♰「”客のもてなし”には、マルタとマリアの振る舞いが共に必要」

 

Pope waves to pilgrims in St Peter's Square during the AngelusPope waves to pilgrims in St Peter’s Square during the Angelus  (Vatican Media)

(2019.7.21 VaticanNews Francesca Merlo)

  教皇フランシスコは21日の正午の祈りの説教で、瞑想と行動を結び付ける方法として、困っている人を温かく迎え入れ、友愛の気持ちを示す際に、それを重荷と感じないことの大切さについてお話しになった。

 この日のミサで朗読された福音の箇所は、イエスが、ラザロの姉妹であるマルタとマリアの家を訪問した時のこと(ルカ福音書10章 38-42節)について書かれている。彼女たちはイエスを歓迎し、そのうちの1人、マリアは彼の足元に座って、彼が語る一言一言を熱心に聞こうとするが、一方のマルタはイエスを一所懸命にもてなそうとする。

 教皇は、マリアのふるまいの重要性について、「私たちが彼の言葉を実際に聴く時、主は私たちを驚かせますー雲は消え、疑いは真実に、恐れは平静に取って代わります…」と語られ、常に主のための場所を開けておくことの重要性を強調された。「主の言葉を聴くことは、人生で与えられた任務を私たちがしっかりと果たす助けになるのです」と。

 そして、イエスの姉妹の家への訪問は「『心の知恵は、瞑想と行動という二つの要素を結び付ける方法を知ることにある』ことを、私たちに思い起こさせます」として、「イエスは、マルタとマリアが『喜びをもって人生を送る』ために、二人の振る舞いが共になされねばならない、ということを私たちに示している、と説かれたのです。私たちは、イエスが家を訪問されたとき、もてなしの用意する一方で、彼の言葉を聞かねばなりません。イエスは、私たちに、すべての事に対する秘密を明らかにされるのですから」と強調された。

 最後に教皇は聖母マリアへの祈りで説教を締めくくられたー「神と私たちの兄弟姉妹を、マルタの手とマリアの心をもって、愛し、もてなす恵みを、私たちにお与えください。キリストの言葉をいつも聴くことで、私たちが平和と希望の”職人”となることができるために」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年7月22日

♰「誰が『隣人』か判断するのは、助けを必要とする人に慈しみをもって接する者」

(2017.7.14 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは14日正午のお告げの祈りの説教で、この日のミサで朗読されたルカ福音書の良きサマリア人のたとえ話(10章25-37節)を取り上げ、この人はキリスト教徒の模範、私たちは、隣人を愛することによってのみ、神への愛を示し、同時に、本当の信仰心と人間性を示すことになる、と強調された。

 「助けを必要としている人への慈しみは、愛の”素顔”です」とされた教皇は、他者を愛することによって、人はイエスの真の弟子となり、父である神の顔が明らかにされる、と語られた。そして「慈しみ深くありなさい、あなたの父がそうであるように」と福音書記者のルカの言葉を引用して、『隣人を愛しなさい』というキリスト教徒のための神の掟は、人生の唯一の、首尾一貫したルールだということを、強調された。

 さらに、このたとえ話にある「隣人」について、誰が隣人か、隣人でないかを判断するのは、自分自身の基準で判断する私たちではなく、助けを求められ、自分の隣人は誰かを識別できる人物、つまり、「助けを必要としている人に慈しみをもって接する者」と指摘。

 また、イエスがたとえ話の中で、好ましい人物としてサマリア人をお選びになったのは偶然ではなく、「ユダヤ人たちはサマリア人たちを軽蔑し、自分たち神に選ばれた民にとっては『よそ者』と見なしていました。そうした偏見を捨てるために、サマリア人をお選びになり、真の神を知らず、神の神殿に参っていない『よそ者』でも、神のご意思にかなった振る舞いをすることができる-助けを必要としている兄弟に同情し、自由意思でできる限りのことをして彼を助けた-ことを示そうとされたのです」と説かれた。

 そのうえで、教皇は「キリスト教徒の人生のカギは、他の人に同情することにあります」と強調され、次のように諭された。「助けを必要としている人を前にして、同情しないなら、心を動かされないなら、どうかしています… 道でホームレスの人と出会って、彼を見もしないで通り過ぎようとした時、あるいは、彼が『酔っ払っている』と思った時、彼が酒を飲み過ぎたのかどうかと考えるのではなく、自分の心が固く、冷たくなっているかどうかを自問しなさい」。

 そして、教皇は説教を、聖母マリアへの祈りで締めくくられた。「私たちの父なる神への愛と私たちの兄弟姉妹に対する惜しみない愛の間にある分かちがたい絆を強めていくように、助けてください。思いやりの中で成長する恵みをお与えください」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

