♰「『危機』は『機会』も意味する。心を開き、共に乗り越えよう」-”出会いの学校”の集いに

(2020.6.5 バチカン放送)

  教皇フランシスコは5日、「世界環境の日」の機会に開かれた「スコラス・オクレンテス(出会いの学校)」のオンライン・ミーティングに、ビデオを通してメッセージをおくられた。

 「スコラス・オクレンテス」は、教皇がブエノスアイレス大司教時代から進めてきた教育運動。青少年に様々な教育の機会を提供し、出会いと対話、異なる存在への尊重を育むことを目的とし、現在は、教皇庁立基金としてローマを本に、アルゼンチンなど南米、スペイン、ルーマニアなど欧州やモザンビークに拠点を置き、世界190ヵ国の教育機関とネットワークをもつ。新型コロナウイルスの世界的大感染の現在は、世界の教育者や若者たちによるビデオを通したオンライン交流に力を入れている。

 教皇は5日のメッセージで、「スコラス・オクレンテス」が、今や友人・兄弟姉妹たちの「共同体」と呼べるまでに成長したことを喜ばれ、二人の教師が直感と大胆な発想で始めた活動が、次第に成果を上げて行った創始時を思い起こし、「危機が社会に暴力をはびこらせた時代にあって、教育は意味や美しさを生みながら、若者たちを再び一致させました」と振りられた。

 そして、ご自身にとって忘れがたい3つのイメージとして、フェデリコ・フェッリーニ監督の映画「道」に登場するサーカス芸人「イル・マット」、カラバッジョの絵画「マタイの召し出し」、ドストエフスキーの「白痴」を挙げ、「意味」「召命」「美しさ」とそれぞれ結びつくこの3つのイメージは、ここ3年間の「スコラス・オクレンテス」の出会いと考察のテーマでもあった、と紹介された。

 さらに、「危機」とは、本来「壊れ」「切れ目」「開放」「危険」などを意味するほか、「機会」も意味する、とし、「植物が育つためには根を広げる必要があり、やがては鉢を壊すまでになる。それと同じように、人生は、生活そのものよりも大きく、亀裂が入る。人生には、成長と破壊が伴います。『危機のない、眠り込んだような人類』は、むしろ健全ではない、といえます」と説かれた。

 一方で、危機は「私たちに、自分の心を開くよう促すもの… 個人の殻に閉じこもらず、互いに絆を育て、共に危機を乗り切る必要があります」と強調された。

 危機の中で生まれた「スコラス・オクレンテス」は、現代の文化に対抗して拳を振り上げることをせず、あきらめて両手を下ろすこともせず、若者の心に耳を傾け、社会の隙間から顔だけでなく、体全体を出して、外の世界を眺め、別の解答を探し求めようとしました」と振り返られ、「耳を傾けなければ、教育ではない。文化を創らなければ、教育ではない。記念すること、祝うことを教えなければ、教育ではありません」と言明。耳を傾け、創造し、人生を賛美しつつ、「頭と心と手を調和させる」スコラスの教育活動の特徴を強調された。

 また、「スコラス・オクレンテス」の様々な出会いの中で、教皇は、日本とコロンビアの教師や生徒たちが共に踊るのを見、ハイチとドバイの生徒が共に考え、モザンビークとポルトガルの子どもたちが一緒に絵を描くのを見た、と語られ、出会いの文化を創造するその活動を喜ばれた。

 そのうえで、教皇は「スコラス・オクレンテス」に、「教育する共同体、成長する共同体として、様々な物事の意味を追求することを若者たちに教えて欲しい」と希望され、「『根』や『歴史』のないところに成長はない」として、「子どもや若者たちの夢を、大人やお年寄りの夢と出会わせる必要」を指摘された。

 「教育とは人生を教えること。そこでは、すべての言語や宗教を超え、誰ひとり、排除されてはなりません… 無償性、意味、美しさーこれらを追求することが、今の社会では無用、と思われたとしても、全人類と、その未来はそこにかかっているのです」と訴え、「微笑みと、リスクを負う勇気をもって、種を蒔き、刈り取りながら、皆で手を取り合うことで、あらゆる危機を乗り越えて行って欲しい」と参加者たちを激励された。

(編集「カトリック・あい」)

2020年6月6日

♰「私たちは病んだ世界に住み、健康を装うことはできない」-世界環境の日に

A volunteer collects rubbish on the beach on World Environment Day, Sri LankaA volunteer collects rubbish on the beach on World Environment Day, Sri Lanka 

(2020.6.5 Vatican News)

 世界環境の日の5日、教皇フランシスコは、今年の会場に予定されていたコロンビアのイバン・ドゥケ・マルケス大統領に宛てた書簡で、私たちはこれまでの生活態度を改め、より良い、より健全な地球を後世の人々に残すようにしよう、と訴えられた。

 毎年6月5日に行われている世界環境の日の行事は、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、コロンビアでの開催を中止、インターネットを通じで行事が行われた。

 教皇は、マルケス大統領宛ての書簡で、まず、「地球環境の保護と生物多様性の尊重は、私たち全員に影響を与える問題」としたうえで、「私たちは、病んでいる世界に住み、健康を装うことはできません」と強調。

 さらに、「私たちの母なる地球が受けている傷は、私たちも血を流す傷です」と指摘。生態系を大切に守ることは、「素早く容易に手に入る利益」よりも、本当に命を気遣う「先を見据えた見方」を必要としており、地球の現在の状態への私たちの対応は「現在の状況の深刻さを気遣い、証言するものでなければならない」と訴えられた。

 また、「私たちが、生態系の破壊と搾取がもたらす余りにも高い代償に気づいた時、(注:地球があげる)叫び声を前にして、黙っていることはできない… 他の方法を探し続けたり、進歩の美名のもとに、私たちの星が略奪され、利益を求める欲望によって侵害されることに無関心でいるような、時ではありません」とされたうえで、「すべては、私たちにかかっているのです… 私たちはより良い、より健全な世界を次の世代に引き継ぐことを約束するチャンスを手にしているのです」と、世界の人々に呼び掛けた。

 そして、ご自身が5年前に出された環境回勅「Laudato Si」を思い起こされ、「私たちを奮い立たせる母なる地球の叫びに注意を向ける」という回勅の狙いを改めて強調した。

 教皇は書簡の最後を、全ての熟慮と結論が「今よりもっと住みやすい世界、もっと人間的な-私たちすべてが生きる場を持ち、誰人に後に残されることのない-社会の構築を、常に進めるものとなること」を信じている、と締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年6月5日

◎教皇連続講話【祈りの神秘】⑤神に祈り、対話し、議論することを、アブラハムから学ぼう

 

教皇フランシスコ 2020年6月3日の一般謁見教皇フランシスコ 2020年6月3日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.6.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、3日の水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からビデオを通して行われ、「祈りの神秘」をテーマにしたカテケーシスを続けられが。今回は、「アブラハムの祈り」を取り上げられた。

 教皇のカテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 ある声が突然、アブラハムの生活の中に響きました。それはあり得ないような旅に出立するようにと彼を招く声でした。それは、生まれ故郷、父の家を離れ、新しい未来、異なる未来に向かうよう、彼を励ます声でした。すべては一つの約束に基づき、ただそれに信頼するほかありませんでした。約束を信じること、それは簡単ではなく、勇気が要ることです。だがアブラハムはそれを信じたのです。

 聖書は、この最初の父祖の過去については語りません。聖書の記述に論理的に従えば、異教の環境に置かれていたと推察することができます。おそらく、天体や星を観察することに慣れた、知恵のある人だったでしょう。実際、主は、彼の子孫を天の星のように増やそう、とアブラハムに約束されました。

 アブラハムは旅立ちます。神の声に耳を傾け、その言葉を信頼したのです。神の言葉に信頼する、これは大切なことです。アブラハムの出発と共に、神との関係を築くための新しい方法が生まれました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の偉大な精神的伝統において、御旨が厳しいものであったり、理解できない時でさえも神に従う、完全な神の人としての父祖アブラハムがいるのは、そのためです。

 アブラハムは「言動一致の人」でした。神がお話になる時、人はその御言葉の受け手となり、彼の人生はそれを具体化すべき場所となります。人間の宗教的歩みにおいて、これは大きな新しい点です。信者の生活が召命として、その約束の実現の場として、認識されるようになったという点です。

 そして、彼は単に一つの謎の重みの下でというより、いつか実現するというその約束の力によって、世の中を動いていきます。アブラハムは神の約束を信じました。彼はそれに服従し、行く先も知らずに出て行った、と「ヘブライ人の手紙」(11章8節参照)にあります。彼は信じたのです。

