♰「神の贈り物である命を、自然の死に至るまでも守ろう」-仏男性の延命治療打ち切り巡り

(2019.5.20 バチカン放送)

 四肢麻痺で長年にわたり治療中のフランス人男性をめぐり、担当医師による延命治療の打ち切り方針とその手続きが進む中で、教皇フランシスコが「神の贈り物である命を、その初めから自然な死に至るまで、いつも守ろう」とメッセージを出された。

  この人は、ヴァンサン・ランベールさんといい、2008年に交通事故で脳に重大な損傷を受け、四肢麻痺で、10年以上にわたり治療を受けてきたが、「最低限の意識がある」という見解と「慢性的植物状態」という見解が、家族内でさえ対立。治療に当たってきた医師が延命治療打ち切りの方針を出し、打ち切りの手続きが進んでいる。

 教皇は20日のツィートで、「重い病気の状態にある人々のために祈りましょう。神の贈り物である命を、その初めから自然な死に至るまで、いつも守りましょう。”切り捨ての文化“に負けてはなりません」と表明された。

 打ち切りに反対するランベールさんの両親は延命治療の継続を求めて、マクロン大統領に嘆願書を出しており、国連障害者権利委員会も「法的審査が尽くされない限り、必要な治療を中断することがないように」と要請している。

(編集「カトリック・あい」)

2019年5月21日

♰「イエスの示された愛は、私たちが自分自身の弱さ、偏見を乗り越えるのを可能にする」

(2019.5.19 VaticanNews  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは復活節第5主日の19日、聖ペトロ広場での正午の「レジナ・チェリ(天の元后)の祈り」の説教で、私たちに示された神の愛と、互いに愛し合うようにとの掟についてキリストが語られた、この日の福音(ヨハネ福音書13章31-33a節、34‐35節)を取り上げられた。

 そして、「今日読まれた福音書の箇所は、イエスがご受難の前の”別れの挨拶”で弟子たちに語られた言葉のいくつかを聴くように、私たちを階上の部屋に連れていきます」とされたうえで、(注:最後の晩餐の前に)イエスが12人の弟子たちの足を洗われた後に、彼らに「あなた方に新しい掟を与える-互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とお命じになったことを思い起こされた。

*どのような意味で「新しい掟」なのか?

 教皇は、神は旧約聖書ですでに「人々に自分自身のように隣人を愛するように」とお命じになっており、イエスも第一の掟として「神を全身全霊で愛するように」、第二の掟として「自分自身のように隣人を愛するように」と言われている、と指摘しつつ、「それで、どのような意味で、これが「新しい掟」なのでしょうか?」と会衆に問いかけられた。

 そして、最後の晩餐の席で弟子たちに示されたこの掟の新しさは、イエスがこの世を去る前に、それを弟子たちに託されたことにある。「愛についての古い掟は、『私があなた方を愛したように』という表現を加えることで完成され、新しくなる」「掟の新しさは、イエスキリストの愛-ご自分の命を私たちのお与えになった-にある」、それが、神の普遍的な愛の全て、無条件で無制限の愛、「イエスの十字架上の死で頂点に達する」愛なのです、と説かれた。

 さらに教皇は、「このような父への究極の自己献身のその瞬間に、神の御子はこの世に、満ち溢れる愛を示し、与えられました」「キリストの受難と苦悶を振り返って、弟子たちはイエスが彼らに語られた言葉ー私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい-の意味を理解したのです」と強調された。

*私たちへの神の愛は限りがない

 教皇はまた、「私たちが誘惑に陥りやすく、限界を抱え、人間的な弱さを持っているにもかかわらず、イエスは私たちを愛し、ご自身の愛に値するものとしてくださいます。その愛は限りなく、尽きることのないもの」、私たちに新しい掟を示されることで、イエスは私たちに、自分の愛で互いに愛し合うだけでなく、イエスの愛-私たちが信仰をもって救いを祈ることで聖霊が私たちの心に注ぎ込まれる愛-をもって、互いに愛し合うようにもとめておられる、とされ、そうすることで、私たちは、自分自身を愛するように愛し合うだけでなく、イエスが私たちを愛されたように、はるかに深く愛し合う、ことができる、と指摘された。

 「神は、私たちが自分自身を愛するよりも、もっとたくさん私たちを愛してくれるのです」。そして、そうすることでのみ、私たちは「人々との関係を新たにし、希望についての新たな地平を切り開く、愛の種を撒き広げることができる」と強調された。

*私たちに兄弟愛に満ちた社会を築くのを可能にさせる愛

 さらに教皇は、「このような愛が私たちを、主において新たな男性と女性、兄弟と姉妹にし、新たな神の民とし、教会の中で、一人一人がキリストを愛するように、キリストにおいて互いを愛するように呼ばれるようにするのです」と語られ、キリストが十字架上の受難で明確にされた愛は「私たちの石の心を生きた肉の心に変える唯一の力、私たちの敵を愛し、私たちを怒らせた人を赦すことを可能にします。そして、私たちが、他の人をイエスの共同体の現在、未来の一員とみなすようにさせ、対話を促し、互いに話を聴き、理解し合うように助けます」とされた。

 そして、最後に「愛は、私たちの心を他の人々に開かせ、人間関係の基盤となります」として、次のように締めくくられた。「愛は、私たちが、自分自身の弱さ、偏見の障壁を乗り越えるのを可能にします。橋を架け、新しい道を教え、兄弟愛の躍動の引き金を引くのです」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年5月20日

♰「虚報という”腐った食べ物”を売ることに耽らず、謙虚で自由なジャーナリズムを」

(2019.5.18 VaticanNews  Robin Gomes)

