♰「全人類が新型ウイルス大感染の悲劇を克服するよう、神に慈悲を祈る」『祈りと断食、人類のための祈願の日』

教皇フランシスコ、2020年5月14日、バチカン、サンタ・マルタ館でのミサ教皇フランシスコ、2020年5月14日、バチカン、サンタ・マルタ館でのミサ  (ANSA)

  教皇フランシスコは14日、バチカンのサンタマルタ館でミサを捧げられ、その中で、この日が、バチカンに事務局を置く諸宗教代表による「人類の兄弟愛のための高等委員会」提案の「祈りと断食、人類のための祈願の日」(正式には「大感染の悲劇の中で、慈悲を神に願う祈りと断食の日」)に当たることを示され、現在世界中を襲っている新型コロナウイルス大感染の早期終息を願って、次のように祈られた。

 「新型ウイルス大感染の悲惨な状況の中で、『人類の兄弟愛のための高等委員会』は、今日14日を『祈りと断食の日』とし、神に慈しみとあわれみを願うように勧めています。私たちは兄弟です。アッシジの聖フランシスコは『皆、兄弟』と言っていました。それゆえ、今日、すべての宗教に属する人々は、祈りと悔い改めのうちに一致し、この大感染からの立ち直りの恵みを祈り求めます」。

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 「人類の兄弟愛のための高等委員会(議長 ミゲル・アンヘル・アユソ・ギクソット枢機卿)」は昨年8月、バチカンに設立された組織。教皇が昨年2月にアラブ首長国連邦を訪問された際、アブダビで、アル=アズハルのグランド・イマームであるアフマド・アル・タイーブ師と会談、「世界平和のための人類の兄弟愛」をめぐる共同文書に署名したのが、委員会設立に結び付いた。委員会は、先に声明を発表し、5月14日を「祈りと断食、人類のための祈願の日」とし、人類が新型ウイルス大感染を克服し、安全と安定、健康、発展を取り戻し、より人間的で兄弟愛に満ちた世界を築けるよう、一致した祈りを世界の諸宗教の人々に、呼びかけていた。

2020年5月14日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」②「辛抱強く愛してくださる父の腕の中で祈ろう」

教皇フランシスコ、2020年5月13日の一般謁見教皇フランシスコ、5月13日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.5.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、バチカン宮殿からのビデオを通した水曜恒例の一般謁見で、前週始められた「祈りの神秘」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

 「キリスト教の祈り」の核心とは何かについて考察された講話の内容は次の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は、先週から始めた「祈りの神秘」をめぐるカテケーシスの第2回の考察を行いましょう。

 祈りは、すべての人のものです。すべての宗教に属する人、そして、おそらくどの宗教にも属さない人のものでもあります。祈りは、自分自身の秘めた部分から生まれます。それは霊的作者がしばしば「心」と呼ぶ、内的な場所です(「カトリック教会のカテキズム」2562-2563項参照)。

 祈る時、私たちの中には、自分からかけ離れたものや、二次的、付随的なものはなく、そこにあるのは、自分自身の最も内面的な「神秘」です。この「神秘」が祈っているのです。感情の高揚によって祈ることはあっても、祈りは「感情」だけとは言えません。知性によって祈ることはあっても、祈りは単に「知的な行為」ではありません。体は祈りますが、体が最も不自由な状態でも神と話すことはできます。つまり、心が祈るならば、「人間の全体」が祈るのです。

 祈りは一つの飛躍です。それは自分自身を超えていく一つの願いです。私たちの人格の深いところから生まれ、前へ伸びていくものです。それは「一つの出会いに対する郷愁」から来るものです。この郷愁は一つの必要というより、「一つの道」です。祈りとは、手探りで前進する「私」が、「あなた(神)」を探し求める声なのです。「私」と「あなた(神)」との出会いは計算づくでできるものではありません。それは、多くの場合、求めながら、手探りで向かう「出会い」なのです。

 キリスト者の祈りは、一つの啓示から生まれます。そこでは、「あなた(神)」は神秘で覆われたままではなく、私たちとの関係の中に入って来られます。キリスト教は、神の顕示、すなわち神の御公現を絶えず記念する宗教です。典礼暦年の最初のいくつかの祭日は、神がご自分を隠されることなく、人間への友情を示されることを記念するものです。

 神はその栄光を、ベツレヘムの貧しさの中で、東方三博士の観想、ヨルダン川での洗礼、そしてカナの婚礼の奇跡において、現わされました。ヨハネ福音書は、偉大な序章の賛歌を次のように要約的な言葉で締めくくっています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ福音書1章18節)。神を私たちに示してくださったのは、イエスです。

 キリスト者の祈りは、「神との関係」の中に入ります。神は優しい御顔を持たれ、人間に対し、一切の恐れを引き起そうとはされません。これがキリスト教の祈りの最初の特徴です。いつも神にびくびくし、魅惑的で恐ろしい神秘に怖がりながら近づき、主人に敬意を欠かさぬよう振る舞う家来のように、人々が隷従的な態度で神を崇拝していたのに対し、キリスト者は、神に対し、親しみを込めて、「父」と呼びます。それどころか、イエスは「お父さん」とさえ呼んでいるのです。

 キリスト教は、神との絆において、あらゆる「封建的な関係」を閉め出しました。私たちの信仰の遺産には「服従」「隷属」という言葉はありません。そこにあるのは「契約」「友情」「約束」「交わり」「近さ」という言葉です。

 イエスは、最後の晩餐の長い別れの説教で、こう言われました。

 「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章15-16節)。

 これは真っ白な小切手のようなものです。「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命した」と言うのです。

 神は友であり、同盟者にして花婿です。祈りにおいて神との信頼関係を築くことができます。実際、イエスは「主の祈り」で、私たちに、一連の願いを神に向けることを教えてくださいました。神に私たちはすべてを願い、すべてを説明し、すべてを語ることができます。神との関係において、「私たちは、良い友、出来の良い子、忠実な花嫁ではない」と、自分に足りない点を感じるかもしれません。

 しかし、それを気に病むことはありません。神は私たちを愛し続けてくださいます。そのことは、イエスが最後の晩餐で決定的に示しておられます。イエスは言われましたー「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ福音書22章20節)。イエスはこの行為を通して、最後の晩餐の席で十字架の神秘を先取りされました。

 神は契約に忠実な方です。人間が愛することをやめても、神は愛し続けられます。たとえ、その愛がカルワリオに続くものであっても、です。神はいつも私たちの心の扉の前で、私たちがそれを開くのを待っておられます。時に扉をたたかれますが、押し付けがましいことはされず、待ってくださいます。神の辛抱強さは、子である私たちを深く愛するお父さんの辛抱強さです。それはお父さんとお母さんを合わせた辛抱強さ、と言ってもよいでしょう。神はいつも私たちの心のそばにおられ、その扉をたたく時、優しさと豊かな愛をもってたたかれるのです。

 契約の神秘の中に入り、皆でこのように祈ってみましょう。神のいつくしみ深い御腕の中で祈り、「三位一体の命である、あの幸福の神秘に包まれている」と感じましょう。そして、この光栄にふさわしくない招待客のように感じ、驚きの祈りをもって、神に繰り返し尋ねましょう。「本当に、あなたは、愛しかご存じないのですか」と。

 神は憎しみをご存じありません。神は、憎まれることがあっても、憎むことをご存じありません。愛だけを知っておられます。私たちが祈るのは、この神に向けてです。これがすべてのキリスト教の祈りの熱い核心なのです。神は愛です。御父は私たちを待っておられ、私たちと共におられます。

(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年5月14日

♰ 「大感染の中で献身的に働くあなた方は“隣にいる聖人”の1人」国際看護師の日(12日)に

 

教皇フランシスコ、ローマの小児科病院で医師や看護師らと 2013年12月ローマの小児科病院で看護師たちを励ます(2013年12月 )human

 12日の「国際看護師の日」を迎えて、教皇フランシスコが看護の仕事に携わるすべての人たちにメッセージをおくられた。

 この日は、近代看護学の基礎を築いたフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)の誕生日を記念して設けられたもので、今年は、ナイチンゲール生誕200周年となる。

 教皇はメッセージで、「新型コロナウイルス感染拡大危機という歴史的な状況の中で、私たちは看護師、助産師の基本的で重要な役割を再発見することになりました」とされ、看護師たちの勇気と努力、プロフェッショナル精神、自己の健康を危険にさらして感染者の世話を続ける「隣人愛と自己犠牲」に、深く心を留められ、この危機の中で、任務を忠実に果たそうとして命を失った多くの医療関係者を思い、亡くなったすべての医療関係者の冥福と、遺族への神の慰めを祈られた。

 そして、福音書の「善きサマリア人」のように「傷ついた隣人に寄り添い、命を守り、命に奉仕する看護師の特別な召命」を強調されるとともに、「患者たちに、必要な処置を施し、勇気と希望、信頼や慰めを与える看護師」の患者に対する人間味あふれた態度・関係を大切なもの、と指摘された。