 「創世記」を読むと、アブラハムが、彼の長い歩みの中で時々対面する御言葉への忠実を保ちながら、どのように祈りを生きていったかが、分かります。要約すれば、アブラハムの人生において「信仰は歴史」となったのです。

 アブラハムはその人生と模範をもって、この歩みの道の上に信仰が歴史となっていくことを教えました。神は、怖れを引き起こす遠い神のような、天体上の現象の中だけに見られるような神ではもうなくなりました。アブラハムの神は「私の神」となりました。私の歩みを導き、お見捨てにならない、私の個人的な歴史の神、私の人生の日々の神、私の冒険を共にしてくださる神、御摂理の神となりました。

 私は自分に問うと共に、皆さんにも尋ねます。私たちは神をこのように体験しているでしょうか?「私の神」、私と共に歩んでくださる神、私個人の歴史の神、私の歩みを導き、お見捨てにならない神、私の日々における神として体験していますか?自問してみましょう。

 アブラハムのこの経験は、霊性史の中でも最もオリジナルなテキストの一つ、ブレーズ・パスカルの「メモリアル」の中でも証しされています。それはこのように始まります。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢人のではない。確信、確信。感情。喜び。平和。イエス・キリストの神」。この「メモリアル」は、小さな羊皮紙に書かれ、この思想家の死後、服の内側に縫い付けてあるのが見つかりました。

 そこには、彼のような知識人が神について考えることのできる理知的な考察が記されていたわけではありません。しかし、そこにあったのは、神の現存の、体験を通した生き生きとした意味でした。パスカルは、ようやく出会えたこの現実を感じた瞬間を、正確に記しているほどです。それは1654年11月23日の夜のことでした。それは抽象的な神でも、宇宙的な神でもありませんでした。それはある人物の、ある召命の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、確信、感情、喜びである神なのです。

 「アブラハムの祈りは、特に行動で表されます。沈黙の人である彼は、あらゆる段階において、主に捧げる祭壇を築きました」(「カトリック教会のカテキズム」)。アブラハムは神殿を建てたわけではありません。しかし、神が通り過ぎた場所を記憶する石を歩みながら蒔いたのです。

 アブラハムとサラが丁重にもてなした三人の訪問者が、イサクの誕生を予告したように、神は驚くべきお方です(創世記18章1-15節参照)。アブラハムはおよそ100歳、妻サラは90歳くらいだったでしょう。しかし、彼らはそれを信じ、神に信頼しました。そしてサラは高齢にもかかわらず身ごもったのです。これがアブラハムの神、私たちを見守られる神です。

 こうして、アブラハムは神と親しくなり、神と議論するまでになりましたが、常に忠実でした。アブラハムが年老いてから得た独り子イサクを焼き尽くす献げ物として捧げるようにと、神が命じた時の、究極の試練に至るまで、忠実だったのです。

 ここでアブラハムは信仰を一つのドラマとして生きています。それは星のない空の下、夜の闇を手探りで歩くような体験でした。私たちにも、闇の中を、しかし信仰と共に歩くような時があります。アブラハムがイサクを捧げようと刃物を取った時、神ご自身がその手を止められます。それは、神が彼の完全な忠実をご覧になったからでした。

 兄弟姉妹の皆さん、アブラハムから学びましょう。信仰をもって祈ることを学びましょう。主に耳を傾け、歩み、神と対話し、時には議論することを学びましょう。神と議論することをおそれてはいけません。一見、奇妙に聞こえるかもしれないことをお話ししましょう。

 私は何度も、多くの人と、このようなやり取りをしました。「これこれこういうことが起きたので、私は神様に怒ったのです」「あなたは神に対して怒る勇気があったのですか」「そうです、私は神様に怒りました」「そうですか。これは一つの祈りの形ですよ」。

 なぜなら子だけがお父さんに腹を立てた後で、再びお父さんと向き合えるからです。アブラハムから、信仰をもって祈り、対話し、議論することを学びましょう。しかし、いつでも神の言葉を受け入れ、それを実践しなくてはなりません。子が父親と話すように、神に耳を傾け、答え、議論することを学びましょう。しかし、子がお父さんに対するように、隠さず話さなければなりません。このようにアブラハムは祈りについて教えているのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年6月4日

♰「人種差別は絶対に許されない、暴力も」-教皇、一般謁見で

(2020.6.3 VaticanNews)

 米ミネソタ州で黒人男性が警察の拘束下で死亡した事件に対する抗議活動が、全米50州にまで拡大し、一部に暴動の発生も伝えられている。

 教皇フランシスコは3日、水曜恒例の一般謁見で、この問題に言及、米国民に対して、「ジョージ・フロイド氏の悲劇的な死に続いて、過去数日の間にあなた方の国で起きている残念な社会不安を、大きな懸念とともに注目しています」と話しかけた。

 そして 「私たちは、人種の違いを理由とした、いかなる差別や排斥を容認することも、目をつぶっていることもできません。すべての人間の生命の神聖さを守るよう、主張します」と訴えられた。

*暴力を非難する

 そのうえで教皇は、全米司教協議会(USCCB)のホセ・ゴメス会長(ロサンゼルス大司教)がこのほど出した声明を引用する形で、一部地域の抗議行動が暴力化していることを強く批判。「この何日が夜に起きている暴力行為が、自己破壊、自滅を招くことを認識しなければなりません。暴力によって何も得られず、多くが失われてしまいます」と強調された。

 教皇はまた、フロイド氏が殺害されたミネソタ州のセントポールとミネアポリス、そして米国全土のカトリック教会で2日に行われた祈りに、ご自分も”参加”し、「フロイド氏と人種差別の罪深い行為によって命を奪われたすべての人の魂が安息を得るように祈りました」と述べた。

 

*和解と平和への祈り

 最後に教皇は、次の祈りで締めくくられた。

 「(注:人種差別の犠牲になっている)人々の悲嘆に暮れる家族や友人が慰めを得られるように祈りましょう。私たちが切望する米国の全国民の和解と平和を、心から願いましょう… 米国の母、グアダルーペの聖母が、あなたの国で、そして世界中で、平和と正義のために働くすべての人々をとりなしてくださいますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年6月3日

♰「防壁から外に出、社会経済を変えるための勇気を」教皇、巡礼者たちと正午の祈り

教皇フランシスコ、バチカンの広場に戻った巡礼者たちを祝福 2020年5月31日 教皇フランシスコ、バチカンの広場に戻った巡礼者たちを祝福 2020年5月31日   (Vatican Media)

 教皇フランシスコは31日午前、聖霊降臨の主日のミサを聖ペトロ大聖堂で捧げられた後、正午のレジーナ・チェリの祈りを、3月1日以来、ほぼ3か月ぶりにバチカン宮殿から眼下の広場に集まった巡礼者たちと共に唱えられた。

 教皇は集いの初めに、「今日は広場が開かれました。また元のように戻れます。うれしいことです」と挨拶された後、説教で、イエスが弟子たちの宣教を励ますためにおくられた聖霊の力について話され、この聖霊降臨の日に、私たちの中に宿られる聖霊の活力を改めて意識し、「cenacoli(注:イエスが弟子たちと『最後の晩餐』と聖霊降臨の場所とされる宿の2階の広間)」の防壁から外に出ていく勇気をもつよう促された。

 祈りに続いて、巡礼者に挨拶をおくられ、その中で教皇は、6か月前に終了したアマゾン地域のためのシノドスを思い起こしながら、「新型コロナウイルスの大感染という厳しい試練に直面するアマゾンの教会と社会のために、光と力を聖霊に祈り求めたい」と語り、この地域の新型ウイルスの感染者や犠牲者の間に、最も脆弱な環境に置かれた先住民族の人々もいることを教皇は示しつつ、「この愛する地域をはじめ、世界の最も貧しく最も無防備な人々に、医療支援が欠けることがないように」と聖母の取り次ぎを祈られた。

 教皇は「人々を治療することは、経済のための節約より大切なことです。私たち人間は聖霊の神殿ですが、経済は違います」とされ、「このような危機を経て、前とまったく同じような状態に戻ることはありません。前より良くなるか、悪くなるかです」と語り、大感染危機後の社会経済の再構築が以前より良いものをもたらすように、「変えるための勇気」を願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年6月1日

♰「聖霊は私たちをナルシズム、被害者意識、悲観主義」から回復させる神の賜物」聖霊降臨の主日ミサ

教皇フランシスコによる聖霊降臨の主日のミサ 2020年5月31日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは31日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、「聖霊降臨の主日」のミサを捧げられた。

 ミサの会場は、当初予定されたサンティッシモ・サクラメント礼拝堂から、司教座の祭壇に変更さら、50人ほどの参加者で行われた。

 説教で教皇は、教会の中で多様性を一致させる「賜物」としての聖霊の働きを強調され、「神は『取り上げる方ではなく、与えながら働かれる方』であることを知り、受け取った賜物の思い出に強められ、私たちも自らを与えていくことができるように」と祈られた。

