 (イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねる。ペトロは「あなたは、メシアです」と答え、信仰を言い表した。イエスが弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受け、殺され、復活することを教えると、ペトロはイエスをいさめ始めた。イエスは、あなたは神のことでなく、人間のことを思っていると、ペトロを叱った。)

 教皇は、「イエスとは誰か」という問いに向き合えるよう「イエスご自身が弟子たちを段階的に導いているのです」と指摘されたうえで、まず、イエスは「人々は、私を何者だと言っているか」と弟子たちに尋ね、弟子たちは「人々が『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『預言者だ』と言っています」と答えるが、「イエスは彼らの言うような、人々の噂話や、近視眼的見方には関心がなかったのです」と話された。

 そして「昔も今も、イエスは弟子たちが『ご自身と個人的な関係を築き、彼らの人生の中心にご自身を迎えること』を望んでおられます」と強調され、それゆえに、イエスは弟子たちの真の考えを引き出すために「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねられたが、「イエスのこの問いは、今日も、私たち一人ひとりに向けられているのです」と説かれた。

 さらに、「私たちは皆、御父が御子イエスを私たちに理解させるために与えられる光に照らされ、ペトロのように『あなたは、メシアです』と答えることもできるでしょう」と述べつつ、一方で、「苦しむしもべとして、侮辱され、排斥され、十字架にかけられる」というその使命をイエス本人から聞いて、ペトロのように抗議する時、私たちも「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されるに値するだろう、と話された。

 続いて「イエス・キリストにおいて信仰を告白することは、言葉だけに留まってはならず、神と隣人への愛を表す、選択、行い、生活によって、それを本物としなければなりません」「イエスの弟子として従うには、『自分を捨て』(マルコ8章34節)、すなわち利己的な驕りを捨て、自分の十字架を背負わねばなりません」と述べた教皇は、御子に忠実に従った聖母マリアのように「私たちもイエスの道を歩み、神と兄弟たちのために寛大に自分の人生を捧げることができますように」とお祈りになった。

(「カトリック・あい」が編集)

以下は、VaticanNewsによる英語版

(2018.9.16 VaticanNews Devin Watkins)

 ddressing the crowds gathered in St. Peter’s Square for the Angelus prayer, Pope Francis says Jesus invites us to a personal relationship with him, and not to a short-sighted faith reduced to formulas.
 Pope Francis prayed the Angelus with pilgrims and tourists in St. Peter’s Square on Sunday, reflecting on the day’s Gospel (Mk 8:27-35).

 Jesus, the Holy Father said, asks his disciples the question that runs through the whole of Mark’s Gospel: “Who is Jesus?”. Pope Francis said Jesus helps his disciples gradually to come to grips with this basic question about his identity.

Short-sightedness vs. personal relationship

First, Jesus asks them who others say he is.

The Pope said Jesus considers the disciples’ responses inadequate. “He does not even accept his disciples’ answers using pre-packaged formulas, citing famous people from Sacred Scripture,” the Pope said, “because a faith that is reduced to formulas is a short-sighted faith.”

Pope Francis said the Lord is inviting his disciples, now as then, “to establish a personal relationship with him, and thus welcome him as the center of their lives.”

Listen to our report

He said Jesus speaks to us at the depth of our being, and urges us to ask ourselves in all truth: “Who am I for you?”

“Each one of us,” said Pope Francis, “is called to respond, in his or her own heart, letting ourselves be illuminated by the light that the Father gives us to know his Son Jesus.”

‘You are the Christ’

The Pope said that, at times, we may respond enthusiastically like Peter, “You are the Christ”. But, like him, we may also wish to avoid the “arduous path of the suffering, humiliated, rejected, and crucified Servant”, which the Holy Father said is the only path by which Jesus’ mission can be fulfilled.

Pope Francis said our lives must bear witness to our faith.

“The profession of faith in Jesus Christ cannot stop at words,” he said, “but must be authenticated by concrete choices and gestures, by a life sealed with the love of God and neighbor.” Denying ourselves, as faith in Jesus requires, rids us of “the pretensions of selfish pride”, the Pope said.

Finally, Pope Francis said we may sometimes take the wrong path in life, especially when we look for happiness in things.

“But we only find happiness when love – true love – encounters us, surprises us, and changes us.”

2018年9月18日

☩「ソファに座っていては御言葉を聞けない。歩きながら、神を見出せ」-シチリアの若者に

(2018.9.15 バチカン放送)

 福者ピノ・プリージ神父の殉教25年を機にイタリア・シチリア島を訪問した教皇フランシスコは15日午後、パレルモ市内のカテドラルで、司祭・修道者・神学生らとの出会いを持った。

 カテドラルに入られた教皇は、聖堂内にあるプリージ神父の墓前で祈りを捧げられた後、シチリアの教会関係者らに「典礼を生きること」「人々に寄り添うこと」「福音を証しすること」の3つを課題として示され、「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私のからだである」というミサ中の言葉を「そのまま祭壇上に留まらせてはならない。日常生活に深く降ろしていくように」と司祭たちを促された。

 また、「面倒なことを避けたい、人々の問題で手を汚したくない」とするメンタリティーを捨て、福者プリージ神父のように「人々を愛し、彼らに寄り添わなくてはなりません」と諭され、シチリアの素晴らしい遺産である宗教的な祭りや信心業を取り挙げて、「これらの行事が、マフィアの存在の顕示に利用されることが決してないように」と希望された。