 教皇フランシスコは18日、バチカンの外国人記者クラブで約400人の各国特派員記者たちを前に講演し、謙虚で自由なジャーナリズムの必要性を強く訴え、「虚報という”腐った食べ物”を売ることに耽らず、真実と善の健全なパンを提供するジャーナリズム」を育てるように促された。

 そして、次のように述べられた。「ですから、私は皆さんに真実と正義に従って仕事をなさるように、強く求めます。そうすることで、コミュニケ-ションは、『破壊ではなく、建設』の、『ぶつかり合うのではなく、互いが知り合うため』の、『対立ではなく、出会い』の、『独り言ではなく、対話』の、『混乱ではなく、順応』の、『誤解ではなく理解』の、『憎しみの種を撒くのではなく、平和の裡に歩むため』の、『大声を上げる人のための拡声器ではなく、声なき人のための声』を提供するための、道具となるのです」

 教皇は、記者たちが担っている重要な仕事に敬意を表され、その仕事が「真実の探求に貢献し、真実だけが私たちを自由にする」と評価されたうえで、彼らの仕事に求められる要点として、「謙虚であること」を強調され、真実の探求は必然的に多くの困難を伴い、大いに謙虚であることが必要になる、と語られた。

 そして、「すでに分かっていることだ」という思い込みは真実の探求の妨げになる、とされるとともに、「新聞記事、インターネットのツイート、あるいは実況放送は良いことをすることができますが、用心深く、慎重でない場合には、人々に、そして時には社会全体に害悪をもたらす可能性があります」と警告。

 「”金切り声を上げる”見出しをつけるような報道が、現実を誤って伝える可能性」を指摘したうえで、「真実かどうかの検証を十分にしないまま、記事にして報道してしまう誘惑に陥らないように」と強く求め、「報道に謙虚な姿勢をもつジャーナリストは、報道したり、解説したりする前に、事実を誤りなく、完全に把握しようとし… 過剰なスローガンで煽り立てるのでなく、考えを働かせ、そうしたものを取り除きます」と記者の在り方にまで踏み込まれた。

 また、「人々を傷つけ、時には人格を破壊するような暴力的、侮蔑的な言葉が使われるジャーナリズムの現実」を嘆かれ、「多くの敵意のこもった言葉が使われ過ぎている今の世の中では、他人を仕分け、悪口を言うのが多くの人にとって習慣になってしまっているが、そのような中にあって、私たちは、男女に関係なく一人一人がかけがえのない尊厳が備わっていることを常に思い起こさねばなりません」と訴えられた。

 そして、時として、多くの人がフェイク・ニュースを拡散させている場合、「謙虚さは、あなた方が虚報という”腐った食べ物”を売るのを抑え、真実という良いパンを提供するように促すのです」とも述べられた。

 さらに、「報道と表現の自由は、一国の”健康状態”の重要な指標」とすると同時に、戦争や大災害で人々が直面する悲惨な状況を勇気と献身をもって取材、報道する中で命を落とすジャーナリストの苦しみに共感を示されたうえで、「私たちには、犠牲になっている人々-迫害され、社会から排除され、捨てられ、差別される人々ーの側に立って報道するジャーナリストが必要」であり、ジャーナリストには「ロヒンギア(ミャンマー西部のラカイン州に暮らす約100万人のイスラム系少数民族)とヤズディ派(イラク北部などに住むヤズディ教を信じるクルド人)のような迫害と戦乱の中で忘れられている人々に注意を向けさせるような報道姿勢を持つ」ことを希望された。

 一方で教皇は、生れ出る前に息の根を止められる命、飢餓、困窮、育児放棄、戦争で生後間もなく絶たれる命、少年兵や幼児虐待で失われる命があることをを忘れないようにする報道に感謝を述べた。

 また、自分たちの信仰、人種ゆえに迫害され、差別されている人々、暴力と人身売買の犠牲者たちが忘れ去られないように努めている記者たちを思い起こされるとともに、「災害、戦争、テロ、飢餓、干ばつで故郷を去ることを余儀なくされる人々は、(注:統計上の)”数字”ではありません。一人一人に顔があり、物語と幸せへの熱望をもっているのです」として、その実情を報道することの重要性を強調。「知らせる価値のある、私たちの希望を強めるような、表に出ない良いことも多くあります」とし、「人に希望を与えるような生き方の話題に、女性のジャーナリストがとくに敏感です」と女性記者への期待を示された。

 そして、講演の終わりに、ご自身が様々なジャーナリストのグループに語られた話と世界コミュニケーションの日に出されたメッセージを集めた「Communicare il Bene (Communicating the Good)」と題する本を、参加者たちにお贈りになった。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2019年5月19日

◎教皇連続講話「主の祈り」⑯「”主の祈り“はあらゆる悪に立ち向かう祈り」

(2019.5.15 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは15日の一般謁見中の「主の祈り」についてのカテキーシスで、祈りの最後の箇所(注:「悪からお救いください」)を取り上げ、「イエスは、私たちをあらゆる形の悪からお救いになる、私たちの味方なのです」と語られた。

(2019.5.15 バチカン放送)

 教皇は、「主の祈り」は、私たちが誘惑に陥らないことだけでなく、悪からの解放を願い求めているが、特に「(注:evil=日本語では『悪』と訳されている言葉は)ギリシャ語では、『私たちにつかみかかり、牙をたてようとする悪魔の存在』を感じさせ、それからの解放を願う、強い表現が用いられています」と説明され、その様子を「あなた方の敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています」(ペトロの手紙1・5章8節)と重ね合わされた。

