◎教皇連続講話【祈りの神秘】④「祈りは、憎しみの荒れ野に再生の花を咲かせる」

 

教皇フランシスコ、2020年5月27日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年5月27日の一般謁見 

 教皇フランシスコは27日、水曜日の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われ、謁見中の「祈りの神秘」についてのカテケーシス(教会の教えの解説)で、「正しい人々の祈り」をテーマに講話された。

 教皇のカテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の眠さん

 今日のカテケーシスでは、「正しい人々の祈り」を取り上げたいと思います。

 神は人間に対し、良い御計画を持っておいでです。しかし、私たちは日ごろの出来事の中で、悪の存在を体験します。それは日常的な体験です。

 「創世記」の初めの方に、人間の歴史の中で、罪が次第に広がっていく様子が記されています。アダムとエバ(創世記章1-7節参照)は、「神は、ねたみ深い方で、神との関係は自分たちの幸福を阻む」と思い込み、神の慈愛に満ちた意図に疑い持ちました。

 ここに背きがあります。彼らの幸福を願う寛大な創造主を信じることを、やめてしまったのです。彼らの心は、悪の誘惑に負け、「それを食べると、目が開け、神のようになる」(同3章5節)と、自分たちが全能であるかのような妄想に取りつかれてしまいました。これが誘惑です。これが心に入り込む野心です。

 しかし、彼らの体験は反対の結果を招きました。彼らの目は開かれ、自分たちが裸であることを知りました(同3章7節)。彼らには何もありませんでした。忘れないでくださいー誘惑する者は悪質な支払い者です。彼らは誘惑された者に、不良債権を渡すのです。

 人間の次の世代になると、悪はますます強まり、破壊的になります。それはカインとアベルの間に起きた出来事です(創世記4章1-16節)。カインは弟を妬んでいました。そこには嫉妬の虫がいました。カインは長男であるにもかかわらず、弟アベルを彼の長子権を脅かすライバルとして見ていたのです。

 悪が彼の心に顔をのぞかせ、彼はそれを抑えることができませんでした。悪が心の中に入り始める時、その考えは、いつでも疑いをもって、相手を悪い者として見ようとします。そして、「彼は悪いやつだ、私に害を与えるだろう」という考えが起こります。このような思いが心に入り込みます。こうして、最初の兄弟の物語は、殺人で終わりました。今日、人類の兄弟愛を考える時、戦争だらけであることに気づきます。

 カインの子孫の代に、職業や技術が発達し、暴力もまた発展しました。それは、レメクの恐ろしい歌に表れています。それは復讐の賛歌のように響きます。「私は受ける傷のてめに人を殺し、打ち傷のために若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章23-24節)。

 復讐とは、「おまえはこれをした。その報いを受けよ」というものです。しかし、これを裁判官が言うのではなく、私が言うのです。自分自身がその状況における裁判官になるのです。こうして、悪は野火のように、絵画全体に広がります。「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見た」(創世記6章5節)。「大洪水」(創世記6-7章)と「バベルの塔」(同11章)の壮大な絵巻は、イエス・キリストによって完成される新たな創造としての、新しい始まりの必要を啓示しています。

 しかしながら、聖書のこれらの最初の部分には、もっと目立たない、より謙遜で信仰にあふれた、希望の贖いを表す、別の物語も記されています。たとえほとんど皆が、人間の歴史を動かす大きな力である憎悪や征服心を抱いて、残忍に振る舞っても、誠実さをもって神に祈り、人間の運命を違う方法で導くことができる人々もいるのです。

 アベルは羊の群れの初子を神に捧げました。アベルの死後、アダムとエバは、三番目の息子セトをもうけ、そのセトはエノシュをもうけました。創世記には「その頃、人々は主の名を呼び始めた」(創世記4章26節)とあります。そして、エノクが登場します。「神と共に歩む」人であった彼は、神に連れ去られて天に行きました(創世記5章22、24節)。そして、ノアの物語があります。ノアは「神に従う無垢な人」でした(同6章9節参照)。ノアの前で、神は人類を消し去ろうとする考えを思いとどまられました(同6章7-8節参照)。

 これらの物語を読むと、祈りが「人間にとっての堤防ーこの世に高まる悪の波からの避難所」だという印象を受けます。よく見れば、私たちは自分自身から救われるためにも祈ります。

 このように祈ることは大切ですー「主よ、どうか私を、自分自身、私の野心、私の苦悩から救ってください」。聖書の初めに出てくる祈る人々は、平和を作り出す人々です。実際、祈りはそれが本物である時、人を暴力の本能から解放し、眼差しを神に向かわせます。そして、「神が再び人間の心を慰めてくださるように」と祈ります。

 「カトリック教会のカテキズム」にこうありますー「この祈りの性質は、あらゆる宗教の無数の義人たちが体験したものです」(2569項)。祈りは、人間の憎しみが、ただ荒れ野を広げた場所に、再生の花々を咲かせます。祈りは力を持っています。なぜなら、祈りは、神の力を引きつけ、神は、常に命を与えてくださるからです。神は命の神、再び生まれさせるお方です。

 神の統治が、これらの多くの人々の連なりの中を通過するのはそのためです。彼らはしばしば世に無視され、疎外されている人々です。しかし、世界は、これらの僕たちが祈りによって引きつける神の力のおかげで、生き、発展するのです。これらの人々の群れは、まったく騒ぎ立てず、ニュースになることもありませんが、それでも世界が信頼を取り戻すために、非常に大切な存在なのです。

 私はある人の話を思い出します。政府の長で重要人物、今の人ではない、ずっと昔の人。宗教心を持たない無神論の人でしたが、子どもの頃、いつも祖母が祈るのを聴いていて、それが心に残っていました。人生の困難な時期にその記憶がよみがえり、こう言いましたー「だが、祖母は祈っていた…」と。そうして、彼は祖母の唱え方で、祈り始め、イエスを見つけました。祈りは命の鎖です、いつも。たくさんの人たちが祈り、命の種を蒔きます。

 小さな祈りは、命の種を蒔きます。ですから、子どもたちに祈りを教えることは、とても大切です。子どもたちが十字の印の仕方を知らないのを見ると、私は悲しくなります。子どもたちが十字の印をしっかりとができるように、教えなくてはなりません。それが最初の「祈り」だからです。子どもたちが祈りを習うのは大切なことです。もしかしたら、彼らは別の道を歩み、それを忘れてしまうかも知れません。しかし、子どもの時に覚えた祈りは、心に残ります。それは命の種、神との対話の種だからです。

 神の歩みと神の物語は、彼らを通して、伝えられます。人類の”残りの者”ー最強の者の法に従わず、神に奇跡を成し遂げてくださるように、そして何よりも、自分たちの石の心を肉の心に変えてくださる(エゼキエル書36章26節)ように、祈った者ーに引き継がれます。そして、祈りは、このことを助けてくれますー祈りは神への扉を開き、私たちの心-とても多くの場合、石で出来ている-を人の心に変えてくれるからです。そして、祈りは、素晴らしい人間性を包含し、人間性を持って、人は良く祈るのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用箇所は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

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2020年5月28日