◎新・教皇連続講話「祈りの神秘」①信仰は「叫び」、祈る人の心の底からの「声」

教皇フランシスコによる一般謁見 2020年5月6日教皇フランシスコによる一般謁見 2020年5月6日  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは6日、水曜日の一般謁見をビデオを通して行われ、その中で「祈りの神秘」をテーマに、カテケーシス(教会の教えの解説)の新シリーズを始められた。

 バチカン広報局発表の教皇のカテケーシスの英語版の翻訳は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日から、「祈り」をテーマに、新しいシリーズのカテケーシスを始めましょう。祈りは信仰の呼吸、信仰そのものの表現です。祈りは、神を信じ、神により頼む人が発する叫びです。

 福音書に登場するバルティマイのエピソード(マルコ福音書10章46-52節参照)を考えてみましょう。実は、彼は私にとって、最も好感を与える登場人物です。彼は目が不自由で、エリコの町はずれの道端で、物乞いをしていました。彼は匿名の人物ではありません。顔があり、名前ーバルティマイ、すなわち「ティマイの子」という名前ーもあります。

 エリコは巡礼者や商人が絶え間なく行き交う、人々の交差点でした。ある日、バルティマイは、イエスが近くをお通りになる、ということを耳にし、イエスを待ち伏せることにしました。イエスに会うために、できることは何でもするつもりでした。イエスに会うために、多くの人がバルティマイと同じことをしたのです。ザアカイを思い出してください。彼は木の上に登りました。たくさんの人々がイエスに会おうとし、バルティマイも、そうしたのです。

 こうして、バルティマイは、声を限りに叫ぶ人として、福音書に名を残すことになりました。彼は目が不自由なので、イエスがどのあたりに来ておられるのか、目で確かめることはできませんでしたが、だんだん大きくなる群衆の声でそれを感じとりました。彼は一人ぼっちで、彼のことを気遣う人は誰もいませんでした。では、彼は何をしたのでしょうかー叫んだのです。ひたすら叫びました。彼は、自分が持っている唯一の手段ー声-に頼ったのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(マルコ福音書10章47節)と、叫び続けました。

 バルティマイが繰り返す叫びは、人々をいらだたせ、多くの人が彼を叱りつけて、黙らせようとしました。しかし、彼は黙るどころか、ますます叫び続けました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください」。この見事な頑固さは、恵みを求めて、神の心の扉をひたすら、たたき続ける人のものです。「ダビデの子よ」という表現はとても重要です。つまりそれは「メシア」を指しているからです。彼はイエスを「メシア」と呼びました。こうして皆から蔑視されている人の口から、一つの信仰告白が発せられるのです。

 イエスはバルティマイの叫びを聞きました。彼の祈りは、イエスの心、神の心に触れました。そして、彼に救いの扉が開くのです。イエスはバルティマイを呼んでくるように言われました。彼は躍り上がってイエスのところに来ました。最初、黙るように人々から言われていた彼が、今、師のところに連れて行かれるのです。イエスは彼に語りかけ、何をして欲しいのかーこれが重要ですーと尋ねます。すると、彼の叫びは懇願となりました。「また見えるようになることです!」(同10章 51節)

 イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った(同10章 52節)」。イエスは、貧しく、無力で、人々から軽蔑されている彼の中に、神の憐みと力を引きつける信仰の力を認めたのです。

 信仰は、天に上げる2つの手と、救いの恵みを求めて叫ぶ声を持っています。カトリック教会のカテキズムは「謙遜は、祈りの基礎」(2559項)である、と強調します。祈りは、地面、「humus」から生まれます。-「umile」(謙遜な、慎ましい)「umiltà」(謙遜、慎ましさ)は、「humus」(地面)という言葉から来ます。祈りは、私たちの不安定な状態、神への絶え間ない渇きから生まれます。

 バルティマイがそうしたように、信仰は「叫び」です。不信仰は、この叫びを押し黙られようとします。人々は、バルティマイを黙らせようとしました。彼は信仰を持っていたが、人々はそうではなかったのです。叫びを押し黙らせるのは”omertà(マフィアの「いかなることがあっても組織の秘密を守る」という沈黙の掟)”のようなものです。信仰は、理由の分からない苦痛に満ちた状況に対して、異議を唱える行為です。不信仰は、私たちが置かれている状況を受け入れさせるだけですが、信仰は「救いへの希望」です。不信仰は、私たちを抑圧する悪に慣れさせます。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。このカテケーシスのシリーズを、私たちはバルティマイの叫びをもって始めました。なぜなら、おそらく彼の姿の中に、すべてが書かれているからです。バルティマイは、忍耐強い人です。周りにいた人々は、彼に「懇願しても無駄だ」と言い、「叫んでも答えはない、うるさくて、ただ迷惑なだけだ。お願いだから叫ぶのをやめてくれ」と黙らせようとしました。しかし、彼は黙りませんでした。そして、最後に、望んでいたものを得たのです。

 反対する議論よりも強いのは、祈る人の心の底からの「声」です。私たちは皆、心の中にこの声を持っています。それは、そうするように命じられることなしに、自然に流れ出る声です。自分の人生の旅の意味をー特に、私たちが闇の中にいると感じる時にー問いかける声です。「イエスよ、私を憐れんでください!」ーこれは美しい祈りです。

 おそらく、この声は、すべての被造物の中に刻まれているのではないでしょうか。慈しみの神秘が達成されるように、すべてが祈り、願い求めています。祈るのは、キリスト教徒だけではありません。キリスト教徒は、すべての男性、女性一人ひとりと祈りの叫びを分かち合います。しかし、その祈りの地平線は、さらに広げることができるものですー使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8章22節)と語っています。

 芸術家たちは、しばしば被造物のこの「沈黙の叫び」を、その作品の中で表現してきました。すべての被造物の中でこの叫びが、あふれようとし、特に人間の心の中に、あふれ出ます。それは、人間が「神の物乞い」(「カトリック教会のカテキズム」2559項参照)だからです。「神の物乞い」ーなんと素晴らしい、人間の定義でしょう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二、引用された聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

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2020年5月7日