 そして、「イエスは、すべての状況において、特に、悪魔の脅威を前に、御父に祈ることを教えられました。キリスト教の祈りは、人生に目を閉じず、その歩みが困難に満ちたものであることを忘れません」と語り、「もし、『主の祈り』の最後の2つの祈りがなかったら、罪人や、迫害される人、希望を無くした人、死に瀕した人は、どのように祈ったらいいのでしょう」と問いかけられた。

 教皇は「悪は紛れもなく存在し、歴史をたどれば、この世における人類の冒険が、失敗に満ちていることが分かります」とされ、「そこに、謎に包まれた悪の存在があり、それは神の業でないことは確かですが、その悪は静かに、歴史の隙間に入り込んできます。時には、悪の方が優位に立ち、その存在は神の慈しみよりも目立って見えることがあります」、さらに、「悪の裾は広く、その影響を、人々を悲嘆させる出来事、無実の人の苦しみ、隷属、他人の搾取、無垢な子どもたちの涙といった様々な形を通して見ることができます」が、「主の祈り」の最後の叫びは、「この悪に向けられているのです」と話された。

 さらに、イエスの受難の場面で、『主の祈り』のいくつかの箇所がご自身の祈り、主への叫びとなっていることを指摘され、ゲツセマネで「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」(マルコ福音書14章36節=聖書協会共同訳)とイエスが祈られたように、「ご自身のすべてをもって悪と対峙し、単なる死ではなく『十字架上の死』、孤独だけでなく『侮べつ』、敵意だけでなく『残酷さ』をも体験することになったのです」と述べられた。

 教皇は「キリスト者は、悪の力がいかに横暴かを知ると同時に、悪の誘惑に決して屈することのなかったイエスが、私たちの味方となり、助けに来てくださることを知っています」とされたうえで、「イエスの祈りは私たちに、最も貴重な恵みを遺してくださいました… それは、私たちを悪から救ってくださる神の御子の存在です」と強調された。

 そして、「イエスは、”最後の戦い”で、ペトロに剣をさやに納めさせ、回心した泥棒に天国を約束し、目の前で起きている神の御子の受難を理解していない人々に『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ福音書23章34節)と平和の言葉を与えられました」「十字架上のイエスの赦しから、平和が湧き出ます。十字架から生まれる真の平和、それは復活の主の恵みなのです」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年5月15日

♰「神との約束のために危険を顧みない勇気を」ー 「世界召命祈願の日」メッセージ(2019.5.12)

 教皇フランシスコは5月12日の第56回「世界召命祈願の日」に当たり、以下の教皇メッセージを出された。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年10月に行われた若者のための世界代表司教会議(シノドス)での活気あふれる実り豊かな体験に続いて、わたしたちは先日、第34回ワールドユースデーをパナマで開催しました。この二つの大きな行事を通して教会は、聖霊の声を聞き、若者の生き方と疑問、彼らに重くのしかかる倦怠感、彼らが抱いている希望に耳を傾けました。

 わたしはこの「世界召命祈願の日」にあたり、主の呼びかけがどのようにわたしたちを約束の担い手にするのか、そして、主とともに主のために危険を顧みない勇気をいかに求めているかを、パナマで若者と分かち合ったことを振り返ることによって考えたいと思います。ガリラヤ湖で最初の弟子たちが召し出された場面を描く福音箇所(マルコ1・16-20)を、皆さんと一緒に考えながら、この二つの要素――約束と危険――に少し焦点を当ててみましょう。

 二組の兄弟、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、漁師として日々の仕事に従事していました。厳しい労働の中で、彼らは自然の法則を学びましたが、逆風が吹いたり、舟が波にもまれたりしたときには、それに挑まなければなりませんでした。大漁によって重労働が報われる日もあれば、一晩かけても網を満たせず、疲労と失望のうちに岸に戻る日もありました。

 これは、ごく普通の人生の姿です。その中でわたしたちは皆、心にある願いをかなえるために努力し、豊かな実りが見込める活動に従事し、幸せへの渇きをいやすことのできる正しい航路を探しながら、可能性に満ちた「海」を進みます。大漁のときもありますが、そうでないときには、波に揺られる舟のかじとりに勇気をもって身構えたり、網に何もかからないことに対するいらだちを抑えたりしなければなりません。

 あらゆる召し出しの記述と同様、この出来事にも出会いがあります。イエスは歩いておられるときに漁師をご覧になり、彼らに近寄って……。このことは、結婚生活をともに歩もうと決めた相手に対しても、あるいは奉献生活に魅力を感じたときにも起こることです。わたしたちは出会いに驚き、その瞬間、自分の人生が喜びに満たされるという約束を予感したのです。このように、その日イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられ、漁師たちに近寄り、「日常を繰り返すばかりの麻痺状態」(第22回「奉献生活の日」説教、2018年2月2日)を打ち破ってくださいました。そしてすぐさま、彼らに約束してくださいました。「人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)。

 主の召し出しは、わたしたちの自由に対する神の干渉ではありません。それは「檻」でも、背負わされる重荷でもありません。それどころか、神がわたしたちに会いに来られ、わたしたちの参加を望んでおられる偉大な計画へと招いてくださる、愛に満ちた導きです。神はより広大な海と有り余るほどの漁獲という展望を示してくださるのです。