教皇の聖霊降臨のミサの説教は以下のとおり。

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 コリントの信徒への手紙で、使徒パウロは「恵みの賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(1・12章4節)と述べ、さらに「務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です」(同章 5-6節)と書いています。

 パウロは、「いろいろ」と「同じ」という、一見、反対の二つの言葉をあえて合わせて強調します。つまり、聖霊が「いろいろ」なものを「一つ」にするのだ、と言いたいのです。教会はこのように生まれ、私たちは皆、異なりますが、聖霊によって一つになっています。

 教会の始まりー「聖霊降臨の日」に行きましょう。ここで使徒たちに会いましょう。彼らの中には、漁師のように自分の手で働き、生活することに慣れた素朴な人々もいれば、マタイのような教育を受けた徴税人もいました。異なる出身や社会的背景、ヘブライの名前とギリシャの名前、温厚な性格と激情的な気質… 様々な考えや感受性が、そこにありました。

 イエスは彼らを変えることも、画一的な型にはめることもしませんでした。イエスは彼らの多様性を残しました。そして今、彼らを聖霊に浸しながら、一つにするのです。「一致unione」は「塗油unzione.」によって到達します。

 聖霊降臨において、使徒たちは聖霊の一致させる力を知りました。皆がそれぞれ異なる言葉で話していたにもかかわらず、ただ一つの民を構成していた時に、彼らはそれを、自分たちの目で見たのです。それは、私たちの多様性をもって一致を織り出し、「調和」であるがゆえに調和を与える「聖霊によって形作られた神の民」です。

 では、私たちが今いる「今日の教会」に戻りましょう。そして自問してみましょう。「私たちを一致させるものは何なのか。私たちの一致は何の上に成り立っているのか」と。

 私たちの間にも、様々な違いがあります。それはたとえば、意見、選択、感受性などです。誘惑は、「皆のためにもそれはいいことだ」と信じながら、「自分の考えを剣を抜いて守り、自分と同じように考える人だけを認めること」です。しかし、これは自分たち姿に対する信仰であり、聖霊が望む信仰ではありません。ならば、一致するとは、同じものを信じ、同じ態度をとることと、考えられるかもしれません。

 しかし、それだけではありません。私たちの一致の原則とは、「聖霊ご自身」なのです。第一に、聖霊は、私たちは神に愛された子らであることを思い出させます。聖霊は、私たちのすべての違いや惨めさにもかかわらず、私たちは唯一の主、イエスを、そして唯一の御父を持ち、それゆえに私たちは兄弟姉妹である、と告げに、私たちのもとに来られます。ここから再出発しましょう。世がするようにではなく、聖霊がなさるように教会を見つめましょう。

 世は私たちを「右か、左か」で見ますが、聖霊は私たちを「御父のもの、イエスのもの」としてご覧になります。世は「保守派か、進歩派か」で見ますが、聖霊は「神の子ら」としてご覧になります。世俗的な眼差しは、教会を「より効率的であるべき組織」として眺めますが、聖霊の眼差しは「いつくしみを乞う兄弟姉妹」を見出します。聖霊は私たちを愛され、すべてにおいて、それぞれの人が置かれた場所を知っています。聖霊にとって、私たちは「風に飛ぶ紙吹雪」ではなく、「モザイクを織りなすためのかけがえのない小片」なのです。

 ここで、「聖霊降臨の日」に立ち戻り、「教会の初めての業」は何であったかを見つけましょう。それは「福音の告知」です。ただし使徒たちは、作戦や司牧計画を用意したわけではありません。人々を民族に応じてグループに分けたり、最初は身近な人々、その後で、遠くの人たちに宣教することができたかもしれません。あるいは、宣教をもう少し待って、危険を冒さないために、まず、イエスの教えを深く考察することから始めることが、できたかもしれません。

 しかし、聖霊は、師イエスの思い出が「閉じたグループ」の中で育まれること、使徒たちが「巣」を作ることを望まれませんでした。聖霊は、開き、再び投げかけ、すでに行ったことの先へ、「内気で慎重な信仰の囲い」の外へと押し出します。

 この世では、態勢がしっかり固まっていなければ、そして計算された作戦がなければ、物事はばらばらになってしまいます。それに対して、教会では、聖霊が福音を告げる者の一致を保証するのです。そして、使徒たちは旅立ちます。準備はできていませんが、あえてリスクを負って、外に出ます。彼らを鼓舞する唯一の願い、それは「自分たちが受け取ったものを人々に与えたい」という願いでした。

 ここまで来て、ようやく私たちには、「一致の秘訣」「聖霊の神秘」が分かってきました。それは「賜物」であるということです。聖霊は賜物です。自分を与えながら生き、同じ賜物に自ら与ることで、私たちを結束させます。神は賜物であると信じることは大切です。神は「取り上げながら」ではなく、「与えながら」働きかけられます。

 なぜ、それが重要なのでしょうか。神をどう理解するかによって、私たちの信者としてのあり方が変わってくるからです。もし、私たちの神のイメージが「取り上げ、威圧する方」なら、私たちもまた、「取り上げ、威圧したい」と思うでしょう。場を占め、重要性を主張し、権力を求めるでしょう。

 しかし、もし、私たちが賜物としての神を心に抱くならば、すべては変わります。「私たちが自分自身でいられることは、神の賜物だ」、「それが無償の、自分にはふさわしくないほどの贈り物だ」と知るなら、私たちもまた、「自分の人生を人々への贈り物にしたい」と思うでしょう。謙遜に愛し、無償で喜びをもって奉仕し、世界に神の本当の姿を示そうとするでしょう。教会の生きた記憶である聖霊は、私たちは賜物から生まれ、自分を与えながら成長することを、思い出させてくれます。自分を保ちながらではなく、与えながらです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちの内面を見つめ、何が自分を与えることを妨げているのかを、自分に問いましょう。自分を与えることを邪魔し、心の扉の前にいつもしゃがんでいる、三つの敵がいます。それは「ナルシズム」「被害者意識」「悲観主義」です。

 「ナルシズム」は自分自身を偶像化し、自分の利益だけを喜ぶようにさせます。ナルシストは考えます。「自分が得するならば、人生は素晴らしい」と。そして、こう言うまでになります。「なぜ、他人のために自分を与えなくてはいけないのか?」と。この新型コロナウイルスの世界的大感染の中で、ナルシズムは、どれほど害となることでしょうか。自分の必要だけに閉じこもり、他人の必要には無関心、自分の弱さや過ちを認めません。

 二つ目の敵、「被害者意識」は危険なものです。被害者意識をもつ人は、毎日、自分との関係で他人のことを嘆きます。「誰も私を分かってくれない。誰も私を助けてくれない。誰も私を愛してくれない。皆、私のことを怒っているのだ」と。「なぜ他の人は私のために自分を与えてくれないのか?」と問いながら、その心を閉ざしていきます。私たちが体験しているこの悲劇の中で、被害者意識はなんと惨めでしょうか。

 最後に、「悲観主義」があります。ここでは毎日このような言葉の繰り返しです。「何もかもだめだ。社会も、政治も、教会も」。悲観主義者は世の中に腹を立てますが、自分は無気力のままで、「どうせ与えたところで何になるのだろう?無駄なことだ」と考えます。今、再出発のための大きな努力の時、すべてを悲観し、何も元には戻らないと繰り返す、この悲観主義はなんと有害でしょう。このような考え方では、確かに希望は戻らないでしょう。「希望の日照り状態」にあって、私たちは命の賜物、一人ひとりが生かされていることの賜物を愛おしむ必要があります。そのためにも、私たちには聖霊が必要です。聖霊は私たちを「ナルシズム」「被害者意識」「悲観主義」から回復させてくださる神の贈り物です。

 祈りましょう。聖霊よ、神の記憶よ、私たちが受け取った賜物の思い出を蘇らせてください。エゴイズムによって麻痺した私たちを解放し、奉仕と善を行う熱意に火をつけてください。なぜなら、この危機よりも最悪なのは、この悲劇を無駄にして、ただ自分に閉じこもることだからです。聖霊よ、おいでください。調和そのものであるあなたが、私たちを一致を築く者としてくださいますように。ご自身を与えられるあなたが、私たちに自分から抜け出し、一つの大きな家族となるために、互いに愛し、助け合う勇気を与えてくださいますように。アーメン。

(編集「カトリック・あい」)

2020年5月31日

◎教皇連続講話【祈りの神秘】④「祈りは、憎しみの荒れ野に再生の花を咲かせる」

 