2019年7月15日

♰「生きている価値がないと判断し、人間を捨てる文明を築いてはならない」-ランベール氏の死に

 

ヴァンサン・ランベールさんのために集まった人々 2019年7月10日 フランス・パリでヴァンサン・ランベール氏がなくなる前日、彼のために集まった人々(フランス・パリで=バチカン放送 )

 フランスで、延命治療をめぐる法廷論争の後、北部ランスの病院で水分と栄養の補給の停止によって、ヴァンサン・ランベール氏(42)が11日死亡した。

 これまで命の大事さを繰り返し訴えてこられた教皇フランシスコは同日、ツィートで次のように、同氏のために祈るとともに、「その人の命に価値がないと判断し、捨てるような文明」を強く批判された。

「人類にとっての一つの敗北、命を守るのは義務」とバチカン

(2019.7.11 バチカン放送)

 事故で脳に重度の障害を負い、長年病院での治療を受けていたフランス人男性、ヴァンサン・ランベール氏が、水分と栄養の補給の停止から9日後の11日朝、亡くなった。教皇庁立生命アカデミー(議長・ヴィンチェンツォ・パリア大司教)は、「ヴァンサン・ランベール氏の家族と、医師団、そしてすべての関係者のために祈ります。ヴァンサン・ランベール氏の死と彼がたどった道は、私たち人類にとって、一つの敗北です」とツィートした。

また、バチカンのアレッサンドロ・ジソッティ暫定広報局長は、次のような声明を発表した。

「ヴァンサン・ランベール氏の訃報を私たちは悲しみをもって受け取りました。主がランベール氏を迎え入れてくださるよう祈ります。また、最後まで彼に愛と献身をもって寄り添った、家族の方々をはじめすべての人々に精神的一致を表明します。この痛ましいケースをめぐり、考えを示されてきた教皇の次の言葉を私たちは思い起こし、強調したいと思います。『生命の最初から自然の死に至るまで、命の主は神だけです。命を守るためにできる限りのことをするのは、私たちの義務です。『切り捨ての文化』に屈してはなりません』」。

 ヴァンサン・ランベール氏は、2008年、交通事故で脳に重度の損傷を負い、四肢麻痺で10年以上病院で治療を受けていた。彼の病状をめぐっては、「最小意識状態であり、治療の継続が必要」とする両親と、「慢性的植物状態であり、延命処置は本人の意に沿わない」との配偶者の主張が対立。本人が自己の意思を表明するものを残していなかったため、延命治療の是非を問い、長い法廷論争が続いていたが、6月28日、フランスの最高裁判所である破棄院が配偶者の主張を支持する判決を出し、これを受け、7月2日、担当医師団は同氏への水分・栄養補給を停止した。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年7月11日

♰「見捨てられ、死ぬがままにされた病者たちのために祈る-医師は命に奉仕すべき、奪ってはならない」

ヴァンサン・ランベールさんの両親 ピエールさんとヴィヴィアンさん 2019年7月9日 フランス北部ランスでヴァンサン・ランベールさんの両親 ピエールさんとヴィヴィアンさん 2019年7月9日 フランス北部ランスで 

 教皇フランシスコは10日、ツィートを通して、見捨てられ、死に向かう状況に置き去りにされた病者たちのために、祈りを呼びかけられた。

 ツィートで教皇は「見捨てられ、死ぬがままの状態に置かれた病者たちのために、私たちは祈ります。誰が生きている価値があるのか、ないのかに関係なく、命が、一人一人の命が、その始めから自然の死に至るまで守られるなら、社会は人間的なのです。医師は命に奉仕するべきで、命を奪ってはなりません」と訴えた。

 教皇の呼びかけは、交通事故で脳に重度の損傷を受け、10年以上病院で治療を受けていたフランス人男性、ヴァンサン・ランベールさん(42)に対して、今月2日から水分と栄養の補給が停止されている中で行われた。

 ランベールさんは、2008年に交通事故で脳に重度の損傷を負い、四肢麻痺となった。自力呼吸をし、循環機能も維持しており、重度の障害を持っているが、死に直面した状態ではないことから、「治療の継続」を望む両親側と、それを「延命措置の強要」であるとする配偶者側との間で、意見の一致を見ず、治療継続か中止かをめぐり、法廷での論争が続いていた。