 神はまさに、わたしたちの人生が疑いようのないことだけにとらわれたり、日々の習慣の中で惰性に陥ったり、人生に意味を与えうる選択を前にして現状に押し流されたりしないよう求めておられます。情熱を傾けるに値するものはしょせん、何もないと考え、人生の新たな航路を探すことへの不安を打ち消しながら日々を生きることを、主は望んでおられません。もし主が「奇跡的な大漁」を幾度か体験させてくださるとしたら、それは、わたしたち一人ひとりは――さまざまなかたちで――なにか偉大なことへと招かれているのであって、無意味で心を麻痺させる網に人生をからめ捕られてはならないのだということに気づいてほしいと願っておられるからです。要するに召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです。

 もちろん、この約束を抱き続けるには、危険を顧みずに選択する勇気が必要です。最初の弟子たちは、もっと大きな夢に加わるよう主に招かれていると感じ、「すぐに網を捨てて従」(マルコ1・18)いました。主の呼びかけにこたえるためには、全身全霊でかかわり、危険を顧みずに新たな課題に立ち向かう必要があることを、この箇所は伝えています。わたしたちは、自分の小さな舟に自らを縛りつけているもの、最終的な決断への妨害となるものをすべて捨てなければなりません。求められているのは、神がわたしたちの人生に描いておられる計画を見いだすよう強く促す大胆さです。つまり、召命という広大な海の前では、安全な舟の上で自分の網を直し続けるのではなく、主の約束を信頼することこそが求められるのです。

 わたしは何よりもまず、キリスト者として生きることへの招きについて考えます。それは、洗礼によって皆が受ける招きであり、わたしたちのいのちは偶然の産物ではなく、教会という大家族の中に集う、主に愛されている子というたまものであることを思い起こさせてくれます。キリスト者はまさしく教会共同体の中に生まれ、とりわけ典礼によってはぐくまれるのです。典礼は、神のことばに耳を傾け、秘跡の恵みにあずかるようわたしたちを導きます。この共同体において、わたしたちは幼いころから祈りと兄弟姉妹間の分かち合いのすべを学びます。わたしたちを新しいいのちに生まれさせ、キリストのもとへと導いてくれるのですから、教会はまさにわたしたちの母です。ですから、たとえその顔に弱さと罪というしわを見たとしても、母なる教会を愛さなければなりません。そして教会がより美しく輝き、この世における神の愛のあかしとなるよう力を尽くさなければならないのです。

 またキリスト者の生き方は、社会におけるみ国の発展に貢献しつつ、自分たちの航海を正しい方向に向ける選択として表れます。わたしは、キリストのもとに結婚して家庭を築くという選択について考えると同時に、労働や専門職の領域、慈善活動や連帯の分野における取り組み、社会的、政治的責任などと結びついた、他の召命についても考えます。これらの召命は、わたしたちを善と愛と正義の約束の担い手にします。それは自分のためだけでなく、勇気あるキリスト者と神の国の真のあかし人を必要としている、わたしたちの地域の社会と文化に尽くすものでもあるのです。

 主との出会いの中で、奉献生活や司祭職への招きに心惹かれる人もいるでしょう。完全に自分自身をささげ、福音と兄弟姉妹に忠実に奉仕するよう努めることを通して、教会という舟の中で「人間をとる漁師」になるようにとの招きを感じることは、感激と同時に不安を覚えさせることです。この選択には、主のわざの協力者となるために、思い切ってすべてを捨てて主に従い、自分自身を完全に主にささげることが求められます。心の中にさまざまな抵抗が生じ、その選択を妨げるでしょう。また、きわめて世俗的で、神と福音の入る余地がないように思われる状況では、落胆し、「希望の疲弊」に陥るでしょう(「司祭、奉献生活者、信徒活動団体とのミサでの説教」パナマ、2019年1月26日)。

 それでも、主のために危険を顧みないで生きることほど、大きな喜びはありません。とくに若者の皆さんにお願いします。主の呼びかけに対して耳をふさがないでください。主がそのように呼びかけたら、おじけづかずに、神を信頼してください。主から示された高い頂きの前で、身動きできないほどの恐怖心に支配されないでください。主は網や舟を捨ててご自分に従う人に、心を満たし、人生を活気づける、新しいいのちの喜びを約束してくださいます。どうかこのことを忘れないでください。

 大切な友である皆さん、自分の召命を識別し、人生を正しく方向づけることは、必ずしも容易ではありません。だからこそ教会全体の各部分――司祭、修道者、司牧養成者、教育者――には、とりわけ若者に傾聴と識別の機会を提供するための、新たな取り組みが求められるのです。とくに祈り、みことばの黙想、聖体礼拝、霊的同伴を通して神の計画を知る助けとなる、青年司牧と召命推進の活動は不可欠です。

 ワールドユースデー・パナマ大会で何度もしてきたように、マリアを見つめましょう。この少女の生涯においても、召命には約束と危険が伴いました。その使命は容易なものではありませんでしたが、マリアは恐れに屈しませんでした。マリアの「はい」は、「危険を顧みずに自らかかわる人、自分が約束の担い手であるという確信以外には何も保障がなくてもすべてをかけようとする人の『はい』です。皆さん一人ひとりにお聞きします。自分が約束の担い手だと感じていますか。どんな約束を心に抱き、それにこたえようとしていますか。マリアが困難な使命を担っていたことは疑いようもありませんが、その難しさのゆえに『いいえ』と答えることはありませんでした。もちろん戸惑ったでしょうが、それは、前もってすべてが明らかにされ、保証されていないと身動きがとれなくなる臆病さから生じる戸惑いと同じものではなかったでしょう」(「若者との前晩の祈り」パナマ、2019年1月26日)。