教皇フランシスコ、2020年5月27日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年5月27日の一般謁見 

 教皇フランシスコは27日、水曜日の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われ、謁見中の「祈りの神秘」についてのカテケーシス(教会の教えの解説)で、「正しい人々の祈り」をテーマに講話された。

 教皇のカテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の眠さん

 今日のカテケーシスでは、「正しい人々の祈り」を取り上げたいと思います。

 神は人間に対し、良い御計画を持っておいでです。しかし、私たちは日ごろの出来事の中で、悪の存在を体験します。それは日常的な体験です。

 「創世記」の初めの方に、人間の歴史の中で、罪が次第に広がっていく様子が記されています。アダムとエバ(創世記章1-7節参照)は、「神は、ねたみ深い方で、神との関係は自分たちの幸福を阻む」と思い込み、神の慈愛に満ちた意図に疑い持ちました。

 ここに背きがあります。彼らの幸福を願う寛大な創造主を信じることを、やめてしまったのです。彼らの心は、悪の誘惑に負け、「それを食べると、目が開け、神のようになる」(同3章5節)と、自分たちが全能であるかのような妄想に取りつかれてしまいました。これが誘惑です。これが心に入り込む野心です。

 しかし、彼らの体験は反対の結果を招きました。彼らの目は開かれ、自分たちが裸であることを知りました(同3章7節)。彼らには何もありませんでした。忘れないでくださいー誘惑する者は悪質な支払い者です。彼らは誘惑された者に、不良債権を渡すのです。

 人間の次の世代になると、悪はますます強まり、破壊的になります。それはカインとアベルの間に起きた出来事です(創世記4章1-16節)。カインは弟を妬んでいました。そこには嫉妬の虫がいました。カインは長男であるにもかかわらず、弟アベルを彼の長子権を脅かすライバルとして見ていたのです。

 悪が彼の心に顔をのぞかせ、彼はそれを抑えることができませんでした。悪が心の中に入り始める時、その考えは、いつでも疑いをもって、相手を悪い者として見ようとします。そして、「彼は悪いやつだ、私に害を与えるだろう」という考えが起こります。このような思いが心に入り込みます。こうして、最初の兄弟の物語は、殺人で終わりました。今日、人類の兄弟愛を考える時、戦争だらけであることに気づきます。

 カインの子孫の代に、職業や技術が発達し、暴力もまた発展しました。それは、レメクの恐ろしい歌に表れています。それは復讐の賛歌のように響きます。「私は受ける傷のてめに人を殺し、打ち傷のために若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章23-24節)。

 復讐とは、「おまえはこれをした。その報いを受けよ」というものです。しかし、これを裁判官が言うのではなく、私が言うのです。自分自身がその状況における裁判官になるのです。こうして、悪は野火のように、絵画全体に広がります。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見た」(創世記6章5節)。「大洪水」(創世記6-7章)と「バベルの塔」(同11章)の壮大な絵巻は、イエス・キリストによって完成される新たな創造としての、新しい始まりの必要を啓示しています。

 しかしながら、聖書のこれらの最初の部分には、もっと目立たない、より謙遜で信仰にあふれた、希望の贖いを表す、別の物語も記されています。たとえほとんど皆が、人間の歴史を動かす大きな力である憎悪や征服心を抱いて、残忍に振る舞っても、誠実さをもって神に祈り、人間の運命を違う方法で導くことができる人々もいるのです。

 アベルは羊の群れの初子を神に捧げました。アベルの死後、アダムとエバは、三番目の息子セトをもうけ、そのセトはエノシュをもうけました。創世記には「その頃、人々は主の名を呼び始めた」(創世記4章26節)とあります。そして、エノクが登場します。「神と共に歩む」人であった彼は、神に連れ去られて天に行きました(創世記5章22、24節)。そして、ノアの物語があります。ノアは「神に従う無垢な人」でした(同6章9節参照)。ノアの前で、神は人類を消し去ろうとする考えを思いとどまられました(同6章7-8節参照)。

 これらの物語を読むと、祈りが「人間にとっての堤防ーこの世に高まる悪の波からの避難所」だという印象を受けます。よく見れば、私たちは自分自身から救われるためにも祈ります。

 このように祈ることは大切ですー「主よ、どうか私を、自分自身、私の野心、私の苦悩から救ってください」。聖書の初めに出てくる祈る人々は、平和を作り出す人々です。実際、祈りはそれが本物である時、人を暴力の本能から解放し、眼差しを神に向かわせます。そして、「神が再び人間の心を慰めてくださるように」と祈ります。

 「カトリック教会のカテキズム」にこうありますー「この祈りの性質は、あらゆる宗教の無数の義人たちが体験したものです」(2569項)。祈りは、人間の憎しみが、ただ荒れ野を広げた場所に、再生の花々を咲かせます。祈りは力を持っています。なぜなら、祈りは、神の力を引きつけ、神は、常に命を与えてくださるからです。神は命の神、再び生まれさせるお方です。

 神の統治が、これらの多くの人々の連なりの中を通過するのはそのためです。彼らはしばしば世に無視され、疎外されている人々です。しかし、世界は、これらの僕たちが祈りによって引きつける神の力のおかげで、生き、発展するのです。これらの人々の群れは、まったく騒ぎ立てず、ニュースになることもありませんが、それでも世界が信頼を取り戻すために、非常に大切な存在なのです。

 私はある人の話を思い出します。政府の長で重要人物、今の人ではない、ずっと昔の人。宗教心を持たない無神論の人でしたが、子どもの頃、いつも祖母が祈るのを聴いていて、それが心に残っていました。人生の困難な時期にその記憶がよみがえり、こう言いましたー「だが、祖母は祈っていた…」と。そうして、彼は祖母の唱え方で、祈り始め、イエスを見つけました。祈りは命の鎖です、いつも。たくさんの人たちが祈り、命の種を蒔きます。

 小さな祈りは、命の種を蒔きます。ですから、子どもたちに祈りを教えることは、とても大切です。子どもたちが十字の印の仕方を知らないのを見ると、私は悲しくなります。子どもたちが十字の印をしっかりとができるように、教えなくてはなりません。それが最初の「祈り」だからです。子どもたちが祈りを習うのは大切なことです。もしかしたら、彼らは別の道を歩み、それを忘れてしまうかも知れません。しかし、子どもの時に覚えた祈りは、心に残ります。それは命の種、神との対話の種だからです。

 神の歩みと神の物語は、彼らを通して、伝えられます。人類の”残りの者”ー最強の者の法に従わず、神に奇跡を成し遂げてくださるように、そして何よりも、自分たちの石の心を肉の心に変えてくださる(エゼキエル書36章26節)ように、祈った者ーに引き継がれます。そして、祈りは、このことを助けてくれますー祈りは神への扉を開き、私たちの心-とても多くの場合、石で出来ている-を人の心に変えてくれるからです。そして、祈りは、素晴らしい人間性を包含し、人間性を持って、人は良く祈るのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用箇所は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2020年5月28日

♰「教会一致は、聖霊が私たちの”旅”の過程で実現してくださる」-回勅「キリスト者の一致」25周年に

2018.06.21- Papa Francesco -Incontro-ecumenico-nel-Centro-Ecumenico-WCC a GinevraPope Francis with other Christian leaders at an encounter in the WCC Ecumenical Centre in Geneva in 2018 

*聖霊の賜物との一致

 さらに教皇は、回勅を繰り返す形で、私たちに対して、キリスト教徒の一致に向けて「すでに達成された進展を念頭」に置き、「地平を見通し、この回勅をもって『Quanta est nobis via?’』、すなわち『さらにどこまで、私たちは旅を必要があるのか​​』と問いかけるように勧められた。

 また、私たちに、キリスト教の教会一致は「私たちの活動の結果というよりも、むしろ聖霊の賜物」と受け止めるように求め、その一致は、旅の「終わり起こる奇跡」ではなく、旅そのものの中に実現するー「一致は旅をする中でもたらされるもの。旅で、聖霊がそうしてくださるのです」と説かれた。」

 書簡の締めくくりに、教皇は「私たちの歩みを導き、すべての人が新たな活力を持って教会一致のための働くようにとの呼びかけを、全ての人が理解するようにい、と聖霊に願われた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年5月26日

♰「普遍教会は、人生の試練に遭う皆さんを支える」-中国の守護・聖母マリアの日に+解説

教皇フランシスコ、2020年5月24日(日)正午の祈り教皇フランシスコ、2020年5月24日(日)正午の祈り  (ANSA)

(2020.5.25 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは24日、バチカン宮殿からビデオを通して行われた日曜正午の祈りの後で、中国のカトリック信者たちを「扶助者聖母マリア」に託して祈られた。

