◎教皇連続講話【祈りの神秘】⑤神に祈り、対話し、議論することを、アブラハムから学ぼう

 

教皇フランシスコ 2020年6月3日の一般謁見教皇フランシスコ 2020年6月3日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.6.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、3日の水曜恒例の一般謁見をバチカン宮殿からビデオを通して行われ、「祈りの神秘」をテーマにしたカテケーシスを続けられが。今回は、「アブラハムの祈り」を取り上げられた。

 教皇のカテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 ある声が突然、アブラハムの生活の中に響きました。それはあり得ないような旅に出立するようにと彼を招く声でした。それは、生まれ故郷、父の家を離れ、新しい未来、異なる未来に向かうよう、彼を励ます声でした。すべては一つの約束に基づき、ただそれに信頼するほかありませんでした。約束を信じること、それは簡単ではなく、勇気が要ることです。だがアブラハムはそれを信じたのです。

 聖書は、この最初の父祖の過去については語りません。聖書の記述に論理的に従えば、異教の環境に置かれていたと推察することができます。おそらく、天体や星を観察することに慣れた、知恵のある人だったでしょう。実際、主は、彼の子孫を天の星のように増やそう、とアブラハムに約束されました。

 アブラハムは旅立ちます。神の声に耳を傾け、その言葉を信頼したのです。神の言葉に信頼する、これは大切なことです。アブラハムの出発と共に、神との関係を築くための新しい方法が生まれました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の偉大な精神的伝統において、御旨が厳しいものであったり、理解できない時でさえも神に従う、完全な神の人としての父祖アブラハムがいるのは、そのためです。

 アブラハムは「言動一致の人」でした。神がお話になる時、人はその御言葉の受け手となり、彼の人生はそれを具体化すべき場所となります。人間の宗教的歩みにおいて、これは大きな新しい点です。信者の生活が召命として、その約束の実現の場として、認識されるようになったという点です。

 そして、彼は単に一つの謎の重みの下でというより、いつか実現するというその約束の力によって、世の中を動いていきます。アブラハムは神の約束を信じました。彼はそれに服従し、行く先も知らずに出て行った、と「ヘブライ人の手紙」(11章8節参照)にあります。彼は信じたのです。

 「創世記」を読むと、アブラハムが、彼の長い歩みの中で時々対面する御言葉への忠実を保ちながら、どのように祈りを生きていったかが、分かります。要約すれば、アブラハムの人生において「信仰は歴史」となったのです。

 アブラハムはその人生と模範をもって、この歩みの道の上に信仰が歴史となっていくことを教えました。神は、怖れを引き起こす遠い神のような、天体上の現象の中だけに見られるような神ではもうなくなりました。アブラハムの神は「私の神」となりました。私の歩みを導き、お見捨てにならない、私の個人的な歴史の神、私の人生の日々の神、私の冒険を共にしてくださる神、御摂理の神となりました。

 私は自分に問うと共に、皆さんにも尋ねます。私たちは神をこのように体験しているでしょうか?「私の神」、私と共に歩んでくださる神、私個人の歴史の神、私の歩みを導き、お見捨てにならない神、私の日々における神として体験していますか?自問してみましょう。

 アブラハムのこの経験は、霊性史の中でも最もオリジナルなテキストの一つ、ブレーズ・パスカルの「メモリアル」の中でも証しされています。それはこのように始まります。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者と賢人のではない。確信、確信。感情。喜び。平和。イエス・キリストの神」。この「メモリアル」は、小さな羊皮紙に書かれ、この思想家の死後、服の内側に縫い付けてあるのが見つかりました。

 そこには、彼のような知識人が神について考えることのできる理知的な考察が記されていたわけではありません。しかし、そこにあったのは、神の現存の、体験を通した生き生きとした意味でした。パスカルは、ようやく出会えたこの現実を感じた瞬間を、正確に記しているほどです。それは1654年11月23日の夜のことでした。それは抽象的な神でも、宇宙的な神でもありませんでした。それはある人物の、ある召命の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、確信、感情、喜びである神なのです。

 「アブラハムの祈りは、特に行動で表されます。沈黙の人である彼は、あらゆる段階において、主に捧げる祭壇を築きました」(「カトリック教会のカテキズム」)。アブラハムは神殿を建てたわけではありません。しかし、神が通り過ぎた場所を記憶する石を歩みながら蒔いたのです。

 アブラハムとサラが丁重にもてなした三人の訪問者が、イサクの誕生を予告したように、神は驚くべきお方です(創世記18章1-15節参照)。アブラハムはおよそ100歳、妻サラは90歳くらいだったでしょう。しかし、彼らはそれを信じ、神に信頼しました。そしてサラは高齢にもかかわらず身ごもったのです。これがアブラハムの神、私たちを見守られる神です。

 こうして、アブラハムは神と親しくなり、神と議論するまでになりましたが、常に忠実でした。アブラハムが年老いてから得た独り子イサクを焼き尽くす献げ物として捧げるようにと、神が命じた時の、究極の試練に至るまで、忠実だったのです。

 ここでアブラハムは信仰を一つのドラマとして生きています。それは星のない空の下、夜の闇を手探りで歩くような体験でした。私たちにも、闇の中を、しかし信仰と共に歩くような時があります。アブラハムがイサクを捧げようと刃物を取った時、神ご自身がその手を止められます。それは、神が彼の完全な忠実をご覧になったからでした。

 兄弟姉妹の皆さん、アブラハムから学びましょう。信仰をもって祈ることを学びましょう。主に耳を傾け、歩み、神と対話し、時には議論することを学びましょう。神と議論することをおそれてはいけません。一見、奇妙に聞こえるかもしれないことをお話ししましょう。

 私は何度も、多くの人と、このようなやり取りをしました。「これこれこういうことが起きたので、私は神様に怒ったのです」「あなたは神に対して怒る勇気があったのですか」「そうです、私は神様に怒りました」「そうですか。これは一つの祈りの形ですよ」。

 なぜなら子だけがお父さんに腹を立てた後で、再びお父さんと向き合えるからです。アブラハムから、信仰をもって祈り、対話し、議論することを学びましょう。しかし、いつでも神の言葉を受け入れ、それを実践しなくてはなりません。子が父親と話すように、神に耳を傾け、答え、議論することを学びましょう。しかし、子がお父さんに対するように、隠さず話さなければなりません。このようにアブラハムは祈りについて教えているのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

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2020年6月4日