 「世界召命祈願の日」にあたり、ともに祈りのうちに主に願い求めましょう。わたしたちの人生に対する主の愛の計画を見いだすことができますように。そして、わたしたちのために主がつねに考えてくださっている道を、危険を顧みずに歩む勇気が与えられますように。

バチカンより 2019年1月31日  聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)

2019年5月13日

♰「”羊飼い”の振る舞いに、羊である私たちはどう応えるか」-母の日、世界召命祈願の日に

 (2019.5.12 VaticanNews)

 教皇フランシスコは復活節第4の主日、聖ペトロ広場での12日正午の「レジナ・チェリ(天の元后)の祈り」の説教で、この日の福音で、イエスが、ご自身を神の民の羊飼いであるとされたことを心に留めるように会衆に求められ、また12日が、「母の日」に当たることから、世界の全ての母親たちにとって幸せな日であることを心から希望するとともに、「世界召命祈願の日」でもあることを強調された。

 説教で教皇はまず、この日のミサで朗読されたヨハネ福音書の箇所「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」(10章27,28節)を引用され、この箇所を注意深く読むことで、「イエスの業がいくつもの振る舞いで表されていることが分かります。イエスは語り、知り、永遠の命を与え、守ってくださるのです」と説明され、良い羊飼い-イエス-は「私たち一人一人を注意を払われ、探し求められ、愛されます-私たちに言葉をかけられ、私たちの心、欲求、希望を深いところまで、私たちの失敗と失望と同様、ご存知です」と語られた。

 さらに教皇は、「良い羊飼いであるイエスの、私たちとのつながり方を示す言葉と振る舞いは、羊に関する言葉-「彼らは私の声を聞き分ける」「彼らは私に従う」-と符合します」とされ、羊たちの行動は「主のやさしく、思いやりのある振る舞いにどのように答えねばならないか、を示しています」と説かれた。

 レジナ・チェリの詠唱に続いて、教皇は、12日が世界召命祈願の日であり、今年のこの日のテーマは「神の約束のために危険を冒す勇気」であることを指摘、聖ペトロ大聖堂で新司祭たちが叙階された喜びについて話され、そのうちの二人に、ご自身と共に、聖ペトロ広場に参集した信徒たちに祝福を与えるように求められた。

 また、世界の全ての母親たちに向かって、「母の日」に際しての、暖かいお祝いの言葉を述べ、「子どもたちを育て、家庭の価値を守る大事な仕事をなさっている皆さんに感謝します。また、天から私たちを見下ろし、祈りで私たちを見守り続けてくださっている母親たちを思い起こします」と語られた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2019年5月13日

♰「私のエネルギーの源は…」、東方教会、女性の助祭叙階などにも言及-機中会見で

(2019.5.7 VaticanNews By Linda Bordoni from Andrea Tornielli’s inflight transcript)

  教皇フランシスコは7日午後、ブルガリア、北マケドニア訪問からの帰途の機中で同行記者たちと歓談され、東方教会との関係、女性の助祭職問題、そして、ご自身の強さとエネルギーなどについて語られた。

*二つの国の印象

  今回訪問した二つの国から受けた最も強い印象を聞かれて、「全く異なった国だ、ということです」と答えられた教皇は、ブルガリアが一世紀の伝統を持つ一方で、マケドニアは一世紀の伝統をもちつつ、若い国であり、”若い人々”の国、と説明された。そして、北マケドニアは国家として最近作られたが、この国は、アジアに行こうとした使徒パウロを通して、キリスト教が西欧にもたらされた象徴であり、「マケドニアの人々は『キリスト教が”自分たちの扉”を通って入った』ということを私たちに思い起こさせる機会を逃しません」と語られた。

 ブルガリアは多くの戦争と暴力に遭い、また、1877年にこの地で、オスマン帝国から独立を取り戻す戦いがあり、20万人のロシア兵が命を落としたことを想起された。「独立のためにいかに多くの戦い、いかに多くの血が流され、アイデンティティーを強固にするために神秘主義が盛んになったことでしょう」とされたうえで、現在、二つの国で正教徒、カトリック教徒、そしてイスラム教徒が共生し、各宗教の間で良好な関係が続いていることを讃えるとともに、多様性と人権を”容認”するのでなく、”敬意”を払うことが公にされていることに感嘆された。

*教皇はエネルギーをどこから得ている?

 内外の司牧訪問と精力的に仕事をするために必要なエネルギーと力をどこから得ているのか、という質問に対しては、「まず申し上げたいのは、私は魔法を使っていない、ということです」とされたうえで、それは「神からの賜物」であり、出向く先々で「自分自身を忘れ、まさに、そこにいる、のです」と答えられた。また、訪問後に疲労を感じるが、「訪問が嫌なのではありません。訪問した後につかれるのです。主は私に力をくださっているのだと思います。私は主に、忠実で、あなたに仕えられるように、旅が”観光”にならないように、と願います。それと… 私はそれほど懸命に働くことはしません!」と述べられた。

*東方教会との関係

 東方教会の内部での対立が伝えられていることに関しては、一般的に言って、関係は良好であり、善意が存在する、と強調され、東方教会の総主教たちは神の人たちである、として、東方教会のほころびに関する北マケドニアの大統領の言葉を引用された-「教皇がほころびを縫い合わすために来られたのでしょうか?そうだとは思いません。私たちは兄弟、兄弟として手を取り合わずに聖なる三位一体の神を崇拝することはできません」と。