 カトリック教会暦では、5月24日を「主の昇天」の祝日であるとともに、教皇フランシスコの環境回勅「ラウダート・シ」発出5周年の記念の日、さらに「扶助者聖母マリア」を記念する日でもある。

 バチカン広報局発表によると、教皇は、正午の祈りの後の言葉の冒頭で、「『キリスト教徒の助け、中国の守護者、上海の佘山(シェシャン)聖堂で崇敬されている聖母マリア』の祭りを祝う中国の信徒たちと、心を合わせましょう」と呼び掛けられた。

 そして、中国のカトリック教会の司牧者と信徒を、我々の天の母の導きと守りに委ね、彼らが「信仰に強められ、兄弟として固く一致し、喜びにあふれた証人、慈しみと友愛に溢れた希望の推進者、そして良き市民」であるように祈られた。

 さらに、中国の信者たち向けて、次のような励ましと祝福をおくられた。

 「中国の親愛なる兄弟姉妹の皆さん。あなた方が一員である普遍の教会は、皆さんの希望を共有し、人生の試練に遭う皆さんを支援します。教会は、聖霊があらたに湧き出すようにとの祈りをもって、あなた方と共に歩みます。福音の光と美しさが、神を信じるすべての人の救いのために神の力が、あなた方に輝くことができますように。改めて、皆さんすべてに対して、私の心からの愛を表明し、特別な教皇祝福を皆さんにお授けします。聖母が皆さんを、いつもお守りくださいますように!」

 最後に、こう祈られた。「主のすべての弟子と、この困難な時期に、平和のために、国家間の対話のために、貧しい人々への奉仕のために、被造物の保護のために、そして、身体と心、魂のあらゆる病に人類が打ち勝つために、情熱と献身をもって、世界のあらゆる所で働いている、すべての方々を、聖母マリアの取り次ぎに委ねます」 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

【「カトリック・あい」解説】

 中国(香港を除く)には現在、推定で1000万人のカトリック教徒がいるといわれているが、その6割を、中国共産党統一戦線工作部の管理・統制下にある「中国天主愛国協会」に加わった教会の信徒が占める一方、4割は、その管理・統制を拒み、教皇に忠誠を誓う、いわゆる”地下教会”に属しているとされる。

 国内の宗教を統制下に置き、習近平・主席が推進する「中国化」を進めようとする中国政府・共産党の”地下教会”への締め付けは、カトリック教会に限らず、プロテスタント教会などにおいても、一昨年9月のバチカンとの司教任命を巡る暫定合意のあと、むしろ加速している。

 新型コロナウイルスの感染拡大中も、統制を拒む教会の閉鎖、司祭や信徒への”転向”圧力などが強まる一方、と伝えられており、中国の現状をよく知り、”地下教会”を守ろうと努める香港の陳日君枢機卿などは、教皇に対し、こうした信教の自由、基本的人権を侵す行為を放置したまま、中国政府・共産党に妥協することのないよう、繰り返し訴えている。

 今回の教皇の中国の信徒に対するメッセージは、こうした問題に触れておらず、”地下教会”の信徒も含む中国の全信徒への共感と励ましの言葉を送っているもの、とも受け止めることもできるだろう。

 だが、中国政府・共産党はこのところ、中国本土における諸宗教の取り締まり強化だけでなく、香港における民主化運動リーダーの相次ぐ検挙、民主化デモなどに対する国家安全制度の適用準備の動きなど、信教の自由や基本的人権への規制を強めている。

 そうした中での今回の教皇の中国の信徒へのメッセージは、中国政府・共産党に”青信号”を出したような我田引水的な政治的解釈をもたらす恐れなしとしない。ましてバチカン内部には、中国を”宣教の最後のフロンティア”と捉え、宣教本格化のために、先のような問題に目をつぶっても中国政府⊡共産党との融和を急ごうとする勢力もある。

 今後の教皇の中国国内の信教の自由、基本的人権に絡む動きや、国際情勢を見据えた、慎重かつ賢明な対応を期待するとともに、バチカンの対中政策の動きを、そうした懸念を持ちつつ、注視していきたい。

 

2020年5月25日

♰「落胆するな、主はいつも共におられる」教皇、主の昇天の祝日に

Pope Francis prays the Regina Coeli on SundayPope Francis prays the Regina Coeli on Sunday  (Vatican Media)

(2020.5.24 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは24日正午、主の昇天の祈りを唱え、説教で「イエスが強さと喜びの源として私たちの間に留まってくださっている」ことを強調された。

 まず、教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の箇所(28章16-20節)で、イエスが天に昇られる前の弟子たちのとの最後の出会いで、彼らに課した宣教の使命について取り上げられた。そして、「イエスはご自分に付き従うすべての者に、全ての人々に対する宣教の使命を授けます」とされ、その使命とは「福音を宣べ伝え、洗礼を授け、主が描かれた道の歩み方を教えること」と語られた。

*勇気ある証人

 また教皇は、「救いのメッセージは、キリスト教徒たちに、証人となることを求めます。それは、『私たちが、なぜ信じるのか』を説明することです」とし、「そのような難しい仕事に直面した時、弟子たちが疑いもなく、そう感じたように、私たちも確かに、『不十分だ』と感じるでしょう… しかし、落胆してはいけません。イエスが天に昇られる前に、弟子たちに話された言葉を思い出しましょうー『私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』のです」。

*絶えず、慰めてくださる聖霊

 「このように、イエスは、いつも私たちと共にいてくださる、と約束されました-絶えず、慰めてくださる聖霊の臨在です… 聖霊は、キリストと父によって私たちの所に送られ、罪を赦し、悔い改めて主の賜物に信頼をもって心を開く全ての人を聖別してくださいます」と説かれた。

 また、復活された方として私たちの間にイエスがおられることは、「御言葉、秘跡、そして聖霊の絶え間ない内的な働き」において明らかにされている、とされ、「『主の昇天の祝い』は、父の右の座に栄光に輝いてお就きになるために天に昇られたにもかかわらず、イエスが今のなお、そしていつも、私たちの間におられることを、私たちに語ります。これが、私たちの強さ、忍耐、そして喜びなのです」と強調された。

*優しさと勇気

 説教の最後に、教皇は聖母マリアに、母なる守りをもって、私たちと共に旅してくださるように願われた。「復活された主の世界で私たちが証人となる優しさと勇気を、あなたから学びますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年5月24日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」③「生きていることを単純に喜ぶ-『ありがとう』こそ素晴らしい祈り」

教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見  (ANSA)

(2020.5.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日)、水曜恒例の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われた。教皇ご自身の環境回勅「ラウダート・シ」発表5周年を記念する特別週間(16日-24日)に行われたこの謁見で、「祈りの神秘」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられ、今回は祈りを生む「創造の神秘」について、以下のように講話された。

**********

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、「創造の神秘」について観想しましょう。命-生きている-ということは、人間の心を祈りに開きます。

 聖書の最初のページは、いわば、感謝の壮大な賛歌に似ています。創造の物語は、繰り返しによってリズムをつけながら、存在するすべてのものの良さと美しさを強調し続けます。神はその御言葉をもって、すべてのものを命に召され、あらゆるものを存在させます。御言葉によって、光と闇を分け、昼と夜を区別し、四季を入れ替わらせ、色々な種類の動物、植物によって豊かな色彩を広げました。

 このあふれるばかりの森の中で混沌は速やかに淘汰され、最後に人間が現われました。人間の出現により高まった歓喜は、満足と喜びを増大させます。

 「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めてよかった」(創世記1章31節)。

 それは良いだけでなく、美しいものでもありました。すべての被造物には美しさがあります。創造の美しさとその神秘は、人間の心の中に祈りを生む最初の衝動を与えます(「カトリック教会のカテキズム」2566項参照)。

 私たちが先に耳を傾けた詩編8はこのように歌います。

 「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは」(詩編8章 4-5節)。

 詩編作者は、自分の周りの命の神秘を観想し、今日、天文学がその広大さを示す、星でいっぱいの天を仰ぎ見、これほど力強い御業の背景には、どのような愛の計画があるのだろうか、と問います。この果てしない広さを前に、人間とは何ほどの者でしょうか。

 それはほとんど「むなしいもの」である、と、ある詩編(89章48節参照)は言います。それは生まれて、死にゆく、はかない被造物です。それにもかかわらず、天地において、人間は唯一、神が創造されたものの、あふれる美しさを自覚する被造物です。人間は生まれ、死ぬ、小さな存在ですが、唯一、この美しさを自覚しているのです。

 人間の祈りは、この驚きの感情と密接に結びついています。人間の大きさは、宇宙の広さに比べたら、極めて小さなものです。人間が成し遂げた最も偉大な物事も、その前では微々たるものです。しかし、人間はまったくの無ではありません。