 今年5月20日、長い法廷論争の結果を受け、担当医師らはランベールさんの水分と栄養補給の停止に踏み切ったが、その日の夜、パリ控訴院が、国連の障害者権利委員会によるこの問題の精査と結果の発表まで治療を続けるよう命じる判決を下し、水分と栄養補給が再開された。だが、6月28日、フランスの最高裁判所である破棄院は、国連の障害者権利委員会の精査のための6か月間の猶予を考慮せず、控訴院の判決を無効とした。

 破棄院の決定後、今月2日から、ランベールさんは水分と栄養補給が絶たれたままの状態が続いている。両親は「これは死に瀕している状態ではない一人の障害者を、殺害する行為だ」と非難している。両親の悲しみは、彼らを「カトリック原理主義者」と決めつける一部の人々の声によって、さらに深いものになっている。

 教皇は、ランベールさんのために以前からアピールを行ってきた。ランベールさんの水分と栄養補給の停止が始まり、数時間後にパリ控訴院が治療の再開を命じた5月20日にも、「重い病気の状態にある人々のために祈りましょう。神の贈り物である命を、その初めから自然な死に至るまで、いつも守りましょう。切り捨ての文化に負けてはなりません」とツィートしている。

 欧州連合も批准した「障害者権利条約」は、第25条で「障害者が、障害に基づく差別なしに、到達可能な最高水準の健康を享受する権利を有する、ことを認め」、「保健、もしくは保健サービスまたは食糧及び飲料の提供に関し、障害に基づく差別的な拒否を防止すること」としている。

(編集「カトリック・あい」)

2019年7月11日

♰「難民、移民も皆、一人の『人間』であることを忘れるな」-難民上陸の島訪問から6年

 イタリア南部シチリア州ランペドゥーサ島への司牧訪問から6年目の8日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で、難民・移民のためにミサを捧げられた。

  同島は、北アフリカに近い位置にあることから、アフリカから海路でヨーロッパを目指す難民・移民の上陸点・中継地であり、遭難者救助の基地ともなってきた。教皇は同島への訪問で、難民・移民との出会いを持たれ、ミサを司式、海上で亡くなった人々のために祈りを捧げていた。

 8日のミサには、難民・移民、またこれらの人々を支援する教会関係者やボランティアの人々が参加し、教皇は説教の中で「だまされて砂漠に置き去りにされ、虐待や暴力を受け、荒波の中で命の危険にさらされ、入国先で申請のために長期間、施設・キャンプで待たざるを得ない難民・移民」の苦しみに思いを向けられた。

 さらに、「難民・移民は、グローバル化された社会において切り捨てられたすべての人々の象徴です」と指摘され、「これらの人々が、社会問題・現象として扱われる前に、皆、一人の『人間』であることを忘れてはならなりません」と訴えられた。

 そして、「難民・移民に代表される、すべての疎外された、弱い立場の人々こそ、イエスがわたしたちに愛し、支えるように願われる人々です」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年7月9日

♰「教会の福音宣教は、喜び、平和と癒しをもたらさねば」

Pope Francis during the Sunday AngelusPope Francis during the Sunday Angelus  (Vatican Media)、

 教皇フランシスコは7日の日曜正午の祈りの説教で、教会の宣教の特質について触れ、「いつも、喜び、平和と癒しをもたらすものでなければなりません」と強調された。

 説教でまず、この日朗読された福音の箇所(ルカ福音書10章1節)ーイエスが、12人の使徒のほかに、72人を任命し、福音を述べ伝えるために遣わされた時のことーを取り上げ、この72というのは恐らく、創世記にある72の国々のこと(10章1-32節)を指し、72人の派遣は「すべての国に福音を述べ伝えることへの展望を示したもの」と指摘された。そのうえで、イエスは彼らに「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と促された、と説明された。

 教皇はさらに、福音宣教は、祈りを基礎に置いたもの、巡歴するもの、超然とし、貧しくあることを求めるもの、神の王国に近づくことを示す平和と癒しをもたらすもの、と説かれた。

 また、福音宣教は「改宗」ではなく、「信仰の宣言」「証し」であり、率直さと福音的な自由を求めるもの、とされ、「これらを満たしていれば、教会の福音宣教は『喜び』に特徴づけられたものになるでしょう」と強調された。こうした「喜び」は、「宣教の成功をきっかけにしたつかの間の喜び」ではなく、「あなたがたの名が天に書き記される」(ルカ福音書10章20節)という「イエスの約束を根拠に持つ喜び」、御子に付き従るようにと神に呼ばれていることを知ることから生まれる「内にある、滅びることのない喜び」、「イエスの弟子であることの喜び」ーとされた。

