◎教皇連続講話「祈りの神秘」②「辛抱強く愛してくださる父の腕の中で祈ろう」

教皇フランシスコ、2020年5月13日の一般謁見教皇フランシスコ、5月13日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.5.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、バチカン宮殿からのビデオを通した水曜恒例の一般謁見で、前週始められた「祈りの神秘」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

 「キリスト教の祈り」の核心とは何かについて考察された講話の内容は次の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は、先週から始めた「祈りの神秘」をめぐるカテケーシスの第2回の考察を行いましょう。

 祈りは、すべての人のものです。すべての宗教に属する人、そして、おそらくどの宗教にも属さない人のものでもあります。祈りは、自分自身の秘めた部分から生まれます。それは霊的作者がしばしば「心」と呼ぶ、内的な場所です(「カトリック教会のカテキズム」2562-2563項参照)。

 祈る時、私たちの中には、自分からかけ離れたものや、二次的、付随的なものはなく、そこにあるのは、自分自身の最も内面的な「神秘」です。この「神秘」が祈っているのです。感情の高揚によって祈ることはあっても、祈りは「感情」だけとは言えません。知性によって祈ることはあっても、祈りは単に「知的な行為」ではありません。体は祈りますが、体が最も不自由な状態でも神と話すことはできます。つまり、心が祈るならば、「人間の全体」が祈るのです。

 祈りは一つの飛躍です。それは自分自身を超えていく一つの願いです。私たちの人格の深いところから生まれ、前へ伸びていくものです。それは「一つの出会いに対する郷愁」から来るものです。この郷愁は一つの必要というより、「一つの道」です。祈りとは、手探りで前進する「私」が、「あなた(神)」を探し求める声なのです。「私」と「あなた(神)」との出会いは計算づくでできるものではありません。それは、多くの場合、求めながら、手探りで向かう「出会い」なのです。

 キリスト者の祈りは、一つの啓示から生まれます。そこでは、「あなた(神)」は神秘で覆われたままではなく、私たちとの関係の中に入って来られます。キリスト教は、神の顕示、すなわち神の御公現を絶えず記念する宗教です。典礼暦年の最初のいくつかの祭日は、神がご自分を隠されることなく、人間への友情を示されることを記念するものです。

 神はその栄光を、ベツレヘムの貧しさの中で、東方三博士の観想、ヨルダン川での洗礼、そしてカナの婚礼の奇跡において、現わされました。ヨハネ福音書は、偉大な序章の賛歌を次のように要約的な言葉で締めくくっています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ福音書1章18節)。神を私たちに示してくださったのは、イエスです。

 キリスト者の祈りは、「神との関係」の中に入ります。神は優しい御顔を持たれ、人間に対し、一切の恐れを引き起そうとはされません。これがキリスト教の祈りの最初の特徴です。いつも神にびくびくし、魅惑的で恐ろしい神秘に怖がりながら近づき、主人に敬意を欠かさぬよう振る舞う家来のように、人々が隷従的な態度で神を崇拝していたのに対し、キリスト者は、神に対し、親しみを込めて、「父」と呼びます。それどころか、イエスは「お父さん」とさえ呼んでいるのです。

 キリスト教は、神との絆において、あらゆる「封建的な関係」を閉め出しました。私たちの信仰の遺産には「服従」「隷属」という言葉はありません。そこにあるのは「契約」「友情」「約束」「交わり」「近さ」という言葉です。

 イエスは、最後の晩餐の長い別れの説教で、こう言われました。

 「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章15-16節)。

 これは真っ白な小切手のようなものです。「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命した」と言うのです。

 神は友であり、同盟者にして花婿です。祈りにおいて神との信頼関係を築くことができます。実際、イエスは「主の祈り」で、私たちに、一連の願いを神に向けることを教えてくださいました。神に私たちはすべてを願い、すべてを説明し、すべてを語ることができます。神との関係において、「私たちは、良い友、出来の良い子、忠実な花嫁ではない」と、自分に足りない点を感じるかもしれません。

 しかし、それを気に病むことはありません。神は私たちを愛し続けてくださいます。そのことは、イエスが最後の晩餐で決定的に示しておられます。イエスは言われましたー「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ福音書22章20節)。イエスはこの行為を通して、最後の晩餐の席で十字架の神秘を先取りされました。

 神は契約に忠実な方です。人間が愛することをやめても、神は愛し続けられます。たとえ、その愛がカルワリオに続くものであっても、です。神はいつも私たちの心の扉の前で、私たちがそれを開くのを待っておられます。時に扉をたたかれますが、押し付けがましいことはされず、待ってくださいます。神の辛抱強さは、子である私たちを深く愛するお父さんの辛抱強さです。それはお父さんとお母さんを合わせた辛抱強さ、と言ってもよいでしょう。神はいつも私たちの心のそばにおられ、その扉をたたく時、優しさと豊かな愛をもってたたかれるのです。

 契約の神秘の中に入り、皆でこのように祈ってみましょう。神のいつくしみ深い御腕の中で祈り、「三位一体の命である、あの幸福の神秘に包まれている」と感じましょう。そして、この光栄にふさわしくない招待客のように感じ、驚きの祈りをもって、神に繰り返し尋ねましょう。「本当に、あなたは、愛しかご存じないのですか」と。

 神は憎しみをご存じありません。神は、憎まれることがあっても、憎むことをご存じありません。愛だけを知っておられます。私たちが祈るのは、この神に向けてです。これがすべてのキリスト教の祈りの熱い核心なのです。神は愛です。御父は私たちを待っておられ、私たちと共におられます。

(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

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2020年5月14日