 祈りの中で、人間は、神のあふれる憐みを確信することができます。何一つ偶然に存在するものはありません。宇宙の神秘は、私たちと目を交わす、あるお方の善良なまなざしの中にあります。詩編は、私たちは「神に僅かに劣るもの」として造られ、「栄光と誉の冠を授け」(詩編8章6節)られたもの、と述べています。神との絆が、人間の偉大さです。私たちは本来、無に等しい、小さな存在ですが、召命によって、偉大な王の子たち、となりました。

 これは私たちの多くが得た体験です。人生のつらい出来事が、時に、私たちの祈りの恵みを押しつぶすことがあっても、星空や夕日や花を見つめるだけで、感謝の火花が再びきらめくのです。この体験は、おそらく、聖書の最初のページの根底にあるものです。

 創造の偉大な物語が記された時、イスラエルの民は決して安穏な状態にはありませんでした。敵の勢力に土地を占領され、多くは流刑の身となり、メソポタミアで捕囚状態にありました。そこには、もう祖国も、神殿も、社会生活、宗教生活もありませんでした。

 それにもかかわらず、まさに創造の偉大な物語から始めることで、人々は感謝の動機、命のために神を賛美する動機を再び見出したのです。祈りは、希望の最初の力です。祈ることで、希望が育ち、前進できます。祈りは「希望の扉を開く」と言っていいでしょう。なぜなら、祈る人々は土台となる真理を保っています。それは、この人生は、その苦労と困難、試練の日々にもかかわらず、驚くべき恵みに満ちている、ということです。彼らはその真理を、何より自分自身に、そして他の人々に繰り返します。この真理は常に守られるべきです。

 祈る人々は、「希望が失望よりも強い」ことを知っています。「愛は死より強い」ことを信じています。それがいつ、どのようにか、は知らなくても、「愛がいつか勝利する」と信じています。祈る人は、顔に光の輝きを帯びています。なぜなら、最も暗い日も、陽が彼らを照らし続けるからです。祈りは、どんなに暗く、つらい時でも、あなたを、あなたの魂、心、顔を照らします。

 すべての人は喜びを持っています。そう考えたことはありますか?あなたは喜びを持っていますか?それとも悲しいニュースの方を好みますか?

 誰もが喜びを持つことができます。この命は、神が私たちに与えてくださった恵みです。悲しみや、幻滅のうちに費やしてしまうには、命は短すぎます。神を賛美し、生きていることを単純に喜びましょう。

 天地の美しさを見つめ、そして自分の十字架を見つめて言いましょう。「あなたは生きている。あなたは、あなたのために、このように作られたのだ」。

 心の不安が、神に感謝し、神を賛美することに向かわせます。私たちは偉大な王、創造主の子たちです。神の御手のあとをすべての被造物に見ることができます。今日、私たちは被造物を大切にしようとしません。しかし、その被造物は神が愛のために造られたのです。

 主がいつも、私たちにこのことをより深く理解させてくださいますように。そして、そのために私たちが「ありがとう」と言えますように。この「ありがとう」こそ、素晴らしい祈りなのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用、漢字の表記は当用漢字表に倣いました)

2020年5月21日

♰「聖ヨハネ・パウロ2世は祈り、親密、正義の人」ー生誕100年の記念ミサで

 聖ヨハネ・パウロ2世の生誕100年を迎えた18日、教皇フランシスコは午前7時(日本時間同日午後2時)から、聖ペトロ大聖堂内の、聖ヨハネ・パウロ2世の棺を安置した祭壇でミサを捧げられた。

 新型コロナウイルスの世界的大感染の中で、約2か月ぶりの公開ミサとなったが、感染防止への配慮から、少人数の司祭、信徒に参加が限定され、インターネットなどで全世界に動画配信された。

*主は民を訪れた

 このミサの説教で、教皇はまず、会衆に神が民を愛しておられることを思い起こされ、「神は、困難の時に、聖なる人あるいは預言者を送ることで、民のところに遣わされます」とされたうえで、教皇ヨハネ・パウロ2世の人生の中に、「私たちは『神が遣わされ、準備され、そして神の教会を導く司教、そして教皇にされた人』を見ることができます… 今日、私たちは、主が民を訪れた、ということが出来るのです」と語られた。

*祈りの人

 続いて、教皇は、教皇ヨハネ・パウロ2世の人生を特徴づける3つの特質-祈り、親密、慈しみ-に焦点を当て、まず「祈り」について、「教皇として果たすべき多くの務めがあるにもかかわらず、彼はいつも祈る時間を見つけました… 司教の第一の務めが祈ることだということを、よくご存じでした」とし、使徒言行録には、聖ペテロが「司教の第一の務めは祈ること」と教えられた、と書かれており、ヨハネ・パウロは「それを知っておられ、なさったのです」と強調された。

 

*民と親密な人

 聖ヨハネ・パウロ2世は人々と親密に接され、離れたり離されたりせず、人々を探し出すために世界中を旅された。旧約聖書に書かれているように、神がご自身の民とどれほど密接だったかを私たちは知ることができる。この親密さは、イエスが人となられ、人々の中に住まわれた時に、頂点に達した。「ヨハネ・パウロは、良き羊飼いであるイエスの模範に倣い、あらゆる階級の人、近くの人も遠くの人も、分け隔てなく、そばに行かれました」。

*慈しみ深い正義

 説教の最後に、教皇は、聖ヨハネ・パウロ2世が正義を愛したことは注目に値するが、彼の正義への愛は、慈しみによって完成された正義への強い熱意であり、そのことで「彼は慈しみの人でした… なぜなら、正義と慈しみは相伴うものだからです」と語られ、神の慈しみ深い献身を進めるためにとても多くのことをなさったヨハネ・パウロは、「神の正義が『慈しみの顔を、慈しみの思いを持っている』と確信しておられました」と語られた。

 そして、祈りと親密さの恵み、そして慈しみの正義の恵み、そして慈しみ深い正義を、私たちすべてに、とくに司牧者たちにくださいますように、と主に祈ることで、説教を締めくくられた。

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 カロル・ヴォイティワ、後の聖ヨハネ・パウロ2世は、1920年5月18日にポーランド南部のヴァドヴィツェにお生まれになり、1978年10月16日に教皇に就任、2005年4月2日に在職のまま亡くなられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年5月18日

♰「聖霊は私たちの歩みを照らしてくださる」復活節第六主日、17日の正午の祈りで

Pope Francis during the Regina CaeliPope Francis during the Regina Caeli  (Vatican Media)

(2020.5.17 Vatican News)

 教皇フランシスコは復活祭第六主日の17日正午の祈りのカテキーシスで、神の無償の愛と聖霊の賜物について語られ、進むべき道を照らしてくださる聖霊によって支えられていることを知る喜びの中で、福音を生きるように、と世界の信徒たちを励まされた。

*「戒めを守る」と「聖霊の約束」

 教皇はまず、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(14章15-21節)を取り上げ、ここで、「戒めを守る」「聖霊の約束」という二つの根本的なメッセージが示されている、とされた。

 そのうえで、「イエスは弟子たちへの言葉の中で、ご自分に対する彼らの愛を、戒めを守ることと結びつけておられますー最後の晩餐での説諭で、こう話されましたー『あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである』(14章15節)。そしてさらに、こう言われますー『私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である』(同21節)と話された。

 「このような言葉で、イエスは私たちに、ご自分を愛するように願われ、ご自分の道、つまり、御父の意思に進んで従うことを求められているのです」と教皇は説かれ、さらに、15章12節の言葉を取り上げて、こう指摘された。「イエスご自身が示された互いに愛し合うことの戒めは、この言葉に集約されていますー『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである』」。

 

*イエスの愛は見返りを求めない

 また教皇は、「イエスは『私があなたがたを愛したように、私を愛しなさい』ではなく、『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい』とおっしゃいました… 私たちに、ご自分に対し同じことをするように要求されず、ただ、私たちを愛してくださるのです。そして、イエスのこの見返りを求めない愛が、私たちの間で具体的な生きたものとなることを求めています-それが御父の意思なのです」と説かれた。

 次に教皇は、弟子たちがイエスの示された道を歩むのを助けるために、御父に「もうひとりのパラクレートス」を遣わしてくれるように、と願うことを約束された箇所(14章16節参照)に触れ、パラクレートスとは、弟子たちと共に歩み、「御言葉を聴く知性と守る勇気」を与えてくださる慰め主、弁護者である、とされた。