 また教皇は、人間の誕生と死、最も困難な状況の中で患者に寄り添う献身的な看護師たちに「あなた方は”隣にいる聖人の1人”、”野戦病院としての教会を体現する人”」と讃えられ、また、助産師について「妊娠中の女性を見守り、子どもの誕生を助ける、命と母性に直接関わる仕事」を最も尊い仕事の一つ、とされた。

 最後に教皇は、12日の「国際看護師の日」が、社会全体の健康に貢献する看護師と助産師の仕事の尊厳に注目する機会となることを願いつつ、関係者に心からの祝福をおくられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年5月13日

♰「心を騒がせる私たちに、二つの『救いの道』がある」日曜正午の祈り

 

教皇フランシスコ、2020年5月10日(日)、正午の祈り教皇フランシスコ、2020年5月10日(日)、正午の祈り 

(2020.5.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日日曜日の正午の祈りをバチカン宮殿からビデオを通して行われた。

 祈りに先立つ説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所ー最後の晩餐でイエスが弟子たちに「別れの説教」を始める場面(ヨハネ福音書14章1-12節)ーを取り上げられ、イエスが私たちに、「心を騒がせてはならない」という言葉とともに示す「救いの道」について、次のように話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日のヨハネ福音書の朗読箇所で、イエスの「別れの説教」が始まるのを聞きました。それは、イエスが、受難に向かわれる直前、最後の晩餐の終わりに弟子たちに与えた言葉です。

 これほど劇的な状況に、イエスは最初に「心を騒がせてはならない」(同14章1節)と言われました。イエスは私たちの人生のドラマの中でも、このように話しかけられます。しかし、心を騒がせないためには、どうしたらよいのでしょうか。なぜ心が騒ぐのでしょうか。

 主は、心の動揺に対し、二つの救いを示されます。

 一つは「私を信じなさい」(同14章1節)という言葉です。それは、やや理論的・抽象的な勧めに聞こえるかもしれませんが、イエスはこの言葉で、私たちに一つのはっきりとしたこと伝えようとしています。イエスは、人生には最悪の不安、動揺があることを知っています。それは「自分は独りだ」と感じ、これから起こることに対して、見当がつかないことから生まれる「無理だ、できない」という気持ちです。

 困難が困難を増大させていくこのような苦悩は、独りでは乗り越えることができません。イエスの助けが必要です。ですから、イエスは「私を信じなさい」(14章1節)と言われます。すなわち、自分自身に頼らずに、イエスに頼るように言われるのです。なぜなら、「動揺からの解放」は、イエスに信頼し頼ることを通して可能になるからです。

 イエスに頼ることは、状況を進展させます。それ「動揺からの解放」です。イエスは復活され、生きておられます。それは、まさに、いつも私たちのそばにおられるためでした。ですから、私たちはこのように言うことができますー「イエスよ、あなたが復活され、私のそばにおられると信じています。私に耳を傾けてくださると信じます。私の不安と苦悩のすべてをあなたに差し出します。あなたを信じ、あなたに私を委ねます」。

 心の動揺に対するもう一つの救いとして、イエスはこの言葉を与えられますー「私の父の家には住まいがたくさんある… あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」(14章2節)。

 これがイエスが私たちのためにしてくださったことです。私たちのために天に場所を用意してくださいました。イエスは私たちの人間性をまとわれ、それを死を超え、新たな場所、天まで持って行かれました。それは、「イエスがおられる所に、私たちもいることになる」ためでした。私たちに慰めを与える確かなこと、それは、「私たち一人ひとりに、用意された場所がある」ということです。私たち一人ひとりが、「自分のための場所がある」と言えるのです。

 私たちは目標も、行先もなしに、生きることができません。私ちは待たれる、大切な存在です。神はご自身の子らを深く愛しておられます。そして、神はわたしたちにふさわしい素晴らしい場所を用意してくださいます。それは天国です。私たちを待つ家とは「天国」であることを忘れないでいましょう。私たちにとって、今いるところは通過点です。私たちは「天国」のため、「永遠の命」のため、とこしえに生きるために造られています。「永遠」は、今の私たちには想像すらできませんが、素晴らしいのは、この「永遠」が、「悲しみも、怨恨も、分裂も、心の動揺もない、完全な喜びの中に、神や他者との完全な交わり」の中にある、ということです。

 では、どのようにして天国に達することができるのでしょうか。それは、どのような道でしょうか。

 ここにイエスの決定的な言葉があります。それは「わたしは道である」(14章6節)という言葉です。天国に入るには、イエスという道を通らなくてはなりません。それはイエスと生きた関係を持ち、愛においてイエスに倣い、その生き方に従うということです。

 キリスト者として、自分に問いかけましょうー「私はどの道を行くのか」。世俗の道や、自己主張の道や、利己的な権力の道など、「天国につながらない道」もあります。そして、謙遜な愛や、祈り、柔和、信頼、奉仕などの道に代表される「イエスの道」があります。それは、自分が主役の道ではなく、人生の中でイエスを主役とする道です。「イエスよ、私のこの選択をどう思いますか。この状況で、これらの人々と共にいて、あなたなら、どうなさいますか」と毎日、尋ねながら進む道です。イエスに天国への道を示していただくのは、よいことです。

 天の元后、聖母よ、私たちに天国を開いてくださったイエスに、私たちが従えるよう、どうかお助けください。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用、漢字の使用は当用漢字表に従っています)

 

2020年5月12日

♰「祈りと御言葉の宣言-それが司教たちの役割」教皇、第五主日のミサで

(2020.5.10 Vatican News Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

    教皇フランシスコは復活節第五主日の10日朝、サンタマルタ館でなさったミサを、欧州統合のために捧げられ、すべての司教一人ひとりの最も重要な務めについて観想された。

 教皇はまず、この二日間に続いた二つの記念ー5月9日の欧州連合が生まれるもとになった「シューマン宣言」70周年記念、もう一つは8日の欧州における第二次大戦が終わった記念ーの日を思い起こされ、「兄弟的な結束で、一致を育て、すべの人が多様性における一致を育てていくように、欧州の為に主に祈るように」と促された。

 ミサ中の説教で、教皇は、ヨハネ福音書で書かれた父の前で私たちを取りなしてくださるイエスの役割(14章1-12節)と、使徒言行録に書かれたペトロの役割(6章1-7節)に注目され、「これは、使徒の後継者である司教たちが果たすべき役割にも当てはまります。その第一の役割は祈り、そして御言葉の宣言です」と指摘された。

*私たちを主にとりなしくださるイエス

 教皇は「ヨハネ福音書14章の最初の箇所は、私たちに代わって、父の前でイエスが取りなしてくださる役割を説明しています」とされ、「イエスは何度も、父が私たちを慈しんでくださることを話されました… 天国で空を飛ぶ鳥と野のユリを世話するように、私たちを世話する人として、父について話されました」と語られた。

 そして、「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」(14章13-14節)の箇所を示され、「イエスは、とても力強い。まるで、祈りの全能の扉をお開きになっているようです」とされた。

 さらに教皇は、祈りには勇気と、福音の説教に必要なのと同じ大胆さが必要、とし、その模範としてアブラハムとモーセを挙げ、どちらも主に「談判」したこ戸を指摘されたーアブラハムはソドムの人々の扱いについて主に談判し(創世記18章16-33節)、モーセはエジプトから率いてきた民の扱いについて、主に談判した(出エジプト記32章7-14節)。

  「祈ることは、イエスと共に、何でもお与えくださる父の所に行くこと。勇気をもって祈る、率直に祈る-それは説教にも通じます」と説かれた。

 

*初期教会に生じた問題と「助祭」の誕生

 教皇は、次のこの日のミサの第一朗読で読まれた使徒言行録(6章1-7節)-ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられている、と苦情が出たのを受けて、ペトロら12人の使徒が弟子たちを全員を呼び集め、教会の新しい奉仕の形を提案したーを取り上げた。

 「使徒たちには、すべてのことをするための時間がありませんでした。それで、聖霊に啓発されたペトロが(使徒たちと共に)「助祭」を”発明”したのです…これで、問題は解決しました… 『助祭』は教会を管理・運営する役割を担い、苦情を言う人々の必要は満たされ、ペトロが言うように、自分たちは『祈りと御言葉の奉仕に専念』することができるようになりました」と語られた。 

*司教の第一の務めは

 教皇は、「このようにして、司教の第一の務めは『祈ること』となった」とされ、「司教は、イエスがご自分の民の為に戦おうとしてお持ちになった自信と大胆さをもって、まず御父の所に行くのです… もしも他の事が祈りのための機会を奪うのであれば、何かが間違っています」と述べられた。