 そして、次のように締めくくられた。「私たちはそれぞれ、洗礼を受けた日にいただいた名前を思い浮かべることができます。その名前は『天-父なる神の心の中』に書き記されています… そして、それは、弟子の一人一人を宣教師-主イエスとともに歩む者、自分自身とその持ち物に束縛されず、他の人々のために自分自身を捧げることをイエスから学ぶ者ーとなる賜物をいただく喜びです」。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2019年7月8日

♰ 「誰一人、軽んじられてはならない」-9月の移民・難民の日-に備え、ビデオメッセージ

 (2019.7.2 バチカン放送)

 教皇フランシスコは2日、9月29日のカトリック教会の2019年度「世界移民・難民の日」(テーマ:「移民だけの問題ではない」)に備えて、ビデオメッセージをおくられた。

 このビデオメッセージで、教皇はスペイン語で次のように述べてられている。

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 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ福音書18章10節=聖書協会)。

 これは移民だけの問題ではありません。それは、誰一人疎外されてはならないという問題です。

 今日の世の中は、日ごとにエリート主義が拡大し、疎外された人々に対し、より冷酷になっています。発展途上の国々は、彼らの最良の天然資源、人的資源を、わずかな選ばれた市場のために使い果たし続けています。

 戦争は、世界のいくつかの地域のみで起きています。しかしながら、武器の製造と販売は別の地域で行われています。それでいながら、彼らは紛争によって発生した難民を受け入れ、世話することは望まないのです。平和についてしばしば語っても、一方で武器を売っています。これは偽善ではないでしょうか。

 この結果に苦しむのはいつでも、小さく、貧しく、弱い立場にある人々です。彼らはテーブルにつくことも妨げられ、彼らに残されるのは、宴会のパンくずだけです。

 「外に向かう教会」は、勇気をもって行動を起こし、出会いを求め遠くに出かけ、道が交わる場所に到着し、そこで、わたしたち自身が社会として疎外している人々を招きます。

 特権主義的な発展は、富のある人をより豊かにし、貧しい人をより貧しくします。真の発展は、受容すること、受容的であること、です。それは世界のすべての人を加え、彼らの統合的成長を促し、未来の世代を考えることです。真の発展は、受容的で、実り多く、未来に眼差しを投じることなのです」

(編集「カトリック・あい」)

2019年7月3日

♰「キリストに付き従うことは、機敏で、決断力に富み、活動的であること」

(2019.6.30 VaticanNews  Christopher Wells)

 イエスに付き従うことは「後ろを振り返らないこと」ー教皇フランシスコは30日の正午の祈りの説話で、主の弟子である、ということは機敏で、決断力に富み、常に活動的であることを意味する、と強調された。

 説話で教皇は、この日のミサで朗読された福音書の中から、キリストがエルサレムに向かう途中で3人に出会われた箇所(ルカ9章57節~62節)を取り上げ、「イエスに付き従いたいと熱望する人に、何が求められているかを、はっきりと示しています」とされた。

 最初の人は物惜しみしない人で、イエスが行かれる所なら、どこにでも付いていく、と約束する。これに対して、イエスは、人の子は「頭を休める場所」を持たない、いつも動いている、と答えられた。この人と同じように、「教会は、常に活動的であるように、求められています… 私たちの使命は『静止』ではなく、『遍歴』です… 教会は、人間の、そして実存の周辺部に達するために、世界のすべての道を進むように求められているのです」と教皇は語られた。

 弟子を志願したもう一人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と願うが、キリストは「故意に挑発的な言葉」を使い、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と返事をされる。「このように言うことで、イエスは『主に付き従う際に、福音を宣言する際に、最も重要なのは何か』を強調しようとされます… 機敏さと完全な用意を求めているのです」と説明された。

 そして、三人目の志願者が主に付き従う前に家族に別れの挨拶をするのを望んだのに対して、イエスの返事は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」だった。この言葉で「イエスは、家族との別れを惜しみ、後ろを振り返ることのないように、決断力を発揮するように、と彼に求めたのです」と言われた。

 このようにイエスが示された弟子の条件は「ノー」を連発することを意味せず、「最重要の目的-キリストの弟子となること」を強調する意味をもっていた、とされた教皇は「これは自由な、熟慮の上の選択、愛をもとになされる、計り知れない神の賜物に応えるためのもの。自分自身を売り込む方法として作られたものではありません」、そして、「イエスは、ご自身に、そして福音に、情熱を傾けることを、私たちに望んでおられます。そして、一番助けを求めている兄弟姉妹たちに対する愛の具体的な行為につながるやり方で情熱を傾けることを」と強調されて締めくくられた。

 

*「米朝首脳会談が、半島と世界の平和へのさらなる一歩となるように」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年7月1日