*聖霊は神の賜物

 「この方が聖霊です… キリスト教徒たちの心に降り注ぐ、神の愛の賜物なのです」と語られた教皇は、「イエスが亡くなり、復活された後で、ご自分を信じ、『父と子と聖霊の名」において洗礼を受ける人々に、ご自分の愛をお与えになるのです」とされ、また、私たちを教え導き、力づけ、人生で「逆境と困難、喜びと悲しみを体験してもなお、イエスの道にとどまり、前に進む」ようにしてくださるのが、聖霊である、聖霊に従順であり続ければ、私たちの中に働かれるその存在を通して、私たちの心を慰め、変容させ、真実と愛に心を開かせてくださるでしょう、と語られた。

*聖霊は私たちが人生で失敗と罪に屈しないよう助けてくれる

また教皇は「私たちが人生で、失敗と罪に直面する時、それに屈しないように助け、イエスの言葉『あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである』の意味をしっかりと理解して生きることができるようにしてくださるのが、聖霊です」と語られ、さらに、イエスの戒めは、私たちに自分の悲惨さと矛盾を映す鏡として授けられたものではなく、「神の言葉は、命の言葉として私たちに与えられたもの-変容させ、新しくし、裁かず、癒し、赦してくださる言葉。私たちが道を歩むための光なのです」と述べられた。

 そして、この日の説話を「この賜物を通して、神は私たちが自由な民ー愛することを望み、愛し方を知っている民、主を信じる者たちに主が成し遂げられる驚くべきことを宣言する使命を、自分たちの人生が帯びていることを理解している民ーとなるように助けてくださるのです」と締めくくられ、最後に次のように祈られた。

 「乙女マリアよ、教会の模範、どのようにして神の言葉を聴き、聖霊の賜物を受け入れられるかを、知っておられる方、私たちを助けてください。『私たちの心を温め、私たちの歩みを照らす、神の火』である聖霊によって支えられていることを私たちが知り、喜びをもって、福音を生きることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=引用された聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

 

2020年5月18日

♰「人生は物語、だがすべての物語が良いとは限らない」-5月17日「世界広報の日」に

(2020.5.16 カトリック・あい)教皇フランシスコは17日の第54回「世界広報の日」に向けて以下のメッセージを発表された。

教皇メッセージ 「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト記10章2節)人生は物語となる

 今年のメッセージは、物語をテーマにしたいと思います。道に迷ったままにならないためには、良い物語から真理を吸収する必要があると、私が信じているからです。良い物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です。

 さまざまな声や知らせに取り囲まれる喧騒の中で、私たちに必要なのは、自分自身のことと、周りにあるすべての美しいもののこととを語る、人間らしい物語です。世界とさまざまな出来事に慈しみのまなざしを向ける物語、私たちは生きている織物の一部であることを伝えてくれる物語、私たちを互いに結びつけている糸の縒り合わせを明かす物語です。

1. 物語を織る

 人間は物語る存在です。私たちは子どものころから、食べ物を欲するのと同じように、物語を欲します。童話、小説、映画、歌、報道など、いずれの形であれ、物語は私たちの人生に、そうとは気づかなくても、影響を与えています。なじみのある登場人物や話に基づいて、物事の善悪を判断することもあります。物語は私たちに刻まれ、私たちの信条と姿勢を形成し、自分は何者であるかを理解して伝えられるよう助けます。

 人間は、自分のもろさを覆うために衣を必要とする唯一の生き物(創世記3章21節参照)であるばかりか、自分の命を守るために物語を「まとう」ことをも必要とする唯一の生き物でもあります。私たちは衣だけでなく、物語も織り上げます。人間の「織りなす(テクセレ〔ラテン語〕)力は、まさに、織物(テキスタイル)にも、文章(テキスト)にも及ぶのです。

 どの時代の物語にも、共通の「枠組み〔機(はた)〕」、すなわち「勇者」が登場するという型があります。日常生活においても見られるそうした勇者が、夢を追い求める中で困難に直面し、勇気を与える力、愛の力に動かされ、悪と戦うという展開になっているのです。物語に熱中することで、私たちは人生という挑戦に臨むための勇者の士気を得ることができます。

 人間は物語る存在です。人間は、「日常」という筋書き〔横糸〕の中で己を知って豊かにし、成長する生き物だからです。しかし原初から、私たちの物語は危険と隣り合わせにありました。歴史〔物語〕には、悪が蛇のように、はい回っているのです。

2. すべての物語が良いとは限らない

 「それを食べると、神のようになる」(創世記3章5節参照)。蛇の誘惑は、ほどけにくい結び目を、歴史の筋書きに生じさせます。「あれを手に入れると、このようになれる、あのようなこともできるようになる……」。これは、いわゆるストーリーテリングを道具として用いる人が、今もささやく言葉です。幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう

 私たちはどれだけ、おしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。「コミュニケーション」という機(はた)は、社会的なつながりや文化の構造を結びつける建設的な物語ではなく、社会を織りなす切れやすい糸をほつれさせ、断ち切ってしまう破壊的で挑発的な物語ばかりを生み出しています。裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイト・スピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです。

 道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。命を育むものなので、幾世紀を経ても普遍なのです。

 偽造がますます巧妙化し、予想をはるかに超えた域(ディープ・フェイク)にまで達する現代において、私たちには美しく、真実で、良い物語を受け入れ、生み出す知恵が必要です。偽りで悪意のある物語をはねつける勇気が必要です。今日の多くの分裂にあって、それをつなぎ止める糸を見失わないよう助けてくれる物語を再び見いだすためには、忍耐力と識別が必要です。それは、日常の気づかれることのない英雄行為をも含め、私たちの真の姿を照らし出す物語です。

3. 種々の物語から成る物語

 聖書は、種々の物語から成る物語です。なんと多くの出来事、民族、人々が示されていることでしょう。そこには冒頭から、創造主であり語り手でもある神について記されています。神が言葉を発せられると、それは実現するのです(創世記1章参照)。神は、言葉を発することで、さまざまなものに命をお与えになり、その頂点として、自由意志をもったご自分の話相手として、またご自分とともに歴史を生み出す者として、男と女をお造りになります。

 詩編では、被造物が神に呼びかけています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は…驚くべきものに造り上げられている。…秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない」(139章13―15節)。

 私たちは完成されて生まれたのではありません。それどころか、つねに「編まれ」、「織られ」なければなりません。命は、「驚くべきもの」である私たち自身を織りなし続けるよう促す招きとして、わたしたちに与えられているのです。

 この意味で聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。その中心にはイエスがおられます。イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません。それらのエピソードには、起きたことの意味を伝える力があるのです。

 今年のメッセージのタイトルは、出エジプト記から取られています。出エジプト記は、神がご自分の民の歴史に介入されることを語る本質的な聖書物語です。奴隷となったイスラエルの子らが神に向かって叫んだ時、神はその声を聞き、思い起こされます。

 「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、み心に留められた」(出エジプト記2章24-25節)。しるしと奇跡を通してもたらされる抑圧からの解放は、神の記憶に由来します。その時、主はこれらすべてのしるしの意味をモーセに知らせます。「どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、私が主であることをあなたたちが知るためである」(同10・2)。

 出エジプトの体験が教えているのは、神についての知は何よりも、神がいかに現存されているかを次の世代に語り継ぐことによって伝えられる、ということです。命の神は、命について語ることによって伝えられるのです。

 イエスご自身も神について、抽象的な話ではなく、日常生活にまつわる例え話や短い物語を用いて語りました。そこでは人生は物語となり、そして、聴衆にとっては、その物語が自分の人生となるのです。その物語はそれを聞く者の人生に入り込み、その人生を変えるのです。

 もちろん福音書も物語です。福音書は、私たちにイエスのことを伝えるだけでなく、「行為遂行的」1)でもあり、私たちをイエスに一致させます。同じ生き方をするために、同じ信仰に結ばれるよう福音書は読者に求めます。ヨハネによる福音書は、至聖なる語り手──言(言葉)、神であることば──が、ご自身について語られたことを伝えています。

 「父の懐にいる独り子である神、この方が神を語られたのである」(ヨハネ福音書1章18節参照)。私が「語られた」という表現にしたのは、この言葉の原語exeghésato(示された)は、「啓示された」とも「語られた」とも訳せるからです。神は自ら、私たち人間の中にご自分を織り込むことにより、私たちの物語を織る新しい方法を示してくださいます。

4. 新たにされる物語

 キリストの物語は過去の遺産ではありません。それは、今も絶えず進行中の、私たちの物語です。神は受肉して人となり、歴史となるほどに、人間、私たち肉なる者、わたしたちの歴史を深く気遣っておられることを、その物語は示しています。また、人間の物語には、取るに足らない無意味な話など一つもないことも伝えています。神が物語になられたのですから、人間の物語はそれぞれが、ある意味で神聖なのです。御父は、一人ひとりの物語の中に、地に下られた御子の物語を再び見ておられます。どんな人の物語にも、否定しえない尊厳があります。ですから人間は、イエスが引き上げてくださった、目もくらむようなすばらしい最高傑作の物語にふさわしいのです。