 そして、「私たちはほんのわずかのことしかしないが、神はいくつものことをなさる。神はご自分の教会でいくつものことをなさるのです… ですから、教会を前進させるのは『祈り』なのです」と強調され、「これは真実です。なぜなら、イエスが御父の前に立たれ、『あなたが私の名において願うことなら、何でも私はする。御父に栄光を帰するために』と約束されたからです」と説かれた。

 最後に教皇は「教会はこの大胆な祈りで前進するのです。それは、御父に近づくことなしには生きることができない、と教会が知っているからです」と述べ、説教を締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年5月10日

♰「大きな奉仕をする彼らを、主が祝福してくださいますように」8日・世界赤十字デー

教皇フランシスコ、2020年5月8日のミサで教皇フランシスコ、2020年5月8日のミサで  (ANSA)

 教皇フランシスコは8日、バチカンのサンタ・マルタ館でミサを捧げられ、冒頭、この日が「世界赤十字デー」に当たることに言及。「赤十字、赤新月社(注:イスラム教国の赤十字に相当する団体)の人々のために祈りましょう。大きな奉仕をする彼らを、主が祝福してくださいますように」と祈られた。

 ミサの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所(ヨハネ福音書14章 1-6節)を取り上げられた。

この箇所で、イエスは弟子たちに「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」と言われた。

 教皇は、このイエスの弟子たちとの対話が、最後の晩餐で行われたことを思い起こされながら、弟子たちの一人に裏切られることを予告したイエスが、弟子たちに慰めを与えている姿を見つめられ、「主はどのように慰められるのでしょうか… 主は常に、真理、そして希望をもって、近く寄り添い、慰めてくださるのです」と説かれた。

 さらに「私のいる所に、あなたがたもいることになる」というイエスの言葉から、「主は、常に私たちに寄り添われ、沈黙の中におられる時も私たちは主がおられることを知っています」と語られ、「寄り添い」は神のスタイルであり、御子の受肉は、私たちのそばにおいでになるためだったのです」と話された。

 また、教皇は「イエスは真理をお述べになることで慰められます…『私は真理である』とご自身が言われるように、イエスは真理を隠されません」とも語られ、「イエスは父のもとに『行く』と言われますが、それは「死」を意味しています。しかし、イエスはその真理を、単純さと柔和さをもって告げておられます」とされたうえで、「イエスの慰めとは、『希望』なのです」と言われた。

 イエスは「心を騒がせないように」と弟子たちを諭し、ご自分を信じるように求めておられる。そして、御父のもとで、彼らのために場所を用意して、戻って来られる。彼らをご自分のもとに迎え、ご自分と共にいることになる、と励まされる。

 教皇は「人生を歩んでいる私たちの誰がこの世を去る時でも、主はおいでになり、私たちの手を取られ、ご自分のもとに迎えてくださいます。それが『希望』です」と強調される一方、「それでも、私たちは特に辛く苦しい時に、主の慰めを受け入れず、主に対して怒ることがあります」とも指摘された。

 そして最後に、「主に寄り添われ、真理によって希望の扉を開いていただく『慰めの恵み』を祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年5月9日

◎新・教皇連続講話「祈りの神秘」①信仰は「叫び」、祈る人の心の底からの「声」

教皇フランシスコによる一般謁見 2020年5月6日教皇フランシスコによる一般謁見 2020年5月6日  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは6日、水曜日の一般謁見をビデオを通して行われ、その中で「祈りの神秘」をテーマに、カテケーシス(教会の教えの解説)の新シリーズを始められた。

 バチカン広報局発表の教皇のカテケーシスの英語版の翻訳は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日から、「祈り」をテーマに、新しいシリーズのカテケーシスを始めましょう。祈りは信仰の呼吸、信仰そのものの表現です。祈りは、神を信じ、神により頼む人が発する叫びです。

 福音書に登場するバルティマイのエピソード(マルコ福音書10章46-52節参照)を考えてみましょう。実は、彼は私にとって、最も好感を与える登場人物です。彼は目が不自由で、エリコの町はずれの道端で、物乞いをしていました。彼は匿名の人物ではありません。顔があり、名前ーバルティマイ、すなわち「ティマイの子」という名前ーもあります。

 エリコは巡礼者や商人が絶え間なく行き交う、人々の交差点でした。ある日、バルティマイは、イエスが近くをお通りになる、ということを耳にし、イエスを待ち伏せることにしました。イエスに会うために、できることは何でもするつもりでした。イエスに会うために、多くの人がバルティマイと同じことをしたのです。ザアカイを思い出してください。彼は木の上に登りました。たくさんの人々がイエスに会おうとし、バルティマイも、そうしたのです。

 こうして、バルティマイは、声を限りに叫ぶ人として、福音書に名を残すことになりました。彼は目が不自由なので、イエスがどのあたりに来ておられるのか、目で確かめることはできませんでしたが、だんだん大きくなる群衆の声でそれを感じとりました。彼は一人ぼっちで、彼のことを気遣う人は誰もいませんでした。では、彼は何をしたのでしょうかー叫んだのです。ひたすら叫びました。彼は、自分が持っている唯一の手段ー声-に頼ったのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(マルコ福音書10章47節)と、叫び続けました。

 バルティマイが繰り返す叫びは、人々をいらだたせ、多くの人が彼を叱りつけて、黙らせようとしました。しかし、彼は黙るどころか、ますます叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください」。この見事な頑固さは、恵みを求めて、神の心の扉をひたすら、たたき続ける人のものです。「ダビデの子よ」という表現はとても重要です。つまりそれは「メシア」を指しているからです。彼はイエスを「メシア」と呼びました。こうして皆から蔑視されている人の口から、一つの信仰告白が発せられるのです。

 イエスはバルティマイの叫びを聞きました。彼の祈りは、イエスの心、神の心に触れました。そして、彼に救いの扉が開くのです。イエスはバルティマイを呼んでくるように言われました。彼は躍り上がってイエスのところに来ました。最初、黙るように人々から言われていた彼が、今、師のところに連れて行かれるのです。イエスは彼に語りかけ、何をして欲しいのかーこれが重要ですーと尋ねます。すると、彼の叫びは懇願となりました。「また見えるようになることです!」(同10章 51節)

 イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った(同10章 52節)」。イエスは、貧しく、無力で、人々から軽蔑されている彼の中に、神の憐みと力を引きつける信仰の力を認めたのです。

 信仰は、天に上げる2つの手と、救いの恵みを求めて叫ぶ声を持っています。カトリック教会のカテキズムは「謙遜は、祈りの基礎」(2559項)である、と強調します。祈りは、地面、「humus」から生まれます。-「umile」(謙遜な、慎ましい)「umiltà」(謙遜、慎ましさ)は、「humus」(地面)という言葉から来ます。祈りは、私たちの不安定な状態、神への絶え間ない渇きから生まれます。

 バルティマイがそうしたように、信仰は「叫び」です。不信仰は、この叫びを押し黙られようとします。人々は、バルティマイを黙らせようとしました。彼は信仰を持っていたが、人々はそうではなかったのです。叫びを押し黙らせるのは”omertà(マフィアの「いかなることがあっても組織の秘密を守る」という沈黙の掟)”のようなものです。信仰は、理由の分からない苦痛に満ちた状況に対して、異議を唱える行為です。不信仰は、私たちが置かれている状況を受け入れさせるだけですが、信仰は「救いへの希望」です。不信仰は、私たちを抑圧する悪に慣れさせます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。このカテケーシスのシリーズを、私たちはバルティマイの叫びをもって始めました。なぜなら、おそらく彼の姿の中に、すべてが書かれているからです。バルティマイは、忍耐強い人です。周りにいた人々は、彼に「懇願しても無駄だ」と言い、「叫んでも答えはない、うるさくて、ただ迷惑なだけだ。お願いだから叫ぶのをやめてくれ」と黙らせようとしました。しかし、彼は黙りませんでした。そして、最後に、望んでいたものを得たのです。

 反対する議論よりも強いのは、祈る人の心の底からの「声」です。私たちは皆、心の中にこの声を持っています。それは、そうするように命じられることなしに、自然に流れ出る声です。自分の人生の旅の意味をー特に、私たちが闇の中にいると感じる時にー問いかける声です。「イエスよ、私を憐れんでください!」ーこれは美しい祈りです。

 おそらく、この声は、すべての被造物の中に刻まれているのではないでしょうか。慈しみの神秘が達成されるように、すべてが祈り、願い求めています。祈るのは、キリスト教徒だけではありません。キリスト教徒は、すべての男性、女性一人ひとりと祈りの叫びを分かち合います。しかし、その祈りの地平線は、さらに広げることができるものですー使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8章22節)と語っています。

 芸術家たちは、しばしば被造物のこの「沈黙の叫び」を、その作品の中で表現してきました。すべての被造物の中でこの叫びが、あふれようとし、特に人間の心の中に、あふれ出ます。それは、人間が「神の物乞い」(「カトリック教会のカテキズム」2559項参照)だからです。「神の物乞い」ーなんと素晴らしい、人間の定義でしょう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二、引用された聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年5月7日