*ステピナツ枢機卿の列聖問題

 福者アロイジエ・ヴィクトル・ステピナツ枢機卿*の列聖問題について、教皇は、彼は徳の高い人、とし「それが教会が彼を列福した理由でした」とする一方、列福の過程で明確になっていなかった点があり、列聖の手続き開始を認める前に、祈り、観想し、セルビアの教父イレナエウスに助言と助けを願った、とされた。そして、真相を明確にするためにいくつかの点について精査中であるとし、「私は真実を知ることを恐れていません。恐れているのは神の御判断だけです」と語られた。

  *福者アロイジエ・ヴィクトル・ステピナツ は、1937年から1960年まで現在のクロアチア(当時はユーゴスラビア)の首都ザグレブ大司教を務めた。この間、1946年にユーゴスラビア内外で世論を二分した評決で、ベオグラードの最高法廷はステピナツをウスタシャ政権へ協力した罪、そして正教会信徒のセルビア人をカトリックに強制改宗させるのを許可したことへの共謀罪で有罪とした。彼は16年の懲役を宣告されたが、5年後に釈放され、故郷クラシッチへ軟禁された。1952年、ローマ教皇ピオ12世は彼を枢機卿に任命した。1960年、血栓症で死亡。1998年、教皇ヨハネ・パウロ2世はステピナツを殉教者と宣言して列福し、再び世論を二分することとなった。

*女性の助祭叙階問題

 教皇はブルガリアで,福音を伝える女性助祭の叙階の伝統を持つ東方教会を訪問され、またバチカンに帰国後すぐに修道会総長の国際連盟代表との会見を予定されているが、これに関連して、記者から、最近出された女性助祭に関する研究委員会報告から教皇は何を学ばれたか、また、女性助祭叙階の問題について教皇ご本人はどう考えておられるのか、という質問があった。教皇は2016年に、女性助祭叙階についての研究委員会を設置されていた。

 この質問に対して、教皇は、この委員会が、見解の相違のために休止するまで、2年間にわたって作業を続けた、とされたうえで、女性の助祭叙階については「男性の助祭叙階とは異なった見解」があり、女性の助祭職に関する歴史的な記録文書は存在するものの、「叙階が男性の叙階と同じ形で行われたかどうか確証がありません」と説明。研究委員会は立派な仕事をし、その結論は、神学者たちがこの点について様々な論文を研究し、可否について最終的な判断をするのに貢献できる、と語られた。

*訪問中に感動されたことは

 以上のような質問の後で、教皇は、北マケドニア訪問中にスコピエので、恵まれない人たちのケアをする修道女たちのやさしさと柔和さに、とても感動した、とされ、「彼女たちは、貧しい人たちに接する時に、家父長的な態度でなく、まるで相手が子供たちであるかのように、やさしく接し、愛情をもって対応していました」と語られた。

 このような修道女たちの振る舞いとは対照的に、今日の世界では、互いに侮辱し合うことに慣れっこになってしまっている、「政治家たちは互いを侮辱し、隣同士が侮辱し合い、家庭の中でさえも互いを侮辱」し、”侮辱の文化”がある、とは言わないまでも、侮辱することが(注:相手を傷つける)凶器となり、相手を罵倒し、悪口を言い、中傷することが凶器となっている、と批判。そのうえで、マザーテレサ記念の家の「修道女たちのやさしさは、私に”母なる教会”を感じさせてくれました。この宝物をもつマケドニアの人々に感謝します」と述べられた。

 機中懇談の最後に、教皇は、ブルガリア訪問中、南部の町、ラコヴスキの教会で子どもたちに海外訪問で初めての初聖体を授けられたことの感動的な体験に触れられ、「とても感動しました。それは、1944年に私自身が初聖体を受けた時のことを思い出したからです。教会は子供たちの面倒を見ます。彼らはまだ小さいので、端の方に置かれますが、希望があります、間違いなく成長する存在です。その時、私は『ここにいる245人の子供たちが、カトリック教会とブルガリアの未来だ』と感じました」と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年5月8日

♰「増大する”攻撃的民族主義”と”核対決”の危機に、愛をもって立ち向かおう」

(2019.5.2 VaticanNews Robin Gomes)

 教皇フランシスコは2日、バチカンで開催中の教皇庁社会科学アカデミーの「国民、国家、国民国家」をテーマにした会合で講演され、世界で共通善を無視するナショナリズムの風潮が強まり、外国人とくに移民に対する攻撃的な感情が再び高まっていることに強い懸念を表明。そのような傾向が、国際協力、相互尊重、そして国連の持続可能な開発の目標を損なう、と警告された。さらに、最近まで進んでいた核廃棄に関連する動きを反故にし、戦争の危険を倍増させるような「核兵器による対決」の脅威が増していることに強い不安を示された。

*移住は多様性を持つ人類の歴史の不変の側面

  講演で教皇はまず、カトリック教会が、世界の教会以外の人々の多様な文化、習慣、慣行に敬意を払いつつ、信徒たちと国を愛するように強く促してきたことを指摘。それと同時に、そうした(注:自分たちの集団や国への)愛が、壁を作り、「人種差別、反ユダヤ主義を引き起こす”攻撃的な民族主義”」になる時、他者を排除し、嫌悪を生じさせるような逸脱を起こすことに警鐘を鳴らしてきた、とも述べた。

     また、国家は極めて頻繁に、支配的な集団の利益に従うことが多く、そのほとんどは経済的な利益であり、結果として、人種、言語、あるいは宗教における少数者を抑圧することにつながる、とし、それとは反対に、「国民が移民者を歓迎することは、人間の尊厳についての国民のビジョン、人間との関係をしめしています」と指摘。故郷を無理に離れさせられた人や家族を、心から受け入れるように、強く求めた。そして、教皇がいつも言われている、移民を受け入れる際に求められる四つの動詞-welcoming, protecting, promoting and integrating(歓迎し、保護し、促進し、一体化する)-を繰り返された。