♰「彼らのようにキリストの生きた証人となろう」-使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日に

(2019.6.29 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦が29日、「使徒聖ペトロ・聖パウロ」の祭日を迎え、教皇フランシスコは記念のミサを捧げられた。ミサの前半、教皇は首都大司教たちに託す「良い羊飼い」を象徴するパリウムを祝別された。

 正教会のエキュメニカル総主教庁の使節が参列したミサの説教で、教皇は、聖ペトロと聖パウロの、聖地からローマまでの歩み、疲れを知らぬその宣教生活を思い起こされ、ローマで殉教するまで、キリスト者としての証しを続けた両聖人を、「人生の証人」、「赦しの証人」、「イエスの証人」として示された。

 イエスの最初の弟子となったペトロ、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった」(ガラテヤ1,14)パウロは、その宗教的熱意にも関わらず、ペトロはイエスを否定するに至り、パウロは神の教会を迫害するという大きな過ちを犯すことになった、と教皇は振り返った。

 「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21,15)というイエスの問いに苦しみ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9,4)というイエスの声によって目が見えなくなったパウロは、回心の人生の証人であったと共に、主の赦しによってその弱さから立ち直った「赦しの証人」でもあった、と話された。

 また、ペトロとパウロは、何よりも「イエスの証人」であった、と教皇は強調。

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたイエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16,16)と答えたペトロ、「わたしにとって、生きるとはキリストである」(フィリピ1,21)と記したパウロの、キリストにおける信仰の証しを見つめられた。

 イエスがペトロに向けた「わたしを何者だと言うのか」「わたしを愛しているか」という問いを、自分自身の心に響かせるよう教皇は招きながら、イエスと出会い、赦しを体験し、自分をくまなく捧げた両聖人のように、わたしたちもイエスの生きた証人となれるようにと祈られた。

 またこの日の正午の祈りの集いでは、教皇は祈りの前の説教で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16,18)という、イエスがペトロに向けた言葉を観想された。

 ここではイエスが初めて「教会」という言葉を使っているのみならず、「私の教会」と、表現していることに注目。ここにイエスが教会に対して育む大きな愛を読み取られた。また、「キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(エフェソ5,25)というパウロの言葉を引用した教皇は、イエスは教会をご自分の花嫁として愛される、と話された。

 そして、イエスは優しい眼差しで教会を見つめ、今日もわたしたちに「あなたがたは、私の教会」であると呼びかけておられる、と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年6月30日

◎教皇連続講話「使徒言行録」④「初期教会の『共同体主義』は、この世の『個人主義』の対極だ」

POPE-GENERALAUDIENCE/Pope Francis greets the faithful at the General Audience  (Vatican Media )

(2019.6.26 VaticanNews Christopher Wells)

 教皇はバチカンでの26日の一般謁見で、先週に続いて「使徒言行録」をもとにした講話を、「神の愛と私たちの兄弟姉妹との間で初期教会に活力を与えたこと」に焦点を絞ってなさった。

 講話の中で、教皇はまず、使徒言行録の「(注:洗礼を受け、仲間に入った)一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」(2章42節=聖書協会共同訳を使用)の箇所をもとに、聖ルカが私たちにエルサレムにおける教会を「あらゆるキリスト教共同体の模範」として提示している、と指摘。

 そして、使徒言行録を通して「私たちは初期教会の信徒たちが、使徒の説教を聴き、霊的、物質的な財の分かち合いを通して相互の関係を質を高いものにし、聖体祭儀の中に主を思い起こし、祈りの中で神と対話していたことを知ることができます」と語られた。

 さらに「当時のキリスト教共同体がもつ共同体主義は、この世の個人主義とは対極をなします」とされ、洗礼の賜物を通して「キリスト教徒は神のみ言葉だけでなく、助けを必要としている兄弟姉妹と物質的な財を分かち合うことができました… それはまさに、交わり方と助けを求めている人々への思いやりによるものであり、キリスト教共同体が典礼生活を実践することができるのです」と説明された。

 最後に教皇は、初期教会についての話は「私たちに、主が教会共同体の成長を保証してくださっています」とされ、神とのつながり、人とのつながりを保つことは「多くの人を魅了し、打ち負かす、魅力的な力になります」と述べられて、聖霊の助けを願う次の祈りで講話を締めくくられた。

 「私たちの共同体を、新たな生き方、連帯を交わりの務めを喜んで受け入れ、実行する場となりますように、神との出会い、私たちの兄弟姉妹との交わりをもたらす諸典礼の場となりますように、天なるエルサレムへの道が常にひかれている場となりますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2019年6月26日