♰「困難の中にある教会と全世界に、主が慈しみと平安をくださるよう、聖母マリアに祈ろう」一般謁見で

(2020.5.6 Vatican News Robin Gomes)

 「あさって8日に、アルゼンチンではルハンの聖母が祝われがます」とされた教皇は、聖母マリアに対し、「神の母であり私たちの母よ。私たちのために執り成し、世界が経験しているこの困難な時期に必要な恵みを御子からお受けください」と祈られた。

 首都ブエノスアイレス近郊にあるルハンの聖母大聖堂には、教皇も訪れたことがあるが、このほど聖母マリア大聖堂を管轄するホルヘ・シャイニッヒ大司教に書簡を送り、5月8日に、聖母マリアに見つめていただくために、すべての神の民と共に、同大聖堂に「霊的に、そして仮想現実的に巡礼し、あなたと共にいるようにします」と述べられた。

 この日の一般謁見で、教皇は、同じ8日に、ポンペイの至聖なるロザリオの聖母大聖堂で、聖母マリアへの嘆願が行われることを思い起こされ、イタリアの信徒たちに「この信仰と献身を示す伝統的な行事に向けて、霊的に一致するように」と強く願われ、「聖母マリアの取り次ぎを通して、主が、教会と全世界に慈しみと平安をくださいますように」と祈られた。

 

2020年5月6日

♰「御国のための良き働き手を主に願う」世界召命祈願の日-14日を世界の人々による新型ウイルス克服の祈りと断食の日に

   教皇フランシスコは、復活節の第四主日で、「世界召命祈願の日」でもある3日の正午、Regina Coeli,Alleluia(アレルヤの祈り)で、召命者たちと新型コロナウイルスに苦しめられている人々のために祈られた。

*神の呼びかけに応える勇気を

 教皇はこの祈りの後の説教で、この日、「世界召命祈願の日」にふさわしいイエスの言葉として、マタイ福音書に書かれた「収穫は多いが、働き手は少ない.。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(9章37-38節)を思い起こされた。

 そして、「キリスト教徒は、人生のいかなる状況においても、常に神の呼び掛けに応える存在」であるとされたうえで、「司祭職と生涯を捧げる人生には、勇気と忍耐が求められ、祈ることなしに、その道を進むことはできません」と言明され、主の御国のための良き働き手の賜物を主が与えてくださるように、主の愛に応える心と手をもって、祈るように勧められた。

*感染に苦しむ人、感染と戦う人の身近にいる

 また教皇は、現在の新型コロナウイルスの世界的感染拡大の中で、感染して苦しんでいる人々、そして感染者の治療などに当たっている人々のために、神が支えてくださるように祈った。

 さらに、現在の危機に適切かつ効果的に対処しようと、様々な形で進められている国際協力への支持を表明。「世界の国々の科学的な能力を、透明で偏りのないやり方で、統合し、ワクチンと治療法を開発し、世界のあらゆる場所にいる感染者への治療に行き渡らせるようにすることが重要です」と訴えられた。

 教皇は、現在の困難な状況の中での祈りの重要性を改めて強調、世界中の宗教指導者、教育学者、文化指導者のグループであるHigher Committee of Human Fraternity(人類の友愛高級委員会)の提案を受けて、5月14日を「宗教を信じる全ての人にとっての祈りと断食の日」とし、「心を一つにして、人類が新型コロナウイルスに打ち勝つことを助けてくださるよう神に願う」よう求められた。

 最後に教皇は、今月が聖母マリアの月であり、現在の世界的な危機的状況の中で、各地の聖母マリアに捧げられた聖堂を”霊的訪問”するように、信徒たちに勧められた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年5月3日

♰5月3日 「第57回世界召命祈願の日」教皇メッセージ「一人ひとりの心に触れるように」

2020年「第57回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2020年5月3日 「召命の言葉」

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年の8月4日、アルスの聖なる主任司祭の没後160周年にあたって、私は、主の召し出しに応えて神の民のために日々仕えている司祭の皆さんに、一通の手紙をお渡しすることにしました。

 その際、司祭の皆さんに感謝し、その奉仕職を支えるために、四つの鍵となる語ー痛み、感謝、強い心〔勇気〕、賛美ーを選びました。ガリラヤ湖で嵐の夜にイエスとペトロが体験した驚くべき出来事を伝える福音箇所(マタイ福音書14章22-33節参照)を背景にして、今日「第57回世界召命祈願の日」に、これらの語を改めて取り上げ、神の民に示すことがでれば、と考えています。

 パンを増やして群衆を驚かせた後、イエスはご自分が群衆を解散させている間に、舟に乗って先に向こう岸へ行くよう弟子たちに命じました。湖を渡る弟子たちの姿は、どこか私たちの人生の旅を思わせます。実際、私たちの人生の舟は、無事に上陸しようと、ゆっくりと、常に不安げに進みます。

 水上のさまざまな危機や好機に対応できるよう備えながらも、最後には、かじ取りに正しい航路への方向転換を期待します。ところが舟は往々にして、安全な港に導く灯台の明かりを頼りとせず、幻想に振り回されて航路から外れたり、困難、疑い、恐れという逆風に見舞われたりします。

 このことは、ナザレの師なる方に従うよう呼ばれた弟子たちの心にも起こります。弟子たちは、身の安全を顧みずに主に従うことを、勇気をもって選び取り、対岸に渡ることを決意しなければなりません。その冒険には危険が伴います。夜になり、逆風が吹き、舟は波に翻弄されます。そして、「自分には無理ではないか、召し出しにこたえられないのではないか」という不安に押しつぶされそうになります。

 けれども福音書は、この決して容易ではない冒険において、「私たちは、独りではない」と語っています。主は、漆黒の闇に差す夜明けの光のように、波立つ湖上を歩いて弟子たちの所に来られます。そして、波の上を歩いてご自身のもとに来るようペトロを招きます。ペトロが沈みかけているのを見ると、彼を助け、最後には舟に乗り込み、風を静めます。

 ですから、召命についての最初の言葉は「感謝」です。正しい航路を進むのは、自分の努力次第でもなければ、自分で選んだ進路だけで決まるのでもありません。自己とその人生計画の実現は、他から切り離された「自分」の内部での決定による数学的な結果ではありません。それはむしろ、天からの呼び掛けに対する応答に他なりません。主こそが、これから向かう対岸を示し、それに先立って舟に乗る勇気を与えてくださるかたです。主こそが、私たちに呼び掛けながら、私たちのかじ取りとなって、私たちに寄り添い、行き先を示し、「ためらい」という岩場で座礁しないよう導き、荒波の上を歩けるようにすら、してくださるかたです。

 どの召命も、主が私たちに会いに来られる時の優しいまなざしから生まれます。主は、舟が嵐に襲われているときにこそ、来てくださいます。「それは、私たちの選択というよりは、主の無償の召し出しへの応答です」(「聖ヴィアンネ没後160周年記念、教皇から司祭への手紙(2019年8月4日)」)。ですから、感謝に向けて心を開き、自分たちの人生を神が通っておられることが分かったなら、私たちはその呼び掛けに気付き、受け入れることができるでしょう。

湖上を歩いて近づいて来られるイエスを見て、弟子たちは最初、幽霊だと思い、おびえます。しかしイエスは、一つの言葉をもってすぐに彼らを元気づけます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マタイ福音書14章27節)。これは、私たちの人生と召命の旅に必ず伴わせるべき言葉です。「強い心〔coraggio(安心しなさい)〕」-これこそ、私が皆さんにお伝えしたい二つ目の言葉です。

 私たちはたびたび、心をかき乱す幽霊によって、前へ進むこと、成長すること、主が用意してくださった道を選ぶことを妨げられます。安全な岸を離れ、ある生き方──結婚、叙階された聖職、奉献生活など──を受け入れるよう招かれた時、最初の反応が「疑念という幽霊」によるものであることが、よくあります。「これが私の召命であるはずがない。本当にこれが正しい道なのか。主は本当に、これを私に求めておられるのだろうか」と。

 そして、気力を奪い、混乱をもたらし、船出する岸に留め置かせる、そうした考えや言い訳、打算が皆、次第に内側で膨らんできます。そうして、自分は間違っていた、自分にはとても無理だ、追い払うべき幽霊を見ただけだ、と思ってしまうのです。

 主は、人生の土台となる選択ー結婚なのか、主に仕えるために自分を特別に奉献するのか、といった選択ーには「強い心」が必要であることをご存じです。主は、私たちの心の舟を揺るがす問題、疑い、困難を知っておられます。

 だからこそ、「恐れるな。私はあなたとともにいる」といって、元気づけてくださるのです。たとえ海が荒れていても、私たちに会いに来られ、寄り添ってくださる主の現存を信じることで、私たちは無気力な状態、以前わたしが「感傷的悲嘆」(「聖ヴィアンネ没後160周年記念、教皇から司祭への手紙(2019年8月4日)」)と呼んだ状態、つまり、私たちを動けなくし、召命のすばらしさを味わえなくする意気消沈の状態から解放されます。