 カテドラルでの集いを終えた教皇は、訪問の最後に、パレルモ中心部のポリテアーマ劇場前広場でシチリア全土から集まった若者たちとお会いになり、信仰生活や未来への不安への助言の求めや、移民受け入れなど社会問題をキリスト者としてどう捉えるべきかという質問などを受けられた。

 教皇は彼らに「神の御言葉は、ダイナミックなものです」、そして「ソファに座っていては御言葉を聞くことができません。歩きながら、神を見出していかねばなりません」と説かれ、「神は、求める人に話しかけられます。『常に求め続ける』というのは『健全な状態にある』ということです。すでに求めるべきものに到達したかのように感じていることは、特に若い皆さんにとって、は悲劇です」と指摘された。

 そして、「自分自身にとらわれず、他人のために何かをすること」を若者たちに求め、「すべてを『自分』の名のもとに『自分』のためにする人、『自分』のためだけに生きている人は、最後には行き詰ってしまいます」と注意を促された。

 また移民問題にも触れられ、「あなたがたシチリアの人々は『出会いの文化』に召された人々です」とし、「紛争や対立が絶えない今日の世界の中で、(それに屈することなく)文化や人との出会いを推進するように」「真の人間として、悪や搾取を糾弾する勇気を持つように」と希望された。

 最後に、教皇は「皆さんは希望の夜明け」と述べ、「悲観主義に陥らず、『希望を生み、育てる可能性は自分の手の中にある』ことを確信し、その希望の光を、シチリアや、イタリア、教会に昇らせてください」と激励された。

(「カトリック・あい」が編集)

2018年9月17日

☩「死者を包む布にはポケットがない、マフィアよ回心せよ」-福者プリージ神父殉教25年追悼ミサで

(2018.9.15 バチカン放送)

 イタリア・シチリア州を訪問した教皇フランシスコは15日、州都パレルモで、福者プリージ神父がマフィアに殺害されて25年を追悼するミサを捧げ、マフィアに回心を強く訴えられた。

 パレルモの海沿いの広大な公園、フォロ・イタリコには、強い日差しと暑さにもかかわらず、教皇を歓迎する市民たちが早くから詰めかけた。

 教皇は、福者プリージ神父を追悼するミサで、イエスの言葉「自分の命を愛する者は、それを失う」(ヨハネ福音書12章25節)と意味を考えるよう会衆に求め、「なぜ自分の命を愛する者は、それを失うのでしょうか」と問いかけた。

 「もちろん、それは憎悪をもって命を扱うように言っているのではありません。自分の命を愛する者とは、『エゴイスト』のことを指しているのです」としたうえで、「自分の命を愛する者は、儲けを増やし、成功を追い求め、自分の欲求を満たし、この世では『勝利者』と思われていますが、こうした人々は、イエスの目には『人生全体を失っている』と見えるのです」と話された。

 さらに教皇は「愛か、エゴイズムか、それを選ばなくてはなりません」と語り、「福音書に『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』(ヨハネ12章24節)」とあるように、自分の中に閉じたままのものは地中に残って終わりますが、自分を開き、命を与えるものは、地上に多くの実をもたらすことができるのです」と強調され、「神の道は、謙遜な愛の道です」とし、「愛だけが、心を中から解放し、平和と喜びを与えます」「神にとっての真の権力とは、人に仕えることです。最も大きな成功とは、『自分自身の名声』ではなく、『証し』なのです」と説かれた。

 そして、「目立たず、声高に反マフィアを叫ぶことなく、善の種を蒔き続けた」ピノ・プリージ神父の生き方を回想され、「25年前、自身の誕生日に殉教された時、ピノ神父はその勝利の冠を『微笑』で飾りました。彼を殺した犯人はその微笑のために眠ることができませんでした。犯人はこう言ったのです。『あの微笑には、一種の光が差していた』と」と語り、さらに「無防備だったピノ神父は、その微笑を通して神の力を伝え、その微笑の優しい光は、心の奥を穿ち、心の中を照らし出しました。その光は、愛と恵み、奉仕の光でした」と振り返った。

 そのうえで「私たちは(ピノ神父のように)愛を信じ、奉仕に生きる『微笑の司祭』『微笑のキリスト者』を必要としているのです」とし、「ピノ神父は危険を知っていましたが、彼が最もよく知っていたのは『人生の真の危険は、面倒なことを避ける、いい加減な生き方の中にある』ということでした」、そして「自分にさえ良ければ、何でもいい」「悪いことさえしなければ、それでいい」という考えから、神が私たちを解放してくださるように、と祈られた。

 最後に教皇は「権力の後を追わず、皆で歩むこと」の必要性を強調。次のように、マフィアの人々に対して、回心を強く呼びかけられた。

 「マフィアの人たちに言います。兄弟、姉妹よ、変わってください!自分たちと、自分たちのお金だけを考えるのをやめてください」「皆さんは知っています『死者を包む布には、ポケットがない』と。あなたたちは何も持っていくことはできないのです」「イエス・キリストの真の神に対して、回心してください。そうでなければ、皆さんの命は失われ、それは最悪の敗北となるでしょう」。

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 パレルモ市南東郊外の同地区の靴職人の家庭に生まれたピノ神父は、16歳で同市の神学校に入り、司祭に叙階されたが、1990年、小教区の主任司祭として、幼少から慣れ親しんだこの地区に戻ってきた。

 当時、地元マフィアの一族が深い影響を及ぼしていたこの地区で、ピノ神父は、子どもや若者たちの将来をマフィアの手から守るため、地道な活動を続けていたが、やがてマフィアにとって目障りな存在となり、始めは脅迫の対象に、最後は暗殺の対象となった。

(「カトリック・あい」が編集しました)

2018年9月16日