 移民は、受け入れ国にとって、文化的、慣習的、価値観的な脅威ではないが、彼らには、受け入れ先の国民に溶け込み、自分たちのアイデンティティーを維持しつつ、受け入れ先の国民を豊かにするように協調していく義務がある、とされ、移住することは人類の歴史の変わることのない側面であり、世界の全ての国民たちは、移住者の継続的な流入の結果として存在し、共通善、文化的資源、そして健全な慣習によって結びつけられた人類の多様性を体現している、と強調された。

 「他の国民や集団に対して自国の人々に民族主義的な感情を引き起させるような国は、国としての使命を果たすのに失敗するでしょう」、そして、そうした逸脱がどこで起きるかは、歴史が証明している、と付け加えられた。

 

*”イデオロギー的植民地化”を回避し、多国間主義の推進を

 国民国家について、教皇は、それを絶対的なもの、周囲と自国の関係で”(注:孤立した)ひとつの島”、と考えることはできず、国民に共通善を提供できず、気候変動、新たな奴隷制度、そして平和の実現という現代の世界的問題に対応できない、とし、各国民の間に協力のビジョンを打ち立てるには、新民族主義の鼓舞と覇権主義的政策に反対する「多国間主義」を促進する必要がある、と指摘された。

 「人類はそのようにして、超大国が引き起こす経済的な危機とイデオロギー的な植民地化を回避し、強者が弱者を圧倒するのを防ぎ、地方、国、地域の次元での視野を失うことなく、地球的な次元に注意を払うのと同じように、対立が国民国家の間に生じた時、武力紛争に発展する危険を回避するのです」と語られた。

 そして、違いを無くし、現地化を抑えつけ、ナショナリズムと覇権的な帝国主義を煽り立てるような”グローバリゼーション”の対極にあるものとして、教皇は、それぞれの人々、国、そしてグローバリゼーションそのものの個別のアイデンティティーへの相互認識を基礎に置いた”多面的なグローバリゼーション”を、平和と調和につながる姿として提唱された。多面的な形体は、「復讐、支配、抑圧、紛争」の論理を「対話、沈思、和解、調和」の論理に差し替えることができる、という希望、そして(注:地球という)共通の家に住む同じ人間だという認識の中に作られる、とも述べられた。

 一方で、自己の野望を満たそうとする増大する権力と利益集団による覇権は、新しい形の”イデオロギー的植民地化”と同様、しばしば人々のアイデンティティー、習慣、習性、尊厳、感受性を度外視する。そうした傾向の台頭は、多角的なシステムを弱め、国際政治における信頼性の欠如と国々の家族の最も傷つきやすい成員を社会の片隅に追いやる結果を招く、と指摘された。

 

*「核廃棄」の季節が去り、「核紛争」の季節が幕を開けつつある

 また教皇は、現在、かつてみられた核廃棄に努める季節が過ぎ去り、核保有国の政治的な良心がもはや鼓舞されなくなっていることを嘆かれ、「それに代わって、核紛争が懸念される季節が幕を開けつつあるように見えます。最近まで進んでいた前向きな取り組みが破棄され、戦争の危険が増大しています」とし、さらに、攻撃目的、防御目的の核兵器が地球上と宇宙に配備されようになれば、いわゆる「新たな技術的フロンティア」は、“核のホロコースト(大量虐殺)”の危険を高めこそすれ、低めることはなくなる、と強く警告した。

 そうして、教皇は社会科学アカデミーの会員たちに対し、人間に対する尊厳、共通善、地球と平和の至上の善なるものへの敬意をもって、刷新された国際連帯への自覚を広げる自身の努力を助けるように、強く要請して、講演をしめくった。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年5月3日

◎教皇連続講話「主の祈り」⑮”主が誘惑に陥らせるのではない”-訳文変更の必要を改めて指摘

(2019.5.2 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは、バチカンで5月1日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続いて「主の祈り」を考察。今回は「lead us not into temptation(英語公式訳=現在の日本語訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず』となっている)の箇所を取り上げられた。

 この個所について、教皇は、現在の世界各国の訳は(注:日本語訳も含めて)と言えず、あたかも神が人間の歩みを脅かす誘惑の主役であるような誤解を与えている、とされ、主への嘆願の表現を、例えば「abandon us not when in temptation(誘惑に遭った時、私たちを見捨てないでください)」というように改める必要を改めて示された。

 教皇はこれまでも、主の祈りのこの箇所の多くの国語での翻訳が適切でないとして、見直しを提起されており(注)、そのお考えを改めて示されたものだ。すでにフランスの司教団は改定に踏み切っているが、日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、教皇のこうした指摘を受けて、早急に改定を急ぐ必要がある。

 そのうえで、御父は、子が魚を求めているのに蛇を与えるような悪を仕組む方ではなく、「人の人生が悪による危機にさらされた時、人がその悪から解放されるよう、共に戦う方」とされ、「試練と誘惑は、イエスご自身の人生にも、神秘として存在します。神の御子はその体験を通して、完全に私たちの兄弟となられたのです」と説かれ、イエスが罪人たちの群れに交じり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたた後、荒れ野に行き、悪魔からの誘惑を受け、イエスがすべての誘惑を退けると、悪魔は離れ去り、天使たちが来てイエスに仕えたエピソードを思い起こされた。