 「司祭への手紙」では痛みについても語りましたが、ここでは異なる角度からこの語を捉え、疲れについて話したいと思います。どの召命にも、努力は欠かせません。主が私たちをお呼びになるのは、私たちを「水の上を歩く」ことができるペトロのようにしたい、と願っておられるからです。

 水の上を歩くとは、主が示される具体的で日常的な方法で、とりわけ、信徒、司祭職、奉献生活のさまざまな形態の召命を通して、福音のためにささげるものとして自分の人生を手にすることです。しかしながら、私たちは使徒ペトロと同じです。願いと情熱をもっていますが、その一方で弱さと恐れも抱えています。

 結婚生活や司祭職において自分に課せられる責任や、これから起きうる不幸への不安に押しつぶされると、私たちはすぐにイエスから目をそらして、ペトロのように沈んでしまうでしょう。その反対に、弱く欠けているものがあっても信仰があれば、復活した主に向かって歩み、嵐にも打ち勝つことができます。私たちが疲れと恐れのために沈みそうになる時には、主は確かに手を差し伸べ、喜びと熱意をもって召命を生きるのに必要な意欲を与えてくださるのです。

 最後にイエスが舟にお乗りになると、嵐はやみ、波は静まります。それは、私たちの日常生活の中で、人生の混迷期に、とりわけ嵐のようなときに、主が働いておられることを表す美しい情景です。イエスは逆風に静まるよう命じます。すると悪の力、恐怖の力、そして諦めの力は私たちに及ばなくなります。

 私たちは、生きるように、と呼ばれた具体的な召命の中で、そうした逆風によって疲れ果ててしまうかもしれません。私が念頭に置くのは、社会で重要な責務を果たす人々、まさに「勇者」と呼んで然るべき結婚している人々、そして特に、奉献生活や司祭職に就いている方々のことです。

 私は知っています。皆さんの疲れ、心を重たくしがちな孤独を、召し出しの熱い炎をだんだんと弱めてしまう慣れの危険、現代の不確実性と不安感による重苦しさ、将来への不安を。安心してください。恐れないでください。イエスは私たちのすぐそばにおられます。イエスこそがわたしたちのいのちの唯一の主であることに気付くなら、イエスは手を伸ばし、私たちをつかまえて、救ってくださいます。

 そうすれば、波のただ中にあっても、私たちの命は賛美へと開かれます。これは召命についての最後の言葉ですが、至聖なるマリアの内的な姿勢から学ぶように、との招きでもあります。マリアは、ご自分に注がれる神のまなざしに感謝し、恐れと戸惑いを信仰のうちにささげ、強い心で召し出しを受け入れました。マリアはご自身の人生を、主をあたたえる終わりのない賛歌としたのです。

 親愛なる友である皆さん、私は、教会がとりわけ今日という日に、しかしまた、私たちの共同体における普段の司牧活動の中でも、召命に奉仕するこの道を進みながら、一人ひとりの信者の心に触れるよう願ってやみません。

 そうすれば、それぞれのキリスト者は、自分に向けられた神の召し出しに感謝をもって気づき、「はい」と答える強い心をもち、キリストへの信頼を通して疲れを克服し、そしてついには、神と、兄弟姉妹と、全世界をたたえる賛美の歌として、自分の人生をささげることができるでしょう。乙女マリアが私たちに寄り添い、私たちを執り成してくださいますように。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2020年3月8日 四旬節第二主日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳、「カトリック・あい」編集=表記は当用漢字表記にならいました)

【公式英語版全文】

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE 2020 WORLD DAY OF VOCATIONS (3 May 2020) Words of Vocation

 

Dear Brothers and Sisters,

On 4 August last year, the 160th anniversary of the death of the Curé of Ars, I chose to write a letter to all those priests who daily devote their lives to the service of God’s people in response to the Lord’s call.

On that occasion, I chose four key words – pain, gratitude, encouragement and praise – as a way of thanking priests and supporting their ministry. I believe that today, on this 57th World Day of Prayer for Vocations, those words can be addressed to the whole people of God, against the backdrop of the Gospel passage that recounts for us the remarkable experience of Jesus and Peter during a stormy night on the Sea of Galilee (cf. Mt 14:22-33).

After the multiplication of the loaves, which had astonished the crowds, Jesus told his disciples to get into the boat and precede him to the other shore, while he took leave of the people. The image of the disciples crossing the lake can evoke our own life’s journey. Indeed, the boat of our lives slowly advances, restlessly looking for a safe haven and prepared to face the perils and promises of the sea, yet at the same time trusting that the helmsman will ultimately keep us on the right course. At times, though, the boat can drift off course, misled by mirages, not the lighthouse that leads it home, and be tossed by the tempests of difficulty, doubt and fear.

Something similar takes place in the hearts of those who, called to follow the Teacher of Nazareth, have to undertake a crossing and abandon their own security to become the Lord’s disciples. The risk involved is real: the night falls, the headwinds howl, the boat is tossed by the waves, and fear of failure, of not being up to the call, can threaten to overwhelm them.

The Gospel, however, tells us that in the midst of this challenging journey we are not alone. Like the first ray of dawn in the heart of the night, the Lord comes walking on the troubled waters to join the disciples; he invites Peter to come to him on the waves, saves him when he sees him sinking and, once in the boat, makes the winds die down.

The first word of vocation, then, is gratitude. Taking the right course is not something we do on our own, nor does it depend solely on the road we choose to travel. How we find fulfilment in life is more than a decision we make as isolated individuals; above all else, it is a response to a call from on high. The Lord points out our destination on the opposite shore and he grants us the courage to board the boat. In calling us, he becomes our helmsman; he accompanies and guides us; he prevents us from running aground on the shoals of indecision and even enables us to walk on surging waters.

Every vocation is born of that gaze of love with which the Lord came to meet us, perhaps even at a time when our boat was being battered by the storm. “Vocation, more than our own choice, is a response to the Lord’s unmerited call” (Letter to Priests, 4 August 2019). We will succeed in discovering and embracing our vocation once we open our hearts in gratitude and perceive the passage of God in our lives.

When the disciples see Jesus walking towards them on the sea, they first think that he is a ghost and are filled with fear. Jesus immediately reassures them with words that should constantly accompany our lives and our vocational journey: “Take heart, it is I; have no fear” (Mt 14:27). This, then, is the second word I wish to offer you: encouragement.

What frequently hinders our journey, our growth, our choosing the road the Lord is marking out for us, are certain “ghosts” that trouble our hearts. When we are called to leave safe shores and embrace a state of life – like marriage, ministerial priesthood, consecrated life – our first reaction is often from the “ghost of disbelief”. Surely, this vocation is not for me! Can this really be the right path? Is the Lord really asking me to do this?

Those thoughts can keep growing – justifications and calculations that sap our determination and leave us hesitant and powerless on the shore where we started. We think we might be wrong, not up to the challenge, or simply glimpsing a ghost to be exorcized.

The Lord knows that a fundamental life choice – like marriage or special consecration to his service – calls for courage. He knows the questions, doubts and difficulties that toss the boat of our heart, and so he reassures us: “Take heart, it is I; have no fear!” We know in faith that he is present and comes to meet us, that he is ever at our side even amid stormy seas. This knowledge sets us free from that lethargy which I have called “sweet sorrow” (Letter to Priests, 4 August 2019), the interior discouragement that hold us back from experiencing the beauty of our vocation.

In the Letter to Priests, I also spoke about pain, but here I would like to translate the word differently, as fatigue. Every vocation brings with it a responsibility. The Lord calls us because he wants to enable us, like Peter, to “walk on water”, in other words, to take charge of our lives and place them at the service of the Gospel, in the concrete and everyday ways that he shows us, and specifically in the different forms of lay, priestly and consecrated vocation. Yet, like Saint Peter, our desire and enthusiasm coexist with our failings and fears.

If we let ourselves be daunted by the responsibilities that await us – whether in married life or priestly ministry – or by the hardships in store for us, then we will soon turn away from the gaze of Jesus and, like Peter, we will begin to sink. On the other hand, despite our frailty and poverty, faith enables us to walk towards the Risen Lord and to weather every storm. Whenever fatigue or fear make us start to sink, Jesus holds out his hand to us. He gives us the enthusiasm we need to live our vocation with joy and fervour.

When Jesus at last boards the boat, the winds die down and the waves are calmed. Here we have a beautiful image of what the Lord can do at times of turbulence and tempest in our lives. He stills those winds, so that the forces of evil, fear and resignation no longer have power over us.