 聖パウロは次のように記しています。「あなたがたは、……墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(コリントの信徒への手紙2・3章3節)。

 神の愛である聖霊が、私たちの中に書きつけておられます。そして、書き記しながら、善を私たちの中に留め置き、そのことを思い起こさせてくださいます。実際、「思い起こさせる(ri-cordare)」とは、心に記す、心に「書きとどめる」ことを意味します。どんな物語も、たとえ誰からも忘れ去られたものや、滅裂な文でつづられたように見えるものであっても、聖霊の働きによって導かれ、傑作となって息を吹き返し、福音書に添えられる物語となることができます。

 アウグスティヌスの『告白』しかり、イグナチオの『ある巡礼者の物語』しかり、幼いイエスのテレジアの『ある霊魂の物語』しかり。『いいなずけ』、『カラマーゾフの兄弟』しかり、です。神の自由と人間の自由の出会いを見事に描いた数えきれないほど多くの他の物語も同様です。私たちは誰もが、人生を変えてくださる愛なる方をあかしした、福音の香りのする、さまざまな物語に覚えがあります。そうした物語は、いつの時代も、あらゆる言語で、すべての手段によって、共有され、語られ、生きられなければなりません。

5. 私たちを新たにする物語

 私たちの物語は、どの偉大な物語の中にも見られます。聖書、聖人伝や、人間の魂を洞察してその素晴らしさを照らし出すことのできた文学作品を読む時、聖霊は、自由に私たちの心に書き込みをし、神の目に映る私たちの姿の記憶を、私たちの中で新たにしてくださいます。私たちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、その時、私たちは、ページをめくっているのです。

 私たちはもはや、後悔や悲しみにつながれ、心を閉じ込めてしまう暗い記憶に縛られてはいません。それどころか、他者に対して自らを開くことで、語り手である神がまさに見ておられるものに向けて、自分自身を開いているのです。神に自分の物語を語ることは、決して無駄ではありません。たとえ出来事を記した年譜は変わらなくても、意味と見方は変わります。主に自分のことを語るとは、主が私たちと他者に向けておられる哀れみ深い愛の視界の中に入ることです。私たちは主に、自分が生きている物語を語り、他者のことを伝え、状況を打ち明けることができます。主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、命の織物を再び織り上げることができるのです。皆さん、私たちはどんなに、そのことを必要としているでしょう。

 そうして私たちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一の方──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中で私たちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、誰も端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです。悪について語る時でさえ、あがないのための場を残すすべを学ぶことができます。悪のただ中の善のダイナミズムに気づき、善に働きの場を与えることもできるのです。

 ですから、ストーリーテリングの論理に従うことでも、自分を宣伝することでもなく、神の目に映る自分の姿を記憶にとどめること、聖霊が心に記したことをあかしすること、そして神の物語の中には息をのむほどの驚きがあることを、あらゆる人に明かすことが肝心なのです。私たちにそれができるよう、ご自分の胎で神の人性を織りなした方に、そして福音で語られているように、ご自分に起きたすべての出来事を一つに織り上げた方に、私たち自身をゆだねましょう。乙女マリアはまさに、すべてのことを心に納めて、思い巡らしておられました(ルカ福音書2章19節参照)。「愛」という柔和な力によって、人生の結び目を解くすべを心得ておられるマリアに、助けを願い求めましょう。

 一人の女性であり母であるマリアよ。あなたはその胎内で神の言葉を織り、神の驚くべき業をご自分の人生をもって語りました。私したちの物語に耳を傾け、心に納め、誰も聞きたがらない物語をも、ご自身の物語としてください。物語を導くよい筋道〔糸〕に気づくすべを教えてください。私たちの人生をもつれさせ、私たちの記憶を曖昧にさせる、幾重もの結び目に目を向けてください。あなたの繊細な手先は、どんな結び目も解くことができます。神の霊に満ちた方、信頼の母であるマリアよ。私たちをも導いてください。平和の物語、未来の物語をつむげるよう、助けてください。そして、その物語をともにたどる道を指し示してください。

 ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2020年1月24日 聖フランシスコ・サレジオの記念日 フランシスコ

2020年5月16日

♰「イエスのように逃避を強いられた人々に私たちがすべき10の行い」-9月の「世界移民・難民の日」の前に

(2020.5.15 バチカン放送)

 教皇フランシスコは15日、カトリック教会の「世界移民・難民の日」(9月27日)に先立つメッセージを発表された。

 第106回目となる今年の「世界移民・難民の日」のテーマは「Like Jesus Christ, forced to flee.Welcoming, protecting, promoting and integrating internally displaced persons(イエス・キリストのように逃避を強いられた人々。 国内避難民を進んで受け入れ、守り、励まし、共に歩む=「カトリック・あい」訳)」。

 教皇は、このメッセージを、紛争、貧困、気候変動によって国内で住まいを追われた何百万の男女、子供たちに捧げた。そして、窮状をさらに悪化させている新型コロナウイルスの大感染の中で、そうした危機の結果としての極度の危険、放棄、疎外、拒絶を体験している、全ての人々に注意を向けられた。

 幼子イエスが両親と共にエジプトに逃避された際に体験した避難民の状況に、教皇は「残念ながら、今日も多くの家族が直面しています」と指摘され、飢餓や戦争、極度の危険の中で、安全で尊厳ある生活を求めて避難民となった人々、その一人ひとりに、ヘロデの時代に逃避を余儀なくされたイエスの姿を重ねられた。

 そのうえで、教皇は、避難民たちの顔の中にイエスの御顔を認め、具体的に奉仕するために、2018年の「世界移民・難民の日」で示した「進んで受け入れる」「守る」「励ます」「融和する」という4つの行いに、今回、次のように、それぞれ2組の動詞からなる6つの行いを加えられた。

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【「理解する」ために「知る」】

 教皇は「知ることは、他者を理解する上で必要な第一歩です」とされ、エマオで弟子たちに自ら歩み寄り、旅を共にされたイエスのように、「移民・難民一人ひとりとの出会いによって、相手を知り、その背景を理解することができるのです」と説かれた。

【「奉仕する」ために「隣人となる」】

 道端の瀕死の負傷者を見て憐み、介抱した善きサマリア人のたとえを示され、「他者への怖れや偏見を超えて隣人となり、奉仕することの大切さ」を説かれた。そして、「隣人に寄り添い奉仕することは、時にリスクをも伴うこと」と語られ、新型ウイルスの大感染が続く中で献身的に働く多くの医師や看護師らを思い起こされた。

【「和解する」ために「耳を傾ける」】

 「和解と救いをもたらす愛は、相手に耳を傾けることから始まります」とされた教皇は、「今日の世界にはメッセージがあふれているのに、それに耳を傾ける姿勢が、人々から失われつつあります」と指摘、「耳を傾けることで、切り捨てられた人々や、自分自身、そして、慈しみ深い神と、和解するきっかけを得ることができるのです」と強調された。

【「成長する」ために「分かち合う」】

 「神は、私たちの地球の資源が、限られた人々のためにだけに恩恵をもたらすことを望まれません… 誰一人締め出すことなく、共に成長するために、分かち合うことを学ばねばなりません」とされたうえで、「今回の新型ウイルスの世界的な大感染は、私たちに、皆、同じ一つの船に乗り合わせているのだ、ということを、改めて気付かせました」とし、「真の成長のためには、イエスに5つのパンと2匹の魚を差し出した少年のように、持っているものを互いに分かち合わねばなりません」と説かれた。

【「伸ばす」ために「関係を持つ」】

 また、大感染は「私たちに共同責任の大切さを再認識させ、すべての人の貢献によってのみ、私たちが危機に立ち向かえることを教えた」とし、「すべての人が必要とされ、新しい形の受容と、兄弟愛、連帯が可能な世界を切り開く」ように促された。そして「『他の人たちに奉仕したい』という強い気持ちが、その人たちの持つ真の豊かさを見るのを妨げることがあります。私たちが助けようとする人々の持つ豊かさを伸ばしたい、と本当に思うなら、彼らとしっかりとした関係を持ち、彼らが自分の救いの主体者となるようにしなければなりません」と述べられた。

【「築く」ために「協力する」】

 現在の状況の中で、エゴイズムを排し、すべての人が協力する必要を強調。「人類の共通の家を守るために、国際的な協力と連帯、皆が参加できる地域の取り組みを確実にする努力」を強く求められた。

 最後に教皇は、難民・避難民、また試練を受けている人々を、エジプトへの避難において幼子イエスと聖母を守った聖ヨセフの保護に託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年5月16日