 さらに、イエスの最も大きな試練として、ゲツセマネの祈りを指摘。「私たちが最大の試練にある時、神は私たちを一人にしません。しかし、イエスがゲツセマネで苦悶され、弟子たちに『私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい』(マタイ福音書26章38節)と言われたにもかかわらず、彼らは眠りこけいました」と語られ、イエスが体験した孤独と苦悩との闘いを「人となられた神の神秘の最後の封印」として観想された。

 また、「私たちが試練にある時、その苦悩の谷をイエスも通られ、神の御子の存在によって、その谷が祝福されたものになったことを、慰めとするように」と勧められ、「神は決し、決して私たちを見捨てられません」と強調された。

*1日は労働者の守護の聖人、聖ヨゼフの日、職の無い人々のために祈る

 カテキーシスを終えて謁見の最後に、教皇は、この日が労働者の守護の聖人である聖ヨゼフの祝日であることから、「職を失い、あるいは職を見つけることのできない人たち」に言及し、労働者の守護の聖人である聖ヨゼフに「彼らのために主にとりなしてくださるように」と祈りを捧げられた。

(バチカン放送日本語版、同英語版のVaticanNewsをもとに編集、聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用「カトリック・あい」)

 

注・「カトリック・あい」

 *2017年12月8日付けのイエズス会ロンドンのインターネット・ニュースTabletでは、教皇フランシスコがイタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答え、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は、より正確に神学的な見方に従って、「don’t let me fall into temptation」あるいは「Do not let us into temptation」などとするのが適当、との考えを明らかにされた、と伝えていた。

 教皇はこの中で「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘し、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは神ではなく、サタンであるからです」とし、「この表現は変えるべきです」と語った。そして「(誘惑に)陥るのは私。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます」と述べ、さらに「私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と改めて強調した。

 この箇所をどのように改めるべきかについて教皇は、より正確にこうした神学的な見方に従って、「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど主の祈りを見直し、英訳した場合、「Do not submit us to temptation」としていたのを「Do not let us into temptation」と改めたのを「妥当」とされた。

 Tabletによれば、現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものを元にしており、そのギリシャ訳の元になっているのは イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)だ。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』であり、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコはこのほど、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をしたが、従来のようなラテン語訳からの文字通りの翻訳を続けるか、それともギリシャ語やアラム語の原本を重視すべきかの議論は続いている。

 教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。まさに教皇の指摘された線に沿っている、というよりは先取りしていた、と言えるだろう。現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、神に「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、主の祈りもこのマルティーニ枢機卿の表現を参考に見直す必要がある。(南條俊二)

2019年5月1日

♰「キリストは私たちに『平和、喜び、そして使命』をもたらされた」-復活節、レジナチェリの祈りで

(2019.4.28 VaticanNews Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは復活節第二の主日、28日正午の「レジナ・チェリ(天の元后)の祈り」*の説教で、復活後に弟子たちの前にお現われになり、「平和、喜びそして使徒としての使命」を彼らにもたらされたイエスについて観想された。

 *本来は教会の祈り(聖務日課)で就寝前の祈りの結びに歌われる聖母賛歌の一つで、1970年以前の旧典礼暦では復活祭の終課から聖霊降臨祭後土曜日の9時課までの期間に歌われていた。ベネディクト14世教皇の教令で1742年以降、復活節中は正午の「お告げの祈り」に代わるアレルヤの祈りとしても用いられるようになっている。

 説教で、教皇はまず、自分たちの先生が捕らわれ、死刑に処せられた後、悪に勝利した成果としての平和をもたらされたことが明らかにされ、困惑と恐怖に陥った弟子たちに着目され、「復活された方が正真正銘の平和をもたらされます。それは主が、十字架上の犠牲を通して、神と人との和解を成し遂げられ、罪と死に打ち勝たれたからです」と語られた。

 そして、弟子のトマスー復活された主が弟子たちが籠っていた家の部屋にお現われになった時、いなかったーは、自身の不信仰を払いのけるために、イエスが彼の前に再びお現われになり、ご自身の傷に触れるようにされる必要があった、ことを思い起こされて、「イエスの傷は『平和』の源を象徴しています。なぜなら、その傷が、人に敵対する力ー罪、悪、そして死ーを打ち負かすイエスの限りなく大きな愛のしるしだからです」と言われた。

 復活されたイエスが弟子たちにもたらされた二つ目の賜物は「喜び」。福音書の著者は、私たちに「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ福音書20章20節)と語っている、と教皇は指摘。復活節は喜びの時であることを強調され、「イエスの御復活は私たちの喜びの最大の原因」、それは、イエスは私たちの本当の喜びを妨げるこの世の障害と否定的な力を壊されたからだ、と説明された。

 「平和」「喜び」に加えて、イエスは、弟子たちに使命を与えられた。教皇は、イエスが彼らに「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(同20章21節)と言明され、愛の新たな躍動を開始された、それは、聖霊の力をもって、この世を一変することができるもの、と言われた。

 そして、この愛は、弟子たちとその後継者たち、そして信仰厚い全ての人を通して広められるものであり、復活されたイエスは、ご自身の復活という素晴らしい出来事を告げ知らせる務めを、一人一人のキリスト教徒に委ねておられる、とされたうえで、「『平和と喜び』の賜物を伝え、そうすることでイエスのこの世における救いの使命を、各々の転職に従って、続けるように、洗礼を受けた一人一人が呼びかけを受けているのです」と訴えられた。

 最後に教皇は、復活節の第二主日に当たった、私たちが信仰をもって、平和、喜び、使命に心を開いて、キリストに近づき、神の慈しみの宣明、変容と救いをもたらすキリストの愛の喜びに満ちた証しとするように、勧められている、と述べられた。

 

 

 

2019年4月29日