As we live out our specific vocation, those headwinds can wear us down. Here I think of all those who have important responsibilities in civil society, spouses whom I like to refer to – not without reason – as “courageous”, and in a particular way those who have embraced the consecrated life or the priesthood. I am conscious of your hard work, the sense of isolation that can at times weigh upon your hearts, the risk of falling into a rut that can gradually make the ardent flame of our vocation die down, the burden of the uncertainty and insecurity of the times, and worry about the future. Take heart, do not be afraid! Jesus is at our side, and if we acknowledge him as the one Lord of our lives, he will stretch out his hand, take hold of us and save us.

Even amid the storm-tossed waters, then, our lives become open to praise. This is the last of our vocation words, and it is an invitation to cultivate the interior disposition of the Blessed Virgin Mary. Grateful that Lord gazed upon her, faithful amid fear and turmoil, she courageously embraced her vocation and made of her life an eternal song of praise to the Lord.

Dear friends, on this day in particular, but also in the ordinary pastoral life of our communities, I ask the Church to continue to promote vocations. May she touch the hearts of the faithful and enable each of them to discover with gratitude God’s call in their lives, to find courage to say “yes” to God, to overcome all weariness through faith in Christ, and to make of their lives a song of praise for God, for their brothers and sisters, and for the whole world. May the Virgin Mary accompany us and intercede for us.

Rome, Saint John Lateran, 8 March 2020, the Second Sunday of Lent

 

Franciscus

 

 

【バチカン広報局発表の公式英語全文】

2020年5月1日

◎教皇講話「山上の説教-八つの幸い」⑨「世との妥協を拒み、キリストの道を行くー天国の命に導かれる生き方」

 

2020.04.29 Udienza GeneralePope Francis at the General Audience on Wednesday  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは29日、水曜恒例の一般謁見を、新型コロナ対策のためバチカン宮殿図書室からの動画配信の形で続けられた。その中で、新約聖書のイエスの「山上の説教」の「八つの幸い」をテーマにしたカテキーシスでは、最後、8番目の「幸い」-「義のために迫害された人々は、幸いである」(マタイ福音書5章10節)について、以下のようにお話しになった。をテーマにした講話は今回で最後となる。

**********

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日のカテケーシスで、「山上の説教―八つの幸い」をテーマにした一連の考察を終えたいと思います。

 先ほど耳を傾けたように、「八つの幸い」の終わりに、義のために迫害される人々の終末の喜びが宣言されます。この最後の教えが告げるのは、最初の教えと同じ「天の国はその人たちのものである」という幸いです。

 天の国は、心の貧しい人たちのものであるのと同様に、義のために迫害される人々のものでもあるのです。こうして、私たちは、「イエスの山上の説教の八つの幸いの教え」を一巡し、最後に一つのまとまりに到達したことが分かります。

 心の貧しさ、悲しむこと、柔和さ、義への渇き、憐れみ深さ、心の清さ、平和への努力は、キリストのために迫害を受けることにつながるかもしれません。しかし、その迫害は、最後には、天国での喜びと大きな報いをもたらすことになるのです。「八つの幸い」の道は、復活への歩みです。それはこの世に属した生き方から、神に属した生き方へ、肉すなわちエゴイズムに導かれた人生から、聖霊に導かれた人生へと向かわせるのです。

 この世は、その偶像と、妥協、彼らが優先したいものによって、このような生き方を認めてはくれません。「罪の構造」は、しばしば、真理の霊からこれほどにも遠い人間のメンタリティーから築かれます。世はこの霊を見ようとも知ろうともしません(ヨハネ福音14章17節参照)。

 世は、貧しさや、柔和さ、清さを否定することしかできず、福音が説く生き方を誤りや問題であるかのように、すなわち、「排除すべき何か」のように見なすのです。「彼らは理想主義者か、狂信者なのだ」と、世は考えるのです。

 もしも、この世がお金に従って動くなら、自分を差し出し、自己犠牲のうちに生きる人は誰でも、利益追求のシステムの中では、「目障りな存在」となってしまいます。この「目障り」という言葉は一つの鍵です。キリスト教的証しが多くの人に善いものをもたらすことが、世俗的メンタリティーを持つ人々には「目障り」なのです。

 聖性と共に、神の子らの生き方が現われる時、その美しさの中には、立場をはっきりさせるようにと招く、安定を揺さぶる何かを人に感じさせます。それは、人からとがめたてられ、敵意を持たれ、議論されても、自らを善に対して開くか、それとも、光を拒み、心をかたくなにするか(知恵の書2章14-15節参照)と問いかけるのです。

 殉教者たちの迫害において、敵意が憎悪にまでふくらむ様子は注視すべきものです。これは、ヨーロッパの前世紀の独裁体制において、キリスト者とその証し、英雄性に対して、いかに憎悪が形成されたかを見るだけで十分です。

 同時に、迫害のドラマは、この世の成功や、虚栄、妥協への隷属から自由な場所があることをも示しています。キリストのためにこの世から拒絶される人は、何を喜びとしているのでしょうか。その人は全世界よりも価値のある何かを見つけたことを喜んでいるのです。実際、「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」(マルコ福音書8章36節)と言われるとおりです。

 今この時も世界の各地で迫害に苦しんでいる多くのキリスト教徒たちを、痛みと共に思い起します。彼らの苦難が一刻も早く終わることを希求し、祈らなければなりません。今日の殉教者たちは、初期のキリスト教時代よりも多いのです。これらの兄弟姉妹たちに私たちの連帯を伝えましょう。私たちは、唯一のからだです。これらのキリスト者たちは、キリストの神秘体、すなわち教会の、血を流している手足なのです。

 しかしながら、私たちは「真福八端」のこの教えを、被害者的、自己憐憫的な見方で読んではいけません。実際、人々から軽蔑は、常に迫害と同義というわけではありません。この教えのすぐ後で、イエスは、キリスト者とは「地の塩」であると言い、「塩に塩気がなくなる」ことがないように、注意しています。さもなければ、塩は「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ福音書5章13節)です。もちろん、私たちの過ちのせいで軽蔑されることもあるのです。それは、私たちがキリストと福音の味を失った時です。

 「八つの幸せ」の謙遜な道を忠実に歩まねばなりません。なぜならこれは、この世ではなく、キリストに属する者となるように導く道だからです。聖パウロの生涯を思い出してください。パウロが自分を正しいと思っていた時、実は彼は迫害者でした。しかし、自分が迫害者だと気が付いた時、「愛の人」となりました。そして、喜びをもって迫害の苦しみに立ち向かったのです(コロサイの信徒への手紙1章24節参照)。

 もし神が私たちに恵みを賜り、私たちを十字架に掛けられたキリストと似た者とし、イエスのご受難に私たちを一致させてくださるならば、締め出しと迫害は新しい命の現れなのです。この生き方は、私たち人間とその救いのために、「軽蔑され、人々に見捨てられた」(イザヤの預言53章3節、使徒言行録8章30-35節)キリストと同じものです。キリストの霊を受け入れることで、私たちは心に多くの愛を抱き、この世の欺瞞と妥協することなく、その拒絶を受け入れながら、命を世のために与えることができるでしょう。

 この世との妥協は危険です。キリスト者は常に、この世の精神に妥協する誘惑にさらされています。妥協を拒み、イエス・キリストの道を行くことーこれが最も大きな喜び、天国の命に導かれる生き方です。迫害の中には常に私たちに寄り添うイエスの存在があります。イエスは私たちを慰めてくださり、聖霊の力が私たちを前進させます。福音に忠実な生き方が人々の迫害を招く時も、勇気を失ってはなりません。この道において、聖霊が私たちを支えてくださるからです。

 

(編集「カトリック・あい」注:聖書の引用の日本語訳は原典に最も近く、現代日本語としてもきれいな、カトリック、プロテスタント共働で翻訳した最新の「聖書 聖書協会共同訳」を使用、「私」「命」などは同共同訳に原則としてならい、当用漢字表記に改めてあります。また「バチカン放送」の日本語訳にあった「真福八端」は”古語”であり、現在では一般の方には馴染みのない言葉になっているので、これも共同訳にならって、分かりやすい日本語に改めました)

2020年4月30日

♰「悲しみの中で、イエスは私たちと共に歩んでくださる」ー復活節第三主日のミサ説教

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Pope Francis celebrates Sunday Mass at the Casa Santa Marta chapel praying for those who are sad. He reminds us in his homily that Jesus is near to all who feel distress and dissatisfaction.

(2020.4.26 Vatican News  Sr Bernadette Mary Reis, fsp)

 「今日、このミサで、私たちは悲しみに苦しんでいるすべての人たちのために祈ります。彼らが、一人孤独であるため、将来に何を期待できるか分からないから、です」ーこれが、26日、復活節第三主日のミサをカサ・サンタマルタの聖堂で捧げられた教皇フランシスコの祈りの意向だった。教皇はもう一度、経済的に苦しんでいる、恐らくは仕事を無くした家族に思いを寄せられた。

 ミサ中の説教で、教皇はこの日朗読されたルカ福音書(24章13-35節)を取り上げられた。この箇所では、エマオに行く途中の弟子たちに主がどのように同行されたかが、語られている。

*キリスト教徒はイエスと会っている

 まず教皇は、キリスト教徒についての説明から始められ、「彼あるいは彼女がイエスに会い、自分たちにイエスが会ってくださるようにしたから、その人はキリスト教徒なのです… 主は、エマオへの道で二人の弟子と心を通わされたのと、まったく同じように、私たちと心を通わせてくださいます」と語られた。

 

*私たちは神を渇望していることに気付かない

 「それは、私たちが生まれながらに持っている『不満の種』から始まります。何度も何度も、私たちは必要のある魂の渇きに気付きません。私たちは、決して満足を得られることのない間違った道をいくつも進みます。私たちが本当に渇望しているのは、『神との出会い』であるのに、です」と教皇は話された。

*神は私たちと出会うことを渇望されている

 そして、「神の側は私たちと出会うこと渇望されています。イエスを私たちのところにお送りになったのは、神は私たちの側に来られ、その渇きを癒やされるためなのです」と述べられたうえで、イエスは「私たちの置かれた状況を大切にされ」「ゆっくりと動かれ」「私たちの準備か整うのをお待ちになり」「忍耐強く」「急いで進もうとはされません」とされ、「私たちの側に同行され、私たちが自分の悩みについて語るように促され、(注:すでにご存じなのに)知らないふりさえ、なさいます」と説かれた。

 「主は私たちの話をお聴きになるのを好まれます。そうすることで、私たちをよく理解し、私たちが自分の不満に対して正しく対応できるようにしてくださいます。主は性急にことを運ばれません。いつも私たちのペースで進まれます… 私たちが最初の一歩を踏み出すのを待っておられます。そして、適当な時期が来たときに、私たちに問いかけられ…そして、応えられます。要点を私たちが分かるまで説明してくださいます… それから、私たちの不満がどれほど深いかお知りになるために、私たちから遠く離れるふりをされます… 私たちの不満がイエスと出会った瞬間、そこに恵みと命が満たされた人生が始まるのです」

 

*イエスは何と言われたか?

 教皇は、「私はいつも、イエスが二人の弟子たちにおっしゃったことに好奇心を持っています。同じようにするために… それは素晴らしいカテキーシス(教理の説明)であったに違いありません」、そして、イエスは、私たちが彼の存在に気付いていない時でさえも、「私たちの旅に、ずっと同行されておられるのです」と強調された。

 「私たちは、不信の闇、私たちが犯した罪の恐ろしい闇の中でさえも、イエスに出会います。主は、苦悩する私たちを助けてくださるために、いつもそこにおられます。いつも私たちと共におられます… 主は私たちとの出会いを強く望んでおられ、私たちに同行してくださいますーこれがキリスト教の核心なのです」

 

*教皇の祈り

 説教の締めくくりに教皇は次のように祈られた。「私たちが共に歩んでくださっていることを、知り、はっきりと認めるために、私たち一人一人に、毎日、あなたと出会う恵みをくださいますように。イエスは巡礼の道を歩む私たちの仲間です」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年4月26日

♰「5月は聖母月、家庭でロザリオの祈りを」ー世界の信徒宛て書簡と二つの祈り

教皇フランシスコ「聖母月に、家でロザリオの祈りを」

(2020.4.25 バチカン放送)

 来週金曜日から5月、カトリック教会では「聖母月」を迎えるが、教皇フランシスコが25日、世界の信徒に宛てて、「家庭で、ロザリオの祈りの素晴らしさを再発見する」ことを勧める書簡を発表された。

 書簡には、信徒たちの祈りを助けるための二つの祈りが添えられている。。

 教皇の書簡と二つの祈りは以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 五月はもうすぐそこです。五月には、神の民は特別な熱心さをもって、乙女マリアへの愛と崇敬を表します。家庭において家族で唱えるロザリオの祈りは、この月の伝統となっています。新型コロナウイルスの世界的大感染によって強いられている状況の下で、計らずも見出されることになったこのような「家庭の価値」は、霊的な観点からも認識されます。

 こうしたことから、私はすべての皆さんに、この五月、ロザリオの祈りの素晴らしさを家で再発見するよう、お勧めしたいと思いました。ロザリオは、皆さん一緒に唱えても、一人で唱えても構いません。どちらの可能性も大切にしながら、その時々の状況に応じて、選んでください。

 いずれにしても、ロザリオの祈りをするには秘訣があります。それは「単純さ」です。もう一つは、祈りを行うための「良いパターン」を見つけることです。それはインターネットでも見付けられるでしょう。

 さらに、私は、皆さんに、聖母に対する二つの祈りを用意しました。ロザリオの終わりに唱えることができるでしょう。私自身も、皆さんと霊的に一致して、五月にこれを唱えたいと思います。皆さんが唱えられるように、この二つの祈りを、書簡に添えたいと思います。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストの御顔を、マリアの心をもって共に観想しましょう。私たちの母であるマリアは、私たちを霊的家族として、一段と一致させ、私たちがこの試練を乗り越えられるように助けてくださるでしょう。私は、最も苦しむ人をはじめ、皆さんのために、お祈りしたいと思います。皆さんも、どうか、私のためにお祈りください。心からの感謝と共に、皆さんに祝福をおくります。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ、2020年4月25日 聖マルコ福音記者の祝日に

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聖母への祈り1

 マリアよ、

 あなたは救いと希望のしるしとして 私たちの歩みを照らしてくださいます。

 あなたに病者たちの健康を託します。

 あなたはイエスと苦しみを共にされ 揺るがぬ信仰をもって 十字架の下に留まられました。

 ローマ人の救いである、マリアよ、あなたは私たちの必要を知り それに配慮してくださることを 私たちは確信しています。

 ガリラヤのカナでの出来事のように この試練の時を経て 喜びと祝祭が戻りますように。

 神の愛の御母よ、助けてください。

 私たちが御父の御旨にかなう者となり イエスがお命じになることを行えますように。

 イエスは私たちの苦しみを引き受け 私たちの苦悩を自らに背負われました。

 十字架を通して 私たちを復活の喜びに導くために。

 アーメン。

 

 聖なる神の御母よ、

 あなたの御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

 試練の中にある私たちの祈りをさげすまないでください。

 栄光ある、祝福された乙女よ、私たちをあらゆる危険から守ってください。

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聖母への祈り2

 「聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます」

 全世界を揺さぶる、この苦しみと不安に満ちた劇的状況の中で、神の御母、私たちの母よ、あなたの御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

 乙女マリアよ、この新型コロナウイルスの感染拡大の中で、私たちに慈しみ深い御まなざしを注いでください。愛する者を亡くし、ぼうぜんとし、悲しむ人々を慰めてください。これらの亡くなった方々は、時には痛ましい方法で埋葬されました。

 感染防止のために病者のそばにいられず、苦悩する人々を支えてください。不確かな未来と、経済と仕事への影響のために、不安の中にいる人に信頼を与えてください。

 神の御母、私たちの母よ、私たちのために、慈しみ深い御父にお祈りください。このつらい試練が終わり、希望と平和を再び未来に見出せますように。カナであなたがそうなさったように、神なる御子にお願いしてください。患者や犠牲者の家族を励まし、彼らの心を信頼へと開いてくださるように、と。

 医師や、看護師、医療関係者、ボランティアたちをお守りください。彼らはこの危機の中第一線に立ち、他の人々の命を救うため、自分の命を犠牲にしています。彼らの英雄的な努力を支え、彼らに力と愛と健康をお与えください。

 朝晩、患者を見守る人たちや、司祭たちに寄り添ってください。彼らは、司牧的配慮と福音的努力のために、皆を助け、支えようとしています。

 聖なる乙女よ、科学者たちの精神を照らし、このウイルスに勝つ正しい方法を見出させてください。

 国々の責任者たちを支えてください。彼らが賢明と配慮と寛大さをもって、生活の必要に事欠く人々を助け、先見の明と連帯精神のもとに、社会・経済的解決策を計画できますように。

 至聖なるマリアよ、軍備拡張と増強のための莫大な費用が、未来の同様の災害を防止するための正しい研究促進に向けられるよう、彼らの良心に触れてください。

 愛する御母よ、すべての人を結ぶ絆の自覚のうちに、私たちがただ一つの大きな家族に属しているという意識を、世界に育ててください。私たちが兄弟愛と連帯の精神をもって、多くの貧困と悲惨な状況を助けることができますように。信仰に固くとどまり、忍耐強く奉仕し、絶えず祈ることができますように。

 苦しむ人の慰め手なるマリアよ、試練にあるあなたのすべての子らを抱擁し、神がその全能なる御手をもって私たちをこの恐ろしい感染症から解放してくださり、そして、私たちが安心のうちにいつもの生活を取り戻せるよう、どうか神にお祈りください。

 私たちは、あなたにより頼みます。あなたは私たちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。慈しみ深き、慈悲あふれる、優しき乙女マリアよ。

 アーメン。

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に修正してあります)

 

2020年4月25日

♰「新型ウイルスから”私たち共通の家”を守るために連帯して立ち向かおう」第50回地球の日に

 教皇フランシスコは22日の一般謁見を、バチカン宮殿からビデオを通して行われ、謁見中の(教会の教えの解説)でこの日記念された「第50回地球の日(Earth Day)」をテーマに講話された。

 教皇の講話は以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 私たちは今日、第50回「地球の日」を迎えました。この日は、私たちの「共通の家」を愛し、この家と私たち家族の最も弱いメンバーを大切にするための取り組みを、新たにする機会です。

 現在起きている新型コロナウイルスの世界的大感染が私たちに教えているように、私たちが、この地球規模の危機に打ち勝てるのは、互いに連帯して立ち向かい、最も傷つきやすい人たちを抱き守ることによってだけです。回勅「ラウダート・シ」には、このような副題がついていますー「ともに暮らす家を大切に」。今日は、皆さんと一緒に、「私たちの地上の暮らし」に特徴づけられる、この責任について考えてみましょう。私たちは、「共通の家を大切にする」という意識のうちに成長せねばなりません。

 私たちは、地上の物質で作られ、その生活を地の実りによって支えられています。しかし、創世記が思い出させるように、私たちは単純に「地上のもの」ではありません。私たちは自分のうちに神が吹き入れられた「命の息」(創世記2章4-7節参照)を持っています。私たちはこうして、ただ一つの人類家族として共通の家に、他の被造物と一緒に生物の多様性の中に暮らしています。

 私たちは神の似姿として、御子イエスにおいて表された私たちへの神の愛に倣い、すべての被造物を大切に尊重し、最も弱い人々を始め、私たちの兄弟姉妹に愛と憐みを育むよう求められています。イエスは私たちと同じ状況を分かち合い、私たちを救うために人となられました。

 エゴイズムのために、私たちは地球を守り管理する自分たちの責任を忘れてしまいました。「私たちの共通の家がとても傷んでいることを知るには、現実を率直に見つめるだけで十分です」(ラウダート・シ61項)。

 私たちは、その家を汚し、荒廃させ、自分の生活そのものも危険にさらしました。それゆえ、意識を目覚めさせるために、様々な国際的・地域的な運動が育成されました。これらの取り組みを心から賞賛するとともに、「自分たちを支える環境を破壊するなら未来はない」という当たり前のことを私たちに教えるために、若者たちがこれからも表に出ていく必要を感じます。

 私たちは、自分たちの家であり庭である地球の、そして自分たちの兄弟の世話を忘れました。私たちは、地球に対して、隣人に対して、つまるところ、すべての人のために計らってくださり、私たちが皆と交わりと繁栄のうちに生きることを望まれる、優しい御父、創造主に対して罪を犯しました。

 では、地球はどう反応するでしょうか。スペイン語でこのような言い方がありますー「神は常に赦される。人はある時は赦し、ある時は赦さない。大地は決して赦さない」。私たちが地球を荒廃させたなら、その答えはひどいものでしょう。

 どうしたら、地球と人類の調和ある関係を取り戻すことができるのでしょうか。調和ある関係、私たちはしばしばそのビジョンを、聖霊が生み出す調和に求めます。共通の家の中でも、人間同士の関係、他者や最も貧しい人々との関係、自然との関係などがあります。どうしたらその調和を再び築けるでしょうか。私たちの共通の家を新しい見方で見つめることが必要です。この家は「搾取すべき資源の倉庫」ではありません。

 私たちキリスト教信者にとって、自然界は「創造の福音」です。それは、人間の命を形作り、人類を支えるため、様々な被造物とともに世界を造られた「神の創造の力」の表れです。聖書にある創造の物語は、このように締めくくられますー「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」(創世記1章31節)。

 私たちが痛めつけた地球からの返答としての自然災害を見て、私はこう考えることがあります。「今、主に何を考えておられるかを聞いたなら、すごく良いことは言われないだろう」と。主の御業を破壊したのは、私たちなのです。

 今日、「地球の日」を記念するにあたり、私たちは、地球への聖なる尊重の念を再発見するように求められて。なぜなら、それは私たちの家であるだけでなく、神の家でもあるからです。これらは、私たちの中に自分たちが「聖なる地の上にいる」という意識を生み出してくれます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、「神が私たちの中に備えられた審美的で観想的な意識を呼び覚ましましょう」(使徒的勧告「ケリーダ・アマゾニア」56項)。観想的預言は、私たちが特に先住民族から学ぶものです。それは、「私たちが地球を愛し、尊重しないなら、それを大切にすることはできない」ということです。彼らは「よく生きる」ための知恵を持っています。それは、うまくやり過ごす、という意味ではなく、「大地と調和をもって生きる」ということです。

 同時に、私たちは、具体的な行動で示す「エコロジー的な回心」を必要としています。ただ一つの、相互に依存し合う家族として、私たちの共通の家を脅威から守るための計画を共有する必要があります。「相互依存は、私たちに、ただ一つの世界を、共通の計画を考えるように促します」(ラウダート・シ164項)。

 私たちは、共通の家を守るために、国際共同体として協力し合うことの重要性を知っています。第15回生物多様性条約締約国会議(開催地:中国・昆明)と、第26回気候変動枠組み条約締約国会議(開催地:英国・グラスゴー)という、この二つの重要な国際会議に向けて準備するすべての関係者を励ましたいと思います。

 また、私は、国レベルまたは地域レベルの一致した参加の計画を励ましたいと思います。社会のあらゆる立場の人々が集まること、草の根から市民運動が生まれることも、よいことです。今日記念する「地球の日」も、このようにして生まれたものです。私たち一人ひとりに小さな貢献が可能です。「これらの努力で世界を変えることはできないだろうと、考えないでください。こうした行動は、気づくことができなくとも、常に想像以上に実を結び、社会に善を広げます。それは、時には目に見えない形で、常に広がる善をこの地球の中に生むからです」(ラウダート・シ212項)。

 刷新の時であるこの復活節に、私たちの共通の家「地球」の素晴らしい恵みを愛し、尊重するよう努めましょう。そして、人類家族のすべてのメンバーを大切にしましょう。兄弟姉妹としてともに天の御父に祈りましょう。「あなたの息を送り、地の面(おもて)を新たにしてください」(詩編104章30節参照)。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年4月22日

♰「トマスのように主から慈しみを受け、周囲の人々にそれを示そう」ー『神の慈しみの主日』に

 

(2020.4.19 VaticanNews Sr Bernadette M. Reis, fsp)

 教皇フランシスコは19日、復活節第二主日(主の慈しみの主日)のミサを聖ペトロ大聖堂に近いSanto Spirito in Sassia 教会で捧げられ、説教で、「使徒トマスがしたようにイエスの慈しみを受けるように、そして私たちの周囲の人たちに、その慈しみを示すように」と勧められた。

 教皇は説教でまず、「先週の日曜日、私たちは主の復活を祝いました。今日、私たちは主の弟子たちの復活に立ち会います」とされた。

 イエスが死から蘇られて一週間後、弟子たちはまだ「恐ろしくて、扉にカギをかけて家にこもっていた。教皇は「そのような彼らの『恐れ』に対するイエスの応えは、『あなた方に平和があるように!』でした」と語られた。

 さらに、「私たちをいつも立ち直らせてくださる『その手』は慈しみに満ちています… 神は、私たちが倒れ続けるのをご存じですが、いつも起こしてくださいます。それは、私たちが自分の失敗ではなく、ご自身に目を向けることを望まれているからです… 主は、ご自分の慈しみを私たちが経験するのを助けられるように、私たちが失敗をご自分に捧げるのをお待ちになっているのです」と強調した。

 イエスの弟子たちは皆、イエスを見捨てた。そして、罪の意識を感じた。そうした弟子たちに、イエスは「長い説教をする」のではなく、ご自分の傷をお見せになった。そして、その場に居合わせなかったトマスが、後でイエスの傷に触れ、他の弟子たちよりも進んだ経験をしたー主の復活だけでなく、その限りない愛を信じた。

 教皇は「トマスの『傷ついた人間』がイエスの傷に入ったとき、彼は死から蘇ります… 神が『私の神』になる時…私たちは自分自身を受け入れ、命をそのまま、愛し始めます」と説かれた。

 さらに、「トマスは、美しくて壊れやすいが価値のある水晶のように、私たちがその弱さにおいて、主にとってどれほど大切であるのかを理解する助けになります… 私たちがそのような水晶であるとすれば、イエスの慈しみの光は私たちの上に、そして私たちを通して、世界の上に輝きます」とされ、「イエスがトマスをお待ちになったように、その光は私たちが他の人たちを待つのを助け、新型コロナウイルスの危機から全世界が立ち直る時に、誰一人も置き去りにされません」と締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年4月19日